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2018年06月22日

西郷さんのガッカリなお話し・・・



          西郷隆盛 写真 西郷どん大河ドラマ.png

      コピーライトマーク 東洋経済オンライン 「英雄」の真の姿に、歴史家の武田鏡村氏が迫ります(写真:アフロ)


 私は西郷さんの大ファンです・・・勿論会った事も見た事も無く、全てがドラマや小説等の受け売りですし、その殆どは作り上げられたものだとは承知して居ます。
 ですから、本当の西郷さん詳しく知りたい気持ちもありますが、架空の話であってもその様な人格を持った人は素晴らしいと思って居ます。ですから「坂本龍馬が好き!」「尊敬する!」と司馬遼太郎の描く「竜馬がゆく」を読んで竜馬ファンに為った人と似たり寄ったりです。でも、偶には彼の悪口を言う人の話も聞きたいと思い、2回にわたって取り上げようと思います・・・
 


 その1 「西郷どん」は本当に立派な人物だったのか ?

 2018年NHK大河主人公の「がっかりな実像」  武田 鏡村 2018/01/07 09:00      

 NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」を毎回観ている。主人公の西郷隆盛と言えば、歴史小説・ドラマ等でも数多く取り上げられて来た薩摩(鹿児島県)の大英雄である。鈴木亮平が西郷を演じる今回のドラマでは「愛に溢れたリーダー」として描かれると云う。
 しかし、西郷の実際の行跡を辿って行くと「愛」とは真逆の冷酷非情な人物像が浮かび上がって来る。『薩長史観の正体』を刊行した武田鏡村氏に知られざる「西郷どん」の実像について解説して頂いた。

 「最大の功労者」と「悲劇のヒーロー」の両面

 西郷隆盛は「薩長同盟」を結んで維新回天を行い、江戸城を無血開城した明治維新の最大の功労者として「大西郷(だいさいごう)」「大南洲(だいなんしゅう・隆盛の号)」とも呼ばれ最高の尊敬を集めて居る。しかも、明治政府に反逆した西南戦争に担ぎ上げられた総大将で、敗北して自決に至ったにも関わらず悲劇的なヒーローとして国民的な人気を集めて居る。
 
 明治維新の偉業と明治新政府への反逆と云う矛盾した行動を取った西郷の人気は、実は数々の暴虐や策謀の末に成立した明治新政府への国民の無言の反感に依って成り立って居ると言って好いだろう。所謂「判官びいき」である。
 明治新政府が作り上げた「薩長史観」では、当然の事ながらこの辺りに付いての評価を下す事無く西郷を単に傑出した偉人と見なす事で、明治維新で行った数々の不行跡を隠蔽して居る様に思える。そればかりか、幕臣であった勝海舟が「俺は今まで天下に恐ろしい者を二人見た。それは横井小楠(しょうなん)と西郷南洲だ」と、熊本藩士で改革を推進した横井と共に讃えて居る事を引き合いに出して、幕府の重臣からも認められた人物として西郷を評価する。
 或いは、坂本龍馬が「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と西郷の人物の大きさを語って居る事を引き合いに出して、人並み外れた包容力があったと賛美している。

 だが、勝海舟の場合は西郷と会見して江戸城を無血開城させて江戸を戦火から救った事から、西郷の度量の大きさを讃える事で自分の業績を誇示したと言える。
 坂本龍馬の場合は、西郷は周囲の影響に依ってしか「響か無い」と云う主体性の無い人物であった事を正確に捉えて居る。事実、西南戦争でも煮え切ら無い態度を取って懇願された末に要約総大将に就いたと云う経緯がある。果たして西郷隆盛は本当に傑出した人物であったのであろうか。

 僧侶を「殺害」してしまった過去 

 「私事、土中の死骨にて忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候次第……、天地に恥ずかしき儀の御座候えども、今更に為りて候ては、皇国の為に暫く生を貪り居り候」
 (私は一旦死んだ人間であり土の中の死骨に等しく、その恥を忍んで居る身であるが、暫くは皇国の為に命を長らえて居る・長岡監物宛の西郷隆盛の書簡)

 西郷は、幕府の追っ手から逃れて来た京都清水寺の月照(げっしょう)と云う僧侶と入水自殺を図って自分が生き残り結果として月照を殺した。先の書簡は、生き残った西郷の悔恨の告白である。
 安政5(1858)年11月15日夜半 西郷は月照と鹿児島の錦江湾で入水を図った。月照46歳西郷が32歳の時である。薩摩藩は月照を殺せと命じて居たが西郷は殺すのは忍び無いと月照と合意して入水したとされて居る。
 
 だが、維新後に西郷の述懐を聞いた人の話が、『南洲翁逸話』(鹿児島県教育会編)に載っている。

 「自分が最も遺憾に思うのは僧月照の身の上だ。月照が舟の舳先に出て小便をして居る処を後ろから自分が抱き込んで飛び込んだ処、月照のみは死し自分が生き残ったのは至極遺憾な訳である」

 これに依れば、入水は合意では無く西郷による無理心中で、西郷が生き残ったのであるから殺人を犯したと見る事も出来る。事件後、奄美大島に流された西郷は、そこで出会った少壮学者で後に東大の教授と為る重野安繹(やすつぐ)に対しては、次の様に語って居る。

 「サテさて残念な事をした。和尚(おしょう)独り死なして自分独り死に損無い、活きて居るのは残念至極だ。士の剣戟を用いずして身を投げる等と云う事は、女子のしそうな事で、誠に天下の人に対しても言い分が無い。只和尚は法体の事であれば、剣戟を用いずして死んだ方が宜(よ)かろうと云う考えで投身したけれども、寧(むし)ろ死する為らば、女子の為す様な真似をして自分独り活き残って面目次第も無いと、歯咬(か)み為し涙を流して拙者に話した」 『重野安繹演説筆記』

 薩長史観では、西郷の偉業の前にこの入水は語るに値し無いと見て居る様だ。だが、西郷の心には深い悔恨が残り、その屈折した感情の発露として討幕への様々な卑劣で残虐な行為を行ったと指摘する事が出来るのではないだろうか。

 「不犯」から「好色」に変心 

 西郷は「生涯不犯」詰り一生涯女性と交わら無いと言って居たと云う。その為月照とは「男色」であったと云う説もある。だが、奄美大島に流されると、生き残った事への慙愧(ざんき)の涙を流す一方で現地の女性との間に二児を設けて居た。叉、沖永良部(おきのえらぶ)に再流罪に為った時、台湾へ密航して現地の女性に子を産ませたと云う伝承もある。
 勿論人間の心と云うものは、変化するものであるから初心を破ったからと言って非難される事は無い。処が京都で活躍の場を見出すと、鹿児島に妻がありながら幕末の志士に有り勝ちな放蕩に耽る。奈良屋と云うお茶屋の仲居のお虎と祇園の川端井末の女将お末と云う肥満した2人の女性を可愛がった。だが、お末に振られた西郷はお虎に求愛しこちらは上手く行った。お虎は大きな女性で「豚姫」と渾名を着けられて居た事が、勝海舟の『氷川清話』に載っている。
 
 西郷は大女が好みだった様で、誰彼と無く「お虎の体は最高でゴワス」と惚気(のろけ)て居たと云う。これが土佐藩主の山内容堂の耳に入って散々揶揄(からか)われたとか。一夫一妻の現代とは時代が全く異なり、幕末の志士と称する面々は何れも愛妾を囲って居たから西郷だけを槍玉に挙げる訳には行か無い。それにしても「豚姫」の惚気は当時としても頂け無いものがある。 
 同じ薩摩で西郷の幼馴染であった大久保利通も無口で実直そうだがナカナカの女好きで、祇園一力(いちりき)のお勇を囲って子供を設けたと云う。討幕のシンボルとされる「錦の御旗」は岩倉具視の側近と為る国学者の玉松操(たままつみさお)がデッチ上げた草案だが、その材料と為る西陣織を買いに遣らされたのがこのお勇である。大久保はこれを長州の品川弥二郎に渡して「錦の御旗」を作らせた。これが突如として鳥羽・伏見の戦いの最中に翻(ひるが)ったのである。
 「討幕の密勅」と言い「錦の御旗」と言い、既に大久保や西郷は「偽造」と「欺瞞」に依って、何が何でも討幕を果たそうとして居たのである。因みに玉松操は「討幕の密勅」にも関与して居たが、純粋な「尊皇攘夷派」で、明治新政府の開国方針を約束違反として批判し新政府の招きを拒絶して居る。

 残虐な策謀家としての側面
 
 幕末の日本は開国したものの、如何に外国勢力から自立するかが急務であった。それには国内戦争をせずに外国からの介入を防ぐ事である。幕府は勿論、勝海舟や坂本龍馬もその事に腐心して居た。処が薩摩も長州も国内の権力闘争に目を向けた。特に西郷は「自藩意識」だけで行動して居た。 
 西郷は、勝海舟から幕府を解体して雄藩連合で平和裏に日本をまとめる必要があると言われて初めて日本を意識する様に為ったと云うが、それでも「自藩意識」を取り去る事が出来ない。西郷に取って薩摩藩は、幕府に代わる権力主体と考え続けたのである。その為には、様々な謀略や恐喝・暴動計画を実行する。

 平和的な政権移行として「大政奉還」が行われても西郷は武力による政権奪取を放棄し無かった。国内戦争への道を追求したのである。徳川慶喜の「大政奉還」によって新国家への道が開けたと喜ぶ坂本龍馬の暗殺に加担したのは、如何も西郷や大久保であった様である(参考:明治維新より輝かしい「大政奉還」と云う偉業)。
 新体制を決める小御所(こごしょ)会議でも、西郷は「短刀一本あれば済む事だ」と反対派を恫喝し、幕府が到底飲め無い処置を決定させて居る。冷酷な武闘主義者振りを見せたのである。

 「大政奉還」後京都を去った幕府軍を挑発する事を目的として、江戸を騒擾化する為に薩摩藩士等を送り込んだのも西郷である。彼等は「薩摩御用盗(ごようとう)」と恐れられるテロ集団を作り、江戸市中で強盗・殺人・強姦・放火とあらゆる犯罪を行った。
 大店を次々に襲って、家人らを殺害し大金を強奪し軍用金とした。江戸城の二の丸にも放火して居る。江戸の薩摩藩邸を根城にして悪逆非道の限りを尽くしたのである。薩摩の暴虐はここに極まれり、と怒った勘定奉行の小栗忠順(ただまさ)は、庄内藩を中心にした幕府軍を編成して薩摩藩邸を焼き討ちにした。この知らせを聞いた西郷は興奮して「これで戦端開けたり」と語ったと云う。
 矢張り薩摩の暴虐に憤った大坂の幕府軍が鳥羽・伏見に進攻した時、西郷は桐野利秋に命じて最初の砲撃を加えさせた。全く無益な戊辰戦争を始めたのが西郷であったと言って好いだろう。

 江戸城無血開場で見捨てられた東北諸藩 

 江戸城の無血開城は西郷の英断であるとされて居るが、そこには新政府に逆らう藩を討伐する事を黙認する約束が勝海舟との間で結ばれて居たのである。勝は、江戸城を開城する事で、東北方面で起こるであろう戦争を黙認したのである。それを知った福沢諭吉は勝を糾弾して居る。その後、東北・越後方面に舞台が移った戊辰戦争では日本人同士の凄惨な殺戮が行われた。 
 天皇に忠誠を捧げ続けた会津藩は「賊軍」と貶められ徹底的に蹂躙された。長岡や庄内では奥羽越列藩同盟軍が善戦したものの他の東北地方では「官軍」の一方的で残虐な行為が繰り広げられた。それを惹起(じゃっき)したのが西郷隆盛である。

 NHK大河ドラマ「西郷どん」がどの様に都合好く西郷を描こうがこうした事実は消え無い。庄内藩に対して寛大な措置を執った事が殊更賞揚されるが、それは以前の記事(幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知って居ますか)で紹介した様な庄内側の努力があったからである。
 西郷は「敬天愛人」を唱えて居たと云うが、それとは裏腹な「汚天殺人」を実行した人物であったと言われても仕方無いであろう。


 その2につづく



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