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2018年06月22日

西郷さんのガッカリなお話し・・・その2


 西郷さんのガッカリなお話し・・・その2


 将軍家に正室篤姫(天璋院)迄出して政権を支え様とした薩摩藩が何故、徳川幕府の討幕の主人公に為って行くのかの理由を明らかにします。

 西郷が戊辰戦争に繋がる討幕を決意した時期と理由
 坂本龍馬暗殺は西郷隆盛の早とちり説と言う異説の可能性を提示


 薩摩の藩論は元々公武合体論で、武力討幕では無かった?

 薩摩藩は斉彬(なりあきら)公の時代より、当時の老中首座阿部正弘(あべ まさひろ)の私的政治顧問的な役割を実質努めて居ました。 ぺりー来航後の『日米和親条約締結』は島津斉彬の助言に基づいて阿部正弘が実行させたとも言えます。
 その後斉彬は、第13代将軍家定(とくがわ いえさだ)の正室に篤姫(あつひめ)を送り込む事に成功し、英明を謳われた開明派の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)を第14代将軍にする工作を始めます。

 詰り、斉彬は飽く迄も幕政の改革を目指す方向性で進み幕藩体制そのものを壊す考え方は全く無かったと言えます。嘉永6年(1953年)のペリー来航問題に始まる開国論議で、老中首座の阿部正弘の政策判断ミス(諸侯に黒船問題の意見を求めてしまった事)があり、それが幕府の権威失墜を招き次第に眠って居た『朝廷の権威』を目覚めさせるに至りました。
れを受けて、俄かに勤皇派と称する動きが各地で惹起し始め尊皇攘夷の運動(反幕府・反政府運動)が活発に為ります。

 今日目立つのは活躍する尊皇攘夷の志士達の動きですが、実際は当時の現実問題として、彼等尊攘志士(下級武士階級)には所属する藩(藩主)から幕閣(幕府要路)に具申する事で、幕政に関与する方法以外に効果的な政策アピールの方法はありませんでした。
 大半は話にも為らず脱藩するしか道は無いのですが、開明派の大名(藩主)の場合は、藩士の尊攘志士等に理解があるので熾烈な藩内抗争は避けて通れ無いものの、尊攘志士の考えが藩内有力者を動かし藩論を構成する可能性もあり得た訳です。

 そして西郷の所属する薩摩藩の場合は、斉彬公が幕政関与出来る事と為った諸侯の筆頭と為って居ましたので、先ずは嘉永6年以降失墜し始めた幕府の権威の回復を図る事が薩摩藩の喫緊の課題でした。そこで考え出されたのが、朝廷の権威を取り込もうとする公武合体論(皇女和宮の降嫁)でした。
 斉彬公死去以後、主役が久光公に替わってからも薩摩藩のこの方針(藩論は公武合体論)に変化はありませんでした。 詰り後の討幕・維新の立役者と為る大久保利通等も幕藩体制擁護の為に、未だ藩政の実権者久光公側近として公の手足と為って動いて居ました。(西郷隆盛は久光公に嫌われて『島流し』の憂き目に遭って居ましたが)
 当時の薩摩藩を含む武士階級の頭には、極一部の過激派を除いて幕藩体制の破壊(維新)と云う選択肢は、未だ無かったと言えそうです。

 薩摩藩は後の仇敵会津藩と最初は蜜月状態だった?

 文久2年(1862年)は薩摩の島津久光公が上洛を企画し、西郷も3年に及ぶ奄美大島への『島流し』から呼び戻されたにも関わらず、僅か2ヶ月後には久光公の勘気を受けて沖永良部島へ再度島流しに遭った年でもありました。
 4月16日に藩兵を率いて京都に到着した久光に京都警備の勅命が下り、4月23日に伏見の船宿寺田屋に集まって京都所司代の襲撃計画して居た薩摩の過激派を上意打ちにして鎮圧し、朝廷の更なる信頼を得てそのまま勅使を警護する形で江戸へ下りました。
 江戸では、朝廷の権威を背景に幕府への人事介入をし一橋慶喜の将軍後見職就任と越前藩主松平春嶽の大老就任を決めました。

 しかし、江戸からの帰途、神奈川宿付近生麦村で英国人の殺傷事件(生麦事件)を引き起こし京都へ辿り着くも、留守中に長州藩が公武合体論から破約攘夷論へ藩論を転換させて京都の朝廷内を引っ掻き回して居ました。 結果、京都の朝廷内では久光が江戸へ下る時とは一変して長州藩がイニシアティブを握る破約攘夷論が席巻して居り、朝廷のその好い加減さにスッカリ嫌気の指した久光は薩摩へ帰国してしまいます。
 当時京都では、長州藩が黒幕と思われる尊攘過激派による殺傷事件が多発して治安は極度に悪化し、その為幕府からの要請で新たに京都守護職として会津藩松平容保(まつだいら かたもり)が藩兵1000名を引き連れて京都に駐屯します。薩摩藩島津久光は、京都は退いたものの長州に奪われた政局の主導権を取り戻すべく、今度は新たに進駐して来た会津藩と連携する事を企画します。

 偶々、会津藩公用方重臣秋月悌次郎(あきづき ていじろう)と薩摩藩儒者重野安繹(しげの やすつぐ)が江戸の昌平黌(しょうへいこう)の同期生だった事から薩摩藩から仕掛けて行きます。藩論がどちらも公武合体論だった事から関係は一気に進み、両藩の重臣同志が会食する等ほぼ同盟関係と言う処まで直ぐに為りました。
 そして、運命の文久3年(1863年)『八月十八日の政変』を迎えます。 島津久光は島流しして居た西郷隆盛を再び急遽赦免して、薩摩軍を指揮させ過激な攘夷論を唱えてテロを行う長州藩と黒幕の公家達の京都からの追放を行い、薩摩藩は会津藩の力を借りた形で京都の政局主導権を奪回する事に成功しました。
 孝明天皇からお褒めの言葉を戴く会津藩松平容保の陰に隠れて、薩摩藩(島津久光)は再び公武合体論を主導する立場を回復しました。

 薩摩の西郷隆盛は遂に幕府を見限った!何時?

 前章に出た八月十八日の政変の後、実権を回復した諸侯等が長州が進めて居た破約攘夷の方針の転換を孝明天皇に働き掛けを進めて居た処、島津久光のお陰で将軍後見職に就く事が出来て居た一橋慶喜が突然方針を変更して、孝明天皇に横浜鎖港を約束します。詰り、出来もし無い破約攘夷を天皇に突然約束してしまったのです。
 要するに、諸侯と共に実権を握る立場に立った途端に一橋慶喜は、久光等諸侯主導で朝議や幕政が動かされる事に不快感を覚え、権力の一人占めを図り暴走を始めたのです。 この慶喜の行為と身勝手に驚き呆れ、この重大な違反行為に諸侯達は慶喜本人への不信感を高めて皆京都を離れてしまいますが、久光の命により必死に慶喜の将軍後見職就任に尽力した大久保利通も一橋慶喜を信用し無く為ります。
 一方の慶喜は、元々佐幕派の孝明天皇の信認を得て元治元年(1864年)3月25日に将軍後見職を辞してから、改めて朝廷より「禁裏御守衛総督」に任命されます。

 薩摩が、この一連の政治抗争を続けて居る間に、追放された過激派に主導されて居る長州勢力は着々と復権の準備に取り掛かって居ました。次いで、元治元年6月5日に新撰組による所謂池田屋事件が起こり、長州勢を中心とする過激派の『京都騒乱と天皇動座事件』のテロの存在が発覚します。
 これに刺激された長州は藩を挙げて京都攻撃の軍を挙兵します。元治元年(1864年)7月19日に勃発し京都を火の海にした『禁門の変』の発生です。

 再度、遠島を赦免されて薩摩藩兵を率いて京都に居た西郷隆盛は、盟約に基づき京都守護の会津藩兵と協力して長州藩の京都侵攻を撃退します。引き続き、孝明天皇より御所に発砲した罪で長州藩を朝敵として征討の勅が発せられ『第一次長州征伐』が始まります。
 西郷隆盛は、その征討軍の総督徳川慶勝(とくがわ よしかつ)の参謀と為り、実質的には司令官として征討軍を指揮して広島迄行きます。そこで、西郷は薩摩主導の長州説得工作を続け、結果戦火を交えずに長州を恭順させて12月27日には征討軍を撤兵させる事に成功します。 西郷にしてみれば、佐幕派(幕藩体制維持派)である薩摩藩の一員として遣るべき仕事を成し遂げた訳です。

 処が、江戸の幕閣はこの西郷の行った処置に何とダメ出しをして来ます。征討軍総督徳川慶勝の戦後処置は長州藩に余りに寛大に過ぎると言うものでした。 結局『第二次長州征伐』の方針が出されたのです。
 西郷が知恵を絞って皆の顔が立つ様に現場での穏便な解決に奔走したにも関わらず、その結果を頭っから否定される事態と為ってしまいました。ここに至って西郷は如何に藩論とは言え徳川幕藩体制の護持にスッカリ嫌気が指して慶喜・会津容保を含む徳川幕府に見切りを付け始めたと思われます。

 『薩長盟約』を蔭で演出した坂本龍馬が助言をした山内容堂の(土佐藩)『大政奉還』の建白は、本当は徳川家温存政策だったの?

 西郷・大久保等薩摩藩重臣が一橋慶喜と幕閣を信用し無く為って居た慶応元年(1865年)頃に、以前から長州と薩摩両藩に大変世話に為って居て顔の広い坂本龍馬が動き始めます。 政治の中心地として復権した京都で主導権争いをし互いに凌ぎを削った同志の薩摩と長州を口説き手を結ばせようとしたのです。
 マァ、実態は如何であれ敵(かたき)同志の藩の歴史的な盟約が坂本龍馬”の仲介により慶応2年(1866年)1月21日に薩摩藩家老小松帯刀の京都私邸で結ばれました(薩長盟約)。
 その効果は直ぐ現れ、慶応2年6月から始まった『第二次長州征討』に薩摩藩は参戦せず、大坂まで出征した将軍家茂の死去も手伝って実質長州軍の勝利に終わりました。この戦争には龍馬も伏見奉行の襲撃で受けた傷も癒えて、長崎から長州へ武器を届けがてらに幕府軍との戦闘(海戦)に参加しました。

 その後薩摩の首脳陣は、幕府軍に勝利した長州と共に討幕行動準備に謀殺され始めて忙しく為り、龍馬への援助もお座成りで、薩摩の肝入りで作った商社と言うより運送屋の亀山社中も経営難に陥り始めました。
 翌年慶応3年(1867年)3月に為ってやっと、牢人龍馬の原籍地でもあり海運業に興味を示して居た土佐藩の参政後藤象二郎(ごとう しょうじろう)に亀山社中を拾って貰い、会社を海援隊に衣替えして、龍馬は再び土佐藩に関わり始めます。

 長州に敗れた徳川幕府の権威失墜は覆うべくも無く、その復権の可能性が低い中、土佐藩実権者山内容堂は有力諸侯として再度中央政界復権を模索して居ました。そこで、参政後藤象二郎は容堂公の片腕として、坂本龍馬から示唆を受けた徳川幕府の大政奉還(公議政体論)を土佐藩の新たな政策として建白するに至ります。
 坂本は、慶応3年(1867年)の夏以降この『大政奉還』以後の新政体構想の検討に熱中し、秋口には新政府の人材探しの為に越前まで出張する程でした。後藤が建白した大政奉還は、土佐藩侯山内容堂から第15代将軍に就いた徳川慶喜に上申する事と為りました。

 こうして土佐藩が上申した大政奉還は慶喜によってアッサリ受け入れられて、10月14日に朝廷へ即上奏されました。(実は、慶喜サイドから建白する様に督促されて居たとの異説がある程です)
 慶喜が受け入れたのには大きな理由があり、実は土佐の建白は大政奉還後の新政体(改造政府)で、内大臣として相変わらず慶喜が政府の実権を持つものだったのです。徳川の政権存続を認めていない薩長には全く受け入れられ無い内容でした。
 しかしこの裏で薩長連合はこの内容であっても慶喜が土佐の上申を受け入れるのに時間が掛かると踏んで居て、その間薩摩大久保利通と公卿岩倉具視は倒幕の為に朝廷工作を行い倒幕の密勅を準備して、将に10月14日には密勅が下りて居る手筈した。
 処が、前述の理由で慶喜の対応が予想外に早く、迅速に慶喜より朝廷に土佐案の大政奉還の上奏が為された為、薩長の倒幕の大義名分と為る密勅は空振り(大政奉還を受けて、10月21日に密勅実行中止のお沙汰書が出されます)に終わりました。

 龍馬暗殺後、薩摩は急速に長州と武力討幕へ向かう?

 慶応3年(1867年)6〜7月頃には、長州にセッツかれる形で徐々に武力討幕方針を固め始めて居ましたが、未だ柔軟に時期を見て居る感じの薩摩藩(西郷ら)でした。しかし西郷は、土佐の公議政体論を飽く迄も倒幕の第一段階と見てある程度容認して居たのですが、挙兵準備の為に土佐へ帰国した筈の後藤が9月3日にまさかの手ぶらで土佐本国より帰坂して来ました。
 その為西郷は、土佐の後藤(山内容堂)が倒幕では無くて、徳川を交えた平和解決を本気で考えて居る事に気が付き失望し、もう見切りを着けて土佐を外して動く事に決心した様です。

 この時点で実は、坂本龍馬は訪問した先で聞いた長州の伊藤(博文)の話から、京都の情勢が逼迫し最早武力討幕しか選択肢が無く為って居る事に気が付き、長州木戸孝允への9月20日付の書簡で、後藤を外して武力討幕派の乾(板垣)退助を京都へ行かせると言って居ます。

 慶応三年九月二十日 木戸孝允宛て

 ・・・今日下の関まで参候処、不計も伊藤兄上国より御かへり被成、御目かゝり候て、薩土及云云、・・・・急々本国をすくわん事を欲し、・・・小弟思ふに是よりかへり乾退助ニ引合置キ、夫より上国に出候て、後藤庄次郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕と存申候」(引用:宮地佐一郎『龍馬の手紙』より)

 龍馬は、伊藤のホットな京都政局の話を聞いて状況が平和主義の大政奉還では最早何の役にも立た無い事に気が付いて手を打つ(武力討幕)気に為って居た様です。後藤象二郎は優秀な人物ですが、飽く迄も藩公の山内容堂に気に入られる事が第一義の官僚的人間だった様で、時代の変化に付いて行こうとはし無かったのです。龍馬は、後藤の考え方のベースは良く知って居ましたので、即座にこりゃダメだと判断したのだろうと思います。
 一方薩摩・長州は武力討幕の為の挙兵に対して、頑強に反対する国許の藩内勢力を何とか抑え込んで出兵に漕ぎ着けます。

 流れからみると、龍馬の暗殺後に薩長による12月9日に王政復古のクーデターが起こり、維新への分水嶺と為った小御所会議が開かれて朝議としての倒幕が決まり、年明けに鳥羽伏見の戦いから『戊辰戦争』へと繋がって行く訳です。
 武力討幕方針の薩長に対して小御所会議でも大音声で徳川家の政権存続を主張した政権参与の山内容堂は強力な武力討幕反対派でした。その部下で有能な官僚である後藤象二郎の事は、問題にして無かった様ですが、薩摩(西郷)が危険視したのは政治家の坂本龍馬でした。
 もし、坂本が存命であったなら小御所会議でも薩長は負けた可能性があったのでは無いでしょうか。そう為ると9月に土佐を見限った薩摩(西郷・大久保)は、坂本の暗殺を仕組んだ可能性は否定出来無いのでは無いでしょうか?

 しかし、これは坂本を良く知ら無い薩摩の早トチリだった訳で、前述した様に龍馬は既に自分の提案した大政奉還(公議政体論)では事態が収まら無い事は察知して、早速武力討幕に土佐も参戦する方針を出して居ました。 私見ですが、薩摩(西郷)はこれを知ら無かったのだろうと思います。あの頃の西郷は、もう武力討幕で頭が一杯で邪魔する者は全て排除する位の勢いだったと考えられます。
 11月15日の京都近江屋で龍馬が暗殺された時、大久保利通も涙した話がありますが、あれは巻き添えを食った中岡慎太郎を悼んでの事だった様です。中岡は、大久保と組んで討幕を仕組んで居た公卿岩倉具視(いわくら ともみ)の手足と為って居ましたので大久保とは親しかったのです。

 坂本龍馬暗殺実行犯は、幕臣旗本で京都見廻組のチーフ佐々木只三郎以下4〜5名である事が判明して居ます。中でも腕ッコキの剣客である佐々木只三郎(ささき たださぶろう)は、当時の京都駐在会津藩公用人手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)の実弟でした。
 京都見廻組も新選組と同じ京都守護職松平容保(まつだいら かたもり)の支配下であり、そしてボスは当時の会津藩公用人の手代木直右衛門でした。従来この手の汚れ仕事は新選組の範疇(はんちゅう)だと考えられるのですが、この時は何故か京都見廻組へお鉢が回りました。
 矢張り最初は、当然の様に坂本龍馬暗殺は新選組の仕業と言うデマが誰からとも無く流れました。『禁門の変』での盟友であった関係から坂本龍馬の斡旋で薩摩が長州と組んだ後でも、会津と薩摩の藩士同志の個人的な付き合いは続いて居たと言われて居ます。
 詰り京都見廻組へは西郷が手を回せた可能性が充分存在しますし、私が思って居る程西郷達と坂本龍馬は親しくありませんでした。親しかったのは中岡慎太郎の方だったのです。勿論証拠はありませんがこの可能性は『龍馬暗殺』の動機論からは有り得るかも知れません。

 叉、有名な話ですが薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允は超仲が悪くてお互い話を殆どしなかった事も龍馬には致命傷だった様です。木戸と龍馬の方は若い頃江戸で有名道場の師範代同志で剣士仲間だった為に親しかったですけどね。仮説に過ぎませんが、坂本龍馬は西郷隆盛の早とちりで暗殺されたとすると、本当に残念なお話ですね。
 信じられませんが、薩摩藩要人達が倒幕挙兵準備の為に帰国して居る間、京都に留まって居た見分役?の薩摩藩重役吉井友実(よしい ともざね)は、京都河原町の龍馬暗殺現場に駆けつけて居て結果を見分しその後関係先に早飛脚を出して居ますが、その相手の中に有名なイギリス公使館アーネストサトウが居て、この事はアーネストサトウの日記に記されて居ます。当時の薩摩藩とイギリスの関係が好く分かる話ですね。

 西郷の最後の一手は『赤報隊』による江戸騒乱のテロ行為で幕府を挑発?

 平和解決派(徳川家の参政維持)の土佐藩山内容堂・後藤象二郎等が実現させた大政奉還へ対抗する様に、慶応3年(1867年)12月9日に武力解決派(徳川家の追放)の公卿岩倉具視と薩摩大久保利通等が進める王政復古の大号令と言う政治クーデターが進められました。
 しかし将軍慶喜は着々と手を打って行き、引き続き政権を徳川家が担当して行く事をドンドン内外に印象付けて行き武力解決派(武力討幕派)のクーデターを骨抜きにして行きます。このままでは倒幕の意味を失ってしまいそうに為り、徳川慶喜の粘りによって政権からの徳川家排除が進ま無い事に業を煮やした西郷隆盛は、武力衝突の切っ掛け作り(幕府への挑発行動)を始めます。

 それは、慶応3年(1867年)11月15日の近江屋事件であの坂本龍馬と一緒に惨殺された土佐藩陸援隊長中岡慎太郎(なかおか しんたろう)が、慶応3年6月22日に結ばれた薩土盟約に先立って、5月21日に西郷を訪問して居り、その折土佐の過激派板垣(乾)退助(いたがき たいすけ)を薩摩の西郷隆盛に紹介した事から始まりました。
 その時同席した者は、薩摩が西郷隆盛・家老小松帯刀・吉井友実、土佐は中岡慎太郎・乾(板垣)退助・谷守部(干城)・毛利恭助(吉盛)で、西郷と板垣は初対面でした。

・・・中岡の日記に曰く、乾退等と此の夜、小太夫邸に会し、西郷、吉井集居。・・・中略・・・・

 は云う「我が藩論常に佐幕に傾く。真に恥ずかしい。しかし余ら同志の徒も、亦決して寡無くは無い。今や断然藩を脱して兵を挙げ、討幕の師に加わりたいと思う。・・・」
 隆盛言う「誠に立派なるお考え、感服の外無い。ご意見を聞いて大いに意を強うする。是非力を合せて貰いたい」
 言う「ここに一つお願いがある。江戸に中村勇吉外数名の浪士・・・これは筑波の残党であるが・・・を匿って居る。まさかの時には役に立つ人物と思う。そのままにして上京したのが気に掛かる。何とか工夫はあるまいか」
 隆盛言う「御心配には及ばぬ。直ちに人を遣って田町の邸に潜匿さする様にしよう」

 討幕に関する乾と隆盛の一種の密約はかくして成立したのである。(西郷全集)(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 明治維新と江戸幕府(二)』《講談社学術文庫》より)

 とあり、土佐過激派の板垣退助が組織した浪士隊が薩摩西郷に引き継がれました。これが西郷・大久保の考えて居た武力討幕戦の準備が始まる端緒と為りました。
 その後在京の西郷は、薩摩浪士が連れて来た江戸育ちの武闘革命の勤皇志士小島四郎(相楽総三)を9月下旬に江戸へソッと送り出しました。 10月上旬に三田の江戸薩摩藩邸に到着した相楽総三(さがら そうぞう)は、西郷が板垣より預かった浪士隊に加えて各地に潜伏する過激派志士達へ激を飛ばして三田の江戸薩摩藩邸への参集を呼び掛けます。
 慶応3年の12月時点で薩摩の江戸藩邸にはこうした経緯で、西郷(相楽総三)の命令一下で動ける「水戸天狗党の残党」等を中核にして集められた浪士隊(約500名程)が組織されて居ました。 この浪士隊が後に「赤報隊(せきほうたい)」と呼ばれる西郷の討幕非合法活動部隊に為ります。

 通説では慶応3年(1867年)11月半ば以降、西郷の指令を受けたこの「浪士隊(赤報隊)」が江戸市中騒乱を引き起こし、「市中強盗暴行致し候に付き」と言う状態で治安悪化を創り出し、その徒党を組んで悪事を働く下手人達は皆、三田の薩摩藩邸へ逃げ込んで行く事がハッキリして居ました。
 江戸の治安維持に責任を持つ幕府に揺さ振りを掛け、社会不安を醸成する事によって幕府の権威失墜を謀り幕府側から攻撃を仕掛けさせる為の西郷のテロ行為だったと言われて居ます。
 結果、ものの見事に幕府は西郷の計略に引っ掛かり、慶応3年12月25日未明に江戸取締の庄内藩等4藩の藩兵が江戸薩摩藩邸へ押し寄せ、午前7時頃から攻撃が始まり江戸薩摩藩邸は焼失します。(薩摩藩邸焼き打ち事件)

 これを原因として幕府と薩摩藩の戦争が始まり、結果的に幕府(幕藩体制)の息の根が止まる戊辰戦争・明治維新の切っ掛けと為りました。この浪士隊(赤報隊)は、薩摩藩が江戸市中のゴロツキを掻き集めて豪商や一般商家に強盗暴行を遣り放題に遣ったテロ事件と捉えられ勝ちですが、実際には勤皇の志士達で構成されるキチンとした部隊行動を執った敵後方攪乱・王政復古促進を目的とする軍事行動だったのです。
 10月中に攻撃対象の幕府御用商人達の内定調査を行い、先ず野洲挙兵隊・甲府城攻略隊・相州襲撃隊の40〜50人づつの3部隊に分けて部隊編成を終えた相楽総三(さがら そうぞう)は、11月24日から順次出発をさせて地方から作戦を開始します。

 各地で小規模な戦闘が行われますが全て幕府軍に敗退し残存者は三田の薩摩藩邸に撤退します。地方での活動(戦闘)を終えた浪士隊(赤報隊)は、12月に入り今度は江戸市中の幕府に対する激烈な挑発活動を開始します。攻撃に当って、隊士達に次の規則を守らせました。

 「一二幕府ヲ佐クル者、二二浪士ヲ妨害スル者、三二(ふた)唐物(からもの)商法(しょうほう)スル者、此ノ三者ハ勤皇攘夷ノ讐(しゅう)敵(がたき)ト認メ誅戮ヲ加フベキモノトス。私慾ヲ以テ人民ノ財貨ヲ強奪スルヲ許サズ」(引用:長谷川伸『相楽総三とその同志(一) 中公文庫』より)

 事実、個人宅を襲った浪士一名が薩摩邸内で処刑されて居る様です。最初の幕府を助ける者とは、幕府の御用商人達、2番目の浪士を妨害する者とは、荘内藩に着いて居た新徴組・新整組・幕府別手組・撤兵組等です。薩摩の浪士隊はこの原則を厳しく守って行動して居り、通説にある様な手当たり次第に民間人を残虐に殺害はして居なかった様です。
 前述の軍事行動等順序立てて作戦を展開して居る処から、通説にある様な夜盗紛いの活動・無差別なテロ活動は無かったと見て好い様です。とは云うものの、当時は薩摩を名乗る強盗が横行し江戸の治安は極度に悪化して居ました。
 彼等の大半は、実は無頼漢の変装した者、旗本の三男坊等で遊蕩に身を持ち崩した者が多かった様です。当時幕府を始め諸藩の財政状況は極度に悪化して居り、御家人に対する家禄も半高が御借り上げと為り、詰り年収半減して居て、生活難から薩摩を名乗る強盗に変身するケースが後を絶た無かった様です。薩摩藩もその意味では、飛んだ濡れ衣と為ったものですね。

 まとめ

 薩摩藩は島津斉彬公の頃より幕政に参加する外様雄藩大名のポジションを目指して対幕府政策を進めて居ました。それが、幕末五賢候達、蘭癖(らんぺき)大名と言う改革派の領主達と連携する動きと為って行きました。
 260年も続いた徳川幕府の鎖国政策が世界の時流の中で最早維持する事が不可能に為りつつあり、国防問題に外交問題にどう対処して行くかの主権者としての徳川幕府の政治能力が問われる時を迎えて居ました。

 徳川の幕藩体制と云うものは、武士社会の基本構造を支えて居り、基本的に幕府は気に入ら無くても幕藩体制に替わるべき政体が想像出来ずに、この体制の変更・維新・革命と言う考えが武士階級には皆無であった言えそうです。
 詰り、維新に対して新たな政体転換をイメージするのは、完全に歴史の後知恵であって当時に於いては精々天下取りとか徳川に取って代わる位の感覚では無いかと思われます。 薩長の重役達も、徳川幕府が世界の時流に対応出来無いが故に、新しい考えを持って居る自分達の幕政への参政を求める処から入って行く訳です。所謂幕末の五賢候達の発想もそこ迄だったと思われます。案外一番進んで居たのは、”徳川慶喜”だったのかも知れません。

 慶喜はかなり早い段階(将軍に為る前)から藩制度の廃止と郡県制への移行を考えていました。政体変更で一番重要なのは本当はここなので、明治新政府にしても西郷が廃藩置県を遣って初めて本当の政体転換が出来て居るのです。
 島津久光等は、最後に気が付いて廃藩置県に猛烈に反対して居ます。冗談でしょうが久光は『西郷は、俺を何時将軍にして呉れるんだ』と言って居たと伝わって居ます。中央集権制と統一国家の認識が全く無いのです。こんな人が幕末政治を動かして居たのですから、後は推して知るべしでしょう。

 西郷隆盛は、軍事に強い国際政治家として討幕を決意した辺りから、新政府のイメージが出来上がって居たのではないかと思います。最初の頃に土佐藩後藤象二郎の公議政体論(大政奉還)に乗って居たのも、260年間も続いた徳川家を排除するならその段階を踏む位の事も必要かと思って居たからではないでしょうか。
 しかし、後藤の上に立つ山内容堂の発想が徳川をトップに置いた雄藩会議の枠を全く脱却出来無い事が判明すると、土佐との政治的連携には見切りを着けて徳川体制を完全に解体する武力討幕の方向へ舵を切ります。
 既に慶応3年(1867年)5月末に土佐武闘派の板垣退助と出会った後の段階では、朝敵にされた為に政局の表舞台に出て来れ無い長州重臣達と過激派公卿岩倉具視や土佐藩陸援隊長中岡慎太郎を介して、盟友大久保利通・家老小松帯刀ら共意見を合わせて武力討幕の方針は固めて居たと考えられます。

 それでも、長州にイライラされながらも土佐藩後藤の倒幕挙兵に期待して大政奉還に付き合って居たのでしょう。あの時、後藤は山内容堂を説得出来て土佐藩が薩摩に付き合って本格的に挙兵して居たら、ヒョットすると新政府での後藤総理大臣、板垣総理大臣もあったかも知れませんし、日本での自由民権運動は存在し無かったかも知れません。
 坂本龍馬も途中で薩摩の動きに気が付いて、土佐に小銃を数百丁急遽船で送ったりして後藤象二郎の側面支援をしますが頑迷な山内容堂には全く通じ無かった様です。

 西郷隆盛の江戸騒乱演出による、幕府への挑発行動における赤報隊の乱暴狼藉に関して、為らず者を多数使って一般商家を襲い殺戮をしたい放題したと言う様な話は、前述の通りどうも薩摩の名を語った別人達の犯行だった様で、薩摩藩邸の浪士隊の行動にはキチンと行動基準と規範があった事が判明しました。
 しかし、赤報隊はその後官軍の一員としても戦闘を行ったにも関わらず、維新の汚れ仕事を行なった事が原因なのか逆賊として処刑されてしまいます。新政府は赤報隊の存在そのものを消したがって居た様で、要するに『赤報隊』の討幕志士達・若者達は、結局政治の捨て駒された事が分かります。そこに『明治維新』と言う歴史的な大きな政治事件の怖さを見る事に為りました。


 以上


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