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2018年06月09日

古代からのお話し その14


 古代からのお話し その14


 第五章 スサノオと天皇家

 祭神がスサノオに変わったのは何故か

 出雲大社の祭神が平安時代に為ってから大国主神からスサノオに変わった事は前述したがこの事を更に掘り下げて考えてみたい。実は奈良時代から平安時代に掛けて、天皇家にも大きな変化が生じて居た。次の天皇の系譜を見て頂きたい。
       
 天智天皇から桓武天皇

 天智天皇の崩御の後、壬申の乱に勝利した大海人皇子が天皇に即位(天武天皇)し、それ以降、天皇は持統天皇(女帝)・文武天皇・元明天皇(女帝)・元正天皇(女帝)・聖武天皇・孝謙天皇(女帝)・淳仁天皇・称徳天皇(女帝、孝謙天皇が重祚)と続く。この天武天皇に繋がる天皇を天武系の天皇と云う。
 処が、天武系の天皇は称徳天皇を最後に断絶する。この称徳天皇と云うのは例の怪僧弓削道鏡に入れ挙げた挙げ句、擦ったもんだを引き起こした事で有名な女帝である。この称徳天皇朝に於いて、天武系の多くの有力な皇族が粛清されてしまった為天武系の適当な後継者が居なく為ってしまったのである。そこで称徳天皇の崩御後、天智天皇の孫の白壁王に白羽の矢が立ち、宝亀元年(七七〇)十月一日 天皇(光仁天皇)に即位する。

 光仁天皇は和銅二年(七〇九)の一〇月一三日生まれと云うから即位した時の年齢は六十二歳と可成りの高齢であった。今では六十二歳の人を老人呼ばわりしたら怒られるが当時としては立派な老人である。『続日本紀』の光仁天皇即位前紀には、白壁王は孝謙朝以降、次々と起きた皇位継承を巡る政争に巻き込まれて暗殺される事を恐れ、酒を飲んでは行方を晦まして居たと情け無い様な事が記載されて居る。
 この時代は淳仁天皇が廃位に為って淡路島に流され横死したり、長屋王が陰謀に嵌まって自刃したりと有力な皇族に取っては受難の時代で、そこで白壁王は自分に禍が及ぶのを恐れアル中で無能を装って居たのだ。処がその白壁王に突然皇位が転がり込んで来た。要するに時の実力者の左大臣藤原永手らに依って担ぎ出されたのである。

 光仁天皇以降天皇家は、他の系統に切り替わる事無く現在の天皇に続いて居る。この天智天皇に繋がる天皇を天智系の天皇と云う。そして、光仁天皇の子の山部王が次に天皇に即位(桓武天皇)する。この桓武天皇の時、都が京都に遷都され平安時代が始まる事に為るのである。即ち、奈良時代天武系の天皇の時代には出雲大社には大国主神(天武天皇)が祀られ、天皇が天智系に切り替わった平安時代以降にはスサノオ(蘇我馬子)が祀られて居た事に為る。
 
 これは一体どう云う理由からであろうか。天智系の天皇のスサノオに対する崇拝は出雲大社だけに留まら無い。

 上皇達の熊野詣

 平成一六年七月七日に『紀伊山地の霊場と参詣道』がユネスコの世界遺産リストに登録され色々話題に為ったが、その紀伊山地の霊場の中心に位置するのが熊野三大社(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)所謂熊野三山で、神と仏を共に祀る神仏習合の熊野信仰の霊場で古来より修験道の修行の地とされて居る。

 延喜七年(九〇七)に宇田上皇が熊野に詣でて以来、亀山上皇迄の歴代の上皇達は熱心に熊野詣(上皇の熊野詣は熊野御幸と云う)を繰り返し、その様子は「蟻の熊野詣」に例えられる程で熊野へ参拝する都人は後を絶た無かったと言われて居る。
 宇田上皇の熊野詣から一八三年後の寛治四年(一〇九〇)に白河上皇が熊野を詣で、この白河上皇が実に九回もの熊野詣をした。この白河上皇の度重なる熊野詣が、熊野信仰が高まる切っ掛けと為ったと言われて居る。

 多くの上皇が熊野詣をして居るが、取り分け白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇の四人の上皇が熱心に熊野詣をして居る。と云うより上皇の熊野詣は殆どこの四人の上皇に限られる。中でも後白河上皇は三四回、後鳥羽上皇は二八回も訪れて居る。しかし何故この時代上皇達は盛んに熊野詣をしたのであろうか。この事は大きな謎とされて居る。

 この時代の動きは興味深く、又複雑なので簡単に説明して置こう。熊野詣が盛んになる切っ掛けに為った白河上皇はそれ迄朝廷を支配して居た藤原氏から政治の実権を奪い「院政」を始めた上皇として知られて居る。それまでの藤原氏の行った政治は摂関政治と呼ばれて居た。 
 自分の娘を天皇に嫁がせ生まれた男子を天皇にする、そして自分は天皇の外祖父として天皇が幼少の頃は摂政、天皇が成人してからは関白として政治の実権を握ると云うのが摂関政治である。これを繰り返し行う事によって藤原氏は朝廷の実権を長期間に渡って維持して来たのである。

 処が藤原氏の娘を母に持った後冷泉天皇の時に一人の子も出来無いまま天皇が崩御してしまった為、宇多天皇以来一七〇年振りに藤原氏と外戚関係を持た無い弟の尊仁親王が後三条天皇として即位(一〇三四年)してしまった。
 後三条天皇は政治の実権を藤原氏から取り上げ国政の改革を行う。子の白河天皇は、母は藤原氏の出身だったが、一旦取り上げた政治の実権を藤原氏に戻す事は無く父の路線を引き継いだ。應徳三年(一〇八六)に天皇の位を子の善仁親王(堀河天皇)に譲り、上皇に為った後も政治の実権は手放さ無かった。これを「院政」と云う。

 政治の実権を奪われた藤原氏の地位は完全に下落し、逆に白河上皇は「意の如くに為らざる者、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」と云う言葉が残る程権勢を誇る様に為った。大治四年(一一二九)白河上皇が崩御すると、その権力と富はその頃既に天皇を退位し上皇に為って居た孫の鳥羽上皇に移る。
 永治元年(一一四一)鳥羽上皇は子の崇徳天皇を退位させて、崇徳とは異母弟の躰仁親王(近衛天皇)を即位させた。しかし、近衛天皇は久壽二年(一一五五)僅か十六歳で子を設ける事無く崩御してしまった。そこで鳥羽上皇は崇徳の同母弟の雅仁親王(後白河天皇)を二十九歳で即位させその子を皇太子とした。

 翌年、鳥羽上皇が崩御する。するとその直後、これ迄鳥羽上皇に押さえられ続け不満を抱いて居た崇徳上皇が実力で政権を奪うべく挙兵し、保元元年(一一五六)後白河天皇の間に戦いが起こる。これが武家の政治が始まる切っ掛けと為った保元の乱である。
 この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に配流され京都に帰れぬまま不遇の最期を遂げた。

 保元の乱から僅か三年後の平治元年(一一五九)今度は平清盛と源義朝の間に戦いが起こる。平治の乱である。平清盛が勝利を収め平氏が政治の実権を握り、今度は「平氏に在らざれば人に非ず」と言われる程の平家の全盛時代と為ってしまった。
 その為政治の実権を奪われた後白河上皇は武家政権打倒の陰謀を次々に画策し、その手腕は源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と呆れさせて居る。その後平氏は源氏によって滅ぼされ、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれる事と為る。

 後白河上皇の後を継いだ孫の後鳥羽上皇は承久三年(一二二一)鎌倉幕府倒幕の為挙兵(承久の乱)したが敢え無く失敗、隠岐に島流しにされてしまった。これにより政治の実権は完全に武士に移ると共にあれ程盛んだった上皇達の熊野詣も終焉を迎えたのである。

 この様に上皇達が盛んに熊野詣を繰り返して居た時期はそれ迄政治の実権を握って居た藤原氏が没落し、それに代わって武士が台頭し、朝廷と色々な軋轢を生じて居た時代と重なる。そして盛んに熊野詣を繰り返して居た四人の上皇達は「治天の君」と呼ばれた天皇家の実権を握って居た実力者達なのである。天皇や「治天の君」では無い上皇は殆ど熊野詣をしていない。
 後白河上皇は三四回熊野詣をして居るが熊野本宮大社には毎回必ず参拝して居るのに対し、熊野速玉大社・熊野那智大社には十五回参拝したのみである。この事から上皇達の熊野詣の目的は熊野本宮大社参拝であった事が判る。
 熊野本宮大社の主祭神は家津御子大神(ケツミコノオオカミ)である。随分変わった名前だがこの神はスサノオの事とされて居る。即ちこの時代、藤原氏や武家達との権力闘争の矢面に立って居た「治天の君」達は熊野本宮大社を盛んに参拝しそこに祀られて居たスサノオに頭を垂れて居たのである。

 後醍醐天皇と出雲大社

 天皇家とスサノオの関係は更に続く。文保二年(一三一八)後醍醐天皇が即位する。後醍醐天皇は元寇の役の後、鎌倉幕府に武士達の不満が募って居たのに付け込み倒幕を計画したのである。

 先ず正中元年(一三二四)に鎌倉幕府打倒を計画したが事前に発覚し失敗してしまった。しかし天皇の倒幕の意志は固く元弘元年(一三三一)に再度倒幕を企てたが肝心の兵が集まらず失敗、天皇は捕らえられて翌年隠岐島に流罪と為ってしまった。
 しかしそれでも倒幕を諦め無かった後醍醐天皇は元弘三年(一三三三)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し伯耆国船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で再度挙兵したのである。

 その後、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞・楠木正成達の働きで鎌倉幕府を倒すのだが(建武の中興)、隠岐島から脱出した際天皇は船上山から三月十四日、出雲大社に対して一通の綸旨(紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨・重要文化財)を送って居る。 
 その内容は出雲大社に天皇政治の再興を誓い奉りその成就を祈念したものだがその僅か三日後の三月一七日に、今度は三種神器の一つである草薙剣の代わりとして出雲大社の神剣の内一振りを差し出す様に命じた綸旨(後醍醐天皇宝剣勅望綸旨・重要文化財)を出して居る。その後、出雲大社から差し出された神剣を手にした後醍醐天皇は大層喜んだと伝えられて居る。
 
 前述した様にこの頃の出雲大社の祭神はスサノオである。草薙剣の代わりに出雲大社の神剣を所望した後醍醐天皇は自分をスサノオに準えて居たのである。

 明治天皇と氷川神社

 更に天皇家のスサノオに対する崇拝は明治維新にも及ぶ。明治天皇は明治元年(一八六八)九月 長年天皇の住まいであった京都御所を発って江戸に向かい十月十三日に江戸城に入った。その直後の一七日には埼玉県さいたま市(旧大宮市)の氷川神社を「武蔵野国総鎮守」とする勅書を出し、十一日後の二八日に氷川神社に行幸し祭祀を行って居る。
 天皇が勅使を差し遣わして奉幣を行う神社の事を勅祭社と云うが、明治維新以降近代に為ってからの正式な勅祭社はこの氷川神社が最初である。因みに氷川神社の氷川は出雲を流れる簸川に由来すると言われて居る。
 又、行幸の直前の十月二十日に祭神をスサノオだけとし、それ迄祀られて居た大国主神・櫛稲田姫を祭神から外して居る。但し、後に元出雲国造であった千家尊福が埼玉県知事に就任した際に大国主神・櫛稲田姫は再び祭神に戻され現在に至って居る。

 この様にスサノオは歴代天皇に大変崇拝されて居た事がお分かり頂けると思う。それも天皇家に取って大きな節目毎にスサノオに篤い崇拝を寄せて居た事に為る。スサノオは神話の中においてアマテラスに反逆し追放される神として描かれ、その正体は蘇我馬子なのだからこれは一体どうした訳であろうか。
 それに較べると皇祖神とされるアマテラスを祀る伊勢神宮への天皇の行幸は江戸時代までは持統天皇しか記録に無く、初代天皇の神武天皇を祀る橿原神宮が創建されたのも明治二十三年(一八九〇)でしか無い。それも地元の有志の運動によって建てられたと云うのだから、歴代の天皇の出雲神、取り分けスサノオに対する崇拝は際だって居る。何故歴代の天皇はこれ程までにスサノオを崇拝して居たのであろうか。

 奈良時代の天武系の天皇が天武天皇を大国主神として出雲大社に祀り崇拝して居たのは良く理解出来る。天武系の天皇に取って天武天皇は偉大な先祖だったからだ。彼等は天武天皇を皇統譜の起点即ち皇祖として認識し、天武天皇を大国主神として出雲大社に祀って居たのである。
 では何故、平安時代以降の天智系の天皇は出雲大社の祭神をスサノオに切り替え、それ以後スサノオをこれ程までに熱心に崇拝して居たのであろうか。考えられる理由はただ一つだ。それは「実は天智系の天皇と蘇我馬子は血で繋がって居る。それも太い繋がりがある」と考える他無い。

 天武系の天皇に取っての天武天皇がそうであった様に、天智系の天皇は蘇我馬子を皇統譜の起点即ち彼等に取っての皇祖として認識して居たのでは無いだろうか。そう考えれば、出雲大社の祭神が平安時代に為って大国主神からスサノオに切り替わった事が理解出来るのである。

 この様に歴代天皇のスサノオに対する態度は明らかに蘇我馬子と天智系の天皇には血の繋がりがある事を窺わせるものがある。しかし『日本書紀』の記述では天智天皇と蘇我馬子の間には一切血の繋がりは無い事に為って居る。血の繋がりがあると云う事は『日本書紀』の何処かに欺瞞があると云う事に為る。

 次に、このことを確かめるために『日本書紀』の記述から蘇我馬子と天智天皇の関係を探って見る事にしたい。


 第六章 天智天皇の出自

 謎の皇子 押坂彦人大兄皇子

 『日本書紀』では中大兄皇子の父は舒明天皇と為って居る。この事に関しては何ら不審な点は無い。舒明天皇が中大兄皇子の父である事は間違い無いと思うが、問題は祖父の押坂彦人大兄皇子である。この人物が怪人物である。『日本書紀』によれば押坂彦人大兄皇子の系譜は次の様に為って居る。  
           
 押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一皇子で又の名を麻呂子皇子とも言い、母は息長真手王の娘で敏達天皇の皇后の広姫とされて居る。広姫の没後、豊御食炊屋姫(後の推古天皇)が皇后に立てられて居るので敏達天皇は皇后を二人立てて居る事に為る。皇后を二人立てた天皇は歴史上何人か居るが六世紀から八世紀に掛けては唯一の例と為って居る。
 『日本書紀』には太子彦人皇子とも書かれて居るので、時期は不明だが敏達期に於いて太子の地位にあったとされ、舒明天皇の父であり天智天皇、天武天皇、皇極天皇(斉明天皇)、孝徳天皇の祖父に当たる人物だから、皇統譜の上では大変重要な人物だ。処がこの人物、調べれば調べる程驚く程謎の多い人物である。

 『日本書紀』の大化二年(六四六)三月二十日条の中に「皇祖大兄」の名が見え、それに「彦人大兄を言う」の註が施されて居る。この事から押坂彦人大兄皇子は「皇祖大兄」と呼ばれて居た事が判る。しかし押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の皇子だから「皇祖」と呼ばれるのは不可解である。
 実はこれは『日本書紀』の編纂者が残した『暗号』の中でも最も重要な『暗号』の一つなのだがこの謎は後に解きたい。

 更に、生没年・没年齢に関する記載が一切無い。この内生年・没年齢については『日本書紀』には天皇や皇族の生年・没年齢は書かれていない方が普通だから書かれていないのは問題無いのだが、これだけ重要な人物にも関わらず没年に付いて全く記載が無いのは不審としか言いようが無い。
 舒明天皇の没年齢が「本朝皇胤紹運録」「神皇正統記」等によると四九才である。この年齢は他の史料でもほぼ一致して居る。没年は六四一年だから生年は推古元年(五九三)頃に為る。その頃に押坂彦人大兄皇子が生存して居た事は先ず間違い無いだろう。

 又、推古天皇は敏達天皇(五八五年没)に一八才で嫁いで皇后と為り二男五女を設けて居る。三四才の時敏達天皇が崩御し、三九才で天皇に即位(五九三年)して居るので、押坂彦人大兄皇子の妃と為った末子の桜井弓張皇女は、少なくとも推古天皇の即位後に妃に為ったものと思われる。
 その後桜井弓張皇女は山背王と笠縫王の二人の子を産んだとされて居るので、恐らく推古天皇八年(六〇〇)以降も生存して居たものと思われるが没年に付いての記載が全く存在しないのである。事跡に付いてもその記載は僅かしか無いがその内容は実に興味深いものがある。

 『日本書紀』の用明二年(五八六)四月二日条に

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 中臣勝海連が自分の家に兵を集めて、物部守屋を助けようとした。そして太子彦人皇子と竹田皇子の像を作り、その像を傷つけ呪った。暫くして事の成り難い事を知って、帰って彦人皇子の水派宮の方に着いた。
 舎人迹見赤檮(とねりとみのいちい)は勝海連が彦人皇子の所から退くのを伺い、刀を抜いて殺した。
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 敏達天皇一四年(五八五)三月一日に中臣勝海連は物部守屋と共に崇仏派の蘇我馬子に対抗して、天皇に仏教を排する様奏上した人物で反蘇我馬子派の重要人物の一人とされて居る。その中臣勝海連が物部守屋を助ける為太子彦人皇子と竹田皇子を呪ったと言うのだが、物部守屋や中臣勝海連が最も敵対視して居た筈の蘇我馬子の名がこの中には無い。
 その後物部守屋を裏切って押坂彦人大兄皇子の側に着こうとした中臣勝海連を彦人皇子は許す事無く舎人の迹見赤檮に斬殺させたと言うのだから、押坂彦人大兄皇子は可成り激しい性格の人物と思われる。

 用明二年(五八六)四月二日と言うと敏達天皇の跡を継いで天皇に即位した用明天皇が重い病に罹り、物部守屋と蘇我馬子の確執が愈々激しく為った頃である。四月九日に用明天皇が崩御し、その後継を巡り両者が戦いを交えたのは七月だからこの話はその直前と言う事に為る。
 その頃に押坂彦人大兄皇子は竹田皇子と共に物部守屋側に最も憎まれて居た人物と思われる。即ち物部守屋と蘇我馬子の対立の渦中に在ったと言う事である。処が面白い事に、物部守屋と蘇我馬子の戦いに於いて蘇我馬子の側に味方した皇族や重臣達の名前が『日本書紀』の記述の中には出て来るがその中に押坂彦人大兄皇子の名が無いのである。

 しかも押坂彦人大兄皇子の名が在りませんよと言わんばかりに蘇我馬子の側に味方した全ての皇子の名前をこの時に限って全て列挙して居る。何とも微妙な書き方をするものである。『日本書紀』がこの様な書き方をする時にはトリック、即ち『暗号』の存在を疑わ無ければ為らない。
 そしてこれ以降、押坂彦人大兄皇子の名は歴史に全く登場し無くなる。病死したか或いは蘇我馬子に暗殺されたのでは無いかと云うのが通説とされて居るが、勿論その様な記録は一切無い。

 『日本書紀』は押坂彦人大兄皇子の曾孫、元明天皇の監修の元に編纂されて居たと思われるから、これ程重要な人物にこの程度の事跡しか残されて居らず、没年の記載すら無いと言うのは実に不可解な事と言わ無ければ為らない。又、『日本書紀』の中の物部守屋と蘇我馬子の戦いの記述の中に次の様な記載がある。

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 迹見首赤檮が大連(物部守屋)を木の股から射落として、大連とその子等を殺した。
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 迹見首赤檮は前述の押坂彦人大兄皇子の屋敷から出て来た中臣勝海連を斬り殺した舎人の迹見赤檮と同一人物である。何と、押坂彦人大兄皇子は戦いに名が見え無くともその舎人の迹見赤檮は戦いに参加して居たのである。
 迹見首赤檮はナカナカ剛の者だったらしく、物部守屋とその子達を討ち取ると言う大活躍をして居たと言うのである。この迹見首赤檮の活躍によってそれまで馬子側の苦戦だった戦況が一変、戦いは馬子の勝利に終わる事に為る。この後、迹見首赤檮はこの戦いの功によって馬子より田一万代(一代は百畝)を賜って居る。

 因みにこの迹見赤檮は聖徳太子の生涯を記した『聖徳太子伝暦』に依れば、聖徳太子の舎人とされて居る。舎人は天皇や皇族に近侍する官吏の事でその警護も担って居たから忠誠心の強い人物が選ばれて居た筈である。「忠臣二君に仕えず」と言う諺もある様に忠誠心の強い人物はそう簡単には仕える主を代えたりはしないものだ。もし、そうだとすると聖徳太子と押坂彦人大兄皇子は極めて近い関係だった事に為る。

 押坂彦人大兄皇子の不可解な人間関係 

 更にその系譜の内容も大変不可解なものだ。押坂彦人大兄皇子には『日本書紀』の記載によれば四人の后が居る。糠手姫皇女、大俣女王、小墾田皇女、桜井弓張皇女の四人である。その内小墾田皇女、桜井弓張皇女は敏達天皇の皇后、推古天皇の娘だ。
 又、糠手姫皇女の母は敏達天皇の采女、伊勢大鹿首小熊の女の伊勢菟名子で、糠手姫皇女は敏達天皇と伊勢菟名子の間に生まれた子である。従って三人とも父は敏達天皇と言う事に為る。一方押坂彦人大兄皇子は前述した様に敏達天皇と皇后の広姫の第一皇子とされて居る。と言う事は、押坂彦人大兄皇子は何と自分の異母妹を三人も后にして居た事に為る。

 この時代、近親結婚は左程珍しい事では無いが、自分の異母妹を三人も后にすると為ると何とも異常な事としか言い様が無い。
 飛鳥時代、皇族で自分の妹を娶ったと云うケースは、押坂彦人大兄皇子の父とされる敏達天皇が異母妹の豊御食炊屋姫(推古天皇)を皇后にして居るので前例が無い訳では無い。しかし皇族が自分の妹を娶る場合は皇后・正后に限られ、増してや三人とも為ると他に例をみ無い。「万葉的おおらかさ」と解釈するにも程度と言うものがある。
 これに較べると天武天皇が兄の天智天皇の娘を四人も妃にして居た事の方がヨッポド真面である。押坂彦人大兄皇子は本当に敏達天皇の皇子だろうか。そもそも敏達天皇の第一皇子で太子とされ乍ら天皇に即位し無かったと言う点も不審である。

 巨大古墳 牧野古墳の謎

 更に押坂彦人大兄皇子にはその墓の記録が残されて居るのだがその規模が実に驚くべきものだ。『延喜式』の中の諸陵寮と云う項目には歴代天皇、皇族、貴族の陵墓の名称、位置やその規模が記載されて居る。右の図を見て頂きたい。陵墓の規模は墳丘の規模では無く陵域を表して居る。

 表(延喜式に記載された主な陵墓)

 被葬者名 没年 東西(町)・南北(町) 陵墓名

 神武天皇 -   1・2   畝傍山東北陵
 応神天皇 -   5・5   惠我藻伏崗陵
 仁徳天皇 -   8・8   百舌鳥耳原中陵
 雄略天皇 -   3・3   丹比高鷲原陵
 継体天皇 531   3・3   三嶋藍野陵
 欽明天皇 571   4・4   檜隈坂合陵
 敏達天皇 585   3・3   河内磯長中尾陵
 用明天皇 587   2・3   河内磯長原陵
 崇峻天皇 592   ー ・ ー   倉梯岡陵
 聖徳太子 622   3・2   磯長墓
 推古天皇 628   2・2   磯長山田陵
 押坂彦人大兄?   15・20    成相墓
 茅渟皇子 ?   5・5   片岡葦田墓
 舒明天皇 641   9・6   押坂内陵
 孝徳天皇 654   5・5   大阪磯長陵
 斉明天皇 661   5・5   越智崗上陵
 天智天皇 671   14・14    山科陵
 天武天皇 686   5・4   檜隈大内陵
 藤原不比等 720   12・12    多武峯墓
 藤原武智麻呂 737 15・15    後阿{施}墓
 藤原良継 777   15・15    阿{施}墓

 これを見ると押坂彦人大兄皇子の墓域が最大である事が判る。その規模は実に南北二十町と東西十五町である。一町は約百九メートルだから南北約二千二百メートル、東西約千六百メートルもあったと云う事に為りその大きさは全く尋常では無い。
 日本最大の墳墓と言えば誰もが思い出すのは仁徳天皇陵である。確かに墳丘だけならそうであるが墓域で比較すれば恐らくこの牧野古墳が日本最大の墳墓だろう。

 『延喜式』が編纂された時代は藤原氏の全盛期で、歴代藤原氏の墓の墓域は流石に大きいのだが、それを除くと、次が天智天皇の十四町と十四町である。この二つが大変大きく墳丘の長さが五百メートルもある仁徳天皇の陵域が八町四方、押坂彦人大兄皇子の父とされる敏達天皇が三町四方、押坂彦人大兄皇子の子の舒明天皇が南北六町東西九町、推古天皇の皇太子だった聖徳太子でも三町四方なので、天皇に即位した訳でも無い押坂彦人大兄皇子の墓の墓域は抜群の大きさである。

 一体どうしてこの様に大きいのであろうか。大きいのは墓域だけでは無い。その墳丘もこの時代、最大級の大きさを誇って居る。押坂彦人大兄皇子の陵墓の位置は『延喜式』の諸陵寮によると大和国広瀬と為って居る。現在の奈良県北葛城郡広陵町の辺りである。広陵町は法隆寺のある斑鳩から南へ約五キロメートル、斑鳩と明日香の間にある町で広陵町と云う町の名前からして大きな陵墓の存在を窺わせる。
 墓の名は『延喜式』によれば成相墓と為って居る。四世紀から五世紀に掛けての古墳群がある事で有名な馬見丘陵公園を東西に通り、竹取公園の前を通ってほぼ西に延びる緩い上り坂に為った広い道路がある。この道を一キロメートル程行き坂を上り切った処で、右手の住宅街の中に緑の樹木に覆われた一角が見えて来る。        
 これが押坂彦人大兄皇子の墓とされる牧野古墳のある牧野史跡公園である。牧野古墳を過ぎると道路は一転して下り坂に変わるので牧野古墳は巨大でナダラカナ丘陵の頂点にある事に為る。

 この近辺は近年新興住宅街として開発された所なのだが、残念な事に古墳の墳丘だけを残して周りはスッカリ住宅地として開発されてしまって居る。
 馬見丘陵には多くの古墳があるのだが、この牧野史跡公園の付近には牧野古墳と同時代の古墳が全く無く一基だけポツンと孤立した様な形で存在して居て、明日香村の様に同時代の古墳が沢山あってどれが誰の墓だか判ら無いと言う様な事が無い。
 その為、牧野古墳が押坂彦人大兄皇子の成相墓である事はかなり確実と見られ、全国的にも大変珍しい被葬者の名前をほぼ特定する事の出来る古墳の一つとされて居る。被葬者が特定出来ると言う事は築造年代がほぼ正確に割り出せる訳で須恵器(すえき)副葬品が意外に多く残されて居た事と相まって、この時代の古墳や土器の年代判定の基準とされて居る様だ。

 牧野古墳の巨大石室

 牧野古墳は直径約五十メートルの大型円墳で、墳丘は三段築成に造られて居る。二段目に横穴式石室の入り口があるのだが、残念ながら古くに盗掘されて居て、発掘調査時には石室の入り口は開いて居た。     
                   
 石室の規模は玄室が長さ七メートル(七・七)、幅三・三メートル(三・五)、高さ四・五メートル(四・八)。羨道が長さ一〇・二メートル(一一・五)、幅一・八メートル(二・四)、高さ二・二メートル(二・六)。全長が一七・二メートル(一九・二)である。因みに( )内が明日香村にある巨大石室で有名な石舞台古墳の数値である。
 玄室には奥に横向きに刳抜式の家形石棺が置かれ、手前には組合せ式の石棺が置かれて居たと見られて居るが、石棺は盗掘によって殆ど破壊されて居た。石舞台古墳より僅かに小型だがほぼ同じ規模の石室である。直径が五十メートル程の円墳でありながら大変大きな石室を持って居る。この事からこの古墳が飛鳥時代に造られた古墳である事は明らかで、しかも当時としては最大級の規模を誇る古墳である。

 押坂彦人大兄皇子が推古天皇即位後も生存して居た事から見て、築造されたのは推古天皇即位後である事は間違い無い。従って蘇我馬子が政権を掌握して以降の蘇我氏の全盛期にこの古墳は作られた事に為る。しかもこの古墳は大きいだけで無くこの時代の交通の要所にある。

 何時の時代でもそうだったのだが、大陸との窓口であった難波と大和を結ぶ交通路は大変重要であった。難波と大和を結ぶルートは牧野古墳の北を通り奈良、斑鳩とを結ぶ龍田越えルートと牧野古墳の南を通り難波と飛鳥を結ぶ竹ノ内越えルートの二つがある。
 即ち牧野古墳はこの時代の交通の要所に作られて居て立地的にも第一級の古墳で、恐らく難波と大和を行き来する人々はこの巨大な牧野古墳を横目で見ながら通った事だろう。

 しかし、考えても見て欲しい。敏達天皇の太子だったとは言え、天皇に即位した訳でも無く大した事跡も記録に無い様な人物が蘇我氏の全盛期にこの様な立派な墓に葬られると云う事があるだろうか。増してや蘇我馬子に暗殺された人物がこの様な大きな墓に葬られる筈は無い。
 古代に於いて権力者達は自らの力を誇示する為に巨大な墓を築造した。墓の規模は葬られた人物の生前に於ける力の大きさを表して居ると見られて居る。従ってこれ程大きな墓に葬られた押坂彦人大兄皇子は飛鳥時代の大実力者だったと見て間違い無い。

 天智天皇は蘇我馬子の孫

 ではこの巨大古墳に埋葬された押坂彦人大兄皇子とは一体、何者なのだろうか。ここまで来ればもうお判りだろう。答えは簡単である。

 前章で述べたが、蘇我馬子と天智天皇の間には血の繋がりがあるらしいと云う事を考え併せると、押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は実は同一人物、即ち押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子の別名であるとしか考え様が無い。そう考えれば押坂彦人大兄皇子に纏わる全ての謎は容易に解ける筈である。
 『日本書紀』は蘇我馬子の名を蘇我氏の系譜に記し、馬子の別名の押坂彦人大兄皇子を皇統譜に記し、一人の人物を恰も二人であるかの様に書いたと云う事に為る。この様な記述の仕方は蘇我入鹿を蘇我氏の系譜に記し、蘇我入鹿の別名の高向王を皇統譜に記したのと同様のトリックである。
 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が同一人物と云う事は、押坂彦人大兄皇子の孫の天智天皇は実は蘇我馬子の孫だったと云う事に為る。

 従って舒明天皇、天智天皇から今に繋がる天皇は蘇我馬子を皇祖、スサノオを皇祖神とする蘇我朝の天皇である。『日本書紀』で押坂彦人大兄皇子が「皇祖大兄」と称されて居たのも『出雲国造神賀詞』でスサノオが「かぶろき」と冠されて居たのもこの為だったのである。
 『日本書紀』では押坂彦人大兄皇子を敏達天皇の子として居るのでこれは明らかに欺瞞だ。『日本書紀』は押坂彦人大兄皇子が蘇我馬子の別名であると云う重大な事を記載せず、押坂彦人大兄皇子を敏達天皇の子として記載して居たのである。ここに『日本書紀』最大の欺瞞があるのである。では何故この様な皇統譜の改竄が行われたのであろうか。次の系譜を見て頂きたい。  

 押坂彦人大兄皇子の真の系譜

 実は蘇我入鹿と皇極天皇の子であった天武天皇を舒明天皇と皇極天皇の子とし、実は蘇我馬子の子であった舒明天皇を敏達天皇の孫として居る。
 こうする事によって天武天皇以降の天皇の系譜を推古天皇以前の王朝の系譜と繋いだのである。『日本書紀』が編纂された飛鳥時代から奈良時代に掛けては律令体制の整備が強力に進められて居た時代である。その為天皇の権威を高める必要があった。その目的の為には天皇の出自が蘇我氏である事を隠蔽し、皇統譜を神に繋がる万世一系のものにする必要があったのである。

 石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓

 この様に押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物と考えられるので、蘇我馬子の墓は通説では石舞台古墳だと言われて居たが実は牧野古墳と云う事に為る。

 蘇我馬子は推古三四年(六二六)五月二〇日に死んで居る。舒明天皇元年(六二八)九月以降の記録に蘇我馬子の墓を作る為に蘇我一族が集まったとの記載がある。余りに巨大な墓域なので完全に整備する迄には相当な時間を要したものと思われるが、馬子が死んで二年四ヶ月以上経って未だ墓を作って居る。この事からも明日香村の奥の狭い谷間にある石舞台古墳より牧野古墳の方を蘇我馬子の墓と考えた方が好いだろう。
 そうすると石舞台古墳は一体誰の墓なのだろうか。石舞台古墳の方が牧野古墳より造りも精巧で新しい古墳と考えられて居るので蘇我馬子以降の人物と考えて間違い無い。蘇我馬子以降の人物であの様な大きな墓を築く事が出来た人物と為ると、その場所が蘇我馬子の邸宅があったと言われる嶋の庄付近である事を考えても蘇我蝦夷かその子の蘇我入鹿しか考えられ無い。                

 明日香村の遺跡発掘に長年携わった、考古学者の河上邦彦氏がその著書「飛鳥発掘物語」(産経新聞社)の中でこの古墳に付いて興味深い指摘をして居る。
 氏によると飛鳥川の支流の冬野川を挟んで反対側にある都塚古墳(一辺が約二十八メートル)が石舞台古墳(一辺が約五十メートル)と同じ方墳で石室の開口方向が同じ南西だそうだ。同時代の古墳の開口方向は大半が真南なのでこの二つの古墳は関係があるのではないかと述べて居る。又、石舞台古墳と都塚古墳は石の積み方が好く似て居ると指摘されて居る。『日本書紀』の皇極天皇元年の条に蘇我蝦夷と蘇我入鹿の墓に付いてこの様な記述がある。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 双墓を今来に造った。一つを大陵と言い、蝦夷の墓とした。一つを小陵と言い、入鹿の墓とした。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 蘇我蝦夷と蘇我入鹿は生前に夫々の大小二つの墓を今来に作ったと云う。河上氏は大小の同じ様な古墳が冬野川を挟んで並んで見える事からこの二つの古墳こそが今来の双墓、即ち石舞台古墳が蘇我蝦夷の墓、都塚古墳が蘇我入鹿の墓では無いだろうかと述べて居るが、筆者もその様に考えて好いと思う。  
   
 石舞台古墳からは都塚古墳は間に林が邪魔をして居るので見る事は出来ないが、石舞台古墳の近くに少し高台に通じる周遊遊歩道があり、この遊歩道を登って行くと眼下に雄大な石舞台古墳を見る事が出来る。そして左手に都塚古墳が見通せる。
 この二つの古墳は明日香村に存在する古墳の中でも大変好く目立つ位置にある古墳で、古墳からは飛鳥全体が良く見渡せる。恐らく昔は飛鳥からは二つの古墳は綺麗に並んで見えた筈である。

 又都塚古墳のある地域は古来より坂田と呼ばれ、飛鳥時代に渡来氏族の鞍作一族が居住して居た地域と言われて居て、この近くには鞍作氏の氏寺と言われる坂田寺の跡が都塚古墳からそれ程隔たっていない所にある。
 法隆寺金堂の本尊銅造釈迦三尊像や安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を作った鞍作鳥(止利仏師)はこの一族の出身と言われて居る。『日本書紀』によると蘇我入鹿は「鞍作」とも呼ばれて居たから鞍作一族とも深い関係があった事が判る。この事からもこの古墳と蘇我入鹿の関係が窺われる筈である。

 明日香村には多くの古墳があるが石棺を見る事の出来る古墳はそう多くは無い。都塚古墳には凝灰岩で出来た巨大な石棺がほぼ完全な形で残されて居て今も見る事が出来る。もし石舞台古墳に訪れる機会があったらここも是非見学して欲しい。

 牧野古墳と桃の核

 『日本書紀』の推古天皇三十四年(六二六)五月二十日条によれば、蘇我馬子は「桃原墓」に葬られたとあるが、面白い事に牧野古墳が発掘調査された折、その名の通り石棺の後ろから桃の核が見つかって居る。
 偶々馬具の中にあった為に鉄錆が付着して腐敗を免れ奇跡的に残って居たらしいのだが、落ちて居た位置から見て元は石棺の蓋の上に魔除けの供え物として置かれて居たものと見られて居る。石棺の四隅に置かれて居た桃が腐り、その核が転がり落ち、その中の一つが運良く残った様だ。

 桃の字が逃に通じる処から、古代において桃の実は邪気を払う呪物として用いられて居て、『古事記』の神話の中にも黄泉の国で雷に追われたイザナキが桃の実を投げつけて退散させる話がある。因みに桃の実が成る季節は初夏である。蘇我馬子が無くなったのは旧暦の五月二十日で、その月の内に葬られて居るのでこれはほぼ符合して居る。

 天智天皇が実は蘇我馬子の孫であると云う事は古代史の問題に留まら無い。天皇家の正当性にも関わる極めて重要な事であるのでここは十二分な検証をして置きたい。

 『日本書紀』にみる中大兄皇子と蘇我馬子の関係

 天智天皇が蘇我馬子の孫である事は『日本書紀』の記述の中からも窺う事が出来るのでここでは幾つか列挙してみよう。先ず、天智天皇の父、舒明天皇の即位の話から。

 推古天皇三十六年(六二八)三月七日に長い間天皇の位にあった推古天皇が崩御した。本来推古天皇の後継者は聖徳太子だったが、既に聖徳太子は六年前に亡く為って居る。推古天皇は生前に自分の後継者をハッキリとは決めていなかったので当然次の天皇選びが問題と為った。
 候補者は田村皇子(後の舒明天皇)と聖徳太子の子で山背大兄皇子の二人である。後継者を巡って、田村皇子を推す蘇我蝦夷と山背大兄皇子を推す馬子の弟と言われる境部臣摩理勢が対立するが、蘇我蝦夷は境部臣摩理勢を殺害し、その結果蝦夷の押す田村皇子が天皇に即位する訳だが、しかしこれは実に奇妙な話である。

 何故なら山背大兄皇子の父は聖徳太子、母は馬子の娘の刀自古娘だから山背大兄皇子は蘇我氏の同族と言って好い程蘇我氏の血の大変濃い皇子である。
 一方田村皇子の父は押坂彦人大兄、母は糠手姫皇女だから、押坂彦人大兄を敏達天皇の太子とする『日本書紀』の記述に従えば蘇我氏とは血の繋がりは全く無い事に為る。
 蘇我氏は天皇家との血縁関係を重視し、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と次々と蘇我氏と血の繋がりがある天皇を擁立して権勢を保持して来たのに、ここで山背大兄皇子を外し蘇我氏と血縁関係の全く無い田村皇子を天皇に擁立するなどと云う事は考えられ無い事である。

 蘇我蝦夷は田村皇子が敏達天皇の孫では無く蘇我馬子の子だったから天皇に推挙したのである。次に大化改新の切っ掛けと為った大化元年(六四五)六月十二日に起きた乙巳の変の話しである。

 この事件で飛鳥板蓋宮に於いて中大兄皇子達によって蘇我入鹿が暗殺された訳であるが、事件に関わった人物の中では中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)の名は歴史の教科書に必ず載って居るので好く知られて居る。しかし、この事件にはもう一人重要な人物が関わって居る。
 その人物とは蘇我倉山田石川麻呂である。彼は蘇我馬子の孫だから蘇我入鹿とは従兄弟の関係と云う事に為る。蘇我本宗家滅亡には蘇我氏自らも関わって居た訳で、この事だけでもこの事件が只単に中大兄皇子達が天皇を蔑ろにして専横を極める蘇我本宗家を滅ぼしたと云う単純な図式で無い事が判る。

 蘇我入鹿殺害後、急を聞いた東漢氏の一族が武装して集まって来るのだが彼等の動きには興味深いものがある。東漢氏は明日香村の檜隈の地(天武、持統天皇陵や高松塚古墳のある付近)に居住し、主に政治や軍事面で活躍した、蘇我氏の配下とも云うべき渡来系の雄族で、蘇我蝦夷や入鹿の館の警護も彼らが担って居た。征夷大将軍として名高い坂上田村麻呂はこの東漢氏の末裔である。

 東漢氏は飛鳥時代に起きた様々な事件に実働部隊として「大活躍」して居たらしく壬申の乱の後、天武天皇に「七つの不可」、即ち七つの大罪を犯したとして大叱責を受ける嵌めに為った程だ。
 主が殺害されたのだから彼等と中大兄皇子達との間に戦いが始まっても可笑しく無いのだが不思議な事に戦いは起こら無かった。当初彼等は蝦夷を助ける為集まり戦おうとするのだが、蘇我の一族の高向臣国押に「我等は入鹿の罪によって殺されるだろう。蝦夷も今日、明日にも殺される事は決まって居る。されば誰の為に空しく戦い、皆処刑されるのか」と説得され戦わずに散ってしまったと云うのだ。何とも連れ無い話である。
 既に入鹿が殺され、残されたのは高齢で病気勝ちの蝦夷とあっては、このまま最後まで蝦夷を守る為に戦って滅ぶより大海人皇子の再起に賭けたのだろう。その後壬申の乱で彼等は活躍する事に為る。

 東漢氏を説得した高向臣国押だけで無く、蝦夷の館を攻めた将軍の巨勢徳陀臣も高向氏と同様に蘇我氏の一族だから、中大兄皇子側には多くの蘇我の一族が味方に付いて居ただけでは無く事件では中心的な役割を果たして居た事に為る。蘇我の宗本家は中大兄皇子と蘇我の一族に依って滅ぼされたと言って好い程だ。事件は蘇我氏の内紛だったのである。

 事件の二年前に蘇我入鹿は皇位継承を巡って対立して居た山背大兄王の一族を滅ぼして居る。それを聞いた蘇我蝦夷は「アア、入鹿は何と愚かな事をしたのだ。お前の命も危ういものだ」と激怒した。山背大兄王の一族を滅ぼした事で蘇我入鹿は蘇我一族の中でスッカリ孤立してしまって居たのである。

 入鹿殺害後、中大兄皇子達は蘇我氏の氏寺と言って好い飛鳥寺(法興寺、元興寺とも云う)に陣を設営したが、この時全ての諸々の皇子、諸王、諸卿大夫、臣、連、伴造、国造等がこれに従って居る。中大兄皇子達は彼等に服属を要求し、その場として近くにある皇極天皇の宮殿では無く飛鳥寺を選んで居る。自分達が蘇我宗本家に取って代わり蘇我馬子の後継者に為った事を誇示する為と考えられる。
 
 この後天智朝、天武朝に於いて飛鳥寺は外交、政治の重要な舞台として度々登場する。更に、事件の約2ヶ月後の八月八日に、事件の直後、退位した皇極天皇の後に即位した孝徳天皇は使いを飛鳥寺に使いを遣わし、僧尼を集めて次の様に詔を出して居る。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 欽明天皇の一三年に百済の聖明王が仏法を我が国に伝えた。この時、群臣達は皆これを広めようとし無かった。しかしながら蘇我稲目宿禰は一人その法を受け入れた。
 天皇は稲目宿禰に詔して、その法を信奉させた。敏達天皇の世に、蘇我馬子宿禰は父の遺風を尊重して、仏の教えを重んじた。しかし他の臣は信じ無かった。その為仏法は殆ど滅びようとして居た。
 天皇は馬子宿禰に詔して、その法を信奉させた。推古天皇の世に馬子宿禰は天皇の為に、丈六の繍像、丈六の銅像を造った。仏教を顕揚し、僧尼を慎み敬った。 自分は更に又、正教を崇め、大きな道を照らし開こうと思う。
 沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙を以て、十師とした。別に恵妙法師を百済寺の寺主にした。この十師達は、多くの僧を教え導き、釈教を修行する事、必ず法の如くせよ。
 およそ天皇より伴造に至る迄の人々の造った寺が、営む事が難しければ、自分が皆助けて遣ろう。今、寺司達と寺主とを任命する。諸寺を巡って、僧尼、奴婢、田畑の実情を調べて、全て明らかにして奏上せよ
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 要するに、天皇は蘇我蝦夷・入鹿の暗殺事件の直後でありながら、入鹿の祖父の蘇我馬子や祖祖父の蘇我稲目の仏教に於ける功績を大いに賞賛し、そして自分も彼等に習って仏教を尊ぶ事を表明して居るのだ。
 天皇が賞賛して居たのは日本で仏教を広めたとされる聖徳太子では無いのである。歴史学者は蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこの様な詔が出されるのは実に奇怪な事だと言って居る。『日本書紀』に従うならば全くその通りであろう。しかし蘇我馬子は中大兄皇子や孝徳天皇の祖父なのだから何ら奇怪な話しでは無いのである。

 又、天智天皇三年(六六四)の六月に

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        嶋皇祖母命薨りましぬ
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 とある。天智天皇の祖母(敏達天皇の娘の糠手姫皇女)が死んだと云う記事なのだが、名前に「嶋」と付いて居る事に注意して貰いたい。蘇我馬子は「嶋大臣」とも呼ばれて居たと云う事が『日本書紀』に記載されている。
 これは蘇我馬子の邸宅に池があり、その池の中に小さな嶋が築かれて居た事からその様に呼ばれて居たと記載されて居るが、天智天皇の祖母に「嶋」と付いて居るのは祖母が蘇我馬子の妃であった事を示して居るのでは無いだろうか。  

 中大兄皇子は皇太子の時にその宮殿(飛鳥稲淵宮)を蘇我馬子の邸宅の近くに建てて住んで致し、大海人皇子も壬申の乱の時吉野へ向かう途中、嶋の宮に宿泊して居る。嶋の宮はこの蘇我馬子の邸宅の事で、飛鳥に於ける大海人皇子の宮殿であった。

 天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子も同様に嶋の宮に居を構えて居る。即ち次期皇位継承予定者は次々と蘇我馬子の邸宅があった所に住んで居た事に為る。次期皇位継承予定者に取って嶋の宮に住む事は、自分が蘇我馬子の正統な後継者で次期の天皇である事を世間に認知させる為に必要な事だったと考えられる。
 更に、天智天皇十年(六七一)九月に天智天皇は病に臥す。翌十月に、天皇は使いを遣わし、袈裟、金鉢、象牙、沈水香、栴檀香、及び数々の珍宝を飛鳥寺に奉納して居る。詰まり自らの病の平癒を飛鳥寺に祈願して居るのである。父母に縁のある百済寺や川原寺では無く飛鳥寺なのである。

 飛鳥寺は蘇我馬子の発願によって建てられた蘇我氏の氏寺である。崇峻天皇を殺した人物が建て、天皇を蔑ろにして専横を極めたとされる一族の氏寺に天智天皇が自らの病の平癒を祈願して居たのだ。天智天皇は蘇我の一族であると見なければこの様な天智天皇の行動は到底理解する事が出来ない。
 天智天皇の死の直前、大友皇子は近江京の内裏の西殿に於いて主な臣下を集め、忠誠を誓わせて居る。その顔触れは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣である。紀氏も高向氏や巨勢氏同様、蘇我氏の一族だ。即ち中臣鎌足の従兄弟と言われる中臣金連を除けば他は全て蘇我氏とその一族と云う事に為る。皇子や王等の皇族すら一人も入って居ない。

 天智天皇は主な重臣を蘇我氏とその一族で固めて居た訳で、この事からしても天智天皇は蘇我の一族である事が判ろうと云うものだ。そうで無ければこれ程蘇我氏に偏った人事を行なう必要は何処にも見い出す事はできない。

 以上の事から舒明天皇は蘇我馬子の子であり、天智天皇は蘇我馬子の孫である事は十分理解して頂けたと思う。もし天智天皇に蘇我氏と全く血の繋がりが無いと云う事なら飛鳥時代、飛鳥にはおおよそ理解し難い様な思考の持ち主ばかりが居たと云う事に為ってしまうだろう。

 その15につづく



 古代からのお話し その13


 その13

 第四章 天武天皇と壬申の乱
 
 大国主神とスサノオの関係

 ここで注目して頂きたいのはスサノオと大国主神の系譜上の関係である。ここから実に驚くべき事が判明する。『古事記』ではスサノオと大国主神の関係は次の図の様に為って居る。      
                     
 スサノオの系譜はスサノオと正妻のクシナダヒメの間から六代後に大国主神に繋がって居る。『日本書紀』の正伝では、大国主神はスサノオの子とされて居るし、異伝では五代後又は六代後の子孫とされて居る。
 それも単なる子孫では無い。六代もの長きに渡って途中で枝分かれする事無くそのまま、真っ直ぐ大国主神まで繋がって記述されると云う大変判り易く、しかも特異な形と為って居る。即ち大国主神は、スサノオの直系の子孫なのである。

 そうすると、大国主神の正体は天武天皇、スサノオの正体は蘇我馬子と考えられるから天武天皇は蘇我馬子の直系の子孫だったのでは無いだろうか。そうで無ければ天武天皇はこの様な系図の書き方はしないだろう。
 恐らく天武天皇は、自分は蘇我氏の嫡流であると強く意識して居たのでは無いだろうか。蘇我氏の嫡流は、馬子の次は子の蝦夷、そして孫の入鹿と続き、それ以降の記録は存在しないが、天武天皇が蘇我氏の嫡流と為ると世代から考えて蘇我入鹿の次と考えて好いだろう。即ち天武天皇は実は蘇我入鹿の子だったのでは無いだろうか。

 『日本書紀』で天武天皇は兄の天智天皇や間人皇女と共に舒明天皇と皇極天皇(後に重祚して斉明天皇、重祚とは一度退位した天皇が再度即位する事)の間の子であると明記されて居るから、これは明らかに『日本書紀』の記述とは大きく異なる事に為る。
  
 天武天皇出生の謎

 天武天皇は実は蘇我入鹿の子だったのでは無いか、と云うとビックリ仰天された読者も多いのでは無いだろうか。実はこの天武天皇の出生に付いて、強い疑問が主に在野の歴史研究者からだが、近年次々に出されて居る。 
 『日本書紀』では天武天皇と天智天皇は共に父が舒明天皇・母が皇極天皇の実の兄弟とされて居るのだが、実はそうでは無いのでは無いかと云うのである。
 最初にこの疑問を提出したのは歴史作家の佐々克明氏である(「天智・天武は兄弟だったか」『諸君』 文藝春秋社 一九七四)。因みに、氏は危機管理で有名な元内閣安全保障室長の佐々淳行氏の兄である。それは次の様な理由による。

 先ず『日本書紀』では天武天皇は天智天皇の弟として居るが、後世の文献を調べると天武天皇と天智天皇の兄弟関係が逆転してしまうのだ。『日本書紀』によれば、天智天皇は父の舒明天皇が舒明天皇十三年(六四一)に亡く為った時「東宮開別皇子(天智天皇)、年十六にして誄をされた」とある。
 「誄」とは今で言うと葬式で述べられる弔辞の事だが、舒明天皇十三年に十六歳と云う事は天智天皇が崩御(六七一年)した時は四十六才だった事が判る。一方、天武天皇に付いては『日本書紀』に年齢の記載が全く無い。只朱鳥元年(六八六年)九月九日に崩御したと記されて居るだけだ。

 天武天皇の命で『日本書紀』に至る国史の編纂が開始されたとされ、天武天皇の記載に関して『日本書紀』は三〇巻中二巻を費やして居る。一代の天皇に二巻を費やして居るのは天武天皇のみで、一巻は壬申の乱を中心とした即位に至る経緯を、もう一巻は即位後の事跡を記している。
記載が最も多いにも関わらず、年齢に関する記載が全く存在しないのである。

 処が後世の歴史書『一代要記』(鎌倉中期成立)や『本朝皇胤紹運録』(南北朝時代成立)等には没年齢が記載され、それによると天武天皇の没年齢は六五歳と為って居る。
 天武天皇の没年齢を六五歳とすると、天武天皇が崩御したのが朱鳥元年(六八六)だから、天智天皇が崩御した十五年前には天武天皇は五十才だった事に為る。

 そう為ると天武天皇の方が天智天皇より四歳年上と云う事に為ってしまい、『日本書紀』の記述と食い違う事に為ってしまう。その為六五歳を五六歳の写し間違い、或いは錯誤とする説が出され、これだと年齢の矛盾は無く為り、どうした訳かこの説が今では通説と為って居る。しかしアラビア数字なら兎も角、漢数字での記載にこの様な写し間違い、錯誤は考え難く、この様な解釈はかなり無理がある。
 天智天皇と天武天皇以外の天皇ではこの様な矛盾は生じてはいないので天智天皇と天武天皇の兄弟関係に不審が持たれたのである。更に不可解なのは、天智天皇の娘が四人(大田皇女・鸕野讃良皇女・新田部皇女・大江皇女)も天武天皇に嫁いで居る事だ。

 この時代は朝廷内に於いて血統が重視される余り近親結婚が大変多く、例えば古人大兄皇子の娘の倭姫皇女は古人大兄皇子の異母弟の中大兄皇子に嫁いで居るし、天武天皇の母の斉明天皇は叔父の舒明天皇に嫁いで居る。又、天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子は母の異母妹の阿閉皇女(後の元明天皇)を后として軽皇子(文武天皇)氷高皇女(元正天皇)を設けて居る。
 しかし、兄の娘が実の弟に四人も嫁いだと言うのは如何にも異常である。何より兄が実の弟に娘を四人も嫁がせ無ければ為らない理由が見あたら無い。そこから天智天皇と天武天皇は実の兄弟では無く、天智天皇が娘を四人も嫁がせたのは、大海人皇子との争いを避け自分の側に引き着けて置く為の政略結婚なのでは無いかと見られたのだ。実の兄弟ならこの様な政略結婚は必要無いと言う訳である。

 天智天皇と天武天皇は異父兄弟

 ではこの兄弟は実の兄弟では無いとすると、どの様な兄弟だったのだろうか。蘇我入鹿は中大兄皇子によって暗殺されて居るので、大海人皇子の父が蘇我入鹿と云う事なら父が同一と云う事は有り得無いだろう。一方『古事記』の話の内容からみて天武天皇は、天智天皇とは兄弟であると云う認識は持って居るので、この事から母は同じと見て好い。父が違うのに母まで違って居たら兄弟では無く為ってしまうからだ。
 『日本書紀』の天武天皇即位前紀にも天武天皇は天智天皇の同母弟であると明記されて居る。即ち天武天皇と天智天皇は、母は同じでも父の異なる異父兄弟だったのでは無いだろうか。この事に関して『日本書紀』の斉明紀の初めに次の様な注目すべき記載がある。

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 天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)は、初めに用明天皇の孫高向王に嫁いで、漢皇子をお生みに為った。
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 斉明天皇は最初に用明天皇の孫の高向王に嫁いで漢皇子と云う皇子を産み、その後、天智天皇の父の舒明天皇と再婚したと云うのだ。ワザワザ書か無くても好い様な記事である。前述した二つの奇妙な記述もそうであったが、無用とも思える様な記事がさり気無く書かれて居ると云うのが『暗号』の特徴の一つである。この様な記事には注意し無ければ為らない。

 高向王の名は『日本書紀』のここにだけ見える名で、王と為って居るので皇族であると思われるが、他の文献には高向王の名は全く存在しない。歴史研究家の小林惠子氏がその論文「天武天皇の年齢と出自について」(「東アジアの古代文化」一六号)で、この漢皇子が大海人皇子では無いかとの説を出して以来、この説を唱える研究者が増えて居る。小林惠子氏は、この漢皇子は大海人皇子の別名では無いかと考えたのである。 
 天智天皇も中大兄皇子の他に葛城皇子とか開別皇子と言った名前があり、天武天皇が複数の名前を持って居たとしても何ら不思議な事では無い。筆者も大海人皇子と中大兄皇子は異父兄弟で、漢皇子は大海人皇子の別名であると考えて居る。

 そうすると天武天皇の父は蘇我入鹿と考えられるので、皇極帝の前夫の高向王は蘇我入鹿と云う事に為る。即ち『日本書紀』は蘇我入鹿とその別名の高向王を恰も別人の様に記し、蘇我入鹿を蘇我氏の系図に、そして入鹿の別名の高向王を皇統譜に記して居たと考えられるのである。

 地獄に墜ちた皇極天皇

 蘇我入鹿が皇極天皇の前夫の高向王とすると、大化元年(六四五)六月十二日に起きた乙巳の変(大化の改新)で、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮大極殿に於いて中大兄皇子達に暗殺されるのだが、蘇我入鹿は何と気の毒な事に元妻の皇極天皇の眼前で、天皇の再婚相手(舒明天皇)との子である中大兄皇子に惨殺された事に為る。
 これでは蘇我入鹿も堪ったものではあるまい。このまま黙って成仏する訳にも行か無いだろう。この様な時古今東西、人間の考える事は決まって居る。それは「化けて出てやる」だ。蘇我入鹿もそれを実行に移して居る。

 『日本書紀』の斉明天皇元年(六五五)五月一日条に

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 空に竜に乗ったものが現れた。その容貌は唐の人に似て居た。油を塗った青い絹で作られた笠を着け、葛城山の方から空を馳せて生駒山の方向に隠れた。正午頃に住吉の松嶺の上から西に向かって馳せ去った。
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 斉明天皇七年(六六一)五月九日条には 

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 宮殿内に鬼火が現れた。この為大舎人や近侍の人々に、病気に為って死ぬ者が多かった。
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 更に斉明天皇が朝倉宮(福岡県朝倉町)にて崩御した後、斉明天皇七年八月一日条には

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 この宵、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗き見て居た。人々は皆怪しんだ。
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 怪人が空を飛び回って居たり、斉明天皇の周辺に鬼火や鬼が現れたりと、現実にこの様な事が起きて居たとはとても思え無いが、斉明天皇に前夫の殺害に関わったと云う忌わしい過去が存在する事を『日本書紀』の編纂者はこの様な不吉な『暗号』として書き残して居たのだろう。
 又、長野県に本田善光を開祖として皇極天皇(斉明天皇)の勅願によって創建されたと言われる善光寺がある。この善光寺に仏教の誕生から日本への伝来、善光寺創建の経緯を語った有名な『善光寺縁起』があり、この縁起の中にも皇極天皇に関する記載がある。それはこの様な物語だ。

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 善光の嫡子善佐が突然死んだ為、悲しみに暮れた善光夫婦は、善佐の命を救って呉れる様如来に祈願した。
 そこで如来は地獄の閻魔大王に掛け合う事に為った。そして夫婦の願いが叶い、善佐はこの世に帰る事に為ったのだが、その途中で善佐は地獄に堕ちて地獄の責苦に遭って居た高貴な女性と出会う。
 女帝の皇極天皇である。このいとやんごと無きご婦人を是非お救い下さる様善佐は如来にお願いし、如来はお供の観世音菩薩を閻魔大王に遣わし救って呉れる様乞うのだが、女帝の罪状は重いのでそれは不可能であると拒否されてしまった。
 しかし何とか願いが叶って二人とも生き返る事が出来た。娑婆に戻る事が出来た皇極天皇は大変感謝し、善佐を甲斐の国司に任じ、善光を信濃の国司として、勅願によって善光寺を創建した。
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 皇極天皇は地獄に堕ちて居たとは散々な書かれ様であるが、地獄に堕ちた具体的な理由は書かれていない。皇極天皇が地獄に堕ちたのは以上の様な事情があったのである。         
 又奈良県桜井市の藤原鎌足を祀る談山神社に伝わる多武峯縁起絵巻(室町時代)の蘇我入鹿暗殺場面の絵には中大兄皇子によって切り落とされた蘇我入鹿の首が後ろ向きに為って逃げ様とする皇極天皇に向かって飛んで行く、一寸不気味な絵が描かれて居る。
 恐らく蘇我入鹿暗殺の真相はかなり後世迄一部で密かに語り継がれて居たのだろう。この様な醜聞めいた噂話はナカナカ消えて無く為らないものだ。『暗号』は様々な処で多くの人々によって残されて居たのである。

 この蘇我入鹿暗殺事件は皇極天皇に取って大きな衝撃だったに違い無い。事件後直ぐに天皇は退位してしまった。そして斉明天皇の晩年は精神的に不安定だったらしく奇行が目立つ様に為る。『日本書紀』の斉明天皇二年(六五六)にはこの様な記載がある

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 多武峯に、周りを取り巻く垣を築かれた。又頂上の二本の槻の木の傍に高殿を建てた。名付けて両槻宮と言った。又天宮とも言った。天皇は工事を好まれ、水工に香久山の西から石上山まで溝を掘らせた。舟二百隻に石上山の石を載せ、水の流れに従って引き、宮の東の山に石を積み垣とした。
 時の人はこれを非難して、「戯れ心の溝工事。無駄に人夫を三万余も費やした。垣造りの人夫の無駄は七万余。宮材は腐り、山頂は埋もれた」と言った。又「石の山岡を作る。作った端から壊れるだろう」と非難する者も居た。
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 多武峯を中心に石垣を張り詰めた様な異様な構造物を次々に建造し、斉明天皇の戯れ心だと言って人々の顰蹙を買ったと云うのだ。この時斉明天皇が作った宮の遺構が明日香村に遺されて居る。明日香村岡の「酒船石遺跡」である。
 「酒船石遺跡」は伝飛鳥板蓋宮跡の東方、謎の石造物・酒船石がある丘陵で、平成十一年十一月からの発掘調査で亀型の石造物や大規模な石垣の遺構の一部が見つかり全国的な話題に為ったので覚えて居られる方も多いと思う。

 天智天皇は父の仇

 又、天武天皇が蘇我入鹿の子だったとすると、天武天皇に取って天智天皇は、父の仇と云う事に為る。『古事記』に於いて天武天皇が兄の天智天皇を扱き下ろして居るのもこれが原因と見て好いだろう。
 父の仇とは言え、一方では母を同じくする血の繋がった兄弟だから母の目の前で敵討ちをする訳にも行かず『古事記』の中で立派で無い人物を天智天皇をモデルに描く事によって鬱憤晴らしをしたと云う処では無いだろうか。
 又、乙巳の変に於いて中大兄皇子達は蘇我蝦夷・入鹿の殺害には成功したが、大海人皇子は逃がしてしまったのだろう。この様な事態は周到な計画を立てて居た中大兄皇子に取っては計算外の事であった。従って、その後の関係改善の為、次々と自分の娘を大海人皇子に嫁がせたものと思われる。

 中大兄皇子と共に入鹿の殺害に加わった中臣鎌足も同じく自分の娘の、藤原氷上娘と藤原五百重娘の二人を大海人皇子に嫁がせて居る。一方、鎌足は中大兄皇子には娘を一人も嫁がせて居ない。中臣鎌足は乙巳の変の首謀者の一人だから大海人皇子には特に気を遣わざるを得無かったのだろう。
 しかし、この位では大海人皇子の怒りは収まら無かったらしく、天智天皇の即位を祝う宴で、大海人皇子が突然長槍で敷板を刺し貫き、激怒した天皇は大海人皇子を殺そうとしたが、中臣鎌足の必死の執り成しで事無きを得たと云う話が『大織冠伝』(鎌足の伝記)に記載されて居て、この事件以降、それ迄中臣鎌足を嫌って居た大海人皇子は鎌足に対する考え方を改めたと言われて居る。

 何故中大兄皇子は長年即位出来無かったか

 中大兄皇子は孝徳天皇の時、皇太子とされながら、孝徳天皇崩御の後、中大兄皇子は天皇に即位せず、母が重祚して天皇に即位する。斉明天皇没後は、七年間も即位せずに政務を執って(称制と云う)居り、足掛け23年間も皇太子のままであった。これは古代史の大きな謎とされて居る。
 この謎は大海人皇子が蘇我入鹿の子と考えれば容易に説明する事が出来る。蘇我馬子や蘇我蝦夷がそうだったが、蘇我の宗本家は皇位継承の決定権を握って居た。中大兄皇子は天皇に即位したくても蘇我宗本家に当たる大海人皇子の同意無しには即位する事は出来なかったのでは無いだろうか。
 恐らく父の仇である中大兄皇子の天皇即位を大海人皇子は簡単には承認し無かったのだろう。そこで仕方無く二人の母の皇極天皇が再度斉明天皇として即位したものと思われる。

 斉明天皇六年(六六〇)に百済が唐に攻められて滅亡し、百済復興を目指し斉明天皇は九州の筑紫の朝倉宮に移るが間も無くそこで崩御した。
 その後、孝徳天皇の皇后で中大兄皇子の実妹の間人皇女が天皇の地位を代行して居た(中皇命として万葉集に登場する)と思われるが、その間人皇女も天智天皇四年(六六五)に没し、中大兄皇子以外には天皇に即位出来る人物はいなく為る。

 天皇位は空位に為り、誰も即位しないまま中大兄皇子が政務を執り続けるが、百済復興を目指し朝鮮半島に派遣した日本軍が白村江の戦い(六六三年)で大敗し、国防の強化を迫られるに及び、流石に何時までも天皇を空位にして置く訳にもいかず、中大兄皇子の天皇即位(六六八年)を大海人皇子は渋々了承したのではないかと筆者は考えている。

 壬申の乱は何故起きたのか

 大海人皇子が蘇我入鹿の子と為ると壬申の乱の原因も考え易く為る。壬申の乱は皇位に野心を持って居た大海人皇子と、天智天皇の子で皇太子の大友皇子が天智天皇の崩御後、皇位継承を巡って戦ったと云うのが通説と為って居て教科書にもそう説明されている。しかし筆者はこの説には全く従え無い。
 何故なら大友皇子の妃は大海人皇子の娘の十市皇女である。しかも額田王との間に生まれた大海人皇子に取っては最初の子で、彼女に対する思いは一入だった筈。しかも二人の間には葛野王と云う子も生まれて居た。

 古代に於いて妃や母の実家は天皇に取っては重要な政権基盤だったから大海人皇子は天皇に即位しなくても大きな影響力を行使出来る立場にあった筈だ。現に後の藤原氏はこの様な形で権勢を誇って来た。
 天智天皇からの即位の要請を断り、出家した大海人皇子が大友皇子を倒してまで皇位に就きたいと思って居たとは考えられ無いのである。

 一方大友皇子に取って、大海人皇子は叔父であると共に義父にも為る。大友皇子の母は伊賀国出身の妥女(地方豪族から天皇に献上された身分の低い女官)だから母方の実家の実力は知れている。
大友皇子に取って強力な後ろ盾になり得るのは妃の父の大海人皇子しかいなかった筈である。大友皇子は大海人皇子との関係を重視しこそすれ殺害しなければなら無い理由は無い。大海人皇子が居なくなると一番困るのは大友皇子自身である。

 では何故壬申の乱は起きたのであろうか。蘇我入鹿や蝦夷が殺害された乙巳の変では中大兄皇子や中臣鎌足以外にも多くの者が事件に関わって居たと考えられる。それらの者達やその関係者は天智朝において未だ多く居たと考えられ、彼等は大海人皇子の存在を恐れて居たのでは無いだろうか。
 大海人皇子が吉野へ出家する際に、宇治まで見送りに来た重臣達の誰かが「翼を着けた虎を野に放した様なものだ」と言ったのはその現れだ。「虎」は強くて恐ろしいものを象徴して居る。その虎を自由にしてしまった事を重臣達は不安に思って居たのである。

 更に天智天皇の死後、大友皇子の政権基盤の脆弱さに着け込み、政治の実権を握る事も考えて居た彼等に取って、大海人皇子は何としても排除して置きたい存在だったと思われる。
 天智天皇の崩御後、彼等は大海人皇子の殺害を共謀し、大友皇子はそれに巻き込まれたと云うのが事件の真相だったのでは無いだろうか。

 『日本書紀』の中でも大海人皇子とその臣下は、大海人皇子の殺害を謀って居るのは近江朝の廷臣であると言って居り、大友皇子だとは一切書かれて居ない。
 寧ろ大友皇子は大海人皇子殺害には消極的だった様で、大海人皇子が東国に脱出した直後、大海人皇子を急追する様臣下から進言を受けたが大友皇子はそれには従わ無かったと『日本書紀』には記されて居る。

 この事に関してNHKの某歴史番組の中で大友皇子は大海人皇子を追撃せずに寧ろ堂々と戦いを挑み、大海人皇子だけで無くその支持勢力をも一掃しようと考えて居たとのコメントがされて居たが、当時の近江朝廷の状況を全く無視した内容にビックリした。
大海人皇子が近江から吉野に向かったと云うだけで不安に戦き、東国に脱出したと聞かされて大騒ぎに為った近江朝廷側にその様な余裕があるとは思え無い。

 この様な場合には例え失敗に終わろうとも、一刻も早く追撃し、相手の戦力が不十分な内に決戦に持ちこむと云うのが戦いの定石だ。臣下の進言に従わ無かった大友皇子には大海人皇子と戦うと云う積極的な意志は無かったと見るべきである。

 大友皇子の后、十市皇女の父である大海人皇子も同じ気持ちを持って居たと思われる。大海人皇子が天智天皇から即位する事を打診された時、大海人皇子は即位を断ると共に皇后を天皇に即位させる事を進言して居る。
 天智天皇が崩御した後、その重臣達との間に戦いが起こり得る事は大海人皇子も十分覚悟して居ただろう。もしそう為った場合、女帝なら傍観する事も可能で少なくとも命を落とす事は無いだろうが、大友皇子が天皇に即位して居たのではその立場上、戦いに巻き込まれざるを得無いのである。

 有間皇子の殺害にも関わり、重臣達の中で最高位の左大臣蘇我赤兄を中心とする近江朝廷の重臣達と大海人皇子の権力闘争だったと云うのが壬申の乱に対する筆者の考えである。

 乱の後、天武天皇は、若くして自ら命を絶つ事に為ってしまった大友皇子を不憫に思って居た様で、大友皇子には葛野王と大友与多王と云う二人の男子が居たが、二人とも殺される事も流罪に為る事も無かった。
 葛野王は後の持統朝で活躍して居た。又大友与多王は後に父を弔う為寺を建てて居るが、その時に天武天皇から「園城寺」の勅額を賜ったと言われて居る。勅額を賜ったと云うのだから寺の創建に当たってはかなりの支援を受けたのだろう。
 この寺が滋賀県大津市にある湖国切っての名刹として知られる天台寺門宗総本山、園城寺(三井寺)で、大友皇子の墓(弘文天皇陵)はこの寺の近くにある。

 年上の天武天皇が何故弟か

 サテ、大海人皇子が実は皇極天皇が最初に嫁いだ高向王、即ち蘇我入鹿の子だとすると、大海人皇子の方が皇極天皇が舒明天皇と再婚して設けた中大兄皇子より年上だと云う事に為るが、ここで読者は大きな疑問を抱かれた筈だ。
 『日本書紀』の中で大海人皇子は皇弟、大皇弟、或いは皇太弟と書かれて居る。『古事記』の神話や説話の内容からも大海人皇子は、自分は弟であると云う認識を持って居た事が判る。何故大海人皇子は中大兄皇子より年上にも関わらず弟なのだろうか。
 年上の妻と云うのは好く聞く話だが兄より年上の弟と云うのは先ず聞いた事が無い。兄より年下だからこそ弟なのではないのか。大海人皇子と中大兄皇子を異父兄弟とし、大海人皇子を中大兄皇子より年上と見る研究者もこの問題は避けて居る。しかし避けて通れる問題では無いだろう。
 又、大海人皇子が蘇我入鹿の子と云う事なら彼は皇族で無かった事に為る。それなのに何故彼は天智天皇の皇太子と為り、壬申の乱の後、天智天皇の後継者として天皇に即位出来たのであろうか。

 この謎を解き明かす為に更にスサノオについて調べて行きたい。

 その14につづく

古代からのお話し その12


 古代からのお話し その12 


 ヤマタノオロチの正体は誰か

 一方、スサノオに退治されたヤマタノオロチの正体は何者であろうか。幾ら何でもヤマタノオロチの様な怪物があの様な姿で実在して居たとはとても思え無い。かと言ってヤマタノオロチは簸川の氾濫を象徴したものだとか製鉄に関係があると言う様な通説も子供騙しに過ぎ無い。スサノオ同様実在した誰かを象徴したものと考えて好いだろう。
 有難い事に『日本書紀』の編纂者はここに『暗号』を用意して呉れて居る。スサノオがヤマタノオロチを倒した後、切った尾の中から草薙の剣が出て来るが、この剣について『日本書紀』にこの様な記載がある。

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 元の名は天叢雲剣と云う。大蛇の居る上に、常に雲があった。それ故にこの様に名付けられたが、日本武尊の時に、名を草薙剣と改めたと云う。
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 草薙剣は以前、天叢雲剣と呼ばれて居たと云うのがそれである。大蛇の居る上に常に雲があったのでそう名付けられたと云うのは『日本書紀』に好くあるコジツケだろう。「天叢雲」の名はここ以外には『古事記』、『日本書紀』に登場しないが、この名が登場する文献がある。それは『先代旧事本紀』である。
 『先代旧事本紀』は平安時代の初めに物部氏の関係者によって書かれたとされる歴史書で、序文の本書成立に関する記述に疑いがある事から偽書とされた事もあるが『古事記』、『日本書紀』に無い記事も多く古代史研究では無くてはならない文献の一つとされて居る。その『先代旧事本紀』の中の天孫本紀にこの様な記述がある。

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 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天道日女命を妃として、天上に天香語山命が誕生した。 ・・・・(中略)・・・・・・天香語山命、異妹穂屋姫命を妻として一人の男子を生んだ。天村雲命と云う。
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 又京都府北部の丹後半島の付け根には日本三景の一つとして知られる天の橋立があり、その近くに「元伊勢」として知られる籠神社がある。        
 伊勢神宮の外宮が元々この地にあったと言われて居る事からその様に呼ばれて居るのだが、この神社に日本最古の系図と言われる宮司の海部氏の系図(国宝)が伝わって居る。その系図によれば、「始祖彦火明命の御子の天香語山命が穂屋姫命を娶り、天村雲命を生む」とある。
 「天村雲」と「天叢雲」はどちらも「あめのむらくも」と読む。海部氏の始祖の彦火明命は『先代旧事本紀』の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の事で、物部氏の始祖として好く知られていて、共にその三代目に「天村雲」の名が登場して居る。
 恐らく天叢雲剣はこの天村雲命に由来する、物部氏に代々伝わって居た神剣だったのでは無いだろうか。従ってこの天叢雲剣を尾の中に隠し持って居たヤマタノオロチは物部氏の誰かを象徴したものでは無いだろうか。

 即ちスサノオがヤマタノオロチを退治した話は蘇我氏の誰かが物部氏の誰かと戦い、これを打ち倒した事を象徴する神話だと考えられるのである。
 物部氏の誰かを打ち倒した蘇我氏の誰かと為ると誰もが直ぐに思い着くのは、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が戦った丁未の役の事だろう。即ちスサノオの正体は蘇我馬子で、ヤマタノオロチの正体は物部守屋なのでは無いだろうか。

 スサノオがヤマタノオロチを退治した神話は、蘇我馬子が物部守屋と戦い勝利した事を神話として書いたものなのだろう。
 神話の中で、崇仏派の蘇我馬子が神道の最高神の一人スサノオで、物部守屋は怪物のヤマタノオロチにされて居る訳でこれでは、日本古来の宗教を守ったとされる排仏派の物部守屋も真っ青だ。

 蘇我馬子は欽明天皇の大臣を務めた蘇我稲目の長男として生まれ、敏達、用明、崇峻、推古の四代の天皇に大臣として仕え、又仏教を擁護し、広めた功労者としても知られて居る。
スサノオが牛頭天王等の仏教の守護神として習合されて居たのはその正体が蘇我馬子だったからと考えれば好く理解出来る。その蘇我馬子の発願により建てられた飛鳥寺(法興寺、元興寺とも云う)は我が国で最初の本格的な寺院として知らない人は居ないだろう。

 用明天皇二年(五八七)排仏派の物部守屋と用明天皇崩御後の皇位継承を廻って対立、物部守屋と戦って勝利を収め、蘇我氏の全盛時代を築いた飛鳥時代を代表する人物である。
 崇峻天皇を自分の意に添わぬからと言って、弑逆(臣下が天皇を殺害する事。蘇我馬子が崇峻天皇を殺害したのが日本史上唯一の例とされて居る)する等その傍若無人さは推古天皇を悩ませたとも言われて凍て、蘇我蝦夷は馬子の子、蘇我入鹿は孫である事は言うまでも無い。

 草薙の剣(天叢雲剣)は物部氏に代々伝わって居た神剣を物部守屋との戦いの後、戦利品として蘇我馬子が手に入れたものだったのだろう。歴代天皇が継承する三種の神器の一つとして知られる草薙の剣は、蘇我馬子と物部守屋の戦いに由来する神剣なのである。

 朱鳥元年(六八六)六月十日天武天皇が病気に為りその病を占うと、草薙の剣の祟りと出たので、直ぐに尾張国の熱田神宮に送って安置したとの記述が『日本書紀』にあるが、この事からも草薙の剣が物部氏に由来する剣だと判る。
 熱田神宮の大宮司家は平安時代迄は尾張氏が務めて居たが、尾張氏は籠神社の海部氏同様彦火明命の孫の天村雲命の後裔とされる物部氏の一族である。

 天武天皇の病気が草薙の剣の祟りと云う事で剣を元に返す事に為ったのだろうが、物部宗本家は既に守屋で滅びて居るので物部一族の尾張氏に預ける事に為ったのだろう。
 スサノオが蘇我馬子の事と為ると、その后と為ったクシナダヒメは蘇我馬子の正妻で物部守屋の妹と言われる人物の事と考えられる。その名は「太媛」と記録には残され、蘇我蝦夷の母とされて居る。この女性に関して『日本書紀』にはこの様な記述がある。

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 大連とは物部守屋の事である。人々は、物部守屋はその妹と蘇我馬子の計略に嵌まり、その結果、蘇我馬子に討たれたと言って居るのである。ヤマタノオロチにクシナダヒメ達が用意した酒を飲ませ、酔い瞑れた処をスサノオが討つと云うヤマタノオロチを退治する神話もその様な話の展開と為って居る。
 この蘇我馬子の妻が一体どの様な人物であったのか、窺い知るものは殆ど無いが恐らくかなりの実力者だったのだろう。『日本書紀』には蘇我蝦夷はこの母方の財力によって世に勢威を張った事が記されて居る。 

 天照大神のモデルは推古天皇

 スサノオの正体を蘇我馬子と考えると天皇の皇祖神とされるアマテラスは誰の事であろうか。アマテラスも大国主神やスサノオ同様、誰かがモデルに為って居ると見て好いだろう。『日本書紀』ではアマテラスは大日霎貴とも書かれて凍て、この名からアマテラスのモデルは巫女的な女性だったのでは無いかとも言われて居る。

 蘇我馬子と同時代の人物でアマテラスのモデルに為り得る様な女性と云うと、アマテラスがスサノオに取って姉と云う目上の人物として描かれて居る事からも、これは当然推古天皇しか該当する人物は考えられ無い。
 アマテラスと言えば伊勢神宮の主祭神として有名であるが、伊勢神宮の起源は推古朝をより古いと考えられるので、推古天皇がアマテラスとして祀られて居る訳では無い。
 恐らく神話が書かれた時には推古天皇をモデルとして大日霎貴だったものが、その後の政治的事情でアマテラスに差し替えられたのだろう。神話に登場するアマテラスと伊勢神宮に祀られて居る天照大御神は本来、全く無関係と思われる。

 推古天皇は正式に即位した最初の女帝として好く知られて居る。父は第二十九代欽明天皇で十八歳の時、第三十代敏達天皇の皇后と為り、その後第三十三代の天皇に即位(五九二年)した。皇太子で摂政の厩戸皇子(聖徳太子)や大臣の蘇我馬子と共に冠位十二階(六〇三年)・憲法十七条(六〇四年)を次々に制定して、国家の法令・組織の整備を進めると共に仏教興隆に熱心だったと言われて居る。

 推古天皇の母は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)だから稲目の息子の馬子からすると姪と言う事に為るが、馬子は推古天皇の臣下の大臣と云う立場だから推古天皇は馬子に取っては目上と云う事に為る。
 目上の人物を妹や姪とする訳にはいかない。そこでアマテラスは姉、スサノオは弟として書かれる事に為ったのだろう。

 アマテラスの登場する場面は幾つかあるが特に天の岩戸の神話が良く知られて居る。この神話は大変大らかで華やかな神話なので人気があり、神楽などの演目としても良く演じられて居る。では天の岩戸の神話は何を元にして書かれた話だろうか。

 『日本書紀』には推古天皇即位時の事情としてこの様な記載がある。推古天皇紀の即位前紀に

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 十八歳の時、敏達天皇の皇后と為られた。三十四歳の時、敏達天皇が崩御された。三十九歳の時、崇峻天皇五年十一月、崇峻天皇は大臣馬子宿禰の為に弑せられ皇位は空いた。群臣達は敏達天皇の皇后である額田部皇女(後の推古天皇)に皇位を継がれる様請うたが皇后はお受けに為ら無かった。百官が上奏文を奉って尚もお勧めしたので、三度目に至って要約従われた。
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 馬子以下群臣達は崇峻天皇の後継者として額田部皇女に白羽の矢を立て即位を要請したが何度も断られ、三度目にしてやっと受諾させたと云うのである。異母弟の崇峻天皇が蘇我馬子に殺された後、その後釜に指名され、増してや前例の無い女性の天皇とあっては、即位した処で馬子の傀儡にされてしまうのは目に見えて居る。誰だってこの様な状況下で即位したくは無いだろう。
 恐らく彼女は自宅に引き篭もって即位を固辞し続けた筈だ。最後には即位を引き受けたとは言え再三断り続けたのも当然だったろう。この時の事情が天の岩戸の神話に反映されて居るのでは無いだろうか。尚この天の岩戸の神話は日食を連想させる処があり、その事から天文学を駆使、三世紀中頃の卑弥呼の時代に日食があった事を根拠にアマテラスは卑弥呼の事であるとする説が唱えられ、この説は結構広く支持されて居るがアマテラスのモデルは推古天皇と考えられるのでこの説は間違いである。

 邪馬台国に関する多くの著書の中で神話は必ずと言って好い程好く取り上げられるが、『記・紀』の神話には邪馬台国の卑弥呼に関する伝承は一切含まれてはいない。これ迄の説明から『記・紀』の神話はどうやら推古天皇の代から天武天皇の頃までの人間関係と出来事を基にして書かれて居るらしいと云う事がおわかり頂けた筈である。

 出雲神話の最後に有名な国譲りの神話が登場するが、この神話は出雲の勢力が大和朝廷に征服されたと云う歴史上の出来事を反映して居るのではないかと云う事で古代史の研究者にも好く取り上げられる神話である。
 しかしこの神話は大国主神の国作り以降の話と為って居る。と云う事は天武天皇以降の話と云う事に為るのでこの話には何ら歴史的事実は含まれて居ないと見て好い。単に出雲の神話を天皇家の祖先神話と統合する為に創作された話であろう。
 その為だろうか、話自体はスケールの大きな話と為っては居るが、荒唐無稽さばかりが目立ち、他の神話の様に目立った主人公がいない為話が散漫で余り面白い神話とは為って居ない。


 謎の神話『誓約』

 天の岩戸の神話の前に、スサノオとアマテラスの間に一寸不思議な神話が語られて居る。天の安河でのウケヒの神話である。ウケヒは『古事記』では「宇気比」『日本書紀』では「誓約」と表記されている。
 泣き止ま無い為追放される事に為ったスサノオが、追放される前に姉のアマテラスに挨拶する為に高天原に昇るのだが、アマテラスはスサノオが自分の国を奪おうとして居るのではないかと疑い武装して待ち受ける。そこではスサノオはその様な事は無いと云うのだが、アマテラスは信じ無い。そこでスサノオの心が清い事を証明する為に行われるのがウケヒである。占いの一種と考えれば判り易い。

 アマテラスとスサノオはウケヒを行い、アマテラスはスサノオの持って居た十握の剣を使って吹き出した霧の中から三柱の女神を生み、スサノオはアマテラスの持って居た玉を使って吹き出した霧の中から五柱の男神を生む。処がその後、アマテラスはスサノオが吹き出した五柱の男神は、アマテラスの持って居た玉を使って生んだのだから自分の子だと言い、三柱の女神はスサノオの持って居た十握の剣を使って生んだのだからスサノオの子だと言い出したのだ。これを図で表すと次の様に為る。
       
              誓約の神話

 まるでスサノオが生んだ子がアマテラスの養子に為り、アマテラスが生んだ子がスサノオの養子に為った様な話である。天皇の先祖を遡って行くと五柱の男神の一人、オシホミミに辿り着くのでこれではアマテラスとオシホミミは直接には血の繋がりの無い養子の関係に見えてしまう。
 この部分は皇統譜が高天原のアマテラスに繋がって行く大変重要な部分なのでこの部分がこの様な曖昧な形で描かれるのは腑に落ち無い。オシホミミから推古天皇迄の皇統譜はどの様な形であろうと確りと血が繋がった関係で書かれて居るのだから尚更不可解な話である。

 このウケヒの神話は古来よりもっとも謎の多い部分とされて居て、神話学者達もこの解釈に付いては殆ど匙を投げて居る様だ。色々な文献を調べてみたがこの神話に付いて納得の行く解釈をした文献は遂に見当たら無かった。
アマテラスやスサノオに付いては想像逞しく様々な説を展開する歴史作家達もこのウケヒの神話はお手上げらしく巧妙に避けて居る。

 一体この神話には何が隠されて居るのであろうか。又この話は『古事記』の中でも特に荘重に語られる部分でそれだけ天皇家に取っては神聖な神話である事が窺える。
 特にスサノオがアマテラスの持って居た玉を使って五柱の男神を生む場面はこの様な構成に為って居る。

 ****に巻いてあった玉を貰い受け、好く噛んで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、*****。
 ****に巻いてあった玉を貰い受け、好く噛んで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、*****。
 * ***・・・以下同様
 * ***・・・以下同様
 * ***・・・以下同様

 貰い受けた玉を噛み潰し、吹き出した息の中から神が誕生すると云う何とも神秘的な話が繰り返し五回、一切省略する事無く実に丁寧に語られて居る。
 アマテラスがスサノオの十握の剣を使って三人の女神を生む場面はこの様な丁寧な記述はされて居ないので、ここには深い意味が潜んで居ると考えて好いだろう。

 実はこの神話は『古事記』の中でも天皇家の起源に纏わる重大な意味を持った神話なのである。この神話の謎は後に解いてみたい。

  その13につづく

古代からのお話し その11


 古代からのお話し その11


 第三章 スサノオの正体は誰か
 
 八千矛神とスセリビメの石像

 因幡の白兎と大国主神の根の国訪問の話の次には八千矛神の妻問の話が続く。大部分が長編の歌謡で構成され、高志の国(現在の北陸地方)に住む沼河比売に求婚する八千矛神とその妻のスセリビメの嫉妬の話である。大国主神の根の国訪問の神話の最後のヤガミヒメとスセリビメの部分と少し似ている。

 十、八千矛神の妻問

 八千矛神(大国主神)が越国の沼河比売に求婚しようとしてお出掛けに為った時、その沼河比売の家に着いて歌を歌われた。

 八千矛の 神の命は        八千矛の神は 

 八島国 妻枕きかねて傷がで     大八島国中探しても妻を娶る事
 遠遠し 高志の国に        遠い遠い越の国に
 賢し女を 有りと聞かして     賢い女が居ると聞いて
 麗し女を 有るりと聞こして    麗しい女が居ると聞いて 
 さ婚ひに あり立たし       求婚にお出掛けに為り
 婚ひに あり通はせ        求婚にお通いに為ると
 大刀が緒も いまだ解かずて     大刀の下げ緒をいまだ解かぬまま
 襲をも いまだ解かねば       上着も未だ脱がぬまま
 嬢子の 寝すや板戸を        乙女の寝ている家の板戸を押そぶらひ 
 我が立たせれば   押し揺す ぶって 何度も引いてお立ちに為って居ると
 引こづらひ 我が立たせれば    緑の山ではぬえが鳴き
 青山に {ぬえ}は鳴きぬ     野には雉の声が響く
 さ野つ鳥 雉はとよむ        庭の鳥の鶏は鳴く
 庭つ鳥 鶏は鳴く         忌々しくも鳴く鳥よ
 心痛くも 鳴くなる鳥か       叩いて鳴きやめさせてくれよう
 この鳥も 打ち止めこせね      天駆ける使いの者よ
 いしたふや 天馳使         これが事を伝える語り言です
 事の 語言も 是をば        

  とお歌いになった。しかし沼河比売は、まだ戸を開かずに中からお歌いになって

 八千矛の 神の命           八千矛の神

 ぬえ草の 女にしあれば       なよなよとした女の身ですので
 我が心 浦渚の鳥ぞ        私の心は入江の洲にいる鳥のようです
 今こそは 我鳥にあらめ       今はわがままに振る舞っていますが
 後は 汝鳥にあらむを       後にはあなたのものになるでしょうから
 命は な殺せたまひそ       どうぞ鳥たちを殺さないで下さい
 いしたふや 天馳使         天駆ける使いの者よ
 事の 語言も 是をば        これが事を伝える語り言です
 青山に 日が隠らば         緑の山に日が隠れたら
 ぬばたまの 夜は出でなむ     夜にはおいでになってください
 朝日の 笑み栄え来て        朝日のようにはれやかな顔でやって来て
 栲綱の 白き腕           コウゾの綱のように白い腕で
 沫雪の 若やる胸を         沫雪のように若い胸を
 そだたき たたきまながり     たっぷり愛撫して
 真玉手 玉手さし枕き        玉のように美しい私の手を枕にして
 百長に 寝は寝さむを        いつまでもおやすみください
 あやに な恋ひ聞こし        あまり恋いこがれなさいますな
 八千矛の 神の命          八千矛の神
 事の 語言も 是をば        以上が事を伝える語り言です

 とお歌いになった。そしてその夜は会わずに、翌日の夜お会いに為った。しかし、八千矛神の大后のスセリビメは大変嫉妬深い方であった。そこでその夫の神は困惑して、出雲から大和国にお上りに為ろうとして、支度をしてお出掛けに為る時に、片方の手を馬の鞍にかけ、片方の足を午の鐙に踏み入れて、お歌いになって

 ぬばたまの 黒く御衣を        黒い御衣を
 まつぶさに 取り装ひ       すっかり着飾り
 沖つ鳥 胸見る時         水鳥のように首を曲げ胸元を見渡し
 はたたぎも これは適さず    袖を上げ下ろしして見るもどうも似合わぬ
 辺つ波 そに脱き棄て       岸辺に寄せた波が引くように後ろに脱ぎ捨て
 そに鳥の 青き御衣を       カワセミに似た青い御衣を
 まつぶさに 取り装ひ       すっかり着飾り
 沖つ鳥 胸見る時          水鳥のように首を曲げ胸元を見渡し
 はたたぎも 此適はず       袖を上げ下ろしして見るもどうも似合わぬ
 辺つ波 そに脱き棄て       岸辺に寄せた波が引くように後ろに脱ぎ捨て
 山県に 蒔きし あたね舂き   山の畑に蒔いたあかねを
 染木が汁に 染め衣を        染め草の汁として染めた衣を
 まつぶさに 取り装ひ         すっかり着飾り
 沖つ鳥 胸見る時           水鳥のように首を曲げ胸元を見渡し
 はたたぎも 此し宜し         袖を上げ下ろしして見るとこれがよい
 いとこやの 妹の命         いとしい妻よ
 群鳥の 我が群れ往なば     群鳥のように皆と一緒に行ったなら
 引け鳥の 我が引け往なば    引かれ鳥のように皆に引かれて行ったなら
 泣かじとは 汝は言ふとも     泣かないとあなたは言うけれども
 山処の 一本薄           山辺にある一本のすすきのように
 項傾し 汝が泣かさまく       うなだれてあなたは泣くだろう
 朝雨の 霧に立たむぞ       その吐息は霧となって立つだろう
 若草の 妻の命           わが妻よ
 事の 語言も 是をば        以上が事を伝える語り言です

 とお歌いになった。そこでその后は大きな杯をお取りに為り、夫の側に立ち寄り、杯を捧げてお歌いになって

 八千矛の 神の命や        八千矛の神 
 吾が大国主             大国主神よ
 汝こそは 男に坐せば       あなたは男でいらっしゃるから
 打ち廻る 島の埼埼         巡る島の先々
 かき廻る 磯の埼落ちず      磯の先にはもれなく
 若草の 妻持たせらめ        妻を持っていらっしゃることでしょう
 吾はもよ 女にしあれば      私は女ですから
 汝を除て 男は無し         あなたの他に男はいません
 汝を除て 夫は無し         あなたの他に 夫はいません
 綾垣の ふはやが下に       綾の帳の ふわふわゆれる下で
 苧衾 柔やが下に          絹の布団の 柔らかな下で
 栲衾 さやぐが下に         コウゾの布団の さやめく下で
 沫雪の 若やる胸を         沫雪のように若い胸を
 栲綱の 白き腕           コウゾの綱のように白い腕で
 そだたき たたきまながり      たっぷり愛撫して
 真玉手 玉手さし枕き        玉のように美しい私の手を枕にして
 百長に 寝をし寝せ         いつまでもおやすみください
 豊御酒 奉らせ            御酒を お召し上がり下さい

 とお歌いに為った。この様に歌われて直ぐに夫婦の固めの杯をお交わしになって、互いに首に手を掛けて、今に至るまで鎮座して居られる。これらの歌を神語と云う。
  
 この話は沼河比売に八千矛神(大国主神)が浮気しようとするのをスセリビメが愛の力で引き留めると云う物語である。神話には冒険物語や荒唐無稽な話ばかりでは無く、この様な男女の艶っぽい話もあるのである。実はこの物語に関して面白い事実がある。
 奈良県明日香村の飛鳥資料館にある村内の石神遺跡より発掘された石人像(重要文化財)の事である。この像は明治三十六年(一九〇三)に現在の明日香村、石神遺跡付近の田の中から一人の農夫によって掘り出された石像で、その後東京帝室博物館(現東京国立博物館)に送られ、長らく保管されて居たが昭和五十年に飛鳥資料館の開館に伴い明日香村に里帰りした石像である。
               
 異国風の風貌をした男女が抱き合い、酒を飲んで居ると云うユニークな趣向の石像である。明日香村には数多くの石造物があるがその中でも最も有名な石造物の一つで飛鳥資料館のパンフレットやガイドブックの表紙にも使われて居る。
 この石造物は飛鳥時代の庭園に使われて居た噴水で、男の口に当てた杯と女の口から水が出る様に為って居て、飛鳥資料館の前庭にはそのレプリカが置かれて居て実際に噴水として使用されて居る。

 『口語訳古事記』の三浦佑之氏がその著書『古事記講義』の中で指摘しているが、この像はどう考えても「八千矛神の妻問」に登場する八千矛神とスセリビメの像である。話の最後の部分と全く同じ構図で作られて居る。
 『古事記』の八千矛神の妻問の神話は夫婦の固めの杯を交わし、互いに首に手を掛けて、今に至る迄鎮座して居るという事で終わって居る。恐らくこの石人像は今に至るまで鎮座して居る八千矛神とスセリビメそのものでは無いだろうか。

 八千矛神とスセリビメのモデルは天武天皇と持統天皇と考えられるからこの石像は二人の愛の記念碑と言った処だろう。『古事記』が編纂されたのは、この石像が置かれて居た場所から恐らくそう遠い場所では無いだろう。『古事記』は飛鳥で書かれて居たのである。


 『古事記』の登場人物、そのモデルは天智天皇と天武天皇

 その他、神代には有名な神話として後に紹介するが「山幸彦と海幸彦」の神話がある。この神話は「因幡の素兎」と好く似た構成の物語で、兄に迫害された弟が海の底の国に行って魔力のある玉を貰い受け、それによって兄を屈服させると云う物語である。
 「因幡の素兎」や「山幸彦と海幸彦」の話の様に、『古事記』に記載された物語には天皇や兄に迫害され乍らも弟が活躍する話が多いのが大きな特徴と為って居る。 

 これは『古事記』の中の神話や説話は大国主神の神話の様に天武天皇の体験、見聞、周りの人間関係を元に創作された話が多い為と考えられる。
 例えば神武東征の話は壬申の乱に於ける大海人皇子、神功皇后の三韓征伐の話は天武天皇の母、斉明天皇の事跡を元に作られた話ではないかと云う事は多くの研究者が指摘して居る。又建内宿禰のモデルは藤原鎌足では無いかとも言われて居る。
 人代の説話が天武天皇の周りの人間関係を元に創作された話だと云うのは『古事記』に多い兄妹婚からも窺える。その一例を紹介しよう。

 皇極天皇の後を継いで即位した孝徳天皇は難波に自らの宮殿を築くが、後に中大兄皇子は皇太后、大海人皇子、中大兄皇子の実妹で孝徳天皇の皇后の間人皇女を引き連れ、飛鳥へ戻って居る。
皇后に去られ、難波に置き去りにされた孝徳天皇の、それでも皇后を愛おしく思う嘆きの歌が『日本書紀』に残されて居る。

 その後も間人皇女は中大兄皇子と行動を共にして居た様で、その事からこの二人は実の兄妹でありながら男女の関係にあったのでは無いかと言われて居る。
 実の兄妹で男女の関係とは我々の感覚からすれば驚き以外の何者でも無いが、この時代は血統の純粋性が極端に重視されたのでこの様な近親相姦も珍しくは無かった。
所謂「万葉的おおらかさ」と呼ばれるモラルである。最もこの事が優生的に好い結果を齎す筈が無く、飛鳥時代から奈良時代に掛けて虚弱体質で短命の天皇や皇太子が次々に生まれる結果に為った。この時代女帝が多いのはその為である。

 それは兎も角この二人の関係を窺わせる様な説話がある。それは垂仁天皇の皇后の沙本比売(サホビメ)とその兄の沙本比古王(サホビコ)の物語である。要約するとこの様な話と為って居る。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 サホビコは、垂仁天皇の皇后で同母妹のサホビメに「お前は夫と兄とどちらが好きか」と尋ねた。「兄さんの方が好きです」と答えたサホビメにサホビコは、天皇を殺して国を乗っ取ろうと唆した。
 そこでサホビメは寝て居た天皇を何度も刺し殺そうとするのだが、天皇を愛おしく思って居たサホビメは天皇を殺す事が出来無かった。これに気づいた天皇はサホビメから事の真相を聞き出し、早速サホビコを討つべく兵を差し向けるが、兄を哀れに思ったサホビメは兄の元に走ってしまった。

 裏切られたとは言え天皇はサホビメを愛おしく想って居たのでナカナカ攻め殺す事が出来無かったのだが最後にはサホビコを殺し、サホビメも兄と運命を共にした。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この説話は皇后の妹を唆す兄と皇后に裏切られ乍らも、それでも皇后を愛おしく想う健気な天皇の話だが、この関係は中大兄皇子とその妹で孝徳天皇の皇后の間人皇女と云う人間関係が全く同一である。
この説話は中大兄皇子と間人皇女、孝徳天皇をモデルにして創作された話と思われる。この様な兄と同母妹の兄妹婚の話はもう一つ存在する。
 允恭天皇の皇太子でありながら同母妹の軽大郎女に現を抜かし、その結果失脚して伊予に流され、最後には妹と心中してしまった軽王の物語だ。この説話も中大兄皇子と間人皇女をモデルにして書かれた話だろう。

 処で『古事記』を読んで居ると一つの面白い事実に気づく。それは大国主神、山幸彦、神武天皇と言った天武天皇をモデルにして居ると思われる人物は立派な人物として描かれて居るのに対し、八十神、海幸彦、サホビコ、軽王と言った天智天皇をモデルにして居ると思われる人物はおよそ立派では無い人物として描かれて居る事である。

 前述した様に『古事記』は天武天皇によって書かれた。立派な人物が天武天皇をモデルにして居ると云うのは在り得る事である。一方、天智天皇がモデルと為って居るのがおよそ立派では無い人物ばかりと為って居るのは一体どうした事であろうか。
 天武天皇に取って天智天皇は実の兄の筈である。何故天武天皇は兄の天智天皇をこれ程までに扱き下ろして居るのであろうか。

 この謎を探る為には二人の人間関係を調べて見る必要があるだろう。その為には更に神話を解き明かして行く必要がある。

 次に出雲神話に於ける大国主と並ぶもう一人の主役、スサノオの神話に付いて考えて行きたい。

 スサノオの神話

 スサノオは大国主神と並ぶ出雲神話の主役の一人であると共に、日本神話きっての大立者である。スサノオは『日本書紀』では速素戔嗚尊、神素戔嗚尊、素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命、速須佐之男命、須佐之男命と表記されて居て、仏教における祇園精舎の守護神と言われる牛頭天王と習合され、八坂神社(祇園社)、津島神社、牛頭天王社等の祭神として日本中に広く祀られて居る。
 意外に思われるかも知れ無いが、今では「てんのう」と言えば天皇の事だが中世では「てんのう」と言えば天王の事で牛頭天王即ちスサノオの事であった。

 その他、氷川神社(さいたま市)、熊野大社(島根県)、熊野本宮大社(和歌山県)等の著名な神社にも祀られて居る。「荒ぶる神」として知られ、そこから厄除けを御利益にして居る神社が多い様だ。
 京都の八坂神社の祭礼として全国的に知られる祇園祭は九世紀に疫病が流行した時に始まった厄除けの祭りである。又仏教とも大変に縁の深い神で仏教の守り神とされる新羅大明神や熊野権現、蔵王権現はこのスサノオの同体とも、或いは化身とも言われて居る。

 スサノオの神話は大国主神同様、『日本書紀』『古事記』『風土記』に数多く残されて居るが、スサノオに関する神話で特に有名な神話はスサノオの八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治である。神話と言えば真っ先にこの話を思い浮かべる方も多いのでは無いだろうか。
 この神話は日本で一頃ブームだった怪獣映画の原型の様な話で、東宝映画『日本誕生』と云う題名で映画化もされて居て、この映画に登場したヤマタノオロチが東宝映画『キングギドラ』のモチーフに為ったとも言われて居る。

 ここでは少し長くなるが『古事記』における最初の物語の『天地開闢』の神話から『ヤマタノオロチ』までを紹介しておこう。

 一、天地開闢

 天と地が初めて分かれた時に、高天原に現れた神の名は天之御中主神(アメノミナカヌシ)、次に高御産巣日神(タカミムスヒ)、次に神産巣日神(カムムスヒ)である。この三柱の神は、見な配偶者の無い単独の神で、姿をお見せに為ら無かった。 
 次に国が幼く、水に浮いた油の様で、クラゲの様に漂って居た時、葦の芽の様に萌え上がって来た物から現れた神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂ)、次に天之常立神(アメノトコタチ)である。この二柱の神も、単独の神で、姿をお見せに為ら無かった。以上の五柱の神は天つ神の中でも特別な神である。

 次に現れた神の名は国之常立神(クニノトコタチ)、次に豊雲野神(トヨクモノ)である。この二柱の神も、単独の神で、姿をお見せに為ら無かった。つぎに現れた神の名は宇比地邇神(ウヒヂニ)と女神の須比智邇神(スヒヂニ)である。つぎに角杙神(ツノグヒ)と女神の活杙神(イクグヒ)である。つぎに意富斗能地神(オオトノヂ)と女神の大斗乃弁神(オオトノベ)である。つぎに於母陀流神(オモダル)と女神の阿夜訶志古泥神(アヤカシコネ)である。次ぎに伊邪那岐神(イザナキ)と女神の伊邪那美神(イザナミ)である。

 以上の国之常立神からイザナミ迄を合わせて神世七世と云う。

 二、伊邪那岐命,伊邪那美命の国生み

 天つ神一同の命令と云う事でイザナキ、イザナミの二柱の神に「この漂って居る国を繕い固めて完成させなさい」と仰せに為り、神聖な玉で飾った矛(天の沼矛)をお授けに為り、お任せに為った。そこで二柱の神は天の浮橋に立ち、天の沼矛を降して掻き回した。潮をコロコロとかき鳴らして矛を引き上げた時、その矛の先より滴り落ちた潮水が積もり積もって島と為った。これが淤能碁呂島(オノゴロ)である。

 二柱の神はその島にお降りに為って、神聖な天の御柱を立て、又広い御殿をお作りに為った。そこでイザナキはイザナミに「お前の身体はどの様に為って居るのか」とお尋ねに為るとイザナミは「私の身体は殆ど出来て居ますが足ら無い処が一ところあります」とお答えになった。
 するとイザナキは「私の身体も殆ど出来ていますが余った処が一ところある。そこでこの私の身体の余った処を貴方の身体の足ら無い処にさし塞いで国土を生みたいと思うがどうだろうか」と仰せに為った。イザナミは「それが好いでしょう」とお答えに為った。

 そこでイザナキは「それなら、私と貴方はこの天の御柱を回って出会い、男女の交わりをしよう」と仰せに為った。
 この様に約束されて、そこで「貴方は右から回りなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せに為り、約束の通りに廻るとイザナミが先に「貴方は何て素晴らしい男なのでしょう」と言い、次にイザナキが「貴女は何て素晴らしい女なのでしょう」と仰せに為った。

 夫々言い終わった後、イザナキはイザナミに「女が先に言うのは良く無い事だ」と仰せになった。しかし男女の交わりをして子を生んだが水蛭子(ひるこ)で不具の子であった。この子は葦の船に乗せて流した。
 次に淡島を生んだがこの子も子の数には入れ無かった。そこで二柱の神は相談して「今私達が生んだ子は良く無かった。もう一度天つ神の処へ行ってどうすべきか申し上げよう」と言い、直ちに一緒に高天原へ参上して天つ神の御意見を仰がれた。
 天つ神は鹿の骨を焼いて占い、「女が先に言ったのが良く無い。もう一度帰って言い直しなさい」と仰せになった。

 そこで帰り降って、もう一度、天の御柱を先の様にお回りに為った。そしてイザナキが先に「貴女は何て素晴らしい女なのでしょう」と仰せになり、次ぎにイザナミが「貴方は何て素晴らしい男なのでしょう」と仰せに為った。
 この様に言い終えて、男女の交わりをしてお生みに為った子は、淡路之穂之狭別島(アワジノホノサワケ、淡路島)である。

 次に伊予之二名島(イヨノフタナ、四国)をお生みに為った。この島は体が一つで顔が四つあり、夫々の顔に名があった。そこで、伊予の国を愛比売(エヒメ)と言い、讃岐の国を飯依比古(イヒヨリヒコ)と言い、阿波の国を大宜都比売(オオゲツヒメ)と言い、土佐の国を建依別(タケヨリワケ)と云う。次に三子の隠岐の島をお生みに為った。又の名は天之忍許呂別(アメノオシコロワケ)と云う。

 次に筑紫島(九州)をお生みに為った。この島も体が一つで顔が四つあり、夫々の顔に名があった。そこで筑紫の国を白日別(シラヒワケ)といい、豊国を豊日別(トヨヒワケ)といい、肥の国を建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)といい、熊曾の国を建日別(タケヒワケ)という。
 つぎに壱岐の島をお生みになった。またの名は天比登都柱(アメヒトツバシラ)という。つぎに対馬をお生みになった。またの名は天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)という。
 次に佐度の島をお生みになった。つぎに大倭豊秋津島(オオヤマトトヨアキツ)をお生みになった。またの名は天御虚空豊秋津根別(アマツミソラトヨアキヅネワケ)という。そこでこの八つの島を先にお生みになったので大八島国という。
 その後、帰られる時に吉備の児島をお生みになった。またの名は建日方別(タケヒカタワケ)というつぎに小豆島をお生みになった。またの名は大野手比売(オオノデヒメ)という。
 つぎに大島をお生みに為った。またの名は大多麻流別(オオタマルワケ)という。
 次に女島をお生みになった。またの名は天一根(アメノヒトツネ)という。つぎに知訶島をお生みになった。またの名は天之忍男(アメノオシヲ)という。つぎに両児島をお生みになった。またの名は天両屋(アメフタヤ)という。 

 イザナキとイザナミは国を生み終えて、更に多くの神をお生みになった。そして生んだ神の名は大事忍男神(オオコトオシヲ)、つぎに石土毘古神(イハツチビコ)を生み、つぎに石巣比売(イハスヒメ)を生み、つぎに大戸日別神(オオトヒワケ)を生み、つぎに天之吹男神(アメノフキヲ)を生み、つぎに大屋毘古神(オオヤビコ)を生み、つぎに風木津別之忍男神(カザモツワケノオシヲ)を生み、つぎに海の神、名は大綿津見神(オオワタツミ)を生み、つぎに水戸の神、名は速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)、つぎに女神の速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)を生んだ。

 この速秋津日子神、速秋津比売神の二柱の神が、それぞれ河と海を分担して生んだ神の名は沫那芸神(アワナギ)、つぎに沫那美神(アワナミ)、つぎに頬那芸神(ツラナギ)、つぎに頬那美神(ツラナミ)、つぎに天之分水神(アメノミクマリ)、つぎに国之水分神(クニノミクマリ)、つぎに天之久比箸母智神(アメノクヒザモチ)、つぎに国之久比箸母智神(クニノクヒザモチ)である。

 つぎに風の神、名は志那都比古神(シナツヒコ)を生み、つぎに木の神、名は久久能智神(ククノチ)を生み、つぎに山の神、名は大山津美神(オオヤマツミ)を生み、つぎに野の神、名は鹿屋野比売神(カヤノヒメ)を生んだ。またの名は野椎神(ノズチ)という。
 このオオヤマツミ、ノズチの二柱の神が、それぞれ山と野を分担して生んだ神の名は、天之狭土神(アメノサズチ)、つぎに国之狭土神(クニノサズチ)、つぎに天之狭霧神(アメノサギリ)、つぎに国之狭霧神(クニノサギリ)、つぎに天之闇戸神(アメノクラト)、つぎに国之闇戸神(クニノクラト)、つぎに大戸或子神(オオトマトヒコ)、つぎに大戸或女神(オオトマトヒメ)である

 つぎに生んだ神の名は鳥之石楠船神(トリノイハクスフネ)、またの名は天鳥船という。つぎにオオゲツヒメを生んだ。
 つぎに火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤヲ)を生んだ。又の名は火之{かが}毘古神(ヒノカガビコ)と言い、又の名は火之迦具土神(ヒノカグツチ)と云う。この子を生んだ事で、イザナミは女陰が焼けて病の床に臥してしまった。

 この時嘔吐から生まれた神の名は金山毘古神(カナヤマビコ)、次に金山毘売神(カナヤマビメ)である。
 次に糞から生まれた神の名は波邇夜須毘古神(ハニヤスビコ)、次に尿から生まれた神の名は弥都能売神(ミツハノメ)、次に和久産巣日神(ワクムスヒ)。この神の子は豊宇気毘売神(トヨウケビメ)という。そしてイザナミは火の神を生んだ事が原因で遂にお亡くなりに為った。

 イザナキ、イザナミの二柱の神が共に生んだ島は全部で十四島、神は三十五柱である。
 そこでイザナキは「愛しい我が妻を、一人の子に代え様とは思わ無かった」と仰せになって、直ぐにイザナミの枕元に臥し、足下に臥して泣き悲しまれた。その涙から成り出た神は、香久山の丘の、木の本に居られる泣沢女神(ナキサワメ)である。
 そして亡く為られたイザナミを出雲国と伯伎国の境にある比婆の山に葬り申し上げた。

 そしてイザナキは佩いて居た十拳の剣を抜いて、ヒノカグツチの首をお斬りになった。するとその剣先に付いた血が飛び散ってそこから生まれた神の名は石拆神(イハサク)、つぎに根拆神(ネサク)、つぎに石筒之男神(イハツツノヲ)である。
 つぎに御剣の本に付いた血が飛び散ってそこから生まれた神の名は甕速日神(ミカハヤヒ)、つぎに樋速日神(ヒハヤヒ)、つぎに建御雷之男神(タケミカヅチノヲ)、またの名は建布都神(タケフツ)、またの名は豊布都神(トヨフツ)である。

 つぎに御剣の柄にたまった血が、指の間から漏れ出たなかから生まれた神の名は闇淤加美神(クラオカミ)、つぎに闇御津羽神(クラミツハ)である。
 以上の石拆神から闇御津羽神まであわせて八柱の神は御剣によって生まれた神である。

 また殺されたヒノカグツチの頭から生まれた神の名は正鹿山津美神(マサカヤマツミ)である。
 つぎに胸に生まれた神の名は淤{ど}山津美神(オドヤマツミ)である。つぎに腹に生まれた神の名は奥山津美神(オクヤマツミ)である。
 つぎに陰部に生まれた神の名は闇山津美神(クラヤマツミ)である。
 つぎに左の手に生まれた神の名は志芸山津美神(シギヤマツミ)である。
 つぎに右の手に生まれた神の名は羽山津美神(ハヤマツミ)である。
 つぎに左の足に生まれた神の名は原山津美神(ハラヤマツミ)である。
 つぎに右の足に生まれた神の名は戸山津美神(トヤマツミ)である。

 そしてイザナキがお斬りになった剣の名は天之尾羽張(アメノヲハバリ)といい、またの名は伊都之尾羽張(イツノヲハバリ)という。

 三、イザナキの黄泉の国訪問

 そしてイザナキは妻のイザナミに会いたいとお思いに為って黄泉の国に後を追って行かれた。そこでイザナミが御殿の閉まった戸から出迎えられた時に、イザナキは「愛しい我が妻よ、私と貴女で作った国は未だ作り終わっていません。だから帰るべきです」と仰せになった。
 イザナミはこれに答えて「残念なことです。早く来ていただきたかった。私はすでに黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。されどもいとしいあなたが来てくださったことは恐れ多い事です。だから帰りたいと思いますので、暫く黄泉の国の神と相談して来ます。その間私をご覧に為ら無いで下さい」と仰せに為った。

 こう言ってイザナミは御殿の中に帰られたが、大変長いのでイザナキは待ちかねてしまった。
 そこで左の御角髪(ミミズラ)に挿していた神聖な櫛の太い歯を一つ折り取ってこれに火を点して入って見ると、イザナミの身体には蛆が集ってゴロゴロと鳴き、頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、女陰には{さく}雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷が居て、右の足には伏雷が居た。併せて八つの雷が身体から出現して居た。

 これを見てイザナキは怖くなり、逃げ帰ろうとした時、イザナミは「私に恥を掻かせましたね」と言って、直ぐに黄泉の国の醜女を遣わしてイザナキを追わせた。そこでイザナキは黒い鬘を取って投げ捨てると、直ぐに山葡萄の実が成った。醜女がこれを拾って食べて居る間にイザナキは逃げて行った。

 しかし、尚追いかけて来たので右の鬘に刺してあった櫛の歯を折り取って投げると、直ぐに筍が生えた。醜女がこれを抜いて食べて居る間にイザナキは逃げて行った。
 その後、イザナミは八つの雷に大勢の、黄泉の国の軍を付けてイザナキを追わせた。そこでイザナキは佩いていた十拳の剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げて行った。

 しかし、尚追って来たので黄泉の国との境の黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)の麓に至った時、そこに成って居た桃の実を三つ取り、待ち受けて投げつけると、全て逃げ帰った。
 そこでイザナキは桃の実に「お前が私を助けた様に、葦原中国のあらゆる人たちが苦しく為って、憂い悩んで居る時に助けてやって欲しい」と仰せられて、桃に意富加牟豆美命(オオカムヅミ)と云う名を賜った。

 最後にはイザナミ自らが追って来た。そこで千人引きの大きな石をその黄泉比良坂に置いて、その石を間に挟んで向き合い、夫婦の離別を言い渡した時、イザナミは「愛しい貴方がこの様な事を為さるなら、私は貴方の国の人々を一日に千人絞め殺してしまいましょう」と言われた。
 そこでイザナキは「愛しい貴女がそうするなら、私は一日に千五百人の産屋を建てるでしょう」と仰せに為った。こう云う訳で、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百人が産まれるのである。

 そこでイザナミを名付けて黄泉津大神(ヨモツ)と云う。又その追い着いた事で道敷大神(チシキ)とも云う。又黄泉の坂に置いた石を道返之大神(チガヘシ)と名付け、黄泉国の入り口に塞がって居る大神とも言う。尚その黄泉比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂(イフヤサカ)である。
 この様な事でイザナキは「私は何と醜く汚い国に行って居た事であろうか。だから、我が身の禊ぎをしよう」と仰せに為り、筑紫の日向の、橘の小門の阿波岐原(アワキハラ)にお出でに為って、禊ぎをされた。

 そこで投げ捨てた杖に生まれた神の名は衝立船戸神(ツキタツフナト)である。
 つぎに投げ捨てた帯に生まれた神の名は道之長乳歯神(ミチノナガチハ)である。
 つぎに投げ捨てた袋に生まれた神の名は時量師神(トキハカシ)である。
 つぎに投げ捨てた衣に生まれた神の名は和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノ)である。
 つぎに投げ捨てた袴に生まれた神の名は道俣神(チマタ)である。
 つぎに投げ捨てた冠に生まれた神の名は飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシノ)である。
 つぎに投げ捨てた左手の腕輪に生まれた神の名は奥疎遠神(オキザカル)、つぎに奥津那芸佐毘古神(オキツナギサビコ)、つぎに奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラ)である。
 つぎに投げ捨てた右手の腕輪に生まれた神の名は辺疎遠神(ヘザカル)、つぎに辺津那芸佐毘古神(ヘツナギサビコ)、つぎに辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラ)である。
 以上の船戸神から辺津甲斐弁羅神まで十二柱の神は身に付けていた物を脱いだことによって生まれた神である。

 またイザナキは「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが遅い」と仰せられ、そこで中流の瀬に沈んで身を清められた時に生まれた神の名は八十禍津日神(ヤソマガツヒ)、つぎに大禍津日神(オオマガツヒ)である。この二柱の神は汚らわしい黄泉の国に行ったときの汚れから生まれた神である。

 つぎにその禍を直そうとして生まれた神の名は神直毘神(カムナホビ)、つぎに大直毘神(オオナオビ)、つぎに伊豆能売(イヅノメ)である。
 つぎに水の底で禊ぎをしたときに生まれた神の名は底津綿津見神(ソコツワタツミ)、つぎに底筒之男命(ソコツツノヲ)である。
 水の中程で禊ぎをしたときに生まれた神の名は中津綿津見神(ナカツワタツミ)、つぎに中筒之男命(ナカツツノヲ)である。
 水の表面で禊ぎをしたときに生まれた神の名は上津綿津見神(ウハツワタツミ)、つぎに上筒之男命(ウハツツノヲ)である。 

 これら三柱の綿津見神(ワタツミ)は阿曇連(アズミノムラジ)らの祖先神として祀られている神である。そして阿曇連らはそのワタツミの子の、宇都志日金析命(ウツシヒカナサク)の子孫である。
 またソコツツノヲ、ナカツツノヲ、ウハツツノヲの三柱の神は住吉神社に祀られて居る大神である。

 四、三貴子の誕生

 ここで左の目をお洗いに為った時生まれ出た神の名は天照大御神(アマテラスオオミカミ、以下アマテラス)である。次に右の目をお洗いに為った時生まれ出た神の名は月読命(ツクヨミ)である。
 次に鼻をお洗いに為った時生まれ出た神の名は建速須佐之男(タケハヤスサノオ、以下スサノオ)である。

 この時イザナキは大層お喜びに為られ「私は多くの子を生んで、最後に三柱の貴い子を得る事が出来た」と仰せに為った。
 直ちにその御首の、首飾りの玉の緒をユラユラと鳴らし乍らアマテラスに賜った。そして「貴女は高天原を治めなさい」と仰せに為った。そこでその首飾りの玉を御倉板挙之神(ミクラタナノ)という。次にツクヨミに「貴女は夜の国を治めなさい」と仰せに為った。次にスサノオに「貴方は海原を治めなさい」と仰せに為った。

 こうして夫々の神はイザナキの命令に従ってお治めに為ったが、スサノオだけは海原を治めずに、顎鬚が胸元に達する様に為るまで泣きわめいてばかり居た。
 その泣く有様は青々とした山は枯れ木の山と為り、川や海は悉く泣き干してしまう程だった。その為悪い神々の騒ぐ声が満ち溢れ、あらゆる禍が起きる様に為ってしまった。

 そこでイザナキがスサノオに「何故泣き喚いてばかり居て海原を治め無いのか」と尋ねた処、スサノオは「私は亡き母の居る根の堅州国に行きたいと思い、泣いて居るのです」と答えた。イザナキは酷く怒り「そう為らばお前はこの国に住むべきでは無い」と仰せに為り、スサノオを追放してしまった。サテ、そのイザナキの神は近江の多賀に鎮座して居られる。

 そこでスサノオは「アマテラスに事情を申し上げてから行く事にしよう」と仰せに為った。
 スサノオが高天原に上る時、山川が皆動き、国中が揺れた。その音を聞いてアマテラスは驚き、「我が弟が上って来たのは、善き心からでは無いだろう。私の国を奪おうと思っての事だろう」と仰せになった。

 直ぐに御髪を解いて角髪に束ね、左右の御角髪にも髪飾りにも、左右の御手にも、沢山の勾玉を貫き通した長い玉の緒を巻き付け、背には千本も矢の入る靫を背負い、横には五百本も矢の入る靫を付け、又肘には威勢の好い高鳴りのする鞆をお付けに為り、弓を振り立てて、固い地面を股まで没する迄踏み込み、沫雪の様に土を蹴散らかして、雄々しく勇ましい態度で待ち受け、スサノオに「お前は何故遣って来たのか」と尋ねた。

 スサノオは「私に邪心はありません。只何故泣き喚くのか尋ねられたので『私は母の居る国に行きたくて泣いて居るのです』と答えた処『そう為らばお前はこの国に住んではならない』と仰せに為って、私は追放されたのです。そこでその訳を申し上げようと参上したのです。謀反の心はありません」と答えた。
 そこでアマテラスは「それなら、お前の心が清く明るい事はどうして知れば好いのですか」と仰せに為った。そこで、スサノオは「夫々誓約(ウケヒ)をして、子を生みましょう」と答えた。

 五、天の安の河の誓約

 こうして天の安河を挟んで誓約をした。先ずアマテラスがスサノオの持つ十握の剣を貰い受け、三つに折って、天の真名井で振り清め、好く噛んで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、多紀理毘売命(タキリビメ)、又の名は奥津嶋比売命(オキツシマヒメ)と云う。次に市寸嶋比売命(イチキシマヒメ)、又の名は狭依毘売命(サヨリビメ)と云う。次に多岐都比売命(タキツヒメ)。

 スサノオがアマテラスに、左の角髪に巻いてあった多くの勾玉を結んだ玉を貰い受け、天の真名井で振り清め、噛みに噛んで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ、以下アメノオシホミミ)である。
 右の角髪に巻いてあった玉を貰い受け、噛みに噛んで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、天之菩比命(アメノホヒ)である。又髪飾りに巻いてあった玉を貰い受け、噛みに噛んで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、天津日子根命(アマツヒコネ)である。
 また左の手に巻いてあった玉をもらい受け、かみにかんで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、活津日子根命(イクツヒコネ)である。また右の手に巻いてあった玉をもらい受け、かみにかんで吹き出した息吹の霧から現れた神の名は、熊野久須毘命(クマノクスビ)である。併せて五柱の神である。

 そこでアマテラスはスサノオに「この後で生まれた五柱の男の子は、私の持って居た玉によって生まれた。従って私の子です。先に生まれた三柱の女の子は、お前の持っていた剣によって生まれた。従っておまえの子です」と仰せに為りお裁きに為った。

 そして、先に生まれた神、タキリビメは宗像神社の沖つ宮に鎮座して居る。次ぎにイチキシマヒメは宗像神社の中つ宮に鎮座して居る。次にタキツヒメは宗像神社の辺つ宮に鎮座している。この3柱の神は宗像君等が祀って居る3柱の大神である。
 そして、後に生まれた5柱の子の中で、アメノホヒの子の建比良鳥命は出雲国造、武蔵国造、上{つう}上国造、下{つう}上国造、伊自牟国造、対馬県直、遠江国造等の祖である。
 次に、アマツヒコネは凡川内国造、額田部湯坐連、茨木国造、大和田中直、山城国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、大和淹知国造、高市県主、蒲生稲寸、三枝部造等の祖である。

 そこでスサノオはアマテラスに「私の心は清く、明るいので私の生んだ子は嫋やかな女の子だったのです。この事から申せば当然、私が勝ったのです」と言って、勝ちに乗じてアマテラスの作る田の畦を壊し、その溝を埋め大嘗を行う御殿に糞をまき散らした。
 しかし、アマテラスはそれを咎めずに「糞の様なものは、我が弟が酔って吐いた反吐でしょう。田の畦を壊しその溝を埋めたのは田を作り直そうと我が弟がしたのでしょう」と仰せに為り、善い方に言い直そうとしたが、その乱暴な行いは止まず、酷くなるばかりだった。

 六、天の岩屋戸

 アマテラスが機屋にいらっしゃって、神の御衣を機織女に織らせて居た時、スサノオは機屋の屋根に穴を開け、斑になった馬の皮を剥ぎ落とし入れた。これを見て機織女は驚き、杼で女陰を突いて死んでしまった。
 これを見てアマテラスは恐れ、天の岩屋の戸を開いて中に入り籠もってしまわれた。その為、高天原は暗くなり、葦原中国も全て暗く為ってしまった。そして闇夜が続いた。色々な邪神の騒ぐ声が満ち、あらゆる禍が起こった。

 そこで、多くの神々が天の安の河原に集まり、タカミムスヒの子の思金神(オモヒカネ、智恵の神)に次の様な思案をさせた。
 先ず、常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、天の安河の川上で堅い石と鉱山の鉄を取って、それを鍛冶の天津麻羅(アマツマラ)を捜して来て精錬させ、伊斯許理度売命(イシコリドメ)に鏡を作らせた。又玉祖命(タマノオヤ)に命じて多くの勾玉を通した八尺の玉飾りを作らせた。

 そして、天児屋命(アメノコヤネ)と布刀玉命(フトダマ)を呼んで、天の香山の雄鹿の肩骨を丸ごと抜き取り、同じく天の香山の、桜の木を取って来て、鹿の肩骨を焼いて占った。
 更に天の香山の多くの賢木を根ごと掘り起こし、上の枝に多くの勾玉を通した八尺の玉飾りを取り付け、中の枝に八尺の鏡を取り付け、下の枝に白い布帛、青い布帛を垂らし、この様々な物をフトダマが御幣として捧げ持ち、アメノコヤネが祝詞をあげた。

 そして、天手力男神(アメノタヂカラヲ)が天の岩屋戸の横に隠れて立ち、天宇受売命(アメノウズメ)が、天の香山のヒカゲノカズラを襷に掛け、マサキノカズラを鬘として頭に被り、天の香山の笹の葉を手に持って、天の岩屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神懸かりして、乳房を露に出し裳の紐を陰部まで垂れ下げた。すると高天原が揺れ動く程、多くの神々がドット歓声を挙げた。

 そこでアマテラスは不思議にお思いになり、天の岩屋戸を少し開いて中から「私が隠れたので、高天原が自然と暗く為り、葦原中国も皆暗く為ったと思って居るのに、何故アメノウズメは歌い踊り、多くの神々が歓声を挙げているのか」と仰せに為った。
 そこでアメノウズメは「貴女以上に尊い神がいらっしゃいますので、皆歓声をあげ歌い踊って居るのです」と申し上げた。
 こう申しあげる間にアメノコヤネ、フトダマが鏡を差し出し、アマテラスにお見せ申し上げると、益々不思議に思われ、一寸戸より出て鏡を覗かれた時に、隠れて居たアメノタヂカラヲがアマテラスの手を取って引き出した。

 直ぐにフトダマが注連縄をその裏に引き渡し、「この注連縄より中にはお戻りに為れません」と申し上げた。こうしてアマテラスがお出ましに、高天原も葦原中国も自然と明るく為った。
 そこで多くの神々は相談して、スサノオに罪滅ぼしの品々を出させ、髭と手足の爪を切って祓いとし、高天原より追い払った。

 追放になったスサノオは食べ物を大気都比売(オオゲツヒメ)に求めた。そこでオオゲツヒメは鼻や口、又尻から様々な美味しい物を取り出し、色々調理して奉ったが、これを隠れて見て居たスサノオは汚れた食べ物を差し出したと思い、直ぐにオオゲツヒメを殺してしまった。
 そこで殺されたオオゲツヒメの身体から、頭からは蚕が生まれ、二つの目から稲の種が生まれ、二つの耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、女陰から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。そこでカムムスヒ御祖命はこれらを取って種とした。

 七、八俣の大蛇

 こうして追放されたスサノオは出雲の国の、斐伊川の上流にある鳥髪と云う所に降りた。その時、川の上流から箸が流れて来た。そこでスサノオは川上に人が居ると思い、それを尋ねて上って行くと、老人と老女が二人、少女を間に泣いて居た。そこで「お前たちは誰だ」とお尋ねに為った。
 すると老人が「私は国つ神の、大山津見(オオヤマツミ)の神の子です。私の名は足名椎(アシナヅチ)と言い、妻の名は手名椎(テナヅチ)と言い、娘の名は櫛名田比売(クシナダヒメ)と言います」と答えた。
 また、「お前は何故泣いているのか」と問えば、「私の娘は、元は八人居りましたが、高志のヤマタノオロチが毎年遣って来て食べてしまいました。今がやって来る時期なので、泣いて居るのです」と答えた。   
             
 そこでスサノオが「それはどの様な姿をして居るのか」と尋ねると、老人は「目はほおずきの様に真っ赤で、胴体は一つで八つの頭と八つの尾を持ち、背中は苔むし、檜や杉の木が生えて居て、その長さは八つの谷、八つの峰に渡り、その腹は何時も血が滲んで居る」と答えた。
 そこでスサノオは「このお前の娘を私に呉れないか」と仰せに為ると、老人が「恐れ多い事ですが、未だ名前を伺っておりません」と答えた。スサノオが「私はアマテラスの弟である。そして今、天より降りて来たのだ」とお答えに、アシナヅチとテナヅチは「それは恐れ多い事です。娘を差し上げましょう」と申し上げた。
 そこで、スサノオは直ぐに、その少女を神聖な櫛に変身させ、御角髪に指し、アシナヅチとテナヅチに「お前達は何回も醸造した強い酒を造り、垣を作り廻らし、その垣に八つの門を作り、門毎に桟敷を作り、桟敷毎に酒を入れる樽を置き、樽毎に何回も醸造した強い酒を一杯にして待っておれ」と命じた。

 そこで命じられたままに、準備して待って居ると、ヤマタノオロチが老人の言う通り遣って来た。直ぐにヤマタノオロチは樽毎に自分の頭を入れ、その酒を飲んだ。そして酔っぱらって、そのまま横に為って寝てしまった。
 そこで、スサノオは十握の剣を抜き、ズタズタに切ると斐伊川の水は血と為って流れた。そして中の尾を切った時、十握の剣の刃が欠けた。スサノオは不審に思われ、剣先で尾を切り裂いてみると立派な太刀があった。そこでスサノオはその太刀を取り、不思議な事だと思い、アマテラスに献上した。これが草薙の太刀である。

 こうして、スサノオは宮殿を造る場所を出雲の国に探した。そして須賀の地に来て「私は此処に来て、気持ちが清々しい」と言った。そして、そこに宮殿を造った。それで今,そこを須賀と云う。
 スサノオが初めて須賀の宮を作った時、そこから雲が立ち上った。そこで歌をお作りに為った。その歌は、

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

(多くの雲が立ち上って居る その雲の幾重にも為った垣根が 妻を籠もらせる様に 幾重もの垣根を作って居る その素晴らしい垣根よ)

 ここで、スサノオはアシナヅチを呼んで「お前を私の宮殿の長に任じよう」と仰せになり、名を与えて稲田宮主須賀之八耳神(イナダミヤヌシスガノヤツミミ)と名付けた。そこでクシナダヒメと夫婦の交わりをして生んだ神の名は八島士奴美神(ヤシマジヌミ)と云う。

 又オオヤマツの娘の神大市比売(カムオオイチヒメ)を娶って生んだ子は大年神(オオトシ)、次に宇迦之御魂神(ウカノミタマ)である。ヤシマジヌミがオオヤマツの娘の木花知流比売(コノハナチルヒメ)を娶って生んだ子は布波能母遅久奴須奴神(フハノモヂクヌスヌ)である。
 このフハノモヂクヌスヌが淤迦美神(オカミ)の娘の日河比売(ヒカワヒメ)を娶って生んだ子は深淵之水夜礼花神(フカフチノミズヤレハナ)である。
 このフカフチノミズヤレハナが天之都度閇知泥神(アメノツドヘチヌ)を娶って生んだ子は淤美豆奴神(オミズヌ)である。
 このオミズヌが布怒豆怒神(フノヅノ)の娘の布帝耳神(フテミミ)を娶って生んだ子は天之冬衣神(アメノフユキヌ)である。
 このアメノフユキヌが刺国大神(サシクニ)の娘の刺国若比売(サシクニワカ)を娶って生んだ子は大国主神である。
 大国主神は又の名を大穴牟遅神(オオナムヂ)と言い、又の名は葦原色許男神(アシハラシコヲ)と言い、又の名は八千矛神(ヤチホコ)と言い、又の名は宇都志国玉神(ウツシクニタマ)と言い、併せて五つの名があった。

 スサノオの正体は何者か

 スサノオは高天原に於いてはアマテラスに対する態度に見られる様な傍若無人な人物として、出雲に降りると性格が一変し、今度は弱きを助ける英雄、そして根の堅州国では娘の婿のオホナムチを虐める得体の知れぬ親父として描かれ、その性格は場面毎に異なり一様では無い。
 しかし、スサノオが泣けば山は枯れ木の山と為り、川や海は泣干し上がり、天に上る時には山川が皆動き、国中が揺れた。地上に降りてからは山や谷よりも大きなヤマタノオロチを倒し、オホナムチがスサノオの頭のシラミを取ろうとしたらそれはシラミでは無くムカデであったと云うのだからスサノオはもうこれ以上大きく描きようがない程の大人物として描かれて居る。

 『古事記』の著述者の天武天皇にしてみればスサノオは大変な存在感を持った大人物であった事が判る。大国主神の話に登場する人物が実在の人物をモデルとして居る事から考えて全く空想の人物では無いだろう。増してや大和から遠く離れた出雲の地方神と云う事も有り得無い。
 その正体は飛鳥時代の天武天皇以前の人物を象徴したものと考えて好いだろう。スサノオが天に上る時、山川が皆動き、国中が揺れたとある処からその力は国中に及び、国を支配して居た様な人物であった事も判る。

 果たしてこの様なスサノオの正体は何者であろうか。実はこの謎を解き明かす鍵が出雲大社にある。出雲大社の本殿の真後ろにはスサノオを祀る素鵞社と呼ばれる社がある。素鵞社の「素鵞」、これがその鍵である。      
                        
 又出雲大社の本殿の西側を北から南に流れる川があるがこの川の名は素鵞川と云う。出雲の簸川の上流、島根県簸川郡佐田町には須佐神社と云うスサノオを祀る神社があるがその横を流れる川もこれ又素鵞川と呼ばれて居る。出雲大社の素鵞川、その反対側の東側にも川が流れて居てその名を吉野川と云うが、奈良県の明日香村の南の吉野町を東西に流れる川も吉野川である。
 その明日香村の西側にも出雲大社の西側を流れる素鵞川と同じ様な名前の川が流れて居る。但しこの川は素鵞川とは書かずに曽我川と書く。
曽我川は奈良県御所市重阪の内谷を源流に北に流れ、高取町、橿原市を貫き、北葛城郡河合町川合の広瀬神社の北で大和川に合流して居る。そしてこの曽我川と吉野町を東西に流れる吉野川の間にある地域が飛鳥なのである。

 この事から出雲大社は社殿全体が飛鳥に擬されて居る事が推定されるのだが、この明日香村の西を流れる曽我川の近くの樫原市小綱町にもスサノオを祀る神社がある。「小綱の大日堂」として地元の人々に親しまれて居る普賢寺の境内にある入鹿神社だ。その名前の通り蘇我入鹿を祀る神社である。
 蘇我入鹿は、「林太郎」・「林臣」とも呼ばれて居たがこれは入鹿が蘇我一族の林臣の元で育てられた為ではないかとされて居る。入鹿神社は、この頃の入鹿の邸宅の跡と伝えられて居るのだが、この神社には蘇我入鹿と共にスサノオが仲良く並んで祀られて居る。

 この小綱町の西隣が蘇我氏の発祥の地と言われる曽我町である。蘇我氏の名はこの曽我町の「曽我」に由来するものと言われて居て、この町には蘇我馬子が始祖の宗我都比古(そがつひこ)・宗我都比売(そがつひめ)を祀る為に建てたと云う宗我坐宗我都比古神社がある。
 これ等の事からスサノオを祀る素鵞社、素鵞川の「素鵞」は「曽我」に通じ、更に「蘇我」に通じて居る事が判る。

 又素鵞社の「素鵞」の字に注目して頂きたい。『日本書紀』ではスサノヲを 「素戔嗚」と表記し、「素戔烏」と表記する事もあるが、素鵞社の「素鵞」とスサノオの「素戔烏」が字の形が好く似ていないだろうか。
 「素戔嗚」の名は「蘇我」を「素鵞」と書き、これを次の順序で変化させる事で創り出されたものと考えられないだろうか。

 蘇我 → 素鵞 → 素我烏 → 素戔嗚

 以上の事からスサノオは「蘇我」に通じて凍て蘇我氏の誰かを象徴したものと考えて好いだろう。

 
 その12につづく

古代からのお話し その10



 古代からのお話し その10


 出雲大社の謎の神事『神幸祭』

 大国主神の正体が天武天皇の事であるらしい事は出雲大社の神事からも窺う事が出来るのでその一つの例を紹介しよう。

 出雲大社では年間を通して数多くの神事が行われて居るが大社の代表的な神事に神幸祭(身逃神事)がある。神事の間、国造は住まいである国造館を離れ他家へ身を寄せる習わしに為って居るので身逃神事と云う面白い名前でも呼ばれて居る。
 この神事は現在、八月一四日と一五日に行われて居るが、明治一八年以前は旧暦の七月四日と五日に行われて居た。出雲大社発行の『出雲大社由緒略記』によれば神事の内容は以下の様なものである。

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 八月十一日夕刻、禰宜(神職)は稲佐浜に出て海水にて身を浄め斎館に入って潔斎をする。
 禰宜は斎館に籠り、本社相伝の燧杵、燧臼で切り出した斎火をもって調理した斎食を食べ、神事の終わるまで他火を禁ずる。

 同十三日夜は道見と称し、禰宜は斎館を出て、先頭に高張提灯二張、次に禰宜自用の騎馬提灯持一人、次に禰宜、その後に献饌物を捧持する出仕一人が従い、この行列を持って先ず大鳥居に出て、ここから禰宜は人力車に乗り、町通りを通り過ぎて四軒屋に鎮座の湊社を詣で、白幣・洗米をお供えして黙祷拝礼する。この御社の御祭神は櫛八玉神で別火氏の祖先神と云う。

 次に赤塚に鎮座の赤人社に詣でる。次に稲佐浜の塩掻島に至り四方に向かって拝し、前二社とどうようの祭事をお仕えし、終わって斎館に帰する。
 以上によって、御神幸の道筋の下検分を行う。そして同十五日鶏鳴、大国主大神が御神幸になる。
 当夜は境内の諸門は何れも開放される。午前一時、禰宜は狩衣を着し、右手には青竹の杖を持ち、左手には真菰で作った苞及び火縄筒を持ち、素足に足半草履を履き、本殿の大前に参進して拝礼し、終って御神幸の儀が始まる。

 禰宜は供奉し、前夜道見の際に詣でた二社に行き、次に塩掻島に行って塩を掻き、帰路出雲国造館に至り、大広間内に設けられた斎場を拝し、御本殿大前に帰して再拝拍手して神事を終り斎館に入る。当夜塩掻島で掻いた塩は、十五日の爪剥祭に供える。

    
             神幸供奉図

 なお、同十四日、御神幸に先立ち、国造館では表の門を掃き清め、荒薦を敷き、八足机を備え、さらに手洗水を置いて奉迎の準備をするが、近代までこの間、国造は自邸を出て他の社家に赴き、一時仮宿した。そこで、この一連の神事を古来、専ら「身逃げの神事」と称してきた。

 ところで、この御神幸の途中、もし人に逢えば大社に帰り、再び出て行く。そのため、この夜は大社町内の人は早くから門戸を閉じ、謹慎して戸外に出ないようにしている。
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 誰にも見られては為ら無い神事と云うのが如何にも古社の神事らしくて面白い。この神事も壬申の乱と同型の構造を持って居る。大社本殿を飛鳥に、塩掻きは近江朝廷軍との戦い、国造館は近江京に準えて居るのだろう。その他の祭りの次第も壬申の経緯と好く似ている。
 神事の間、国造が国造館を出るのも戦いに敗れた近江京(国造館)に主が居たのでは拙いからであろう。飽く迄祭りの主役は目には見え無いが大国主神なのである。御神幸の途中、もし人に逢えば汚れたとして大社に帰り、再び出て行くのは大海人皇子の東国への脱出が隠密裏の行動だった事に因むものと考えられる。
 また大海人皇子が吉野を脱出したのが六月二十四日、大海人軍が近江京に入ったのが七月二十三日なので、以前に神幸祭りが行われていた旧暦の七月三日、四日はその中間に当たる。 
 出雲大社は創建以来、出雲国造が世襲で代々神事を司って来た。その為祭りの当初の形が途中で変形する事無く現在迄この様に確り受け継がれて居たのだろう。

 日本の大抵の祭りは前日夜の宵宮に始まり、祭り当日は神社の門戸が全て開け放たれ、そして神を乗せた神輿を氏子が担ぎ、そして町内を練り歩きアチコチで大騒ぎした後、元の神社に戻って祭りを終わると云うのが一般的な祭りのパターンである。神輿の巡行は本来、夜間に静かに行われて居たと云う。日本の祭りは壬申の乱がその原型と思われる。

 出雲大社の創建は何時か

 又天武天皇が大国主神として出雲大社に祀られて居るとすると、出雲大社の創建は天武朝より古いと云う事は有り得無い。出雲国造がその代替わりに際して宮中で行う「出雲国造神賀詞」の初見が『続日本紀』の霊気二年(七一六)二月十日条に見えるので出雲大社の創建は恐らくこの頃だろう。
 この時代はほぼ同時期に大官大寺(百済大寺)、少し後には東大寺と言った巨大な建物が相次いで建設されて居た時期である。特に大官大寺の九重塔や東大寺の七重塔は高さが八〇メートルから一〇〇メートルにも及ぶ大規模な建造物だったと言われて居る。偉大だった天武天皇を神として祀ったのであるなら、出雲大社の本殿が一六丈(四十八メートル)程度だったとは考え難い。
 恐らく大官大寺の九重塔に劣ら無い壮大な規模の社殿だったのでは無いだろうか。上古に於いて三十二丈あったと云う伝承も単なる伝承では無いだろう。百メートル近い古代木造建築と為るとその規模と構造は我々の想像を超えるものがあるが一度見て見たかったものである。
  
 何故『日本書紀』に大国主神の神話が載って居ないのか

 大国主神の物語は『古事記』では並々為らぬ分量で記載されて居るが、不思議な事にこの神話は『日本書紀』には全く記載されて居ない。
 『日本書紀』ではスサノオの話の後にスサノオと妻の奇稲田姫(クシイナダヒメ)の間にオオナムヂが生まれ、その後直ぐにオオナムヂが少彦名(スクナヒコナ)命と力を合わせて天下を造ったと為って居て、さもそれが当然な如くに、大国主神が登場した時には既に葦原中国の王と為って居る。葦原中国の王に為る経緯が語られる『古事記』と較べると如何にも不自然な繋がり方と為って居る。

 他の神話は多少違いがあっても載って居るのに肝心の大国主神の物語が記載されていないのは不可解である。この大国主神の物語が『古事記』には載り、『日本書紀』には載って居ないのは『記・紀』研究に於いて大きな謎の一つとされて居る。何故、大国主神の葦原中国の王に為る経緯が『日本書紀』では記載されて居ないのであろうか。

 この物語が『日本書紀』に載って居ない理由は物語の中の「八十神」にあると考えられる。和銅七年(七一四)二月に元明天皇は紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に国史を撰修する様詔を出して居る。国史(日本書紀)の完成に向けていよいよ本格的に編纂が開始されたのだ。
 六年後の養老四年(七二〇)五月に『日本書紀』は完成し、元明天皇の娘の元正天皇に奏上されたのだが、元明天皇は編纂が開始された直後の和銅七年(七一四)九月に氷高皇女(元正天皇)に天皇の位を譲り、『日本書紀』の完成を見届けるかの様に翌年の養老五年(七二一)一二月に亡く為って居る。

 斉明天皇六年(六六〇)に生まれ、大化の改新以降の出来事と事情を好く知る元明天皇にしてみれば、壬申の乱の後の天武天皇八年(六八〇)生まれの元正天皇に国史編纂の様な大事な事業を任せる訳にはいか無かっただろう。従って天皇の位を元正天皇に譲った後は『日本書紀』の編纂に専念し、その内容に目を光らせて居たのでは無いだろうか。
 先ほど八十神は天智天皇、大友皇子達の事ではないかと説明したが、実は元明天皇はその天智天皇の娘なのである。と云う事は大友皇子の妹と云う事でもある。神話の中で自分の父と兄が八十神にされて居る事に為る。
 元明天皇にしてみればこの様な話は「冗談では無い」と云う事に為る。国史に記載して後世に残す気には為ら無かっただろう。『日本書紀』の編纂者達も元明天皇の手前、この話を『日本書紀』に載せる訳にはいか無かったのでは無いだろうか。

 『古事記』の『序』は偽書

 しかし、そう考えるとこの大国主神の物語の載った『古事記』を太安万侶が元明天皇の命で撰上し、天皇に献上したと云う『古事記』の『序』、あれは一体どう云う事だと云う事に為る。
 元明天皇の父である天智天皇を「八十神」とした様な話を元明天皇に献上する事など出来ないのでは無いだろうか。
 『古事記』の『序』に書かれた内容は真っ赤な嘘、『序』に関しては偽書と云う事に為る。太安万侶は実在の確実な人物だが、稗田阿礼は男でも無ければ女でも無い。『序』の作者が考え出した、全く架空の人物だったのだろう。『古事記』の名が歴史に初めて登場するのは十三世紀の終わり頃に書かれた『日本書紀』の注釈書の『釈日本紀』に引用された『弘仁私記』の序に於いてである。

 『弘仁私記』は平安初期、弘仁三年(八一二)に行われた『日本書紀』の講義の内容を書き残したものだが、その序に『古事記』の事が太安万侶や稗田阿礼の名前と共に記載されている。
 弘仁三年に行われた『日本書紀』の講義の講師は多朝臣人長と云う人物で、この人物は太安万侶の直系の子孫と言われて居る。『弘仁私記』の序の中で多朝臣人長は『古事記』のみ為らず『日本書紀』も太安万侶が編纂に関わったと主張して居る。

 しかし『日本書紀』の編纂に太安万侶が関わったと云う記録は『弘仁私記』の序以外、他の何処にも存在しない。
 多朝臣人長は歴史書編纂を自分の先祖である太安万侶の功績とする為に自分で勝手に『序』を書いて『古事記』に書き加えて居たのだろう。『序』の内容を信じ込んで居た学者や研究者に取っては全く好い迷惑であった。

 『古事記』の作者は天武天皇

 太安万侶が作者で無いなら『古事記』は何時、誰によって書かれたものであろうか。大国主神が天武天皇だとすると元明天皇(在位七〇七〜七一五、七二一没)の時では無いだろう。持統天皇(在位六八六〜六九七、七〇二没)も元明天皇同様天智天皇の娘だからこの時代でも無い。
 文武天皇(在位六九七〜七〇七、七〇七没)は病弱で短命の上、母が元明天皇、祖母が持統天皇だからこの様な話を書く訳にはいか無かっただろう。そうすると物語の内容から見ても天武天皇の時代に天皇の下で書かれたと考えられる。

 要するに大国主神の神話は大国主神自身が書いて居たと云う事に為る。どおりで記述に力が入って居る筈である。この天武天皇の時代は壬申の乱の勝利によって高まった天武天皇のカリスマ性を背景に、律令国家の整備が急速に進められ様として居た時代である。この時代に編纂された『古事記』は律令国家の成立と深い関係があったと思われる。
 成立を『古事記』の『序』の記述の通り和銅五年(七一二)としたのでは律令国家の成立後と為ってしまい、これでは『古事記』の謎を解き明かす事は出来ない。

 奇妙な記述と『暗号』

 では具体的に天武朝の何時頃に書かれたものであろうか。『日本書紀』の天武十年(六八一)三月四日条に天武天皇が皇子や臣下に帝紀と上古の諸事を記定する事を命じたと云う記事があるが、それより寧ろ天武天皇四年(六七五)一一月三日条に実に奇妙な記述がある事に注目したい。それはこの様な記述である。

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 ある人が宮の東の丘に登って、人を惑わす事を言って自ら首を刎ねて死んだ。この夜の当直の者全てに爵一級を賜った。
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 夜間に宮廷の東の丘に登り、人を惑わす事を言って自殺した者があり、その日の当直全ての者たちの階級を一級上げたと云うのである。要するに「人を惑わす事」を聞いた者達に口止めがされたのだ。「人を惑わすこと」の内容が何なのかその記述は無いが、階級を一級上げてまで口止めをする位だから朝廷に取って人に聞かれては拙い、極めて都合の悪い内容だった事は確かである。更に二年後の天武天皇六年(六七七)四月十一日条に

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 杙田史名倉が天皇を謗り祀ったと云う事で、伊豆島に流された。
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 杙田史名倉と云う人物が天皇を非難して伊豆に島流しに為ったと云うのだ。「史」と為って居るので歴史書等の文章を作成する仕事に従事する人物と思われる。『日本書紀』の国史と云う立場からすれば一見どうでも好い様な記述なのだが、これらの記事は『古事記』編纂の実体を暗示して居る。だが、何故国の正式な歴史書にこの様な個人の問題としか思え無い様な記述が残されたのだろう。
 記録を付けたり、文章を作成する仕事は今でもそうだが、要領が好く、ズボラな人間にこの様な仕事をさせたらろくな仕事をして呉れない。真面目で几帳面な、どちらかと言えば融通が利か無いぐらいの人間に向いて居る。
 情報が満ち溢れ、歴史の改竄等やろうと思っても出来無い現代に生きる我々と異なり、この時代の人々は歴史に対して大変厳しい考え方を持って居た。自分の国の歴史が無惨に改竄され、世の中に広まると云事は彼らには耐え難い事だったに違いない。その為この様な命掛けで抵抗する様な人達が現れたのでは無いだろうか。

 『日本書紀』の編纂者達やその他の記録に携わる人たちも同じ様な苦しい立場だったと思われる。改竄された歴史を後世に残したいと思う者は一人も居なかっただろう。
この様な時彼等は何を考えるであろうか。『日本書紀』とは別の歴史書を私的に裏でコッソリと作成する事も考えられる。しかしその様な事をして、もしバレでもしたら命は無い。その苦心の歴史書が後世迄残ると云う保証も無い。

 『日本書紀』などの公的文書の中に書き残すしか手だては無かったであろう。勿論真実の歴史を天皇の意向に反してアカラサマニ書き残す事は許され無い。そうならば真実に繋がる手掛だけでも『日本書紀』や他の記録の中に書き残そうと彼等が考えたとしても決して可笑しくは無い。
 恐らくその真実に繋がる手がかりは暗示、或いはトリックと言った言わば『暗号』の様な形で書き残されて居るに違い無い。

 この二つの奇妙な記述も『日本書紀』の編纂者達のその様な意図から書き残されたと考えれば、何故この様な記述がわざわざ書き残されたのか理解出来るのである。
 恐らくこの様な記述、即ち『暗号』はここだけでは無いだろう。他にも数多く残されて居る筈である。その様な『暗号』を『日本書紀』等の記述の中から見つけ出して解読する事が出来れば、歴史の真実の解明に繋げる事が出来る筈である。

 サテ何とも呆気無く大国主神の正体が判ってしまった。大国主神の正体が天武天皇と判った事は神話と古代史の謎を解き明かす上で大きな手掛と為る筈である。更に日本古代史の謎を解いて行きたい。

 その11につづく



古代からのお話し その9


 古代からのお話し その9

 大国主神の神話

 八、因幡の素兎

 大国主神には八十神と云う多くの兄弟の神々が居た。しかし皆、国を大国主神にお譲りした。譲った訳は次の通りである。
 八十神達は因幡の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚しようと皆一緒に出掛けた。出掛ける時に大穴牟遅(オオナムヂ、大国主神)に袋を背負わせ、従者として連れて行った。処が気多の岬に至った時、皮を剥がれて丸裸に為った兎が倒れて居た。
 これを見た八十神達はその兎に「この海の塩水を浴びて、風が当たる様高い山の尾根に寝て居るが好い」と教えた。兎は教えられた通りに山の尾根に寝て居たが、浴びた塩水が乾くに連れ皮膚が風に吹かれて、すっかりひび割れてしまった。

 その為兎が痛み苦しんで、泣き伏して居た処、遅れて遣って来たオオナムヂがその兎を見て「お前は何故泣き伏して居るのか」と尋ねると、兎が答えて言うには「私は隠岐の島に済んで居て、ここに渡りたいと思いましたが、渡る術が無かったので、海に居る鮫を騙して『私とお前と比べて、どちらの同族が多いか数えてみたい。そこでお前はその同族を悉く連れて来て、この島から気多の岬迄皆並んで伏していなさい。私がその上を踏んで走りつつ数えながら渡る事にしよう。そうすれば、お前の同族とどちらの同族が多いかが判るだろう』と言いました。

 騙された鮫が並んで伏して居た時、私がその上を踏んで、数えながら渡って来て、今や地上に降りようとする時、私が『お前は私に騙されたのだ』と言った途端、一番端に伏して居た鮫が私を捕まえて、私の皮をすっかり剥いでしまったのです。
 その様な訳で泣き悲しんで居た処、先に行った八十神達に『海の塩水を浴びて、風に当たって伏せて居るが好い』と教えられました。そこで教えられた通りにした処、私は全身傷だらけに為ってしまったのです」と申し上げた。     
              
 そこでオオナムヂはこの様に教えた。「今すぐ河口に行き、真水で体を洗いなさい。そして直ぐに河口に生えている蒲の花粉を取って敷き散らかし、その上に寝転がれば、お前の体の皮膚は必ず元通りに生るだろう」
 兎は教えられた通りにした処、体は元の通りに為った。これを因幡の素兎と言い、今でも兎神と言って居る。そこでその兎は、オオナムヂに「八十神達はきっとヤガミヒメを得る事は出来ないでしょう。袋を背負っては居るが貴方が得るでしょう」と申し上げた。

 九、大国主神の根の国訪問

 さて、ヤガミヒメは八十神達の求婚に答えて「私は貴方達の言う事は聞きません。私はオオナムヂに嫁ぎます」と言った。
 これを聞いた八十神達は怒って、オオナムヂを殺そうと思い皆で相談して、伯{き}国の、手間の山の麓に来て、オオナムヂに言った。
「赤い猪がこの山に居る。そこでわれらが一斉に追い下ろすのでお前はそれを待って居て捕まえろ。もし、待ち捕まえ無かったら、必ず、お前を殺すぞ」
と言って、猪に似た大石を火で焼いて転がし落とした。そこで追い下ろすのを捕らえ様としたオオナムヂは忽ちその石に焼き付かれて死んでしまった。

 この事を知ったオオナムヂの母神は嘆き悲しみ高天原に参上して、カムムスヒの神にお願いすると、直ぐに{きさ}貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)を遣わして、治療して生き返らせた。
 {きさ}貝比売が大石にこびり付いていたオオナムヂの骸を集め、蛤貝比売がそれを待ち受けて母の乳汁を塗った処、元の麗しい男に戻って出歩かれた。

 そこでこれを見た八十神達は又オオナムヂを騙して山へ連れて行き、大きな木を切り倒し、楔をその木に打ち込み、その割れ目にオオナムヂを押し込むやいなや、楔を外してオオナムヂを挟み殺してしまった。
 そこで又、母神が泣きながら探し、オオナムヂを見つけて、直ちに木を裂いて取り出し生き返らせて言った。「お前はここに居たら、何時かは八十神達に滅ぼされるでしょう」と言い、直ぐに木の国の、オオヤビコの元にオオナムヂを遣わせた。

 処が八十神達は探し出して追いかけて来て、弓矢を構えて引き渡しを迫ったので、オオヤビコは木の俣からオオナムヂを逃して言った。「スサノオの居る根の堅州国に行きなさい。必ず大神が良い方法を考えて下さるだろう」
 そこで、言われた通りにスサノオの元に参り至ると、スサノオの娘の須勢理毘売(スセリビメ)が出て来てオオナムヂに一目惚れして結び合われ、御殿に帰ってスサノオに「大変麗しい神がお出でに為りました」と言った。

 そこで大神が外に出て一目見るなり、「こいつはアシハラシコヲと云う男だ」と言って、直ぐに呼び入れ、蛇の室に寝かせた。
 そこでその妻スセリビメが蛇の比礼を夫に授けて「蛇が食い付いて来たら、この比礼を三度振って打ち払いなさい」と言った。そこで教えられた通りにしたなら蛇は自然に静まり、安心して寝る事が出来、室を出る事が出来た。

 又、次の日の夜にはムカデと蜂の室に入れられた。今度も、ムカデと蜂の比礼を夫に授けて前の様に教えた。そこで安心して寝る事が出来、室を出る事が出来た。
 そこで、スサノオは鏑矢を広い野原に討ち入れて、その矢を探させた。そして、オオナムヂが探しに入るや、野に火を放ち、周りから焼いた。そこでオオナムヂが出る処が判ら無いで居ると、ネズミが出て来て「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言った。
そこでそこを踏んだ処、下に落ち、隠れて居る間に、火は焼け過ぎて行った。こへ、そのネズミが鏑矢を咥えて持って来てオオナムヂに奉った。その矢の羽は皆ネズミの子供が食い千切って居た。
 妻のスセリビメは葬儀の品々を持ち泣きながら遣って来て、その父の大神は、オオナムヂは既に死んだと思い、その野に出て立って居た。そこにオオナムヂが矢を持って奉ったので家の中に連れて入り、広い大室に呼び入れて、自分の頭のシラミを取らせた。処がその頭を見るとムカデが沢山居た。そこで妻のスセリビメが椋の木の実と赤土を持って来て夫に渡した。

 そこでその椋の木の実を食い千切り、赤土を混ぜて唾として出すと、大神はムカデを食い千切って唾として出したと思い、心の中で可愛い奴だと思い眠ってしまった。
 そこでその大神の髪を取り、その室の垂木に次々と結びつけ、大きな岩をその室の戸口に持って来て塞ぎ、妻のスセリビメを背負って、大神の生太刀、生弓矢、天の詔琴を携えて、逃げ出した時、その天の詔琴が木に触れて大地が動かんばかりに鳴り響いた。
 寝ていた大神これを聞いて驚き、室を引き倒した。しかし垂木に結び付けられた髪をほどいている間に、オオナムヂとスセリビメは遠くに逃げて行った。

 それでも大神は黄泉比良坂まで追って来て、遥か遠くのオオナムヂを見ていった。
 「お前が持っている生太刀、生弓矢でもってお前の庶流の兄弟を、坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、お前は大国主神と為り、又、宇津志国玉神(ウツシクニタマ)と為って、我が娘スセリビメを正妻として、宇迦の山の麓に地底の岩盤に届く迄の宮柱を立て、高天の原に届く程の千木を建てた宮殿に住め。こやつめ」

 そこでその生太刀、生弓矢で八十神たちを追い払い、坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、国作りを始めた。
 その後、先の約束どおりにオオナムヂはヤガミヒメと結婚し、出雲の国に連れてこられたが、正妻のスセリビメをおそれ、その産んだ子を木の俣に刺し挟んで帰ってしまった。そこでその子を名付けて木俣(キノマタ)の神といい、またの名を御井(ミヰ)の神と云う

 十、八千矛神の妻問   この物語は後述する。

 十一、大国主神と少名毘古那神の国作り


 大国主神が宗像の奥つ宮におられる神、多紀理毘売命(タキリビメ)を娶って生んだ子は阿遅{すき}高日子根神(アヂスキタカヒコネ)、つぎに妹高比売命(イモタカヒメ)、またの名は下光比売命(シタテルヒメ)。この阿遅{すき}高日子根神は、今、迦毛の大御神という。
 また、大国主神が神屋盾比売命(カムヤタテヒメ)を娶って生んだ子は事代主神(コトシロヌシ)である。また八島牟遅能神(ヤシマムヂノ)の娘の鳥取神を娶って生んだ子は鳥鳴海神(トリナルミ)である。この神が日名照額田毘道男伊許知邇神(ヒナテルヌカタビチヲイコチニ)を娶って生んだ子は国忍富神(クニオシトミ)である。
 この神が葦那陀迦神(アシナダカ)、またの名が八河江比売(ヤガハエヒメ)を娶って生んだ子は速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)である。
 この神が天之甕主神(アメノミカヌシ)の娘、前玉比売(サキタマヒメ)を娶って生んだ子は甕主日子神(ミカヌシヒコ)である。
 この神が淤加美神(オカミ)の娘、比那良志毘売(ヒナラシビメ)を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神(タヒリキシマルミ)である。
 この神が比々羅木之其花麻豆美神(ヒヒラギノソノハナマズミ)の娘、活玉前玉比売神(イクタマサキタマヒメ)を娶って生んだ子は美呂浪神(ミロナミ)である。
 この神が敷山主神(シキヤマヌシ)の娘、青沼馬沼押比売(アヲヌウマヌオシヒメ)を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神(ヌノオシトミトリナルミ)である。
 この神が若尽女神(ワカツクシメ)を娶って生んだ子は天日腹大科度美神(アメノヒバラオオシナドミ)である。
 この神が天狭霧神(アメノサギリ)の娘、遠津待根神(トホツマチヌ)を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシ)である。

 右にあげたヤシマジヌミから、トホツヤマサキタラシまでを十七世の神と称する。

さて、大国主神が出雲の美保の岬におられたとき、波の上からガガ芋の実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いだ着物を着て近づいてくる神があった。
 そこでその名を問うたが返事がなかった。また従っている多くの神々にたずねてみたが、皆「知りません」と答えた。

 しかしヒキガエルが「きっと久延{び}古(クエビコ)が知っているでしょう」と申し上げたので、すぐにクエビコを呼んでたずねると「この神はカムムスヒの御子で少名毘古那神(スクナビコナ)である」とお答えした。
 そこでカムムスヒの御祖命に申し上げたところ、「この神はたしかにわたしの子です。子の中でもわたしの手の間よりこぼれ落ちた子です。そこでおまえはアシハラシコヲと兄弟となってこの国を作り固めなさい」とお答えになった。

 そこでオオナムヂとスクナビコナの二柱の神は協力しあって国を作り固められた。そしてその後スクナビコナは常世の国にお渡りになった。
 さて、そのスクナビコナであることを顕し申し上げたクエビコはいまでは山田の案山子という。この神は歩くことはできないが天下のことはことごとく知っている神である。
 ここで大国主神が憂えて「自分一人でどうしてこの国を作ることが出来るであろうか。どの神と一緒にこの国を作ったらよいであろうか」と仰せになった。

 この時、海を照らして近寄ってくる神があった。その神が云うには「私を好くお祀りすれば私はあなたと共に国を作りましょう。もしよく祀ることができないならば国を作ることは難しいでしょう」と申された。
 そこで大国主神は「ではどのようにお祀りしたらよろしいのでしょうか」と申されると、「わたしを大和の、青垣の、東の山の上に祀りなさい」とお答えされた。この神が御諸山(三輪山)の上に鎮座しておられる神である。

 さて、かのオオトシが神活須毘神(カムイクスビ)の娘、伊怒比売(イノヒメ)を娶って生んだ子は大国御魂神(オオクニミタマ)、つぎに曾富理神(ソホリ)、つぎに白日神(シラヒ)、つぎに聖神である。
 また香用比売(カヨヒメ)を娶って生んだ子は大香山戸臣神(オオカグヤマトミ)、つぎに御年神である。

 また天知迦流美豆比売(アメチカルミヅヒメ)を娶って生んだ子は奥津日子神(オキツヒコ)、またの名は大戸比売(オオヘヒメ)である。この神は人々が祀っている竈の神である。
 つぎに大山咋神(オオヤマクヒ)、またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシ)である。この神は近江の国の比叡山に鎮座し、葛野の松尾に鎮座して鳴鏑を神体とする神である。
 つぎに庭津日神(ニハツヒ)、つぎに阿須波神(アスハ)、つぎに波比岐神(ハヒキ)、つぎに香山戸臣神(カグヤマトミ)、つぎに羽山戸神(ハヤマト)、つぎに庭高津日神(ニハタカツヒ)、つぎに大土神(オオツチ)、またの名は土之御祖神(ツチノミオヤ)である。

 上にあげたオオトシの子、オオクニミタマから下、オオツチまであわせて十六柱の神である。

 羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神(ワカヤマクヒ)、つぎに若年神、つぎに妹若沙那売神(イモワカサナメ)、つぎに弥豆麻岐神(ミヅマキ)、つぎに夏高津日神(ナツタカツヒ)、またの名は夏之売神(ナツノメ)、つぎに秋毘売神(アキビメ)、つぎに久々年神(ククトシ)、つぎに久々紀若室葛根神(ククキワカムロツナネ)である。

 上にあげた羽山の子より若室葛根まで、あわせて八柱の神である。

 おなじみの神話である。懐かしいおもいで読まれた読者も多いだろう。この大国主神の神話は『古事記』の神話や説話の中でもとりわけ並々ならぬ分量で記述され内容もたいへん充実している。そのため、今読んでみてもとても千三百年以上も昔の話とは思えないほど面白い話となっている。

 大変面白い話なのだが、いかにも荒唐無稽なおとぎ話のような話で、これを実話だと信じている人はそう多くはいないだろう。歴史学者の間でもおおよそ歴史とは無縁の物語というのが一般的な認識となっている。 
 しかし、この物語をもう一度丁寧に読み返していただきたい。何の変哲もないありきたりの冒険物語のように見えるかもしれないが、実はこの物語は古代に起きたある重大事件に話の筋立てがそっくりなのだ。
 謎を解く鍵は物語中の以下の文章である。

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 「お前はここにいたら、いつかは八十神たちに滅ぼされるでしょう」といい、すぐに木の国の大屋毘古のもとにオオナムヂを遣わせた。
 ところが八十神たちは探し出して追いかけてきて、弓矢を構えて引き渡しを迫ったので、大屋毘古は木の俣からオオナムヂを逃していった。「スサノオのいる根の堅州国に行きなさい。必ず大神が良い方法を考えて下さるだろう」
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 身の危険を感じたオオナムヂは木の国に逃げる。しかしそこにも八十神たちが追ってきたのでさらに遠くの根の堅州国に逃げたというのである。オオナムヂと同じような行動を執った人物が飛鳥時代に居る。
 その人物とは身の危険を感じて近江から吉野に出家し、そこも危なく為ったので更に吉野から東国に脱出した、中大兄皇子(後の天智天皇)の弟の大海人皇子(後の天武天皇)の事で、大国主神の物語と同じ筋立てで展開するある重大事件とは壬申の乱の事なのである。

 壬申の乱とは六七二年天智天皇の死後、天智天皇の息子の大友皇子と叔父の大海人皇子が皇位継承を巡って戦ったとされる古代最大の戦いである。この年の干支が壬申に当たるので壬申の乱と呼ばれて居る。壬申の乱は中・高等学校の歴史教科書にも必ず書かれて居る程の大変有名な出来事で、『日本書紀』は壬申の乱の記述に特に一巻を割り当てて居て、その為詳細な記述が残されて居る。
 有名な出来事なので説明も不要かとも思うが、神話との比較の為に必要なので先ずその概要を次に説明して置きたい。

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 天智十年(六七一)十月十七日天智天皇は近江宮で病に倒れた。そこで天皇は蘇我臣安麻呂を大海人皇子に遣わして寝所に呼び寄せ、皇位を大海人皇子に譲る事に付いて打診した。
 しかし、大海人皇子は以前から親しくして居た蘇我臣安麻呂に「好く注意して返事する様に」と忠告されて居た。
 そこで「私は不幸な事に元来多病で、とても国家を経営する事は出来ません。願わくは陛下、天下を皇后に託して下さい。そして大友皇子を皇太子として下さい。私は今日にも出家して、陛下の為修行をしたいと思います」と答えた。
 大海人皇子は蘇我臣安麻呂の忠告により朝廷内の不穏な空気を察知し、天智天皇からの皇位譲位の申し出を辞退し、吉野に出家をする事にしたのである。天智天皇はそれを許したので、即日出家し、法衣に着替え、全ての武器を公に納め,大海人皇子は十月十九日,妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)や草壁皇子と忍壁皇子,数人の舎人と共に都を出て出家地の吉野に向かった。
 左大臣蘇我赤兄臣,右大臣中臣金連、中納言蘇我果安臣達近江朝の重臣達が宇治まで見送った。その時、誰かが大海人皇子の吉野行きを「翼を着けた虎を野に放した様なものだ」と呟いたが、その懸念は後に現実のものに為るのである。それから間も無く十二月三日、天智天皇は近江宮で崩御した。

 翌年五月、「私用で一人美濃に行きました。その時、近江朝では美濃、尾張両国の国司に『天智天皇の山陵を造る為に、予め人夫を指定せよ』と命じて居りました。しかしながら夫々に武器を持たせて居ります。恐らく山陵を造るのでは無いと思います。これは必ず何かあるでしょう。速やかに避難しないと、きっと危無いことがあるでしょう」と大海人皇子の舎人の一人が吉野へ報告に来た。
 又、大津京から飛鳥に掛けてアチコチに朝廷の見張りが置かれ,更に,大海人皇子の舎人が吉野へ食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わって来た。
 そこで大海人皇子は「私が皇位を辞退して出家したのは、療養に努め只管天命を全うしようとしたからである。しかし乍ら今、禍を受け様として居る。このまま黙って居られ様か」と言い、舎人達に「聞く処によると、近江朝の廷臣達は私を亡き者にしようと企んで居る。そこでお前達は速やかに美濃に行き、兵を集め、不破道を府下げ。自分も直ぐ出発する」と命じた。

 六月二十四日大海人皇子達は吉野を出発した。急であった為乗り物も無く徒歩だった。この時従った者は舎人が二十人余り、女官が十人余りであった。
 余談だがこの時に従った舎人の一人に書首根摩呂が居るが、後に彼の骨容器と墓誌が吉野から上野へ行く途中の奈良県宇陀郡榛原町八滝の山中で発見され,壬申の乱を物語る数少ない物証として国宝(東京国立博物館蔵)に指定されて居る。
 元々、書首根摩呂の居住地は河内と見られて居るが壬申の乱で活躍した時の体験が忘れ難く、その為壬申の乱に縁のあったこの地に自らの墓を築いたと考えられて居る。

 横河(名張川)に差し掛かった時、黒雲が天を横切って居た。大海人皇子はこれを不思議に思い、火を灯して式(筮竹)を手にとって「天下が二分される印だ。しかし最後は自分が天下を取るだろう」と占った。
 昼夜兼行で進み、途中で大海人皇子の長男の高市皇子が、次いで大津皇子が合流し、次々と兵を集めながら翌日の夜には三重郡家(四日市市東坂部町)に着いた。

 二十六日、朝、朝明郡の迹太川(朝明川)の畔で大海人皇子は天照大神(伊勢神宮)を遙拝した。その後不破道を塞ぐ事に成功したとの報が入り、高市皇子を不破に派遣した。
 一方、近江の都では大海人皇子が東国に入ったと云う情報が伝わり,ある者は大海人皇子に着こうと東国に行こうとしたり、又ある者は山に隠れたりと都中大騒ぎに為った。

 早速対応策が協議され、大友皇子は臣下から直ちに急追する様進言を受けたが、皇子はその進言には従わ無かった。又吉備国、筑紫太宰に使者を送り、軍兵を徴発する様要請するが共に失敗に終わった。
 二十七日に大海人皇子達は不破に入り、ここを陣とし、高市皇子達と作戦を話し合った。この時、大海人皇子は高市皇子に「近江の朝廷には左右の大臣等知謀に優れた群臣が居て共に謀る事が出来る。しかし私には事を謀る者が居ない。只幼少の子どもたちが居るだけだ。どうしたら好いだろうか」と尋ねた。

 すると高市皇子は腕を捲り、剣を握って「近江に群臣が多いと言えどもどうして天皇(大海人皇子)の霊に逆らう事が出来るでしょうか。天皇は一人でいらっしゃると言えども、私、高市が神祇の霊に頼り、天皇の命を受けて諸将を率いて敵を討ちましょう。さすれば敵は我が軍を防ぐ事は出来ないでしょう」と答えた。そこで大海人皇子は高市皇子を褒めて励まし、軍の指揮を全て高市皇子に委ねた。

 この日、尾張国司小子部連{鉗}鉤が2万の大軍を率いて大海人軍に帰属した。 小子部連{鉗}鉤は尾張の国司だから本来は近江朝廷側だが大海人軍に寝返ったのだ。最も寝返った事は小子部連{鉗}鉤に取っては不本意な事だったらしく彼は乱の後自殺して居る。
 二十九日、大海人皇子は高市皇子に命じ、総軍に近江攻略の号令を発した。 同日、大和飛鳥でも大海人軍の大伴連吹負と近江朝廷軍の間で戦いが始まる。大伴連吹負は次々と押し寄せる近江朝廷軍相手に苦戦しながらも最後まで飛鳥を死守した。

 七月二日、大海人軍が不破から出陣した。この時大海人軍は朝廷軍との区別の為赤い布を衣服の上に着けて居た。
 近江朝廷方は不破を攻撃する為、山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等に命じ、数万の兵を犬上川の畔に集めた。処がここで山部王が蘇我臣果安、巨勢臣比等に殺されると云う異常事態が発生する。その為朝廷軍は戦う前に分裂してしまった。

 この後、大海人軍は各地で近江朝廷軍を破り、二十二日には瀬田川の辺に着いた。瀬田川の唐橋周辺での決戦において激戦の末、大海人軍は決定的な勝利を収めた。

 戦いの後、大海人軍は近江京に入り粟津岡(大津市膳所)に陣を置き、左右の大臣や罪人たちを捜索、逮捕した。敗れた大友皇子、左右の大臣達は辛うじて逃れるが、翌日、大友皇子は山前にて自殺した。
 八月二十五日、高市皇子に命じて近江方の罪状と処分を発表した。右大臣中臣金連ら八人が死罪と為り、左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等とその子達、中臣金連と蘇我臣果安の子達が流罪に為って居るが国が二つに分かれての大きな戦いの割には軽い処分であったと言われて居る。

 九月八日、大海人皇子は帰路につき、十二日に大和飛鳥の嶋宮に凱旋した。
 そして翌年二月二十七日、大海人皇子は飛鳥浄御原宮において天皇に即位した。
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 以上、簡単ではあるがこれが壬申の乱のあらましである。大国主神の根の国訪問の神話と壬申の乱の話を対比させると次の様になる。
            
   大国主神の神話           壬申の乱

 身の危険を感じ木の国へ逃げる          身の危険を感じ吉野へ出家する
 木の国まで八十神たちが追って来る        追手を出しそうな朝廷の不穏な動き
 木の股を潜って根の堅州国へ逃げる        警戒を掻い潜り東国へ脱出する
 スサノオの試練を受け逞しく為る         兵を集め軍備を整える
 生太刀、生弓矢、天の詔琴を携えて        東国から近江の都に向かって進軍する
 根の堅州国から逃げる               坂の多い飛鳥や大和での戦い
 坂の尾根に追い伏せる               瀬田川での決戦に勝利する
 川の瀬に追い払う               天皇に即位する
 大国主神になる                  律令国家の完成を目指す
 国作りを始める

 大国主神の正体は天武天皇

 この表から判る様に大国主神の根の国訪問の物語は壬申の乱の経緯とほぼ同型の構造を持って居る。恐らく大国主神の根の国訪問の物語は壬申の乱の話を元に作られたのではないだろうか。と云うより大海人皇子が天皇に即位した経緯が神話として語られて居るのでは無いだろうか。

 大国主の物語の他の部分も見ていこう。ここでは一応、大国主神(あるいはオオナムヂ)の正体は天武天皇(大海人皇子)と云う前提で考えてみたい。物語の初めのヤガミヒメを巡るオオナムヂと八十神の求婚の争いは額田王を巡る、大海人皇子とその兄の中大兄皇子の確執と考えられる。

 因幡の素兎をめぐる話は事実に基づいているとは流石に言い難いが、大国主神が立派な神である事を示す為のエピソードとして挿入された話だろう。
 オオナムヂが八十神に騙され、焼けた石を落とされ殺されたのは中大兄皇子達によって蘇我入鹿が板蓋宮で暗殺された乙巳の変(大化改新)の直後、吉野に出家したものの謀反の疑いを掛けられ妻子諸共惨殺されてしまった中大兄皇子の異母兄、古人大兄皇子の話と考えられる。
 更にオオナムヂが騙されて山に連れて来られ、裂いた木に押しこまれ、挟み殺されたのは、孝徳天皇の死後、中大兄皇子や蘇我赤兄の仕掛けた罠に嵌まり、謀反の疑いを掛けられ縛り首にされた孝徳天皇の皇子、有間皇子の事と考えられる。

 次に登場人物をみてみたい。オオナムヂが大海人皇子とするとヒロインのヤガミヒメのモデルは額田王と云う事に為る。従って話の最後に大国主神の元に残されるヤガミヒメと大国主神の間に出来たキノマタの神は大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女と云う事に為る。
 額田王は万葉歌人としては大変有名だが歴史書の中にその名は殆ど登場しない。
 『日本書紀』の天武天皇二年二月二十七日条に

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 天皇、初めに鏡王の女、額田姫王を娶って、十市皇女を生ませた。
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 とあるだけだ。但し『万葉集』からこの後天智天皇の後宮に入った、詰まり妃と生った事が判って居る。額田王と大海人皇子は万葉集の次の歌で良く知られている。

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 天皇、蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
 皇太子の答へませる御歌 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
 紀に曰はく、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野に縦猟したまひき。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉皆に従ひきといへり。 
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 この歌は天智天皇の即位直後、天皇が大海人皇子達を引き連れ蒲生野で狩りをした時の宴会の席で歌われたものと言われて居る。一般的には、既に二人の関係は終わって居り、宴会の座興として歌われたのものとして軽く解釈されて居るが、神話の内容からは決してそうとは言え無い様な気がする。恐らく未だ未練たっぷりだったのだろう。

 神話の内容から壬申の乱の後、額田王は大海人皇子のもとに連れてこられたものと思われるが妃の鸕野讃良皇女の嫉妬の前にはいかんともしがたく、静かに身を引いたものと思われる。『万葉集』には壬申の乱以後、額田王の歌がいくつか残されていてかなり長命だったといわれている。『日本書紀』には殆ど記述の無い額田王は『古事記』の中ではヤガミヒメの名で大活躍して居たのである。

 オオナムヂの敵役の八十神は大海人皇子の兄の中大兄皇子、後の天智天皇と天智天皇の息子、大友皇子の事に為る。「八十」と多数人称に為って居るので天智天皇の側近達もその中に含まれて居るのだろう。
 オオナムヂの妻のスセリビメは天智天皇の娘で、天武天皇の皇后の鸕野讃良皇女、後の持統天皇と云う事に為る。スセリビメの夫に対する並々ならぬ愛情、夫を助ける為には親のスサノオを裏切る事も厭わない積極果敢な行動力は『日本書紀』から伺い知る事の出来る持統天皇の性格そのものだ。
彼女は天武天皇の死後、その遺志を継いで律令体制を完成させた女帝中の女帝として余りにも有名である。

 話の中には登場しないが系譜の中には多紀理毘売が大国主神の妃の一人として登場し、二人の間には男女二柱の神が誕生する。天武天皇は妃の大田皇女との間に大来皇女と大津皇子の男女二人の子を設けているので多紀理毘売は大田皇女の事と考えられる。
 これで何故出雲大社の多紀理毘売を祀る筑紫社がスセリビメを祀る御向社より上位に祀られて居るのかその理由が明らかと為る。大田皇女は持統天皇の実姉だからだ。この事から御向社の右に祀られて居る天前社に祀られて居る{討虫}貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)は持統天皇の異母妹で天武天皇の妃の大江皇女と新田部皇女と考えられる。

 即ち出雲大社には天武天皇が大国主神として、天武天皇に嫁いだ天智天皇の四人の皇女が四柱の女神として祀られて居るのではないだろうか。

 その10につづく



古代からのお話し その8

 
 古代からのお話し その8

 
 途中で切り替わって居た出雲大社の祭神

 又出雲大社に関しての驚くべき事実はこれで終わら無い。更にビックリする様な事実がある。

 出雲大社の祭神が大国主神であると云うのは誰もが知って入る。そして昔から出雲大社には大国主神が祀られて来たと信じて居る。処が実は大国主神が祀られる様に為ったのは江戸時代からだと云うのだ。それ迄は本殿に祀られて居たのはスサノオだと云うのである。
 大社の拝殿前に寛文六年(1666)に毛利綱広によって寄進された銅の鳥居(重要文化財)があるがそこには次の様な文章が刻み込まれて居る。

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 それ扶桑開闢してよりこのかた、陰陽両神を尊信して伊弉諾伊弉冉尊といふ。此の神三神を生む。一を日神といい、二を月神といい、三を素盞嗚というなり。日神とは地神五代の祖天照大神これなり。月神とは月読尊これなり。素盞嗚尊は雲陽の大社の神なり、云々
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 雲陽の大社と云うのは出雲大社の事を指す。この事より出雲大社の主祭神が江戸時代初期には素盞嗚尊(スサノオ)であった事が判る。
    
 銅鳥居  出雲大社

 この鳥居の銘文だけでは無く、国造家に伝わる中世の様々な古文書が出雲大社の祭神をスサノオとして居る。
 国譲りの代償として大国主神を祀る為に創建されたのが神話に記された出雲大社の起源だから最初に祀られて居たのは大国主神であった筈。それが中世においてスサノオが祀られて居たと云う事は、途中で大国主からスサノオに切り替わった事に為る。これは一体どうした事であろうか。

 切り替わった理由、時期に付いての明確な記録は無いがその時期に付いてはある程度の推測は可能である。元々出雲国造は出雲東部の意宇郡に居住し、スサノオを祭神とする熊野大社を祀って居た。八世紀から十世紀に掛けての法令を編纂した『類聚三代格』の郡司の条に見える太政官符の中に

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 慶雲三年(七〇六)出雲国造は意宇郡大領を兼帯して、延暦十七年(七九八)までに及ぶ。
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 とある。大領とは地方を支配した長官の事で、出雲国造は慶雲三年に意宇郡大領を兼任したが、延暦十七年にその任を解かれた事に為る。恐らくその頃出雲国造は出雲大社のある杵築の地に一族を挙げて移り住んだと考えられて居る。又『令義解』と言えば、平安時代初期、天長十年(八三三)に淳和天皇の勅によって右大臣清原夏野によって撰集した令の解説書だが、その中の「神祇令」に天神地祇の註として

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 天神とは伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神等がこれである。地祇とは大神、大倭、葛木の鴨、出雲の大汝神等がこれである。
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 天神とは高天原から天降った神、地祇は土着の神の事である。即ち出雲国造が祀って居たのは天神、即ちスサノオだと言って居るのである。大汝神(大国主神)に関しては只単に出雲の神であるとして居るだけである。従ってこの頃には既に祭神はスサノオだったものと思われる。
 このことから出雲大社の祭神が大国主神からスサノオに切り替わったのは平安時代の初め頃ではないかと考えられている。即ち出雲大社の祭神は、奈良時代以前は大国主神が祀られ、平安時代以降は大国主神にかわってスサノオが祀られるようになり、江戸時代の初めに元の大国主神に戻されたことになる。

 以上の事から如何に出雲大社や大国主神の回りには不可解な事が多く、又謎に満ちて居るかが判る。そしてどうやら天皇家とはとても深い関係にあるらしい事もお判り頂けた筈である。出雲大社の謎を解き、大国主神と天皇家との関係を知る為には何としても出雲大社に祀られて居る大国主神やスサノオの正体を解き明かすしか無い。
 大国主神の正体を知る為には、先ず大国主神に付いて書かれて居る神話を紐解く必要がある。次にその神話について調べてみたい。


 第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体

 謎に満ち溢れた『古事記』

 大国主神の神話は『古事記』『日本書紀』又『風土記』にも記載されて居る。又各地の神社伝承等にも残されて居るが大国主神の神話で特に有名なものは『古事記』に記載された『因幡の素兎』の話なので、ここでは主に『古事記』を中心に扱いたい。
 神話に入る迄にここで少し『古事記』に付いて少し詳しく紹介して置きたい。『古事記』は和銅五年(七一二)に成立したとされる現存する日本最古の歴史書とされる書物で、『日本書紀』に較べて内容が良く整理されて居て読み易く又その内容自体も大変面白いので古典文学としても高く評価されて居る。

 『日本書紀』は読んだ事は無くとも『古事記』は読んだ事があると云う方も多いのではないだろうか。最近でも三浦佑之氏の『口語訳 古事記』が古典文学としては珍しいベストセラーに為り話題に為ったのでその内容はご存じの方も多いだろう。又漫画、演劇の題材としても良く取り上げられて居るので、年輩の方だけでは無く若い人にも関心は高い様で結構身近な存在と為って居る。
 しかしながらその成立と内容は実に謎に満ち溢れたものである。『古事記』は全三巻で構成され、神代から推古天皇迄の物語と系譜が書かれて居る。但し物語が書かれて居るのは第二十三代顕宗天皇迄で、次の仁賢天皇以降第三十三代推古天皇迄は系譜だけと為り、次の舒明天皇以後は何らの記載も無い。

 『日本書紀』は仁賢天皇の次、第二十五代武烈天皇以後の記載に全三〇巻の内、半分の一五巻を当てて居るので同じ歴史書とは云うもののその内容、性格には大きな違いがある。ほぼ同時代の歴史書でありながら『古事記』と『日本書紀』に何故その様な違いがあるのか、様々な説が出されては居るが、未だにこれはと言った決定的な説は出されていない。
 又、何故同時期に『古事記』、『日本書紀』と云う二つの歴史書が編纂される事に為ったのかそれも不明だ。国の正史は二つも要ら無いのである。

 この時代の他の文献に『古事記』の成立に関する記事は全く存在しないので、その成立に関しては『古事記』自身の『序』によるしか無い。『序』と為っては居るが正確には上表文と言っても好いものだ。上表文とは臣下が天皇に奏上する文書の事で、この場合は太安万侶が元明天皇に『古事記』を奏上すると云う前提で書かれて居る。

 『序』の中で『古事記』の成立に関する部分だけを要約すると次の様に為る。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 壬申の乱の後、天武天皇は「諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただいまこの時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年もたたないうちに、その正しい趣旨は失われてしまうにちがいない。
 そもそも帝紀と本辞は、国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本(邦家の経緯、王化の鴻基)となるものである。それ故、正しい帝紀を撰んで記し、旧辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う。」と仰せられた。

 そのとき稗田阿礼という天皇の側に仕える聡明な舎人がいた。年は二十八歳で、かれは目にしたものは即座に言葉に置き換えることが出来、耳に触れた言葉は決して忘れることがなかった。そこで天皇は稗田阿礼に命じて帝皇の日継と先代の旧辞とをくり返し誦み習わせたが天皇が崩御し、そのままになっていた。
 その後,元明天皇の代になり天皇が旧辞に誤りや間違いのあるのを惜しまれ、帝紀の誤り乱れているのを正そうとされた。
 和銅四年九月十八日に臣安万侶に詔して、稗田阿礼が天武天皇の勅命によって誦習した旧辞を書き記し、書物として献上せよと仰せられた。そこで安万侶が仰せに従い採録した。

 しかし、上古においては言葉もその内容も素朴であり、すべてに訓を用いて記したのでは上古の心を表現できない。すべてに音を用いて記したのでは記述が長くなり過ぎる。そこである場合は一句のなかに音と訓を交えて用い、ある場合はすべて訓を用いて記述した。言葉の意味のわかりにくいものには注をつけてわかりやすくし、言葉の意味のわかりやすいものには注はつけなかった。
 天御中主神から鵜草葺不合命までを上巻とし、神武天皇から応神天皇までを中巻とし、仁徳天皇から推古天皇までを下巻とした。合わせて三巻に記して和銅五年正月二十八日に元明天皇に献上した。
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 天武天皇の命で稗田阿礼が誦習し、太安万侶が元明天皇に『古事記』を献上したと為って居るがこの様な記録はこの時代の歴史書である『日本書紀』、『続日本紀』には全く存在しないばかりか『古事記』の存在すらそれらには記載されて居ない。
 その内容を『邦家の経緯、王化の鴻基』(国家の原理、天皇政治の基本)と記し、『続日本紀』に何度も名が乗る程の有力官人であり、昭和五十四年一月二十三日、奈良市此瀬町の茶畑から墓誌が発見された事によっても、当時存在したことが明らかな太安万侶が元明天皇に献上したと為って居るにも関わらず、『古事記』に関しての記載が全く無いのは不可解である。

 又天武天皇の時代はこの時代の大量の木簡が出土して居る事からも判る様に既に文字は盛んに使われて居た。にも関わらず国の歴史を後世に残すと言う様な重要な事を稗田阿礼と云う一個人の記憶力に頼ると言う様な行為自体が不自然な話でもある。誠に面妖な内容としか言い様が無い。

 しかしどうした訳か日本の学会はこの『序』を信じて疑わ無い。従って教科書にも太安万侶は古事記の編纂者として紹介されて居る。稗田阿礼は男か女かと言う様な議論すら大まじめに行われて居たのである。当然この様な学会の態度に対して一部の研究者から猛烈な反発があった。

 、『日本書紀』、『続日本紀』等に『古事記』に付いての記載が無い
 、『古事記』が後に編纂された『日本書紀』に引用されて居ない
 、稗田阿礼の存在が疑わしい
 、内容に和銅年間より新しい平安時代以降のものが含まれて居る
 、本文に使用されて居る万葉仮名が奈良時代以降の用法である

 等々の数多くの疑問が彼らから出され、江戸時代より今日まで『古事記』偽書説が後を絶た無い。この様に『古事記』はその成立過程からして謎に満ちた書物なのである。
 その『古事記』の神代の巻に記載されている『因幡の素兎』『国譲り』の神話は大変有名なので好くご存じの方も多いのではないだろうか。『古事記』にはこれ以外にも多くの神話が記載されている。『古事記』の神代の内容を列挙すると以下のようになる。

   一、天地開闢
   二、伊邪那岐命,伊邪那美命の国生み
   三、伊邪那岐命の黄泉の国訪問
   四、三貴子の誕生
   五、天の安の河の誓約
   六、天の岩屋戸
   七、八俣の大蛇
   八、因幡の素兎
   九、大国主神の根の国訪問
   十、八千矛神の妻問
  十一、大国主神と少名毘古那神の国作り
  十二、葦原中国の平定
  十三、大国主神の国譲り
  十四、天孫降臨
  十五、木花之佐久夜毘売
  十六、山佐知毘古と海佐知毘古(山幸彦と海幸彦)
  十七、鵜葺草葺不合命の誕生

 これ等の神話の内、七の『八俣の大蛇』から一三の『大国主神の国譲り』迄の出雲を舞台とした神話が、所謂『出雲神話』と呼ばれるスサノオや大国主神が活躍する神話で、神話全体の三分の一以上を占めて居る。本書ではその中の八の『因幡の素兎』の話から始めたい。

 『因幡の素兎』の話と言っても、話全体は大国主神が八十神の兄弟に代わって葦原中国の王に為る経緯を語る波瀾万丈の冒険物語で『因幡の素兎』はその話の中の一部となって居る。
 実はこの大国主神の物語は大国主神の正体と『古事記』の謎を探る上で大変重要な物語と為って居る。特に大国主神の動きに注意して読んで頂きたい。

 その9につづく



古代からまお話し その7

 古代からのお話し その7

 第一章 大国主神と出雲大社

      出雲7.jpg

 大国主神に付いて

 日本には「八百万の神々」と云う言葉がある程数多くの神が存在するが、大国主神はその中でも須佐之男命(スサノオ)や天照大御神(アマテラス)と並んで最も有名な神で、祀られて居る神社が出雲大社と云う壮大な社殿である事と相まってその存在感は圧倒的である。又、存在感が大きいだけでは無く、我々にこれ程身近な神も無いだろう。
 出雲の国作りの神として広く知られて居るが、縁結びの神としても有名だから若い人にも人気があり、他の神は知ら無くても大国主神は知って居ると云う方も多いのではないだろうか。中にはお世話に為った読者も居られると思う。

 出雲を舞台に大国主神やスサノオが活躍する神話は『古事記』『日本書紀』『風土記』に数多く残されて居る。所謂出雲神話と呼ばれる一群の神話である。
 中でもスサノオのヤマタノオロチの退治や大国主神が大活躍する因幡の素兎の話は大変有名な神話で、年輩の方なら一度は読まれた事があるだろう。又、大国主神は日本全国の神社に広く祀られて居り、縁結び、病気平癒、五穀褒上、商売繁盛、殖産興業、或いは必勝祈願とご利益も万能で人気があるのも当然だろう。                                                     更に大国主神の「大国」がダイコクとも読める事から、同じ発音の大黒天(大黒様)とも習合され民間信仰に広く浸透して居る。最も本来の大黒天はインドのヒンズー教の神マハーカーラと言われ、その名の通り黒い姿で憤怒の表情の如何に凄いか。
 日本人が持つ大黒天のあの福与かなイメージは日本神話に出て来る大国主神そのものである。頭に頭巾を被り背中に大きな袋を背負い右手に打ち出の小槌を持ち、ニコヤカナ表情で米俵の上にチョコんと立った例のあの神像が福の神として家の神棚に祀られて居ると云う方も多いのでは無いだろうか。

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                                                  しかし、この大国主神、調べれば調べる程謎の多い神である。先ずその名前だが実に多くの別名がある。『古事記』では大国主神以外に、大穴牟遅神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神と四つの名を持って居る。又『日本書紀』の一書(第六)には

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 大国主神は又の名を大物主神、又は国作大己貴命と云う。又は葦原醜男とも云う。又は八千矛神とも云う。又は大国玉神とも云う。又は顕国玉神とも云う。
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 とあり、大国主神以外に六つの名が記されて居る。又『出雲国風土記』には、天の下造らしし大神、天の下造らしし大神大穴持命とも表記され、天下を造った神として認識されて居る。他の神だと別名は無いか、或いはあっても精々一つか二つだろう。何故大国主神だけこの様な多くの別名があるのであろうか。しかも、この神は随分昔から全国的に広く祀られて居る。                          
                                                  例えば、宮崎県児湯郡都農町に日向の国の一之宮として知られる都農神社が鎮座して居るがこの神社にも大己貴命(大国主神)が祀られて居る。神社の伝承では神武天皇御東遷の途中、此の地に於いて、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念の為、鎮祭されたのを当社の創祀として居るが、仁明天皇承和四年(八三七)に宮社に列したとの記録が残されて居るので、九世紀の初期には既に九州の南端近くに大国主神が祀られて居た事に為る。
 古代日本の基本法令である「養老律令」の施行細則を集大成した法典に『延喜式』がある。延喜五年(九〇五)に藤原時平達によって編纂が開始され延長五年(九二七)に奏進された事から『延喜式』と称され、ほぼ完全な形で今日に伝えられ、内容が詳細な為古代史研究に不可欠な文献とされて居るが、この中に平安時代初期の全国の主要な神社の名を記した『延喜式神名帳』がある。

 時々神社名が書かれた石柱に「式内社」と記された神社を見かける事があるが、それはこの『延喜式神名帳』に名が載って居る神社の事である。
 この『延喜式神名帳』を見ても既にこの頃には北海道を除くほぼ日本全国に大国主神が祀られて居た事が判る。本来出雲の神である筈の大国主神を誰が何時、何の為に日本全国に祀ったのだろうか。又、日本全国に祀られて居るだけで無く、新田開発をした、温泉を開いたと言う様な大国主神に纏わる様々な伝承も各地に残されて居る。

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 八世紀初めに編纂された『風土記』等にも大国主神の話が記載されて居るので、 大国主神が「日本中で大活躍」して居たのは随分昔の事と為る。大国主神とは一体何者なのであろうか。又大国主神の活躍する出雲神話とは一体何なのであろうか。この事に付いては従来から様々な説があり未だに意見の一致には程遠い状況にある。

 一つには出雲に大国主神或いはそのモデルと為る様な人物や王権が実在して居たと考える単純素朴な説だ。流石にこの説を唱える歴史学者や考古学者は多くは無いが一般の人々には広く信じられて居るし、この説を採る在野の研究者、歴史作家も少なくは無い。
 しかも近年出雲地方に於いて大量の銅剣(神庭荒神谷遺跡)・銅鐸(加茂岩倉遺跡)が発掘され、又出雲大社に於いて巨大な神殿の存在を示す遺構が発見されたのでこの説を唱える研究者が増えて来ているのは事実である。しかし、出雲地方に大和に対抗する様な大きな王権が存在した事を示す墳墓や宮殿等の建物の遺構は何ら発見されていない。

 出雲地方最大の古墳も松江市山代町にある山代二子塚古墳で、その全長は94メートルでしか無く、考古学者によればこれは出雲の周辺地域と余り変わりが無いとされて居る。出雲地方に神話の大きさに見合うだけの強大な王権が存在したとは考えられ無いと云うのが多くの考古学者の一致した見解と為って居る。
 或いは、出雲神話を含め『記・紀』(『古事記』『日本書紀』)の神話は中央、即ち大和朝廷の官僚による机上の創作と考える津田左右吉氏に代表される説がある。即ち神話は天皇による国家統治の由来を語り、それを正当化する為に書かれた政治的なもので全くの架空の物語と云う説である。

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 氏の説は従来の歴史観を根底から覆す画期的な説であったが、戦前の天皇が絶対視された皇国史観一辺倒の時代にはこの説は皇室を冒涜するものとして政府の逆鱗に触れてしまった。津田左右吉氏の著書は発禁処分と為り、氏自身も出版法違反で起訴される等散々な目に遭ってしまった。
 自由にものが言える様に為った戦後にはこの説は多くの歴史学者に支持される様に為り、今ではほぼ定説と為って居る。しかしこの説では何故出雲神話が『記・紀』の神話全体の三分の一を越える大きな分量で書かれて居るのか説明する事が出来ない。

 天皇による国家統治の由来を語るのに出雲の神が活躍する話を延々と語る必要は無いのだ。又、あれだけの話を全くの空想で書けるとも思われ無い。神話と言えども何らかの歴史的事実が反映されて居るのではないかと云う説にはそれ為りに説得力もあるのである。
 或いは出雲に大国主神を崇拝する信仰集団が存在し、その集団が中央に大きな影響を及ぼした為、出雲神話が中央に取り入れられたと云う説もある。この説だと『記・紀』の神話に出雲神話が大きく取り上げられて居る理由を説明出来るが、その様な信仰集団の存在を証明するものは無く今の処全くの想像でしか無い。

 大国主神は誰かが考え出した全く架空の人物だろうか?それとも、実在の人物だったのだろうか?もし実在の人物ならどの様な人物だったのであろうか?
 正に大国主神の謎は日本古代史最大の謎と言っても好く、大国主神の正体は何なのかその謎を解か無い限り日本古代史の謎は解け無いと言っても過言では無い。本論では先ずこの大国主神の正体を探る事から古代史解明の切っ掛けとしたい。

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 出雲大社に付いて

 大国主神は様々な名前で日本各地の神社に祀られて居るが、大国主神が祀られて居る神社と言えば出雲大社の名を挙げ無い訳にはいか無いだろう。次にこの出雲大社に付いて少し考察してみたい。      
                    
 出雲大社は島根半島の西の端、島根県出雲市大社町杵築に鎮座する、伊勢神宮と並んで日本で最も著名な神社である。
 出雲大社は一般には「いずもたいしゃ」と読まれて居るが「いずもおおやしろ」が正式な読み方である。杵築大社とも言い、古くは天日隅宮、出雲大神宮(『日本書紀』)、所造天下大神宮(出雲風土記)とも称されて居た。

 因みに神社の称号には、大神宮、神宮、宮、大社、神社、社等があるが一般に宮と付くのは皇室の祖先、天皇、皇族を祀り、社と付くものにはその他の神が祀られて居る。
 今では大社と名の付く神社は日吉大社、住吉大社等少なくは無いが、本来は大社と言えば出雲大社の事だけを指して居た。今でも神社関係者の間では単に「神宮」と言えば伊勢神宮の事を指す様に「大社」と言えば出雲大社の事を云う。
 前出の『延喜式神名帳』に大社と書かれて居るのは杵築大社だけで、この事だけでも出雲大社が古来より特別な神社であった事が判る。出雲大社の境内は四万七千余坪と広大で、摂社、末社は二十三社を数える。当然の事ながら参拝者も多く毎年全国から二百万人以上の参拝者が訪れて居て、出雲市に取っては観光の中心と為って居る正にドル箱である。と云うより打ち出の小槌と言った処だろうか。この出雲大社も大国主神に劣らぬ多くの謎に満ちあふれた神社である。

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 巨大神殿の謎

 出雲大社の建築様式は切妻妻入り(妻側が正面入口)の大社造で、伊勢神宮の切妻平入り(庇のある平側が正面入口)の神明造と共に我が国の神社建築で最も古い形式とされて居る。神社の建築様式にはこれ以外にも流造、住吉造、八幡造等様々の様式があるが大社造が見られるのは出雲地方とその近辺に限られて居る。

 出雲を旅すると、谷間の小さな集落に熊野大社や佐太神社と言った大社造の立派な社殿を持った神社が鎮座して居るのは一寸神秘的と言っても好い様な光景で、これを見ると如何にも出雲は神の国と言った趣がある。
 出雲大社の本殿の構造は、中心に建物中央を貫き全体を支える最も重要な柱である「心の御柱」がある。この柱が所謂「ダイコク柱」だ。「一家の大黒柱」の大黒柱はここから来て居る。心の御柱の前後に宇豆柱と呼ばれる心の御柱より少し細い柱があり、建物の側面には左右夫々3本ずつの側柱がある。これら計九本の柱によって建物が支えられて居る。                  
 そして本殿の最も奥に神座が設けられて居るのだが、面白いのは神座のその向けられた方向である。本殿は正面南向きに建てられて居るが神座は西向きに設けられて居る。参拝者から見ると丁度ソッポを向いた様な形と為って居る。何故本殿は南向きなのに神座は西向きなのかに付いては古来より様々な説があり、夫々が論者の宗教観、古代史観が窺える様で興味深いものがあるので幾つか紹介しよう。

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 一、 本殿の後にスサノオを祀る素鵞社があるので、尻を向け無い様に西向きにした。
 二、 出雲大社の西の方が開けて景色が好いので西向きにした。
 三、 古代の住宅の間取りが本殿の間取りに反映されて居る。
 四、 国譲りを強いられた大国主の怨念を封ずる為に西向きにした。
 五、 大陸の脅威から国を守る為に西を向いて居る。
 六、  霊魂の故郷としての常世の国に相対して居る。

 因みに最後の説は第八十二代の出雲国造の千家尊統氏がその著書『出雲大社』(学生社)で述べて居る説である。神座の前には客座があり次の五柱の神が、これは南向きに祀られている。

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 一、 天之御中主神
 二、 高御産巣日神
 三、 神産巣日神
 四、 宇麻志阿斯訶備比古遅神
 五、 天之常立神

 これ等の五柱の神は別天つ神と呼ばれる『古事記』の最初に名の現れる神で天つ神の中でも特別な神々とされ、中でも天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は造化三神と呼ばれ、天地万物を創造した神とされ神道では特に重要視されている。又本殿に向かって左側には多紀理姫を祀る筑紫社、右側に須勢理比売を祀る御向社、更にその右側に{討虫}貝比売と蛤貝比売を祀る天前社がある。        
                             
 面白い事にこの三社の間には序列があって高い方から筑紫社、御向社、天前社の順だそうだ。社殿の基礎や建物も筑紫社は他の二社より丁寧に作られて居る。『古事記』の神話では須勢理比売は大国主神の大后(正妻)と為って居るので多紀理姫を祀る筑紫社の方が上位に祀られて居るのは不思議な事とされている。
 この様に出雲大社に関する謎は多いが何と言っても最大の謎は社殿のその巨大さである。兎に角でかい。現在の本殿は延享元年(一七四四)に建てられたもので、その高さは地面から屋根の上に突き出た千木の先端まで八丈(約二四メートル)もあり、我が国の神社建築の中で最大の高さと大きさを誇っている。この千木と云うのは社殿屋根の両端の材で交差し高く突き出て居る部分のことである。

 伊勢神宮の社殿の高さが約十二メートル、その他の著名な神社の社殿も十メートル前後だから出雲大社の社殿の高さは抜きん出て居る。しかしこの程度で驚いてはいけない。社伝によれば社殿の高さは、中世には現社殿の高さの二倍、十六丈(約四八メートル)もあったとされ、更に古代においては、なんと四倍の三十二丈(九六メートル)或いは三十六丈もあったと云うのだ。
 高さ九六メートルの建造物と言えば現在でもそう小さい建造物では無い。現在の建物で言えば二五階から三十階建て位のビルディングに相当するだろう。その様な巨大な社殿が千年以上も昔、それも木造で建てられて居たと云うのである。まるで冗談としか思え無い様な話である。
 三十二丈は兎も角、十六丈なら建築可能とみて建築史家の福山敏男氏が作成した十六丈本殿の復元図は有名で様々な文献に引用されて居る。  
      
 余談だが出雲市では出雲大社に遠慮して建物の高さはこの十六丈(約四八メートル)位までとされて居て、出雲市で一番高い建造物の木造の出雲ドーム(一九九二年完成)も高さは四八、九メートルと為って居る。

 雲太、和二、京三

 平安時代の中頃、公家の子弟教育の為に書かれた『口遊』と云う教育書がある。子供の教育書とは云うものの、かなり高度な内容と為って居て興味がある方は一度読んでみられると好い。舌を巻く筈だ。日本最古の「九九」が載って居る事でも有名な書物である。
 この書の中には様々な項目があるのだが、その中に「橋」「大仏」「建物」の大きさの順位を第一位から第三位まで記した項目がある。橋は「山太、近二、宇三」とあり、京都の山崎の橋が第一で,次に近江の勢多橋が第二、第三が京都の宇治橋だと記されて居る。
 大仏は「和太、河二、近三」とあり、大和の東大寺の大仏が第一で,次に河内の知識寺の大仏が第二、第三が近江の関寺の大仏だと記されて居る。そして建物の項として「雲太、和二、京三」と記されて居る。雲太(出雲太郎)は出雲大社、和二(大和二郎)は東大寺大仏殿、京三(京三郎)は平安京の大極殿の事を指すのだが、太郎と云うのは一番と云う意味だから出雲大社が東大寺大仏殿や京都御所の大極殿よりも大きいと書かれて居るのである。

 この大きいと云うのは、出雲大社は東大寺大仏殿や平安京の大極殿より高い事と一般には解釈されて居るが、高さだけなら東大寺の七重の塔は創建当時八十メートル以上あったとも言われて居るから高さの比較では無いだろう。当時の東大寺大仏殿は現在の大仏殿より一回り大きかったと言われて居るから大変な大きさの建造物だったと思われる。            
 建久元年(1190)春に出雲大社を訪れた『新古今和歌集』や『明月記』で有名な藤原定家の従兄弟の寂蓮法師(藤原定長)は鎌倉時代に編纂された私撰和歌集「夫木抄」に次の様な感想(歌)を残して居る。
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 出雲の大社に詣でて見侍りければ、天雲にたなびく山の半ばまで、片削ぎ(千木の先端)の見えけるなん、この世の事とも覚えざりける。
 やはらくる光や空にみちぬらん雲にわけ入る ちきのかたそぎ
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 社殿背後にある山の中程の高さに、千木の先端が見えたとその高さに驚嘆して居る。三十代半ばで出家し、その後諸国行脚をした寂蓮法師は東大寺の大仏殿は当然見た事があったと思われるが、その法師が出雲大社の本殿を見てこの世のものとも思え無いと驚いて居るのである。

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 金輪造営図と巨大な柱の出現

 巨大な社殿の存在を示すものとして、出雲国造家には「金輪造営図」と云う平安朝に書かれた本殿の指図(見取り図)が残って居る。      
 それによると本殿は四丈(一二メートル)四方、九本の柱は全て三本の柱材を鉄の輪で纏めて一本にして居り、金輪造営図と云う名はここから来て居る訳だがその柱の太さは側柱で直径が一丈(三メートル)もあったとされて居る。
 側柱で一丈(三メートル)なのだから宇豆柱、心の御柱は更に太かったと考えられて居る。東大寺の大仏殿は最も柱の太かった鎌倉時代でもその太さは一・五メートル程度だったと云うから、出雲大社の社殿の柱が如何に太いか判ろうと云うものである。更に注目すべきは本殿の前の引橋(階段)の長さで、その長さは何と一町(一〇九メートル)と記入されて居る。

 この図通りだとすると、古代の出雲大社では社殿に辿り着く迄に階段を延々と百メートル以上も登って行か無ければ為ら無かった事に為る。
 この様な長い階段を、毎日お供え物を持って上り下りし無ければ為ら無い神官もさぞ大変だった事だろう。今ならエレベーターかエスカレーターが欲しい位だ。腰痛だ神経痛だなどと言って居たのでは昔の出雲大社の神官はとてもじゃ無いが務まら無い。
 兎に角大変な高さの社殿が建って居たらしいのである。その為であろうか、社殿が度々倒壊したと云う他の神社では例を見無い様な記録が残されて居る。余りに高過ぎてバランスを崩した事が原因だと言われて居る。

 「出雲大社年表」によれば
 長元四年(一〇三一)本殿顛倒(左経記)
 康平四年(一〇六一)神殿顛倒(百錬抄)
 天仁二年(一一〇九)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
 永治元年(一一四一)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
 承安二年(一一七二)神殿顛倒(千家古文書)
 嘉禎元年(一二三五)神殿顛倒(千家古文書)

 とこの様におよそ三〇年毎に倒壊して居る。三〇年毎に倒壊して居ると云う事は三〇年毎に建てられて居たと云う事でもある。当然その費用は巨額だった筈で、とても出雲一国で賄い切れたとは思え無い。この様に多くの様々な古記録には出雲大社が巨大だった事が記されて居るのだが、最近まで専門家の間ですら三二丈は愚か一六丈の巨大社殿すらその存在は疑問視されて居た。本当に冗談だと思って居たのである。
 何故なら、誰が、何時、何の為にその様な巨大な社殿が建てられたのか明確な説明を誰もする事が出来ないからである。又、巨大な社殿の存在を証明するものは古い文献ばかりで物的な証拠が皆無だったと云う事もある。

 処が近年、その巨大な社殿の実在を証明する、昔の本殿(鎌倉時代)の柱が地中から現れ関係者を驚かせた。平成十二年(2000)四月五日、出雲大社の地下祭礼準備室建設に伴う発掘調査中に、三本の巨木の丸太を束ねた、宇豆柱の根元部分が出土したのだ。その後九本の柱の中央に位置する心の御柱と、南東にある側柱の根元部分も相次いで出土した。
 心の御柱に使われて居た丸太一本の最大径は上層部で一・二メートル、側柱は〇・八五メートルもあり、地中部分を想定すると丸太三本を束ねた心の御柱の直径は最大三・二メートルにも為り、それ迄疑問視されて居た金輪造営図等の信憑性がこの発見で大きく高まったのである。

 この発見によって古代には現在より更に巨大な社殿が存在して居た事は確かな事と為った。しかし、巨大社殿が実在したと為ると何故その様な巨大な神殿が建築される必要があったのかその謎は更に膨らむばかりで、関係者や研究者たちは突然出現した巨大な柱を前に首を傾げるばかりなのである。
 一体何故この様な巨大な社殿が建てられたのであろうか。出雲の神の祟りを鎮める為に建てたと云う怨霊説から、船の航海の為に建てたと云う灯台説まで、古来より多くの説が出されては居るが、未だにその定説は無い。

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 出雲国造と『出雲国造神賀詞』

 出雲大社の宮司は国造家として知られる古くからの名家で、千家氏と北島氏の二氏がある。「国造」は「くにのみやつこ」と読むのが普通だが現在、出雲では「こくそう」と読み慣わして居る。「国造」とは律令政治以前の、古代の地域を支配する地方官の事で律令政治成立の過程に於いて廃止され、中央から派遣される国司に取って代わられたのだが、出雲にはこの制度が残され現在に続いて居る。当然の事だが、今の我が国の制度に国造の制度は無いので、出雲の伝統として続いて居る事に為る。

 島根県では出雲国造の権威は大変なもので、そもそも「国造」等と呼び捨てにしては叱られる。「国造さま」と呼ば無くてはいけない。
 元日の新聞には島根県知事の年頭の挨拶と共に、出雲国造の挨拶が掲載されるし、島根県で重要な公式行事が開催される時には島根県知事が列席するだけでは体裁が整なわず、出雲国造も列席しないと形に為らないのだそうだ。

 出雲地方において国造の制が律令政治成立以降も維持されて来たのは、出雲大社の祭祀を司る出雲国造の宗教的権威に対する朝廷の敬意の現れと解釈しても好い。出雲国造の宗教的権威は,『出雲国造神賀詞』の奏上と云う事に好く示されて居る。『出雲国造神賀詞』奏上は出雲大社の宮司である出雲国造が新任(世継ぎ)に際して行う奈良時代から平安時代初期の宮廷行事で、その行事の中で出雲国造が天皇に奏上する寿詞が『出雲国造神賀詞』である。
 奏上は前後二回行われ、出雲大社に奉祀する出雲国造は上京して新国造の任命を受けると,一旦帰国して一年間の厳重な潔斎の後,再び上京して天皇に大して神賀詞と玉、剣、鏡、布、白馬、鵠(白鳥)等数々の神宝を奉る。
 この後出雲にて再度一年の潔斎を重ね,又同様に上京して神賀詞と数々の神宝を奉る。神賀詞奏上の日は宮廷では全ての仕事が休止され、天皇が大極殿の南庭に出て、出雲国造からこの『出雲国造神賀詞』を受ける。

 その時には全ての官僚達も並ぶと云うから『出雲国造神賀詞』奏上は誠に大掛かりな丁寧な儀式で、この儀式が朝廷に取って大変重要な儀式であった事が判る。この様な儀式は出雲国造以外では全く例の無い儀式だから如何に天皇家が出雲大社を特別視して居たかが判る。
 『出雲国造神賀詞』は全文が『延喜式』巻八に掲載されて居るのでその内容は詳しく知る事が出来る。書き下し文のままで少し判り難いかも知れないが、その内容は以下の通りである。

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              『出雲国造神賀詞』

 八十日日はあれども、今日の生日の足日に、出雲の国の国の造[姓名]、恐み恐みも申したまはく、「挂けまくも恐き明つ御神と、大八島国知ろしめす天皇命の大御世を、手長の大御世と斎ふとして、出雲の国の青垣山の内に、下つ石ねに宮柱太知り立て、高天の原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等を、[某甲]が弱肩に太襷取り挂けて、いつ幣の緒結び、天のみかび冠りて、いづの真屋に麁草をいづの席と苅り敷きて、いつへ黒益し、天の甕わに斎み篭りて、しづ宮に忌ひ静め仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、斎ひの返事の神賀の吉詞、奏したまはく」と奏す。

 「高天の神王高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の児天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。すなはち大穴持の命の申したまはく、『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂をうなてに坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。ここに親神ろき・神ろみの命の宣りたまはく、『汝天の穂比の命は、天皇命の手長の大御世を、堅磐に常磐に斎ひまつり、茂しの御世に幸はへまつれ』と仰せたまひし次のまにまに、供斎仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、神の礼じろ・臣の礼じろと、御寿の神宝献らく」と奏す。

 「白玉の大白髪まし、赤玉の御赤らびまし、青玉の水の江の玉の行相に、明つ御神と大八島国知ろしめす天皇命の手長の大御世を、御横刀広らにうち堅め、白御馬の前足の爪・後足の爪踏み立つる事は、大宮の内外の御門の柱を、上つ石ねに踏み堅め、下つ石ねに踏み凝らし、振り立つる耳のいや高に、天の下を知ろしめさむ事の志のため、白鵠の生御調の玩物と、倭文の大御心もたしに、彼方の古川岸、此方の古川岸に生ひ立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、すすぎ振るをどみの水の、いやをちに御をちまし、まそひの大御鏡の面をおしはるかして見そなはす事の如く、明つ御神の大八島国を、天地月日と共に、安らけく平らけく知ろしめさむ事の志のためと、御寿の神宝をうまげ持ちて、神の礼じろ・臣の礼じろと、恐み恐みも、天つ次の神賀の吉詞白したまはく」と奏す。
 *岩波書店 日本古典文学大系『古事記 祝詞』〔武田祐吉、校注〕*
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 神話に基づく出雲大社と天皇家の関係を語り、天皇の代を寿ぐと云う内容だが、この中で「かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神」とある事に注意して頂きたい。
 「かぶろき」と云うのは「かむろき」の事で、漢字で書けば「神祖」と為る。これは天皇の祖先神と云う意味である。熊野の大神、櫛御気野命と云うのはスサノオの事である。又国作りましし大穴持命は大国主神の事を指して居る。出雲国造は天皇の前でスサノオの事を天皇の尊い祖先神であると言って居るのである。

 しかし我々の常識では天皇の祖先神と言えば伊勢神宮に祀られて居る天照大御神の筈である。何故、出雲国造は天皇の前で出雲神話を語り、その中に登場するスサノオを天皇の祖先神と言い、大穴持命を国作りの神と称えて居るのであろうか。ここには我々が思い浮かべるスサノオとは全く別の姿がある。スサノオの正体は一体何者なのだろうか。
 神賀詞奏上が初めて国史に見えるのは、元正天皇の霊亀二年(七一六)、出雲臣果安の時、残って居る最後の記録は仁明天皇の天長十年(八三三)、出雲臣豊持の時である。
『出雲国造神賀詞』の全文が九二七年成立の『延喜式』に載って居る事から、神賀詞奏上は天長十年以降も続けられて居たと思われるが何時廃絶に為ったのかは定かでは無い。

 その8につづく




古代からのお話し その6

 古代からのお話し その6

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 日本古代史の解明
はじめに

 今、我々は好むと好まざるとに関わらず大きな変革の時代に生きて居る。東西冷戦構造の崩壊を受けて登場した経済大国、中国に政治的・経済的にどの様に対応するかは政治家のみならず国民に取っても大きな課題と為って居るからである。
 古代に於いて我が国は同じ様な体験をして居た。今から約1400年前、隋・唐と言った強大な統一国家が中国大陸に登場した事は東アジアの国々に取って大きな脅威と為り、朝鮮半島の激動と相まって我が国に大きな変革を迫る事に為り、その結果誕生したのが我々の国「日本」である。

 本論が語るのは1300年以上前の飛鳥時代、日本建国の中心と為った天皇家の真実の姿である

 サテ、世の中は相変わらずの古代史ブームが続いて居る。考古学上の新しい発見がある度に新聞、テレビ等で大々的に取り上げられるのも昨今左程珍しい事では無い。 
高松塚古墳であの素晴らしい極彩色壁画が発見されて以来、藤ノ木古墳、吉野ヶ里遺跡、或いは出雲での大量の銅剣、銅鐸の発掘等新しい発見がある度に大きな話題と為り、様々な議論を巻き起こして世の中を騒がせて来たのも記憶に新しい処だろう。

 又遺跡発掘の現地説明会が開催されると驚く程広い範囲から多くの古代史ファンが駆け着けて来る。この様な相次ぐ新発見、古代史に対する世間の関心の高まりは古代史の研究者、ファンに取ってとても嬉しいもので研究を続ける上で大きな励みとも為って居る。
 この様に人々の古代史に対する関心は大変強いものがあり、その要求に答えるかの様に次々に古代史に関する本が発行されて居る。書店の売り場を覗いて見ても歴史コーナーは大きなスペースを占めて居て、世間の関心の高さが伺え、毎日の様に次々と新刊が並べられて居る。

 確かに多くの人々に取って日本古代史はロマン溢れる世界なのかも知れない。 しかしロマンにばかり浸っては居られない現実もある。
 古代史に少しでも関心のある方なら既にお気づきかと思うが、数多くの研究者の長年にわたる懸命の努力にも関わらず古代史の真相は依然深い謎に覆われたままで、その真の姿を私達に容易には見せて呉れ無い。新たな発見も謎の解明に繋がるよりも、それによって更に謎が深まって居る様な気がする。

 具体的には奈良時代以降は記録も多く、かなり解明されて居るのだが、飛鳥時代以前の事に為ると謎だらけなのである。
その主たる原因は、史料と為る文献の少なさとその信頼性の低い事による。 文献が無い訳では無い。『古事記』、『日本書紀』と云う国家によって書かれた歴史書が立派に存在するのだが、その内容が真実を完全に伝えて居るとは言い難いのである。

 『古事記』『日本書紀』は飛鳥時代から奈良時代に掛けて当時の天皇達が自分達の由来を記した歴史書で、第三者が客観的に書いたものでは無い。従って都合の悪い事が書かれて居なくても、虚偽が書かれて居たとしても何ら不思議な事では無い。
 中国の歴史書が一つの王朝が滅びた後、後の王朝によって前の王朝の歴史書が書かれて居る為、かなり信頼されて居るのとは事情が異なるのである。

 そうなら他の文献を参考にすれば好いではないかと思われるかも知れないが、残念ながら『古事記』、『日本書紀』以外のこれと言った日本の古代史に関する記録は金石文(金属や石に刻まれた文字)、木簡等の断片的な史料を除けば、殆ど存在し無いのが現状と為って居る。
 この様な状況は古代史研究者に取って何とも残念な事としか言い様が無い。 隣国の朝鮮の歴史書には日本の古代史に関する重要な記述は余り含まれてはいない。中国の歴史書の中には日本に関する記述が断片的ではあるが残されて居る。
 中でも『三国志』の中の魏書東夷伝倭人ノ条(所謂魏志倭人伝)にはある程度纏まった記述が残されて居り、記述には不明な点が多いにも関わらず、当時の日本の事を知る上で大変貴重なものと為って居る。

 歴史の古い記録と云うものが如何に尊いものか痛感して居るのは筆者だけではあるまい。この様な確かな記録の大変少ない状況の中で、古代史研究者は研究をし無ければ為らないのだからその苦労は並大抵では無い。
 しかし、この様な混沌とした状況だからこそ大学や学会に所属する様な古代史学者で無くとも古代史の研究に魅力を感じるのも確かで、その様な研究者や歴史作家からも古代史に関する本が数多く出版されて居る。
 
 同じ日本史でも中世史や近世史の様に資料が多い分野では知識の豊富な専門家に資料や知識の乏しいアマチュアは全く太刀打ち出来ないのである。しかしながらその様な本の中には残念ながら奇説、珍説の類が数多く見受けられる。
 確かに彼等の書く本は面白いし、好く売れても居る。しかし古代史を少しでも知って居るものなら彼等の書く本を余り信頼しては居ない。学会からも殆ど無視されて居る。史料が少無ければその分は想像力で穴埋めするしか無い。歴史の研究には想像力が必要だと言う事は好く言われる事で、これは間違いの無い処だ。
 しかし、史料が少ない事を好い事に自らの先入観に従って恣意的な解釈や想像ばかりを積み重ねて行けばどの様な話でも書けてしまう。

 叙述力のある作家の手に罹れば面白い話をデッチ上げてしまう事など簡単な事なのである。しかしこれでは空想小説となんら変わりは無い。思わず目を疑う様な説が一部の研究者や歴史作家から発表され、それが一般の読者から一定の支持を受けて居ると言う様な事態にも為って居る。中には所謂「トンデモ本」に名を挙げられた研究書まである。 
 この様な現状では日本の古代史研究は魑魅魍魎の徘徊する世界と言われても仕方が無いのでは無いだろうか。

 改めて確りとした史料批判、即ち古代史研究の基礎的文献である『古事記』『日本書紀』それ自体の研究が必要と感じざるを得無い。取り分け研究に於いて最も重要な事は『日本書紀』に先んじて成立したとされ、最も古い歴史書と言われる『古事記』を誰が、何時、何の目的で、どの様な編集方針の基に編纂されたかを解明する事だと思う。
 『古事記』『日本書紀』の編纂意図を見抜く事が出来れば虚偽と真実を容易に見分ける事が出来るし、例え嘘が書いてあったとしても嘘の裏を探る事によって何らかの真実を見つけ出す事が出来る、例え作り話でもその中に含まれて居る真実を掘り出す事が可能と為るからである。

 本論はその『古事記』に登場する大国主神の謎を解明する事によって神話の謎を、又『古事記』或いは『日本書紀』の謎を解明し、古代史の謎に迫る事を目指したものである。
 尚本論では『古事記』の神話を殆ど省略する事無く掲載して居るのでこれを機会に確りと読んで頂きたいと願って居る。理由は三つある。

 理由の一つは、神話は荒唐無稽な恰もお伽話の様な話ばかりだが、実は神話は古代史を解明する上で極めて重要な鍵と為って居るからである。
 理由の二つ目は、戦前に於いて天皇を絶対視する所謂皇国史観に基づき、神話を史実とする教育が行われた。その事が戦前の悲劇に繋がる一因と為ってしまったのだが、戦後は戦前の反省から神話は逆に全く教えられ無く為ってしまった。しかし神話は日本文化の源流の一つであると共に日本社会を動かすメカニズムの一部として今も機能して居り、日本人なら神話を全く知ら無いで済ます訳には行か無いと思うからである。
 そして最後の理由は、何と言ってもこれ程興味深くて面白い話もそうあるものでは無い。神話を読んで頂くだけでも十分楽しんで頂ける筈である。
 
 天皇号に付いて

 天皇と云う称号が何時頃使用される様に為ったか、天武朝(在位六七三年〜六八六年)に於いて使用されて居た事は、この時代の遺跡から「天皇」と云う文字が含まれた木簡が出土して居るので天武朝以降に使用されて居たのは確実である。
 それ以前に付いては諸説あり定説が無いが、推古朝(五九二〜六二八)以後、恐らく天武朝であろうと云うのが大方の研究者の意見である。私も天武朝だと考えて居る。天皇号が使われる以前は大王と呼ばれて居た。
 
 又、神武・推古・天智・天武と言った歴代天皇の呼称は漢風諡号と呼ばれ漢字二文字で書き表すが、これは奈良時代の終わり頃、天智天皇の曾々孫の淡海三船が一括して撰進したものと言われて居る。漢風諡号とは別に国風諡号或いは和風諡号と云うものもあり、例えば天武天皇だと天渟中原瀛真人天皇と書き表す。
 『日本書紀』ではこの国風諡号が使われて居る。この国風諡号が先帝の崩御後に贈られた正式な諡号なのだが余り一般的では無い。本論では便宜的だが、大変判り易く便利なので推古天皇・天武天皇と言った漢風諡号を用いる事にした。又天皇とは呼ばれて居なかったであろうと思われる推古天皇以前の天皇に付いても神武天皇・応神天皇と言った天皇号と漢風諡号を使わせて頂く。
 
 『日本』国号に付いて

 『日本』と云う国号が何時頃どの様な経過で使われる様に為ったかは謎に包まれて居る。『日本』と云う国号が成立する以前、我が国は『倭』と呼ばれて居た。『日本』と云う国号が正式に使われ始めた時期に付いての確かな記録は無いが、多くの研究者は天皇号同様、天武朝辺りではないかと見て居る様だ。

 本論ではこれ又便宜的ではあるが天武朝以前に於いても『日本』と云う国号を使用して居る事を予めお断りして置きたい。

 その7につづく



古代からのお話し その5

 

 古代からのお話し その5

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 (六)天智天皇の新「皇統」構想と晩年、大海人皇子の登場

 天智天皇の病は篤く、構想の行方に暗雲が立ち込め始める。天智の構想は、同母弟・大海人皇子を協力者に兄弟で紡ぎ出した新しい血統から今後の天皇を出して行き、よりスムーズな皇位継承を推し進めて行こうと云うものだった。
 しかし、未だ「皇太子」制を定めるには至ら無かった。新王朝初の「皇太子」と為るべき草壁皇子或いは大津皇子(共に大海人を父に、天智の娘を母にする)が未だ幼かった事が一つ。又、支配層内での、「皇位は世代順に継承するもの」と云う伝統的な観念も根強かった。

 天智は仕方無く、草壁皇子らの即位迄の繋ぎとして、我が子・大友皇子(母は伊賀の豪族の娘)に譲位する事を決断する。天智は分かって居た。力を着けて来た弟が「同世代」の皇位継承候補者として名乗りを挙げる可能性があり、そう為ればこれを支援する豪族もあろう事を。
 時代は皇位継承方法について、正に分水嶺を迎えつつあった。もし大海人皇子で無ければ、天智の構想は上手く行ったのかも知れない。

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 大海人皇子は「大化改新」以前の半生が不明で急に書紀に登場する事から、天智と大海人が異母兄弟であったとか、二人は全く別系統の王族だったのだと云う論が見られる。
 しかしこれは時代の大きな流れを無視した我田引水な論法と言わざるを得ない()。「大后」や「大兄」の制は皇位継承を安定させる為にあった。その「大兄」は同母の兄弟内の争いを避ける為のもので、この時代には定着して居り、大海人皇子には優先的な継承資格は無く記し残すには値し無かったのだ。

 ()こう書きながら、実は筆者自身もこの論法でこの時代を述べた事がある。ここは「遠山史観による日本古代史」と云う事で、食い違いをお許し願おう。

 処が、天武政権を支える実力者として頭角を現した大海人は「大兄」制を乗り越え、遂には即位に至ったのである。天智晩年、このままでは自分の即位は無いものと悟った大海人は来たるべき日を期して、出家し吉野に隠遁する。失意に内に間も無く天皇は崩御するが、その後の皇位の在りかが定かでは無い。
 大友皇子は弘文天皇と後ちに諡号されたが、本当に即位したのかどうか分から無い。大権は未だ、天皇の大后・倭姫王(あの古人皇子の娘)の元に在ったと寧ろ言うべきだろう。

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 ▼最大の皇位継承戦争としての「壬申の乱」

 これも遠山氏の綿密な考証による結論であるが、大海人皇子は大友皇子の攻撃から不本意に挙兵に追い込まれ、遂に勝利して天武天皇と為ったのでは無い。 予めその意図を以て周到に準備し、かつ勝利後の政治構想さえ持って臨んだ計画的クーデタだったのだ。
 大后・倭姫王を軸に考えると本当の構図が見えて来る。女帝の後の、山背皇子殺害クーデタ、「乙巳の変」クーデタ、そして「壬申の乱」クーデタである。継承者は、同世代の大海人皇子かそれとも次世代の大友皇子かと云う争いなのである。

 大規模な武力闘争や戦争は、夫々を支持する諸豪族の力無くして出来無かった。只、今回は少し違って居た。軍兵の直接動員のカギを握る「庚午年籍」(全国戸籍)があった。だからこそ、壬申の乱は古代最大の内乱と為ったのだ。
 大友皇子は「庚午年籍」を用い、地方官僚・国司(くにのみこともち)に命じて兵力を動員した。それに対して大海人皇子は、私領のある美濃を拠点に、大友の指令を受けた東国の国司達に翻意を促した。

 細かい経過は略すが、結果はご存知の通りである。旧都・倭古京は抱き込んだ大伴氏等に守らせ、大海人自らは大津京攻めの後方・不破に在った。そこで、軍令権を長子・高市皇子に全面委譲する。戦争を大友皇子と高市皇子とが「治天下大王」を争うものと位置づけ、自らはそれを超越した地位にある何者かとしたのである。そう、それが「天皇」であった。大友皇子は自死し、大海人皇子は皇位を強引にもぎ取った。

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 ▼天武朝に於ける「天皇」意識と天智流「血統」主義の後退
 
 都は再び倭古京に戻り、そこで大海人皇子は天武天皇として即位する。大后はウ野皇女(天智の娘であり、後ちの持統天皇)である。天武は先帝・天智と同様、この動乱の統御と収拾の中で、皇権を強化・増大させて行く。
 天智が白村江敗戦直後、豪族懐柔の為に与えた部曲(かきべ:豪族私有民)を廃止し、又皇族を含む諸氏に下した山林等を没収した。他に、畿外豪族にも中央任官への道を開く等、「公地公民」や全国直接統治の実を着々と挙げて行く。

 679年五月、自身に取って壬申の乱縁の地・吉野に、天武は皇后と共に六人の皇子を招く。そこで、六人の結束と連帯を呼び掛け、相互の皇位継承順位を誓約させた。所謂「吉野盟約」である。
その継承順位は次表の通りだ。留意すべきは、天武の皇子達が確かに優遇されては居るが、後ちの持統が始めた様な一血統への絞り込みは未だ為されては居ないと云う事だ。天武自身が武力を以て「世代順継承」を遂行した位だから当然と言えるかも知れ無いが、ここで天智が構想した父母共に天智かつ天武系と云う皇位継承の「血統」主義は一時後退して居る。

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 〈「吉野盟約」での継承順位〉

 順位  皇子   父    母  (その父) 年齢順

 1  草壁皇子 天武天皇  ウ野皇女(天智天皇)  3
 2   大津皇子 天武天皇  大田皇女(天智天皇) 4
 3  高市皇子 天武天皇  尼子娘 (胸形君)  1
 4   河嶋皇子 天智天皇  色夫古娘(忍海造) 2
 5  忍壁皇子 天武天皇  カジ媛 (宍人臣)  5
 6  芝基皇子 天智天皇  伊羅都売(越道君)  6

 681年、律令と「書紀」の編纂開始を命じる。同時期に二十歳の草壁皇子を次期天皇と定める。686年、天武は草薙剣(くさなぎのつるぎ)の祟りによって、俄かに病に倒れる。
 「天皇」は最高の清浄を含意する「すめらみこと」と読むが、これを名乗る天武は穢れを去らねば為らない。年号に道教的な「朱鳥」を立て、宮を「飛鳥浄御原(きよみはら)宮」と改名する。しかしその甲斐も虚しく、同年九月に崩御する。それでも「天武天皇」は「現人神」であり、その死は神仙の様な超絶した隠棲に入ったものとされた。

 ▼持統天皇による「皇太子」の創出と初の平和的な生前譲位
 
 それでも25歳の草壁皇子は即位しない。何故か。後ちの「皇太子」では無いからだ。大后は大権を保持しながら草壁皇子の成長を待つ。その彼女の初仕事は、「吉野盟約」で皇位継承順第二位の大津皇子の誅殺と為った。
 皇后の考えは夫とは少し違って来て居た。何としても我が子・草壁皇子を即位させようと云うのだ。処が願いは叶えられず、689年 皇子は二八歳で没する。だが孫が居た。皇后は夜叉に変身する。浄御原令を完成させ、翌年、自ら中継ぎ役として即位する。持統天皇である。

 浄御原令(行政法)の完成は、古代天皇制の明白なメタモルフォーゼ(変態)を意味する。遂に「大化改新ヴィジョン」はほぼ成就し、法令に基づいた国家統治が可能と為る。これに伴い、「天皇」も個人能力を離れた一地位として存立可能と為った。
 696年、天武の皇子中、最年長の高市皇子が世を去る。翌年、女帝は草壁の忘れ形見・カル皇子を浄御原令の皇太子制に則った皇太子とする。同年八月、持統は生前譲位し、ここに文武天皇が即位した。史上初の平和的な生前譲位であった。

 以降、生前譲位は当たり前のものと為って行く。皇位継承ルールが替わったのだ。持統は、夫・天武によって一時曖昧にされ掛けた父帝の「血統による皇位継承」構想を復活し、しかも更に先鋭化させて「父子直系」と云う一筋に絞り込んだ。これが「皇太子」制を出現させた。
そしてやがて書紀には、「摂政」時代の聖徳太子(「太子」とは「皇太子」の意)、「皇太子」としての「称制」時代の中大兄皇子が描き出される事と為った。

 皇統は、天武と持統の息子・草壁皇子から、その子・文武天皇、その子・聖武、その子・孝謙(称徳)天皇へと引き継がれて行く。これを「天武王朝」と指弾したのは、都を平安京に遷した桓武天皇だ。
 桓武は自身を「天智血統」と自認した。しかし皇位を独占したのは天武血統では無く、正しくは草壁直系であった。天武傍流は天智系と同様排除されて居たのだから。桓武も又、自身に取っての「真実」を述べたに過ぎ無い。それは政治的なプロパガンダとして有効であった。

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 ▼遠山史観についての蛇足

 サテ、この辺りで本稿を終えたい。遠山氏には『彷徨の王権--聖武天皇』と云う興味深い聖武天皇論もあるのだが、それは又の機会としたい。最後に蛇足として、遠山史観について纏めて置こう。

 氏のフィールドは、中近世の天皇制論に鋭い斬り込みを見せる今谷明氏と同様、政治史である。政治史と云うのは、戦後歴史学が「戦前」的な政治中心史観を否定する為に編み出した社会経済中心の「人民史観」によって、長らく冷遇されて来た分野である。
 しかし要約今谷明氏や遠山美都男氏らのメスによって新たな光と面白さを見出され来た。両人とも、「天皇制」と云う、ニッポンとその政治の歴史的な解明のカギと為るものに沿って仕事をして居る処が意味深長である。

 結局、戦後歴史学は天皇制を全否定するだけで何も解明出来て居なかったと云う事に為るからだ。実際、遠山氏なぞは戦後歴史学の「常識」を再検討する事で事実を再照射して来た事は、この小論でも述べて来た通りだ。

 遠山史観の座標軸は、王位継承ルールの変遷にある。中でも、天武天皇以前の男王は「世代順継承」であった事の定式化の意義は大きい。
 「万世一系」が含意して居る「父子直系」イメージは持統天皇が始めた事の逆投影に過ぎ無かった。「皇太子」イメージもこれとセットだった。「世代順継承」に約束された「皇太子」は居なかった。そう云う文脈の中で女帝(大后)の役割とその役割の成長が解明されて居る。

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 氏の出発点と為った「大化改新」は、それ等が集約された最大の謎であった。これを一枚一枚、或いは一筋一筋解き解す事によって全ては明らかに為って行った。書紀史観、戦後史観、更には藤原氏陰謀史観からも解放された、蘇我氏、中大兄皇子、孝徳天皇、皇極天皇等の像が少しずつ現れて来たのだった。合理的な説明が可能に為った。
 例えば、聖徳太子が即位出来無かったのは同世代で年長では無かった事と、推古天皇が終身の女王で生前譲位出来無かったからだと云う訳だ。今後とも、氏の解明に注目して行きたい。

 その6につづく



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