2018年06月09日
古代からのお話し その10
古代からのお話し その10
出雲大社の謎の神事『神幸祭』
大国主神の正体が天武天皇の事であるらしい事は出雲大社の神事からも窺う事が出来るのでその一つの例を紹介しよう。
出雲大社では年間を通して数多くの神事が行われて居るが大社の代表的な神事に神幸祭(身逃神事)がある。神事の間、国造は住まいである国造館を離れ他家へ身を寄せる習わしに為って居るので身逃神事と云う面白い名前でも呼ばれて居る。
この神事は現在、八月一四日と一五日に行われて居るが、明治一八年以前は旧暦の七月四日と五日に行われて居た。出雲大社発行の『出雲大社由緒略記』によれば神事の内容は以下の様なものである。
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八月十一日夕刻、禰宜(神職)は稲佐浜に出て海水にて身を浄め斎館に入って潔斎をする。
禰宜は斎館に籠り、本社相伝の燧杵、燧臼で切り出した斎火をもって調理した斎食を食べ、神事の終わるまで他火を禁ずる。
同十三日夜は道見と称し、禰宜は斎館を出て、先頭に高張提灯二張、次に禰宜自用の騎馬提灯持一人、次に禰宜、その後に献饌物を捧持する出仕一人が従い、この行列を持って先ず大鳥居に出て、ここから禰宜は人力車に乗り、町通りを通り過ぎて四軒屋に鎮座の湊社を詣で、白幣・洗米をお供えして黙祷拝礼する。この御社の御祭神は櫛八玉神で別火氏の祖先神と云う。
次に赤塚に鎮座の赤人社に詣でる。次に稲佐浜の塩掻島に至り四方に向かって拝し、前二社とどうようの祭事をお仕えし、終わって斎館に帰する。
以上によって、御神幸の道筋の下検分を行う。そして同十五日鶏鳴、大国主大神が御神幸になる。
当夜は境内の諸門は何れも開放される。午前一時、禰宜は狩衣を着し、右手には青竹の杖を持ち、左手には真菰で作った苞及び火縄筒を持ち、素足に足半草履を履き、本殿の大前に参進して拝礼し、終って御神幸の儀が始まる。
禰宜は供奉し、前夜道見の際に詣でた二社に行き、次に塩掻島に行って塩を掻き、帰路出雲国造館に至り、大広間内に設けられた斎場を拝し、御本殿大前に帰して再拝拍手して神事を終り斎館に入る。当夜塩掻島で掻いた塩は、十五日の爪剥祭に供える。
神幸供奉図
なお、同十四日、御神幸に先立ち、国造館では表の門を掃き清め、荒薦を敷き、八足机を備え、さらに手洗水を置いて奉迎の準備をするが、近代までこの間、国造は自邸を出て他の社家に赴き、一時仮宿した。そこで、この一連の神事を古来、専ら「身逃げの神事」と称してきた。
ところで、この御神幸の途中、もし人に逢えば大社に帰り、再び出て行く。そのため、この夜は大社町内の人は早くから門戸を閉じ、謹慎して戸外に出ないようにしている。
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誰にも見られては為ら無い神事と云うのが如何にも古社の神事らしくて面白い。この神事も壬申の乱と同型の構造を持って居る。大社本殿を飛鳥に、塩掻きは近江朝廷軍との戦い、国造館は近江京に準えて居るのだろう。その他の祭りの次第も壬申の経緯と好く似ている。
神事の間、国造が国造館を出るのも戦いに敗れた近江京(国造館)に主が居たのでは拙いからであろう。飽く迄祭りの主役は目には見え無いが大国主神なのである。御神幸の途中、もし人に逢えば汚れたとして大社に帰り、再び出て行くのは大海人皇子の東国への脱出が隠密裏の行動だった事に因むものと考えられる。
また大海人皇子が吉野を脱出したのが六月二十四日、大海人軍が近江京に入ったのが七月二十三日なので、以前に神幸祭りが行われていた旧暦の七月三日、四日はその中間に当たる。
出雲大社は創建以来、出雲国造が世襲で代々神事を司って来た。その為祭りの当初の形が途中で変形する事無く現在迄この様に確り受け継がれて居たのだろう。
日本の大抵の祭りは前日夜の宵宮に始まり、祭り当日は神社の門戸が全て開け放たれ、そして神を乗せた神輿を氏子が担ぎ、そして町内を練り歩きアチコチで大騒ぎした後、元の神社に戻って祭りを終わると云うのが一般的な祭りのパターンである。神輿の巡行は本来、夜間に静かに行われて居たと云う。日本の祭りは壬申の乱がその原型と思われる。
出雲大社の創建は何時か
又天武天皇が大国主神として出雲大社に祀られて居るとすると、出雲大社の創建は天武朝より古いと云う事は有り得無い。出雲国造がその代替わりに際して宮中で行う「出雲国造神賀詞」の初見が『続日本紀』の霊気二年(七一六)二月十日条に見えるので出雲大社の創建は恐らくこの頃だろう。
この時代はほぼ同時期に大官大寺(百済大寺)、少し後には東大寺と言った巨大な建物が相次いで建設されて居た時期である。特に大官大寺の九重塔や東大寺の七重塔は高さが八〇メートルから一〇〇メートルにも及ぶ大規模な建造物だったと言われて居る。偉大だった天武天皇を神として祀ったのであるなら、出雲大社の本殿が一六丈(四十八メートル)程度だったとは考え難い。
恐らく大官大寺の九重塔に劣ら無い壮大な規模の社殿だったのでは無いだろうか。上古に於いて三十二丈あったと云う伝承も単なる伝承では無いだろう。百メートル近い古代木造建築と為るとその規模と構造は我々の想像を超えるものがあるが一度見て見たかったものである。
何故『日本書紀』に大国主神の神話が載って居ないのか
大国主神の物語は『古事記』では並々為らぬ分量で記載されて居るが、不思議な事にこの神話は『日本書紀』には全く記載されて居ない。
『日本書紀』ではスサノオの話の後にスサノオと妻の奇稲田姫(クシイナダヒメ)の間にオオナムヂが生まれ、その後直ぐにオオナムヂが少彦名(スクナヒコナ)命と力を合わせて天下を造ったと為って居て、さもそれが当然な如くに、大国主神が登場した時には既に葦原中国の王と為って居る。葦原中国の王に為る経緯が語られる『古事記』と較べると如何にも不自然な繋がり方と為って居る。
他の神話は多少違いがあっても載って居るのに肝心の大国主神の物語が記載されていないのは不可解である。この大国主神の物語が『古事記』には載り、『日本書紀』には載って居ないのは『記・紀』研究に於いて大きな謎の一つとされて居る。何故、大国主神の葦原中国の王に為る経緯が『日本書紀』では記載されて居ないのであろうか。
この物語が『日本書紀』に載って居ない理由は物語の中の「八十神」にあると考えられる。和銅七年(七一四)二月に元明天皇は紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に国史を撰修する様詔を出して居る。国史(日本書紀)の完成に向けていよいよ本格的に編纂が開始されたのだ。
六年後の養老四年(七二〇)五月に『日本書紀』は完成し、元明天皇の娘の元正天皇に奏上されたのだが、元明天皇は編纂が開始された直後の和銅七年(七一四)九月に氷高皇女(元正天皇)に天皇の位を譲り、『日本書紀』の完成を見届けるかの様に翌年の養老五年(七二一)一二月に亡く為って居る。
斉明天皇六年(六六〇)に生まれ、大化の改新以降の出来事と事情を好く知る元明天皇にしてみれば、壬申の乱の後の天武天皇八年(六八〇)生まれの元正天皇に国史編纂の様な大事な事業を任せる訳にはいか無かっただろう。従って天皇の位を元正天皇に譲った後は『日本書紀』の編纂に専念し、その内容に目を光らせて居たのでは無いだろうか。
先ほど八十神は天智天皇、大友皇子達の事ではないかと説明したが、実は元明天皇はその天智天皇の娘なのである。と云う事は大友皇子の妹と云う事でもある。神話の中で自分の父と兄が八十神にされて居る事に為る。
元明天皇にしてみればこの様な話は「冗談では無い」と云う事に為る。国史に記載して後世に残す気には為ら無かっただろう。『日本書紀』の編纂者達も元明天皇の手前、この話を『日本書紀』に載せる訳にはいか無かったのでは無いだろうか。
『古事記』の『序』は偽書
しかし、そう考えるとこの大国主神の物語の載った『古事記』を太安万侶が元明天皇の命で撰上し、天皇に献上したと云う『古事記』の『序』、あれは一体どう云う事だと云う事に為る。
元明天皇の父である天智天皇を「八十神」とした様な話を元明天皇に献上する事など出来ないのでは無いだろうか。
『古事記』の『序』に書かれた内容は真っ赤な嘘、『序』に関しては偽書と云う事に為る。太安万侶は実在の確実な人物だが、稗田阿礼は男でも無ければ女でも無い。『序』の作者が考え出した、全く架空の人物だったのだろう。『古事記』の名が歴史に初めて登場するのは十三世紀の終わり頃に書かれた『日本書紀』の注釈書の『釈日本紀』に引用された『弘仁私記』の序に於いてである。
『弘仁私記』は平安初期、弘仁三年(八一二)に行われた『日本書紀』の講義の内容を書き残したものだが、その序に『古事記』の事が太安万侶や稗田阿礼の名前と共に記載されている。
弘仁三年に行われた『日本書紀』の講義の講師は多朝臣人長と云う人物で、この人物は太安万侶の直系の子孫と言われて居る。『弘仁私記』の序の中で多朝臣人長は『古事記』のみ為らず『日本書紀』も太安万侶が編纂に関わったと主張して居る。
しかし『日本書紀』の編纂に太安万侶が関わったと云う記録は『弘仁私記』の序以外、他の何処にも存在しない。
多朝臣人長は歴史書編纂を自分の先祖である太安万侶の功績とする為に自分で勝手に『序』を書いて『古事記』に書き加えて居たのだろう。『序』の内容を信じ込んで居た学者や研究者に取っては全く好い迷惑であった。
『古事記』の作者は天武天皇
太安万侶が作者で無いなら『古事記』は何時、誰によって書かれたものであろうか。大国主神が天武天皇だとすると元明天皇(在位七〇七〜七一五、七二一没)の時では無いだろう。持統天皇(在位六八六〜六九七、七〇二没)も元明天皇同様天智天皇の娘だからこの時代でも無い。
文武天皇(在位六九七〜七〇七、七〇七没)は病弱で短命の上、母が元明天皇、祖母が持統天皇だからこの様な話を書く訳にはいか無かっただろう。そうすると物語の内容から見ても天武天皇の時代に天皇の下で書かれたと考えられる。
要するに大国主神の神話は大国主神自身が書いて居たと云う事に為る。どおりで記述に力が入って居る筈である。この天武天皇の時代は壬申の乱の勝利によって高まった天武天皇のカリスマ性を背景に、律令国家の整備が急速に進められ様として居た時代である。この時代に編纂された『古事記』は律令国家の成立と深い関係があったと思われる。
成立を『古事記』の『序』の記述の通り和銅五年(七一二)としたのでは律令国家の成立後と為ってしまい、これでは『古事記』の謎を解き明かす事は出来ない。
奇妙な記述と『暗号』
では具体的に天武朝の何時頃に書かれたものであろうか。『日本書紀』の天武十年(六八一)三月四日条に天武天皇が皇子や臣下に帝紀と上古の諸事を記定する事を命じたと云う記事があるが、それより寧ろ天武天皇四年(六七五)一一月三日条に実に奇妙な記述がある事に注目したい。それはこの様な記述である。
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ある人が宮の東の丘に登って、人を惑わす事を言って自ら首を刎ねて死んだ。この夜の当直の者全てに爵一級を賜った。
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夜間に宮廷の東の丘に登り、人を惑わす事を言って自殺した者があり、その日の当直全ての者たちの階級を一級上げたと云うのである。要するに「人を惑わす事」を聞いた者達に口止めがされたのだ。「人を惑わすこと」の内容が何なのかその記述は無いが、階級を一級上げてまで口止めをする位だから朝廷に取って人に聞かれては拙い、極めて都合の悪い内容だった事は確かである。更に二年後の天武天皇六年(六七七)四月十一日条に
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杙田史名倉が天皇を謗り祀ったと云う事で、伊豆島に流された。
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杙田史名倉と云う人物が天皇を非難して伊豆に島流しに為ったと云うのだ。「史」と為って居るので歴史書等の文章を作成する仕事に従事する人物と思われる。『日本書紀』の国史と云う立場からすれば一見どうでも好い様な記述なのだが、これらの記事は『古事記』編纂の実体を暗示して居る。だが、何故国の正式な歴史書にこの様な個人の問題としか思え無い様な記述が残されたのだろう。
記録を付けたり、文章を作成する仕事は今でもそうだが、要領が好く、ズボラな人間にこの様な仕事をさせたらろくな仕事をして呉れない。真面目で几帳面な、どちらかと言えば融通が利か無いぐらいの人間に向いて居る。
情報が満ち溢れ、歴史の改竄等やろうと思っても出来無い現代に生きる我々と異なり、この時代の人々は歴史に対して大変厳しい考え方を持って居た。自分の国の歴史が無惨に改竄され、世の中に広まると云事は彼らには耐え難い事だったに違いない。その為この様な命掛けで抵抗する様な人達が現れたのでは無いだろうか。
『日本書紀』の編纂者達やその他の記録に携わる人たちも同じ様な苦しい立場だったと思われる。改竄された歴史を後世に残したいと思う者は一人も居なかっただろう。
この様な時彼等は何を考えるであろうか。『日本書紀』とは別の歴史書を私的に裏でコッソリと作成する事も考えられる。しかしその様な事をして、もしバレでもしたら命は無い。その苦心の歴史書が後世迄残ると云う保証も無い。
『日本書紀』などの公的文書の中に書き残すしか手だては無かったであろう。勿論真実の歴史を天皇の意向に反してアカラサマニ書き残す事は許され無い。そうならば真実に繋がる手掛だけでも『日本書紀』や他の記録の中に書き残そうと彼等が考えたとしても決して可笑しくは無い。
恐らくその真実に繋がる手がかりは暗示、或いはトリックと言った言わば『暗号』の様な形で書き残されて居るに違い無い。
この二つの奇妙な記述も『日本書紀』の編纂者達のその様な意図から書き残されたと考えれば、何故この様な記述がわざわざ書き残されたのか理解出来るのである。
恐らくこの様な記述、即ち『暗号』はここだけでは無いだろう。他にも数多く残されて居る筈である。その様な『暗号』を『日本書紀』等の記述の中から見つけ出して解読する事が出来れば、歴史の真実の解明に繋げる事が出来る筈である。
サテ何とも呆気無く大国主神の正体が判ってしまった。大国主神の正体が天武天皇と判った事は神話と古代史の謎を解き明かす上で大きな手掛と為る筈である。更に日本古代史の謎を解いて行きたい。
その11につづく
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