2018年06月09日
古代からのお話し その9
古代からのお話し その9
大国主神の神話
八、因幡の素兎
大国主神には八十神と云う多くの兄弟の神々が居た。しかし皆、国を大国主神にお譲りした。譲った訳は次の通りである。
八十神達は因幡の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚しようと皆一緒に出掛けた。出掛ける時に大穴牟遅(オオナムヂ、大国主神)に袋を背負わせ、従者として連れて行った。処が気多の岬に至った時、皮を剥がれて丸裸に為った兎が倒れて居た。
これを見た八十神達はその兎に「この海の塩水を浴びて、風が当たる様高い山の尾根に寝て居るが好い」と教えた。兎は教えられた通りに山の尾根に寝て居たが、浴びた塩水が乾くに連れ皮膚が風に吹かれて、すっかりひび割れてしまった。
その為兎が痛み苦しんで、泣き伏して居た処、遅れて遣って来たオオナムヂがその兎を見て「お前は何故泣き伏して居るのか」と尋ねると、兎が答えて言うには「私は隠岐の島に済んで居て、ここに渡りたいと思いましたが、渡る術が無かったので、海に居る鮫を騙して『私とお前と比べて、どちらの同族が多いか数えてみたい。そこでお前はその同族を悉く連れて来て、この島から気多の岬迄皆並んで伏していなさい。私がその上を踏んで走りつつ数えながら渡る事にしよう。そうすれば、お前の同族とどちらの同族が多いかが判るだろう』と言いました。
騙された鮫が並んで伏して居た時、私がその上を踏んで、数えながら渡って来て、今や地上に降りようとする時、私が『お前は私に騙されたのだ』と言った途端、一番端に伏して居た鮫が私を捕まえて、私の皮をすっかり剥いでしまったのです。
その様な訳で泣き悲しんで居た処、先に行った八十神達に『海の塩水を浴びて、風に当たって伏せて居るが好い』と教えられました。そこで教えられた通りにした処、私は全身傷だらけに為ってしまったのです」と申し上げた。
そこでオオナムヂはこの様に教えた。「今すぐ河口に行き、真水で体を洗いなさい。そして直ぐに河口に生えている蒲の花粉を取って敷き散らかし、その上に寝転がれば、お前の体の皮膚は必ず元通りに生るだろう」
兎は教えられた通りにした処、体は元の通りに為った。これを因幡の素兎と言い、今でも兎神と言って居る。そこでその兎は、オオナムヂに「八十神達はきっとヤガミヒメを得る事は出来ないでしょう。袋を背負っては居るが貴方が得るでしょう」と申し上げた。
九、大国主神の根の国訪問
さて、ヤガミヒメは八十神達の求婚に答えて「私は貴方達の言う事は聞きません。私はオオナムヂに嫁ぎます」と言った。
これを聞いた八十神達は怒って、オオナムヂを殺そうと思い皆で相談して、伯{き}国の、手間の山の麓に来て、オオナムヂに言った。
「赤い猪がこの山に居る。そこでわれらが一斉に追い下ろすのでお前はそれを待って居て捕まえろ。もし、待ち捕まえ無かったら、必ず、お前を殺すぞ」
と言って、猪に似た大石を火で焼いて転がし落とした。そこで追い下ろすのを捕らえ様としたオオナムヂは忽ちその石に焼き付かれて死んでしまった。
この事を知ったオオナムヂの母神は嘆き悲しみ高天原に参上して、カムムスヒの神にお願いすると、直ぐに{きさ}貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)を遣わして、治療して生き返らせた。
{きさ}貝比売が大石にこびり付いていたオオナムヂの骸を集め、蛤貝比売がそれを待ち受けて母の乳汁を塗った処、元の麗しい男に戻って出歩かれた。
そこでこれを見た八十神達は又オオナムヂを騙して山へ連れて行き、大きな木を切り倒し、楔をその木に打ち込み、その割れ目にオオナムヂを押し込むやいなや、楔を外してオオナムヂを挟み殺してしまった。
そこで又、母神が泣きながら探し、オオナムヂを見つけて、直ちに木を裂いて取り出し生き返らせて言った。「お前はここに居たら、何時かは八十神達に滅ぼされるでしょう」と言い、直ぐに木の国の、オオヤビコの元にオオナムヂを遣わせた。
処が八十神達は探し出して追いかけて来て、弓矢を構えて引き渡しを迫ったので、オオヤビコは木の俣からオオナムヂを逃して言った。「スサノオの居る根の堅州国に行きなさい。必ず大神が良い方法を考えて下さるだろう」
そこで、言われた通りにスサノオの元に参り至ると、スサノオの娘の須勢理毘売(スセリビメ)が出て来てオオナムヂに一目惚れして結び合われ、御殿に帰ってスサノオに「大変麗しい神がお出でに為りました」と言った。
そこで大神が外に出て一目見るなり、「こいつはアシハラシコヲと云う男だ」と言って、直ぐに呼び入れ、蛇の室に寝かせた。
そこでその妻スセリビメが蛇の比礼を夫に授けて「蛇が食い付いて来たら、この比礼を三度振って打ち払いなさい」と言った。そこで教えられた通りにしたなら蛇は自然に静まり、安心して寝る事が出来、室を出る事が出来た。
又、次の日の夜にはムカデと蜂の室に入れられた。今度も、ムカデと蜂の比礼を夫に授けて前の様に教えた。そこで安心して寝る事が出来、室を出る事が出来た。
そこで、スサノオは鏑矢を広い野原に討ち入れて、その矢を探させた。そして、オオナムヂが探しに入るや、野に火を放ち、周りから焼いた。そこでオオナムヂが出る処が判ら無いで居ると、ネズミが出て来て「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言った。
そこでそこを踏んだ処、下に落ち、隠れて居る間に、火は焼け過ぎて行った。こへ、そのネズミが鏑矢を咥えて持って来てオオナムヂに奉った。その矢の羽は皆ネズミの子供が食い千切って居た。
妻のスセリビメは葬儀の品々を持ち泣きながら遣って来て、その父の大神は、オオナムヂは既に死んだと思い、その野に出て立って居た。そこにオオナムヂが矢を持って奉ったので家の中に連れて入り、広い大室に呼び入れて、自分の頭のシラミを取らせた。処がその頭を見るとムカデが沢山居た。そこで妻のスセリビメが椋の木の実と赤土を持って来て夫に渡した。
そこでその椋の木の実を食い千切り、赤土を混ぜて唾として出すと、大神はムカデを食い千切って唾として出したと思い、心の中で可愛い奴だと思い眠ってしまった。
そこでその大神の髪を取り、その室の垂木に次々と結びつけ、大きな岩をその室の戸口に持って来て塞ぎ、妻のスセリビメを背負って、大神の生太刀、生弓矢、天の詔琴を携えて、逃げ出した時、その天の詔琴が木に触れて大地が動かんばかりに鳴り響いた。
寝ていた大神これを聞いて驚き、室を引き倒した。しかし垂木に結び付けられた髪をほどいている間に、オオナムヂとスセリビメは遠くに逃げて行った。
それでも大神は黄泉比良坂まで追って来て、遥か遠くのオオナムヂを見ていった。
「お前が持っている生太刀、生弓矢でもってお前の庶流の兄弟を、坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、お前は大国主神と為り、又、宇津志国玉神(ウツシクニタマ)と為って、我が娘スセリビメを正妻として、宇迦の山の麓に地底の岩盤に届く迄の宮柱を立て、高天の原に届く程の千木を建てた宮殿に住め。こやつめ」
そこでその生太刀、生弓矢で八十神たちを追い払い、坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、国作りを始めた。
その後、先の約束どおりにオオナムヂはヤガミヒメと結婚し、出雲の国に連れてこられたが、正妻のスセリビメをおそれ、その産んだ子を木の俣に刺し挟んで帰ってしまった。そこでその子を名付けて木俣(キノマタ)の神といい、またの名を御井(ミヰ)の神と云う
十、八千矛神の妻問 この物語は後述する。
十一、大国主神と少名毘古那神の国作り
大国主神が宗像の奥つ宮におられる神、多紀理毘売命(タキリビメ)を娶って生んだ子は阿遅{すき}高日子根神(アヂスキタカヒコネ)、つぎに妹高比売命(イモタカヒメ)、またの名は下光比売命(シタテルヒメ)。この阿遅{すき}高日子根神は、今、迦毛の大御神という。
また、大国主神が神屋盾比売命(カムヤタテヒメ)を娶って生んだ子は事代主神(コトシロヌシ)である。また八島牟遅能神(ヤシマムヂノ)の娘の鳥取神を娶って生んだ子は鳥鳴海神(トリナルミ)である。この神が日名照額田毘道男伊許知邇神(ヒナテルヌカタビチヲイコチニ)を娶って生んだ子は国忍富神(クニオシトミ)である。
この神が葦那陀迦神(アシナダカ)、またの名が八河江比売(ヤガハエヒメ)を娶って生んだ子は速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)である。
この神が天之甕主神(アメノミカヌシ)の娘、前玉比売(サキタマヒメ)を娶って生んだ子は甕主日子神(ミカヌシヒコ)である。
この神が淤加美神(オカミ)の娘、比那良志毘売(ヒナラシビメ)を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神(タヒリキシマルミ)である。
この神が比々羅木之其花麻豆美神(ヒヒラギノソノハナマズミ)の娘、活玉前玉比売神(イクタマサキタマヒメ)を娶って生んだ子は美呂浪神(ミロナミ)である。
この神が敷山主神(シキヤマヌシ)の娘、青沼馬沼押比売(アヲヌウマヌオシヒメ)を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神(ヌノオシトミトリナルミ)である。
この神が若尽女神(ワカツクシメ)を娶って生んだ子は天日腹大科度美神(アメノヒバラオオシナドミ)である。
この神が天狭霧神(アメノサギリ)の娘、遠津待根神(トホツマチヌ)を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシ)である。
右にあげたヤシマジヌミから、トホツヤマサキタラシまでを十七世の神と称する。
さて、大国主神が出雲の美保の岬におられたとき、波の上からガガ芋の実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いだ着物を着て近づいてくる神があった。
そこでその名を問うたが返事がなかった。また従っている多くの神々にたずねてみたが、皆「知りません」と答えた。
しかしヒキガエルが「きっと久延{び}古(クエビコ)が知っているでしょう」と申し上げたので、すぐにクエビコを呼んでたずねると「この神はカムムスヒの御子で少名毘古那神(スクナビコナ)である」とお答えした。
そこでカムムスヒの御祖命に申し上げたところ、「この神はたしかにわたしの子です。子の中でもわたしの手の間よりこぼれ落ちた子です。そこでおまえはアシハラシコヲと兄弟となってこの国を作り固めなさい」とお答えになった。
そこでオオナムヂとスクナビコナの二柱の神は協力しあって国を作り固められた。そしてその後スクナビコナは常世の国にお渡りになった。
さて、そのスクナビコナであることを顕し申し上げたクエビコはいまでは山田の案山子という。この神は歩くことはできないが天下のことはことごとく知っている神である。
ここで大国主神が憂えて「自分一人でどうしてこの国を作ることが出来るであろうか。どの神と一緒にこの国を作ったらよいであろうか」と仰せになった。
この時、海を照らして近寄ってくる神があった。その神が云うには「私を好くお祀りすれば私はあなたと共に国を作りましょう。もしよく祀ることができないならば国を作ることは難しいでしょう」と申された。
そこで大国主神は「ではどのようにお祀りしたらよろしいのでしょうか」と申されると、「わたしを大和の、青垣の、東の山の上に祀りなさい」とお答えされた。この神が御諸山(三輪山)の上に鎮座しておられる神である。
さて、かのオオトシが神活須毘神(カムイクスビ)の娘、伊怒比売(イノヒメ)を娶って生んだ子は大国御魂神(オオクニミタマ)、つぎに曾富理神(ソホリ)、つぎに白日神(シラヒ)、つぎに聖神である。
また香用比売(カヨヒメ)を娶って生んだ子は大香山戸臣神(オオカグヤマトミ)、つぎに御年神である。
また天知迦流美豆比売(アメチカルミヅヒメ)を娶って生んだ子は奥津日子神(オキツヒコ)、またの名は大戸比売(オオヘヒメ)である。この神は人々が祀っている竈の神である。
つぎに大山咋神(オオヤマクヒ)、またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシ)である。この神は近江の国の比叡山に鎮座し、葛野の松尾に鎮座して鳴鏑を神体とする神である。
つぎに庭津日神(ニハツヒ)、つぎに阿須波神(アスハ)、つぎに波比岐神(ハヒキ)、つぎに香山戸臣神(カグヤマトミ)、つぎに羽山戸神(ハヤマト)、つぎに庭高津日神(ニハタカツヒ)、つぎに大土神(オオツチ)、またの名は土之御祖神(ツチノミオヤ)である。
上にあげたオオトシの子、オオクニミタマから下、オオツチまであわせて十六柱の神である。
羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神(ワカヤマクヒ)、つぎに若年神、つぎに妹若沙那売神(イモワカサナメ)、つぎに弥豆麻岐神(ミヅマキ)、つぎに夏高津日神(ナツタカツヒ)、またの名は夏之売神(ナツノメ)、つぎに秋毘売神(アキビメ)、つぎに久々年神(ククトシ)、つぎに久々紀若室葛根神(ククキワカムロツナネ)である。
上にあげた羽山の子より若室葛根まで、あわせて八柱の神である。
おなじみの神話である。懐かしいおもいで読まれた読者も多いだろう。この大国主神の神話は『古事記』の神話や説話の中でもとりわけ並々ならぬ分量で記述され内容もたいへん充実している。そのため、今読んでみてもとても千三百年以上も昔の話とは思えないほど面白い話となっている。
大変面白い話なのだが、いかにも荒唐無稽なおとぎ話のような話で、これを実話だと信じている人はそう多くはいないだろう。歴史学者の間でもおおよそ歴史とは無縁の物語というのが一般的な認識となっている。
しかし、この物語をもう一度丁寧に読み返していただきたい。何の変哲もないありきたりの冒険物語のように見えるかもしれないが、実はこの物語は古代に起きたある重大事件に話の筋立てがそっくりなのだ。
謎を解く鍵は物語中の以下の文章である。
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「お前はここにいたら、いつかは八十神たちに滅ぼされるでしょう」といい、すぐに木の国の大屋毘古のもとにオオナムヂを遣わせた。
ところが八十神たちは探し出して追いかけてきて、弓矢を構えて引き渡しを迫ったので、大屋毘古は木の俣からオオナムヂを逃していった。「スサノオのいる根の堅州国に行きなさい。必ず大神が良い方法を考えて下さるだろう」
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身の危険を感じたオオナムヂは木の国に逃げる。しかしそこにも八十神たちが追ってきたのでさらに遠くの根の堅州国に逃げたというのである。オオナムヂと同じような行動を執った人物が飛鳥時代に居る。
その人物とは身の危険を感じて近江から吉野に出家し、そこも危なく為ったので更に吉野から東国に脱出した、中大兄皇子(後の天智天皇)の弟の大海人皇子(後の天武天皇)の事で、大国主神の物語と同じ筋立てで展開するある重大事件とは壬申の乱の事なのである。
壬申の乱とは六七二年天智天皇の死後、天智天皇の息子の大友皇子と叔父の大海人皇子が皇位継承を巡って戦ったとされる古代最大の戦いである。この年の干支が壬申に当たるので壬申の乱と呼ばれて居る。壬申の乱は中・高等学校の歴史教科書にも必ず書かれて居る程の大変有名な出来事で、『日本書紀』は壬申の乱の記述に特に一巻を割り当てて居て、その為詳細な記述が残されて居る。
有名な出来事なので説明も不要かとも思うが、神話との比較の為に必要なので先ずその概要を次に説明して置きたい。
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天智十年(六七一)十月十七日天智天皇は近江宮で病に倒れた。そこで天皇は蘇我臣安麻呂を大海人皇子に遣わして寝所に呼び寄せ、皇位を大海人皇子に譲る事に付いて打診した。
しかし、大海人皇子は以前から親しくして居た蘇我臣安麻呂に「好く注意して返事する様に」と忠告されて居た。
そこで「私は不幸な事に元来多病で、とても国家を経営する事は出来ません。願わくは陛下、天下を皇后に託して下さい。そして大友皇子を皇太子として下さい。私は今日にも出家して、陛下の為修行をしたいと思います」と答えた。
大海人皇子は蘇我臣安麻呂の忠告により朝廷内の不穏な空気を察知し、天智天皇からの皇位譲位の申し出を辞退し、吉野に出家をする事にしたのである。天智天皇はそれを許したので、即日出家し、法衣に着替え、全ての武器を公に納め,大海人皇子は十月十九日,妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)や草壁皇子と忍壁皇子,数人の舎人と共に都を出て出家地の吉野に向かった。
左大臣蘇我赤兄臣,右大臣中臣金連、中納言蘇我果安臣達近江朝の重臣達が宇治まで見送った。その時、誰かが大海人皇子の吉野行きを「翼を着けた虎を野に放した様なものだ」と呟いたが、その懸念は後に現実のものに為るのである。それから間も無く十二月三日、天智天皇は近江宮で崩御した。
翌年五月、「私用で一人美濃に行きました。その時、近江朝では美濃、尾張両国の国司に『天智天皇の山陵を造る為に、予め人夫を指定せよ』と命じて居りました。しかしながら夫々に武器を持たせて居ります。恐らく山陵を造るのでは無いと思います。これは必ず何かあるでしょう。速やかに避難しないと、きっと危無いことがあるでしょう」と大海人皇子の舎人の一人が吉野へ報告に来た。
又、大津京から飛鳥に掛けてアチコチに朝廷の見張りが置かれ,更に,大海人皇子の舎人が吉野へ食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わって来た。
そこで大海人皇子は「私が皇位を辞退して出家したのは、療養に努め只管天命を全うしようとしたからである。しかし乍ら今、禍を受け様として居る。このまま黙って居られ様か」と言い、舎人達に「聞く処によると、近江朝の廷臣達は私を亡き者にしようと企んで居る。そこでお前達は速やかに美濃に行き、兵を集め、不破道を府下げ。自分も直ぐ出発する」と命じた。
六月二十四日大海人皇子達は吉野を出発した。急であった為乗り物も無く徒歩だった。この時従った者は舎人が二十人余り、女官が十人余りであった。
余談だがこの時に従った舎人の一人に書首根摩呂が居るが、後に彼の骨容器と墓誌が吉野から上野へ行く途中の奈良県宇陀郡榛原町八滝の山中で発見され,壬申の乱を物語る数少ない物証として国宝(東京国立博物館蔵)に指定されて居る。
元々、書首根摩呂の居住地は河内と見られて居るが壬申の乱で活躍した時の体験が忘れ難く、その為壬申の乱に縁のあったこの地に自らの墓を築いたと考えられて居る。
横河(名張川)に差し掛かった時、黒雲が天を横切って居た。大海人皇子はこれを不思議に思い、火を灯して式(筮竹)を手にとって「天下が二分される印だ。しかし最後は自分が天下を取るだろう」と占った。
昼夜兼行で進み、途中で大海人皇子の長男の高市皇子が、次いで大津皇子が合流し、次々と兵を集めながら翌日の夜には三重郡家(四日市市東坂部町)に着いた。
二十六日、朝、朝明郡の迹太川(朝明川)の畔で大海人皇子は天照大神(伊勢神宮)を遙拝した。その後不破道を塞ぐ事に成功したとの報が入り、高市皇子を不破に派遣した。
一方、近江の都では大海人皇子が東国に入ったと云う情報が伝わり,ある者は大海人皇子に着こうと東国に行こうとしたり、又ある者は山に隠れたりと都中大騒ぎに為った。
早速対応策が協議され、大友皇子は臣下から直ちに急追する様進言を受けたが、皇子はその進言には従わ無かった。又吉備国、筑紫太宰に使者を送り、軍兵を徴発する様要請するが共に失敗に終わった。
二十七日に大海人皇子達は不破に入り、ここを陣とし、高市皇子達と作戦を話し合った。この時、大海人皇子は高市皇子に「近江の朝廷には左右の大臣等知謀に優れた群臣が居て共に謀る事が出来る。しかし私には事を謀る者が居ない。只幼少の子どもたちが居るだけだ。どうしたら好いだろうか」と尋ねた。
すると高市皇子は腕を捲り、剣を握って「近江に群臣が多いと言えどもどうして天皇(大海人皇子)の霊に逆らう事が出来るでしょうか。天皇は一人でいらっしゃると言えども、私、高市が神祇の霊に頼り、天皇の命を受けて諸将を率いて敵を討ちましょう。さすれば敵は我が軍を防ぐ事は出来ないでしょう」と答えた。そこで大海人皇子は高市皇子を褒めて励まし、軍の指揮を全て高市皇子に委ねた。
この日、尾張国司小子部連{鉗}鉤が2万の大軍を率いて大海人軍に帰属した。 小子部連{鉗}鉤は尾張の国司だから本来は近江朝廷側だが大海人軍に寝返ったのだ。最も寝返った事は小子部連{鉗}鉤に取っては不本意な事だったらしく彼は乱の後自殺して居る。
二十九日、大海人皇子は高市皇子に命じ、総軍に近江攻略の号令を発した。 同日、大和飛鳥でも大海人軍の大伴連吹負と近江朝廷軍の間で戦いが始まる。大伴連吹負は次々と押し寄せる近江朝廷軍相手に苦戦しながらも最後まで飛鳥を死守した。
七月二日、大海人軍が不破から出陣した。この時大海人軍は朝廷軍との区別の為赤い布を衣服の上に着けて居た。
近江朝廷方は不破を攻撃する為、山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等に命じ、数万の兵を犬上川の畔に集めた。処がここで山部王が蘇我臣果安、巨勢臣比等に殺されると云う異常事態が発生する。その為朝廷軍は戦う前に分裂してしまった。
この後、大海人軍は各地で近江朝廷軍を破り、二十二日には瀬田川の辺に着いた。瀬田川の唐橋周辺での決戦において激戦の末、大海人軍は決定的な勝利を収めた。
戦いの後、大海人軍は近江京に入り粟津岡(大津市膳所)に陣を置き、左右の大臣や罪人たちを捜索、逮捕した。敗れた大友皇子、左右の大臣達は辛うじて逃れるが、翌日、大友皇子は山前にて自殺した。
八月二十五日、高市皇子に命じて近江方の罪状と処分を発表した。右大臣中臣金連ら八人が死罪と為り、左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等とその子達、中臣金連と蘇我臣果安の子達が流罪に為って居るが国が二つに分かれての大きな戦いの割には軽い処分であったと言われて居る。
九月八日、大海人皇子は帰路につき、十二日に大和飛鳥の嶋宮に凱旋した。
そして翌年二月二十七日、大海人皇子は飛鳥浄御原宮において天皇に即位した。
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以上、簡単ではあるがこれが壬申の乱のあらましである。大国主神の根の国訪問の神話と壬申の乱の話を対比させると次の様になる。
大国主神の神話 壬申の乱
身の危険を感じ木の国へ逃げる 身の危険を感じ吉野へ出家する
木の国まで八十神たちが追って来る 追手を出しそうな朝廷の不穏な動き
木の股を潜って根の堅州国へ逃げる 警戒を掻い潜り東国へ脱出する
スサノオの試練を受け逞しく為る 兵を集め軍備を整える
生太刀、生弓矢、天の詔琴を携えて 東国から近江の都に向かって進軍する
根の堅州国から逃げる 坂の多い飛鳥や大和での戦い
坂の尾根に追い伏せる 瀬田川での決戦に勝利する
川の瀬に追い払う 天皇に即位する
大国主神になる 律令国家の完成を目指す
国作りを始める
大国主神の正体は天武天皇
この表から判る様に大国主神の根の国訪問の物語は壬申の乱の経緯とほぼ同型の構造を持って居る。恐らく大国主神の根の国訪問の物語は壬申の乱の話を元に作られたのではないだろうか。と云うより大海人皇子が天皇に即位した経緯が神話として語られて居るのでは無いだろうか。
大国主の物語の他の部分も見ていこう。ここでは一応、大国主神(あるいはオオナムヂ)の正体は天武天皇(大海人皇子)と云う前提で考えてみたい。物語の初めのヤガミヒメを巡るオオナムヂと八十神の求婚の争いは額田王を巡る、大海人皇子とその兄の中大兄皇子の確執と考えられる。
因幡の素兎をめぐる話は事実に基づいているとは流石に言い難いが、大国主神が立派な神である事を示す為のエピソードとして挿入された話だろう。
オオナムヂが八十神に騙され、焼けた石を落とされ殺されたのは中大兄皇子達によって蘇我入鹿が板蓋宮で暗殺された乙巳の変(大化改新)の直後、吉野に出家したものの謀反の疑いを掛けられ妻子諸共惨殺されてしまった中大兄皇子の異母兄、古人大兄皇子の話と考えられる。
更にオオナムヂが騙されて山に連れて来られ、裂いた木に押しこまれ、挟み殺されたのは、孝徳天皇の死後、中大兄皇子や蘇我赤兄の仕掛けた罠に嵌まり、謀反の疑いを掛けられ縛り首にされた孝徳天皇の皇子、有間皇子の事と考えられる。
次に登場人物をみてみたい。オオナムヂが大海人皇子とするとヒロインのヤガミヒメのモデルは額田王と云う事に為る。従って話の最後に大国主神の元に残されるヤガミヒメと大国主神の間に出来たキノマタの神は大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女と云う事に為る。
額田王は万葉歌人としては大変有名だが歴史書の中にその名は殆ど登場しない。
『日本書紀』の天武天皇二年二月二十七日条に
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天皇、初めに鏡王の女、額田姫王を娶って、十市皇女を生ませた。
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とあるだけだ。但し『万葉集』からこの後天智天皇の後宮に入った、詰まり妃と生った事が判って居る。額田王と大海人皇子は万葉集の次の歌で良く知られている。
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天皇、蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
皇太子の答へませる御歌 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
紀に曰はく、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野に縦猟したまひき。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉皆に従ひきといへり。
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この歌は天智天皇の即位直後、天皇が大海人皇子達を引き連れ蒲生野で狩りをした時の宴会の席で歌われたものと言われて居る。一般的には、既に二人の関係は終わって居り、宴会の座興として歌われたのものとして軽く解釈されて居るが、神話の内容からは決してそうとは言え無い様な気がする。恐らく未だ未練たっぷりだったのだろう。
神話の内容から壬申の乱の後、額田王は大海人皇子のもとに連れてこられたものと思われるが妃の鸕野讃良皇女の嫉妬の前にはいかんともしがたく、静かに身を引いたものと思われる。『万葉集』には壬申の乱以後、額田王の歌がいくつか残されていてかなり長命だったといわれている。『日本書紀』には殆ど記述の無い額田王は『古事記』の中ではヤガミヒメの名で大活躍して居たのである。
オオナムヂの敵役の八十神は大海人皇子の兄の中大兄皇子、後の天智天皇と天智天皇の息子、大友皇子の事に為る。「八十」と多数人称に為って居るので天智天皇の側近達もその中に含まれて居るのだろう。
オオナムヂの妻のスセリビメは天智天皇の娘で、天武天皇の皇后の鸕野讃良皇女、後の持統天皇と云う事に為る。スセリビメの夫に対する並々ならぬ愛情、夫を助ける為には親のスサノオを裏切る事も厭わない積極果敢な行動力は『日本書紀』から伺い知る事の出来る持統天皇の性格そのものだ。
彼女は天武天皇の死後、その遺志を継いで律令体制を完成させた女帝中の女帝として余りにも有名である。
話の中には登場しないが系譜の中には多紀理毘売が大国主神の妃の一人として登場し、二人の間には男女二柱の神が誕生する。天武天皇は妃の大田皇女との間に大来皇女と大津皇子の男女二人の子を設けているので多紀理毘売は大田皇女の事と考えられる。
これで何故出雲大社の多紀理毘売を祀る筑紫社がスセリビメを祀る御向社より上位に祀られて居るのかその理由が明らかと為る。大田皇女は持統天皇の実姉だからだ。この事から御向社の右に祀られて居る天前社に祀られて居る{討虫}貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)は持統天皇の異母妹で天武天皇の妃の大江皇女と新田部皇女と考えられる。
即ち出雲大社には天武天皇が大国主神として、天武天皇に嫁いだ天智天皇の四人の皇女が四柱の女神として祀られて居るのではないだろうか。
その10につづく
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