2018年06月09日
古代からのお話し その8
古代からのお話し その8
途中で切り替わって居た出雲大社の祭神
又出雲大社に関しての驚くべき事実はこれで終わら無い。更にビックリする様な事実がある。
出雲大社の祭神が大国主神であると云うのは誰もが知って入る。そして昔から出雲大社には大国主神が祀られて来たと信じて居る。処が実は大国主神が祀られる様に為ったのは江戸時代からだと云うのだ。それ迄は本殿に祀られて居たのはスサノオだと云うのである。
大社の拝殿前に寛文六年(1666)に毛利綱広によって寄進された銅の鳥居(重要文化財)があるがそこには次の様な文章が刻み込まれて居る。
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それ扶桑開闢してよりこのかた、陰陽両神を尊信して伊弉諾伊弉冉尊といふ。此の神三神を生む。一を日神といい、二を月神といい、三を素盞嗚というなり。日神とは地神五代の祖天照大神これなり。月神とは月読尊これなり。素盞嗚尊は雲陽の大社の神なり、云々
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雲陽の大社と云うのは出雲大社の事を指す。この事より出雲大社の主祭神が江戸時代初期には素盞嗚尊(スサノオ)であった事が判る。
銅鳥居 出雲大社
この鳥居の銘文だけでは無く、国造家に伝わる中世の様々な古文書が出雲大社の祭神をスサノオとして居る。
国譲りの代償として大国主神を祀る為に創建されたのが神話に記された出雲大社の起源だから最初に祀られて居たのは大国主神であった筈。それが中世においてスサノオが祀られて居たと云う事は、途中で大国主からスサノオに切り替わった事に為る。これは一体どうした事であろうか。
切り替わった理由、時期に付いての明確な記録は無いがその時期に付いてはある程度の推測は可能である。元々出雲国造は出雲東部の意宇郡に居住し、スサノオを祭神とする熊野大社を祀って居た。八世紀から十世紀に掛けての法令を編纂した『類聚三代格』の郡司の条に見える太政官符の中に
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慶雲三年(七〇六)出雲国造は意宇郡大領を兼帯して、延暦十七年(七九八)までに及ぶ。
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とある。大領とは地方を支配した長官の事で、出雲国造は慶雲三年に意宇郡大領を兼任したが、延暦十七年にその任を解かれた事に為る。恐らくその頃出雲国造は出雲大社のある杵築の地に一族を挙げて移り住んだと考えられて居る。又『令義解』と言えば、平安時代初期、天長十年(八三三)に淳和天皇の勅によって右大臣清原夏野によって撰集した令の解説書だが、その中の「神祇令」に天神地祇の註として
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天神とは伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神等がこれである。地祇とは大神、大倭、葛木の鴨、出雲の大汝神等がこれである。
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天神とは高天原から天降った神、地祇は土着の神の事である。即ち出雲国造が祀って居たのは天神、即ちスサノオだと言って居るのである。大汝神(大国主神)に関しては只単に出雲の神であるとして居るだけである。従ってこの頃には既に祭神はスサノオだったものと思われる。
このことから出雲大社の祭神が大国主神からスサノオに切り替わったのは平安時代の初め頃ではないかと考えられている。即ち出雲大社の祭神は、奈良時代以前は大国主神が祀られ、平安時代以降は大国主神にかわってスサノオが祀られるようになり、江戸時代の初めに元の大国主神に戻されたことになる。
以上の事から如何に出雲大社や大国主神の回りには不可解な事が多く、又謎に満ちて居るかが判る。そしてどうやら天皇家とはとても深い関係にあるらしい事もお判り頂けた筈である。出雲大社の謎を解き、大国主神と天皇家との関係を知る為には何としても出雲大社に祀られて居る大国主神やスサノオの正体を解き明かすしか無い。
大国主神の正体を知る為には、先ず大国主神に付いて書かれて居る神話を紐解く必要がある。次にその神話について調べてみたい。
第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体
謎に満ち溢れた『古事記』
大国主神の神話は『古事記』『日本書紀』又『風土記』にも記載されて居る。又各地の神社伝承等にも残されて居るが大国主神の神話で特に有名なものは『古事記』に記載された『因幡の素兎』の話なので、ここでは主に『古事記』を中心に扱いたい。
神話に入る迄にここで少し『古事記』に付いて少し詳しく紹介して置きたい。『古事記』は和銅五年(七一二)に成立したとされる現存する日本最古の歴史書とされる書物で、『日本書紀』に較べて内容が良く整理されて居て読み易く又その内容自体も大変面白いので古典文学としても高く評価されて居る。
『日本書紀』は読んだ事は無くとも『古事記』は読んだ事があると云う方も多いのではないだろうか。最近でも三浦佑之氏の『口語訳 古事記』が古典文学としては珍しいベストセラーに為り話題に為ったのでその内容はご存じの方も多いだろう。又漫画、演劇の題材としても良く取り上げられて居るので、年輩の方だけでは無く若い人にも関心は高い様で結構身近な存在と為って居る。
しかしながらその成立と内容は実に謎に満ち溢れたものである。『古事記』は全三巻で構成され、神代から推古天皇迄の物語と系譜が書かれて居る。但し物語が書かれて居るのは第二十三代顕宗天皇迄で、次の仁賢天皇以降第三十三代推古天皇迄は系譜だけと為り、次の舒明天皇以後は何らの記載も無い。
『日本書紀』は仁賢天皇の次、第二十五代武烈天皇以後の記載に全三〇巻の内、半分の一五巻を当てて居るので同じ歴史書とは云うもののその内容、性格には大きな違いがある。ほぼ同時代の歴史書でありながら『古事記』と『日本書紀』に何故その様な違いがあるのか、様々な説が出されては居るが、未だにこれはと言った決定的な説は出されていない。
又、何故同時期に『古事記』、『日本書紀』と云う二つの歴史書が編纂される事に為ったのかそれも不明だ。国の正史は二つも要ら無いのである。
この時代の他の文献に『古事記』の成立に関する記事は全く存在しないので、その成立に関しては『古事記』自身の『序』によるしか無い。『序』と為っては居るが正確には上表文と言っても好いものだ。上表文とは臣下が天皇に奏上する文書の事で、この場合は太安万侶が元明天皇に『古事記』を奏上すると云う前提で書かれて居る。
『序』の中で『古事記』の成立に関する部分だけを要約すると次の様に為る。
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壬申の乱の後、天武天皇は「諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただいまこの時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年もたたないうちに、その正しい趣旨は失われてしまうにちがいない。
そもそも帝紀と本辞は、国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本(邦家の経緯、王化の鴻基)となるものである。それ故、正しい帝紀を撰んで記し、旧辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う。」と仰せられた。
そのとき稗田阿礼という天皇の側に仕える聡明な舎人がいた。年は二十八歳で、かれは目にしたものは即座に言葉に置き換えることが出来、耳に触れた言葉は決して忘れることがなかった。そこで天皇は稗田阿礼に命じて帝皇の日継と先代の旧辞とをくり返し誦み習わせたが天皇が崩御し、そのままになっていた。
その後,元明天皇の代になり天皇が旧辞に誤りや間違いのあるのを惜しまれ、帝紀の誤り乱れているのを正そうとされた。
和銅四年九月十八日に臣安万侶に詔して、稗田阿礼が天武天皇の勅命によって誦習した旧辞を書き記し、書物として献上せよと仰せられた。そこで安万侶が仰せに従い採録した。
しかし、上古においては言葉もその内容も素朴であり、すべてに訓を用いて記したのでは上古の心を表現できない。すべてに音を用いて記したのでは記述が長くなり過ぎる。そこである場合は一句のなかに音と訓を交えて用い、ある場合はすべて訓を用いて記述した。言葉の意味のわかりにくいものには注をつけてわかりやすくし、言葉の意味のわかりやすいものには注はつけなかった。
天御中主神から鵜草葺不合命までを上巻とし、神武天皇から応神天皇までを中巻とし、仁徳天皇から推古天皇までを下巻とした。合わせて三巻に記して和銅五年正月二十八日に元明天皇に献上した。
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天武天皇の命で稗田阿礼が誦習し、太安万侶が元明天皇に『古事記』を献上したと為って居るがこの様な記録はこの時代の歴史書である『日本書紀』、『続日本紀』には全く存在しないばかりか『古事記』の存在すらそれらには記載されて居ない。
その内容を『邦家の経緯、王化の鴻基』(国家の原理、天皇政治の基本)と記し、『続日本紀』に何度も名が乗る程の有力官人であり、昭和五十四年一月二十三日、奈良市此瀬町の茶畑から墓誌が発見された事によっても、当時存在したことが明らかな太安万侶が元明天皇に献上したと為って居るにも関わらず、『古事記』に関しての記載が全く無いのは不可解である。
又天武天皇の時代はこの時代の大量の木簡が出土して居る事からも判る様に既に文字は盛んに使われて居た。にも関わらず国の歴史を後世に残すと言う様な重要な事を稗田阿礼と云う一個人の記憶力に頼ると言う様な行為自体が不自然な話でもある。誠に面妖な内容としか言い様が無い。
しかしどうした訳か日本の学会はこの『序』を信じて疑わ無い。従って教科書にも太安万侶は古事記の編纂者として紹介されて居る。稗田阿礼は男か女かと言う様な議論すら大まじめに行われて居たのである。当然この様な学会の態度に対して一部の研究者から猛烈な反発があった。
一、『日本書紀』、『続日本紀』等に『古事記』に付いての記載が無い
二、『古事記』が後に編纂された『日本書紀』に引用されて居ない
三、稗田阿礼の存在が疑わしい
四、内容に和銅年間より新しい平安時代以降のものが含まれて居る
五、本文に使用されて居る万葉仮名が奈良時代以降の用法である
等々の数多くの疑問が彼らから出され、江戸時代より今日まで『古事記』偽書説が後を絶た無い。この様に『古事記』はその成立過程からして謎に満ちた書物なのである。
その『古事記』の神代の巻に記載されている『因幡の素兎』『国譲り』の神話は大変有名なので好くご存じの方も多いのではないだろうか。『古事記』にはこれ以外にも多くの神話が記載されている。『古事記』の神代の内容を列挙すると以下のようになる。
一、天地開闢
二、伊邪那岐命,伊邪那美命の国生み
三、伊邪那岐命の黄泉の国訪問
四、三貴子の誕生
五、天の安の河の誓約
六、天の岩屋戸
七、八俣の大蛇
八、因幡の素兎
九、大国主神の根の国訪問
十、八千矛神の妻問
十一、大国主神と少名毘古那神の国作り
十二、葦原中国の平定
十三、大国主神の国譲り
十四、天孫降臨
十五、木花之佐久夜毘売
十六、山佐知毘古と海佐知毘古(山幸彦と海幸彦)
十七、鵜葺草葺不合命の誕生
これ等の神話の内、七の『八俣の大蛇』から一三の『大国主神の国譲り』迄の出雲を舞台とした神話が、所謂『出雲神話』と呼ばれるスサノオや大国主神が活躍する神話で、神話全体の三分の一以上を占めて居る。本書ではその中の八の『因幡の素兎』の話から始めたい。
『因幡の素兎』の話と言っても、話全体は大国主神が八十神の兄弟に代わって葦原中国の王に為る経緯を語る波瀾万丈の冒険物語で『因幡の素兎』はその話の中の一部となって居る。
実はこの大国主神の物語は大国主神の正体と『古事記』の謎を探る上で大変重要な物語と為って居る。特に大国主神の動きに注意して読んで頂きたい。
その9につづく
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