2018年06月09日
古代からまお話し その7
古代からのお話し その7
第一章 大国主神と出雲大社
大国主神に付いて
日本には「八百万の神々」と云う言葉がある程数多くの神が存在するが、大国主神はその中でも須佐之男命(スサノオ)や天照大御神(アマテラス)と並んで最も有名な神で、祀られて居る神社が出雲大社と云う壮大な社殿である事と相まってその存在感は圧倒的である。又、存在感が大きいだけでは無く、我々にこれ程身近な神も無いだろう。
出雲の国作りの神として広く知られて居るが、縁結びの神としても有名だから若い人にも人気があり、他の神は知ら無くても大国主神は知って居ると云う方も多いのではないだろうか。中にはお世話に為った読者も居られると思う。
出雲を舞台に大国主神やスサノオが活躍する神話は『古事記』『日本書紀』『風土記』に数多く残されて居る。所謂出雲神話と呼ばれる一群の神話である。
中でもスサノオのヤマタノオロチの退治や大国主神が大活躍する因幡の素兎の話は大変有名な神話で、年輩の方なら一度は読まれた事があるだろう。又、大国主神は日本全国の神社に広く祀られて居り、縁結び、病気平癒、五穀褒上、商売繁盛、殖産興業、或いは必勝祈願とご利益も万能で人気があるのも当然だろう。 更に大国主神の「大国」がダイコクとも読める事から、同じ発音の大黒天(大黒様)とも習合され民間信仰に広く浸透して居る。最も本来の大黒天はインドのヒンズー教の神マハーカーラと言われ、その名の通り黒い姿で憤怒の表情の如何に凄いか。
日本人が持つ大黒天のあの福与かなイメージは日本神話に出て来る大国主神そのものである。頭に頭巾を被り背中に大きな袋を背負い右手に打ち出の小槌を持ち、ニコヤカナ表情で米俵の上にチョコんと立った例のあの神像が福の神として家の神棚に祀られて居ると云う方も多いのでは無いだろうか。
しかし、この大国主神、調べれば調べる程謎の多い神である。先ずその名前だが実に多くの別名がある。『古事記』では大国主神以外に、大穴牟遅神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神と四つの名を持って居る。又『日本書紀』の一書(第六)には
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大国主神は又の名を大物主神、又は国作大己貴命と云う。又は葦原醜男とも云う。又は八千矛神とも云う。又は大国玉神とも云う。又は顕国玉神とも云う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
とあり、大国主神以外に六つの名が記されて居る。又『出雲国風土記』には、天の下造らしし大神、天の下造らしし大神大穴持命とも表記され、天下を造った神として認識されて居る。他の神だと別名は無いか、或いはあっても精々一つか二つだろう。何故大国主神だけこの様な多くの別名があるのであろうか。しかも、この神は随分昔から全国的に広く祀られて居る。
例えば、宮崎県児湯郡都農町に日向の国の一之宮として知られる都農神社が鎮座して居るがこの神社にも大己貴命(大国主神)が祀られて居る。神社の伝承では神武天皇御東遷の途中、此の地に於いて、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念の為、鎮祭されたのを当社の創祀として居るが、仁明天皇承和四年(八三七)に宮社に列したとの記録が残されて居るので、九世紀の初期には既に九州の南端近くに大国主神が祀られて居た事に為る。
古代日本の基本法令である「養老律令」の施行細則を集大成した法典に『延喜式』がある。延喜五年(九〇五)に藤原時平達によって編纂が開始され延長五年(九二七)に奏進された事から『延喜式』と称され、ほぼ完全な形で今日に伝えられ、内容が詳細な為古代史研究に不可欠な文献とされて居るが、この中に平安時代初期の全国の主要な神社の名を記した『延喜式神名帳』がある。
時々神社名が書かれた石柱に「式内社」と記された神社を見かける事があるが、それはこの『延喜式神名帳』に名が載って居る神社の事である。
この『延喜式神名帳』を見ても既にこの頃には北海道を除くほぼ日本全国に大国主神が祀られて居た事が判る。本来出雲の神である筈の大国主神を誰が何時、何の為に日本全国に祀ったのだろうか。又、日本全国に祀られて居るだけで無く、新田開発をした、温泉を開いたと言う様な大国主神に纏わる様々な伝承も各地に残されて居る。
八世紀初めに編纂された『風土記』等にも大国主神の話が記載されて居るので、 大国主神が「日本中で大活躍」して居たのは随分昔の事と為る。大国主神とは一体何者なのであろうか。又大国主神の活躍する出雲神話とは一体何なのであろうか。この事に付いては従来から様々な説があり未だに意見の一致には程遠い状況にある。
一つには出雲に大国主神或いはそのモデルと為る様な人物や王権が実在して居たと考える単純素朴な説だ。流石にこの説を唱える歴史学者や考古学者は多くは無いが一般の人々には広く信じられて居るし、この説を採る在野の研究者、歴史作家も少なくは無い。
しかも近年出雲地方に於いて大量の銅剣(神庭荒神谷遺跡)・銅鐸(加茂岩倉遺跡)が発掘され、又出雲大社に於いて巨大な神殿の存在を示す遺構が発見されたのでこの説を唱える研究者が増えて来ているのは事実である。しかし、出雲地方に大和に対抗する様な大きな王権が存在した事を示す墳墓や宮殿等の建物の遺構は何ら発見されていない。
出雲地方最大の古墳も松江市山代町にある山代二子塚古墳で、その全長は94メートルでしか無く、考古学者によればこれは出雲の周辺地域と余り変わりが無いとされて居る。出雲地方に神話の大きさに見合うだけの強大な王権が存在したとは考えられ無いと云うのが多くの考古学者の一致した見解と為って居る。
或いは、出雲神話を含め『記・紀』(『古事記』『日本書紀』)の神話は中央、即ち大和朝廷の官僚による机上の創作と考える津田左右吉氏に代表される説がある。即ち神話は天皇による国家統治の由来を語り、それを正当化する為に書かれた政治的なもので全くの架空の物語と云う説である。
氏の説は従来の歴史観を根底から覆す画期的な説であったが、戦前の天皇が絶対視された皇国史観一辺倒の時代にはこの説は皇室を冒涜するものとして政府の逆鱗に触れてしまった。津田左右吉氏の著書は発禁処分と為り、氏自身も出版法違反で起訴される等散々な目に遭ってしまった。
自由にものが言える様に為った戦後にはこの説は多くの歴史学者に支持される様に為り、今ではほぼ定説と為って居る。しかしこの説では何故出雲神話が『記・紀』の神話全体の三分の一を越える大きな分量で書かれて居るのか説明する事が出来ない。
天皇による国家統治の由来を語るのに出雲の神が活躍する話を延々と語る必要は無いのだ。又、あれだけの話を全くの空想で書けるとも思われ無い。神話と言えども何らかの歴史的事実が反映されて居るのではないかと云う説にはそれ為りに説得力もあるのである。
或いは出雲に大国主神を崇拝する信仰集団が存在し、その集団が中央に大きな影響を及ぼした為、出雲神話が中央に取り入れられたと云う説もある。この説だと『記・紀』の神話に出雲神話が大きく取り上げられて居る理由を説明出来るが、その様な信仰集団の存在を証明するものは無く今の処全くの想像でしか無い。
大国主神は誰かが考え出した全く架空の人物だろうか?それとも、実在の人物だったのだろうか?もし実在の人物ならどの様な人物だったのであろうか?
正に大国主神の謎は日本古代史最大の謎と言っても好く、大国主神の正体は何なのかその謎を解か無い限り日本古代史の謎は解け無いと言っても過言では無い。本論では先ずこの大国主神の正体を探る事から古代史解明の切っ掛けとしたい。
出雲大社に付いて
大国主神は様々な名前で日本各地の神社に祀られて居るが、大国主神が祀られて居る神社と言えば出雲大社の名を挙げ無い訳にはいか無いだろう。次にこの出雲大社に付いて少し考察してみたい。
出雲大社は島根半島の西の端、島根県出雲市大社町杵築に鎮座する、伊勢神宮と並んで日本で最も著名な神社である。
出雲大社は一般には「いずもたいしゃ」と読まれて居るが「いずもおおやしろ」が正式な読み方である。杵築大社とも言い、古くは天日隅宮、出雲大神宮(『日本書紀』)、所造天下大神宮(出雲風土記)とも称されて居た。
因みに神社の称号には、大神宮、神宮、宮、大社、神社、社等があるが一般に宮と付くのは皇室の祖先、天皇、皇族を祀り、社と付くものにはその他の神が祀られて居る。
今では大社と名の付く神社は日吉大社、住吉大社等少なくは無いが、本来は大社と言えば出雲大社の事だけを指して居た。今でも神社関係者の間では単に「神宮」と言えば伊勢神宮の事を指す様に「大社」と言えば出雲大社の事を云う。
前出の『延喜式神名帳』に大社と書かれて居るのは杵築大社だけで、この事だけでも出雲大社が古来より特別な神社であった事が判る。出雲大社の境内は四万七千余坪と広大で、摂社、末社は二十三社を数える。当然の事ながら参拝者も多く毎年全国から二百万人以上の参拝者が訪れて居て、出雲市に取っては観光の中心と為って居る正にドル箱である。と云うより打ち出の小槌と言った処だろうか。この出雲大社も大国主神に劣らぬ多くの謎に満ちあふれた神社である。
巨大神殿の謎
出雲大社の建築様式は切妻妻入り(妻側が正面入口)の大社造で、伊勢神宮の切妻平入り(庇のある平側が正面入口)の神明造と共に我が国の神社建築で最も古い形式とされて居る。神社の建築様式にはこれ以外にも流造、住吉造、八幡造等様々の様式があるが大社造が見られるのは出雲地方とその近辺に限られて居る。
出雲を旅すると、谷間の小さな集落に熊野大社や佐太神社と言った大社造の立派な社殿を持った神社が鎮座して居るのは一寸神秘的と言っても好い様な光景で、これを見ると如何にも出雲は神の国と言った趣がある。
出雲大社の本殿の構造は、中心に建物中央を貫き全体を支える最も重要な柱である「心の御柱」がある。この柱が所謂「ダイコク柱」だ。「一家の大黒柱」の大黒柱はここから来て居る。心の御柱の前後に宇豆柱と呼ばれる心の御柱より少し細い柱があり、建物の側面には左右夫々3本ずつの側柱がある。これら計九本の柱によって建物が支えられて居る。
そして本殿の最も奥に神座が設けられて居るのだが、面白いのは神座のその向けられた方向である。本殿は正面南向きに建てられて居るが神座は西向きに設けられて居る。参拝者から見ると丁度ソッポを向いた様な形と為って居る。何故本殿は南向きなのに神座は西向きなのかに付いては古来より様々な説があり、夫々が論者の宗教観、古代史観が窺える様で興味深いものがあるので幾つか紹介しよう。
一、 本殿の後にスサノオを祀る素鵞社があるので、尻を向け無い様に西向きにした。
二、 出雲大社の西の方が開けて景色が好いので西向きにした。
三、 古代の住宅の間取りが本殿の間取りに反映されて居る。
四、 国譲りを強いられた大国主の怨念を封ずる為に西向きにした。
五、 大陸の脅威から国を守る為に西を向いて居る。
六、 霊魂の故郷としての常世の国に相対して居る。
因みに最後の説は第八十二代の出雲国造の千家尊統氏がその著書『出雲大社』(学生社)で述べて居る説である。神座の前には客座があり次の五柱の神が、これは南向きに祀られている。
一、 天之御中主神
二、 高御産巣日神
三、 神産巣日神
四、 宇麻志阿斯訶備比古遅神
五、 天之常立神
これ等の五柱の神は別天つ神と呼ばれる『古事記』の最初に名の現れる神で天つ神の中でも特別な神々とされ、中でも天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は造化三神と呼ばれ、天地万物を創造した神とされ神道では特に重要視されている。又本殿に向かって左側には多紀理姫を祀る筑紫社、右側に須勢理比売を祀る御向社、更にその右側に{討虫}貝比売と蛤貝比売を祀る天前社がある。
面白い事にこの三社の間には序列があって高い方から筑紫社、御向社、天前社の順だそうだ。社殿の基礎や建物も筑紫社は他の二社より丁寧に作られて居る。『古事記』の神話では須勢理比売は大国主神の大后(正妻)と為って居るので多紀理姫を祀る筑紫社の方が上位に祀られて居るのは不思議な事とされている。
この様に出雲大社に関する謎は多いが何と言っても最大の謎は社殿のその巨大さである。兎に角でかい。現在の本殿は延享元年(一七四四)に建てられたもので、その高さは地面から屋根の上に突き出た千木の先端まで八丈(約二四メートル)もあり、我が国の神社建築の中で最大の高さと大きさを誇っている。この千木と云うのは社殿屋根の両端の材で交差し高く突き出て居る部分のことである。
伊勢神宮の社殿の高さが約十二メートル、その他の著名な神社の社殿も十メートル前後だから出雲大社の社殿の高さは抜きん出て居る。しかしこの程度で驚いてはいけない。社伝によれば社殿の高さは、中世には現社殿の高さの二倍、十六丈(約四八メートル)もあったとされ、更に古代においては、なんと四倍の三十二丈(九六メートル)或いは三十六丈もあったと云うのだ。
高さ九六メートルの建造物と言えば現在でもそう小さい建造物では無い。現在の建物で言えば二五階から三十階建て位のビルディングに相当するだろう。その様な巨大な社殿が千年以上も昔、それも木造で建てられて居たと云うのである。まるで冗談としか思え無い様な話である。
三十二丈は兎も角、十六丈なら建築可能とみて建築史家の福山敏男氏が作成した十六丈本殿の復元図は有名で様々な文献に引用されて居る。
余談だが出雲市では出雲大社に遠慮して建物の高さはこの十六丈(約四八メートル)位までとされて居て、出雲市で一番高い建造物の木造の出雲ドーム(一九九二年完成)も高さは四八、九メートルと為って居る。
雲太、和二、京三
平安時代の中頃、公家の子弟教育の為に書かれた『口遊』と云う教育書がある。子供の教育書とは云うものの、かなり高度な内容と為って居て興味がある方は一度読んでみられると好い。舌を巻く筈だ。日本最古の「九九」が載って居る事でも有名な書物である。
この書の中には様々な項目があるのだが、その中に「橋」「大仏」「建物」の大きさの順位を第一位から第三位まで記した項目がある。橋は「山太、近二、宇三」とあり、京都の山崎の橋が第一で,次に近江の勢多橋が第二、第三が京都の宇治橋だと記されて居る。
大仏は「和太、河二、近三」とあり、大和の東大寺の大仏が第一で,次に河内の知識寺の大仏が第二、第三が近江の関寺の大仏だと記されて居る。そして建物の項として「雲太、和二、京三」と記されて居る。雲太(出雲太郎)は出雲大社、和二(大和二郎)は東大寺大仏殿、京三(京三郎)は平安京の大極殿の事を指すのだが、太郎と云うのは一番と云う意味だから出雲大社が東大寺大仏殿や京都御所の大極殿よりも大きいと書かれて居るのである。
この大きいと云うのは、出雲大社は東大寺大仏殿や平安京の大極殿より高い事と一般には解釈されて居るが、高さだけなら東大寺の七重の塔は創建当時八十メートル以上あったとも言われて居るから高さの比較では無いだろう。当時の東大寺大仏殿は現在の大仏殿より一回り大きかったと言われて居るから大変な大きさの建造物だったと思われる。
建久元年(1190)春に出雲大社を訪れた『新古今和歌集』や『明月記』で有名な藤原定家の従兄弟の寂蓮法師(藤原定長)は鎌倉時代に編纂された私撰和歌集「夫木抄」に次の様な感想(歌)を残して居る。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
出雲の大社に詣でて見侍りければ、天雲にたなびく山の半ばまで、片削ぎ(千木の先端)の見えけるなん、この世の事とも覚えざりける。
やはらくる光や空にみちぬらん雲にわけ入る ちきのかたそぎ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
社殿背後にある山の中程の高さに、千木の先端が見えたとその高さに驚嘆して居る。三十代半ばで出家し、その後諸国行脚をした寂蓮法師は東大寺の大仏殿は当然見た事があったと思われるが、その法師が出雲大社の本殿を見てこの世のものとも思え無いと驚いて居るのである。
金輪造営図と巨大な柱の出現
巨大な社殿の存在を示すものとして、出雲国造家には「金輪造営図」と云う平安朝に書かれた本殿の指図(見取り図)が残って居る。
それによると本殿は四丈(一二メートル)四方、九本の柱は全て三本の柱材を鉄の輪で纏めて一本にして居り、金輪造営図と云う名はここから来て居る訳だがその柱の太さは側柱で直径が一丈(三メートル)もあったとされて居る。
側柱で一丈(三メートル)なのだから宇豆柱、心の御柱は更に太かったと考えられて居る。東大寺の大仏殿は最も柱の太かった鎌倉時代でもその太さは一・五メートル程度だったと云うから、出雲大社の社殿の柱が如何に太いか判ろうと云うものである。更に注目すべきは本殿の前の引橋(階段)の長さで、その長さは何と一町(一〇九メートル)と記入されて居る。
この図通りだとすると、古代の出雲大社では社殿に辿り着く迄に階段を延々と百メートル以上も登って行か無ければ為ら無かった事に為る。
この様な長い階段を、毎日お供え物を持って上り下りし無ければ為ら無い神官もさぞ大変だった事だろう。今ならエレベーターかエスカレーターが欲しい位だ。腰痛だ神経痛だなどと言って居たのでは昔の出雲大社の神官はとてもじゃ無いが務まら無い。
兎に角大変な高さの社殿が建って居たらしいのである。その為であろうか、社殿が度々倒壊したと云う他の神社では例を見無い様な記録が残されて居る。余りに高過ぎてバランスを崩した事が原因だと言われて居る。
「出雲大社年表」によれば
長元四年(一〇三一)本殿顛倒(左経記)
康平四年(一〇六一)神殿顛倒(百錬抄)
天仁二年(一一〇九)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
永治元年(一一四一)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
承安二年(一一七二)神殿顛倒(千家古文書)
嘉禎元年(一二三五)神殿顛倒(千家古文書)
とこの様におよそ三〇年毎に倒壊して居る。三〇年毎に倒壊して居ると云う事は三〇年毎に建てられて居たと云う事でもある。当然その費用は巨額だった筈で、とても出雲一国で賄い切れたとは思え無い。この様に多くの様々な古記録には出雲大社が巨大だった事が記されて居るのだが、最近まで専門家の間ですら三二丈は愚か一六丈の巨大社殿すらその存在は疑問視されて居た。本当に冗談だと思って居たのである。
何故なら、誰が、何時、何の為にその様な巨大な社殿が建てられたのか明確な説明を誰もする事が出来ないからである。又、巨大な社殿の存在を証明するものは古い文献ばかりで物的な証拠が皆無だったと云う事もある。
処が近年、その巨大な社殿の実在を証明する、昔の本殿(鎌倉時代)の柱が地中から現れ関係者を驚かせた。平成十二年(2000)四月五日、出雲大社の地下祭礼準備室建設に伴う発掘調査中に、三本の巨木の丸太を束ねた、宇豆柱の根元部分が出土したのだ。その後九本の柱の中央に位置する心の御柱と、南東にある側柱の根元部分も相次いで出土した。
心の御柱に使われて居た丸太一本の最大径は上層部で一・二メートル、側柱は〇・八五メートルもあり、地中部分を想定すると丸太三本を束ねた心の御柱の直径は最大三・二メートルにも為り、それ迄疑問視されて居た金輪造営図等の信憑性がこの発見で大きく高まったのである。
この発見によって古代には現在より更に巨大な社殿が存在して居た事は確かな事と為った。しかし、巨大社殿が実在したと為ると何故その様な巨大な神殿が建築される必要があったのかその謎は更に膨らむばかりで、関係者や研究者たちは突然出現した巨大な柱を前に首を傾げるばかりなのである。
一体何故この様な巨大な社殿が建てられたのであろうか。出雲の神の祟りを鎮める為に建てたと云う怨霊説から、船の航海の為に建てたと云う灯台説まで、古来より多くの説が出されては居るが、未だにその定説は無い。
出雲国造と『出雲国造神賀詞』
出雲大社の宮司は国造家として知られる古くからの名家で、千家氏と北島氏の二氏がある。「国造」は「くにのみやつこ」と読むのが普通だが現在、出雲では「こくそう」と読み慣わして居る。「国造」とは律令政治以前の、古代の地域を支配する地方官の事で律令政治成立の過程に於いて廃止され、中央から派遣される国司に取って代わられたのだが、出雲にはこの制度が残され現在に続いて居る。当然の事だが、今の我が国の制度に国造の制度は無いので、出雲の伝統として続いて居る事に為る。
島根県では出雲国造の権威は大変なもので、そもそも「国造」等と呼び捨てにしては叱られる。「国造さま」と呼ば無くてはいけない。
元日の新聞には島根県知事の年頭の挨拶と共に、出雲国造の挨拶が掲載されるし、島根県で重要な公式行事が開催される時には島根県知事が列席するだけでは体裁が整なわず、出雲国造も列席しないと形に為らないのだそうだ。
出雲地方において国造の制が律令政治成立以降も維持されて来たのは、出雲大社の祭祀を司る出雲国造の宗教的権威に対する朝廷の敬意の現れと解釈しても好い。出雲国造の宗教的権威は,『出雲国造神賀詞』の奏上と云う事に好く示されて居る。『出雲国造神賀詞』奏上は出雲大社の宮司である出雲国造が新任(世継ぎ)に際して行う奈良時代から平安時代初期の宮廷行事で、その行事の中で出雲国造が天皇に奏上する寿詞が『出雲国造神賀詞』である。
奏上は前後二回行われ、出雲大社に奉祀する出雲国造は上京して新国造の任命を受けると,一旦帰国して一年間の厳重な潔斎の後,再び上京して天皇に大して神賀詞と玉、剣、鏡、布、白馬、鵠(白鳥)等数々の神宝を奉る。
この後出雲にて再度一年の潔斎を重ね,又同様に上京して神賀詞と数々の神宝を奉る。神賀詞奏上の日は宮廷では全ての仕事が休止され、天皇が大極殿の南庭に出て、出雲国造からこの『出雲国造神賀詞』を受ける。
その時には全ての官僚達も並ぶと云うから『出雲国造神賀詞』奏上は誠に大掛かりな丁寧な儀式で、この儀式が朝廷に取って大変重要な儀式であった事が判る。この様な儀式は出雲国造以外では全く例の無い儀式だから如何に天皇家が出雲大社を特別視して居たかが判る。
『出雲国造神賀詞』は全文が『延喜式』巻八に掲載されて居るのでその内容は詳しく知る事が出来る。書き下し文のままで少し判り難いかも知れないが、その内容は以下の通りである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『出雲国造神賀詞』
八十日日はあれども、今日の生日の足日に、出雲の国の国の造[姓名]、恐み恐みも申したまはく、「挂けまくも恐き明つ御神と、大八島国知ろしめす天皇命の大御世を、手長の大御世と斎ふとして、出雲の国の青垣山の内に、下つ石ねに宮柱太知り立て、高天の原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等を、[某甲]が弱肩に太襷取り挂けて、いつ幣の緒結び、天のみかび冠りて、いづの真屋に麁草をいづの席と苅り敷きて、いつへ黒益し、天の甕わに斎み篭りて、しづ宮に忌ひ静め仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、斎ひの返事の神賀の吉詞、奏したまはく」と奏す。
「高天の神王高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の児天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。すなはち大穴持の命の申したまはく、『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂をうなてに坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。ここに親神ろき・神ろみの命の宣りたまはく、『汝天の穂比の命は、天皇命の手長の大御世を、堅磐に常磐に斎ひまつり、茂しの御世に幸はへまつれ』と仰せたまひし次のまにまに、供斎仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、神の礼じろ・臣の礼じろと、御寿の神宝献らく」と奏す。
「白玉の大白髪まし、赤玉の御赤らびまし、青玉の水の江の玉の行相に、明つ御神と大八島国知ろしめす天皇命の手長の大御世を、御横刀広らにうち堅め、白御馬の前足の爪・後足の爪踏み立つる事は、大宮の内外の御門の柱を、上つ石ねに踏み堅め、下つ石ねに踏み凝らし、振り立つる耳のいや高に、天の下を知ろしめさむ事の志のため、白鵠の生御調の玩物と、倭文の大御心もたしに、彼方の古川岸、此方の古川岸に生ひ立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、すすぎ振るをどみの水の、いやをちに御をちまし、まそひの大御鏡の面をおしはるかして見そなはす事の如く、明つ御神の大八島国を、天地月日と共に、安らけく平らけく知ろしめさむ事の志のためと、御寿の神宝をげ持ちて、神の礼じろ・臣の礼じろと、恐み恐みも、天つ次の神賀の吉詞白したまはく」と奏す。
*岩波書店 日本古典文学大系『古事記 祝詞』〔武田祐吉、校注〕*
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
神話に基づく出雲大社と天皇家の関係を語り、天皇の代を寿ぐと云う内容だが、この中で「かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神」とある事に注意して頂きたい。
「かぶろき」と云うのは「かむろき」の事で、漢字で書けば「神祖」と為る。これは天皇の祖先神と云う意味である。熊野の大神、櫛御気野命と云うのはスサノオの事である。又国作りましし大穴持命は大国主神の事を指して居る。出雲国造は天皇の前でスサノオの事を天皇の尊い祖先神であると言って居るのである。
しかし我々の常識では天皇の祖先神と言えば伊勢神宮に祀られて居る天照大御神の筈である。何故、出雲国造は天皇の前で出雲神話を語り、その中に登場するスサノオを天皇の祖先神と言い、大穴持命を国作りの神と称えて居るのであろうか。ここには我々が思い浮かべるスサノオとは全く別の姿がある。スサノオの正体は一体何者なのだろうか。
神賀詞奏上が初めて国史に見えるのは、元正天皇の霊亀二年(七一六)、出雲臣果安の時、残って居る最後の記録は仁明天皇の天長十年(八三三)、出雲臣豊持の時である。
『出雲国造神賀詞』の全文が九二七年成立の『延喜式』に載って居る事から、神賀詞奏上は天長十年以降も続けられて居たと思われるが何時廃絶に為ったのかは定かでは無い。
その8につづく
第一章 大国主神と出雲大社
大国主神に付いて
日本には「八百万の神々」と云う言葉がある程数多くの神が存在するが、大国主神はその中でも須佐之男命(スサノオ)や天照大御神(アマテラス)と並んで最も有名な神で、祀られて居る神社が出雲大社と云う壮大な社殿である事と相まってその存在感は圧倒的である。又、存在感が大きいだけでは無く、我々にこれ程身近な神も無いだろう。
出雲の国作りの神として広く知られて居るが、縁結びの神としても有名だから若い人にも人気があり、他の神は知ら無くても大国主神は知って居ると云う方も多いのではないだろうか。中にはお世話に為った読者も居られると思う。
出雲を舞台に大国主神やスサノオが活躍する神話は『古事記』『日本書紀』『風土記』に数多く残されて居る。所謂出雲神話と呼ばれる一群の神話である。
中でもスサノオのヤマタノオロチの退治や大国主神が大活躍する因幡の素兎の話は大変有名な神話で、年輩の方なら一度は読まれた事があるだろう。又、大国主神は日本全国の神社に広く祀られて居り、縁結び、病気平癒、五穀褒上、商売繁盛、殖産興業、或いは必勝祈願とご利益も万能で人気があるのも当然だろう。 更に大国主神の「大国」がダイコクとも読める事から、同じ発音の大黒天(大黒様)とも習合され民間信仰に広く浸透して居る。最も本来の大黒天はインドのヒンズー教の神マハーカーラと言われ、その名の通り黒い姿で憤怒の表情の如何に凄いか。
日本人が持つ大黒天のあの福与かなイメージは日本神話に出て来る大国主神そのものである。頭に頭巾を被り背中に大きな袋を背負い右手に打ち出の小槌を持ち、ニコヤカナ表情で米俵の上にチョコんと立った例のあの神像が福の神として家の神棚に祀られて居ると云う方も多いのでは無いだろうか。
しかし、この大国主神、調べれば調べる程謎の多い神である。先ずその名前だが実に多くの別名がある。『古事記』では大国主神以外に、大穴牟遅神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神と四つの名を持って居る。又『日本書紀』の一書(第六)には
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大国主神は又の名を大物主神、又は国作大己貴命と云う。又は葦原醜男とも云う。又は八千矛神とも云う。又は大国玉神とも云う。又は顕国玉神とも云う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
とあり、大国主神以外に六つの名が記されて居る。又『出雲国風土記』には、天の下造らしし大神、天の下造らしし大神大穴持命とも表記され、天下を造った神として認識されて居る。他の神だと別名は無いか、或いはあっても精々一つか二つだろう。何故大国主神だけこの様な多くの別名があるのであろうか。しかも、この神は随分昔から全国的に広く祀られて居る。
例えば、宮崎県児湯郡都農町に日向の国の一之宮として知られる都農神社が鎮座して居るがこの神社にも大己貴命(大国主神)が祀られて居る。神社の伝承では神武天皇御東遷の途中、此の地に於いて、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念の為、鎮祭されたのを当社の創祀として居るが、仁明天皇承和四年(八三七)に宮社に列したとの記録が残されて居るので、九世紀の初期には既に九州の南端近くに大国主神が祀られて居た事に為る。
古代日本の基本法令である「養老律令」の施行細則を集大成した法典に『延喜式』がある。延喜五年(九〇五)に藤原時平達によって編纂が開始され延長五年(九二七)に奏進された事から『延喜式』と称され、ほぼ完全な形で今日に伝えられ、内容が詳細な為古代史研究に不可欠な文献とされて居るが、この中に平安時代初期の全国の主要な神社の名を記した『延喜式神名帳』がある。
時々神社名が書かれた石柱に「式内社」と記された神社を見かける事があるが、それはこの『延喜式神名帳』に名が載って居る神社の事である。
この『延喜式神名帳』を見ても既にこの頃には北海道を除くほぼ日本全国に大国主神が祀られて居た事が判る。本来出雲の神である筈の大国主神を誰が何時、何の為に日本全国に祀ったのだろうか。又、日本全国に祀られて居るだけで無く、新田開発をした、温泉を開いたと言う様な大国主神に纏わる様々な伝承も各地に残されて居る。
八世紀初めに編纂された『風土記』等にも大国主神の話が記載されて居るので、 大国主神が「日本中で大活躍」して居たのは随分昔の事と為る。大国主神とは一体何者なのであろうか。又大国主神の活躍する出雲神話とは一体何なのであろうか。この事に付いては従来から様々な説があり未だに意見の一致には程遠い状況にある。
一つには出雲に大国主神或いはそのモデルと為る様な人物や王権が実在して居たと考える単純素朴な説だ。流石にこの説を唱える歴史学者や考古学者は多くは無いが一般の人々には広く信じられて居るし、この説を採る在野の研究者、歴史作家も少なくは無い。
しかも近年出雲地方に於いて大量の銅剣(神庭荒神谷遺跡)・銅鐸(加茂岩倉遺跡)が発掘され、又出雲大社に於いて巨大な神殿の存在を示す遺構が発見されたのでこの説を唱える研究者が増えて来ているのは事実である。しかし、出雲地方に大和に対抗する様な大きな王権が存在した事を示す墳墓や宮殿等の建物の遺構は何ら発見されていない。
出雲地方最大の古墳も松江市山代町にある山代二子塚古墳で、その全長は94メートルでしか無く、考古学者によればこれは出雲の周辺地域と余り変わりが無いとされて居る。出雲地方に神話の大きさに見合うだけの強大な王権が存在したとは考えられ無いと云うのが多くの考古学者の一致した見解と為って居る。
或いは、出雲神話を含め『記・紀』(『古事記』『日本書紀』)の神話は中央、即ち大和朝廷の官僚による机上の創作と考える津田左右吉氏に代表される説がある。即ち神話は天皇による国家統治の由来を語り、それを正当化する為に書かれた政治的なもので全くの架空の物語と云う説である。
氏の説は従来の歴史観を根底から覆す画期的な説であったが、戦前の天皇が絶対視された皇国史観一辺倒の時代にはこの説は皇室を冒涜するものとして政府の逆鱗に触れてしまった。津田左右吉氏の著書は発禁処分と為り、氏自身も出版法違反で起訴される等散々な目に遭ってしまった。
自由にものが言える様に為った戦後にはこの説は多くの歴史学者に支持される様に為り、今ではほぼ定説と為って居る。しかしこの説では何故出雲神話が『記・紀』の神話全体の三分の一を越える大きな分量で書かれて居るのか説明する事が出来ない。
天皇による国家統治の由来を語るのに出雲の神が活躍する話を延々と語る必要は無いのだ。又、あれだけの話を全くの空想で書けるとも思われ無い。神話と言えども何らかの歴史的事実が反映されて居るのではないかと云う説にはそれ為りに説得力もあるのである。
或いは出雲に大国主神を崇拝する信仰集団が存在し、その集団が中央に大きな影響を及ぼした為、出雲神話が中央に取り入れられたと云う説もある。この説だと『記・紀』の神話に出雲神話が大きく取り上げられて居る理由を説明出来るが、その様な信仰集団の存在を証明するものは無く今の処全くの想像でしか無い。
大国主神は誰かが考え出した全く架空の人物だろうか?それとも、実在の人物だったのだろうか?もし実在の人物ならどの様な人物だったのであろうか?
正に大国主神の謎は日本古代史最大の謎と言っても好く、大国主神の正体は何なのかその謎を解か無い限り日本古代史の謎は解け無いと言っても過言では無い。本論では先ずこの大国主神の正体を探る事から古代史解明の切っ掛けとしたい。
出雲大社に付いて
大国主神は様々な名前で日本各地の神社に祀られて居るが、大国主神が祀られて居る神社と言えば出雲大社の名を挙げ無い訳にはいか無いだろう。次にこの出雲大社に付いて少し考察してみたい。
出雲大社は島根半島の西の端、島根県出雲市大社町杵築に鎮座する、伊勢神宮と並んで日本で最も著名な神社である。
出雲大社は一般には「いずもたいしゃ」と読まれて居るが「いずもおおやしろ」が正式な読み方である。杵築大社とも言い、古くは天日隅宮、出雲大神宮(『日本書紀』)、所造天下大神宮(出雲風土記)とも称されて居た。
因みに神社の称号には、大神宮、神宮、宮、大社、神社、社等があるが一般に宮と付くのは皇室の祖先、天皇、皇族を祀り、社と付くものにはその他の神が祀られて居る。
今では大社と名の付く神社は日吉大社、住吉大社等少なくは無いが、本来は大社と言えば出雲大社の事だけを指して居た。今でも神社関係者の間では単に「神宮」と言えば伊勢神宮の事を指す様に「大社」と言えば出雲大社の事を云う。
前出の『延喜式神名帳』に大社と書かれて居るのは杵築大社だけで、この事だけでも出雲大社が古来より特別な神社であった事が判る。出雲大社の境内は四万七千余坪と広大で、摂社、末社は二十三社を数える。当然の事ながら参拝者も多く毎年全国から二百万人以上の参拝者が訪れて居て、出雲市に取っては観光の中心と為って居る正にドル箱である。と云うより打ち出の小槌と言った処だろうか。この出雲大社も大国主神に劣らぬ多くの謎に満ちあふれた神社である。
巨大神殿の謎
出雲大社の建築様式は切妻妻入り(妻側が正面入口)の大社造で、伊勢神宮の切妻平入り(庇のある平側が正面入口)の神明造と共に我が国の神社建築で最も古い形式とされて居る。神社の建築様式にはこれ以外にも流造、住吉造、八幡造等様々の様式があるが大社造が見られるのは出雲地方とその近辺に限られて居る。
出雲を旅すると、谷間の小さな集落に熊野大社や佐太神社と言った大社造の立派な社殿を持った神社が鎮座して居るのは一寸神秘的と言っても好い様な光景で、これを見ると如何にも出雲は神の国と言った趣がある。
出雲大社の本殿の構造は、中心に建物中央を貫き全体を支える最も重要な柱である「心の御柱」がある。この柱が所謂「ダイコク柱」だ。「一家の大黒柱」の大黒柱はここから来て居る。心の御柱の前後に宇豆柱と呼ばれる心の御柱より少し細い柱があり、建物の側面には左右夫々3本ずつの側柱がある。これら計九本の柱によって建物が支えられて居る。
そして本殿の最も奥に神座が設けられて居るのだが、面白いのは神座のその向けられた方向である。本殿は正面南向きに建てられて居るが神座は西向きに設けられて居る。参拝者から見ると丁度ソッポを向いた様な形と為って居る。何故本殿は南向きなのに神座は西向きなのかに付いては古来より様々な説があり、夫々が論者の宗教観、古代史観が窺える様で興味深いものがあるので幾つか紹介しよう。
一、 本殿の後にスサノオを祀る素鵞社があるので、尻を向け無い様に西向きにした。
二、 出雲大社の西の方が開けて景色が好いので西向きにした。
三、 古代の住宅の間取りが本殿の間取りに反映されて居る。
四、 国譲りを強いられた大国主の怨念を封ずる為に西向きにした。
五、 大陸の脅威から国を守る為に西を向いて居る。
六、 霊魂の故郷としての常世の国に相対して居る。
因みに最後の説は第八十二代の出雲国造の千家尊統氏がその著書『出雲大社』(学生社)で述べて居る説である。神座の前には客座があり次の五柱の神が、これは南向きに祀られている。
一、 天之御中主神
二、 高御産巣日神
三、 神産巣日神
四、 宇麻志阿斯訶備比古遅神
五、 天之常立神
これ等の五柱の神は別天つ神と呼ばれる『古事記』の最初に名の現れる神で天つ神の中でも特別な神々とされ、中でも天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は造化三神と呼ばれ、天地万物を創造した神とされ神道では特に重要視されている。又本殿に向かって左側には多紀理姫を祀る筑紫社、右側に須勢理比売を祀る御向社、更にその右側に{討虫}貝比売と蛤貝比売を祀る天前社がある。
面白い事にこの三社の間には序列があって高い方から筑紫社、御向社、天前社の順だそうだ。社殿の基礎や建物も筑紫社は他の二社より丁寧に作られて居る。『古事記』の神話では須勢理比売は大国主神の大后(正妻)と為って居るので多紀理姫を祀る筑紫社の方が上位に祀られて居るのは不思議な事とされている。
この様に出雲大社に関する謎は多いが何と言っても最大の謎は社殿のその巨大さである。兎に角でかい。現在の本殿は延享元年(一七四四)に建てられたもので、その高さは地面から屋根の上に突き出た千木の先端まで八丈(約二四メートル)もあり、我が国の神社建築の中で最大の高さと大きさを誇っている。この千木と云うのは社殿屋根の両端の材で交差し高く突き出て居る部分のことである。
伊勢神宮の社殿の高さが約十二メートル、その他の著名な神社の社殿も十メートル前後だから出雲大社の社殿の高さは抜きん出て居る。しかしこの程度で驚いてはいけない。社伝によれば社殿の高さは、中世には現社殿の高さの二倍、十六丈(約四八メートル)もあったとされ、更に古代においては、なんと四倍の三十二丈(九六メートル)或いは三十六丈もあったと云うのだ。
高さ九六メートルの建造物と言えば現在でもそう小さい建造物では無い。現在の建物で言えば二五階から三十階建て位のビルディングに相当するだろう。その様な巨大な社殿が千年以上も昔、それも木造で建てられて居たと云うのである。まるで冗談としか思え無い様な話である。
三十二丈は兎も角、十六丈なら建築可能とみて建築史家の福山敏男氏が作成した十六丈本殿の復元図は有名で様々な文献に引用されて居る。
余談だが出雲市では出雲大社に遠慮して建物の高さはこの十六丈(約四八メートル)位までとされて居て、出雲市で一番高い建造物の木造の出雲ドーム(一九九二年完成)も高さは四八、九メートルと為って居る。
雲太、和二、京三
平安時代の中頃、公家の子弟教育の為に書かれた『口遊』と云う教育書がある。子供の教育書とは云うものの、かなり高度な内容と為って居て興味がある方は一度読んでみられると好い。舌を巻く筈だ。日本最古の「九九」が載って居る事でも有名な書物である。
この書の中には様々な項目があるのだが、その中に「橋」「大仏」「建物」の大きさの順位を第一位から第三位まで記した項目がある。橋は「山太、近二、宇三」とあり、京都の山崎の橋が第一で,次に近江の勢多橋が第二、第三が京都の宇治橋だと記されて居る。
大仏は「和太、河二、近三」とあり、大和の東大寺の大仏が第一で,次に河内の知識寺の大仏が第二、第三が近江の関寺の大仏だと記されて居る。そして建物の項として「雲太、和二、京三」と記されて居る。雲太(出雲太郎)は出雲大社、和二(大和二郎)は東大寺大仏殿、京三(京三郎)は平安京の大極殿の事を指すのだが、太郎と云うのは一番と云う意味だから出雲大社が東大寺大仏殿や京都御所の大極殿よりも大きいと書かれて居るのである。
この大きいと云うのは、出雲大社は東大寺大仏殿や平安京の大極殿より高い事と一般には解釈されて居るが、高さだけなら東大寺の七重の塔は創建当時八十メートル以上あったとも言われて居るから高さの比較では無いだろう。当時の東大寺大仏殿は現在の大仏殿より一回り大きかったと言われて居るから大変な大きさの建造物だったと思われる。
建久元年(1190)春に出雲大社を訪れた『新古今和歌集』や『明月記』で有名な藤原定家の従兄弟の寂蓮法師(藤原定長)は鎌倉時代に編纂された私撰和歌集「夫木抄」に次の様な感想(歌)を残して居る。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
出雲の大社に詣でて見侍りければ、天雲にたなびく山の半ばまで、片削ぎ(千木の先端)の見えけるなん、この世の事とも覚えざりける。
やはらくる光や空にみちぬらん雲にわけ入る ちきのかたそぎ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
社殿背後にある山の中程の高さに、千木の先端が見えたとその高さに驚嘆して居る。三十代半ばで出家し、その後諸国行脚をした寂蓮法師は東大寺の大仏殿は当然見た事があったと思われるが、その法師が出雲大社の本殿を見てこの世のものとも思え無いと驚いて居るのである。
金輪造営図と巨大な柱の出現
巨大な社殿の存在を示すものとして、出雲国造家には「金輪造営図」と云う平安朝に書かれた本殿の指図(見取り図)が残って居る。
それによると本殿は四丈(一二メートル)四方、九本の柱は全て三本の柱材を鉄の輪で纏めて一本にして居り、金輪造営図と云う名はここから来て居る訳だがその柱の太さは側柱で直径が一丈(三メートル)もあったとされて居る。
側柱で一丈(三メートル)なのだから宇豆柱、心の御柱は更に太かったと考えられて居る。東大寺の大仏殿は最も柱の太かった鎌倉時代でもその太さは一・五メートル程度だったと云うから、出雲大社の社殿の柱が如何に太いか判ろうと云うものである。更に注目すべきは本殿の前の引橋(階段)の長さで、その長さは何と一町(一〇九メートル)と記入されて居る。
この図通りだとすると、古代の出雲大社では社殿に辿り着く迄に階段を延々と百メートル以上も登って行か無ければ為ら無かった事に為る。
この様な長い階段を、毎日お供え物を持って上り下りし無ければ為ら無い神官もさぞ大変だった事だろう。今ならエレベーターかエスカレーターが欲しい位だ。腰痛だ神経痛だなどと言って居たのでは昔の出雲大社の神官はとてもじゃ無いが務まら無い。
兎に角大変な高さの社殿が建って居たらしいのである。その為であろうか、社殿が度々倒壊したと云う他の神社では例を見無い様な記録が残されて居る。余りに高過ぎてバランスを崩した事が原因だと言われて居る。
「出雲大社年表」によれば
長元四年(一〇三一)本殿顛倒(左経記)
康平四年(一〇六一)神殿顛倒(百錬抄)
天仁二年(一一〇九)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
永治元年(一一四一)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
承安二年(一一七二)神殿顛倒(千家古文書)
嘉禎元年(一二三五)神殿顛倒(千家古文書)
とこの様におよそ三〇年毎に倒壊して居る。三〇年毎に倒壊して居ると云う事は三〇年毎に建てられて居たと云う事でもある。当然その費用は巨額だった筈で、とても出雲一国で賄い切れたとは思え無い。この様に多くの様々な古記録には出雲大社が巨大だった事が記されて居るのだが、最近まで専門家の間ですら三二丈は愚か一六丈の巨大社殿すらその存在は疑問視されて居た。本当に冗談だと思って居たのである。
何故なら、誰が、何時、何の為にその様な巨大な社殿が建てられたのか明確な説明を誰もする事が出来ないからである。又、巨大な社殿の存在を証明するものは古い文献ばかりで物的な証拠が皆無だったと云う事もある。
処が近年、その巨大な社殿の実在を証明する、昔の本殿(鎌倉時代)の柱が地中から現れ関係者を驚かせた。平成十二年(2000)四月五日、出雲大社の地下祭礼準備室建設に伴う発掘調査中に、三本の巨木の丸太を束ねた、宇豆柱の根元部分が出土したのだ。その後九本の柱の中央に位置する心の御柱と、南東にある側柱の根元部分も相次いで出土した。
心の御柱に使われて居た丸太一本の最大径は上層部で一・二メートル、側柱は〇・八五メートルもあり、地中部分を想定すると丸太三本を束ねた心の御柱の直径は最大三・二メートルにも為り、それ迄疑問視されて居た金輪造営図等の信憑性がこの発見で大きく高まったのである。
この発見によって古代には現在より更に巨大な社殿が存在して居た事は確かな事と為った。しかし、巨大社殿が実在したと為ると何故その様な巨大な神殿が建築される必要があったのかその謎は更に膨らむばかりで、関係者や研究者たちは突然出現した巨大な柱を前に首を傾げるばかりなのである。
一体何故この様な巨大な社殿が建てられたのであろうか。出雲の神の祟りを鎮める為に建てたと云う怨霊説から、船の航海の為に建てたと云う灯台説まで、古来より多くの説が出されては居るが、未だにその定説は無い。
出雲国造と『出雲国造神賀詞』
出雲大社の宮司は国造家として知られる古くからの名家で、千家氏と北島氏の二氏がある。「国造」は「くにのみやつこ」と読むのが普通だが現在、出雲では「こくそう」と読み慣わして居る。「国造」とは律令政治以前の、古代の地域を支配する地方官の事で律令政治成立の過程に於いて廃止され、中央から派遣される国司に取って代わられたのだが、出雲にはこの制度が残され現在に続いて居る。当然の事だが、今の我が国の制度に国造の制度は無いので、出雲の伝統として続いて居る事に為る。
島根県では出雲国造の権威は大変なもので、そもそも「国造」等と呼び捨てにしては叱られる。「国造さま」と呼ば無くてはいけない。
元日の新聞には島根県知事の年頭の挨拶と共に、出雲国造の挨拶が掲載されるし、島根県で重要な公式行事が開催される時には島根県知事が列席するだけでは体裁が整なわず、出雲国造も列席しないと形に為らないのだそうだ。
出雲地方において国造の制が律令政治成立以降も維持されて来たのは、出雲大社の祭祀を司る出雲国造の宗教的権威に対する朝廷の敬意の現れと解釈しても好い。出雲国造の宗教的権威は,『出雲国造神賀詞』の奏上と云う事に好く示されて居る。『出雲国造神賀詞』奏上は出雲大社の宮司である出雲国造が新任(世継ぎ)に際して行う奈良時代から平安時代初期の宮廷行事で、その行事の中で出雲国造が天皇に奏上する寿詞が『出雲国造神賀詞』である。
奏上は前後二回行われ、出雲大社に奉祀する出雲国造は上京して新国造の任命を受けると,一旦帰国して一年間の厳重な潔斎の後,再び上京して天皇に大して神賀詞と玉、剣、鏡、布、白馬、鵠(白鳥)等数々の神宝を奉る。
この後出雲にて再度一年の潔斎を重ね,又同様に上京して神賀詞と数々の神宝を奉る。神賀詞奏上の日は宮廷では全ての仕事が休止され、天皇が大極殿の南庭に出て、出雲国造からこの『出雲国造神賀詞』を受ける。
その時には全ての官僚達も並ぶと云うから『出雲国造神賀詞』奏上は誠に大掛かりな丁寧な儀式で、この儀式が朝廷に取って大変重要な儀式であった事が判る。この様な儀式は出雲国造以外では全く例の無い儀式だから如何に天皇家が出雲大社を特別視して居たかが判る。
『出雲国造神賀詞』は全文が『延喜式』巻八に掲載されて居るのでその内容は詳しく知る事が出来る。書き下し文のままで少し判り難いかも知れないが、その内容は以下の通りである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『出雲国造神賀詞』
八十日日はあれども、今日の生日の足日に、出雲の国の国の造[姓名]、恐み恐みも申したまはく、「挂けまくも恐き明つ御神と、大八島国知ろしめす天皇命の大御世を、手長の大御世と斎ふとして、出雲の国の青垣山の内に、下つ石ねに宮柱太知り立て、高天の原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等を、[某甲]が弱肩に太襷取り挂けて、いつ幣の緒結び、天のみかび冠りて、いづの真屋に麁草をいづの席と苅り敷きて、いつへ黒益し、天の甕わに斎み篭りて、しづ宮に忌ひ静め仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、斎ひの返事の神賀の吉詞、奏したまはく」と奏す。
「高天の神王高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の児天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。すなはち大穴持の命の申したまはく、『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂をうなてに坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。ここに親神ろき・神ろみの命の宣りたまはく、『汝天の穂比の命は、天皇命の手長の大御世を、堅磐に常磐に斎ひまつり、茂しの御世に幸はへまつれ』と仰せたまひし次のまにまに、供斎仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、神の礼じろ・臣の礼じろと、御寿の神宝献らく」と奏す。
「白玉の大白髪まし、赤玉の御赤らびまし、青玉の水の江の玉の行相に、明つ御神と大八島国知ろしめす天皇命の手長の大御世を、御横刀広らにうち堅め、白御馬の前足の爪・後足の爪踏み立つる事は、大宮の内外の御門の柱を、上つ石ねに踏み堅め、下つ石ねに踏み凝らし、振り立つる耳のいや高に、天の下を知ろしめさむ事の志のため、白鵠の生御調の玩物と、倭文の大御心もたしに、彼方の古川岸、此方の古川岸に生ひ立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、すすぎ振るをどみの水の、いやをちに御をちまし、まそひの大御鏡の面をおしはるかして見そなはす事の如く、明つ御神の大八島国を、天地月日と共に、安らけく平らけく知ろしめさむ事の志のためと、御寿の神宝をげ持ちて、神の礼じろ・臣の礼じろと、恐み恐みも、天つ次の神賀の吉詞白したまはく」と奏す。
*岩波書店 日本古典文学大系『古事記 祝詞』〔武田祐吉、校注〕*
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
神話に基づく出雲大社と天皇家の関係を語り、天皇の代を寿ぐと云う内容だが、この中で「かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神」とある事に注意して頂きたい。
「かぶろき」と云うのは「かむろき」の事で、漢字で書けば「神祖」と為る。これは天皇の祖先神と云う意味である。熊野の大神、櫛御気野命と云うのはスサノオの事である。又国作りましし大穴持命は大国主神の事を指して居る。出雲国造は天皇の前でスサノオの事を天皇の尊い祖先神であると言って居るのである。
しかし我々の常識では天皇の祖先神と言えば伊勢神宮に祀られて居る天照大御神の筈である。何故、出雲国造は天皇の前で出雲神話を語り、その中に登場するスサノオを天皇の祖先神と言い、大穴持命を国作りの神と称えて居るのであろうか。ここには我々が思い浮かべるスサノオとは全く別の姿がある。スサノオの正体は一体何者なのだろうか。
神賀詞奏上が初めて国史に見えるのは、元正天皇の霊亀二年(七一六)、出雲臣果安の時、残って居る最後の記録は仁明天皇の天長十年(八三三)、出雲臣豊持の時である。
『出雲国造神賀詞』の全文が九二七年成立の『延喜式』に載って居る事から、神賀詞奏上は天長十年以降も続けられて居たと思われるが何時廃絶に為ったのかは定かでは無い。
その8につづく
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/7756891
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック