2018年06月09日
古代からのお話し その6
古代からのお話し その6
日本古代史の解明
はじめに
今、我々は好むと好まざるとに関わらず大きな変革の時代に生きて居る。東西冷戦構造の崩壊を受けて登場した経済大国、中国に政治的・経済的にどの様に対応するかは政治家のみならず国民に取っても大きな課題と為って居るからである。
古代に於いて我が国は同じ様な体験をして居た。今から約1400年前、隋・唐と言った強大な統一国家が中国大陸に登場した事は東アジアの国々に取って大きな脅威と為り、朝鮮半島の激動と相まって我が国に大きな変革を迫る事に為り、その結果誕生したのが我々の国「日本」である。
本論が語るのは1300年以上前の飛鳥時代、日本建国の中心と為った天皇家の真実の姿である
サテ、世の中は相変わらずの古代史ブームが続いて居る。考古学上の新しい発見がある度に新聞、テレビ等で大々的に取り上げられるのも昨今左程珍しい事では無い。
高松塚古墳であの素晴らしい極彩色壁画が発見されて以来、藤ノ木古墳、吉野ヶ里遺跡、或いは出雲での大量の銅剣、銅鐸の発掘等新しい発見がある度に大きな話題と為り、様々な議論を巻き起こして世の中を騒がせて来たのも記憶に新しい処だろう。
又遺跡発掘の現地説明会が開催されると驚く程広い範囲から多くの古代史ファンが駆け着けて来る。この様な相次ぐ新発見、古代史に対する世間の関心の高まりは古代史の研究者、ファンに取ってとても嬉しいもので研究を続ける上で大きな励みとも為って居る。
この様に人々の古代史に対する関心は大変強いものがあり、その要求に答えるかの様に次々に古代史に関する本が発行されて居る。書店の売り場を覗いて見ても歴史コーナーは大きなスペースを占めて居て、世間の関心の高さが伺え、毎日の様に次々と新刊が並べられて居る。
確かに多くの人々に取って日本古代史はロマン溢れる世界なのかも知れない。 しかしロマンにばかり浸っては居られない現実もある。
古代史に少しでも関心のある方なら既にお気づきかと思うが、数多くの研究者の長年にわたる懸命の努力にも関わらず古代史の真相は依然深い謎に覆われたままで、その真の姿を私達に容易には見せて呉れ無い。新たな発見も謎の解明に繋がるよりも、それによって更に謎が深まって居る様な気がする。
具体的には奈良時代以降は記録も多く、かなり解明されて居るのだが、飛鳥時代以前の事に為ると謎だらけなのである。
その主たる原因は、史料と為る文献の少なさとその信頼性の低い事による。 文献が無い訳では無い。『古事記』、『日本書紀』と云う国家によって書かれた歴史書が立派に存在するのだが、その内容が真実を完全に伝えて居るとは言い難いのである。
『古事記』『日本書紀』は飛鳥時代から奈良時代に掛けて当時の天皇達が自分達の由来を記した歴史書で、第三者が客観的に書いたものでは無い。従って都合の悪い事が書かれて居なくても、虚偽が書かれて居たとしても何ら不思議な事では無い。
中国の歴史書が一つの王朝が滅びた後、後の王朝によって前の王朝の歴史書が書かれて居る為、かなり信頼されて居るのとは事情が異なるのである。
そうなら他の文献を参考にすれば好いではないかと思われるかも知れないが、残念ながら『古事記』、『日本書紀』以外のこれと言った日本の古代史に関する記録は金石文(金属や石に刻まれた文字)、木簡等の断片的な史料を除けば、殆ど存在し無いのが現状と為って居る。
この様な状況は古代史研究者に取って何とも残念な事としか言い様が無い。 隣国の朝鮮の歴史書には日本の古代史に関する重要な記述は余り含まれてはいない。中国の歴史書の中には日本に関する記述が断片的ではあるが残されて居る。
中でも『三国志』の中の魏書東夷伝倭人ノ条(所謂魏志倭人伝)にはある程度纏まった記述が残されて居り、記述には不明な点が多いにも関わらず、当時の日本の事を知る上で大変貴重なものと為って居る。
歴史の古い記録と云うものが如何に尊いものか痛感して居るのは筆者だけではあるまい。この様な確かな記録の大変少ない状況の中で、古代史研究者は研究をし無ければ為らないのだからその苦労は並大抵では無い。
しかし、この様な混沌とした状況だからこそ大学や学会に所属する様な古代史学者で無くとも古代史の研究に魅力を感じるのも確かで、その様な研究者や歴史作家からも古代史に関する本が数多く出版されて居る。
同じ日本史でも中世史や近世史の様に資料が多い分野では知識の豊富な専門家に資料や知識の乏しいアマチュアは全く太刀打ち出来ないのである。しかしながらその様な本の中には残念ながら奇説、珍説の類が数多く見受けられる。
確かに彼等の書く本は面白いし、好く売れても居る。しかし古代史を少しでも知って居るものなら彼等の書く本を余り信頼しては居ない。学会からも殆ど無視されて居る。史料が少無ければその分は想像力で穴埋めするしか無い。歴史の研究には想像力が必要だと言う事は好く言われる事で、これは間違いの無い処だ。
しかし、史料が少ない事を好い事に自らの先入観に従って恣意的な解釈や想像ばかりを積み重ねて行けばどの様な話でも書けてしまう。
叙述力のある作家の手に罹れば面白い話をデッチ上げてしまう事など簡単な事なのである。しかしこれでは空想小説となんら変わりは無い。思わず目を疑う様な説が一部の研究者や歴史作家から発表され、それが一般の読者から一定の支持を受けて居ると言う様な事態にも為って居る。中には所謂「トンデモ本」に名を挙げられた研究書まである。
この様な現状では日本の古代史研究は魑魅魍魎の徘徊する世界と言われても仕方が無いのでは無いだろうか。
改めて確りとした史料批判、即ち古代史研究の基礎的文献である『古事記』『日本書紀』それ自体の研究が必要と感じざるを得無い。取り分け研究に於いて最も重要な事は『日本書紀』に先んじて成立したとされ、最も古い歴史書と言われる『古事記』を誰が、何時、何の目的で、どの様な編集方針の基に編纂されたかを解明する事だと思う。
『古事記』『日本書紀』の編纂意図を見抜く事が出来れば虚偽と真実を容易に見分ける事が出来るし、例え嘘が書いてあったとしても嘘の裏を探る事によって何らかの真実を見つけ出す事が出来る、例え作り話でもその中に含まれて居る真実を掘り出す事が可能と為るからである。
本論はその『古事記』に登場する大国主神の謎を解明する事によって神話の謎を、又『古事記』或いは『日本書紀』の謎を解明し、古代史の謎に迫る事を目指したものである。
尚本論では『古事記』の神話を殆ど省略する事無く掲載して居るのでこれを機会に確りと読んで頂きたいと願って居る。理由は三つある。
理由の一つは、神話は荒唐無稽な恰もお伽話の様な話ばかりだが、実は神話は古代史を解明する上で極めて重要な鍵と為って居るからである。
理由の二つ目は、戦前に於いて天皇を絶対視する所謂皇国史観に基づき、神話を史実とする教育が行われた。その事が戦前の悲劇に繋がる一因と為ってしまったのだが、戦後は戦前の反省から神話は逆に全く教えられ無く為ってしまった。しかし神話は日本文化の源流の一つであると共に日本社会を動かすメカニズムの一部として今も機能して居り、日本人なら神話を全く知ら無いで済ます訳には行か無いと思うからである。
そして最後の理由は、何と言ってもこれ程興味深くて面白い話もそうあるものでは無い。神話を読んで頂くだけでも十分楽しんで頂ける筈である。
天皇号に付いて
天皇と云う称号が何時頃使用される様に為ったか、天武朝(在位六七三年〜六八六年)に於いて使用されて居た事は、この時代の遺跡から「天皇」と云う文字が含まれた木簡が出土して居るので天武朝以降に使用されて居たのは確実である。
それ以前に付いては諸説あり定説が無いが、推古朝(五九二〜六二八)以後、恐らく天武朝であろうと云うのが大方の研究者の意見である。私も天武朝だと考えて居る。天皇号が使われる以前は大王と呼ばれて居た。
又、神武・推古・天智・天武と言った歴代天皇の呼称は漢風諡号と呼ばれ漢字二文字で書き表すが、これは奈良時代の終わり頃、天智天皇の曾々孫の淡海三船が一括して撰進したものと言われて居る。漢風諡号とは別に国風諡号或いは和風諡号と云うものもあり、例えば天武天皇だと天渟中原瀛真人天皇と書き表す。
『日本書紀』ではこの国風諡号が使われて居る。この国風諡号が先帝の崩御後に贈られた正式な諡号なのだが余り一般的では無い。本論では便宜的だが、大変判り易く便利なので推古天皇・天武天皇と言った漢風諡号を用いる事にした。又天皇とは呼ばれて居なかったであろうと思われる推古天皇以前の天皇に付いても神武天皇・応神天皇と言った天皇号と漢風諡号を使わせて頂く。
『日本』国号に付いて
『日本』と云う国号が何時頃どの様な経過で使われる様に為ったかは謎に包まれて居る。『日本』と云う国号が成立する以前、我が国は『倭』と呼ばれて居た。『日本』と云う国号が正式に使われ始めた時期に付いての確かな記録は無いが、多くの研究者は天皇号同様、天武朝辺りではないかと見て居る様だ。
本論ではこれ又便宜的ではあるが天武朝以前に於いても『日本』と云う国号を使用して居る事を予めお断りして置きたい。
その7につづく
日本古代史の解明
はじめに
今、我々は好むと好まざるとに関わらず大きな変革の時代に生きて居る。東西冷戦構造の崩壊を受けて登場した経済大国、中国に政治的・経済的にどの様に対応するかは政治家のみならず国民に取っても大きな課題と為って居るからである。
古代に於いて我が国は同じ様な体験をして居た。今から約1400年前、隋・唐と言った強大な統一国家が中国大陸に登場した事は東アジアの国々に取って大きな脅威と為り、朝鮮半島の激動と相まって我が国に大きな変革を迫る事に為り、その結果誕生したのが我々の国「日本」である。
本論が語るのは1300年以上前の飛鳥時代、日本建国の中心と為った天皇家の真実の姿である
サテ、世の中は相変わらずの古代史ブームが続いて居る。考古学上の新しい発見がある度に新聞、テレビ等で大々的に取り上げられるのも昨今左程珍しい事では無い。
高松塚古墳であの素晴らしい極彩色壁画が発見されて以来、藤ノ木古墳、吉野ヶ里遺跡、或いは出雲での大量の銅剣、銅鐸の発掘等新しい発見がある度に大きな話題と為り、様々な議論を巻き起こして世の中を騒がせて来たのも記憶に新しい処だろう。
又遺跡発掘の現地説明会が開催されると驚く程広い範囲から多くの古代史ファンが駆け着けて来る。この様な相次ぐ新発見、古代史に対する世間の関心の高まりは古代史の研究者、ファンに取ってとても嬉しいもので研究を続ける上で大きな励みとも為って居る。
この様に人々の古代史に対する関心は大変強いものがあり、その要求に答えるかの様に次々に古代史に関する本が発行されて居る。書店の売り場を覗いて見ても歴史コーナーは大きなスペースを占めて居て、世間の関心の高さが伺え、毎日の様に次々と新刊が並べられて居る。
確かに多くの人々に取って日本古代史はロマン溢れる世界なのかも知れない。 しかしロマンにばかり浸っては居られない現実もある。
古代史に少しでも関心のある方なら既にお気づきかと思うが、数多くの研究者の長年にわたる懸命の努力にも関わらず古代史の真相は依然深い謎に覆われたままで、その真の姿を私達に容易には見せて呉れ無い。新たな発見も謎の解明に繋がるよりも、それによって更に謎が深まって居る様な気がする。
具体的には奈良時代以降は記録も多く、かなり解明されて居るのだが、飛鳥時代以前の事に為ると謎だらけなのである。
その主たる原因は、史料と為る文献の少なさとその信頼性の低い事による。 文献が無い訳では無い。『古事記』、『日本書紀』と云う国家によって書かれた歴史書が立派に存在するのだが、その内容が真実を完全に伝えて居るとは言い難いのである。
『古事記』『日本書紀』は飛鳥時代から奈良時代に掛けて当時の天皇達が自分達の由来を記した歴史書で、第三者が客観的に書いたものでは無い。従って都合の悪い事が書かれて居なくても、虚偽が書かれて居たとしても何ら不思議な事では無い。
中国の歴史書が一つの王朝が滅びた後、後の王朝によって前の王朝の歴史書が書かれて居る為、かなり信頼されて居るのとは事情が異なるのである。
そうなら他の文献を参考にすれば好いではないかと思われるかも知れないが、残念ながら『古事記』、『日本書紀』以外のこれと言った日本の古代史に関する記録は金石文(金属や石に刻まれた文字)、木簡等の断片的な史料を除けば、殆ど存在し無いのが現状と為って居る。
この様な状況は古代史研究者に取って何とも残念な事としか言い様が無い。 隣国の朝鮮の歴史書には日本の古代史に関する重要な記述は余り含まれてはいない。中国の歴史書の中には日本に関する記述が断片的ではあるが残されて居る。
中でも『三国志』の中の魏書東夷伝倭人ノ条(所謂魏志倭人伝)にはある程度纏まった記述が残されて居り、記述には不明な点が多いにも関わらず、当時の日本の事を知る上で大変貴重なものと為って居る。
歴史の古い記録と云うものが如何に尊いものか痛感して居るのは筆者だけではあるまい。この様な確かな記録の大変少ない状況の中で、古代史研究者は研究をし無ければ為らないのだからその苦労は並大抵では無い。
しかし、この様な混沌とした状況だからこそ大学や学会に所属する様な古代史学者で無くとも古代史の研究に魅力を感じるのも確かで、その様な研究者や歴史作家からも古代史に関する本が数多く出版されて居る。
同じ日本史でも中世史や近世史の様に資料が多い分野では知識の豊富な専門家に資料や知識の乏しいアマチュアは全く太刀打ち出来ないのである。しかしながらその様な本の中には残念ながら奇説、珍説の類が数多く見受けられる。
確かに彼等の書く本は面白いし、好く売れても居る。しかし古代史を少しでも知って居るものなら彼等の書く本を余り信頼しては居ない。学会からも殆ど無視されて居る。史料が少無ければその分は想像力で穴埋めするしか無い。歴史の研究には想像力が必要だと言う事は好く言われる事で、これは間違いの無い処だ。
しかし、史料が少ない事を好い事に自らの先入観に従って恣意的な解釈や想像ばかりを積み重ねて行けばどの様な話でも書けてしまう。
叙述力のある作家の手に罹れば面白い話をデッチ上げてしまう事など簡単な事なのである。しかしこれでは空想小説となんら変わりは無い。思わず目を疑う様な説が一部の研究者や歴史作家から発表され、それが一般の読者から一定の支持を受けて居ると言う様な事態にも為って居る。中には所謂「トンデモ本」に名を挙げられた研究書まである。
この様な現状では日本の古代史研究は魑魅魍魎の徘徊する世界と言われても仕方が無いのでは無いだろうか。
改めて確りとした史料批判、即ち古代史研究の基礎的文献である『古事記』『日本書紀』それ自体の研究が必要と感じざるを得無い。取り分け研究に於いて最も重要な事は『日本書紀』に先んじて成立したとされ、最も古い歴史書と言われる『古事記』を誰が、何時、何の目的で、どの様な編集方針の基に編纂されたかを解明する事だと思う。
『古事記』『日本書紀』の編纂意図を見抜く事が出来れば虚偽と真実を容易に見分ける事が出来るし、例え嘘が書いてあったとしても嘘の裏を探る事によって何らかの真実を見つけ出す事が出来る、例え作り話でもその中に含まれて居る真実を掘り出す事が可能と為るからである。
本論はその『古事記』に登場する大国主神の謎を解明する事によって神話の謎を、又『古事記』或いは『日本書紀』の謎を解明し、古代史の謎に迫る事を目指したものである。
尚本論では『古事記』の神話を殆ど省略する事無く掲載して居るのでこれを機会に確りと読んで頂きたいと願って居る。理由は三つある。
理由の一つは、神話は荒唐無稽な恰もお伽話の様な話ばかりだが、実は神話は古代史を解明する上で極めて重要な鍵と為って居るからである。
理由の二つ目は、戦前に於いて天皇を絶対視する所謂皇国史観に基づき、神話を史実とする教育が行われた。その事が戦前の悲劇に繋がる一因と為ってしまったのだが、戦後は戦前の反省から神話は逆に全く教えられ無く為ってしまった。しかし神話は日本文化の源流の一つであると共に日本社会を動かすメカニズムの一部として今も機能して居り、日本人なら神話を全く知ら無いで済ます訳には行か無いと思うからである。
そして最後の理由は、何と言ってもこれ程興味深くて面白い話もそうあるものでは無い。神話を読んで頂くだけでも十分楽しんで頂ける筈である。
天皇号に付いて
天皇と云う称号が何時頃使用される様に為ったか、天武朝(在位六七三年〜六八六年)に於いて使用されて居た事は、この時代の遺跡から「天皇」と云う文字が含まれた木簡が出土して居るので天武朝以降に使用されて居たのは確実である。
それ以前に付いては諸説あり定説が無いが、推古朝(五九二〜六二八)以後、恐らく天武朝であろうと云うのが大方の研究者の意見である。私も天武朝だと考えて居る。天皇号が使われる以前は大王と呼ばれて居た。
又、神武・推古・天智・天武と言った歴代天皇の呼称は漢風諡号と呼ばれ漢字二文字で書き表すが、これは奈良時代の終わり頃、天智天皇の曾々孫の淡海三船が一括して撰進したものと言われて居る。漢風諡号とは別に国風諡号或いは和風諡号と云うものもあり、例えば天武天皇だと天渟中原瀛真人天皇と書き表す。
『日本書紀』ではこの国風諡号が使われて居る。この国風諡号が先帝の崩御後に贈られた正式な諡号なのだが余り一般的では無い。本論では便宜的だが、大変判り易く便利なので推古天皇・天武天皇と言った漢風諡号を用いる事にした。又天皇とは呼ばれて居なかったであろうと思われる推古天皇以前の天皇に付いても神武天皇・応神天皇と言った天皇号と漢風諡号を使わせて頂く。
『日本』国号に付いて
『日本』と云う国号が何時頃どの様な経過で使われる様に為ったかは謎に包まれて居る。『日本』と云う国号が成立する以前、我が国は『倭』と呼ばれて居た。『日本』と云う国号が正式に使われ始めた時期に付いての確かな記録は無いが、多くの研究者は天皇号同様、天武朝辺りではないかと見て居る様だ。
本論ではこれ又便宜的ではあるが天武朝以前に於いても『日本』と云う国号を使用して居る事を予めお断りして置きたい。
その7につづく
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