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2018年06月09日

古代からのお話し その5

 

 古代からのお話し その5

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 (六)天智天皇の新「皇統」構想と晩年、大海人皇子の登場

 天智天皇の病は篤く、構想の行方に暗雲が立ち込め始める。天智の構想は、同母弟・大海人皇子を協力者に兄弟で紡ぎ出した新しい血統から今後の天皇を出して行き、よりスムーズな皇位継承を推し進めて行こうと云うものだった。
 しかし、未だ「皇太子」制を定めるには至ら無かった。新王朝初の「皇太子」と為るべき草壁皇子或いは大津皇子(共に大海人を父に、天智の娘を母にする)が未だ幼かった事が一つ。又、支配層内での、「皇位は世代順に継承するもの」と云う伝統的な観念も根強かった。

 天智は仕方無く、草壁皇子らの即位迄の繋ぎとして、我が子・大友皇子(母は伊賀の豪族の娘)に譲位する事を決断する。天智は分かって居た。力を着けて来た弟が「同世代」の皇位継承候補者として名乗りを挙げる可能性があり、そう為ればこれを支援する豪族もあろう事を。
 時代は皇位継承方法について、正に分水嶺を迎えつつあった。もし大海人皇子で無ければ、天智の構想は上手く行ったのかも知れない。

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 大海人皇子は「大化改新」以前の半生が不明で急に書紀に登場する事から、天智と大海人が異母兄弟であったとか、二人は全く別系統の王族だったのだと云う論が見られる。
 しかしこれは時代の大きな流れを無視した我田引水な論法と言わざるを得ない()。「大后」や「大兄」の制は皇位継承を安定させる為にあった。その「大兄」は同母の兄弟内の争いを避ける為のもので、この時代には定着して居り、大海人皇子には優先的な継承資格は無く記し残すには値し無かったのだ。

 ()こう書きながら、実は筆者自身もこの論法でこの時代を述べた事がある。ここは「遠山史観による日本古代史」と云う事で、食い違いをお許し願おう。

 処が、天武政権を支える実力者として頭角を現した大海人は「大兄」制を乗り越え、遂には即位に至ったのである。天智晩年、このままでは自分の即位は無いものと悟った大海人は来たるべき日を期して、出家し吉野に隠遁する。失意に内に間も無く天皇は崩御するが、その後の皇位の在りかが定かでは無い。
 大友皇子は弘文天皇と後ちに諡号されたが、本当に即位したのかどうか分から無い。大権は未だ、天皇の大后・倭姫王(あの古人皇子の娘)の元に在ったと寧ろ言うべきだろう。

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 ▼最大の皇位継承戦争としての「壬申の乱」

 これも遠山氏の綿密な考証による結論であるが、大海人皇子は大友皇子の攻撃から不本意に挙兵に追い込まれ、遂に勝利して天武天皇と為ったのでは無い。 予めその意図を以て周到に準備し、かつ勝利後の政治構想さえ持って臨んだ計画的クーデタだったのだ。
 大后・倭姫王を軸に考えると本当の構図が見えて来る。女帝の後の、山背皇子殺害クーデタ、「乙巳の変」クーデタ、そして「壬申の乱」クーデタである。継承者は、同世代の大海人皇子かそれとも次世代の大友皇子かと云う争いなのである。

 大規模な武力闘争や戦争は、夫々を支持する諸豪族の力無くして出来無かった。只、今回は少し違って居た。軍兵の直接動員のカギを握る「庚午年籍」(全国戸籍)があった。だからこそ、壬申の乱は古代最大の内乱と為ったのだ。
 大友皇子は「庚午年籍」を用い、地方官僚・国司(くにのみこともち)に命じて兵力を動員した。それに対して大海人皇子は、私領のある美濃を拠点に、大友の指令を受けた東国の国司達に翻意を促した。

 細かい経過は略すが、結果はご存知の通りである。旧都・倭古京は抱き込んだ大伴氏等に守らせ、大海人自らは大津京攻めの後方・不破に在った。そこで、軍令権を長子・高市皇子に全面委譲する。戦争を大友皇子と高市皇子とが「治天下大王」を争うものと位置づけ、自らはそれを超越した地位にある何者かとしたのである。そう、それが「天皇」であった。大友皇子は自死し、大海人皇子は皇位を強引にもぎ取った。

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 ▼天武朝に於ける「天皇」意識と天智流「血統」主義の後退
 
 都は再び倭古京に戻り、そこで大海人皇子は天武天皇として即位する。大后はウ野皇女(天智の娘であり、後ちの持統天皇)である。天武は先帝・天智と同様、この動乱の統御と収拾の中で、皇権を強化・増大させて行く。
 天智が白村江敗戦直後、豪族懐柔の為に与えた部曲(かきべ:豪族私有民)を廃止し、又皇族を含む諸氏に下した山林等を没収した。他に、畿外豪族にも中央任官への道を開く等、「公地公民」や全国直接統治の実を着々と挙げて行く。

 679年五月、自身に取って壬申の乱縁の地・吉野に、天武は皇后と共に六人の皇子を招く。そこで、六人の結束と連帯を呼び掛け、相互の皇位継承順位を誓約させた。所謂「吉野盟約」である。
その継承順位は次表の通りだ。留意すべきは、天武の皇子達が確かに優遇されては居るが、後ちの持統が始めた様な一血統への絞り込みは未だ為されては居ないと云う事だ。天武自身が武力を以て「世代順継承」を遂行した位だから当然と言えるかも知れ無いが、ここで天智が構想した父母共に天智かつ天武系と云う皇位継承の「血統」主義は一時後退して居る。

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 〈「吉野盟約」での継承順位〉

 順位  皇子   父    母  (その父) 年齢順

 1  草壁皇子 天武天皇  ウ野皇女(天智天皇)  3
 2   大津皇子 天武天皇  大田皇女(天智天皇) 4
 3  高市皇子 天武天皇  尼子娘 (胸形君)  1
 4   河嶋皇子 天智天皇  色夫古娘(忍海造) 2
 5  忍壁皇子 天武天皇  カジ媛 (宍人臣)  5
 6  芝基皇子 天智天皇  伊羅都売(越道君)  6

 681年、律令と「書紀」の編纂開始を命じる。同時期に二十歳の草壁皇子を次期天皇と定める。686年、天武は草薙剣(くさなぎのつるぎ)の祟りによって、俄かに病に倒れる。
 「天皇」は最高の清浄を含意する「すめらみこと」と読むが、これを名乗る天武は穢れを去らねば為らない。年号に道教的な「朱鳥」を立て、宮を「飛鳥浄御原(きよみはら)宮」と改名する。しかしその甲斐も虚しく、同年九月に崩御する。それでも「天武天皇」は「現人神」であり、その死は神仙の様な超絶した隠棲に入ったものとされた。

 ▼持統天皇による「皇太子」の創出と初の平和的な生前譲位
 
 それでも25歳の草壁皇子は即位しない。何故か。後ちの「皇太子」では無いからだ。大后は大権を保持しながら草壁皇子の成長を待つ。その彼女の初仕事は、「吉野盟約」で皇位継承順第二位の大津皇子の誅殺と為った。
 皇后の考えは夫とは少し違って来て居た。何としても我が子・草壁皇子を即位させようと云うのだ。処が願いは叶えられず、689年 皇子は二八歳で没する。だが孫が居た。皇后は夜叉に変身する。浄御原令を完成させ、翌年、自ら中継ぎ役として即位する。持統天皇である。

 浄御原令(行政法)の完成は、古代天皇制の明白なメタモルフォーゼ(変態)を意味する。遂に「大化改新ヴィジョン」はほぼ成就し、法令に基づいた国家統治が可能と為る。これに伴い、「天皇」も個人能力を離れた一地位として存立可能と為った。
 696年、天武の皇子中、最年長の高市皇子が世を去る。翌年、女帝は草壁の忘れ形見・カル皇子を浄御原令の皇太子制に則った皇太子とする。同年八月、持統は生前譲位し、ここに文武天皇が即位した。史上初の平和的な生前譲位であった。

 以降、生前譲位は当たり前のものと為って行く。皇位継承ルールが替わったのだ。持統は、夫・天武によって一時曖昧にされ掛けた父帝の「血統による皇位継承」構想を復活し、しかも更に先鋭化させて「父子直系」と云う一筋に絞り込んだ。これが「皇太子」制を出現させた。
そしてやがて書紀には、「摂政」時代の聖徳太子(「太子」とは「皇太子」の意)、「皇太子」としての「称制」時代の中大兄皇子が描き出される事と為った。

 皇統は、天武と持統の息子・草壁皇子から、その子・文武天皇、その子・聖武、その子・孝謙(称徳)天皇へと引き継がれて行く。これを「天武王朝」と指弾したのは、都を平安京に遷した桓武天皇だ。
 桓武は自身を「天智血統」と自認した。しかし皇位を独占したのは天武血統では無く、正しくは草壁直系であった。天武傍流は天智系と同様排除されて居たのだから。桓武も又、自身に取っての「真実」を述べたに過ぎ無い。それは政治的なプロパガンダとして有効であった。

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 ▼遠山史観についての蛇足

 サテ、この辺りで本稿を終えたい。遠山氏には『彷徨の王権--聖武天皇』と云う興味深い聖武天皇論もあるのだが、それは又の機会としたい。最後に蛇足として、遠山史観について纏めて置こう。

 氏のフィールドは、中近世の天皇制論に鋭い斬り込みを見せる今谷明氏と同様、政治史である。政治史と云うのは、戦後歴史学が「戦前」的な政治中心史観を否定する為に編み出した社会経済中心の「人民史観」によって、長らく冷遇されて来た分野である。
 しかし要約今谷明氏や遠山美都男氏らのメスによって新たな光と面白さを見出され来た。両人とも、「天皇制」と云う、ニッポンとその政治の歴史的な解明のカギと為るものに沿って仕事をして居る処が意味深長である。

 結局、戦後歴史学は天皇制を全否定するだけで何も解明出来て居なかったと云う事に為るからだ。実際、遠山氏なぞは戦後歴史学の「常識」を再検討する事で事実を再照射して来た事は、この小論でも述べて来た通りだ。

 遠山史観の座標軸は、王位継承ルールの変遷にある。中でも、天武天皇以前の男王は「世代順継承」であった事の定式化の意義は大きい。
 「万世一系」が含意して居る「父子直系」イメージは持統天皇が始めた事の逆投影に過ぎ無かった。「皇太子」イメージもこれとセットだった。「世代順継承」に約束された「皇太子」は居なかった。そう云う文脈の中で女帝(大后)の役割とその役割の成長が解明されて居る。

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 氏の出発点と為った「大化改新」は、それ等が集約された最大の謎であった。これを一枚一枚、或いは一筋一筋解き解す事によって全ては明らかに為って行った。書紀史観、戦後史観、更には藤原氏陰謀史観からも解放された、蘇我氏、中大兄皇子、孝徳天皇、皇極天皇等の像が少しずつ現れて来たのだった。合理的な説明が可能に為った。
 例えば、聖徳太子が即位出来無かったのは同世代で年長では無かった事と、推古天皇が終身の女王で生前譲位出来無かったからだと云う訳だ。今後とも、氏の解明に注目して行きたい。

 その6につづく



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