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2018年06月09日

昔からのお話し その4



 昔からのお話し その4

(五)世界王」としての女帝・斉明天皇の実力
 
 ドラマの主役が中大兄皇子と為って居る書紀は皇子等に捨てられた孝徳天皇の寂しい晩年を描くが、本当はどうか分から無い。ともあれ654年孝徳天皇は難波宮に崩御する。皇位継承候補には孝徳の子・有間皇子と中大兄皇子が居たが意見は纏まら無かった様だ。翌年、再び「中継役」で宝皇女が斉明天皇として即死する。齢62であった。

 ここでも確認出来るが、中大兄皇子は「乙巳の変」や「大化改新」の主役で無い処か、この時点でさえも次期天皇として認定されて居ないのだ。
 大政に関わる事既に25年のキャリアを持つ女帝は、決して単なる「中継役」でも無かったし、息子・中大兄皇子の操り人形でも無かった。新たに本拠として岡本宮を築き、その東の丘に両槻(ふたつき)宮と云う高殿を、又吉野にも宮を造った。
 特に両槻宮の造営に当たっては、香具山から態々運河を開き船で石材を運ばせたと云う。直接動員された人民は愚か支配層からも批判と非難の声が上がった事が書紀に記されて居る。この怨嗟(えんさ)の声の記載も中大兄皇子の為のものであろうか。

 両槻宮の遺構は遂二年前(2000年)に再発見されて、亀形石像物等が見つかり大いに話題に為った。長年の謎であった丘上の酒船石もその関連の中で要約意味づけが見出されようとして居る。両槻宮のあった丘は全体が石垣で埋め尽くされた「聖山」であった。
 仏教の須弥山、或いは道教の蓬莱山()と見立てられたらしい。そこでは、阿倍比羅夫らが征伐した蝦夷族長が連れて来られ天皇への服属儀式が行なわれた様だ。

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 ()「蓬莱山」と聞けば、かぐや姫を想い出される方も多いのではないか。「道教」はニッポン人に実に近しい。それは近過ぎて見え無い位である。但し、中国の道教では無い。ニッポン仏教と同様なニッポン道教なのである。
 卑弥呼縁の「三角縁神獣鏡」での道教の神仙(仙人)と霊獣、聖徳太子の道教的な諸伝説、斉明天皇の両槻宮世界、そして天智・天武・持統天皇達による道教に由来する神仙としての「天皇」への並々ならぬ志向。後ちの陰陽道、今に存続する大安や仏滅等の六輝信仰を考えると、言挙げ出来無いほどニッポン人の懐の内にある事が分かるだろう。
 尚、両槻宮の「亀」は円形で、スッポンでは無いかと見られる。何故なら、神仙が棲む蓬莱山はそのスッポンの背の上にあるからである。

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 女帝は、過つての百済宮・百済大寺「乙巳の変」があった飛鳥板蓋宮の造営以来、一貫して「人民徴発」と云う手法によって天皇権力の成長を試みて来たのだった。
 今回は「改新の詔」で発布された筈の「第四条」を実行して、人民を天皇(正確には「大王」)の名に於いて動員したのである。三輪山を始め聖山を前にしての誓約は「世界樹」の思想である。斉明天皇は、服属させた蝦夷達を遣唐使に同行させ唐帝に披露さえして居る。四囲の蛮族を従え、世界の中心に位置する普遍王(皇帝)たる「天皇」まで後一歩である。

 ▼果たせ無かった生前譲位

 中大兄皇子のライバル・有間皇子は、658年、謀反の疑いで自死させられた。通説とは異なり彼も又父・孝徳天皇に倣いクーデタによって中大兄皇子を打倒して皇位を継承しようと実際に企んで居たのである。
 そのオプションには女帝殺害まであったものと思われる。有間の死は、中大兄の次期継承を確実なものにした筈だった。しかし、半島から思わぬ重大異変の知らせが齎される。新羅と連合した唐軍が百済を滅ぼしたのだ(660年)。残軍のリーダー・鬼室福信から救援要請が届く。

 譲位処では無かった筈だ。だが、老いた女帝はこの窮地を転じて一気に生前譲位を企図する。この百済復興戦争を成功させて「帝国」を拡大し、その軍功を以て我が子に譲位しようと云うのだ。
 長らく人質として倭国にあった豊璋を百済遺臣達の求めに応じて帰国させる前に、冠位十九階最高位の「織冠」を授けて天皇の臣下としたのである(女帝の急逝で中大兄が代行)。しかし、軍船を率いて筑紫にあった女帝は急病を得て、呆気無く世を去ってしまった。最期迄実権を持った女帝であった。

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 ▼白村江の戦いは何故敗れたのか

 ここに中大兄皇子の六年間に及ぶ、所謂「称制」(「新帝」が即位せずに政務を執る事)時代が始まる。成程、ほぼ確定的な次期天皇候補者であった。呼び名は「称制」でも何でも好い。しかし、要は飽く迄「代行者」だ。
 即位していない「新帝」なぞ言語矛盾である()。事実、即位出来無かったのだ。必要条件は満たして居てもそれは十分条件では無かった。地位の上では言わば「僭王」に留まらざるを得無かった。オッと、この話の前に、百済救援の為白村江へ駆けつけ無ければ為ら無い。

 ()早い話が「皇太子」では無かった(そして皇太子制が無かった)から、こう云う矛盾的な表現をし無くては行け無かったのだ。

 皇子は救援第一陣をそのまま百済に向けて進発させた。その後、豊璋に「織冠」を授けて居る。自らは母帝の亡骸を守って飛鳥に帰り殯(もがり)した。
 翌年も百済援助を続け、又その豊璋を故国に送り返した。663年には、新羅を討つ軍も派遣した。しかし百済王と為った豊璋は、居なくては為らぬ勇将・鬼室福信を自分の思い通りに為らぬと短慮にも斬ってしまう。
ここに百済残党の掃討を目指す唐・新羅軍は絶好の機会到来と、豊璋が立て籠もる最期の要地・周留(そる)城へと攻め寄せる。
 急を知った倭国は大船団に軍兵を乗せソル城の救援に向かわせる。半島に居た先発隊もソル城に急ぐ。そうはさせじと唐水軍はソル城へ繋がる水路(錦江)の入口に当たる河口部(白村江)を封鎖した。

 ここに白村江の戦いが始まる。処がである、豊璋は倭の援軍を饗応すると何と愚かにも決戦前夜にソル城を抜け出してしまったのである。百済王と云う「玉」を持た無いソル城救援なぞ、戦略的に無意味な軍事行動である。
 しかし戦いは始まってしまって居た。何の為に戦って居るのかと云う戦略目標を忽然と失った倭軍は戦意を空転させ惨敗を喫した。そして百済復興の夢も永久に消え去ってしまったのだ。

 遠山氏の面目躍如なのであるが、唐水軍が大軍であったとする通説とは違い、唐軍は170艘でかつ陸軍国の唐は海戦には不得手であった。対する倭軍は唐軍を上回る400艘で、しかも蝦夷を叩いた阿倍比羅夫等は日本海を大船団で行き来して居た様に倭は水軍国であったと述べる。戦力の大小では無く、戦略目標の喪失が最大の敗因と為った自滅的な敗戦だったのだ。

 ▼交錯する二つの「戦後」

 遠山氏の慧眼は実はこの敗因分析に止まるものでは無い。寧ろ、その「戦後」観の考察にこそ光って居る。氏は言う。書紀の記述を元に、これに一貫した流れを与えこう再構成するのが通説である。

 即ち「大敗を喫した」倭国は唐の侵攻に怯えて防人を置き水城を築いた。更には近江京に遷都して唐への防衛態勢を執った。又、従属的な姿勢で唐一辺倒と為り、律令を始め何事も中国を模倣する事と為った。しかし遂には律令国家を完成させ見事復興を果たした。
 だが、これは日米関係を投影した「戦後」占領・復興史観では無いか。詰まり「大敗を喫した」日米戦争の「戦後」気分を投影させて「白村江の敗戦」を見て居るのだと。

 成程私達に取って、思い出せる国難とはこれしか無いのである。思わず知らずか、戦後日本史学は二つの「戦後」を主観的に重ね合わせて、結果として書紀に騙される事と為った。では、この先入観を排して、白村江の「戦後」を見るとどう為るのだろうか。

 ▼大陸の唐と半島の新羅、そして海を隔てた倭国

 百済の故地に都督府と云う軍管区を設けた唐は、海を隔てた倭では無く、陸続きの高句麗との戦争に忙殺されて居た。新羅とて同様だ。669年、唐は遂に高句麗を滅ぼすが、今度は新羅が半島内の唐軍に攻め掛かる。唐が新羅による半島領有を認め戦争状態が終結するのは676年の事だった。
 その間の唐・新羅両国に取って、大水軍国であり防備体制を更に強化した倭国はどの様な存在に見えただろうか。

 唐の反応が書紀に残る。早くも白村江の翌664年には旧百済の都督府から郭務ソウが、665年に劉徳高らが、667年に司馬法聡が、671年に李守真が使節として来朝し、671年には郭務ソウが捕虜を返還しに来た。
 郭務ソウは672年にも使節として来朝し、これで三度目と為った。これ等が何を意味するかお分かりだろうか。唐は一貫して倭国へ接近を試みて居るのであり、中でも捕虜の返還は交戦状態の終結を意味して居る。唐は倭の中立、更には同盟を求めて居たと考えて好い。

 要するに大唐は倭国侵攻処では無かったのである。倭国は文明文化人たる百済遺民達を多数受け容れ、寧ろ国力興隆の時にあった()。では、如何にも「防衛強化」と見える国内措置とは何なのか。それは外圧の名を借りた強権の発動である。
 「防衛強化」とは、同時的に天皇による国内の掌握である。詰まり「公地公民」や「班田収受」の前提と為る戸籍作成や耕地調査、又これと並行して国・郡・里制による全国諸地方の直接把握等が進められたのだ。

 ()大津京への遷都の理由の一つに、百済滅亡以来受け容れて来た数多くの遺臣達の知識と技能を活用する為、彼等に与えられた住居地である近江に近いと云う事があったと思われる。

 ▼天智天皇の即位と「大化改新」のヴィジョン

 処で、中大兄皇子の即位はどう為ったのであろう。斉明天皇の急逝により母帝よりの譲位の機会を永遠に失ってしまった皇子は、生きて居る「大権」の潜在的保有者を見つける。
 それが先の孝徳天皇の大后であり自分の妹でもある間人皇女であった。何としても「譲位」と云う十分条件が必要だったのだ。しかし彼女も665年に亡くなる。皇子は二年間に渡り皇女を慰霊し続け、その後斉明陵に合葬し終えた。その翌月、近江大津京へ奠都(てんと)を敢行する。

 支配層内で最終的な合意が成ったのであろう。668年遂に中大兄皇子は天智天皇として即位する。それにしても何と長い道程だった事か。名実ともに「天皇」と為った天智は、皇権強化の仕上げ作業に入る。
 即位の翌年には、天智が若かりし頃に経験した「乙巳の変」以来、天皇をサポートし続けて来た中臣鎌足が死に臨んだ際、その長年の功績を称えて二六階に増設された冠位の最高位「大織冠」を授け内大臣とし藤原の姓を与えた。
 そう云う中で670年「庚午年籍」が作成される。日本で最初の全国戸籍である。これこそが「大化改新」と云うヴィジョンが求めて居たものだ。

 天智は「称制」と「国難」と云う雌伏の中で、母帝に倣う様に状況を逆手に取って、矢張り類い希なる国家構想(天皇制国家の革新=「大化改新」)を育てつつ実行して行ったのだ。「日本」と云う国号「天皇」と云う称号も既に検討されて居たと思われる。「蒸留」された新しい皇統を作る皇子も育ちつつあった。
 但し、順番を誤解してはいけない。聖徳太子の描いた理想図(ヴィジョン)を受け継ぎ、中大兄皇子が「乙巳の変」を断行し「大化改新」と総称される新政策を次々と実行して行ったのでは無い。それ等は後から繋げられ、前倒しに配置され直した「物語」である。
 二つの理想の「皇太子」像が接続されて居る。中大兄の長い「称制」時代を「皇太子」時代と詭弁し、「皇太子」が国難に立ち向かいそれを見事に克服する「物語」を描く事が書紀の目的の一つであった。

 その5につづく

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