2018年06月09日
古代からのお話し その3
古代からのお話し その3
(四)〈欽明天皇の子孫の世代〉
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29欽明┬30敏達┬押坂彦人大兄┬─34舒明──┬古人大兄
│ └竹田 │ ‖ └38中大兄
│ │┌(35皇極37斉明)
│ │└(36孝徳)
│ └─茅渟───┬35皇極37斉明
├31用明─厩戸──────山背大兄 └36孝徳
├32崇峻
└33推古
▼「大化改新」前夜
馬子が没して蝦夷が蘇我本宗家を継いだ。それから二年後、叔父の後を追う様に推古天皇も崩御する。皇位継承候補には、敏逹天皇の孫(押坂彦人大兄皇子の子)である田村皇子と、用明天皇の孫(厩戸皇子の子)である山背大兄王の二人が居た。実は二人とも蝦夷の縁戚であった。
田村皇子は蝦夷の妹(或いは姉)の夫で義兄弟に当たり、一方の山背大兄王は別の妹(或いは姉)の子であり蝦夷の甥であった。
推古朝を継いだのは年長の田村皇子で舒明天皇である。この時、穴穂部皇子の様に皇位継承ルールに楯突いたのは山背大兄王であった。「聖徳太子」程では無いにしろ、次王とも目された偉大なる厩戸皇子を父に持つ皇子には納得がいか無かったのだろう。
蝦夷は推古天皇の遺詔と当時の継承ルールを忠実に守り、田村皇子を即位させたのだった。後の山背大兄王と蝦夷のキャラクターは明らかに書紀の作為である。
舒明天皇と大后・宝皇女(後ちの皇極天皇)の13年間の治世(629〜641年)に付いて、少しだけ触れて置く。
630年 初の遣唐使を送り出した。
631年 百済から王子の豊璋が同盟の人質として来日する。彼の帰国は、
663年 の白村江の戦いの直前と為る。
639年 東西の人民を使役して百済宮及び百済大寺が造られ始める。百済大寺の塔は、現在90メートルの高さがあったと推定されて居る。大化改新の担い手と為る、僧旻(632年)と高向玄理(640年)が唐から相次いで帰国した。
しかし、皇位継承問題は一向に打開されずポスト舒明天皇の候補には、最右翼・山背大兄王の他、舒明天皇の子・古人大兄皇子と未だ若い中大兄皇子(宝皇女が生母)、大后・宝皇女の弟・軽皇子らが居た。
結局、ここでも一時保留が選ばれ、舒明天皇の後にはその大后・宝皇女が皇極天皇として即位(注)する事に為った。642年の事である。ご承知の通り、その三年後には「大化改新」と通称される政治改革の始まりを告げると云う「乙巳(いっし)の変」が起きる。
(注)皇極天皇は、舒明天皇との婚姻により同世代と見なされた。尚、弟の軽皇子(後ちの孝徳天皇)も年齢とも相まって同世代と見なされた。
▼山背大兄王殺害の目的
間も無く自死に追い込まれる山背大兄王であるが、それにしても評判が悪い。資格的には舒明朝をスンナリ継いで居ても何ら不思議では無いのであるが、天皇家及び支配層に忌避されて皇極天皇の即位に至って居る。
第一に、それだけ看過出来無い程人物的に問題があったとしか言い様が無い。643年 蝦夷の子・入鹿は諸豪族を率いて従兄弟に当たる山背大兄王を斑鳩宮に囲む。但し、これを蝦夷・入鹿の単なる暴挙と解しては間違いである。
天皇家及び支配層は明らかにこれを支持して居た。包囲軍中には、何と軽皇子(後ちの孝徳天皇)が居た。他に巨勢徳太、大伴長徳、中臣塩屋牧夫らが居た。更に、入鹿らが次期天皇に推す古人皇子の同意、中臣塩屋牧夫との繋がりから中臣鎌足と阿倍内麻呂らの支持もあったと見無ければ為ら無い。
詰まり、軽皇子派と古人皇子派が共同で共通の敵を抹殺したのだ。これが山背大兄王が排除され無ければ為ら無かった第二の理由である。詰まり、山背大兄王殺害の目的は、皇位継承者を古人皇子か軽皇子かに絞り込む事にあった。
少なくとも、入鹿が「天位を傾けむ」とするものでは無かったし、殺害の罪を彼一人が背負わねば為ら無いものでも無かった。ともあれ、生前譲位は目前に迫って居た。その為の二度目の女帝だったのであるから。何れかの決着をつけ無ければ為ら無かった。しかし、未だ皇極天皇は迷って居た。決定的な何かが必要であった。
▼「乙巳の変」の構図と顛末
蝦夷暗殺と入鹿誅殺劇である「乙巳の変」は、結局、何を実現したか。それは遠山氏がほぼ十年前に看破した事だが、天皇位の初の生前譲位であり軽皇子即ち孝徳天皇の即位であった。
この指摘の衝撃は「書紀史観」を打ち砕くに値する。ここに蘇我氏=悪玉論は退場せざるを得無いのだ。同時に天智天皇と中臣鎌足の役割の卑小さや「大化改新」との無関係性を暴露して居る。即ち「乙巳の変」は書紀的観点から作られた「物語」に他なら無かったのである。乙巳の変を含めた「大化改新」は、新政を目指した天智・天武、そして持統天皇が再構成した物語である。
先ず、乙巳の変の構図を整理して置く。これは出来レースであり、軽皇子派の山背大兄王抹殺に続く予定された第二次行動であった。「出来レース」と言うのは、実の弟であり多数派と為った軽皇子を、皇極天皇が次期天皇と内定した上でのクーデタであったからだ。
後の段取り(事件から二日後の譲位と即位)の良さから言っても、皇極天皇は全てを予め知って居たと言わざるを得無い。
「第二次行動」と言うのは、山背大兄王を倒した後は、同じチームで古人皇子派を殲滅する計画であったと云う事だ。そのチームとは蝦夷・入鹿を除く山背大兄王襲撃メンバーに、蘇我本宗家の奪取を目論む蘇我倉山田石川麻呂と次代の継承候補者・中大兄皇子をも誘い込んだものだった。古人皇子派へのほぼ完全なる包囲網の完成と言って好い。こうして「第二次クーデタ」は始まる。
書紀は、飛鳥板蓋宮の、当時は存在しなかった「大極殿」で事件は起こったと述べる。天皇家の身内であり最高の臣下であった入鹿は殺害される。入鹿の身内である(従兄弟に当たる)古人皇子擁立に固執したが故に。手を下したのは古人皇子が名指しした「韓人」こと蘇我倉山田石川麻呂らであった。その場には古人皇子も居た。皇子も殺害され無ければなら無かった筈だ。しかしどう云う訳か皇子は虎口を脱出し自分の大市宮へ逃げ帰って居た。
実は、事態のイニシアティブは古人皇子にあった。クーデタ軍は、その大市宮と蝦夷が立て籠もる甘檮岡を分断しようと、その中間要地にあった飛鳥寺を占拠しそこに陣を張って居た。処が、古人皇子は既に降参を決め込み、翌早朝には敵陣・飛鳥寺に出向いて出家したのだ。
これを知り、蝦夷は最早これまでと自害する。天皇家の身内とは、その身内が居ればこその事なのである。ここに存在意義を失った「二代目葛城氏」としての「蘇我外戚家」は滅ぶ。
▼「乙巳の変」の再解釈とその意味するもの
では、書紀は何をどう書き換えたのだろうか。
第一に、主役を軽皇子(即位して孝徳天皇)から中大兄皇子に置き換えて居る。
第二に、天皇家の忠臣であった蘇我氏を、革新を阻む守旧派であり皇位纂奪を企む悪役として仕立て上げて居る(蘇我氏の皇室にも似た振る舞いは、身内として寧ろ許されたものだ)。
第三に「乙巳の変」が「大化改新」即ち律令国家「日本」の始まりであり、中大兄皇子はこの全体構想の元行動したと印象付けて居る。
詰まりは、後ちの天智天皇の先見の明を誉め讃え、その即位の必然を物語りたいのである。その「物語」は今も天智天皇と鎌足との蹴鞠に託した密会がエピソードとして好く知られて居るのだから、凡そ1300年にわたり粉飾は成功して来たと言えるだろう。
恐らく持統天皇が「天智天皇物語」のプロデューサーだったと筆者は考える。女帝の中にはある「矛盾」があり、それらを生涯の中で二つ担いながら、結局は天皇制を転換させた。それが「皇太子」制の創設と為ったのだ。
先の「矛盾」とは、父・天智天皇と夫・天武天皇が行なった世代・能力による皇位継承の正統性であり、子・草壁皇子と孫・文武天皇によって担われるべき父子直系の血統による皇位継承の正統性である。但し、女帝の歴史眼はこれに留まるものでは無かった。
彼女は、偉大なる父・天智天皇が企図した天皇制改革を全うしようとした。その事は「乙巳の変」では蘇我外戚家を単なる皇位纂奪者とした事に表れている。父は外戚などを排して、皇室の血統を統合・蒸留し、自分から始まる新しい皇統(まさにこれこそが、言わば「持ち回り」の「治天下大王」では無い「天皇」家だ)を生み出そうとして居た。これが弟・大海人皇子へ多くの娘を与えた事を始めとする婚姻政策であった。
天智「天皇」の血統(これは天武天皇を含めたもので、持統天皇が自ら全てを引き継いで居る)を特別視する事は、天智天皇の父・舒明天皇の父と母を、夫々「皇祖大兄」(押坂彦人大兄皇子)と「嶋皇祖母命」(糠手姫皇女)と称し、又、天智天皇の母・皇極(斉明)天皇を「皇祖母尊」と、更に皇極天皇の母を「吉備嶋皇祖母命」(吉備姫王)とわざわざ呼ばせた事にも明白である。
〈新しい「皇統」の創造〉
糠手姫皇女(嶋皇祖母命)
‖──────────舒明天皇
押坂彦人大兄皇子(皇祖大兄)‖─┬天智天皇─持統天皇
‖ ‖ │ ‖─草壁皇子─文武天皇
‖─茅渟王 ‖ └────天武天皇
○ ‖───────皇極・斉明天皇(皇祖母尊)
吉備姫王(吉備嶋皇祖母命)
▼「大化改新」と「書紀史観」
一寸先走りし過ぎた様である。話を、皇極天皇から目出度く生前譲位された孝徳天皇の時代に戻す。即ち646年大化元年六月である。
クーデタ実行グループは新政権を形成する。左大臣に阿倍内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(注)が就く。僧旻と高向玄理は国博士と云う政治顧問に任命され、中臣鎌足は別に内臣と為った。
勿論、前帝宝皇女と中大兄皇子も政権に深く関与した。九月、古人皇子は新朝への謀反の罪で隠棲先の吉野山中で惨殺される。十二月、新帝は摂津国難波長柄豊崎宮に都するが、旧都飛鳥は副都として恐らく前帝宝皇女が統治して居ただろう。
(注)石川麻呂が「約束」通り蘇我本宗家を継ぎ、ここに「韓人」と仇名された蘇我倉家の系譜が滅んだ蘇我氏の前史として接ぎ木される。系譜の始まり建内宿禰の子・蘇我石川宿禰の「石川」とは、石川麻呂自身の名から採ったものに違いない。
これに続く、満智−韓子−高麗の三代の名は、三韓よりの貢納物の倉管理を職掌して「韓人」と仇名された蘇我倉家の系譜に相応しい。尚、石川麻呂は649年「仲間」に謀反の嫌疑を掛けられ、哀れ山田寺に自死されられた。
〈蘇我氏系図〉
建内宿禰─蘇我石川宿禰─満智─韓子─高麗─稲目─馬子┬蝦夷─入鹿
└雄正─石川麻呂
翌646年「改新の詔」が発布される。「公地公民」や「班田収受」を含む四ヶ条から成るものとして書紀の記述が長らく鵜呑みにされて来たが、遠山氏は実際発布されたのはその内第一条と第四条のみだと言う。
即ち、皇族を支える部民・屯倉システムの改廃と、これに見合う新しい税システムの制定だ。そして、何よりも書紀成立時点から逆構成された「大化改新」像に幻惑され、その仕掛けに絡め取られてしまわ無い様厳重に警告を発する。詰まり、「大化改新」の肯定論も否定論も、共に書紀のこの「改新の詔」を根拠にしてその実施度や実施時期に付いてだけ論じ合って居るに過ぎ無い。
そもそも後ちの「律令国家」像を目指して、そう云うヴィジョンがあって天皇達が順々に「改新」施策を実施して行ったのだろうかと云う疑問である。歴史を遡行する時には「一本道」に見えるプロセスも、歴史が現実に進行する時には試行錯誤と言うより、後戻りもある「道なき道」を行く様なものであろう。しかしながら、内外の環境変化は確実に進行して行く。寧ろ、それが政治経済制度の改変を強いる。
同じ646年、「古墳時代」を終焉させた薄葬令が出されて居る。クーデタは確かに強権発動を可能にしたのだ。だが「書紀史観」が描く「内外の危機」を感じて、乙巳のクーデタが行なわれたとはとても信じられ無い。それでも、唐の数次に渡る高句麗遠征が海の向こうでは始まって居た。又、間も無く新羅は唐と連合を組み、倭国の同盟国・百済を滅ぼす事に為るのである。
その4につづく
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