2018年06月09日
古代からのお話し その2
古代からのお話し その2
▼中華帝国は「王朝交替」と云う神話で出来て居る
仁徳天皇から始まる「後編」は、今から述べる事を踏まえて読めば得心が行く。古代中国の「革命」(天命が改まる)思想は周王朝が編み出した、前の殷帝国に取って代わる為の正統付け理論だった。
司馬遷の『史記』に整理されるが、聖帝の堯(ぎょう)と舜(しゅん)の後、天下は有徳の禹(う)が継ぎ、夏(か)王朝を開く。しかし悪徳であった第十七代の桀(けつ)王に至り、天命が改まり殷王朝を開く湯(とう)王に滅ぼされる。しかしながら、繁栄を誇ったその殷も暴君であった第三十代の紂(ちゅう)王に至って、遂に周の武王に滅ぼされる。
詰まり、中国では王朝は王が有徳である間は続くが、王が悪政をはばから無く為ると天命が下り新たな有徳の王が現れ王朝は取って代わられるものだと考えられて来た。
(言う迄も無く、これもフィクションであるが)
書紀成立の時点での中華帝国の唐もそう云う「王朝交替」の神話によって自らを正統づけて居た。この「後編」は、実はそう云う物語である。有徳の仁徳天皇のエピソードはつとに有名だ。名からして「仁徳」で、例の、竈(かま)から立ち上る煙を見て、租税を免除し自らも質素倹約を実践したと云うお話である。仁徳天皇でもう一つ忘れては為ら無いのは、有徳が多産の王であり一つの「王朝」を開いた事が語られて居る。
16仁徳┬17履中──○─┬24仁賢─25武烈
│ └23顕宗
├18反正
└19允恭┬20安康
└21雄略─22清寧
▼武烈天皇は何故暴君であらねば為らないのか
この「仁徳王朝」(通説では「河内王朝」と呼ぶ)には、そう云う意図をキチンと読み取れる様に為されて居る。仁徳天皇の和名は「オオ-ササギ」(大鷦鷯)である。そして、この王朝の最後を飾る暴君と為った武烈天皇の和名は「オ-ハツセ-ノ-ワカ-ササギ」(小泊瀬稚鷦鷯)である。お分かりの通り「オオ-ササギ」に対して「ワカ-ササギ」と云う関係だ。
ササギとはミソサザイ(鷦鷯)と云う鳥の事で、ミソサザイはスズメ目に属する小鳥で良い鳴き声と「一夫多妻」で知られる。実は、多産(豊穣)のエピソードで満たされた仁徳紀に対して、武烈(この漢名も暗示的だ)紀には「不妊」(不毛)の挿話が塗り込められて居る。勿論の事、皇統(仁徳王朝)の断絶こそ最大の不毛で、武烈紀とは徳の衰退をその結果としての「王朝の交替」の必然を示す為のものだ。
▼有徳かつ大悪の雄略天皇を描く意味
計11名の天皇が登場する「仁徳王朝」には、或る盛衰のリズムが描かれて居る。その上昇の頂点と為り、同時に下降へと向かう事に為る節目に立つのが雄略天皇。和名は「オオ-ハツセ-ノ-ワカ-タケ」(大泊瀬幼武)。武烈天皇と重なる「ハツセ-ノ-ワカ」が下降を示唆する符牒である。
現在では、雄略天皇には稲荷山古墳出土の刀剣にあった「ワカタケル」又「倭の五王」の「武」として一定の像があるが、書紀の雄略天皇像は違う。史実と書紀の雄略天皇像は違うのだ。
この違いを単なる粉飾と解しては為ら無い。全く別の「話」なのだ。書紀の雄略天皇を追おう。上昇の頂点は、本物の神とさえも対等に対する天皇像である。葛城山中での一言主神との出会いである。こんな風に神に対した天皇は空前絶後である。史上最高の天皇と言っても良い位の事なのだ。
同時に、雄略紀は血塗られても居る。雄略天皇の即位は、兄弟など皇位継承候補者達を皆殺しにした上に成り立って居る。次に、些細な事から臣下たちを殺したり、殺そうとした事が数多くあり、陰では人々から「大悪の天皇」と言われて居た事が記されて居る。そして何よりも彼には「不毛」の影が忍び寄って居る。事実、彼の皇統は僅か二代、皇子の清寧天皇で断絶を迎える。
遠山氏によれば、雄略天皇の長文の遺詔は『隋書』高祖文帝(楊堅)の詔勅の引き写しだ。隋は、漢帝国崩壊以来、長期に渡った分裂時代を克服した偉大なる帝国で、文帝こそその王朝創始者だ。しかしその隋帝国は、父と兄弟達を殺して帝位に登った煬帝迄の僅か二代で滅亡してしまう。煬帝の暴君振りは史上に名高い。
この性格が雄略および武烈天皇に振り分けられて居る。更に、本来煬帝の役割にあった武烈天皇との間に、もう三代を差し挟み、引き延ばされて居ると氏は言う。雄略天皇の遺詔(いみことのり)は殊勝な内容で、死の間際には「有徳の天皇」に戻されて居ると言え様。この様に、有徳かつ大悪の天皇像を描く雄略紀は「仁徳王朝」の分水嶺を物語って居る。
(三)未来に向けて、再解釈した真実を描く書紀
サテ、継体紀以後(筆者の言う「第三部」)の書紀は「第二部」とは目的が異る。書紀は既に、中華帝国に負け無い「日本」帝国の古さとその皇帝たる「天皇」の由来、又帝国の発展と中華帝国と同様の「王朝」の存在等を語り尽くして来た。
以後は「現在および未来」の為にこそ語られ無ければ為ら無い。その第一の読者とは、未来の天皇達である。彼等彼女等に向けて「第三部」は語られて居る。
事実は只一つだが真実は幾つもある、それが解釈と云うものだ。「日本書紀」は「帝紀」や「旧辞」と呼ばれた『天皇紀』や『国記』等を元に編纂され、要約720(養老四)年に完成した書物だ。記述は持統紀(〜697年)迄だが、マダマダ記憶には生々しい事もあっただろう。だが、書紀はそんな殊に見向きもしないで、事実に周到な再解釈を施して行く。後世の天皇達に「書紀史観」で解釈された真実を与える為に。
15応神┬16仁徳┬17履中──○─┬24仁賢─25武烈
│ │ └23顕宗
│ ├18反正
│ └19允恭┬20安康
│ └21雄略─22清寧
└─○───○───○───○──26継体
▼継体天皇は応神天皇の五世孫と云う論理と虚構
先ず、継体天皇の即位に付いて述べる。ここに一つの皇統の断絶がある事は言うまでも無い。しかし継体の出自は、幾つかあった皇位継承資格を有する血筋の一つに属するものだったと考え無ければ為ら無い。
既に六世紀である。そう云う「天皇諸家」は既に固定されて居た筈だし、間も無く唯一の血統に絞り込まれる直前期に当たる。但し同時に最終的には飽く迄人物本位で天皇が選ばれて居た事も示して居る。興味深いのは、応神天皇の五世孫だと云う所伝である。
ここには「仁徳王朝」との調整、詰まり書紀編纂者達の作為が読み取れると遠山氏は言う。実は、「仁徳王朝」最後の武烈天皇も応神天皇の五世孫に当たる。
どう云う事に為るかと言うと、五世の長さを有する「仁徳王朝」を踏まえてで無ければ、継体が応神の五世孫なぞと云う事は意味を持た無い訳である。だから「仁徳王朝」物語が完成してから、継体に至る系譜の長さが決められたと云う事に為る。
それは二つの事柄の同質性、詰まり「仁徳王朝」の物語がそうである様に「継体は応神の五世孫」もフィクションであった事を示す。
継体に取っての皇位継承上の問題は血統的な系譜にでは無く寧ろ「世代」条件にあった筈だ。当時の重要な条件として、前王と同世代の候補者が居るならその中から選抜すると云う事があった。継体は、武烈の姉である手白髪(タシラカノ)皇女と婚姻を結ぶ事によって、武烈と同世代であると云う皇位継承条件を満たしたのである。
▼欽明天皇による王権の統一と蘇我稲目の登場
王権分裂期とも言われる皇位継承プロセスに付いては不明の部分もあるが、ともあれ継体の皇子・欽明天皇が即位する。そして欽明は分裂を克服し王権の統一を回復する。
これには、それ迄大きな権力を振るって来た大連・大伴金村が大昔の任那割譲問題の咎(とが)を今に為って責められて退場し、替わって蘇我稲目と云う男が突如大臣として登場した事とも関係があるものと思われる。蘇我稲目とは何者か。それは蘇我氏とは何かを解くに等しい。
稲目は没落した葛城氏の女と結婚し、設けた二人の娘を欽明に差し出した。再統一者・欽明は過つての高貴なる葛城氏の血を欲して居た。「仁徳王朝」の天皇達のモデルと為った大王達は確かに居たし、葛城氏がその大王達に后妃を独占的に提供して居た事も事実だった。
葛城氏がそう為った事情は好く分から無いが、蘇我氏が葛城氏と同じ立場、即ち天皇家の身内と為る事で稲目は大臣と為れた訳だ。故に、以後の蘇我氏とは天皇家に最も血縁的に身近な親族でもある臣下として理解して行く事がポイントと為る。
後述するが、蘇我氏の「専横」とは書紀の解釈である。それは、そう云う解釈をすべきだとする時代的政治的な流れの中で生み出されたものだ。それから、過つての葛城氏、今の蘇我氏と同じ立場に連なるのが藤原氏である事はお分かりだろう。事実、藤原不比等は没落した蘇我氏の女を妻とする事から政治的なスタートを切る。
▼神仏紛争とは蘇我氏対物部氏の争いか
三十余年の欽明の治世に寄り添ったのは大臣蘇我稲目である。我が娘堅塩媛(きたしひめ)は後ちの用明・推古天皇を、小姉君(おあねのきみ)は崇峻天皇・穴穂部(あなほべ)皇子らを産んだ。そして息子には馬子を持った。
馬子はこれ等諸天皇達の叔父だった訳だ。ここでは稲目が始めた「新葛城氏」の威勢を確認頂きたい。欽明の子で天皇に為った四子の内、三人迄が稲目を岳父(舅・しゅうと)として居た。
サテ、欽明朝の538年に百済から仏教が公伝されたとされて居る。ここから、所謂、蘇我氏対物部氏の神仏紛争が始まる事に為る。これは書紀の解釈の本質に関わるのだが、書紀は、外戚氏族の役割と皇位継承のルールの存在を認め様としない。
実は、この神仏紛争もこの書紀史観で粉飾されて居る。この問題が顕在化したのは、欽明朝を継いだ敏逹朝に為ってからだ。既に世は馬子を大臣とする時代と為って居た。次の用明朝には遂に武力紛争と為り物部氏は滅ぶ。物部本宗家が滅んだ事は事実だろう。しかしそれが如何なる因果関係でそう為ったかに付いては、書紀が説くものとは別の真実がある。
先ず蘇我氏だが、彼等は天皇家に最も忠実な臣下であった。だから蘇我氏の行動を馬子の専断で、又蘇我氏の利益の為だけに為されたものと考えては為ら無い。詰まり、物部氏は天皇家の為に、又支配層の了解の元滅ぼされねば為ら無かったのだ。
臣下の争いとは、実は王族間の代理戦争であった。書紀はこれをひた隠し、蘇我氏を始め諸豪族の専横や闘争として描いて居る。
当時の皇位継承のルールは、世代・年長順と決まって居た。しかしこれを破り、一昔前がそうであった様に天皇は人物の力量により選ばれるべきであり、我こそは皇位継承者であると体制を乱す皇子が現れる。この時は穴穂部皇子がそうであった。神仏紛争とは、皇位継承を巡る穴穂部皇子問題であったと言える。
▼神仏紛争の真相:穴穂部皇子の闘争
穴穂部皇子と物部氏(守屋)それに中臣氏が排仏派であったとされて居る。この内神祇家である中臣氏がそうであった理由は好く分かる。しかし、物部氏が実は渋川廃寺を営んで居た様に、皇子や守屋が排仏に固執して居たとは考えられ無い。
「神仏紛争」としたのは、穴穂部を物部守屋の運命と一緒くたにして王家内のイザコザを粉飾してしまう事が目的だったのだ。もう一つ考えられる事は、聖徳太子による仏教興隆への序章としての意味だ。
穴穂部は敏逹の殯(もがり)宮で皇位継承を主張するが、年長の用明天皇が即位する。皇子は実力行使に出て、敏逹の大后・額田部皇女(後の推古天皇)を奪おうとする。王族内での立場を優位にしようとしたからだ。
しかし敏逹の寵臣の三輪逆に阻まれる。皇子は物部守屋に命じて三輪逆を討つ為磐余池辺に進んだ。実はそこには用明天皇の宮があった。皇子等は三輪逆を殺したばかりでは無く天皇をも傷つけたのだった。
翌587年、用明はその傷が元で敢え無く崩御した。額田部皇女は大后として断を下し、守屋に大義を与える穴穂部の抹殺を馬子に命じる。これにて王族間紛争は終結した。残された守屋は大逆罪を一人負わされる事に為った。
守屋征伐には、泊瀬部皇子(崇峻天皇)等と共に、この戦の中で四天王寺発願をしたと云う若き厩戸皇子(後の聖徳太子)も参加したと云う。「丁未(ていび)の役」がそれである。
▼崇峻天皇の弑逆と推古天皇の「中継」
皇位継承のルールに従い次に擁立されたのは崇峻天皇であった。ご存知の通り、天皇は馬子に弑逆されて居る。「横暴を振るう」蘇我氏が後ちに滅ぼされねば為ら無かった理由の一つとされる事件である。しかしながら、書紀に馬子への非難は何ら見当たら無い。
それもその筈である。当の天皇家及び支配層の要請を受けての抹殺であったのだから。世代・年長順のルールには適って居たが受け容れ様も無い程の無能だったのだ。
一度即位した天皇は終身である事が当時のもう一つのルールであった。交替は天皇の死による他無かった。これが次なる課題である。
世代・年長順のルールを守っても有能者で無ければ意味が無い。もう一つある。穴穂部皇子の暴発の様な同世代の候補者同士の闘争を防止し無ければ為ら無い。これらのジレンマが初の女帝・推古天皇の即位を生む。
次期継承候補は三名居た。欽明の孫世代に当たる押坂彦人大兄皇子、竹田皇子、厩戸皇子である。
時間を掛けて継承者を絞り込むのだ。敏逹天皇の大后として大政に参加した経験を持つ推古天皇は、大権の継承保留者であり次王の産婆役と為った。ここで言って置くが「大兄」(注)とは皇太子では無いし、次期天皇である「皇太子」の地位は未だ存在しない。(持統天皇が珂瑠[カル]皇子[後ちの文武天皇]を初めて皇太子に指名した)
しかし結局、この女帝による「中継」計画は失敗した。終身の推古天皇が長命過ぎて、候補者全員が先に無く為ってしまったのだ。天皇位の生前譲位は未だ先だ。
(注)「大兄」とは、同生母の皇子内での最年長者を指す。皇位継承の有力候補者ではあるが、皇位継承を約束された「皇太子」では無い。
▼「聖徳太子」とは何者か
推古朝と言えば聖徳太子「摂政」の時代である。厩戸皇子は「聖徳太子」であるのか否か。実在しない人格とか全くのフィクションだと云う説すらある。確かに「聖徳太子」と云う輝くばかりの尊号から始まり「大化改新」や律令仏教国家構想の先取、又後の新国名「日本」を予感させる様な大唐帝国との対等外交等出来過ぎだ。それに、個人的な「超人」伝説にも事欠か無い。書紀に描かれた「聖徳太子」とは一体何者なのだろうか。
真実は、史実では無いと知りつつも理想の「皇太子」像を描く事。これこそが書紀編纂者の意図だった。
実際「日本書紀」を読み、見事お手本通りとは行か無かったが「聖徳太子」の様な聖王を目指した皇太子が居た。首(おびと)皇子、即ち律令仏教国家の頂点に君臨した聖武天皇その人である。「日本書紀」とはこの首皇子に読ませる為に作られたと言っても好いのではないか。取り分け「聖徳太子」の章はそうである。
往時の皇位継承ルールを明確化する事が何故避けられたのか。それは書紀成立の時には既に父子直系相伝へとルールが変わって居たからだ。しかも、このルールだけで正統化する事も困難であった。
何故なら、天智天皇から子の弘文天皇へと継承された皇位が、再び天智天皇の兄弟である天武天皇へと移って居たからで、ここを曖昧にしつつも、天智・天武朝への流れを必然的に描く事。これが書紀の大きな課題だった。
その3につづく
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