2018年06月09日
古代からのお話し その1
本ブログでは、今まで興味本位にユダヤの歴史からモンゴル帝国の歴史等を扱って参りました。がそろそろ、肝心の我が国の歴史にも立ち戻らねばと反省して居ます。
そこで、天皇の代替わりも近づきつつある昨今に因み、古代からの日本の歴史に付いて学習して参りたいと存じます。そこで、参考資料と致しまして「遠山史観による日本古代史」から引用させて頂きたく存じます。
▼日本古代史学界の「化学消防士」遠山美都男
遠山美都男(とおやまみつお)と云う7世紀の古代日本を中心に「通説」を覆(くつがえ)して来た歴史学者が居る。日本古代史と言えば、長く論争の続く「邪馬台国」の所在地や「騎馬民族征服説」の当否を初め、この七世紀の事績を巡ってもご承知の通り珍説奇説を含めて諸説紛々の喧(やかま)しさだ。
7世紀とは重要な世紀で、この時代には聖徳太子の摂政・大化改新・白村江の戦い・壬申の乱等の事績が含まれる。
そう云う煮え滾(たぎ)る論争の坩堝(るつぼ)の中に冷静にその業火を静めて行く氏は、まるで沈着な「化学消防士」の如き趣(おもむき)で常に俯瞰的(ふかんてき)な広角思考を失わずにその時代が流れて居る方向を的確に見据えた上で「日本書紀」等の粉飾や後世の臆断(おくだん)を適切に排し、事績の再評価(位置づけ直し)を用意周到に行なって来た。
その遠山氏が昨年『日本書記は何を隠して来たか』と云う本を出した。これを読み思い着いた。氏が説くプロットを繋げ、遠山史観による古代史を筆者為りに纏めてみようかと。以下はその試みであるが、筆者の読み違いや思い込み、又著者が未言及の「空白部分」では筆者の独断等が多数混入して居る事を予めお断りして置きたい。(最後に付した著作群に直接当たられる事を乞う)
(一)「卑弥呼」の時代と「彼女達」の役割
遠山氏が集中的に取り上げる7世紀を中心に述べたいが、その前にこれ以前に付いても重要なポイントを記して置こう。この時代に言及するのは『卑弥呼の正体』と『天皇誕生』の二著である。
実は、これ等は「古代史ファン」に甚だ不評である。例えば「卑弥呼」と云う名の女王なぞ存在し無かったと言う。又、その「女王」は国王では無かったとも述べる。在ったのは「卑弥呼」と云う「地位」(仮に「卑弥呼職」とする)であり、恐らくそれは「ヒメミコ」と呼ばれるもの。
「ヒメミコ」は「倭国大乱」があった当時に一時的に設けられたある宗教的立場で、別に居た政治的首長である国王に従属するものであった。又「魏志倭人伝」が伝える「女王国」のイメージは、政治は男が為すものと考える中華帝国たる中国王朝が、東夷に過ぎ無い倭国を「鬼道を能くする女が治める国」と蔑んで誇張した表現だと断ずる。
では「ヒメミコ」とは、内乱を収拾し再統一した倭国がその統合モニュメントとして「前方後円墳」を生み出す迄の過渡的な時期を、宗教的に支えた何事かであっただろうと氏は説く。それが、「ヒメミコ」が「鬼道」によって執り行なった儀式であった。
その儀式とは、前方後円墳の時代にはその古墳上で行なわれた国王継承儀式の前身であり、そこでは銅鐸や銅矛に替わり鏡が大きな役割を果たす様に為ったのであろう。
▼「卑弥呼」が「日継ぎ=倭王」と云う王権神話を創った
ここで筆者の推断を加えると「ヒメミコ」を仮に「日女御子」と解すると、それは「日の子」であり「太陽の子」である。「日」とは日神であり王権の出づる淵源である。(アマテラスが太陽=日神であり、倭王が「日継ぎ」と呼ばれるのはこの為)
筆者は、実はこの様な「日継ぎ=倭王」と云う王権神話を創出し演出したのが「ヒメミコ」と云うものでは無かったかと思う。詰まり「卑弥呼職」とは日神の代理人として倭王への戴冠を挙行する祭祀者だったと考える。
倭王就任を保証して呉れた中華皇帝と云う絶対者を大陸の内乱で失い、倭国内でも内乱が発生し国王の権威を如何に保証出来るかが枢要な政治課題であった。そこで、日神を絶対化しこれによって国王の地位を保証しようとしたと云う訳。
ともあれ政治統合は成立し、東西文化の結合物として前方後円墳が築かれ始める。そして、一度「日継ぎ」と云う概念が成立すると、日神を象徴する鏡とそれへの祭祀だけを残して「卑弥呼職」自体は不要に為って行った。
(二)『天皇誕生』の衝撃と「日本書紀」の目的
「卑弥呼」が個人名であると云う臆断に基づいて、紀記の中に彼女の痕跡を探す努力が為され、天照大神や神功皇后に投影されて居るのではと屡々言われて来た。
そこで次に「日本書紀」の意図とそこに描かれた天皇(注)達の正体を暴く、氏の『天皇誕生』の論点を取り上げたい。この書では「日本書紀」が描く神武から武烈迄の天皇紀の意味が明かされ、全体としてはフィクションであると断じられて居る。
(注)「天皇」の称号は、それ迄の「治天下大王」に替わり、7世紀後半に始まるもの。本稿では「天皇」紀を記すと云う「日本書紀」の意図をフィクションとして明確にする為、全て「天皇」号で通す。
武烈以前の天皇紀には、編年的な意味での歴史学的価値が全く無い。徹底的に脱神話的な批判を行なったとされる津田史学は愚か、それを受け継ぐ戦後古代史学も殆ど無価値な営為を長年続けた。又、所謂「古代史ファン」に取っても、色々と推測してはそれ為りの整合性の当否を求めて来た言わば「根本経典」をアッサリ失う事に為ってしまうので氏の主張には黙殺や反発は当然の事だ。
氏によれば「日本書紀」とは、中華皇帝とその帝国の歴史に対抗する為に創作された日本天皇とその帝国の盛衰物語だ。詰まり、日本にも中国に匹敵する王権と文明文化が存在した事を捏造する事自体が本来の目的だった。故に、ここから編年的な事実を取り出す事は殆ど不可能なのだ。例えば「ワカタケル」の銘入りの剣が発見された雄略天皇にしてさえ、そのモデルと為った人物が確かに実在したとしても、書紀に描かれた生涯と人物像、更に系譜を証明するものでは無い。
▼「万世一系」の「王統譜」とは何か
何より大きなフィクションはその「万世一系」の「王統譜」だ。但し、早とちりをしては為ら無いのは、書紀に「万世一系」等と書かれて無い。書かれて居るのは寧ろ中国風な「王朝交替」である。書紀には、計三つの「王朝」(後述するが、正確にはある意図を持った系譜に過ぎ無いのだが)が描き込まれて居る。神武から応神迄、次に仁徳から武烈迄、最後に継体から持統迄だ。但しご承知の通り、易姓革命(天命が改まり王朝の姓が替わる事)では無いとされる。
筆者が付言すれば、「日本書紀」は三部構成で、第一部が「神代」第二部が「神武から武烈紀迄」第三部が「継体から持統紀迄」から成って居る。
全体として書紀成立時点での天皇家の権威と権力を語って居るのだが、第一部ではその正統性の由来(中国と違い「天」そのものの血筋が天皇家である事)、第二部では地上での「治天下」(支配)の発展プロセスと変遷、そして第三部では「現在」の律令・仏教に基づく文明国家と成る迄を主たるテーマとして居る。
氏はこの「第二部」を更に前編と後編に分けて述べる。その説明の前に「王統譜」の性格は、これは血統では無い。氏は「倭の五王」の検討を通じてそう断じ、血統意識は精々継体天皇以後のものだと推定する。
ではそれ以前とは何なのか。「易姓」を多数含んだ王位の継承系図だ。しかも、モデルはあったとしても、書記の目的の為改竄され創作された系譜である。
恐らく、倭国王位は一定の資格を持つ複数の血族集団(姓の異なる家々)から、都度都度選ばれるものだった。後世の「万世一系」意識なぞ書紀自体には無い。だから先程の「三つの王朝」も「三つの王姓」と云う意味では無く、書紀の「王統譜」に、もし血族としての王朝(例えば「河内王朝」や「葛城王朝」がそうだ)を探し始めたら、実はもうその時点で「万世一系」と云う神話に自ら呪縛されるのだ。
〈「日本書紀」による天皇寿命〉
1 神武 127歳
2 綏靖 84歳(欠史八代)
3 安寧 57歳(欠史八代)
4 懿徳 77歳(欠史八代)
5 孝昭 113歳(欠史八代)
6 孝安 137歳(欠史八代)
7 孝霊 128歳(欠史八代)
8 孝元 116歳(欠史八代)
9 開化 111歳(欠史八代)
10 崇神 120歳
11 垂仁 140歳
12 景行 106歳
13 成務 107歳
14 仲哀 52歳
15 応神 110歳
▼神武天皇と「欠史八代」
サテ「第二部」は「前編」の神武から応神天皇紀迄と「後編」の仁徳から武烈紀迄に分かれる。前編は、天照大神の血を引く地上の歴代天皇が支配を広げ「帝国」の版図を確定する迄の物語だ。後編は、一旦完成した帝国が中国的な「王朝」プロセスを経験して来た事を物語ろうとするもの。如何にも物語染みた作りの後編に比べ、前編には様々な無理が目立つ。
例えば、神武東征とは何か。何故わざわざ「東征」せねば為ら無かったのかと云う事。又、所謂「欠史八代」とは何か等々。「東征」説は、邪馬台国東西論争を止揚(しよう)する意味があり今では通説に近い。史実として読む必要が無く為れば物語としては理解し易い。
遠山氏は言う・・・「第一部」の「神代」物語を承け、「日継ぎ」としての天皇は、日向(ひむか)から日に向かい(これが「東:ひむがし」の意味である)、日を背にして勝利するのだと。
「欠史八代」に付いては、奈良盆地内の県主の神女達との結婚がその意味。そして「前編」を通じて言えるののだが、この「欠史八代」辺りでも長寿の天皇が目立つ。これは天皇家とその帝国の歴史を古くする為に為された事だろう。
それは、神武天皇の即位を「革命」年である「辛酉」に結びつける事ばかりでは無く、或る年代以前に遡って置く必要があった。それは恐らく、中国側で記された過の「魏志倭人伝」を誤りだとし、それを書き換え様とする意図があったからだと考えられる。
▼「帝国」とその皇帝たる「天皇」の誕生
ともあれ奈良盆地制圧の後、四方への皇化が始まる。第十代の崇神天皇が放った「四道将軍」とはその事である。又「神を崇(あが)める」天皇は、神を祭る祭祀の起源にも深く関わる。天照大神と倭大国魂(やまとおおくにたま)神、更に大神(おおみわ)社の大物主神の祭祀に付いての叙述は著名だ。
天皇の「治天下」は順調に拡がり、第十二代の景行天皇の時には次男・ヤマトタケルを各地へ派遣して、ほぼ(書紀成立当時の)全国を制圧する事に成功する。いよいよ「前編」のクライマックスである。次期天皇である皇子を身籠もったまま神功皇后は新羅を「征伐」する。「帝国」とは、自民族と固有領土以外も治める多民族・広域領土国家の事である。
これで、中国同様、列島内の「異民族」である蝦夷や海外の新羅を「夷蛮」(後進民族・国家)として従える「華」たる「帝国」(これを「華夷秩序」と言う)が完成したと云う訳だ。
その勇ましい神功皇后の胎中にて征韓に参加した応神天皇とは何者か。生まれながらの将軍為らぬ、生まれながらの「天皇」(帝国の支配者である皇帝)で、応神天皇と云う人物像に託されたのはそう云う事だったのだ。
処で、母・神功皇后には、やはり中国の歴史書に描かれた「卑弥呼」が投影されて創作されたのであろう。しかし私達には順序が逆である。「シャーマン」神功皇后を通して「卑弥呼」像を抱いて居ると考えるべきだろう。
念の為に言い添えて置こう。「前編」は「日継ぎ」たる「天皇」が如何に神を祭り守られながら、如何に領土を拡げ異民族を含めて支配する「帝国」と為ったかをテーマとしたフィクションだ。だから、「生まれながらの天皇」応神天皇の誕生で幕を閉じるのである。
強調し無ければ為ら無いのは、それ以上の意味を読み取る事は出来無いと云う事。例えば、祭祀の起源など崇神天皇の事績、ヤマトタケルの征服劇等からその時期や史実は引き出せ無いのだ。
その2につづく
どうも、面倒な天皇の名前が続くので頭の中にストンと落ちて来ない文章なのだが、今はサワリなのでもう少し辛抱してお付き合い願いたい。
要は、日本書紀に書かれた内容は、中国を意識して我が国の為り立ちを書物としてまとめようとする目的で作られたのだが、余りにも意図的な脚色が強過ぎて(天皇のお亡くなりに為った年齢や欠史8代等の)チグハグな結果と為ってしまった。だから歴史的な価値はゼロである・・・その意図するものとは・・・
その2につづく
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