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2016年09月22日

ラ・ローサ、 "ペスターノは私のアイドルであり先生だった"

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Vanguardia、2016年9月21日付、Mayli Estévez Pérez記者

ラ・ローサ: ペスターノは私のアイドルであり先生だった

Yulexis La Rosa捕手は、16年前に国内野球リーグのビジャ・クララの一員としてデビューした。Quemado de Güines(ケマード・デ・グゥイネス=ビジャ・クララの一都市)出身の彼には多くのアイドル捕手がいたが、その中でもキューバ代表捕手Ariel Pestanoが在籍しているチームでレギュラーを目指すことはさらにプレッシャーがあった。

見事な守備には定評があったが、多くの時間をベンチで過ごさなければならなかった。ときおり残務処理要員のような立場にもおかれた。Pestanoがプレーしたあとの交代要員として試合を締めた。

しかし、彼は堅実な守備によって、ときおり代表チームに選ばれた。La Rosaは、ただ座ってチャンスを待つこともしなかった。彼のアイドルの技術から学んで成功することを目指した。

- 何年も彼を観察していた。彼がキューバで最高の捕手の一人であることは誰の目にも明らかだ。今の私があるのは、彼の隣で過ごしたその数年間の日々のおかげである。国内外の多くの人にとって見習うべき模範だった。- とLa Rosaは、かつての同僚の引退について本紙に語った。

国内チームや代表チームでの多くの時間をPestanoの影にかくれて過ごしたことから、La RosaはPestanoに対して距離を置いているのでは、と多くの人が考えるかもしれない。これは事実とはかけ離れている。La Rosaはこの件について自分の立場を認め、彼にはとても感謝しなければならないと吐露した。友人に対するようにファーストネームでPestanoを呼ぶ。

- 私にとってArielはアイドルであり先生でもあった。彼の野球観や、グランドでの取り組み方を知ることは、私のキャリアに非常に役立ったと思う。しかし物事にはすべて始まりがあり、終わりがある。彼には今回引退がやってきた。私にもいずれやってくる。彼はそのキャリアにとても満足して去ることができると思う。彼にはとても多くのファンがいる。偉大なリーダーで、偉大な指揮者だった。今後のキャリアでも成功することを心から願う。- と述べた。

このインタビューの前、Pestanoを抱擁した。カイバリエンはその証人となった。

La Rosa: ≪Pestano fue mi ídolo y maestro≫.
http://www.vanguardia.cu/deporte/7234-la-rosa-pestano-fue-mi-idolo-y-maestro



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2016年09月18日

アリエル・ペスターノ、生まれ故郷カイバリエンで引退式

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CMHW(ビジャ・クララのラジオ局)サイト、2016年9月17日付

生地カイバリエン、アリエル・ペスターノを見送る

今週土曜日(9月17日)、カイバリエンで、ビジャ・クララの捕手Ariel Pestanoの引退式がおこなわれた。顕著な経歴を残した選手がグラウンドを去る。

本紙は、写真家Carolina Vilches Monzónのブログ"Claroscuros"より、そのときの画像の提供を受けた。

これらは、Ariel Pestanoの生地、カイバリエンが組織した引退式の写真である。きたる21日(水曜日)にはSagua la Grandeで、また22日にはSandinoで、全国からわれわれのスター捕手とのお別れに集まってくる。

キューバ中部ビジャ・クララの背番号13は、三度の IBAFワールドカップ優勝(2001年、2003年、2005年)や、インターコンチネンタル・カップ、パンアメリカン大会、中米大会等での複数回の優勝を飾った。WBC銀メダル獲得メンバーでもあった。

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con Frederich Cepeda

HOMENAJE DEL PUEBLO DE CAIBARIÉN PARA ARIEL PESTANO
https://cvilchesmonzon.wordpress.com/2016/09/17/homenaje-del-pueblo-de-caibarien-para-ariel-pestano/

Su Caibarién natal despidió a Ariel Pestano
http://www.cmhw.cu/deportes/2894-su-caibarien-natal-despidio-a-ariel-pestano-fotos



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2016年09月16日

アリエル・ペスターノの遺産

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Granma、2016年9月15日付、Ángel Freddy Pérez Cabrera記者

アリエル・ペスターノの遺産

ビジャ・クララおよびキューバ代表の捕手が今週土曜日、生地カイバリエンで、そして22日にはSandino球場で、ダイヤモンドに別れを告げる。

私を含む多くの人にとってキューバ野球のもっとも完璧な捕手だった彼が、今週土曜日、生地カイバリエンで、そして22日にはSandino球場で、ダイヤモンドに別れを告げる。

2004年のアトランタ五輪を制し、その年の団体競技における最優秀選手に選ばれた偉大な男が、背番号13とともに去る。彼はキャッチャーというそのポジションで、盗塁阻止率56%というキューバ野球でもっともすぐれた記録を持っている一人である。

タイムリーな打撃を放つ、冷静沈着な野球選手が去っていく。それがAriel Pestanoだった。論争を巻き起こし、知的で、悪事にはきびしく立ち向かい、亡命をそそのかす大金の申し入れを躊躇なく拒絶し、大リーグの伝説の選手であるドミニカ共和国のDavid ≪Papi≫ Ortizに野球のショート・ストップと形容された男。

本紙は彼の自宅を訪問した。彼のファンに、そしてアンチにも、彼の個人的なそして選手としての人生の細部を語ってもらうためだ。社交辞令はなかった。改めて頼む必要もなかった。彼は草刈機で家の庭をきれいにしていた。それを置き、そして笑顔でわれわれにこういった。「投げてきて。僕が受けるから。」

- 野球を始めたころのことを聞かせてください。

生まれ故郷のCaibariénの道端で素手で野球をやり始めた。ある素敵な日にひとりの友人が私に、特別地域(área especial)に登録するよう勧めた。私はそうした。

そこで私はコーチのNoel Guerraに出会い、とても世話になった。私は少しずつ第一段階を歩み始め、県チームに加わり、少年野球の世界大会出場メンバーの一員になった。戻ってきて私はEIDE(Escuela de Iniciación Deportiva Escolar=体育教育学校)に加入した。そこで私はキューバの青年チームの資格をとり、ビジャ・クララに戻った。

そのあとのことはみんな知っている通りだ。

- 最初から捕手だったんですか。

そうだ。好きなポジションだった。私はとても活動的で、守っているところに球がくるのを待つことができなかったので、捕手でなければならなかった。

- あなたはすべての世代でキューバ代表の一員になるという功績をもっていますが、それは生まれ持っての才能でしょうか、それとも努力の結果でしょうか。

両方だ。私には能力があった。強く打つ力と、いい肩を持っていた。ホームプレートの後ろでよく動けた。しかしそれらの要素は、キャリアを経るごとに、完全なものになっていった。

- 自分のことを完璧な捕手だと考えましたか。

完全な者などどこにもいない。完全というのは存在しない。より良いことをなすための細部がつねにあるだけだ。

- 現在、そのポジションをどう見ていますか。

われわれのキャッチングや野球一般における最大の問題は、多くの経験を持った選手たちの引退により、とても早く教育が捨てられたことだ。彼らは模範だった。学ぶために必要な存在だった。私はPacheco, Kindelán, Linaresたちから学び、彼らは彼らで、Muñoz, Cheíto, Casanovaたちから学んでいる。このように、世代から世代に、ひとからひとへ吸収されてきた。いまはこれがほとんど存在しない。

- 後輩の捕手たちに助言をするとしたら何がありますか。

私がどのようにしてきたかを伝えるよりも、私が彼らに助言できることは、いかにそれをなすべきか注意を払うということだ。アカデミーは必要だが、それよりまして大事なのは経験と、日々続けることだ。

- あなたが試合では喧嘩っ早いというのは本当ですか。

いや、喧嘩っ早いのではなく、とても厳しいんだ。悪事を好きになったことがない。規律を守らないことで試合を捨てたり、やるべきことをなす意欲を持たない選手がいたら、ホームプレート上で3時間もしゃがんでいるのはきつい。その日自宅に行かずにグラウンドに足を踏み入れるのは、観客と一緒にうまくやるためだ。また、押したり、肩に手を置いたり、ののしったり、身振りで、反応を煽る選手たちもいる。それらは私をそのようにさせる。

- あなたはとてもタイムリーな打者でした。打撃が難しい状況で回ってくるのが好きでしたか。

私はそれをとても楽しんでいた。そういう瞬間のために準備していた。というのは、人生の運によって打順はめぐってくるし、何度も私は決断をすることになった。

- あなたはいい打撃をしたとき、いつものジェスチャーをし、天を見上げていましたね。あれは誰に捧げていたのですか。

母に。私の人生のいいときも悪いときもいつも一緒にいてくれた。

- あなたにとって一番手ごわかった投手は誰ですか。

私はそんなに偉大な打者ではないから、どの投手も難しかった。深く考え、周到に準備し、観察しなければならなかった。捕手であったことはこれらに役立ったかもしれない。

- 捕手として一番受けやすかった投手は誰ですか。

Norge Luis Vera, José Ariel Contreras, Maels Rodríguez, Adiel Palma, Lazo ,José Ibarといった難しい投手たちが多くいた時期に私は立ち会った。彼らの多くは90マイル以上を投げ、楽ではなかったが、全員について完璧に理解した。

- ベンチから捕手にサインを送るスタイルについてどう思いますか。

嫌いだった。それを認めれば、何も考えないロボットになってしまう。本来試合を分析する場所にいながら、すべての時間、ベンチからの指示を待つことになる。

- もっとも気の合った監督は誰でしたか。

私はすべての監督ととてもうまくいっていた。Pedrito Pérezをはじめ Anglada や Urquiolaなど。私のことを気難しいと形容したがった人たちもいるが、リーグ22年、代表チーム16年という結果がそれを否定している。

- キャリアのなかのトーナメントをひとつあげるとしたら。

2004年のアテネ五輪。

- 忘れてしまいたいことは。

私が出場しなかった第三回WBC大会。

- 不当だったと考えますか。

もちろん。私だけではなく、野球を知っている国内外のすべてのファンたちもそう考えている。

- 自己のもっともすぐれたスポーツキャリアを選ばなければならないとしたら、どれを選びますか。

第一回WBC大会はキューバ野球のオールタイムベストワンの結果で、私はそこにいた。また、マタンサスに対するビジャ・クララの勝利は、非常に大きなものだった。私たちは18年間優勝しておらず、人々は切望していた。私が試合を決めるという可能性も与えられた。あのときの本塁打はさまざまなことを見せてくれた。私はまだ体調がよかった。

- いまは何をしていますか。

アカデミーで、有望な若者たちをトレーニングしている。その中には息子のArielitoもいる。

- 自分のことを人々にどのように記憶してほしいですか。

私がしたことではなく、ひとりの人間として、長所も短所も含め、グラウンドで全力をつくした競技者で、祖国を決して裏切らなかった。大金を獲得し得たときでも私はここに残った。それが私の遺産だ。


2013年第52期国内リーグ、シエゴ・デ・アビラ18年ぶりの優勝を決めた満塁本塁打


2004年アテネ五輪準決勝での勝ち越し2点タイムリー安打

El legado de Ariel Pestano
http://www.granma.cu/deportes/2016-09-15/el-legado-de-ariel-pestano-15-09-2016-20-09-44



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2016年09月14日

マジェタとドゥアルテ、カンナムリーグ決勝に出場

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マジェタとドゥアルテはカンナムリーグ決勝戦に出場する

準決勝での好成績の結果、Duarte HernándezとAlexander Malleta Kerrは、カナディアン・アメリカン・リーグ(CAN-AM)の決勝戦に参加することになった。自軍オタワ・チャンピオンズの一員として、ロックランド・ボールダーズと対戦する。

両選手は、プレーオフ準決勝でのニュージャージー・ジャッカルズとの対戦で、自軍の3勝に貢献。タイトル獲得を決める決勝戦は、最大5試合、今月17日までおこなわれる。

リーグ公式サイトによると、9月13日の一試合目はロックランド・ボールダーズが6対5で勝利をおさめた。この試合でのキューバ選手の成績はまだ明らかになっていない。

野球専門サイトZona de Strikeによると、Duarte Hernándezは準決勝で打率.375、16打数6安打、4得点、2四球、1盗塁、2三振という成績。

このピナール三塁手のレギュラーシーズンでの成績は、打率.272、39得点、35打点、12二塁打、2本塁打、39四球、10盗塁、30三振。

一方、ハバナのMalleta Kerrは、準決勝で、打率.313、16打数5安打、5得点、5打点、2四球、2三振。

レギュラーシーズンでは、79試合に出場し、打率.232、32得点、53打点、15二塁打、6本塁打、30四球、40三振、2盗塁。

カンナムリーグに参加していたほかの二人のキューバ選手、Yurisbel Gracial GarcíaとRoel Santos Martínezは準決勝まで進んだが、自チーム、ケベック・キャピタルズは、ロックランド・ボールダーズに予想外の敗北を喫した。

マタンサスのGracial Garcíaは、準決勝で、打率.381、21打数8安打、5得点、2打点、3二塁打、1三塁打、1四球という成績をおさめた。

Yurisbel Gracial Garcíaはレギュラーシーズンにおいても、キューバ4選手のうちもっともすぐれた成績を残した。打率.320、57得点、58打点、14二塁打、5三塁打、9本塁打、27四球。

グランマ出身のSantos Martínezは、準決勝では、打率.300、20打数6安打、8得点、1二塁打、3四球。

レギュラーシーズンでは、打率.301、46得点、34打点、11二塁打、1三塁打、1本塁打、43四球、23盗塁、という成績だった。

Malleta y Duarte disputarán final de Liga Can-Am
http://www.cubadebate.cu/noticias/2016/09/14/alexander-malleta-y-donal-duarte-disputaran-final-de-liga-can-am/#.V90CkVuLTIU



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2016年09月12日

フレデリク・セペダ インタビュー WBC出場を夢見ている

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サンクティ・スピリトゥスのFrederich Cepedaは、すべての監督が自分のチームに欲しがる種類の選手である。ミート力があり、パワーがあり、勝負強く、キューバ野球では数少ないスイッチヒッターの一人であるこの打者は、ここ数年とても複雑な時間をすごしてきた。日本での成績はその期待にこたえられず、最近二度の手術を経験した。

今季第56期リーグでの復帰後、彼は高いレベルの成績を残している。肉体的な回復はまだ5割という状況でありながら、打率はリーグ2位の.439、本塁打は6本を放ち、出塁率.549とOPS1.256はともにリーグトップである。彼の歴史、考え、理想は、“imprescindible”(必要不可欠な)と形容されたあの最初の日と同じくいまも有効である。

- 手術後の復帰までの準備について教えてください。

はじめは今年1月に膝を手術した。以前も手術した箇所だったが、また半月板を痛め、手術しなければならなかった。回復は通常3ヶ月くらいかかる。でも松葉杖なしで立って歩けたときに、あわせてリハビリできるように、肘も手術することを決めた。

この肘の手術は、トミー・ジョンといわれる有名な手術で、投手や外野手によくおこなわれるものだ。たとえばキューバではYoandri Urgellésもこれをおこなっている。職業野球ではしばしばあることで、投手の場合回復にはだいたい1年かかる。リハビリと物理療法でとてもゆっくり準備していくからだ。

では私の場合どうだったか。手術後3〜4ヶ月で、軽いキャッチボールと素振りを始めた。それから少しずつ、実際の投球に慣れていった。リーグ開幕が早まったのは知ってたし、私はプレーしたかった。

- 現在は痛みなどはまったくありませんか。

肘にはまったくない。すべてゆっくりやってるし、大きなスイングはしていない。いまは調整しながら始めた段階だ。というのは、日本から戻ってきてからは、ほんの少し前まで、実際の投手の球を見ていなかった。思い出してほしいが、私はプレミア12にも、カリビアンシリーズにも参加していない。コロンビアに行くのを待っていて、でもそれが遅れて、あっちにいたのは1週間だけだった。手術のためにキューバに戻ることを決めたのは、どの国際大会にも選ばれてなかったからだ。そういうわけで、私の調子はまだ50%くらいだ。

- 今季における目標というと何になるでしょう。

代表チームのメンバーにまた選ばれることだ。来年のWBC大会への参加を夢見ている。WBCに4回出場する唯一のキューバ選手として、各大会で安打、打点、本塁打、得点などを残せば自分としてもキューバにとっても記録になるだろう。いま私にとってもっとも重要なことは、健康であり、家族であり、野球をプレーするなんだ。カリビアン・シリーズのMVPを連続で獲得するという考えもあったが(2015年に獲得)、それはできなかった。そのとき私は契約にかかわっており、召集されなかった。

- あなたを招集すべきだったと思いますか。

もちろん。ときおりこういった不公平なことがおこなわれる。私の考えでは、召集すべきだったと思う。たとえばプレミア12のときも、私は日本で契約を履行中で、召集されなかった。しかし、トロントでのパンアメリカン大会には召集され、アジアからアメリカまで、22時間飛行機に乗らなければならなかった。時差に適合し、1週間試合をした。これは他の要因にも左右される戦略的事柄だ。私の立場でできることは、これまでいつもやってきたように、献身と犠牲の精神で、野球をプレーし続けることだ。

- 今季は個人記録を積み上げたいとも言われてましたね。

2000安打に近づきたいし(11日現在1776安打)、二塁打はもう少し増やしたいし(現在344本で歴代10位)、300本塁打には届きたい(現在271本)。日本にいた2年間分遅れてしまい、一時帰国した最初の年は20試合程度しか出場できなかった。昨年帰国したときはもうシリーズは終わってしまっていた。

- 日本での成績には何があったんですか。

期待されたことを達成できなかった、と何度も言ってきた。あそこで一緒にいた若者たちには敬意を表したい。Yulieski Gurriel と Alfredo Despaigneは、同じ状況の下で、よりよい成績をあげた。後者は現在日本にいるラテン系選手のうち、もっとも必要とされている選手の一人である。

どの球団に加入するか、またどういう機会を得るか、にもよってくる。私は契約したとき、準備のための時間をもらえると聞いていた。われわれがまだ日本リーグに慣れていないと彼らもわかっていたからで、何日か二軍で調整できるといわれていた。しかし実際はそうはならなかった。

日本に着いて2日目、私は読売ジャイアンツの歴代80人目の4番打者になり、2度打席に立った。はじめはまあまあだったら、そのあと60打席段階で打率は.190になった。もうそれ以上上がらなかった。そのあと代打として使われたが、そこでの条件はとても厳しいものだった。というのは球団は一軍で4人以上の外国人選手を持てない決まりだったからだ。私は二軍に行かされた。一軍の外国人選手の調子がよければ、もうほかは誰も一軍に上がれない。二軍でも私は代打をまかされた。私が所属するリーグでは指名打者の制度がなかったからだ。私は正当化することなく言うことができる。望んだ結果を私は得られなかった。

- それでもなにか得られたものもありましたか。

プロ野球についての多くのことを学んだ。倫理規定や、トレーニングシステムなど。野球というのは、われわれがこれまで費やしてきたような練習をするにはとても厳しいスポーツである、ということを再確認した。プロ選手であるためには、また何らかの球団に属するには、多くの条件を必要とする。大事なことは、そこにたどり着くだけではなく、維持していくことなんだ。

- キューバ選手の海外リーグ加入についてはどういう意見ですか。

高いレベルのほかのプロリーグとさらに交流していくことは、われわれには何よりもまず必要なことだ。なぜなら、われわれが唯一加入できるのはいま日本リーグだけだからだ。契約について我々が学ばなければならないことや調整できることはたくさんある。たとえば、私は二軍にいたが、キューバから向かうときには事実とは違うことを吹き込まれていた。二軍から一軍にあがることはとても難しい。

海外にいる契約選手にはもっと親身になって接するべきだと思う。誰も選手を訪問してこないし、どんな調子か見にくることもない。弁護士が無理なら、INDER(キューバスポーツ協会)の代表者か誰かがそれをすべきだ。何かが起きてからでは遅いのだ。個人攻撃しているわけではまったくない。私自身成果をあげなかったと言っているのだから。しかしそれは正す必要がある。

- 2020年の東京五輪まで続けるつもりはありますか。

いま現在はただ野球を続けることしか考えていない。引退は私の頭にはない。

- なぜあなたは、他の球団から呼ばれうる存在であるにもかかわらず、サンクティ・スピリトゥスでプレーし続けているのですか。

一度も移籍の申し入れをもらったことはない。補強選手として選ばれたとき以外では。私がサンクティ・スピリトゥスにいる理由の多くは家族に影響している。私は家族を捨てることはないし、自分がデビューした球団を捨てることもない。私がここまでやってこれたのはチームのおかげだ。引退するときまで私はよりよい成績と経験とをチームにささげる。

- キューバ野球の質を高めるには何が可能ですか。

海外リーグとの契約は選手たちにとても役立つ。プロの技術から、経済的なことまで。海外の野球を見て(すべてのリーグはそれぞれ違う。たとえばメキシコの投手は日本の投手とはまた違う)、レベルを上げることは、選手たちを成長させる。

しかし、そのことは、国内に残った選手たちをさらに尊重する、ということも意味する。なぜなら、1年に100人の選手が海外と契約したと仮定しよう、残る者たちは多数だろうか? 彼らと何をする?

私は、国内リーグを45試合で区切ることに一度も賛成していない。たとえ多くのジャーナリストが賛同し、それがキューバ野球の問題の解決とさえ考えたとしてもだ。第二ラウンドに進めない選手たちの数は膨大になる。私はいくつかの例を覚えている。何年か前ホームランダービーのトップを走っていたDary Bartoloméは、第二ラウンドに進めなかった。

また、これまでのリーグ形式では、各チームのラウンド進出の有無がすでにわかっている場合、感動が失われる、と言われた。しかしこれはどのリーグでも起きることだ。私は日本でも見たし、大リーグでさえ同じことが起きている。シーズン終盤の試合では選手たちは個人目標のためにプレーする。

野球により詳しい人たちに言わせれば、(これは私の言葉じゃないよ)、打者を成長させ、よい成績を出させるには、200打席以上はないといけない。そのために野球選手がプレーできるように2A、3Aやその他のマイナーリーグが存在する。しかしわれわれはひとつのリーグしか持ってない。

それが私がいまプレーしている理由でもある。準備したり、よりよいフォームを追求するほかのリーグがないのであれば、セリエ・ナシオナルでそれをやるしかない。なぜなら私はプレーしなければ、手術からの回復に2年は費やしてしまうだろうから。

- 一次ラウンドでの試合数を増やすことを擁護するあなたは、Serie Selectiva(選抜リーグ)まで賛同しますか。

鍵はそこだ。キューバで野球がおこなわれているセリエ・ナシオナルが終わるとき。23年もやってきた私のような選手のプレーをどこで見ればいい?これは再検討すべきことがらだ。もし90試合を維持した上で、そのあとさらに強力なリーグをつくるのであれば、野球をプレーしない選手をそれほど残さないだろう。より心配なことは、あとからやってくる若い選手たちは、何年も成長が止まってしまう可能性があるということだ。20歳で、20イニングだけ投げた投手たちがいる。45試合の中で同じだけ投げるには、またもう1年待たなければならない。標準のレベルに達するまでにどれだけ遅れてしまうか。若い世代が失われていく。

- 個人的な話でこのインタビューを閉めたいと思います。あなたに野球を教えたお父さんは、いまあなたのお子さんに同じことをしているそうですね。

父は私の目標であり続けている。彼はいま私の息子Frederic Cepedaに力を貸している。左右両方で打つことと、全ポジションでのプレーを教えている。私より上達することを願っている。(笑み)

Frederic Cepeda: “Sueño con el IV Clásico Mundial”
http://www.cubadebate.cu/noticias/2016/09/12/frederic-cepeda-sueno-con-el-iv-clasico-mundial/#.V9aEBluLTIV



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2016年09月08日

ドナル・ドゥアルテ インタビュー 月曜日にはカピタン・サンルイス球場にいる

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Periódico Guerrillero 2016年9月7日付

ドナル:今度の月曜にはカピタン・サン・ルイス球場にいるだろう。チームのために全力をつくす

国内シリーズ第56期の第二シーズンへの順位争いにおいて、現在ピナール・デル・リオが困難な状況に直面していることは誰の目にも明らかである。

その理由はいくつも挙げることができる。低い攻撃力、高い失点率、2番打者や3番打者が固定しないラインアップ、等々。しかし、その最大の原因は、チームの主将、Donal Duarteの不在である。

Donalは、数ヶ月前からカナディアン・アメリカン・リーグ(カンナムリーグ)でオタワ・チャンピオンズの三塁手として活動しているが、ピナールのファンからはチームのエンジンとみなされており、昨年準優勝チームのピナールの不調からの脱出を、彼の復帰に見る人が多い。

カンナムリーグ参加で彼が示したテーマと経験について、Guerrillero紙は、フェイスブックを通じて、このサン・ルイス(ピナール・デル・リオの都市)のアイドルと会話をした。彼は丁寧にわれわれの質問に答えてくれた。

- あなたが不在の間、ピナールはいつもの状態ではなかった。あなたへの依存状態が存在すると思いますか。

私に依存しているとは思わない。でもすぐれたエンジンとなって皆を引っ張る、そういう誰かが必要だとは思う。

チームにとって必要なのは、すぐれた選手たちが個々にプレーするのではなく、チームのためにプレーすることを学ぶことだ。それを私はやっている。必要なのはただ、仲間たちの信頼を得ることであり、あいつは自分のためじゃなくチームのためにプレーしている、とみんながわかってくれることなんだ。

- あなたは遠くに離れていても、ピナールに今シーズン起きていることについて、注意を払っていますよね。

チームに起きていることについて心を痛めている。みんなに知っててほしいことは、私はいつも彼らのことを見守っているし、帰ったらすぐにでもチームに加入する。休むのはあとにするし、調整のための練習などいらない。

あきらめないでほしい。われわれのチームは第二ラウンドに進出するだけの力があるし、それを達成しなければピナールの人たちのショックははかりしれない。みんなは私たちが第二ラウンドに進出することを期待している。

- あなたはいつ戻ってきますか。

日曜日に帰国して、月曜日にはカピタン・サン・ルイス球場にいると思う。チームのために全力をつくす。

- 話は変わりますが、カンナムリーグで得た経験について何か話してもらえますか。

今シリーズでの私の成績は良かった。チームもプレーオフに進出し期待にこたえたし、私自身もよく打った。一番良かったのは腕が治ったことだ。

とてもいい成績を残せたし、フォームも調整できた。体重も落とせたし、体の痛みもない。ただキューバでやっていたときよりは少しだけ多く走らないといけなかったけどね。

- それではカンナムリーグでまたプレーするという可能性はあるのですか。

うん、実はきのう書類に署名してきた。あとはキューバ連盟からの回答を待たなければならない。

(インタビュー終わり)

Donalは、カンナムリーグでは82試合に出場し、打率.272、298打数81安打、二塁打12本に、本塁打2本という成績を残した。

Donal : El lunes voy a estar en el capitán San Luis, dando todo por mi equipo
http://www.guerrillero.cu/index.php/deportes/beisbol/10206-donal-el-lunes-voy-a-estar-en-el-capitan-san-luis-dando-todo-por-mi-equipo



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2016年09月07日

ヨスバニ・アラルコン、キューバ国民に許しを請いたい

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Caliente Esquina、2016年9月6日付、Dubler Vázquez記者

ヨスバニ・アラルコン:キューバ国民に許しを請いたい

Yosvani Alarcónは、その責任から逃走したことがない。3年少し前、とても重い懲罰を受け、第三回WBCへの出場ができなくなったときに彼は、人間として、そして選手として成長するために、グラウンド外での時間を最大限に利用した。そして復帰したあと、キューバ野球界でもっとも安定した打者の一人となった。

一度ならず苦難から立ち上がることを学んだことは、代表チームにおいて、より多くの責任がある地位まで引き受けるに至ったキャリアのひとつの鍵であった。それがゆえに、今回8月29日にVictoria de Girón球場でみっともない事件を引き起こし、そのために1年間野球活動から身を引かなければならなくなった彼は、いかに自分が間違っていたかということを躊躇なく認めた。

- 何よりもまず、キューバ国民に許しを請うために時間を使わせてもらいたい。とりわけあのとき球場ですべてを見届けたマタンサスの人々に、そして、つねに私を支援し続けてくれたラス・トゥナスの人々へ。私は単純に間違いを犯してしまい、自分がうまく制御できなくなっていた。いまはそのことがよくわかっている。だからすべての人にあやまりたい。- 

率直な言葉で、ゆっくりとした調子で語ったアラルコンは、彼を知る誰からも尊敬と愛情を受ける、あのいつもの謙虚な青年に戻っていた。

そのため、マタンサスでプレーしているグアンタナモ出身のリリーフ、 Alexander Rodríguez投手との一件を見届けた人たちの多くは、あの出来事に当惑という感じを受けたであろう。人によっては説明不可能だが、あの衝突を少しだけ解明する文脈が存在した。

- 昨シーズンのセミファイナルで、私がマタンサスから本塁打を打ったのをみんな知ってると思うけど、その件だ。私はピナール・デル・リオの補強メンバーだった。あれが、今回と同じ投手からのもので、同じVictoria de Girón球場でのことだったのこともみんな覚えてると思う。-

そう前置きしてから彼は、今回ラス・トゥナス-マタンサスの第三戦において、Palacio de los Cocodrilos(=Victoria de Girón球場)で起きたことを説明した。

- あの試合で私は9回に代打として出場した。ネクストバッターズサークルにいたとき、相手投手はYosvani Pérezだった。彼はまだ4点のリードを持っており、崩れそうな気配もなかったと思う。それにもかかわらず、私がバッターボックスに入ったとき、マタンサスの監督が出てくるのが見えた。彼はまさにあの投手、昨シーズンのプレーオフで私が本塁打を打った相手投手を呼び、それから何かジェスチャーをして、昨シーズンにあったことをほのめかすような何かを言っていたように私には思えた。もうそれで私は懸念し始めた。なぜかというと、もう一度言うけど、それまで投げていた投手を代える多くの理由はなかったように私には思えたから。事実、私が本塁打を打っても、同点にもならない状況だった。

- そしてそのリリーフ投手がウォーミングアップをはじめ、また私には少し攻撃的に思える表情でそれを終えた。それらすべてが一緒になって、私を精神的にがんじがらめにした。私のことを知る人なら、私が激高するタイプの人間ではまったくないことがわかっている。しかし普段ほとんどの投手は私への一球目を内角に投げることはしない。通常なら外角のほうに投げる。彼は捕手の指示に対し三度首をふり、内角に投げてきた。もし本当にその可能性に備えていなかったなら、両腕に当たっていたかもしれない。私はビデオを何度も見直して、そのことを確信した。

そのあと起きたことは、みながよく知っていることだ。アラルコンの暴力は全国にテレビ中継され、懲罰はすぐにおこなわれた。12ヶ月の出場停止という非常に厳しい措置だった。彼の過ちは、マタンサスのDemis Valdésが2014年の2月に、ビジャ・クララのFreddy Asiel Álvarez投手に対しバットで暴力をふるい、刑事事件にまで発展した件と同レベルの扱いとなった。

- 私には少し厳しいものになったと思うが、でもそれでよいと思う。それが革命キューバの野球の規律なのだから。キューバで私たちが持っている懲戒の基準はそれであり、私は行動の結果の責任をとらなければならない。もちろん私はとてもつらい。なぜなら、私はいまキャリアの中で最良の時期にいながら、ラス・トゥナスだけではなく、キューバ代表チームの力になる機会も失おうとしている。だから私はもう一度誰かに評価をしなおしてもらえないかと願っている。なんらかの機会を私に与えてもらえないかどうか、私のキューバ代表としての行動も考慮してもらえないかと。措置を適用する時期が考慮されなかったのではないかと思うんだ。もちろん私がやったことを正当化しているわけじゃない。私は規律を破ったし、それが懲戒に値することはわかっている。でもすべてを考慮してもらえないかと願っている。せめて今季の出場は許されないものだろうかと。-

Yosvani Alarcónのにがい経験は、再度彼をWBCという、野球というスポーツが五輪から除外されている現在、すべての選手にとってもっとも待ち望まれている大会から引き離そうとしている。しかし、あらゆるその他の考慮、たとえば懲戒規則の改革や、懲戒を年単位ではなく試合単位にするといった可能性もかすかに見ながら、この現在キューバのもっとも完璧な捕手は、なすべきことをよく知ること、つまり、野球のグラウンド内にすべてを残すこと、に集中し続ける。

- いま20日間の休暇をとっている。というのは一年中絶え間なく試合をしているから、捕手にとっては、それがかなりきつい。でも毎日チームの仲間の試合を見にいってる。みんなにはもう謝ったよ。実際、私の欠場が少しチームに影響を与えていることはわかっている。Ermidelio (Urrutia監督)は私をひじょうによく支援してくれたし、だからこそ、その信頼にお返しをする唯一の方法は、練習にできるだけ早く参加することだ。実際公式試合に全部参加しているような気持ちでね。体調を維持しておきたい。なにか別の決定がなされることを期待しながら。-


(メサ監督の投手交代が29分30秒あたりから)

Yosvani Alarcón: “Le pido perdón a toda la afición cubana”
https://miesquinacaliente.wordpress.com/2016/09/06/yosvani-alarcon-le-pido-perdon-a-toda-la-aficion-cubana/

Yosvani Alarcón: “Quisiera pedirle perdón al pueblo de Cuba”
http://www.cubadebate.cu/noticias/2016/09/06/yosvani-alarcon-quisiera-pedirle-perdon-al-pueblo-de-cuba/#.V9PDuFuLTIU



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ノルヘ・ルイス・ベラ、私の夢はサンティアゴとキューバ代表チームだった

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René Javier Domínguez Moralesによるインタビュー

ノルヘ・ルイス・ベラ: 私の夢は、サンティアゴとキューバ代表チームだった

サンティアゴの右腕、Norge Luis Veraほど2000年代に権勢を誇ったキューバ人投手はいなかった。クレバーさ、繊細な制球、臨機応変な速度、圧倒的な急角度のスライダー、それらが彼の輝かしい戦歴の一つ一つを飾った。ポストシーズンでの投球はほとんど完璧だった。サンティアゴ・デ・クーバでは国内リーグを6度制し、キューバ代表チームでは可能なかぎりのタイトルを獲得した(世界選手権、五輪、パンアメリカン、セントロアメリカン)。

私の記憶でいまだ鮮明なのは、1999年のインドゥストリアレスとのプレーオフ6試合目だ。ラティーノ球場には、試合場を盛り上げるロス・バンバンやパウリートFGなどのためのステージが組まれていた。プレーオフはインドゥストリアレスが3勝2敗とリードしていたが、そこに立ちはだかったベラは、忘れがたい登板を開始した。彼は完全な投球をし、忘れがたいスコアボードの0を終わらせるには9イニングではほとんど足りなかった。1対0というスコアはシリーズの運命の流れを変え、サンティアゴは現実の理想郷となった。

そのときから多くの歳月が流れたが、ほかにも記憶に残る輝きの瞬間があった。カムデン・ヤーズでのボルチモア・オリオールズとの試合でのリリーフ、ハバナを相手のノーヒットノーラン、2003年サント・ドミンゴでのパンアメリカン大会決勝戦、2004年アテネ五輪決勝での勝利、2009年WBCでのサヨナラ登板の気配があった偉大なパフォーマンス。

時は、ゆっくりではあるが移り行き、永遠に道を踏み外したかのように思えた。自動車事故で生死をさまよったのだ。運命と宿命、ある方法または別の方法、それらが勇敢な人たちに手を差し伸べ、取り返しのつかない損失を取り除いた。彼の腰周りはその不幸な傷跡をとどめているけれど、彼の野球に対する情熱は、今季、彼をサンティアゴ・デ・クーバのコーチとしてチームに復帰させた。

- 今季のサンティアゴのコーチ就任はどのように実現したのですか。

Reutilio Hurtadoが新しい監督として指名されたときに、可能性を打診されて、私は喜んで受け入れた。以前私は県立アカデミーで投手コーチを勤めたことがあった。

- サンティアゴの投手陣についてどんな見通しを持っていますか。また彼らを成長させるための戦略はなんですか。

われわれの投手陣はとても若い。経験をつむ必要がある。コントロールを得ることに重点を置いている。それは投手が成功するために必要なもっとも重要な武器である。われわれにはUlfrido Garcíaという左腕の例がある。彼は我がチームのもっとも有望な選手だが、コントロールに欠けている。適切な仕事と、ブルペンでの練習によって、その欠点が乗り越えられるよう期待している。

- 残念なことに、ここ5年間で、サンティアゴの野球は顕著な低落を経験しています。何に原因があると思いますか。

基本的に不十分な仕事や競技者の流出、選手たちへの配慮などから発生するさまざまな要因がある。野球というものは多くの細事を必要とするが、いまの若者たちの気質は、私がリーグ参加し始めたころとは同じではない。物質的刺激が重要だ。一方、県シリーズはわずかな資源でおこなっている(バット、球、ユニフォームなど)。これでは野球選手を育てるには不足している。

- ラティーノのスコアボードを見て、インドゥストリアレスとサンティアゴが対戦することに気づくんです。なぜなら観客席に客がほとんどいないからです。まるで悲しみを掘り起こす忘れ去られた古典ドラマのようです。この両雄の対決にあなたは何を思い起こしますか。

これはすべてにまして重要なことだ。あの時代は、ひとつのイニングを続けるごとに、国全体が反応していた。インドゥストリアレスとは決勝で3回対戦しているが、どれも忘れがたい。1999年はわれわれがなしとげた偉業で勝ち取った。2006年は我々が敗れ、その翌年は我々が取り返した。キューバ野球のもっとも偉大なライバル関係だった。ファンのいない観客席を見るのはつらい。

- 1999年のシリーズ決勝についてなのですが、シリーズ成績タイに持ち込む、あの6試合目の歴史的なシャットアウトには、何を思い起こしますか。

あの試合は、私がセリエ・ナシオナルで投げたうちの、もっとも重要な試合だ。私の野球人生でもっとも偉大な瞬間だった。同時に私に叫んでいる人たちがたくさんいて、私はさらに力強くなり、さらに良く投げることができた。Scullを抑えて、最後のアウトを取ったときの感情は言葉では表現できない。翌日の試合も、Ormari Romeroの好投で勝利し、わたしたちは唯一の喜びを体験した。あれは私にとって国内リーグ最初のタイトルであり、キューバ代表チームへの扉を開いてくれた。インドゥストリアレスを彼らの本拠地で破ったことも大きな意味があった。サンティアゴで私たちは英雄として迎えられた。

- 私の考えでは、あなたは、セリエ・ナシオナルの歴史におけるもっとも偉大な5人の投手のうちのひとりです。あなたの成功の鍵はなんでしたか。

コントロールだ。それなしでは、何者にもなりえない。私は計算して、自分が投げたいところに投げることを習得した。適切な場所に投げることは、投手のもっとも重要な武器だ。最初のうちは三振を多く取っていたが、あとからは、アウトを引き出すことにより集中した。

- 偉大な投手たちはみな、打者に対する死刑執行人の要素を持っています。あなたをもっとも苦しめた打者は誰ですか。

左打ちの選手たちはよく私をミートしてきた。Malletaも私をよく打ったが、もっとも難しかったのはAntonio Scullだった。私を打ちまくり、こちらが制する形をつくれなかった。ギジェルモン球場やラティーノ球場では本塁打を打たれた。彼が私にとって最大のライバル打者だ。

- 野球を始めたころ、誰を手本にしていましたか。

Braudilio Vinentのようになりたかった。地元の偉大な選手だ。私のアイドルだった。マウンドでの我慢強さと、人柄の良さにあこがれていた。私のキャリア途中で、彼をコーチとして持てたことは幸運だった。私をとても助けてくれた。

- 大リーグでプレーすることを考えたことはありましたか。

一度も考えたことはなかった。私の夢はサンティアゴとキューバ代表チームだった。第二回のWBCで投げて、そのレベルの選手たちと対戦する機会はあったし、同じく、ボルチモア・オリオールズとの試合でリリーフしたこともあったけれど。

- ボルチモアでの試合は感動的でした。思いがけない雨のあと、あなたはJosé Ariel Contrerasをリリーフしました。あの場面はどのように引き受けたのですか。

あのときは一人目のリリーフで行くといわれていた。用意はできていたし、ブルペンで落ち着いていた。Contrerasは立ち上がりが悪かった。私が交代して、低目、コンビネーションを維持するよう努め、それがオリオールズを封じる私の武器だった。

Norge Luis Vera: “Mis sueños eran Santiago y el equipo nacional”
http://www.cubadebate.cu/noticias/2016/09/06/norge-luis-vera-mi-sueno-eran-santiago-y-el-equipo-nacional/#.V9LZbFuLTIU



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2016年09月06日

フレデリク・セペダ インタビュー 国内リーグでの勝利を目指す

Frederich Cepeda.jpg
フレデリク・セペダ

Radio Rebelde、2016年9月5日、Rodolfo Durán Almeida記者

五輪王者は、四回目のWBC出場と、自軍サンクティ・スピリトゥスの勝利を目指す

2004年アテネ五輪王者のサンクティ・スピリトゥスのフレデリク・セペダは9月5日、ラジオ・レベルデのインタビューに応え、2017年3月のWBCに出場したいのはもちろんだが、現在の自分の目標は、国内リーグで自チームを助けることだ、と語った。

- トーナメントで結果を出さなければならない。以前なしとげたように、成績を残して、もちろん体調も維持して - と言及したセペダは、今年あたまに二度の外科手術を経験している。

このサンクティ・スピリトゥスの4番指名打者はさる8月7日、今シーズンの開幕戦から、地元チームのメンバーに復帰し、みなを驚かせた。

- 完全に自分自身による判断だった。試合には早く出たかった。そのほうが精神的に気分がよかった。それまでやってきたトレーニングは打撃と走塁だったし、それらを競い合いながら行うほうがよかったんだ。- 2006年の第一回WBC準優勝メンバーは語った。

ラジオ・レベルデによるセペダへのインタビューの詳細はこちらで。 (MP3音声ファイル3分43秒)

Campeón olímpico aspira a su cuarto Clásico y ayudar a su equipo Sancti Spíritus
http://www.radiorebelde.cu/noticia/campeon-olimpico-aspira-su-cuarto-clasico-ayudar-su-equipo-sancti-spiritus-20160905/



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エンテンサ、見事な復帰戦、サンクティ・スピリトゥスを封じる

Noelvis Entensa.jpg

ラディオ・レベルデ 2016年9月5日付 Yirsandy Rodríguez Hernández記者

エンテンサ、見事な復帰戦、サンクティ・スピリトゥスを封じる

Noelvis Entenzaがインドゥストリアレスの聖地ラティーノアメリカーノのマウンドに戻ってきた。9月4日、サンクティ・スピリトゥスとの試合に先発し、7回1失点と好投。自チームにリードする勢いを与え、勝利に導いた。

今季10勝目をあげたJavier Méndez監督率いるインドゥストリアレスは、Frank MonthietとFrank Camilo Morejónの再加入、および次回からのAlexander Malleta, José Pablo Cuesta ,Ian Rendónの復帰を発表した。これらの選手はみな、カナダの独立リーグに所属するチームの構成員である。

Entenzaは、1月9日以来4回目のラティーノアメリカーノでの登板を組み立てながら、サンクティ・スピリトゥスとのキャリア10回目の対戦で6勝目をあげた。

このシエンフエゴス出身の右腕は、7回で5個の四球を与えたものの、三奪三振や、Ariel Hechavarría三塁手およびYolbert Sánchez遊撃手の攻守に助けられ、相手の打撃陣をコントロールした。

Entenzaは、3回から6回にかけて、連続7人の好敵手と対戦し、そこではFrederich Cepedaの二塁打と、Dunieski Barrosoの犠牲フライを許し、相手チーム最初の得点となった。

インドゥストリアレスの打撃陣では、Javier Cameroが、Javier Camero投手からバックスクリーンへの第1号の本塁打を放った。

インドゥストリアレスの9得点は、3回に分けて(4回、7回、8回)、3点ずつ取った形になった。Carlos Tabaresが5打数4安打2得点、Juan Carlos Torrienteが5打数3安打1二塁打2打点、Stayler Hernándezが5打数3安打1三塁打を放った。

Tabaresにとって1試合4安打は、2015年10月6日のサンクティ・スピリトゥスとの試合で達成したのは最初で、きょうで4試合目となる。

今週終了段階、1930本の通算安打を重ね、そのキャリアにおいて2000安打達成を目標として今季も戦う、インドゥストリアレスの主将は、引退を宣言した。

- 最近、球をうまくミートしていたがあまりヒットが出てなかった。少なくとも私はチームの力になりたいし、目標の一つである2000安打をキャリアが終わる前に達成したい - と、Carlos Tabaresは語った。きょう4安打を放ち、今季打率も.257から.293にあがった。(75打数22安打)

42歳の外野手、25年のキャリアを持ち、生涯インドゥストリアレスのユニフォームで通したこの選手は、今季終了での引退という考えは変わっていないという。 

- 今季以前からずっと考えてきたんだ。変わらない決定だ。この偉大な球団と25年やってきた。いま私は完全な状態だと感じているんだが、私のような競技者は、つまりこんなに名誉あるキャリアを持ち、こんなにファンに愛されてきた選手は、そういうときに引退すべきだと思うんだ。頂点で、今季の優勝を勝ち取るまで進み続けることを期待されながら、2010年以来の優勝を。 - とラディオ・レベルデに対して語った。Tabaresは2004年アテネ五輪王者であり、キューバ野球における犠打(198)の最多記録保持者でもある。

インドゥストリアレスのYohandry Urgellés (4-0), Yolbert Sánchez (2-0) ,José Ignacio García (4-0) の3選手は、自軍の15安打という打棒に加われない唯一の選手となった。

Yoen Socarrásは6回を投げ、9安打、5失点で、負け投手となった。

Mario Zulueta監督率いるチームによって、ラティーノアメリカーノでのインドゥストリアレスとの試合におけるFrederich Cepedaの復帰が実現した。Cepedaの同球場への登場は2013年4月20日から22日にかけての連戦で9打数5安打、1二塁打、2打点を放って以来だった。

インドゥストリアレスは、サンクティ・スピリトゥスに対する歴史的記録をさらに広げ、123勝87敗とした。直近5シーズンでは、サンクティ・スピリトゥスに有利な10勝5敗という星勘定になっている。

Entenza regresó por todo lo alto y silenció a los Gallos
http://www.radiorebelde.cu/noticia/entenza-regreso-por-todo-lo-alto-silencio-gallos-20160905/



posted by vivacuba at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | beisbol
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