2016年09月07日
ノルヘ・ルイス・ベラ、私の夢はサンティアゴとキューバ代表チームだった
René Javier Domínguez Moralesによるインタビュー
ノルヘ・ルイス・ベラ: 私の夢は、サンティアゴとキューバ代表チームだった
サンティアゴの右腕、Norge Luis Veraほど2000年代に権勢を誇ったキューバ人投手はいなかった。クレバーさ、繊細な制球、臨機応変な速度、圧倒的な急角度のスライダー、それらが彼の輝かしい戦歴の一つ一つを飾った。ポストシーズンでの投球はほとんど完璧だった。サンティアゴ・デ・クーバでは国内リーグを6度制し、キューバ代表チームでは可能なかぎりのタイトルを獲得した(世界選手権、五輪、パンアメリカン、セントロアメリカン)。
私の記憶でいまだ鮮明なのは、1999年のインドゥストリアレスとのプレーオフ6試合目だ。ラティーノ球場には、試合場を盛り上げるロス・バンバンやパウリートFGなどのためのステージが組まれていた。プレーオフはインドゥストリアレスが3勝2敗とリードしていたが、そこに立ちはだかったベラは、忘れがたい登板を開始した。彼は完全な投球をし、忘れがたいスコアボードの0を終わらせるには9イニングではほとんど足りなかった。1対0というスコアはシリーズの運命の流れを変え、サンティアゴは現実の理想郷となった。
そのときから多くの歳月が流れたが、ほかにも記憶に残る輝きの瞬間があった。カムデン・ヤーズでのボルチモア・オリオールズとの試合でのリリーフ、ハバナを相手のノーヒットノーラン、2003年サント・ドミンゴでのパンアメリカン大会決勝戦、2004年アテネ五輪決勝での勝利、2009年WBCでのサヨナラ登板の気配があった偉大なパフォーマンス。
時は、ゆっくりではあるが移り行き、永遠に道を踏み外したかのように思えた。自動車事故で生死をさまよったのだ。運命と宿命、ある方法または別の方法、それらが勇敢な人たちに手を差し伸べ、取り返しのつかない損失を取り除いた。彼の腰周りはその不幸な傷跡をとどめているけれど、彼の野球に対する情熱は、今季、彼をサンティアゴ・デ・クーバのコーチとしてチームに復帰させた。
- 今季のサンティアゴのコーチ就任はどのように実現したのですか。
Reutilio Hurtadoが新しい監督として指名されたときに、可能性を打診されて、私は喜んで受け入れた。以前私は県立アカデミーで投手コーチを勤めたことがあった。
- サンティアゴの投手陣についてどんな見通しを持っていますか。また彼らを成長させるための戦略はなんですか。
われわれの投手陣はとても若い。経験をつむ必要がある。コントロールを得ることに重点を置いている。それは投手が成功するために必要なもっとも重要な武器である。われわれにはUlfrido Garcíaという左腕の例がある。彼は我がチームのもっとも有望な選手だが、コントロールに欠けている。適切な仕事と、ブルペンでの練習によって、その欠点が乗り越えられるよう期待している。
- 残念なことに、ここ5年間で、サンティアゴの野球は顕著な低落を経験しています。何に原因があると思いますか。
基本的に不十分な仕事や競技者の流出、選手たちへの配慮などから発生するさまざまな要因がある。野球というものは多くの細事を必要とするが、いまの若者たちの気質は、私がリーグ参加し始めたころとは同じではない。物質的刺激が重要だ。一方、県シリーズはわずかな資源でおこなっている(バット、球、ユニフォームなど)。これでは野球選手を育てるには不足している。
- ラティーノのスコアボードを見て、インドゥストリアレスとサンティアゴが対戦することに気づくんです。なぜなら観客席に客がほとんどいないからです。まるで悲しみを掘り起こす忘れ去られた古典ドラマのようです。この両雄の対決にあなたは何を思い起こしますか。
これはすべてにまして重要なことだ。あの時代は、ひとつのイニングを続けるごとに、国全体が反応していた。インドゥストリアレスとは決勝で3回対戦しているが、どれも忘れがたい。1999年はわれわれがなしとげた偉業で勝ち取った。2006年は我々が敗れ、その翌年は我々が取り返した。キューバ野球のもっとも偉大なライバル関係だった。ファンのいない観客席を見るのはつらい。
- 1999年のシリーズ決勝についてなのですが、シリーズ成績タイに持ち込む、あの6試合目の歴史的なシャットアウトには、何を思い起こしますか。
あの試合は、私がセリエ・ナシオナルで投げたうちの、もっとも重要な試合だ。私の野球人生でもっとも偉大な瞬間だった。同時に私に叫んでいる人たちがたくさんいて、私はさらに力強くなり、さらに良く投げることができた。Scullを抑えて、最後のアウトを取ったときの感情は言葉では表現できない。翌日の試合も、Ormari Romeroの好投で勝利し、わたしたちは唯一の喜びを体験した。あれは私にとって国内リーグ最初のタイトルであり、キューバ代表チームへの扉を開いてくれた。インドゥストリアレスを彼らの本拠地で破ったことも大きな意味があった。サンティアゴで私たちは英雄として迎えられた。
- 私の考えでは、あなたは、セリエ・ナシオナルの歴史におけるもっとも偉大な5人の投手のうちのひとりです。あなたの成功の鍵はなんでしたか。
コントロールだ。それなしでは、何者にもなりえない。私は計算して、自分が投げたいところに投げることを習得した。適切な場所に投げることは、投手のもっとも重要な武器だ。最初のうちは三振を多く取っていたが、あとからは、アウトを引き出すことにより集中した。
- 偉大な投手たちはみな、打者に対する死刑執行人の要素を持っています。あなたをもっとも苦しめた打者は誰ですか。
左打ちの選手たちはよく私をミートしてきた。Malletaも私をよく打ったが、もっとも難しかったのはAntonio Scullだった。私を打ちまくり、こちらが制する形をつくれなかった。ギジェルモン球場やラティーノ球場では本塁打を打たれた。彼が私にとって最大のライバル打者だ。
- 野球を始めたころ、誰を手本にしていましたか。
Braudilio Vinentのようになりたかった。地元の偉大な選手だ。私のアイドルだった。マウンドでの我慢強さと、人柄の良さにあこがれていた。私のキャリア途中で、彼をコーチとして持てたことは幸運だった。私をとても助けてくれた。
- 大リーグでプレーすることを考えたことはありましたか。
一度も考えたことはなかった。私の夢はサンティアゴとキューバ代表チームだった。第二回のWBCで投げて、そのレベルの選手たちと対戦する機会はあったし、同じく、ボルチモア・オリオールズとの試合でリリーフしたこともあったけれど。
- ボルチモアでの試合は感動的でした。思いがけない雨のあと、あなたはJosé Ariel Contrerasをリリーフしました。あの場面はどのように引き受けたのですか。
あのときは一人目のリリーフで行くといわれていた。用意はできていたし、ブルペンで落ち着いていた。Contrerasは立ち上がりが悪かった。私が交代して、低目、コンビネーションを維持するよう努め、それがオリオールズを封じる私の武器だった。
Norge Luis Vera: “Mis sueños eran Santiago y el equipo nacional”
http://www.cubadebate.cu/noticias/2016/09/06/norge-luis-vera-mi-sueno-eran-santiago-y-el-equipo-nacional/#.V9LZbFuLTIU
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