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2016年09月16日

アリエル・ペスターノの遺産

Ariel Pestano.jpg

Granma、2016年9月15日付、Ángel Freddy Pérez Cabrera記者

アリエル・ペスターノの遺産

ビジャ・クララおよびキューバ代表の捕手が今週土曜日、生地カイバリエンで、そして22日にはSandino球場で、ダイヤモンドに別れを告げる。

私を含む多くの人にとってキューバ野球のもっとも完璧な捕手だった彼が、今週土曜日、生地カイバリエンで、そして22日にはSandino球場で、ダイヤモンドに別れを告げる。

2004年のアトランタ五輪を制し、その年の団体競技における最優秀選手に選ばれた偉大な男が、背番号13とともに去る。彼はキャッチャーというそのポジションで、盗塁阻止率56%というキューバ野球でもっともすぐれた記録を持っている一人である。

タイムリーな打撃を放つ、冷静沈着な野球選手が去っていく。それがAriel Pestanoだった。論争を巻き起こし、知的で、悪事にはきびしく立ち向かい、亡命をそそのかす大金の申し入れを躊躇なく拒絶し、大リーグの伝説の選手であるドミニカ共和国のDavid ≪Papi≫ Ortizに野球のショート・ストップと形容された男。

本紙は彼の自宅を訪問した。彼のファンに、そしてアンチにも、彼の個人的なそして選手としての人生の細部を語ってもらうためだ。社交辞令はなかった。改めて頼む必要もなかった。彼は草刈機で家の庭をきれいにしていた。それを置き、そして笑顔でわれわれにこういった。「投げてきて。僕が受けるから。」

- 野球を始めたころのことを聞かせてください。

生まれ故郷のCaibariénの道端で素手で野球をやり始めた。ある素敵な日にひとりの友人が私に、特別地域(área especial)に登録するよう勧めた。私はそうした。

そこで私はコーチのNoel Guerraに出会い、とても世話になった。私は少しずつ第一段階を歩み始め、県チームに加わり、少年野球の世界大会出場メンバーの一員になった。戻ってきて私はEIDE(Escuela de Iniciación Deportiva Escolar=体育教育学校)に加入した。そこで私はキューバの青年チームの資格をとり、ビジャ・クララに戻った。

そのあとのことはみんな知っている通りだ。

- 最初から捕手だったんですか。

そうだ。好きなポジションだった。私はとても活動的で、守っているところに球がくるのを待つことができなかったので、捕手でなければならなかった。

- あなたはすべての世代でキューバ代表の一員になるという功績をもっていますが、それは生まれ持っての才能でしょうか、それとも努力の結果でしょうか。

両方だ。私には能力があった。強く打つ力と、いい肩を持っていた。ホームプレートの後ろでよく動けた。しかしそれらの要素は、キャリアを経るごとに、完全なものになっていった。

- 自分のことを完璧な捕手だと考えましたか。

完全な者などどこにもいない。完全というのは存在しない。より良いことをなすための細部がつねにあるだけだ。

- 現在、そのポジションをどう見ていますか。

われわれのキャッチングや野球一般における最大の問題は、多くの経験を持った選手たちの引退により、とても早く教育が捨てられたことだ。彼らは模範だった。学ぶために必要な存在だった。私はPacheco, Kindelán, Linaresたちから学び、彼らは彼らで、Muñoz, Cheíto, Casanovaたちから学んでいる。このように、世代から世代に、ひとからひとへ吸収されてきた。いまはこれがほとんど存在しない。

- 後輩の捕手たちに助言をするとしたら何がありますか。

私がどのようにしてきたかを伝えるよりも、私が彼らに助言できることは、いかにそれをなすべきか注意を払うということだ。アカデミーは必要だが、それよりまして大事なのは経験と、日々続けることだ。

- あなたが試合では喧嘩っ早いというのは本当ですか。

いや、喧嘩っ早いのではなく、とても厳しいんだ。悪事を好きになったことがない。規律を守らないことで試合を捨てたり、やるべきことをなす意欲を持たない選手がいたら、ホームプレート上で3時間もしゃがんでいるのはきつい。その日自宅に行かずにグラウンドに足を踏み入れるのは、観客と一緒にうまくやるためだ。また、押したり、肩に手を置いたり、ののしったり、身振りで、反応を煽る選手たちもいる。それらは私をそのようにさせる。

- あなたはとてもタイムリーな打者でした。打撃が難しい状況で回ってくるのが好きでしたか。

私はそれをとても楽しんでいた。そういう瞬間のために準備していた。というのは、人生の運によって打順はめぐってくるし、何度も私は決断をすることになった。

- あなたはいい打撃をしたとき、いつものジェスチャーをし、天を見上げていましたね。あれは誰に捧げていたのですか。

母に。私の人生のいいときも悪いときもいつも一緒にいてくれた。

- あなたにとって一番手ごわかった投手は誰ですか。

私はそんなに偉大な打者ではないから、どの投手も難しかった。深く考え、周到に準備し、観察しなければならなかった。捕手であったことはこれらに役立ったかもしれない。

- 捕手として一番受けやすかった投手は誰ですか。

Norge Luis Vera, José Ariel Contreras, Maels Rodríguez, Adiel Palma, Lazo ,José Ibarといった難しい投手たちが多くいた時期に私は立ち会った。彼らの多くは90マイル以上を投げ、楽ではなかったが、全員について完璧に理解した。

- ベンチから捕手にサインを送るスタイルについてどう思いますか。

嫌いだった。それを認めれば、何も考えないロボットになってしまう。本来試合を分析する場所にいながら、すべての時間、ベンチからの指示を待つことになる。

- もっとも気の合った監督は誰でしたか。

私はすべての監督ととてもうまくいっていた。Pedrito Pérezをはじめ Anglada や Urquiolaなど。私のことを気難しいと形容したがった人たちもいるが、リーグ22年、代表チーム16年という結果がそれを否定している。

- キャリアのなかのトーナメントをひとつあげるとしたら。

2004年のアテネ五輪。

- 忘れてしまいたいことは。

私が出場しなかった第三回WBC大会。

- 不当だったと考えますか。

もちろん。私だけではなく、野球を知っている国内外のすべてのファンたちもそう考えている。

- 自己のもっともすぐれたスポーツキャリアを選ばなければならないとしたら、どれを選びますか。

第一回WBC大会はキューバ野球のオールタイムベストワンの結果で、私はそこにいた。また、マタンサスに対するビジャ・クララの勝利は、非常に大きなものだった。私たちは18年間優勝しておらず、人々は切望していた。私が試合を決めるという可能性も与えられた。あのときの本塁打はさまざまなことを見せてくれた。私はまだ体調がよかった。

- いまは何をしていますか。

アカデミーで、有望な若者たちをトレーニングしている。その中には息子のArielitoもいる。

- 自分のことを人々にどのように記憶してほしいですか。

私がしたことではなく、ひとりの人間として、長所も短所も含め、グラウンドで全力をつくした競技者で、祖国を決して裏切らなかった。大金を獲得し得たときでも私はここに残った。それが私の遺産だ。


2013年第52期国内リーグ、シエゴ・デ・アビラ18年ぶりの優勝を決めた満塁本塁打


2004年アテネ五輪準決勝での勝ち越し2点タイムリー安打

El legado de Ariel Pestano
http://www.granma.cu/deportes/2016-09-15/el-legado-de-ariel-pestano-15-09-2016-20-09-44



posted by vivacuba at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | beisbol
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