2016年05月29日
釜田は自分を見つめ直さないともうだめです。
ひさびさのコボスタ現地観戦。釜田対大谷の投手戦を期待したのだが。初回の中田のツーランまでは許せるとしても、続く2回にもレアードのソロ、中島のスクイズ、そしてまたしても中田に今度はスリーランで撃沈。
日ハムファンは、中田、レアードの2本のホームランを観ることができ、最高だったことだろう。一方の楽天応援団はチャンテを歌うこともできず、もやもやが貯まっただけ。
この試合、もっともビックリしたのは大谷が6番ピッチャーで出たこと。勝利投手に3安打猛打賞の大活躍。本当に素晴らしい選手、文句なしの二刀流です。
一方の楽天・釜田は先週に続いて、日ハムに打ち込まれた。ちょっとひどすぎる。
1塁側内野スタンドで観戦したこともあり、日ハムファンもちらほら。特に大谷のユニフォームが多かった。もう序盤で楽天の負けを確信していたが、6回裏の楽天の攻撃が終わったところで耐えられなくなり帰ってきた。しばらくコボスタから遠ざかることになりそうだ。
【関連記事】
釜田炎上!楽天は、投打ともに振るわず6連敗。2016年05月22日
「楽天8−4西武」岩隈の背番号を引き継いだエースがようやく帰ってきた!やっぱりエースが投げると打線も守備も違いました。2015年08月29日
釜田、1―0の初完封!は、高卒ルーキーでは99年の西武・松坂以来だそうです。2012年08月16日
岩隈の21番を引き継いだ釜田はすばらしい、そしてなんとなく品が感じられる2012年06月03日
釜田 佳直(かまた よしなお)とは ≪出典≫ウィキペディア
出身地 石川県小松市
生年月日 1993年10月26日(22歳)
身長 177 cm
体重 78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2011年 ドラフト2位
初出場 2012年5月20日
年俸 1,280万円(2016年)
(経歴)
プロ入り前
小松市立御幸中学校時代は軟式野球部に所属していた。中学1年までは捕手だったが、斎藤佑樹と田中将大の投げ合いとなった第88回全国高等学校野球選手権大会決勝の延長15回引き分けをテレビ観戦し魅せられ、翌日の再試合は現地観戦。その後監督に直訴し投手に転向した。
金沢高校では1年時の春から公式戦に登板し、秋にはエースとなる。2年時の秋には明治神宮野球大会に出場。
3年の春のセンバツでは優勝候補に挙げられるも、1回戦の加古川北高校に0-4で敗れる。夏の甲子園では、1回戦の伊勢工業高校戦に4-0で勝利し、2回戦の聖光学院戦では歳内宏明との投げ合いの末4-2で勝利した。しかし、続く3回戦の習志野高校に1-2で敗れた。甲子園通算成績は34回、防御率1.32、40奪三振。
その後、第9回AAAアジア野球選手権大会の日本代表に選出され、2回を無失点に抑えて金メダル獲得に貢献した。
2011年のドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスから2位指名を受け、11月9日に契約金5000万円、年俸600万円で仮契約した[3]。背番号は「21」。
プロ入り後
2012年
開幕は二軍スタート。当初は救援要員だったが、4月29日の北海道日本ハムファイターズ戦に初先発すると、4回まで被安打1、無失点。5月5日の東京ヤクルトスワローズ戦で二度目の先発は6回までノーヒットに抑えて無失点と徐々に頭角を現す。5月12日の横浜DeNAベイスターズ戦では5回まで8安打2失点だったが、7試合に登板し0勝0敗ながら防御率0.86の投球内容が評価されて一軍昇格、5月20日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)にて田中将大以来の球団史上2人目の高卒新人プロ初登板初先発を果たす。3回3失点で降板した(自責点1、勝敗つかず)が自己最速タイの153km/hをマークし、話題となった。
2試合目の登板となった同27日のヤクルト戦(明治神宮野球場)で6回0/3回を1失点でプロ初勝利を挙げた。高卒1年目での勝利は球団では2007年の田中将大以来で、登板2試合目での勝利は田中の4試合目を抜いて球団最速記録となった。6月17日の読売ジャイアンツ戦(クリネックススタジアム宮城)では交流戦無敗だった杉内俊哉と投げ合い、9回1失点で初完投勝利を挙げた。高卒新人投手の巨人戦初登板完投勝利は1987年の近藤真一(中日)以来25年ぶり、史上2人目の記録である。8月16日の日本ハム戦(Kスタ宮城)では1-0で初完封勝利を挙げた。高卒新人の1-0での完封は1999年の松坂大輔(西武)以来13年ぶりだった。一度二軍落ちするも、シーズンを通して主力として、20試合で7勝4敗の成績を残した。
2013年
前年の活躍などから、先発陣の一員として自身初の開幕一軍を果たすとともに、開幕から先発で3試合に登板。しかし、0勝2敗、防御率12.54と成績が振るわなかったことから、4月17日に出場選手登録を抹消された。さらに、抹消後の5月後半には、二軍戦での登板中に右肘を疲労骨折。その影響で、8月上旬まではリハビリを優先していた。9月11日に、救援要員として一軍へ復帰。翌12日の千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)で5回裏二死三塁から2番手で登板すると、打者2人への投球でこの回を無失点に抑え、シーズン初勝利を挙げた。9月26日のリーグ優勝時は未成年であったためビールかけに参加出来なかったが、10月26日に20歳になったため、11月3日の日本一のときはビールかけに参加した。11月25日に右肘にボルトを埋め込む手術と骨棘を除去する手術を受けた。
2014年
3月6日に群馬県館林市内の病院で右肘のトミー・ジョン手術を受けたことが発表される。リハビリの期間を経て、11月に本格投球を再開した。
2015年
3月6日の春季教育リーグ日本ハム戦で、実戦登板としては約500日ぶりの登板を果たした。前述のトミー・ジョン手術からちょうど1年後の登板であり、最速147km/hをマークした。8月29日には685日ぶりに一軍マウンドに上がり先発すると、5回4失点、打線の援護もあり、716日ぶりの勝ち星(先発勝利は1074日ぶり)を手にした。
(選手としての特徴)
スリークォーターから平均球速約143km/h、最速153km/hのストレートを誇る剛腕投手。縦横のスライダー、カットボール、フォークボールを軸に、稀にカーブやチェンジアップで緩急を使った投球をする。もともとはカットボールやスライダーなど、速球との球速差がない速い変化球が持ち味であったが、センバツで対戦した加古川北高校のエース・井上真伊人が130km/h前後のストレートとスローカーブなど緩急を使っていたことを参考にし、緩急を使った投球ができるようになった。
(人物)
目標とする投手は、背番号21の前の持ち主である岩隈久志と、楽天入団時のエースであった田中将大で、新入団選手発表会見では「日本球界を代表する投手になりたい」と目標を語っている。
同じ石川県内にある星稜高校の西川健太郎(現:中日ドラゴンズ)とはお互いをライバルと認める仲である。
日ハムファンは、中田、レアードの2本のホームランを観ることができ、最高だったことだろう。一方の楽天応援団はチャンテを歌うこともできず、もやもやが貯まっただけ。
この試合、もっともビックリしたのは大谷が6番ピッチャーで出たこと。勝利投手に3安打猛打賞の大活躍。本当に素晴らしい選手、文句なしの二刀流です。
一方の楽天・釜田は先週に続いて、日ハムに打ち込まれた。ちょっとひどすぎる。
1塁側内野スタンドで観戦したこともあり、日ハムファンもちらほら。特に大谷のユニフォームが多かった。もう序盤で楽天の負けを確信していたが、6回裏の楽天の攻撃が終わったところで耐えられなくなり帰ってきた。しばらくコボスタから遠ざかることになりそうだ。
【関連記事】
釜田炎上!楽天は、投打ともに振るわず6連敗。2016年05月22日
「楽天8−4西武」岩隈の背番号を引き継いだエースがようやく帰ってきた!やっぱりエースが投げると打線も守備も違いました。2015年08月29日
釜田、1―0の初完封!は、高卒ルーキーでは99年の西武・松坂以来だそうです。2012年08月16日
岩隈の21番を引き継いだ釜田はすばらしい、そしてなんとなく品が感じられる2012年06月03日
釜田 佳直(かまた よしなお)とは ≪出典≫ウィキペディア
出身地 石川県小松市
生年月日 1993年10月26日(22歳)
身長 177 cm
体重 78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2011年 ドラフト2位
初出場 2012年5月20日
年俸 1,280万円(2016年)
(経歴)
プロ入り前
小松市立御幸中学校時代は軟式野球部に所属していた。中学1年までは捕手だったが、斎藤佑樹と田中将大の投げ合いとなった第88回全国高等学校野球選手権大会決勝の延長15回引き分けをテレビ観戦し魅せられ、翌日の再試合は現地観戦。その後監督に直訴し投手に転向した。
金沢高校では1年時の春から公式戦に登板し、秋にはエースとなる。2年時の秋には明治神宮野球大会に出場。
3年の春のセンバツでは優勝候補に挙げられるも、1回戦の加古川北高校に0-4で敗れる。夏の甲子園では、1回戦の伊勢工業高校戦に4-0で勝利し、2回戦の聖光学院戦では歳内宏明との投げ合いの末4-2で勝利した。しかし、続く3回戦の習志野高校に1-2で敗れた。甲子園通算成績は34回、防御率1.32、40奪三振。
その後、第9回AAAアジア野球選手権大会の日本代表に選出され、2回を無失点に抑えて金メダル獲得に貢献した。
2011年のドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスから2位指名を受け、11月9日に契約金5000万円、年俸600万円で仮契約した[3]。背番号は「21」。
プロ入り後
2012年
開幕は二軍スタート。当初は救援要員だったが、4月29日の北海道日本ハムファイターズ戦に初先発すると、4回まで被安打1、無失点。5月5日の東京ヤクルトスワローズ戦で二度目の先発は6回までノーヒットに抑えて無失点と徐々に頭角を現す。5月12日の横浜DeNAベイスターズ戦では5回まで8安打2失点だったが、7試合に登板し0勝0敗ながら防御率0.86の投球内容が評価されて一軍昇格、5月20日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)にて田中将大以来の球団史上2人目の高卒新人プロ初登板初先発を果たす。3回3失点で降板した(自責点1、勝敗つかず)が自己最速タイの153km/hをマークし、話題となった。
2試合目の登板となった同27日のヤクルト戦(明治神宮野球場)で6回0/3回を1失点でプロ初勝利を挙げた。高卒1年目での勝利は球団では2007年の田中将大以来で、登板2試合目での勝利は田中の4試合目を抜いて球団最速記録となった。6月17日の読売ジャイアンツ戦(クリネックススタジアム宮城)では交流戦無敗だった杉内俊哉と投げ合い、9回1失点で初完投勝利を挙げた。高卒新人投手の巨人戦初登板完投勝利は1987年の近藤真一(中日)以来25年ぶり、史上2人目の記録である。8月16日の日本ハム戦(Kスタ宮城)では1-0で初完封勝利を挙げた。高卒新人の1-0での完封は1999年の松坂大輔(西武)以来13年ぶりだった。一度二軍落ちするも、シーズンを通して主力として、20試合で7勝4敗の成績を残した。
2013年
前年の活躍などから、先発陣の一員として自身初の開幕一軍を果たすとともに、開幕から先発で3試合に登板。しかし、0勝2敗、防御率12.54と成績が振るわなかったことから、4月17日に出場選手登録を抹消された。さらに、抹消後の5月後半には、二軍戦での登板中に右肘を疲労骨折。その影響で、8月上旬まではリハビリを優先していた。9月11日に、救援要員として一軍へ復帰。翌12日の千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)で5回裏二死三塁から2番手で登板すると、打者2人への投球でこの回を無失点に抑え、シーズン初勝利を挙げた。9月26日のリーグ優勝時は未成年であったためビールかけに参加出来なかったが、10月26日に20歳になったため、11月3日の日本一のときはビールかけに参加した。11月25日に右肘にボルトを埋め込む手術と骨棘を除去する手術を受けた。
2014年
3月6日に群馬県館林市内の病院で右肘のトミー・ジョン手術を受けたことが発表される。リハビリの期間を経て、11月に本格投球を再開した。
2015年
3月6日の春季教育リーグ日本ハム戦で、実戦登板としては約500日ぶりの登板を果たした。前述のトミー・ジョン手術からちょうど1年後の登板であり、最速147km/hをマークした。8月29日には685日ぶりに一軍マウンドに上がり先発すると、5回4失点、打線の援護もあり、716日ぶりの勝ち星(先発勝利は1074日ぶり)を手にした。
(選手としての特徴)
スリークォーターから平均球速約143km/h、最速153km/hのストレートを誇る剛腕投手。縦横のスライダー、カットボール、フォークボールを軸に、稀にカーブやチェンジアップで緩急を使った投球をする。もともとはカットボールやスライダーなど、速球との球速差がない速い変化球が持ち味であったが、センバツで対戦した加古川北高校のエース・井上真伊人が130km/h前後のストレートとスローカーブなど緩急を使っていたことを参考にし、緩急を使った投球ができるようになった。
(人物)
目標とする投手は、背番号21の前の持ち主である岩隈久志と、楽天入団時のエースであった田中将大で、新入団選手発表会見では「日本球界を代表する投手になりたい」と目標を語っている。
同じ石川県内にある星稜高校の西川健太郎(現:中日ドラゴンズ)とはお互いをライバルと認める仲である。
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