2017年10月17日
水戸黄門が旅に出たというのは真っ赤な嘘だった
やりすぎコージー都市伝説、よゐこ濱口が語った都市伝説「水戸黄門が旅をした本当の理由」
水戸黄門と言えば、未だに人気のある歴史的人物である。
未だに続いている水戸黄門のテレビ番組が何よりの証拠だろう。
しかし、この水戸黄門様には、実は一風変わった都市伝説が存在するのだ。
水戸黄門様と言えば、その家来である、助さん角さんを連れ諸国漫遊、要は、全国行脚をしたというのが通説だ。
しかしこの話、実は全くのデマなのだ。
水戸黄門様というのは通り名であり、実際の名を、徳川光圀と言うが、彼が、江戸を出て、旅をした、という記録などは一切ないのだ。
記録がないからといって、嘘と決めつけるのは、、、と思うかもしれないが、証拠がなければ、その事実もないもとして取り扱うのが、歴史の基本的なスタンスである。
では、なぜこんな話が語り継がれるようになったのか。
それには、ある理由があるのだ。
それが、二人の武将の女性問題。
いつの時代も男は女性に翻弄される寂しい生き物なのだ(笑)
その武将というのが、佐竹義宣(さたけよしのぶ)という武将と、天下を治めた、徳川家康の二人。
当時、佐竹義宣は、超がつくほどの女好きで知られていた。
その噂は凄まじく、当時治めていた、水戸の地に関東中から美女を集め、更にその中から、自分好みの美女を選び、側室にするというトレンディぶり。
そんなこともあり、水戸は当時、男の花園であった。
それに対して、ある意味、羨望の眼差しで見ていたのが、徳川家康だ。
彼もまた、超がつくほどの女好きで知られていた。
そんな彼は、どうしても、水戸の地を手に入れたかった。
そして、時を同じくして起こったのが、天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦だ。
その結果は、家康の勝利。
その時、問題になったのが、佐竹の立ち位置だ。
彼は、西軍に付くわけでもなく、東軍に付くわけでもなく、どっちつかずの微妙な立ち位置であった。
それに目をつ付け、家康は、佐竹を東北の地に、ある種の島流しにしてしまう。
こうして、家康の念願であった、花園、水戸を手に入れたのだ。
しかし、水戸について家康は驚愕した。
水戸に美人が一人もいなかったのだ。
なんと、佐竹が全ての美女を連れて行ってしまっていたのだ。
それに激怒した家康は、佐竹に対し、水戸に若い女性を働き手としてよこすように命じたのだ。
そこはプライドがあったのだろう、美女を返せ!とは言わなかった家康は、佐竹よりは多少大人なのかもしれない。
しかし、東北に島流しにあった佐竹にも多少のいらだちがあったのだろう、ブサイクな女性ばかりを送ったのだ(笑)
そこで、家康は水戸に美女を集めるのを断念。
これは余談だが、佐竹が島流しにあった地というのが、今の秋田県である。
秋田美人という言葉があるのは、佐竹のおかげなのかもしれない。
そして、後に、水戸の地を治めたのが、徳川光圀。
しかし、光圀は嘆くわけである。
水戸の地には全然美人がいないではないか、と(笑)
そこで、美女探しの旅に行きたいと周りに愚痴をこぼしていた光圀だったが、それを聞いた周りの人間は、さすがに、一介の当主が、美女を探しに旅に出たいというのは、あまりにも節操がない、ということで、情報を改変し、世直しの旅に出る、という美談にした。
これが、水戸黄門様が、世直しの旅、諸国漫遊の旅に出た、と言われるようになった所以なのだとか。
ちなみに、過去に天下を治めた人間というのは、女好きが非常に多い。
例えば、日本の初代内閣総理大臣である、伊藤博文。
彼も、相当な女好きで、その女好きが行き過ぎた結果、ある出来事を起こしたと言われているのだ。
その出来事は、後の総理大臣の在り方にも影響を与えたほど。
タグ:水戸黄門
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