アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2021年01月28日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-9 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.4
三渓園。いわずと知れた横浜を代表する観光地…いや、三年前に国の名勝に指定されたので、日本を代表する日本庭園である。

yokohama-4-1.jpg

青葉区市ヶ尾にある佐藤畳店の二代目若大将が、三渓園に畳を納めているという話が飛び込んできたのは、地名推理で原三渓の話を書いている、まさにその時。

記事を書いていると…こういった(偶然)によく出くわす。

「世の中に偶然などというモノはない、すべては必然なのだ」と誰かが言っていたが、だとすると、こうした出会いは全て目に見えない力によって引きあわされたということになる。

「行き当たりばったり、計画性もなく書いているからそう思えるんだよ」
と周りの人間は笑うが、プロットを考えないからこそ起こり得るミラクル、神のみわざなのだと確信している。

今回、原三渓の生まれ故郷の公民館(柳津地域振興事務所)に思いつきで寄った日が、『原三渓展』の最終日だったというのもその一つ。

おかげで、図書室に行って資料を探す手間も省け、系図や生家の写真という貴重な資料も手に入った。

さらに驚いたのは、この年(平成二十一年)が三渓の生誕百四十年で、没後七十年の記念の年なのだ。

これを神のみわざと言わずしてなんと言おう。

そうだ。いっそ本名をとって「神の宮澤」とでもしておこうか。(笑)

ちなみに、佐藤畳店の若大将は、京都の老舗畳店で修行した腕利きの職人。その匠の技が評価されたのであろう。

bvB_DM4O_400x400.jpg




織物の産地
ちょうど展示物に目を通し終わったタイミングで、係の人が生家跡までの地図をコピーして持ってきてくださった。その地図を手に公民会を出て、生家跡に向かう。

公民館の前の道を西に行く。800mほど歩くと境川に出た。戦国時代まで美濃と尾張の境を流れていた旧木曽川だ。大洪水で流路が変わり、今では長良川に注ぐ支流となっている。

三渓(青木富太郎)の生地である佐波村(さばむら、現在の羽島郡柳津町)は、美濃の国の中心、加納藩・永井家三万二千石の領地であった。岐阜駅の南800mほどの所に、加納城の遺構(石垣、土塁、堀跡)が残っている。

岐阜といえば、織田信長の居城であった金華山の山頂にそびえる岐阜城が有名だが、加納城は関ヶ原の合戦後に破却された岐阜城の建材を使って建てられた。徳川による天下普請によって1602年に築かれた平城で、奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と城主をかえながら明治を迎えている。

加納城.jpg



境川は、その加納城のすぐわきを流れて佐波村まで下る。

境川に架かる橋の手前に、『カラフルタウン岐阜』というショッピングモールがある。最近は、どこに行ってもこの手の巨大ショッピングモールを見かける。が、ここは少し他とは事情が異なっていた。

運営は『トレッサ横浜』という、あのトヨタグループの会社。じつは、すぐ隣にある『トヨタ紡織(ぼうしょく)』という会社の工場跡地に建設されたのだそうだ。

yokohama-4-2.jpg



『トヨタ紡織』は自動車内装品などを作る会社だが、ルーツは言うまでもなく、世界のトヨタの礎を築いた豊田佐吉の『豊田式織機』である。

紡織の文字を見て、お隣愛知県の一宮市を思い出した。一宮には親戚がいて、実家から車で1時間もかからないので、毎年のように遊びに行っていた。

その親戚も紡績工場を営んでいた。ノコギリのような三角屋根の工場。羊毛、綿などの天然繊維の糸の独特な匂いは今も鼻の奥に残っている。木製の糸巻きは子どもの格好のおもちゃであった。

紡績工場.jpg




地図で確認すると、ここ柳津と織物と七夕まつりで有名な愛知県の一宮市とは、木曽川を挟んで数キロしか離れていない。

思ったとおり、柳津も一宮と同様に古くからの綿織物の産地、さらに養蚕や製糸も盛んであった。

また、岐阜は信州や上州の生糸を京都に運ぶ中継地でもある。このあたり、秩父絹を江戸の呉服問屋へ送る中継地であった義理の祖父、原善三郎の生誕地と似ている。

三渓が、のちに富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸業を営むことになったのも、こうした幼少期の原風景と見えないい「糸」で繋がっていたのではなかろうか。


サバと境川
橋を渡ると、気持ちのいい川風が吹いてきた。広々とした空と河川敷がなんとも言えず清々しい。橋の上を県道が走り、車の騒音が喧しい現代でさえそう感じるのだから、明治時代はどんなに静かで平穏な土地であったことか。

三渓の生家である青木邸址は、川を渡った、すぐ左手の住宅街にあった。現在は天理教会の建物になっている。

yokohama-4-3.jpg



まわりを見渡すと、ビルの上に(アオキ)の看板。(洋服屋ではない)地図には、青木染工場、株式会社青木、青木進学塾、と青木の文字が散見する。さすが、佐波村きっての名家である。

富太郎(三渓)は、筆頭庄屋(戸長)青木家の長男として生まれた。17歳で上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。学生をしながら、跡見女学校の歴史の先生をしているときに、原善三郎の孫娘・屋寿子と恋仲になる。 

yokohama-4-7.jpg



そして、善三郎に気に入られて養子縁組を結び原家に入るのだが、普通、長男が他家に養子に行くことなど考えられない。よく青木家の親が許したと思う。 

二十代の頃に出雲地方を旅していて、「あんた、養子にならないか?」と誘われたことがある。

「今なら車も家も付いてくるよ」と、通販番組のようなセリフに心がグラッときたが、そのことを親に話したら「長男が、なにバカなこと言ってるの!」と、えらく怒られた。

偉いのは、富太郎の父親だ。息子の可能性を信じていたからこそ、涙を飲んで決断したのだろう。

yokohama-4-8.jpg



帰り道、橋の上からもう一度、境川の流れと佐波の住宅街を振り返った。

「境川と佐波という組み合わせ…、どっかで聞いたことがあるぞ。何だっけ?…あ、『七さば巡り』だ」

東京町田から相模原、横浜、大和、藤沢の市境を経て相模湾に注ぐ境川。その中流域に左馬、佐婆、佐波、鯖とサバの名がついた神社が十二社ある。

「七さば巡り」とは、一日のうちに七社のサバ神社を回れば、麻疹(はしか)や百日咳などの疫病を祓うことができるという古来からの風習である。祭神の源義朝の官職が左馬頭(さまのかみ)だったから…などの説があるが、サバの由来は定かではない。

サバと境川には何か因果関係があるのだろうか? 

※この疑問は後日【皐月の鯖の福さがし 相模七さば参りミステリー紀行】という特集記事で検証することになる。

本牧三之谷
境川の川面を見ていたら、公民館の展示資料に書かれていたことを思い出した。

境川は暴れ川で、佐波の人々は洪水に何度も泣かされた。そのつど、立ち上がる農民たちを支えたのは大地である。

土地はどんな時代も価値を失わない。その教訓を三渓は生まれ故郷で学んだ。そして、祖父善三郎に儲けた金で土地を買うことを勧める。

こうして買い求められた土地が本牧三之谷である。

明治三十五年、富太郎は六万坪の広大な三之谷に移り住み、名を「三渓」と改めた。
 
絹の道をゆく-10 へ続く 

※2016年、生家からほど近い場所に「原三渓記念室」がオープンした。
地元・佐波村(現岐阜市柳津町)出身の実業家の足跡を伝える貴重な施設だ。岐阜で生まれ、横浜に移住した偉大なる大先輩が、こうして生まれ故郷で顕彰されていること感慨無量。自分のことのように嬉しい。


o0922069214425927620.jpg



この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次


真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-8 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.3

生糸が輸出産業の花形だったといっても、すべての生糸商人が大もうけしたわけではない。

生糸の商いというのは投機である。巨万の富を築いた商人が生まれる一方で、その何倍もの商人たちが没落していった。卓越した先見性と行動力、そして運の強いものが相場を制するのは現代も変わらない。もっとも、現代はパソコンの前に座っているだけなので、行動はキーを叩くだけだが…。

仲居屋重兵衛もそうだったが、原善三郎も行動の人だった。

群馬や埼玉の田舎から出てきて、生き馬の目を抜くような激しい競争に打ち勝つには、まず行動することであった。のちに、横浜を拠点とする有力財閥となり、本牧と野毛山の広大な敷地に山荘と別荘を持つに至る善三郎だが、その邸の床の間には古びて汚れた地下足袋が飾られていたという。

善三郎にとって商いとは、歩くことだった。山を越え、谷を越えて、生糸の原産地を訪ね歩き、買い付けた商品を横浜まで売りに行く。そうした地道な商売が成功へとつながった。



どてらい男
犬も歩けば棒に当たる。男歩けば勝ち目に当たる♪
そわそわするなよ、男は度胸♫


原善三郎のことを調べていたら、『どてらい男(やつ)』というテレビドラマを思い出した。 今から35年ほど前(1973年〜1977年)のドラマだ。

原作は花登筺(はなと・こばこ)、主人公は西郷輝彦演じる『猛やん』こと山下猛造。福井から大阪の機械工具問屋に丁稚奉公に入った主人公猛やんが、主人や番頭からいびられながらも商人(あきんど)として成長してゆき、最後には自分の店を持って大成功するというストーリーだ。

doteraiyatsu.jpg


1時間がこれほど短く感じたドラマは後にも先にも無い。当時中学生だった私は、原作を図書館で借りてきて読むほど熱中した。映像が残っていないということなので、DVD化は無理としても、何とかリメイクして欲しい。

どてらい男の主題歌にあるように、歩いていけば、勝ち目にも当たるが、落ち目にも当たる。善三郎も落ち目に当たった。

開港間もない横浜で、仲間から外油(石油)が儲かると聞いた善三郎、虎の子の三百両をはたいて、外国商人からありったけの石油を買い付けた。それを日本国内で売れば倍の儲けになる…はずだった。しかし、油を入れた空き樽が新しすぎて、油が流出。虎の子の三百両を失ってしまったのだ。

失望のあまり、一度は国に帰ろうかと思った善三郎。ここからが凄い。浅草で出会った占い師に、「同じ道を行けば、取り戻せる」と聞いて、とってかえし、取引先の染め絹問屋から金を借りると、今度は空き樽を丹念にチェック、ふたたび石油を買いつけて、三日としないうちに負けを取り戻している。

また、尊王攘夷の浪士に、寝込みを襲われ、金を強請(ゆす)られたりもしているが、機先を制し、相手を怒らせることなくあしらっている。

とにかく豪胆。失敗しても、それをすぐに成功に結びつける。占いを聞いて、すぐに行動するところは、単純といえば単純だが…、この過程で絹よりも生糸に将来性があることを嗅ぎ取り、次の商売に活かしていくあたりのエピソードがドラマと重なる。

まさに横浜の『どてらい男』である。


商人から政治家へ
それから十三年、彼と茂木惣兵衛の二人で横浜の生糸取扱量の三分の一を占めるほどの成功をおさめ、気がつけば「横浜は、善くも悪しくも、亀善の腹ひとつにて、事決まるなり」と狂歌にも詠まれるまでになっていた。

明治初期は、横暴な外国商人が多く、荷を持ち込んでも、検査が済むまでは手付金も払わない。検査に不合格なら返却されるし、品質に問題が無くても、自国の市場が景気悪くなったと言って突き返されるなど、買い手有利に物事が運ばれていた。

値引きなどは当たり前。当初は個別の取引で、市場価格も決まっていなかった。善三郎は、そうした事態に対処するため、横浜商工会議所や横浜蚕糸貿易商組合を設立し、日本の商権回復のために奔走したのである。

先の狂歌は、財閥に対する揶揄も含まれるであろうが、こうした公私を越えた働きに対する評価でもある。

明治五年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道が正式営業を開始した。

機関車.jpg


善三郎は、この祝賀式典で横浜庶民を代表して天皇陛下の前で祝辞を述べるという栄誉に与っている。この時、外国人代表として祝辞を述べたのが、誰あろう、あの生麦事件で重傷を負った、イギリス商人・ウィリアム ・マーシャルなのだ。

因みに、善三郎とマーシャルは、ともに1827年生まれの同い年である。

明治二十二年(1889)、横浜市制が施行、市議会議員に選出された善三郎は初代議長に就任する。そして三年後、市会から中央政界へと登りつめるのである。

三渓のふるさと
昨年暮れ、名古屋に帰省したときに、足を延ばして岐阜県美濃市にある母方の実家の墓参りをした。 翌日、急に思い立って、岐阜駅から名鉄電車に乗り、柳津(やないづ)に向かった。

柳津は、善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚して原家に入った原富太郎(旧姓・青木富太郎、のちの原三渓)の生まれ故郷である。 せっかく、岐阜まで足を延ばしたのだから、原三渓の故郷がどんな所か見てみたくなったのだ。

柳津駅は真新しいが無人駅だった。無人だから人に聞くわけもいかず、携帯電話のナビを頼りに公民館を訪ねた。思いつきで来たので、資料も何もない。公民館なら、何か実家の手がかりになる物があるだろう、と思って寄ったのだが…、果たして…正解であった。

yokohama-3-6.jpg


正解どころではない。

「ちょうど、『原三渓展』をやっていたんですよ」と係の方。

しかも、この日が最終日だという。

なんという奇跡! 運命! いや、これは天命に違いない。

yokohama-3-8.jpg

           
絹の道をゆく-9 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次

NR-あお葉のこと葉 ファイル-8

ばっちらげっこ
  ばっちらげっこ。一瞬、この地方独特のカエルの呼び名かと思った。

「昔は兄弟が多いから、ごはんどきはバッチラゲッコ。モタモタしてると食いっぱぐれんのよ」

少子化のためか、最近はあまり見かけないが、昔の家庭では日常の光景。そう、おかずの奪い合いのこと。「先を争って競争する」ことを多摩地方や神奈川県では(ばっちらげっこ)と言うのだそうだ。

調べてみると、山梨県では(ばっちらこう)。同じく、群馬県は(ばっちらこと)。長野県では、先を争うという意味で(ばっちらがる)。静岡県では電車の座席取りなど、独占するという時に(ばっち)(ばった)(ばっちらがう)を使う。

ニュアンスは微妙に違うが、(ばっちら)だけで「争う」「奪う」という意味になることは間違いない。ちなみに、茨城県は(ばいさらー)栃木県は(ばいさりあう)…と、少し穏やかな感じになる。

ばっちらげっこ.jpg


 後ろにくっつく(げっこ、こう、こと、がる、がう)は、複合動詞として使われる「〇〇合う」に該当する。

並べてみると(げっこ)だけが、はっちゃけた印象を受ける。以前紹介した(おっぺす)のように、促音を入れて強調するこの地方独特の言い回しなのだろう。穏やかな北関東との気質の違いが表れていて、じつに興味深い。

このコロナ禍でおかずも個別に取り分けるようになった。家庭内のばっちらげっこも消滅していくのだろう。それに引き替え、災害が起きるたびに繰り広げられるスーパーやコンビニでの争奪戦。電池だ!マスクだ!消毒液だ!こんなバッチラは、もうケッコウだ!


urikire.jpg


真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-7 高丸コレクション 

■横浜編 Vol.2

「松蔭先生はすごい御方じゃ!」と、大河ドラマで桂小五郎が激賞していたが、確かに吉田松陰は凄い人だと思う。

まず、その行動力。自分が吉田松陰に惹かれたのはその尋常じゃない行動力にある。そのエネルギーの源泉はどこにあるのか?それを知りたくて生誕地である山口県萩を訪れたのは1987年(昭和62年)。27歳の時だ。

穏やかな、それは穏やかな城下町。松蔭の…いや、松蔭の弟子である高杉晋作や久坂玄瑞のあの狂おしいほどの激情など微塵も感じられない静かで落ち着きのある港町であった。

街の雰囲気は最高である。なにより人が優しい。
一つ一つ挙げていったら紙面がいくらあっても足りないくらい、いろんな方にお世話になった。けっして交通の便のよくない萩の町に生涯で四度も足を運んだのはそのためだ。

おっと、話は幕末の横浜であった。萩の街の素晴らしさについては、また別の機会に!

yokohama-2-1.jpg


萩-1.jpg



松蔭と商人
さて、そんぼ松蔭先生である。弟子の金子重之輔と二人で、伊豆下田からペリーの黒船に乗り込み、密航を企てようとしたのが嘉永七年(1854)の三月二十八日。結果は周知のとおり。

アメリカ側に乗船を拒絶されて失敗し、自ら奉行所に出頭して投獄されるのだが、じつは松蔭、最初から下田に向かったわけではない。事件の二十二日前は、東海道の保土ヶ谷宿に潜んで、ペリー宛の手紙をしたためていた。この三日前に横浜で日米和親条約が締結されたからだ。このあとまさか、下田へ向かうとは思ってもいなかった。

その保土ヶ谷の宿に、ひとりの人物が密かに訪ねてきた。誰あろう、あの中居屋重兵衛である。

松蔭にとっては、佐久間象山門下の兄弟子にあたる。

確証は無いが、象山の意を受けて松蔭との連絡係をしていたのではなかろうか。たぶん、ペリーが下田に向かったことを教えに行ったのだろう。

それを聞いた松蔭、慌てて下田へ向かう。

 
先にも述べたが、この年に重兵衛は外国人相手に密貿易を行っている。

重兵衛も、何とか外国船に近づけないものかと横浜辺りをうろついていた。そこで、黒船に荷物を運び入れている相撲取りの姿を見つける。幕府はペリーに進呈する品物を力士に運ばせていたのだ。

その中に重兵衛が贔屓にしている小柳という力士がいた。彼は小柳に頼んでアメリカ側に渡りをつけてもらい、自らも人足に化けて外国人に近づいた。そして、絹織物を売りつけることにまんまと成功したのである。

重兵衛は、ペリーが下田に向かうことを知ると、今度は故郷の上州(群馬県)に取って返した。ここが松蔭と商人の思想、考え方の違いである。

上州で生糸を仕入れた重兵衛は、そのまま下田に直行し大儲け。ただ、儲けただけでなく、外国事情もしっかりと調査している。 

象山も密航を教唆した罪を問われ蟄居させられているので、重兵衛だけがオイシイ思いをしたことになる。



義をもって利となす
幕府が諸外国を納得させるため、横浜の町造りを急がせ、江戸をはじめ近隣諸国の富農や豪商に対し、強制的に移住を命じたこと。当時、日本橋に店を構えていた重兵衛も命じられた一人だということは先月号で書いた。

だが、どうも彼の出店は下田事件の翌年に内定していたらしい。懇意にしている外国奉行・岩瀬忠震(ただなり)らが便宜を図ったのだろう。広大な土地を借り受け、屋根に銅の瓦を用いた「あかね御殿」と呼ばれる屋敷を建てた。豪奢にしたのは外国人に侮られないため、外国奉行からの示唆があったという。

のちに神奈川奉行から「町人の身分で二階建て、しかも御禁制の銅瓦を葺くなどとは、もってのほかである」と咎められるが、まさにこの時「安政の大獄」という嵐の真っ只中。懇意の外国奉行たちは、悉く井伊直弼によって罷免されていた。

桜田門外の変が起きたのは、重兵衛が奉行所に呼び出された半年後である。

井伊大老暗殺の報が飛脚によってもたらされたとき、重兵衛は飛び上がらんばかりに喜んだという。何故なら、大老に致命傷を与えた短銃こそ、重兵衛が水戸浪士に提供したものだったのだ。 


yokohama-2-3.jpg



重兵衛のイデオロギーは「尊王開国」。水戸の浪士らが掲げる「尊王攘夷」とは相容れない。それでも、彼らに協力したのは、松蔭も含め、有為な人物が次つぎと抹殺されていくことへの義憤。そして「利を以って利となさず、義を以って利となす」という重兵衛の行動哲学のあらわれだろう。

とはいっても、安政の大獄はクーデターを未然に防ぐ正当な弾圧。

よって時の大老・井伊直弼の殺害は立派なテロだ。

翌年、重兵衛は突如横浜から姿を消す。水戸浪士との関係が幕吏の知ることとなったため、家族に累が及ぶのを恐れて逃亡したという。影武者を使って逃げ延びたとも、千葉で死んだとも伝えられる。「あかね御殿」も莫大な財産も火災によって焼失した。

坂本龍馬のように、世界を股にかけて商売することを夢みていたというが、じつにミステリアスな人物である。


原善三郎
店を構えてわずか二年。彗星の如く現れ、彗星の如く去った重兵衛の姿をじっと見据えて、時を待っていた人物がいる。

中居屋に荷主として店に商品を置いてもらっていた『原善三郎』である。

原善三郎.jpg



「原の目」と呼ばれる鋭い眼力で、生糸の品質を見抜き。自分の目に適った良質な糸だけを仕入れる。地道で堅実な商法は、江戸で評判を呼んだ。

生麦事件をはじめ、尊攘浪士の殺生事件が頻繁に起きていた開港直後の横浜を「四、五年経ったら面白かんべぇが、今じゃぁ地獄の一丁目でがんす」と警戒していた善三郎が、横浜に「亀屋」という店を出したのは、慶応元年(1865)、重兵衛が失踪した四年後である。場所は横浜弁天通3丁目、荷主から生糸を買い上げる売り込み業者に転じたのである。

善三郎の出身は武蔵国渡瀬村、現在の埼玉県児玉郡神川町である。じつは10年前に、この地を訪れている。しかも二回。この時は「鬼と鉄」の研究が目的で、御室ヶ獄という山をご神体とする金鑚神社、その下を流れる神流川。いずれも砂鉄と関係があると踏んでの調査であった。

その奥に鬼の伝説で有名な「鬼石」の街。庭石として有名な三波石が産出する三波石峡や冬桜が咲く城峰神社がある。

善三郎の生家は、その金鑚神社の麓、神流川沿いで醸造業や質屋も営む豊かな農家であった。

yokohama-2-4.jpg



絹の道をゆく-8 へ続く 

この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。


地名推理ファイル 絹の道編 目次
ファン
検索
<< 2021年01月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール
高丸さんの画像
高丸
ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。