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2021年01月02日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-1 高丸コレクション
■プロローグ Vol.1
横浜駅で京浜急行品川行き普通に乗り換え六つ目、生麦駅で下車する。東口を出て商店街を通り、第一京浜国道(15号)に出る一つ手前の路地を右折した四軒目に『生麦事件参考館』がある。
自宅を改良して造られた私設の資料館の門を入り、チャイムを押した。
あれ?「絹の道をゆく」というタイトルなのに、なぜいきなり横浜の生麦なの?
期待されてた方には申し訳ない。 その答えは、半月ほど前にさかのぼるのである。
薬丸自顕流と調所廣郷
携帯の着メロが鳴った。最近設定し直した大河ドラマ『篤姫』の挿入曲「正鵠」。フラメンコギターの音色が喫茶店に響き渡る
「ごぶさたしています。調所です」
慌てて携帯を取ると、聞き覚えのあるバリトン。声の主は調所(ずしょ)一郎氏だ。
珍しい名字だが、歴史に詳しい方ならピンとくるはず。篤姫にも登場した幕末の薩摩藩家老「調所笑左衛門廣郷(ひろさと)」の七代目、調所一郎氏である。
会社を経営する傍ら、薩摩文化も研究されていて、薩摩藩独特の刀や刀装具を紹介した『薩摩拵(さつまこしらえ)』を2003年に出版された。
最近(2009年)では、財務省の松田学氏らと共著で「永久国債の研究」という本を出版、薩摩藩の財政を立て直した先祖の実例を踏まえ、日本の将来のために画期的な提言をされている。
観光大使もされていて、昨年暮れに鹿児島に旅行した際には、ひとかたならぬお世話になった。その調所さんから開口一番、「例の演武の件、生麦でやることに決まりましたよ」という報告があった。
今年の初め、「開港150年」の記念事業に関わっているという話を調所さんにしたところ。
「自顕流(じげんりゅう)の演武のデモンストレーションを開港博でやったら面白いんじゃないですか」という提案をいただいた。
「あ、それはいいですね〜!鹿児島と横浜は歴史的にも関係が深いですし」
歴史的関係よりも、自分自身が見てみたい!というほうが強い。
自顕流(薬丸自顕流)とは、鹿児島に伝わる剣術の流派である。
同じ読みの示現流と混同されるが、示現流が薩摩藩の御留(おとめ)流として門外不出であるのに対して、自顕流は実践を徹底的に重視して、一撃必殺の豪快な流儀ということで薩摩の下級藩士を中心に広まった。
藩主からは忌避されたらしく、江戸時代中期には、中興の祖である薬丸兼武が屋久島に流刑になっている。
その自顕流を剣術師範として復活させたのが、当時軍制改革の責任者であった家老の調所廣郷なのである。
桜田門外の変で井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門や、人斬り半次郎こと桐野利秋。西郷の弟の従道、そして日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎と、幕末から明治に活躍する薩摩藩士のほとんどが、この自顕流の門弟である。
よくよく考えると、調所廣郷は財政改革だけでなく、軍事面でも薩摩藩が雄藩として活躍するための礎を築いたということになる。もしも、薩摩藩に調所が存在しなかったら、維新はまったく違うものになっていたであろうことは間違いない。
開国博の真実
そのアイデアに魅力を感じた私は、さっそく「Y150」の総合プロデューサーにその話を持っていった。
フンフンと話は聞いてくれたものの、その表情から乗り気のなさが伝わってくる。
最後に「わかりました」という返事をもらったのでしばらく待っていたが、結局その話が進展することはなかった。
市を挙げての大きなイベントである。
固まっているプログラムを変更することは不可能なんだろう…くらいに思っていた。
後日、大桟橋ホールで行われた「横濱地図博覧会」で挨拶に立ったプロデューサー氏。その挨拶の言葉を聞いて愕然とした。
「横浜の開港、日本の開国は実に平和裏に行われました…」
ショックであとの言葉はうろ覚えだが、確か、「一滴の血を流すこともなく、日本は鎖国を解いて国を開き、近代文明国家の仲間入りを果たした。その先人たちの功績を讃えて開国博というイベントを皆で盛り上げていきましょう」というような内容だったと思う。
(なるほど、そういうことか)
乗り気がなかった理由が分かった。ガス灯が点った、鉄道が開通した。ビールやテニスやクリーニングも横浜が発祥だ。いいこと尽くめの開国には、血の匂いは無用。そう、エンジンの匂いの巨大クモがお似合いなのだ。
確かに条約締結は平和裏であったろう。しかし、日本に外国船が頻繁に来航するようになった幕末から明治維新の歴史をみれば、それがまったく的外れな意見であることはあきらかである。
しかし、会場にいる人々は、それを疑うこともなく大きな拍手を送っている。
ペリー来航後に起きた、安政の大獄、桜田門外の変、攘夷派浪士による外国人殺傷事件。
そして、生麦事件とそれに続く薩英戦争に続く下関戦争…と、実際に外国と戦争をしているではないか!
内戦では戊辰戦争や北越戦争、これだってイギリスとフランスの代理戦争といってもいい。日本が開国したことで、どれだけの多くの命が散っていったことか。
泣きたくなってきた。別に血生臭い話を大々的に取り上げろと言っているのではない。史実を無視して捻じ曲げるのが許せないのだ。
生麦事件
その話を調所さんに伝えると。
「そうですか…、でも、そんなものかもしれませんね」と、冷静な返事がかえってきた。
調所さんから電話があったのは、それからひと月後である。
「8月21日が生麦事件のあった日なんですけど、この日に生麦事件顕彰会によって毎年追悼祭が行われているんですよ。演武のデモンストレーションはそこで行われます」
生麦事件の追悼祭とは驚いた。
さすが調所広郷の末裔。次の手をしっかり打っていた。
教科書にも載っている大事件。詳細はともかく、事件が起きたことは子どもでも知っている。
文久二年(1862)8月21日、馬に乗った4人の英国人(男性3名、女性1名)が、関内の居留地から川崎大師へ行くために東海道の生麦村を通りかかった。その時、江戸からやってきた薩摩藩の行列に出くわす。
英国人は馬を戻そうとするが、道が狭い上に慌てていたのか、馬が行列の中に入り込んでしまった。怒った薩摩藩士が斬りつけ、一人が死亡、二人が重傷を負った。
現在、亡くなった一人、リチャードソンが落馬した地点、国道15号線と旧東海道の交流地点、キリンビール横浜工場の一角に「生麦事件碑」が建っている。
調所さんから報告を受けた私は、追悼祭の詳細を聞こうと『生麦事件参考館』を訪れたのである。
絹の道をゆく-2 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
横浜駅で京浜急行品川行き普通に乗り換え六つ目、生麦駅で下車する。東口を出て商店街を通り、第一京浜国道(15号)に出る一つ手前の路地を右折した四軒目に『生麦事件参考館』がある。
自宅を改良して造られた私設の資料館の門を入り、チャイムを押した。
あれ?「絹の道をゆく」というタイトルなのに、なぜいきなり横浜の生麦なの?
期待されてた方には申し訳ない。 その答えは、半月ほど前にさかのぼるのである。
薬丸自顕流と調所廣郷
携帯の着メロが鳴った。最近設定し直した大河ドラマ『篤姫』の挿入曲「正鵠」。フラメンコギターの音色が喫茶店に響き渡る
「ごぶさたしています。調所です」
慌てて携帯を取ると、聞き覚えのあるバリトン。声の主は調所(ずしょ)一郎氏だ。
珍しい名字だが、歴史に詳しい方ならピンとくるはず。篤姫にも登場した幕末の薩摩藩家老「調所笑左衛門廣郷(ひろさと)」の七代目、調所一郎氏である。
会社を経営する傍ら、薩摩文化も研究されていて、薩摩藩独特の刀や刀装具を紹介した『薩摩拵(さつまこしらえ)』を2003年に出版された。
最近(2009年)では、財務省の松田学氏らと共著で「永久国債の研究」という本を出版、薩摩藩の財政を立て直した先祖の実例を踏まえ、日本の将来のために画期的な提言をされている。
観光大使もされていて、昨年暮れに鹿児島に旅行した際には、ひとかたならぬお世話になった。その調所さんから開口一番、「例の演武の件、生麦でやることに決まりましたよ」という報告があった。
今年の初め、「開港150年」の記念事業に関わっているという話を調所さんにしたところ。
「自顕流(じげんりゅう)の演武のデモンストレーションを開港博でやったら面白いんじゃないですか」という提案をいただいた。
「あ、それはいいですね〜!鹿児島と横浜は歴史的にも関係が深いですし」
歴史的関係よりも、自分自身が見てみたい!というほうが強い。
自顕流(薬丸自顕流)とは、鹿児島に伝わる剣術の流派である。
同じ読みの示現流と混同されるが、示現流が薩摩藩の御留(おとめ)流として門外不出であるのに対して、自顕流は実践を徹底的に重視して、一撃必殺の豪快な流儀ということで薩摩の下級藩士を中心に広まった。
藩主からは忌避されたらしく、江戸時代中期には、中興の祖である薬丸兼武が屋久島に流刑になっている。
その自顕流を剣術師範として復活させたのが、当時軍制改革の責任者であった家老の調所廣郷なのである。
桜田門外の変で井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門や、人斬り半次郎こと桐野利秋。西郷の弟の従道、そして日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎と、幕末から明治に活躍する薩摩藩士のほとんどが、この自顕流の門弟である。
よくよく考えると、調所廣郷は財政改革だけでなく、軍事面でも薩摩藩が雄藩として活躍するための礎を築いたということになる。もしも、薩摩藩に調所が存在しなかったら、維新はまったく違うものになっていたであろうことは間違いない。
開国博の真実
そのアイデアに魅力を感じた私は、さっそく「Y150」の総合プロデューサーにその話を持っていった。
フンフンと話は聞いてくれたものの、その表情から乗り気のなさが伝わってくる。
最後に「わかりました」という返事をもらったのでしばらく待っていたが、結局その話が進展することはなかった。
市を挙げての大きなイベントである。
固まっているプログラムを変更することは不可能なんだろう…くらいに思っていた。
後日、大桟橋ホールで行われた「横濱地図博覧会」で挨拶に立ったプロデューサー氏。その挨拶の言葉を聞いて愕然とした。
「横浜の開港、日本の開国は実に平和裏に行われました…」
ショックであとの言葉はうろ覚えだが、確か、「一滴の血を流すこともなく、日本は鎖国を解いて国を開き、近代文明国家の仲間入りを果たした。その先人たちの功績を讃えて開国博というイベントを皆で盛り上げていきましょう」というような内容だったと思う。
(なるほど、そういうことか)
乗り気がなかった理由が分かった。ガス灯が点った、鉄道が開通した。ビールやテニスやクリーニングも横浜が発祥だ。いいこと尽くめの開国には、血の匂いは無用。そう、エンジンの匂いの巨大クモがお似合いなのだ。
確かに条約締結は平和裏であったろう。しかし、日本に外国船が頻繁に来航するようになった幕末から明治維新の歴史をみれば、それがまったく的外れな意見であることはあきらかである。
しかし、会場にいる人々は、それを疑うこともなく大きな拍手を送っている。
ペリー来航後に起きた、安政の大獄、桜田門外の変、攘夷派浪士による外国人殺傷事件。
そして、生麦事件とそれに続く薩英戦争に続く下関戦争…と、実際に外国と戦争をしているではないか!
内戦では戊辰戦争や北越戦争、これだってイギリスとフランスの代理戦争といってもいい。日本が開国したことで、どれだけの多くの命が散っていったことか。
泣きたくなってきた。別に血生臭い話を大々的に取り上げろと言っているのではない。史実を無視して捻じ曲げるのが許せないのだ。
生麦事件
その話を調所さんに伝えると。
「そうですか…、でも、そんなものかもしれませんね」と、冷静な返事がかえってきた。
調所さんから電話があったのは、それからひと月後である。
「8月21日が生麦事件のあった日なんですけど、この日に生麦事件顕彰会によって毎年追悼祭が行われているんですよ。演武のデモンストレーションはそこで行われます」
生麦事件の追悼祭とは驚いた。
さすが調所広郷の末裔。次の手をしっかり打っていた。
教科書にも載っている大事件。詳細はともかく、事件が起きたことは子どもでも知っている。
文久二年(1862)8月21日、馬に乗った4人の英国人(男性3名、女性1名)が、関内の居留地から川崎大師へ行くために東海道の生麦村を通りかかった。その時、江戸からやってきた薩摩藩の行列に出くわす。
英国人は馬を戻そうとするが、道が狭い上に慌てていたのか、馬が行列の中に入り込んでしまった。怒った薩摩藩士が斬りつけ、一人が死亡、二人が重傷を負った。
現在、亡くなった一人、リチャードソンが落馬した地点、国道15号線と旧東海道の交流地点、キリンビール横浜工場の一角に「生麦事件碑」が建っている。
調所さんから報告を受けた私は、追悼祭の詳細を聞こうと『生麦事件参考館』を訪れたのである。
絹の道をゆく-2 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
NR-あお葉のこと葉 ファイル-6
屋号 後編
「おんまし」という屋号がある。青葉区および、周辺の地域でよく耳にする屋号だが、地元の人に聞いてもその謂れは判然としない。「馬でも回したんじゃねぇか」と、ある地主さん。なるほど、お馬(おんま)回し…か。博労(馬喰)、馬車屋、馬医に馬の鑑定人など、馬を扱う職業がズラッと脳裏に浮かんだ。かつて、区内の各地で農耕馬による競馬が行われていた。その関係かもしれない。
川崎市の資料の中に【領主が領内を馬で巡検したおりに、村の境界のところで馬の首を巡らした場所をオンマワシという】との説が記載されていた。と、すると職業でなく地名屋号になる。さらに、【洪水に見舞われたとき、川の流れを向う側へと必死に追い回した場所】という文章もあった。麻生区下麻生にある「恩廻」という地名について記された箇所だ。
恩廻は鶴見川が大きく蛇行している地点の字名で、現在そこには「恩廻調整池」という、大雨などで溢れた川の水を地下の巨大トンネルに流して貯留する施設が建っている。こういった施設のおかげで鶴見川は洪水災害から免れているのだ。
江戸時代、同じ場所に「五か村用水」の取水口があった。下流にある上鉄、中鉄、下鉄の三つの鉄村と大場村、市ケ尾村の五つの村に水を引くための灌漑用水で、江戸初期に小泉次大夫という代官によって整備された。
川の水を(追い回す)という言い方にはどうも違和感がある。もしかすると、洪水ではなく、農家に「恩恵」をもたらす「水」をまわす。恩をまわす=恩廻し(オンマワシ)=オンマシ…になったのではないだろうか。水は天からの「施し」。
施されたら施し返す 「恩まわし」です!ってね。
つづく