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2021年01月29日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-11 高丸コレクション
■横浜編 Vol.6
船の上から撮影されたのだろう、本牧の海岸線が埋め立てられる以前の八王子鼻(本牧岬)の写真が『八聖殿郷土資料館』の壁に飾られていた。
岬の頂は樹木に覆われ、白っぽい断崖絶壁には、バームクーヘンのような地層が浮き出ている。
樹木の間から八聖殿の屋根が顔を覗かせているが、海上交通の山当てに使われたのは、大きく枝を張った松の木に違いない。
八王子権現社の参道入口は荒波が打ち寄せる場所にあったという。
本牧の地名
東京湾に突き出た岬に「八王子権現が祀られていたんです」という郷土資料館の職員の方の説明に対して
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」と返した自分の感想はじつに普通の反応で、
「ああ、よかった〜。分かってくれる人で…」と、ことさら喜ばれることではない。
何か異議を唱えられるとでも思ったのだろうか?
「いや、時々いるんですよ。『東京の八王子と関係があるんじゃないか?』と聞いてくる方が…。関係ありませんよ、と説明しても、『いや、八王子と横浜を結ぶシルクロードと、なにか関係があるに違いない』と自説を主張されて譲らない。本当に困りましたよ」
あ、そういうことか。八王子鼻の場所を確認したので、そういった類のお客さんと勘違いされたというわけだ。
「さらに『この近くに八王子道路があるじゃないか』とまで主張されて…。いやいや、あれも八王子という地名なんですよ…と説明したんですけどね」
それにしても、相当強い思い込みだ。思い込んだら他人の意見を聞かないという人は歴史愛好家には多い。聞かないどころか、他人の意見をせせら笑い、相手をグウの音も出ないくらいにやり込める。
話が逸れるが…、先日も「関東にはアイヌ語の地名なんて無い」と断言される方がいた。
「まだ分からないじゃないですか」と言っても、頑として譲らない。
アイヌ語研究の第一人者が「東北の白河以南にはアイヌ語は見つからなかった」と書いていた。というのが理由らしい。
「本当にそうか?」
自分も、青葉区の地名のいくつかをアイヌ語で解説してきた手前、そう断言されると不安になる。その第一人者の本とやらを借りて調べてみた。
そこには「アイヌ地名が、その昔は(白河以南に)あったにしても、失われてしまったのである」と、確かに書かれていた。しかし、末尾には「まったく無いとは言えない…今後の努力によって検出されていくだろう」と締めくくられている。
ようするに、自分は見つけられなかったが、後進の人たちの努力に期待をするということだ。
ホッとしたと同時に、腹がたってきた。その後進たちが努力もしないで「無い」と言い切ってしまったら、研究はそれで終わりではないか!
本牧の地名はアイヌ語だという説をネットで見つけた。
【ポン(小さい)・モリ(港)】が訛ったものだという。
(小さい)という意味のポンは北海道の地名に数ヶ所残っている。だが、モリは知らない。
確か、港は(トマリ)じゃなかっただろうか?
改めて手持ちのアイヌ語辞典を調べてみると、やはり港は【Tomari(トマリ)】であった。
泊(とまり)という地名は全国各地にある。青森の小泊や新潟の寺泊、沖縄県那覇市にもある。
もうひとつ「入江」をさす単語があるのを見つけた。
【moy(もィ)】だ。
岬の陰になっている静かな海、入江、浦のこととある。
【ポン・モィ】 これなら理解できる。 あくまでも、アイヌ語だったらの話だが…。
十二天社と八王子社
「こちらの写真を見てもらえば、お分かりいただけると思うのですけど」
職員の男性が指し示したのは、埋め立てられる前の本牧の航空写真。八聖殿の場所にはシールが貼られている。
「ここが八王子権現のあった場所です」と八聖殿のすぐ右側を指差した。
「今もあるんですか?」
「いえ、本牧神社に合祀されて今はありません」
ハマの奇祭「お馬流し」神事で名高い本牧神社は、かつて「十二天社」と呼ばれ、本牧岬の先端に張り出した出島の中に鎮座していた。
源頼朝が幕府の鬼門鎮護のため朱塗りの厨子を奉納したというから、創建は鎌倉時代より古い。
鳥居の足元まで波が打ち寄せる、風光明媚な景色が【横浜名所】という絵葉書(下)になっている。
本牧は、戦後間もなく米軍に接収された。 住民は退去させられ、『横浜海浜住宅地区』というアメリカの町が造られた。
アメリカの町に神社仏閣は不要だ。ということで、現在の本牧十二天二丁目に長く仮遷座させられていた。
米軍の接収が解除されたのは、なんと戦後五十年近く経った平成六年。本牧神社は、元の地には帰ることなく、三渓園の北(本牧和田19)に換地された。
「八王子社は残ってないんですが、参道があった場所に石碑が建てられていますので、行ってご覧になるといいですよ。場所はですね。この建物の正面の坂を降りて、住宅街を右に回りこむようにして…、ちょっと分かりづらいかな?」
「大丈夫ですよ。行けば分かります」と、大見得を切ったが、見事に迷ってしまった。
うろうろと住宅街の細い路地を行ったり来たり、やっとのことで史跡「おはちおうじさま」の碑にたどり着いた。
確かに八聖殿の東側だ。ここが参道付近ということは、自分が今立っている場所は、まさに海と陸の境目、後の住宅街や首都高湾岸線は、もちろん海の上だ。
その海は、風が変わりやすい地形と浅瀬が潜んでいるため、八王子鼻を廻った辺りで、転覆座礁することも度々だったという。
そのために社を建てたというが、それほど古いものではない。碑には「文久二年(1862)八王子・新町の氏子達により社は再建建立された」と記されている。
「文久二年…、あ、生麦事件の年だ」
確か、原善三郎が横浜で生糸売込問屋を開業したのも、その年じゃなかったっけ…。
絹の道をゆく-12 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
船の上から撮影されたのだろう、本牧の海岸線が埋め立てられる以前の八王子鼻(本牧岬)の写真が『八聖殿郷土資料館』の壁に飾られていた。
岬の頂は樹木に覆われ、白っぽい断崖絶壁には、バームクーヘンのような地層が浮き出ている。
樹木の間から八聖殿の屋根が顔を覗かせているが、海上交通の山当てに使われたのは、大きく枝を張った松の木に違いない。
八王子権現社の参道入口は荒波が打ち寄せる場所にあったという。
本牧の地名
東京湾に突き出た岬に「八王子権現が祀られていたんです」という郷土資料館の職員の方の説明に対して
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」と返した自分の感想はじつに普通の反応で、
「ああ、よかった〜。分かってくれる人で…」と、ことさら喜ばれることではない。
何か異議を唱えられるとでも思ったのだろうか?
「いや、時々いるんですよ。『東京の八王子と関係があるんじゃないか?』と聞いてくる方が…。関係ありませんよ、と説明しても、『いや、八王子と横浜を結ぶシルクロードと、なにか関係があるに違いない』と自説を主張されて譲らない。本当に困りましたよ」
あ、そういうことか。八王子鼻の場所を確認したので、そういった類のお客さんと勘違いされたというわけだ。
「さらに『この近くに八王子道路があるじゃないか』とまで主張されて…。いやいや、あれも八王子という地名なんですよ…と説明したんですけどね」
それにしても、相当強い思い込みだ。思い込んだら他人の意見を聞かないという人は歴史愛好家には多い。聞かないどころか、他人の意見をせせら笑い、相手をグウの音も出ないくらいにやり込める。
話が逸れるが…、先日も「関東にはアイヌ語の地名なんて無い」と断言される方がいた。
「まだ分からないじゃないですか」と言っても、頑として譲らない。
アイヌ語研究の第一人者が「東北の白河以南にはアイヌ語は見つからなかった」と書いていた。というのが理由らしい。
「本当にそうか?」
自分も、青葉区の地名のいくつかをアイヌ語で解説してきた手前、そう断言されると不安になる。その第一人者の本とやらを借りて調べてみた。
そこには「アイヌ地名が、その昔は(白河以南に)あったにしても、失われてしまったのである」と、確かに書かれていた。しかし、末尾には「まったく無いとは言えない…今後の努力によって検出されていくだろう」と締めくくられている。
ようするに、自分は見つけられなかったが、後進の人たちの努力に期待をするということだ。
ホッとしたと同時に、腹がたってきた。その後進たちが努力もしないで「無い」と言い切ってしまったら、研究はそれで終わりではないか!
本牧の地名はアイヌ語だという説をネットで見つけた。
【ポン(小さい)・モリ(港)】が訛ったものだという。
(小さい)という意味のポンは北海道の地名に数ヶ所残っている。だが、モリは知らない。
確か、港は(トマリ)じゃなかっただろうか?
改めて手持ちのアイヌ語辞典を調べてみると、やはり港は【Tomari(トマリ)】であった。
泊(とまり)という地名は全国各地にある。青森の小泊や新潟の寺泊、沖縄県那覇市にもある。
もうひとつ「入江」をさす単語があるのを見つけた。
【moy(もィ)】だ。
岬の陰になっている静かな海、入江、浦のこととある。
【ポン・モィ】 これなら理解できる。 あくまでも、アイヌ語だったらの話だが…。
十二天社と八王子社
「こちらの写真を見てもらえば、お分かりいただけると思うのですけど」
職員の男性が指し示したのは、埋め立てられる前の本牧の航空写真。八聖殿の場所にはシールが貼られている。
「ここが八王子権現のあった場所です」と八聖殿のすぐ右側を指差した。
「今もあるんですか?」
「いえ、本牧神社に合祀されて今はありません」
ハマの奇祭「お馬流し」神事で名高い本牧神社は、かつて「十二天社」と呼ばれ、本牧岬の先端に張り出した出島の中に鎮座していた。
源頼朝が幕府の鬼門鎮護のため朱塗りの厨子を奉納したというから、創建は鎌倉時代より古い。
鳥居の足元まで波が打ち寄せる、風光明媚な景色が【横浜名所】という絵葉書(下)になっている。
本牧は、戦後間もなく米軍に接収された。 住民は退去させられ、『横浜海浜住宅地区』というアメリカの町が造られた。
アメリカの町に神社仏閣は不要だ。ということで、現在の本牧十二天二丁目に長く仮遷座させられていた。
米軍の接収が解除されたのは、なんと戦後五十年近く経った平成六年。本牧神社は、元の地には帰ることなく、三渓園の北(本牧和田19)に換地された。
「八王子社は残ってないんですが、参道があった場所に石碑が建てられていますので、行ってご覧になるといいですよ。場所はですね。この建物の正面の坂を降りて、住宅街を右に回りこむようにして…、ちょっと分かりづらいかな?」
「大丈夫ですよ。行けば分かります」と、大見得を切ったが、見事に迷ってしまった。
うろうろと住宅街の細い路地を行ったり来たり、やっとのことで史跡「おはちおうじさま」の碑にたどり着いた。
確かに八聖殿の東側だ。ここが参道付近ということは、自分が今立っている場所は、まさに海と陸の境目、後の住宅街や首都高湾岸線は、もちろん海の上だ。
その海は、風が変わりやすい地形と浅瀬が潜んでいるため、八王子鼻を廻った辺りで、転覆座礁することも度々だったという。
そのために社を建てたというが、それほど古いものではない。碑には「文久二年(1862)八王子・新町の氏子達により社は再建建立された」と記されている。
「文久二年…、あ、生麦事件の年だ」
確か、原善三郎が横浜で生糸売込問屋を開業したのも、その年じゃなかったっけ…。
絹の道をゆく-12 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-10 高丸コレクション
■横浜編 Vol.5
豊臣秀吉が母親の大政所のために建てた『旧天瑞寺寿塔覆堂』。
徳川家康によって京都伏見城内に建てられた『月華殿』。
三代将軍徳川家光が二条城内に建てさせ、後に春日局が賜ったと伝わる『聴秋閣』。
織田信長の実弟で茶人の織田有楽斎の茶室『春草廬』。
八代将軍・徳川吉宗が幼少期に遊んだ紀州徳川家の別荘『巌出御殿(いわでごてん)』と推定される『臨春閣』。
綺羅星の如くならぶ歴史上の有名人。そのゆかりの建造物があることを知ったら、歴女を含めた戦国マニアの若者も、少しは三渓園に目を向けてくれるのではないだろうか。
もちろん、三渓園の魅力はそれだけじゃない。
旧東慶寺仏殿は鎌倉から、合掌造りの旧矢箆原家住宅は、飛騨の白川郷から、三渓園のシンボル・三重塔は京都から、日本建築の粋がここに結集されているといっても過言ではない。
日本文化の守護者
権力と富を得たものが、大庭園を造る。そんな例は枚挙に遑(いとま)がない。
だが、原三渓(富太郎)のように、自ら構想を練り、自ら足を運んで古建築を探し求め、樹木や草花は言うに及ばず、石の配置から山や滝や池まで、すべて自身で設計をして造り上げるなどという話は聞いたことがない。
それ以上に驚かされるのは、そのように精魂込めて造り上げた庭園を、一般市民に無料開放してしまったことだ。
「明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有にあらざるなり」明治四十三年に『横浜貿易新報』に載った富太郎の言葉である。
「明媚なる自然の風景を独り占めすることは、清き月の光を遮る浮雲の邪まなる心と同じだ」と宣言している。
三渓は実業家であるとともに、美術家であり、奉仕家でもあったのだ。
三渓は多くの若き芸術家のパトロンとしても知られている。
下村観山、前田青邨、小林古径、安田靫彦、横山大観…。近代日本画を代表する錚々たる顔ぶれが彼の世話になった。
月に六円で生計がたてられた時代に、月平均百円を支援していたというから半端ではない。かといって、タニマチヅラして偉ぶらなかったそうだ。それどころか、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞し、批評しあい、時に学んだ。
個人的な趣味が高じてということもあったろう。しかし、彼を突き動かしたのは危機感である。近代国家の玄関口「横浜」にあって、西洋文明に侵食されていく日本の姿をまざまざと目の当たりにしてきた彼だからこそ、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思う。
日本人はいつも極端に走る。明治維新以降の近代化の裏側には、古き日本文化の否定がある。明治の神仏判然(分離)令がいい例だ。
「寺と神社を別々にせよ」という命令が下ると、それまで拝んでいた仏像を破壊し、寺院を焼き払った。今も残る「首の無いお地蔵さま」は、愚かな廃仏毀釈運動の爪痕だろう。
大河ドラマ『龍馬伝』も最近、複雑な思いで観ている。西洋文明に驚き、感動し、心酔していく主人公や海軍操練所の若者たち。その対極にある攘夷派。
ドラマはちょうど、土佐勤皇党が粛清されるあたりだろうか。このあと、新旧の文明と思想の殺し合いが激化し、旧いものは一挙に淘汰されていくのだ。次に登場する新撰組もそうだ。
私のDNAなのだろうか、それとも前世の記憶がそうさせるのか…どうしても滅び行く方に感情移入してしまう。
八王子鼻の秘密
三渓園の入口に立っている。といっても、正門ではない。海に面した南門である。
ここからアクセスすると、正門から入ったのでは、絶対に味わえない風景に出会える。『上海横浜友好園』の池に浮かぶ湖心亭と、その向こうにある切り立った断崖だ。まるで水滸伝か三国志の世界。この断崖が昔の海岸線である。
現在、その海岸線にへばりつく形で「本牧市民公園」と「本牧市民プール」がある。
「三渓園の裏に岬があって、昔、その入り江で生糸の密貿易が行われていたんだよ」
と、声をひそめて教えてくれたのは、某歴史研究グループの男性だ。
「その岬の名前を『八王子鼻』という」
「八王子?…はな…ですか?」
「そうだ。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれた。だから八王子鼻。三渓園がそこにあるのも偶然じゃないんだ。たぶん、原三渓も祖父さんの善三郎も密貿易に関わっていたんだな」
「まさか!」 どうも眉唾くさい。
大体、密貿易をしていたのは、開港前の話ではないか。中居屋重兵衛ならともかく、二人が関わっているはずがない。でも、三渓園の裏が密貿易の場所だったという話は面白い…ということで、この場所にやってきたのである。
市民プール横のスロープから崖の上にあがると、その裏、一段下がった所に、『横浜八聖殿郷土資料館』が建っていた。
法隆寺夢殿を模して建てた三層楼八角形の建物で、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具などが展示してある。
二階の展示室には建物の名前の由来となった八聖像(キリスト・ソクラテス・孔子・釈迦・聖徳太子・弘法大師・親鸞上人・日蓮上人)も置かれていた。
三渓園に行く人はいても、こちらまで足を運ぶ人はめったにいないのか、自分のほかにお客さんはいない。
ひと通り見て回ってから、すれ違った職員らしき男性を呼び止めて尋ねてみた。
「すいません。ここの地名ですが、もしかして八王子鼻っていいます?」
男性は一瞬、警戒するように私の顔を見つめたが、すぐに笑顔になって
「ええ、そうですよ。今は本牧鼻って呼んでいますけど、八王子鼻で間違いありません。鼻は岬のことですが、この断崖の下のところに、八王子権現を祀っていたんですよ」と、丁寧に教えてくれた。
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」
「そうです、そうです。ああ、よかった。分かってくれる人で…」
満面の笑み。その安堵の表情に今度はこちらが違和感を覚えた。
絹の道をゆく-11 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次
豊臣秀吉が母親の大政所のために建てた『旧天瑞寺寿塔覆堂』。
徳川家康によって京都伏見城内に建てられた『月華殿』。
三代将軍徳川家光が二条城内に建てさせ、後に春日局が賜ったと伝わる『聴秋閣』。
織田信長の実弟で茶人の織田有楽斎の茶室『春草廬』。
八代将軍・徳川吉宗が幼少期に遊んだ紀州徳川家の別荘『巌出御殿(いわでごてん)』と推定される『臨春閣』。
綺羅星の如くならぶ歴史上の有名人。そのゆかりの建造物があることを知ったら、歴女を含めた戦国マニアの若者も、少しは三渓園に目を向けてくれるのではないだろうか。
もちろん、三渓園の魅力はそれだけじゃない。
旧東慶寺仏殿は鎌倉から、合掌造りの旧矢箆原家住宅は、飛騨の白川郷から、三渓園のシンボル・三重塔は京都から、日本建築の粋がここに結集されているといっても過言ではない。
日本文化の守護者
権力と富を得たものが、大庭園を造る。そんな例は枚挙に遑(いとま)がない。
だが、原三渓(富太郎)のように、自ら構想を練り、自ら足を運んで古建築を探し求め、樹木や草花は言うに及ばず、石の配置から山や滝や池まで、すべて自身で設計をして造り上げるなどという話は聞いたことがない。
それ以上に驚かされるのは、そのように精魂込めて造り上げた庭園を、一般市民に無料開放してしまったことだ。
「明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有にあらざるなり」明治四十三年に『横浜貿易新報』に載った富太郎の言葉である。
「明媚なる自然の風景を独り占めすることは、清き月の光を遮る浮雲の邪まなる心と同じだ」と宣言している。
三渓は実業家であるとともに、美術家であり、奉仕家でもあったのだ。
三渓は多くの若き芸術家のパトロンとしても知られている。
下村観山、前田青邨、小林古径、安田靫彦、横山大観…。近代日本画を代表する錚々たる顔ぶれが彼の世話になった。
月に六円で生計がたてられた時代に、月平均百円を支援していたというから半端ではない。かといって、タニマチヅラして偉ぶらなかったそうだ。それどころか、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞し、批評しあい、時に学んだ。
個人的な趣味が高じてということもあったろう。しかし、彼を突き動かしたのは危機感である。近代国家の玄関口「横浜」にあって、西洋文明に侵食されていく日本の姿をまざまざと目の当たりにしてきた彼だからこそ、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思う。
日本人はいつも極端に走る。明治維新以降の近代化の裏側には、古き日本文化の否定がある。明治の神仏判然(分離)令がいい例だ。
「寺と神社を別々にせよ」という命令が下ると、それまで拝んでいた仏像を破壊し、寺院を焼き払った。今も残る「首の無いお地蔵さま」は、愚かな廃仏毀釈運動の爪痕だろう。
大河ドラマ『龍馬伝』も最近、複雑な思いで観ている。西洋文明に驚き、感動し、心酔していく主人公や海軍操練所の若者たち。その対極にある攘夷派。
ドラマはちょうど、土佐勤皇党が粛清されるあたりだろうか。このあと、新旧の文明と思想の殺し合いが激化し、旧いものは一挙に淘汰されていくのだ。次に登場する新撰組もそうだ。
私のDNAなのだろうか、それとも前世の記憶がそうさせるのか…どうしても滅び行く方に感情移入してしまう。
八王子鼻の秘密
三渓園の入口に立っている。といっても、正門ではない。海に面した南門である。
ここからアクセスすると、正門から入ったのでは、絶対に味わえない風景に出会える。『上海横浜友好園』の池に浮かぶ湖心亭と、その向こうにある切り立った断崖だ。まるで水滸伝か三国志の世界。この断崖が昔の海岸線である。
現在、その海岸線にへばりつく形で「本牧市民公園」と「本牧市民プール」がある。
「三渓園の裏に岬があって、昔、その入り江で生糸の密貿易が行われていたんだよ」
と、声をひそめて教えてくれたのは、某歴史研究グループの男性だ。
「その岬の名前を『八王子鼻』という」
「八王子?…はな…ですか?」
「そうだ。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれた。だから八王子鼻。三渓園がそこにあるのも偶然じゃないんだ。たぶん、原三渓も祖父さんの善三郎も密貿易に関わっていたんだな」
「まさか!」 どうも眉唾くさい。
大体、密貿易をしていたのは、開港前の話ではないか。中居屋重兵衛ならともかく、二人が関わっているはずがない。でも、三渓園の裏が密貿易の場所だったという話は面白い…ということで、この場所にやってきたのである。
市民プール横のスロープから崖の上にあがると、その裏、一段下がった所に、『横浜八聖殿郷土資料館』が建っていた。
法隆寺夢殿を模して建てた三層楼八角形の建物で、幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や市内で使われていた農具や漁具などが展示してある。
二階の展示室には建物の名前の由来となった八聖像(キリスト・ソクラテス・孔子・釈迦・聖徳太子・弘法大師・親鸞上人・日蓮上人)も置かれていた。
三渓園に行く人はいても、こちらまで足を運ぶ人はめったにいないのか、自分のほかにお客さんはいない。
ひと通り見て回ってから、すれ違った職員らしき男性を呼び止めて尋ねてみた。
「すいません。ここの地名ですが、もしかして八王子鼻っていいます?」
男性は一瞬、警戒するように私の顔を見つめたが、すぐに笑顔になって
「ええ、そうですよ。今は本牧鼻って呼んでいますけど、八王子鼻で間違いありません。鼻は岬のことですが、この断崖の下のところに、八王子権現を祀っていたんですよ」と、丁寧に教えてくれた。
「あ、なるほど。八王子の名前は権現様があったからですね」
「そうです、そうです。ああ、よかった。分かってくれる人で…」
満面の笑み。その安堵の表情に今度はこちらが違和感を覚えた。
絹の道をゆく-11 へ続く
この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。
地名推理ファイル 絹の道編 目次