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2019年02月24日

今いるところで大切なものを見つけること

A man travels the world over in search of what he needs and returns home to find it.
George Moore: The Brook Kerith
〔訳〕ある人間が必要とするものを探し求めて世界中を旅して回り、家に帰ってきたら、何とそこにある。
岩田一男『英語・一日一言』祥伝社 45頁

身近なところでなく、遠くに真理があるのではないかと思い、旅に出たところ、大した収穫もなく、パッとしないということはよくあることです。

人は、近くを卑しみ遠くを尊ぶという傾向を持っていますが、なぜなのでしょうね。

別に遠くに行ったところで自分にとって必要なものが手に入るわけでもなく、ただ単に遠くに行ったという事実だけが残るだけです。

旅をすることが悪いというわけではありませんが、旅は旅として楽しみつつも、それだけのことと思っておくのがよいですね。何か特別なものがあるのではと期待するほどのことはないと思います。

大切なことは、今いるところで自分にとって重要な事柄を見つけるということでしょう。

実際、必要なものは自分の中にあるものです。あちこちと旅をして回り、結局、今いるところが一番重要ということに気付きます。その意味では、ある程度旅をすることは有用といえるでしょう。ただ、いつまでも旅をしているのは感心できないということでしょうね。
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、耻ずかしくない様にしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済む様になる」
夏目漱石『草枕』新潮文庫 148頁

最終的には、旅をしなくてもよいような人間になることですね。自分の今いるところで存在しているだけで十分という境涯になる必要があります。

その上で、気晴らしに旅に出るのは価値的でしょう。気楽に旅に出ればよいということです。旅になにがしらの真理を求めるのは愚かというものです。

常に、自分の中、自分の身近に、大切なもの、重要なもの、必要なものを見つけるという態度が求められます。

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posted by lawful at 15:53| 雑感

2019年01月01日

新年

年頭自警
一、 年頭まず自ら意気を新たにすべし
二、 年頭古き悔恨を棄つべし
三、 年頭決然滞事を一掃すべし
四、 年頭新たに一善事を発願すべし
五、 年頭新たに一佳書を読み始むべし
『安岡正篤一日一言』致知出版社 6頁

新しい年となりました。

年頭自警として、五つの項目がございますが、どれもこれも重要なことばかりです。

まず、自らの気持ちを一新することですね。常に自分自身を新しくしておくことが肝要です。これがあってはじめて他の四つの項目が完遂できるといってよいでしょう。

次に、古い悔恨を棄てるとありますが、古くても古典等は、いつまでも残しておくべきですが、後悔や恨みの感情は、古ければ古いほど厄介なものですから、棄てておくのがよいですね。

そして、滞っている事柄を一掃するということですが、わだかまりなどがこれに相当するのではないでしょうか。人間、年を重ねるに従って、何だかんだとわだかまりの感情が増えてくるものです。それを一気に掃き捨てろということですね。

善事をなすということですが、大きなことではなく、身近なところから善事を行うのがよいように思います。常に接する人に対して、穏やかであることが重要でしょうし、感謝の念を持ちながら接するのが大切でしょう。身近な人を大切にするというのが一善事と思われます。

佳書を読み始めるということですが、早速、日蓮の「十字御書」を読んだところです。
抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候
十字御書 1491頁

地獄界の境涯といえ、仏界の境涯といえ、どこか遠くにあるのではなく、我が身の中にあるということです。自分自身が仏たり得るのか、それとも、地獄程度の人間に留まるのか。自らの心次第ということですね。この意味からも、「年頭まず自ら意気を新たにすべし」との言葉が重要であることがわかります。
さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候
同書 同頁

父、母という身近な人を蔑ろにし、疎んじるならば、善事をなしているとはいえず、このような人間は、地獄界の境涯にあると日蓮は指摘します。地の下に落ちるまでもなく、心が地獄というわけです。
今正月の始に法華経をくやうしまいらせんと・をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ・雪山のせんだんのひらけ・月の始めて出るなるべし、今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし
同書 1492頁

佳書として、御書をあげておりますが、当然、法華経をも含めるべきであり、勤行を行うことは、まさに、法華経の方便品と如来寿量品とを読誦することであり、法華経供養、法華経信仰をしているということですから、幸福があらゆるところから集まってくるということです。信仰をして不幸せでは何にもなりませんので、十字御書通り、幸せを引き寄せる信仰をしていくべきと思います。

年頭自警を通して、自らの信仰のあり方を見直したところです。後悔や恨みつらみ、滞っているわだかまりなど、一切、掃き捨て、新たな気持ちで生きていきたいと思うところです。

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2018年12月31日

今年の汚れを落とし、羅針図を得、賢明たり得ること

只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
一生成仏抄 384頁

本年もあと少しとなりました。

本年の汚れを落とすため、大掃除がなされますが、自分自身の心の汚れ、いのちの汚れをも大掃除する必要がありそうです。

日蓮は、「一念無明の迷心」と表現しておりますが、まさに、この「一念無明の迷心」を大掃除することが大切です。

大掃除ですから、磨きに磨きをかけていくわけですが、通常の大掃除と違い、心、いのちの大掃除ですから、どうすればよいのか、実のところ、よくわからないというのが実情でしょう。

そこで、日蓮は、まず、「深く信心を発して」と言うように、信仰心の発動を求めます。その上で、南無妙法蓮華経と唱えることを勧めます。

南無妙法蓮華経と唱えることによって、自らの「一念無明の迷心」を磨くというわけです。

特に、「迷心」とあるように、人は迷走してしまうものです。この迷走が人生行路を狂わせ、無明の状態に至らせるといってよいでしょう。

人生とは、迷走するものだといえるのかもしれませんが、いつまでも迷走では芸がありません。

ここはひとつ、迷走を止めて、羅針図を得て、自らの人生行路に正しい道筋を付けていくべきでしょう。

この羅針図に相当するのが、一生成仏抄からするならば、南無妙法蓮華経といえ、南無妙法蓮華経ではあまりにも凝縮しすぎていると考えますと、御書、法華経にまで広げ、この御書、法華経を我が羅針図にすると考えるのがよいでしょうね。

信仰心を発揮し、御書、法華経に基づきならば、進むべき道を定めるのがよいですね。その際、南無妙法蓮華経という題目を唱えるのですが、先ほど言いましたように、南無妙法蓮華経という題目は、御書、法華経を凝縮しているとはいえ、これ以上凝縮できないほど凝縮されています。あまりにもコンパクトすぎて意味を取るのが困難です。

南無妙法蓮華経というのは、呪文であり、真言であり、シンボルのようなものといえましょうか。

南無妙法蓮華経と唱えるにしても、単なる題目を唱えているというだけに留まるのではなく、御書、法華経の精髄が込められているという感覚で唱えることが大切でしょう。

また、別の観点から考えますと、唱題行は、虚空蔵求聞持法のようなものと考えるのがよいかもしれません。虚空蔵求聞持法とは、虚空蔵菩薩の真言を1日1万遍唱え、これを100日間続けるという修法であり、この修法の完成により、見聞きし、覚知した経典をすべて記憶できるといいます。記憶力を鍛える修行というわけですね。簡単に言うと、頭がよくなる、聡明になる、賢明になる修行ということであり、このような観点からも唱題行に励みたいところです。

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2018年12月30日

日蓮の「諸の悪人は又善知識なり」との言葉

但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり
富木殿御返事 962頁

日蓮が佐渡流罪中、一の谷に移った直後にしたためられたのが本抄です。

観心本尊抄を執筆する約1年前の著述になります。

佐渡において日蓮は自らの来し方を振り返りますが、全く後悔がなく、恨みすらないという。

それどころか、自らの前に現れた悪人ですら善知識であるといいます。

境涯が上に吹っ切れているようですね。このような境涯になれればよいのですが、なかなか、思うようにいかないものです。

この御文から学び取りたいのは、「諸の悪人は又善知識なり」のところですね。自分自身にとって、悪人は憎むべき対象と思うのが普通ですが、日蓮の観点からすると、そのような悪人ですら、我々の人生にとって有益になるというのですね。

このような観点から人生を歩むことができれば、いくら周りに悪人がいたにしても、不必要にストレスを溜めることはなくなりますね。マイナスどころか、プラスになるのですから。

悪人と接しても、善知識になすほどの境涯が我々に求められます。まずは、日蓮の感覚を自らのものとすべきですね。

そのためには、御書を読むと共に、法華経を読むことが肝要でしょう。日蓮が日蓮たり得たのは、まさに、法華経の故といえますし、日蓮その人の書そのものである、御書、遺文を読むことによって、日蓮の感覚を身につけることができましょう。

ただ、ここで気をつけたいのは、では、悪人とはどのような人間なのかということですね。十界論から考えますと、修羅界の人間が妥当するのではないかと思うのですね。

戦いの場に存在する人間という感じですね。日蓮が言う悪人の中には、鎌倉幕府の武士たちが含まれているでしょうから、悪人というにふさわしいでしょう。

しかし、地獄界、餓鬼界、畜生界の人間では、悪人といえるほどの人間なのか、疑問が生じます。地獄、餓鬼、畜生程度の人間は、単に境涯が低いだけの程度の低い人間であり、悪人たりえないと思うのですね。

言葉を換えていうと、善知識たりえないということですね。

悪人に対しては、善知識になせばいいのですが、では、地獄、餓鬼、畜生程度の人間については、どう対応すればよいのか。善知識にならないのですから、捨てておくのがよいでしょうね。相手にしないということになりましょう。

世の中を見渡してみますと、悪人は意外と少ない。そして、地獄、餓鬼、畜生程度の人間は、数え切れないほどいる。

せっかく、日蓮の書から学ぼうとしたのですが、普段の、日常生活で接する人の多くが地獄、餓鬼、畜生であるならば、学んだことが生かせないですね。

悪人に出会うのは、いざというときでしょうから、そのときに日蓮の「諸の悪人は又善知識なり」との言葉を思い出し、活用すればよいということになりましょうか。

地獄、餓鬼、畜生という三悪道は、どう転んでも使い物にならないですね。

このことから、自分自身の境涯にとっても、三悪道の境涯にならないよう、常に気を付けながら生きていくことです。

ただし、修羅界の境涯の場合、四悪趣、四悪道というように、地獄、餓鬼、畜生と共に悪の側面がありますが、日蓮の「諸の悪人は又善知識なり」との言葉からしますと、善にも転換できそうです。

修羅界は、天界、人界と共に、三善道ともいわれていますので、この点から、善の方向性を含んでいるといえます。

修羅界は、善悪両面を兼ね備えている境涯というわけですね。修羅界が上に行くか下に行くかの分岐点であるということです。

修羅界が悪人の境涯とするならば、地獄、餓鬼、畜生は、悪人未満というわけです。悪人ですらないというところに三悪道にみっともなさが際立ちます。

この点からも、境涯が低くなるにしても、少なくとも修羅界の境涯をキープするのが肝要です。いつでも上に上がれるようにしておくということですね。

もちろん、人界以上の境涯をキープし、常に感謝しながら喜びに満ちた天界、常に学びながら声聞界、常に文化、芸術等に感覚を研ぎ澄ましながら縁覚界というのが望ましい状態であり、周りの人のためになるという菩薩界に至り、究極的には、何ものにも動じない仏界を目指すのが理想ですね。

仏界という摩訶不思議な境涯を目指すスタート地点が、ある意味、修羅界なのではないかと思われてきます。

自分自身の中にある悪人たるもの、修羅界たるものを、悪から善に転じ、仏に至るようにしていくことが、日蓮の「諸の悪人は又善知識なり」との言葉を学んだことの証左といえましょう。

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2018年09月23日

ウォルター・リップマンの言葉から、思考することの重要性を確認する

☆ Where all think alike, no one thinks very much.
☆ Without criticism and reliable and intelligent reporting, the government cannot govern.
Walther Lippmann
〔訳〕☆すべての人が同じ考え方をする所では、だれもあまり考えることをしない。
☆批評と信頼しうる賢い報告とがなければ、政府は政治をすることはできない。
岩田一男『英語・一日一言』祥伝社 191頁

ひとつの考え方に凝り固まっている集団において、個々の構成員は、深く考えていないですね。

所謂、教条的といいますか、ワンパターンの考え方を繰り返しているだけです。

確かに、考えるということは、脳に強烈な負担をかけることですので、脳のエネルギーの使用を節約するという意味で、結論をひとつ決めて置いて、ものを考えないというのは、経済的ではあります。

経済的であるのは、経済的にはよいかもしれませんが、こと脳に関すること、思考に関することにおいては、経済的であることに価値はありません。

簡単に言えば、経済的というよりは、単に怠惰なだけということであり、卑しいということに過ぎません。

しかし、教条主義的な人間は、考えることが嫌いですから、どこかの教祖様がいうことを答え、結論として、安心したいという欲求に囚われ、ワンパターンの思考回路で惰眠を貪るというわけです。

時代の変化、状況の変化に応じて、議論すべきこと、変革すべきことが出てきますので、その際、ものを考えながら話し合いをしていくことになるのですが、答えがひとつで押し通してきた人にとっては、ものを考える、話し合いをするということができませんから、興奮して喚き散らすだけになるのですね。

挙句の果てに、悪口、罵詈、雑言、中傷、誹謗を行うに至り、こちらとしては、困ってしまって、それでおしまいということになります。

よって、我々としては、そのような人々を相手にしなくなるのですが、あの人たちは今頃どうしているのでしょうか。

リップマンが言うように、すべての人が同じ考え方をすると、人はあまり考えることをしないという点は、気を付けておくべき点ですね。

端的に言うと、ものを考えない、思考しないといってもよく、思考停止の状態にあるといえるでしょう。

このような思考停止の団体は、批評を極端に嫌います。そして、信頼しうる情報をも嫌います。もちろん知性のある情報も嫌います。

よって、リップマンの言葉からするならば、早晩、このような思考停止団体は、統治機能を失い、没落していくことになるでしょう。

このように考えますと、思考停止に陥るということは、経済的にみえて実は悪いことだらけというわけです。

いかに大変であろうと、自らが考え、思考するということを止めてはいけません。
posted by lawful at 16:44| 英語

2018年09月16日

読書に幻想を抱かず、自分の中の本棚を充実させること

われわれが企てることのなかでも、とりわけ幻想を抱きやすいのは読書です。本を読むという行為はすごく簡単なように思えるので、そのうちいつの日にか広範な文学書をことごとく読み尽してやろうという計画を立ててしまいがちです。せっせと本を集めても、その大部分はただ時間が足りないばかりに読まずに終わってしまうのに、こればかりはどうにもやめられない。私の友人に事務弁護士をやってたいそう繁昌していた男がいました。この男は読書について途方もない幻想を抱き、何千冊もの本を、しかもすべて豪華版で集めました。でも、それらの本のページを切ることもなく死んでしまいました。
P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 151頁

学生時代の頃や、社会人になっても20代、30代前半ぐらいまで、まさに上記の通りでしたね。いつか読める、それも読み尽くすほどの勢いで読めると夢想するのですね。

確かに、せっせと本を買っていたことを思い出します。本棚の増強までしておりました。

学生時代は、まだネット時代ではなかったので、街の本屋にて購入し、社会人になると多少、経済的な余裕も出てくると共に、ネット社会となり、インターネットで手軽に本が購入できるので、よく利用していたものでした。

しかし、ハマトンが指摘するように、ほとんどの本は、読まなかったですね。断捨離ブームに乗っかり、結局、ほとんどの本はブックオフに行くか、資源ごみとして処分しました。

やはりあの本を読みたいと思う場合は、どうするかということですが、心配することはありません。図書館で借りればよいのです。ほとんどの本は、蔵書があります。

図書館で借り入れも、結局、読まなかった本もあり、単に見栄で買った、知的虚栄心で買った本であったのでしょう。本棚を豪華にするためだけの本ということでしょうね。これでは、読まないはずです。

知的虚栄心は、知的という言葉が付いているにしても、ただの虚栄心です。意味はないですね。読書は、読みたいという強い衝動がなければ読めるものではなく、そこまで力まなくとも、本当に読みたいという気持ちがなければ読めるものではありません。

いずれにしても、いつかは猛烈に読書ができるという勘違いは、やはり勘違いであり、
本はページにわけられ、それぞれに数字が記入されているのですから、ちょっとばかり算数の能力を働かせれば当然、自分にできる限界はあらかじめわかるはずです。
同書 152頁

とハマトンが言うように、ページ数を計算すれば、おおよその読了見込みは分かります。

また、本は何度も読むのがよいと思いますね。読んだ冊数を気にするのではなく、読んだ本をどこまで身体化したかにこだわるべきでしょう。

そうしますと、何度も繰り返し読むということになりますが、気に入った本については、蔵書として所有しつつ、一生付き合うのがよいでしょう。

本を自分のものにするということですね。ここで言う自分のものにするというのは、所謂、本という物体を所有ということではありません。本の内容を血肉化、身体化するということであり、本との一体化といってもよいでしょう。

頭の中だけでなく、身体、身体だけでなく自らの存在そのものに本の内容を染み込ませるという感覚ですね。

要は、本という物体がなくなっても、自分の中に本が存在するという次元に至って、読書したといえると思うのです。

自分の中に本があれば、手ぶらであっても、何度も反芻できます。どこにいても、読書ができます。

本という物体がなければ読書ができないというのは、初見の本ではその通りですが、毎度毎度、初見の本ばかりでは、本棚は豪華になろうとも、自分の中の本棚はスカスカのままです。

あくまでも、物体としての本棚を豪華にするのではなく、自分の中の本棚を豪華にするような読書を心掛けるべきでしょう。

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2018年09月15日

言葉の微妙なニュアンスの違いを味得すること

完全に外国語を修得することは知的生活に大いに役立つが、生半可な外国語の知識が学生を知的に豊かにしたという例はいまだかつて聞いたことがありません。ある言語の微妙なニュアンスの違いまでも味得できないうちは、その言語は精神的教養にとってなんら助けにも向上にもならず、ただ際限もなく誤解を繰り返すだけです。
P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 130頁

外国語をマスターしたいと考える向きは多いのですが、
やってみようという動機にはこと欠かないが、修得する人はめったにいません。
同書 121頁

というのが実情です。

そうはいっても、「はい、そうですか」では、つまらないわけで、少なくとも英語はどうにかしたいと思うところです。

上記のハマトンの指摘にあるように、完全に修得するという姿勢が大事ですね。この完全ということですが、「微妙なニュアンスの違いまでも味得」するほどの修得がひとつの目安になります。

英語においても、同じような意味でありながら数語の単語ありますが、なんとなくスルーして、その言葉の違い、それも微妙なニュアンスの違いに関して、さほど気にかけていないところは反省すべき点でしょうね。まさに、「味得」という次元で外国語、英語と対峙すべきでしょう。

生半可な知識にとどまっている場合、単に「際限もなく誤解を繰り返すだけ」ということであり、手厳しい指摘ではありますが、いい加減な理解では、誤解、誤訳に終始し、無知よりもたちが悪くなります。

翻って考えますと、我々の母語である日本語においては、それなりに言葉の微妙なニュアンスの違いを味得できますが、その精度は如何ほどかと考えますと、まだまだ改善の余地ありと思われます。

また、古文、漢文に関していうと、どれほど微妙なニュアンスの違いを味得できているか。大したことがないというのが現状でしょう。

そう考えますと、外国語、英語を修得する上で注意すべき点は、そのまま、我が母国語の日本語、また、古文、漢文にも適用できることが分かります。

外国語を学ぶ意義は、母国語を再認識する点にもあるといえましょう。

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2018年07月29日

死者には影響力があるということ

死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし
佐渡御勘気抄 891頁

日蓮が門下に対して送った佐渡御勘気抄の一節ですが、日蓮の死生観からすると、死んでおしまいではなく、死んだ後も影響力を与え続けるという考え方です。

死者は生者に対して無力なのではなく、限りない影響力を有すると捉えるのがよいでしょうね。

実際、日蓮は、生きている時の影響力よりも死後の影響力の方が強いですね。

特に近代以降、絶大な影響力があったといえます。

我々としては、日蓮だけでなく、すべての死者に対峙する時、強い影響力を受けているということを認識する必要がありそうです。

死んだらそれまでと、何となく考えがちですが、そうではないのですね。

死者と生者とはどこまでも繋がっているという事実に思いを馳せながら、その死者から限りないエネルギーを受容し、生者としての日々を充実させるべきでしょう。

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2018年05月27日

勤行の意義 死者からのエネルギー受容が肝要であること

生者は死者のエネルギーを受けることが必要である。『法華経』はここで、まさしく生者と死者の一体化の秘儀を説くのである。
末木文美士『思想としての近代仏教』中公選書 403頁

見宝塔品での宝塔涌出のことですね。

法華経の文で確認してみましょうか。
爾の時、多宝仏は宝塔の中に於いて、半座を分かちて、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、
「釈迦牟尼仏よ。此の座に就きたまう可し」と。
『妙法蓮華経並開結』創価学会 385頁

生者である我々の力は、自力といえるわけですが、自力だけでは、この世の中を生きていくには力不足の感が否めません。

所詮、自分の力には限界があり、大した力ではないものです。もちろん、自力なくして生きていくことはできませんが、自力のみを強調しても片手落ちと思うのですね。

では、どうすればよいかということですが、他力が必要と思います。ここでいう他力は、まさしく死者のエネルギーですね。

法華経の見宝塔品で示されたように多宝如来と釈迦牟尼仏との二仏並坐が生者と死者との一体化というわけです。生者の側からみると死者のエネルギーを受容している姿といえるでしょう。

一信仰者として、勤行を行う際、なぜ、勤行を行うのかと常に疑問を持つのですが、勤行の意義とは、死者からのエネルギー受容にあるといえましょう。

勤行の際、先祖代々の追善供養を祈りますが、まさにこの先祖代々への追善供養により、その返報として先祖代々からのエネルギーが我々に送られ、我々がそれを受容するということが勤行といえるのではないでしょうか。

死者は死んだのであるから、もうそれでおしまい、というのではなく、死者はいつまでも生者に対してエネルギーを放出する存在であり、そのエネルギーを受容するか否かは生者次第ということでしょう。

その死者からのエネルギー受容の秘儀こそ、我々でいえば勤行であり、法華経においては、見宝塔品で示されている二仏並坐ということです。

人智を超えたものとしての他力、死者のエネルギーを受容した者とそうでない者との差は大きいでしょう。

自力と他力とを両翼と考えれば分かりますが、片方の翼がない状態で飛ぶことは不可能です。これほどの差があるというのが実情でしょう。

自力だけに頼ると粋がらず、また、他力のみを頼んで自力を忘れることなく、自力、他力の両方をバランスよく得ながら、生きていくのがよいですね。

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posted by lawful at 19:02| 法華経並開結

2018年03月23日

不運は改善へのきっかけといえるでしょう

病があろうが、運命が悪くなろうが、それを感謝と喜びにふりかえることです。
そもそも病とか不運とかというものの原因を考えてください。何にも自分に落ち度がなくして、病や不運がくるはずがないのであります。つまり、原因あっての結果。
ですから、おまえの生き方に誤りがあるぞ、と自覚を促すために病なり不運なりが与えられたとしたら、これは大きな恵みですわ。それを考えたら、恨みどころか感謝にふりかえ、喜びで誤りを是正する方へと自分の心を積極的にふり向けることが一番必要でしょう。
『中村天風一日一話』財団法人天風会編 PHP研究所 55頁

不運があると嘆き、悲しみ、挙句の果てには恨みが生じますが、このような生き方がそもそも間違っていると指摘されています。

不運には、その人の生き方に間違いがあるから生じるのであって、何にもないところに生じるものではないということです。

間違った生き方をして、再び、間違った生き方を繰り返すのではなく、誤りは誤りとして認識し、感謝、喜びをもって、改善に勤しむのが正しい生き方といえましょう。

不運がありますと、落ち込みます。それは仕方がないことですが、いつまでも落ち込んでもいられませんので、自分の至らないところを認識できたとの喜びを得ながら、感謝の念を持ち、より高次の自分に至るよう精進することですね。

また、不運に見舞われるということは、ある意味、厄落としともいえるわけで、不運を呪うより、不運によって助かったと考える方が価値的でしょう。実際、考え方という次元だけでなく、本当に厄落としになっているというのが実相かもしれませんね。

この程度の不運でよかった、というわけです。

早め早めに厄は落としておいた方がよいですね。

そう考えますと、不運は、ありがたく、感謝、喜びへとつながっていきます。
posted by lawful at 08:07| 生き方

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