われわれが企てることのなかでも、とりわけ幻想を抱きやすいのは読書です。本を読むという行為はすごく簡単なように思えるので、そのうちいつの日にか広範な文学書をことごとく読み尽してやろうという計画を立ててしまいがちです。せっせと本を集めても、その大部分はただ時間が足りないばかりに読まずに終わってしまうのに、こればかりはどうにもやめられない。私の友人に事務弁護士をやってたいそう繁昌していた男がいました。この男は読書について途方もない幻想を抱き、何千冊もの本を、しかもすべて豪華版で集めました。でも、それらの本のページを切ることもなく死んでしまいました。
P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 151頁
学生時代の頃や、社会人になっても20代、30代前半ぐらいまで、まさに上記の通りでしたね。いつか読める、それも読み尽くすほどの勢いで読めると夢想するのですね。
確かに、せっせと本を買っていたことを思い出します。本棚の増強までしておりました。
学生時代は、まだネット時代ではなかったので、街の本屋にて購入し、社会人になると多少、経済的な余裕も出てくると共に、ネット社会となり、インターネットで手軽に本が購入できるので、よく利用していたものでした。
しかし、ハマトンが指摘するように、ほとんどの本は、読まなかったですね。断捨離ブームに乗っかり、結局、ほとんどの本はブックオフに行くか、資源ごみとして処分しました。
やはりあの本を読みたいと思う場合は、どうするかということですが、心配することはありません。図書館で借りればよいのです。ほとんどの本は、蔵書があります。
図書館で借り入れも、結局、読まなかった本もあり、単に見栄で買った、知的虚栄心で買った本であったのでしょう。本棚を豪華にするためだけの本ということでしょうね。これでは、読まないはずです。
知的虚栄心は、知的という言葉が付いているにしても、ただの虚栄心です。意味はないですね。読書は、読みたいという強い衝動がなければ読めるものではなく、そこまで力まなくとも、本当に読みたいという気持ちがなければ読めるものではありません。
いずれにしても、いつかは猛烈に読書ができるという勘違いは、やはり勘違いであり、
本はページにわけられ、それぞれに数字が記入されているのですから、ちょっとばかり算数の能力を働かせれば当然、自分にできる限界はあらかじめわかるはずです。
同書 152頁
とハマトンが言うように、ページ数を計算すれば、おおよその読了見込みは分かります。
また、本は何度も読むのがよいと思いますね。読んだ冊数を気にするのではなく、読んだ本をどこまで身体化したかにこだわるべきでしょう。
そうしますと、何度も繰り返し読むということになりますが、気に入った本については、蔵書として所有しつつ、一生付き合うのがよいでしょう。
本を自分のものにするということですね。ここで言う自分のものにするというのは、所謂、本という物体を所有ということではありません。本の内容を血肉化、身体化するということであり、本との一体化といってもよいでしょう。
頭の中だけでなく、身体、身体だけでなく自らの存在そのものに本の内容を染み込ませるという感覚ですね。
要は、本という物体がなくなっても、自分の中に本が存在するという次元に至って、読書したといえると思うのです。
自分の中に本があれば、手ぶらであっても、何度も反芻できます。どこにいても、読書ができます。
本という物体がなければ読書ができないというのは、初見の本ではその通りですが、毎度毎度、初見の本ばかりでは、本棚は豪華になろうとも、自分の中の本棚はスカスカのままです。
あくまでも、物体としての本棚を豪華にするのではなく、自分の中の本棚を豪華にするような読書を心掛けるべきでしょう。