完全に外国語を修得することは知的生活に大いに役立つが、生半可な外国語の知識が学生を知的に豊かにしたという例はいまだかつて聞いたことがありません。ある言語の微妙なニュアンスの違いまでも味得できないうちは、その言語は精神的教養にとってなんら助けにも向上にもならず、ただ際限もなく誤解を繰り返すだけです。
P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 130頁
外国語をマスターしたいと考える向きは多いのですが、
やってみようという動機にはこと欠かないが、修得する人はめったにいません。
同書 121頁
というのが実情です。
そうはいっても、「はい、そうですか」では、つまらないわけで、少なくとも英語はどうにかしたいと思うところです。
上記のハマトンの指摘にあるように、完全に修得するという姿勢が大事ですね。この完全ということですが、「微妙なニュアンスの違いまでも味得」するほどの修得がひとつの目安になります。
英語においても、同じような意味でありながら数語の単語ありますが、なんとなくスルーして、その言葉の違い、それも微妙なニュアンスの違いに関して、さほど気にかけていないところは反省すべき点でしょうね。まさに、「味得」という次元で外国語、英語と対峙すべきでしょう。
生半可な知識にとどまっている場合、単に「際限もなく誤解を繰り返すだけ」ということであり、手厳しい指摘ではありますが、いい加減な理解では、誤解、誤訳に終始し、無知よりもたちが悪くなります。
翻って考えますと、我々の母語である日本語においては、それなりに言葉の微妙なニュアンスの違いを味得できますが、その精度は如何ほどかと考えますと、まだまだ改善の余地ありと思われます。
また、古文、漢文に関していうと、どれほど微妙なニュアンスの違いを味得できているか。大したことがないというのが現状でしょう。
そう考えますと、外国語、英語を修得する上で注意すべき点は、そのまま、我が母国語の日本語、また、古文、漢文にも適用できることが分かります。
外国語を学ぶ意義は、母国語を再認識する点にもあるといえましょう。