生者は死者のエネルギーを受けることが必要である。『法華経』はここで、まさしく生者と死者の一体化の秘儀を説くのである。
末木文美士『思想としての近代仏教』中公選書 403頁
見宝塔品での宝塔涌出のことですね。
法華経の文で確認してみましょうか。
爾の時、多宝仏は宝塔の中に於いて、半座を分かちて、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、
「釈迦牟尼仏よ。此の座に就きたまう可し」と。
『妙法蓮華経並開結』創価学会 385頁
生者である我々の力は、自力といえるわけですが、自力だけでは、この世の中を生きていくには力不足の感が否めません。
所詮、自分の力には限界があり、大した力ではないものです。もちろん、自力なくして生きていくことはできませんが、自力のみを強調しても片手落ちと思うのですね。
では、どうすればよいかということですが、他力が必要と思います。ここでいう他力は、まさしく死者のエネルギーですね。
法華経の見宝塔品で示されたように多宝如来と釈迦牟尼仏との二仏並坐が生者と死者との一体化というわけです。生者の側からみると死者のエネルギーを受容している姿といえるでしょう。
一信仰者として、勤行を行う際、なぜ、勤行を行うのかと常に疑問を持つのですが、勤行の意義とは、死者からのエネルギー受容にあるといえましょう。
勤行の際、先祖代々の追善供養を祈りますが、まさにこの先祖代々への追善供養により、その返報として先祖代々からのエネルギーが我々に送られ、我々がそれを受容するということが勤行といえるのではないでしょうか。
死者は死んだのであるから、もうそれでおしまい、というのではなく、死者はいつまでも生者に対してエネルギーを放出する存在であり、そのエネルギーを受容するか否かは生者次第ということでしょう。
その死者からのエネルギー受容の秘儀こそ、我々でいえば勤行であり、法華経においては、見宝塔品で示されている二仏並坐ということです。
人智を超えたものとしての他力、死者のエネルギーを受容した者とそうでない者との差は大きいでしょう。
自力と他力とを両翼と考えれば分かりますが、片方の翼がない状態で飛ぶことは不可能です。これほどの差があるというのが実情でしょう。
自力だけに頼ると粋がらず、また、他力のみを頼んで自力を忘れることなく、自力、他力の両方をバランスよく得ながら、生きていくのがよいですね。