只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
一生成仏抄 384頁
本年もあと少しとなりました。
本年の汚れを落とすため、大掃除がなされますが、自分自身の心の汚れ、いのちの汚れをも大掃除する必要がありそうです。
日蓮は、「一念無明の迷心」と表現しておりますが、まさに、この「一念無明の迷心」を大掃除することが大切です。
大掃除ですから、磨きに磨きをかけていくわけですが、通常の大掃除と違い、心、いのちの大掃除ですから、どうすればよいのか、実のところ、よくわからないというのが実情でしょう。
そこで、日蓮は、まず、「深く信心を発して」と言うように、信仰心の発動を求めます。その上で、南無妙法蓮華経と唱えることを勧めます。
南無妙法蓮華経と唱えることによって、自らの「一念無明の迷心」を磨くというわけです。
特に、「迷心」とあるように、人は迷走してしまうものです。この迷走が人生行路を狂わせ、無明の状態に至らせるといってよいでしょう。
人生とは、迷走するものだといえるのかもしれませんが、いつまでも迷走では芸がありません。
ここはひとつ、迷走を止めて、羅針図を得て、自らの人生行路に正しい道筋を付けていくべきでしょう。
この羅針図に相当するのが、一生成仏抄からするならば、南無妙法蓮華経といえ、南無妙法蓮華経ではあまりにも凝縮しすぎていると考えますと、御書、法華経にまで広げ、この御書、法華経を我が羅針図にすると考えるのがよいでしょうね。
信仰心を発揮し、御書、法華経に基づきならば、進むべき道を定めるのがよいですね。その際、南無妙法蓮華経という題目を唱えるのですが、先ほど言いましたように、南無妙法蓮華経という題目は、御書、法華経を凝縮しているとはいえ、これ以上凝縮できないほど凝縮されています。あまりにもコンパクトすぎて意味を取るのが困難です。
南無妙法蓮華経というのは、呪文であり、真言であり、シンボルのようなものといえましょうか。
南無妙法蓮華経と唱えるにしても、単なる題目を唱えているというだけに留まるのではなく、御書、法華経の精髄が込められているという感覚で唱えることが大切でしょう。
また、別の観点から考えますと、唱題行は、虚空蔵求聞持法のようなものと考えるのがよいかもしれません。虚空蔵求聞持法とは、虚空蔵菩薩の真言を1日1万遍唱え、これを100日間続けるという修法であり、この修法の完成により、見聞きし、覚知した経典をすべて記憶できるといいます。記憶力を鍛える修行というわけですね。簡単に言うと、頭がよくなる、聡明になる、賢明になる修行ということであり、このような観点からも唱題行に励みたいところです。