但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり
富木殿御返事 962頁
日蓮が佐渡流罪中、一の谷に移った直後にしたためられたのが本抄です。
観心本尊抄を執筆する約1年前の著述になります。
佐渡において日蓮は自らの来し方を振り返りますが、全く後悔がなく、恨みすらないという。
それどころか、自らの前に現れた悪人ですら善知識であるといいます。
境涯が上に吹っ切れているようですね。このような境涯になれればよいのですが、なかなか、思うようにいかないものです。
この御文から学び取りたいのは、「諸の悪人は又善知識なり」のところですね。自分自身にとって、悪人は憎むべき対象と思うのが普通ですが、日蓮の観点からすると、そのような悪人ですら、我々の人生にとって有益になるというのですね。
このような観点から人生を歩むことができれば、いくら周りに悪人がいたにしても、不必要にストレスを溜めることはなくなりますね。マイナスどころか、プラスになるのですから。
悪人と接しても、善知識になすほどの境涯が我々に求められます。まずは、日蓮の感覚を自らのものとすべきですね。
そのためには、御書を読むと共に、法華経を読むことが肝要でしょう。日蓮が日蓮たり得たのは、まさに、法華経の故といえますし、日蓮その人の書そのものである、御書、遺文を読むことによって、日蓮の感覚を身につけることができましょう。
ただ、ここで気をつけたいのは、では、悪人とはどのような人間なのかということですね。十界論から考えますと、修羅界の人間が妥当するのではないかと思うのですね。
戦いの場に存在する人間という感じですね。日蓮が言う悪人の中には、鎌倉幕府の武士たちが含まれているでしょうから、悪人というにふさわしいでしょう。
しかし、地獄界、餓鬼界、畜生界の人間では、悪人といえるほどの人間なのか、疑問が生じます。地獄、餓鬼、畜生程度の人間は、単に境涯が低いだけの程度の低い人間であり、悪人たりえないと思うのですね。
言葉を換えていうと、善知識たりえないということですね。
悪人に対しては、善知識になせばいいのですが、では、地獄、餓鬼、畜生程度の人間については、どう対応すればよいのか。善知識にならないのですから、捨てておくのがよいでしょうね。相手にしないということになりましょう。
世の中を見渡してみますと、悪人は意外と少ない。そして、地獄、餓鬼、畜生程度の人間は、数え切れないほどいる。
せっかく、日蓮の書から学ぼうとしたのですが、普段の、日常生活で接する人の多くが地獄、餓鬼、畜生であるならば、学んだことが生かせないですね。
悪人に出会うのは、いざというときでしょうから、そのときに日蓮の「諸の悪人は又善知識なり」との言葉を思い出し、活用すればよいということになりましょうか。
地獄、餓鬼、畜生という三悪道は、どう転んでも使い物にならないですね。
このことから、自分自身の境涯にとっても、三悪道の境涯にならないよう、常に気を付けながら生きていくことです。
ただし、修羅界の境涯の場合、四悪趣、四悪道というように、地獄、餓鬼、畜生と共に悪の側面がありますが、日蓮の「諸の悪人は又善知識なり」との言葉からしますと、善にも転換できそうです。
修羅界は、天界、人界と共に、三善道ともいわれていますので、この点から、善の方向性を含んでいるといえます。
修羅界は、善悪両面を兼ね備えている境涯というわけですね。修羅界が上に行くか下に行くかの分岐点であるということです。
修羅界が悪人の境涯とするならば、地獄、餓鬼、畜生は、悪人未満というわけです。悪人ですらないというところに三悪道にみっともなさが際立ちます。
この点からも、境涯が低くなるにしても、少なくとも修羅界の境涯をキープするのが肝要です。いつでも上に上がれるようにしておくということですね。
もちろん、人界以上の境涯をキープし、常に感謝しながら喜びに満ちた天界、常に学びながら声聞界、常に文化、芸術等に感覚を研ぎ澄ましながら縁覚界というのが望ましい状態であり、周りの人のためになるという菩薩界に至り、究極的には、何ものにも動じない仏界を目指すのが理想ですね。
仏界という摩訶不思議な境涯を目指すスタート地点が、ある意味、修羅界なのではないかと思われてきます。
自分自身の中にある悪人たるもの、修羅界たるものを、悪から善に転じ、仏に至るようにしていくことが、日蓮の「諸の悪人は又善知識なり」との言葉を学んだことの証左といえましょう。