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2021年03月30日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,95


「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,95



すると私はもう一度その頬を拭いてやり、まだいくらかは濡れている眼玉の上を撫でてやり、それからその紙で、微かな嗚咽を続けている彼女の鼻の穴をおさえ、



「さ、洟(はな)をおかみ」

と、そう言うと、彼女は「チーン」と鼻を鳴らして、幾度も私に洟をかませました。



その明くる日、ナオミは私から二百圓貰って、一人で三越へ行き、私は会社で昼の休みに、母親へ宛てて始めて無心状を書いたものです。



「・・・・・・何分此の頃は物価高く、ニ三年前とは驚くほどの相違にて、さしたる贅沢を致さざるにも拘わらず、月々の経費に追われ、都会生活もなかなか容易にこれなく、・・・・・・」



と、そう書いたのを覚えていますが、親に向かってこんな上手な噓を言うほど、それほど自分が大胆になってしまったかと思うと、私は我ながら恐ろしい気がしました。



が、母は私を信じている上に、倅の大事な嫁としてナオミに対しても慈愛を持っていたことは、ニ三日してから手許に届いた返事を見ても分りました。



手紙の中には「なおみに着物でも買っておやり」と私が言ってやったよりも百圓余計為替が封入してあったのです。





第十話



エルドラドオのダンスの当夜は土曜日の晩でした。

午後の七時半からというので、五時頃会社から帰って来ると、ナオミは既に湯上りの肌を脱ぎながら、せっせと顔を作っていました。

「あ、譲治さん、出来て来たわよ」





引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

角川文庫刊



次回に続く。

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元、県立高校国語教諭30年勤務。

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