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2021年03月29日
「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,94
「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,94
ナオミはいきなり私の頸にしがみつき、その唇の赤の捺印を繁忙な郵便局のスタンプ係が捺すように、額や、鼻や、眼瞼(まぶた)の上や、耳朶(みみたぶ)の裏や、私の顔のあらゆる部分へ、寸分の隙間もなくべたべたと捺しました。
それは私に、何か、椿の花のような、どっしりと思い、そして露けく軟らかい無数の花びらが降ってくるような快さを感じさせ、その花びらの薫りの中に、自分の首がすっかり埋まってしまった様な夢見心地を覚えさせました。
「どうしたの、ナオミちゃん、お前はまるで気違いのようだね」
「ああ、気違いよ。・・・・・・あたし今夜は気違いになるほど譲治さんが可愛いんだもの。・・・・・・それともうるさい?」
「うるさい事なんかあるものか、僕もうれしいよ、気違いになるほどうれしいよ、お前のためならどんな犠牲を払ったってかま構やしないよ。・・・・・・おや、どうしたの?又泣いてるの?」
「ありがとよ、パパさん、あたしパパさんに感謝してるのよ、だからひとりでに涙が出るの。・・・・・・ね、分った?泣いちゃいけない?
いけなけりゃ拭いて頂戴」
ナオミは懐から紙を出して、自分では拭かずに、それを私の手の中へ握らせましたが、瞳はじッと私の方へ注がれたまま、今拭いてもらうその前に、一層涙を滾々(こんこん)と睫毛の縁まで溢れさせているのでした。
ああ、何という潤いを持った、綺麗な眼だろう。この美しい涙の玉をそうッとこ
のまま結晶させて、取って置く訳には行かないものかと思いながら、私は最初に彼女の頬を拭いてやり、その圓圓と盛り上がった涙の玉に触れない様に眼窩の周りを拭うてやると、皮がたるんだり引っ張れたりするたびごとに、玉はいろいろな形に揉まれて、凸面レンズのようになったり、凹面レンズのようになったり、しまいにははらはらと崩れてせっかく拭いた頬の上に再び光の糸を曳きながら流れて行きます。
引用書籍
谷崎潤一郎「痴人の愛」
角川文庫刊
次回に続く。
三国志演義朗読第61回vol,8(全8回)
(^_-)-☆アスカミチル
【文学通】なりたい人寄っといで(*´ε`*)チュッチュ
元、県立高校国語教諭30年勤務。
文学士アスカミチルがエスコート。
三国志演義朗読第61回vol,8(全8回)
https://youtu.be/j4HP9B04yu4