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2022年04月07日
オーストラリア🦘での嫁VS姑問題2
日本での複雑な嫁姑問題は数多く聞きます。どの国でも有り得ることなんでしょうけど、私の嫁VS姑問題について前回に続いて第2弾です。
前回のブログでも紹介しましたが、うちの義理母は「何でも知りたがり屋」です。私達が普段何をして、何を食べて、誰に会っているのかなどなど、全て知りたいようです。私が何か言い忘れれば、だいたい私が教えてくれなかったから悪い方向に話しが進んでいき、姑お決まりの言葉で事が終わります。
「私は何も悪いことをしていない。私は良い人よ」
この言葉を聞くたびに、面白くなってきます。当時は笑って聞き流すことがしんどい時期もありましたが、今となれば「面白い」の一言です笑
娘を日本で出産し、オーストラリアへ戻ってきた一番最初の年、義理両親は私達夫婦にこういう言葉をかけてくれました。
「結婚1年記念日、二人で何か特別なことをして過ごしたらいいんじゃない?レストランにでも行って素敵な夜を過ごしてきなさい。私達が孫の面倒を見るわ」
あらなんて素敵お言葉に甘えて一晩、旦那と二人で久々に二人だけの時間を過ごしました。
夕方6時くらいに娘を義理両親宅に送り届け、二人で夜の街へ繰り出しました。夕飯を楽しんでいる時に、娘が気になり旦那に、電話かメールして大丈夫か聞いてみる?と言うと、
「せっかく面倒を見るのを自分達から買って出てくれたんだから、向こうから連絡がない限りとりあえず連絡しないでおこう。きっと大丈夫だよ」
と言われました。10時頃に全てを終えて娘を迎えに行くと、一番初めに言われた言葉に驚きました。
「もう私達はこの子の面倒を見ないわ。普段どんな育て方をしているの!?ものすごく手がかかるわ」
元々週1回会って話をしていたし、1日起きで電話をしていたので、普段どんな生活をし、どんな子育てをしているか大体把握しているはずでは?という疑問が浮かびましたが、一番最初に「おかえり、楽しかった?」などの言葉は一切なく、自分達がどれだけ大変だったかの話を永遠とされました。
オーストラリアでの子育て事情は日本のやり方と違うところが多々あり、私も最初は戸惑いましたが、今となればオーストラリア式の方が子供たちにとっても親に取っても余裕を持って子育てを楽しめる気がします。
オーストラリアでは、産まれたその日から赤ちゃんは自分の部屋が用意されており、両親と一緒に添い寝をする文化はありません。それから、スリーピングトレーニングと言い、抱っこして寝かしつけする癖をつけず、自分のベッドで自分で寝れるように、早い時期からトレーニングすることにより、親が子供が寝るまでベッドで付きっきりという事がありません。
私は娘を日本で出産したので、自分の母親に色々手伝ってもらいながら最初の3ヶ月間の子育てをしていたこともあり、日本式の子育てをしていました。そのため、義理両親に娘を預けたときに抱っこして寝かしつけることを拒否され、それによって泣き叫ぶ娘を”手のかかる子”と呼んだのでした。
「あまりにも寝ないので、車でドライブも連れてって大変だったのよー」
と言われ、娘を預かってもらったその日以来、会うたびに
「今は一人で寝せる練習しているの?2人目が産まれたら日本式はやめたほうがいいわね」
など、ちょっとした嫌味にも取れる言い方をされていました。「もっと大きくなって手がかからなくなったら面倒みてあげる」どんだけ上から目線なんじゃ!?と思いながらも、もう頼むことないと思うのでご心配なく、と心の中で思っていました。
娘が産まれてから、義理両親の
「二人目の予定は?大変だったらいつでも声をかけてねー」
の言葉が嘘丸出しで、絶対面倒なんか見てくれないくせによく言うわwと思いつつも、いつも聞き流していました。
私の誕生日。
「家にあるポットが古そうだから誕生日に新しいのを買ってあげるから一緒に買い物に行きましょう」
と誘われ、一緒に出掛けました。色々物色している中で、どんなのがいいの?と聞かれ、赤いのが欲しいと答えました。すると、
「赤?なんで赤?こっちの色の方がクールでいいんじゃない?」
とシルバーを指差し、「これにしましょ」
と箱を取りました。じゃぁ何でどんなのが欲しい?って聞いたんだよ?笑
これはさすがにと思ったのが、義理父が咄嗟に出てきて、
「お前それはないだろ、誕生日プレゼントとして買いに来てるんだから好きなのを選ばせてあげなさい。お前の買い物じゃない」
と注意されていました笑 義理母はムスっとした顔で、
「あの子のためを思って選んでるのに何が悪い!?私は悪いことをしていない」
出た!私は悪いことをしていない発言!!またかーと思いながらも、赤いポットは次回でいいやと思い、義理母が選んだポットをとりあえず買うことにしました。義理父が申し訳なさそうに、
「無理してない?大丈夫?」
と声をかけてくれたので、大丈夫だよと答えました。義理父が気づいてくれただけで私の気持ちはスッキリしていたのでそれで充分でした笑
義理母はその後も、
「ほらね、あの子は私が選んだポットにしたわよ。やっぱり赤いのよりもっと素敵と思ったのね!」
とご満悦。どこまでポジティブなんだこの人は?笑
義理母の面白ストーリーはキリがありません。義理父がまともであってくれて本当に良かったと心から思いました笑
前回のブログでも紹介しましたが、うちの義理母は「何でも知りたがり屋」です。私達が普段何をして、何を食べて、誰に会っているのかなどなど、全て知りたいようです。私が何か言い忘れれば、だいたい私が教えてくれなかったから悪い方向に話しが進んでいき、姑お決まりの言葉で事が終わります。
「私は何も悪いことをしていない。私は良い人よ」
この言葉を聞くたびに、面白くなってきます。当時は笑って聞き流すことがしんどい時期もありましたが、今となれば「面白い」の一言です笑
娘を日本で出産し、オーストラリアへ戻ってきた一番最初の年、義理両親は私達夫婦にこういう言葉をかけてくれました。
「結婚1年記念日、二人で何か特別なことをして過ごしたらいいんじゃない?レストランにでも行って素敵な夜を過ごしてきなさい。私達が孫の面倒を見るわ」
あらなんて素敵お言葉に甘えて一晩、旦那と二人で久々に二人だけの時間を過ごしました。
夕方6時くらいに娘を義理両親宅に送り届け、二人で夜の街へ繰り出しました。夕飯を楽しんでいる時に、娘が気になり旦那に、電話かメールして大丈夫か聞いてみる?と言うと、
「せっかく面倒を見るのを自分達から買って出てくれたんだから、向こうから連絡がない限りとりあえず連絡しないでおこう。きっと大丈夫だよ」
と言われました。10時頃に全てを終えて娘を迎えに行くと、一番初めに言われた言葉に驚きました。
「もう私達はこの子の面倒を見ないわ。普段どんな育て方をしているの!?ものすごく手がかかるわ」
元々週1回会って話をしていたし、1日起きで電話をしていたので、普段どんな生活をし、どんな子育てをしているか大体把握しているはずでは?という疑問が浮かびましたが、一番最初に「おかえり、楽しかった?」などの言葉は一切なく、自分達がどれだけ大変だったかの話を永遠とされました。
オーストラリアでの子育て事情は日本のやり方と違うところが多々あり、私も最初は戸惑いましたが、今となればオーストラリア式の方が子供たちにとっても親に取っても余裕を持って子育てを楽しめる気がします。
オーストラリアでは、産まれたその日から赤ちゃんは自分の部屋が用意されており、両親と一緒に添い寝をする文化はありません。それから、スリーピングトレーニングと言い、抱っこして寝かしつけする癖をつけず、自分のベッドで自分で寝れるように、早い時期からトレーニングすることにより、親が子供が寝るまでベッドで付きっきりという事がありません。
私は娘を日本で出産したので、自分の母親に色々手伝ってもらいながら最初の3ヶ月間の子育てをしていたこともあり、日本式の子育てをしていました。そのため、義理両親に娘を預けたときに抱っこして寝かしつけることを拒否され、それによって泣き叫ぶ娘を”手のかかる子”と呼んだのでした。
「あまりにも寝ないので、車でドライブも連れてって大変だったのよー」
と言われ、娘を預かってもらったその日以来、会うたびに
「今は一人で寝せる練習しているの?2人目が産まれたら日本式はやめたほうがいいわね」
など、ちょっとした嫌味にも取れる言い方をされていました。「もっと大きくなって手がかからなくなったら面倒みてあげる」どんだけ上から目線なんじゃ!?と思いながらも、もう頼むことないと思うのでご心配なく、と心の中で思っていました。
娘が産まれてから、義理両親の
「二人目の予定は?大変だったらいつでも声をかけてねー」
の言葉が嘘丸出しで、絶対面倒なんか見てくれないくせによく言うわwと思いつつも、いつも聞き流していました。
私の誕生日。
「家にあるポットが古そうだから誕生日に新しいのを買ってあげるから一緒に買い物に行きましょう」
と誘われ、一緒に出掛けました。色々物色している中で、どんなのがいいの?と聞かれ、赤いのが欲しいと答えました。すると、
「赤?なんで赤?こっちの色の方がクールでいいんじゃない?」
とシルバーを指差し、「これにしましょ」
と箱を取りました。じゃぁ何でどんなのが欲しい?って聞いたんだよ?笑
これはさすがにと思ったのが、義理父が咄嗟に出てきて、
「お前それはないだろ、誕生日プレゼントとして買いに来てるんだから好きなのを選ばせてあげなさい。お前の買い物じゃない」
と注意されていました笑 義理母はムスっとした顔で、
「あの子のためを思って選んでるのに何が悪い!?私は悪いことをしていない」
出た!私は悪いことをしていない発言!!またかーと思いながらも、赤いポットは次回でいいやと思い、義理母が選んだポットをとりあえず買うことにしました。義理父が申し訳なさそうに、
「無理してない?大丈夫?」
と声をかけてくれたので、大丈夫だよと答えました。義理父が気づいてくれただけで私の気持ちはスッキリしていたのでそれで充分でした笑
義理母はその後も、
「ほらね、あの子は私が選んだポットにしたわよ。やっぱり赤いのよりもっと素敵と思ったのね!」
とご満悦。どこまでポジティブなんだこの人は?笑
義理母の面白ストーリーはキリがありません。義理父がまともであってくれて本当に良かったと心から思いました笑
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2022年04月05日
オーストラリアでの姑&嫁問題
結婚とはなんぞや?
もちろん人生を一生一緒に過ごすことを前提にその相手と結婚はするのですが、夫婦同士のけんかがあったり、それから相手側の家族とも関わっていくこととなります。
今回は、私が実際に姑&舅との関わりにおいての「いざこざ」を紹介しようと思います。
事の始まりは、娘と一緒にオーストラリアに来てまだ数ヶ月の時でした。
旦那は元々働いていたファームの仕事を続けており、週5日で仕事で、週末しかいませんでした。旦那が仕事に行っている間、私と娘は家で過ごすか、近所の公園に散歩に行くなりしていました。当時はまだ娘が生後数か月だったことから、そんなに頻繁に外に連れ出す必要もありませんでした。それでも家に閉じこもっている私達の事を心配してか、1日起きに私に電話をかけてくるようになりました。聞いてくる質問は毎回同じです。
・今日は何してたの?
・ランチ何食べたの?
・今日の夕飯のメニューは何?
・週末の予定は?(1日起きに電話をかけてくるのに次回の電話でもまた同じ質問をされます)
1日起きの電話は多いな〜と思いながらも、心配してくれて電話をくれてるんだろうと思い、最初のうちは感謝していました。
旦那が仕事に行くときに車を使っているので、私は当時自分の車がありませんでした。パースは車がないと移動がかなり不便です。特に子供がいればなおさら。車の免許に関しては、日本の免許証をそのままオーストラリアの免許センターに持って行けばパースの免許証を発行してくれます。(日本の免許証保持者には、実技も学科も試験が免除されており手書きでの書類申請のみで発行が可能です)
私が車を持っていないことから、義理の両親が1週間に1回、私と娘を家から連れ出してカフェに連れて行ってくれるようになりました。これも良かれを思って提案してくれていたので、私も喜んで誘いに乗っていました。
ある日のカフェでの会話で、娘の夜泣きがひどいと言う話から、旦那が次の日仕事なのに娘の泣き声でよく寝れないだろうと思い、違う部屋で寝ているという話をしたことがありました。これを聞いた途端、姑の表情が豹変して、
「じゃぁ一緒のベッドで寝ていないのね!?あなたたちの夫婦関係どうなっているの!?夜の営みは!??」
いやいや、姑に話す内容じゃないよね!?自分の息子の夜の夫婦事情聴きたいすか!?ビックリでした。これもカルチャーショックなのでしょうか?あまりにも踏み切った質問をされたので絶句しました。何と答えていいかわからないでいると、
「次回会ったとき、きちんと息子の相手をしてあげてるか聞くからね」
と言われました。オーストラリアでは姑はみんなこんなもんなんでしょうか??ちょっとショックでした。これは一応家族と言えどもプライバシーでは??
家に帰ってから旦那にその日の話をしました。姑がこんな事聞いてきたんだけど、こっちでは普通なの?と。
旦那は呆れた顔をして、普通ではないと思う。と答えました。そして旦那は、義理母が言うことは本気にするなと私に言いました。
その日のうちに旦那は義理母に電話をかけて、私に変な質問をするな!と釘をさしました。そして、私に1日起きに電話をかけてくるのはどうして?と聞いたそうです。そんなに話すこともないだろ?と言う意味で旦那は聞いたようなのですが、返ってきた返事が予想もつかない言葉でした。
「電話を1日起きにするなっていうこと?それは嫁が言ったの?迷惑だって言いたいの?私は何も悪いことを言っていない」
すごく否定的に捉えられてしまいました。その日から姑は私に電話をかけてくるのは1週間に1回になりました。そして1週間に1回カフェに連れて行ってくれていたのはほぼなくなり、旦那が一緒にいる時にたまに出かけるようになりました。あの電話の後に会ったときは、もしかして怒っているのかな?と思いましたが、普通に接してきてくれたので、敢えてその話題には触れませんでした。しかしその時に少し私と姑の間に溝が出来てしまった感じがありました。(私だけがそう感じていたのかもしれませんが。。)
そうこうしているうちに引っ越しが決まり、そのお祝いにと友達が乗っていた古い車をもらうことになり、私の行動範囲が一気に広がりました。前回のブログでも書きましたが、プレイグループ(ママグループ)にも参加するようになり、日本人の友達が増えて、私の外出する回数がどんどん増えていきました。
ちょうど引っ越して数ヶ月が経った頃、旦那が仕事を変えると言い出し、マイニング(鉱山)の仕事に行くことに決まりました。飛行機で仕事に行き、2週間仕事で1週間休みというシフトです。慣れるまではお互い大変でした。旦那は慣れない仕事に四苦八苦。私と娘は旦那が家にいない寂しさと、私はまだ新米ママで娘と2人暮らし状態で、何かあったらどうしようといつも不安でした。(空き巣に入られたり、娘が急に体調不良になったりしたら?と色々勝手に想像して怖がっていました)
そんな中、1週間に1回姑と電話で話すのは相変わらず続いていて、質問も相変わらず同じでした。ただ、1つ質問の内容が増えました。
・今日は誰と遊んだの?
です。誰って言っても私の友達全員を知っているわけではないので、「〇〇に住んでる人と」という言い方をよくしていました。
ある日の電話でのやり取りで、いつもの質問で、「週末何するの?」と聞かれました。旦那が新しい仕事で週末も家にいないことから、私は友達と会う予定を入れたりしていました。
私「〇〇に住んでいる人と会うよ」
姑「どこに行くの?」
私「アニマルファームに行く予定を立ててるよ」
※アニマルファームとは、にわとり、やぎ、馬、うさぎ、などなど草食動物がいる所で、動物にエサをあげたり、ポニーに乗ったりすることが出来ます。子供たちが遊べる遊具などもあり、ピクニックランチなどもする場所が設けてあるので、小さい子供と行くにはとても楽しい場所です。
姑「そっか〜楽しんでおいでね!だいたい何時くらいに行く予定なの?」
私「一応10時くらいを予定にしてるよー。昼寝の時間前に帰ってきたいから」
姑「そっかー楽しかったかどうかまた電話で教えてね〜」
こんな会話でした。普段通りの何気ない会話。
しかし実際ビックリしたのは、実際に友達と一緒にそのファームに行っていたときでした。
友達と時間通り現地集合で集まり、子供たちも楽しそうに遊び始めた頃でした。反対方面から、見たことがある二人がこちらに向かって歩いてきます。。。
義理両親でした・・・。
私は驚いて、「えっ!?ここで何してるの!?動物見にきたの!?」と聞くと、
「そんなわけないじゃない!あなた達に会いにきたのよ!コーヒーでも一緒に飲まない?」
と。・・・あの〜私今友達と一緒なんですけど??見たらわかるよね?と言いたいところを我慢して、
「せっかくこんな所で会えたから一緒にコーヒー飲みたいところだけど、今日は娘が友達と遊ぶために来てるから、また今度ね」
と丁寧にお断りして、その場を離れました。義理両親は私がコーヒーを断ったので、驚いたような顔をしながらも、じゃぁ違うところにコーヒー飲みに行くわ!と言ってそこを去っていきました。
衝撃的でした。。。待ち伏せをされていたようです。。。
友達にも、「あれ義理両親だよね?なんでここにいるの?」と聞かれ、「前回電話で話したときにこのファームに行くことを教えたから会いに来たんだと思う」と答えると、「ストーカー行為じゃん?笑」と言われました。
ストーカーとまでは言いませんが、私達に会うために足を運んできたことは確かでした。。。
この事を旦那にまた相談すると、旦那は本当にウンザリした様子でまた姑に電話をかけてこの話を出すと、逆切れしてきたそうです。
「自分の孫に会いに行って何が悪いの?〇〇(私)が全然会ってくれないからこっちからわざわざ会いに行ってあげたんじゃない!?」
・・・その時も2週間に1度は会ってました。確かに前は1週間に1回会ってたし、電話も1日起きだったのが、2週間に1回旦那が家にいる時と、電話は1週間に1度に減りました。それでも足りなかったそうです。せめて私に直接電話でも会ったときにでもいいので話してくれればいいのに。。。友達と遊びに行っている場所まで来られたら、私もだし友達も良い気分はしないです。
挙句の果てに、前回も言っていた、「私は何も悪いことはしていない!!私は良い人よ!」と。
もう面白くなってきました。きっとこういう人なんだと思います。疑問に思うことはたくさんありますが、直接いじめに合ったりしたわけではないので、うまくやっていこうと思います
もちろん人生を一生一緒に過ごすことを前提にその相手と結婚はするのですが、夫婦同士のけんかがあったり、それから相手側の家族とも関わっていくこととなります。
今回は、私が実際に姑&舅との関わりにおいての「いざこざ」を紹介しようと思います。
事の始まりは、娘と一緒にオーストラリアに来てまだ数ヶ月の時でした。
旦那は元々働いていたファームの仕事を続けており、週5日で仕事で、週末しかいませんでした。旦那が仕事に行っている間、私と娘は家で過ごすか、近所の公園に散歩に行くなりしていました。当時はまだ娘が生後数か月だったことから、そんなに頻繁に外に連れ出す必要もありませんでした。それでも家に閉じこもっている私達の事を心配してか、1日起きに私に電話をかけてくるようになりました。聞いてくる質問は毎回同じです。
・今日は何してたの?
・ランチ何食べたの?
・今日の夕飯のメニューは何?
・週末の予定は?(1日起きに電話をかけてくるのに次回の電話でもまた同じ質問をされます)
1日起きの電話は多いな〜と思いながらも、心配してくれて電話をくれてるんだろうと思い、最初のうちは感謝していました。
旦那が仕事に行くときに車を使っているので、私は当時自分の車がありませんでした。パースは車がないと移動がかなり不便です。特に子供がいればなおさら。車の免許に関しては、日本の免許証をそのままオーストラリアの免許センターに持って行けばパースの免許証を発行してくれます。(日本の免許証保持者には、実技も学科も試験が免除されており手書きでの書類申請のみで発行が可能です)
私が車を持っていないことから、義理の両親が1週間に1回、私と娘を家から連れ出してカフェに連れて行ってくれるようになりました。これも良かれを思って提案してくれていたので、私も喜んで誘いに乗っていました。
ある日のカフェでの会話で、娘の夜泣きがひどいと言う話から、旦那が次の日仕事なのに娘の泣き声でよく寝れないだろうと思い、違う部屋で寝ているという話をしたことがありました。これを聞いた途端、姑の表情が豹変して、
「じゃぁ一緒のベッドで寝ていないのね!?あなたたちの夫婦関係どうなっているの!?夜の営みは!??」
いやいや、姑に話す内容じゃないよね!?自分の息子の夜の夫婦事情聴きたいすか!?ビックリでした。これもカルチャーショックなのでしょうか?あまりにも踏み切った質問をされたので絶句しました。何と答えていいかわからないでいると、
「次回会ったとき、きちんと息子の相手をしてあげてるか聞くからね」
と言われました。オーストラリアでは姑はみんなこんなもんなんでしょうか??ちょっとショックでした。これは一応家族と言えどもプライバシーでは??
家に帰ってから旦那にその日の話をしました。姑がこんな事聞いてきたんだけど、こっちでは普通なの?と。
旦那は呆れた顔をして、普通ではないと思う。と答えました。そして旦那は、義理母が言うことは本気にするなと私に言いました。
その日のうちに旦那は義理母に電話をかけて、私に変な質問をするな!と釘をさしました。そして、私に1日起きに電話をかけてくるのはどうして?と聞いたそうです。そんなに話すこともないだろ?と言う意味で旦那は聞いたようなのですが、返ってきた返事が予想もつかない言葉でした。
「電話を1日起きにするなっていうこと?それは嫁が言ったの?迷惑だって言いたいの?私は何も悪いことを言っていない」
すごく否定的に捉えられてしまいました。その日から姑は私に電話をかけてくるのは1週間に1回になりました。そして1週間に1回カフェに連れて行ってくれていたのはほぼなくなり、旦那が一緒にいる時にたまに出かけるようになりました。あの電話の後に会ったときは、もしかして怒っているのかな?と思いましたが、普通に接してきてくれたので、敢えてその話題には触れませんでした。しかしその時に少し私と姑の間に溝が出来てしまった感じがありました。(私だけがそう感じていたのかもしれませんが。。)
そうこうしているうちに引っ越しが決まり、そのお祝いにと友達が乗っていた古い車をもらうことになり、私の行動範囲が一気に広がりました。前回のブログでも書きましたが、プレイグループ(ママグループ)にも参加するようになり、日本人の友達が増えて、私の外出する回数がどんどん増えていきました。
ちょうど引っ越して数ヶ月が経った頃、旦那が仕事を変えると言い出し、マイニング(鉱山)の仕事に行くことに決まりました。飛行機で仕事に行き、2週間仕事で1週間休みというシフトです。慣れるまではお互い大変でした。旦那は慣れない仕事に四苦八苦。私と娘は旦那が家にいない寂しさと、私はまだ新米ママで娘と2人暮らし状態で、何かあったらどうしようといつも不安でした。(空き巣に入られたり、娘が急に体調不良になったりしたら?と色々勝手に想像して怖がっていました)
そんな中、1週間に1回姑と電話で話すのは相変わらず続いていて、質問も相変わらず同じでした。ただ、1つ質問の内容が増えました。
・今日は誰と遊んだの?
です。誰って言っても私の友達全員を知っているわけではないので、「〇〇に住んでる人と」という言い方をよくしていました。
ある日の電話でのやり取りで、いつもの質問で、「週末何するの?」と聞かれました。旦那が新しい仕事で週末も家にいないことから、私は友達と会う予定を入れたりしていました。
私「〇〇に住んでいる人と会うよ」
姑「どこに行くの?」
私「アニマルファームに行く予定を立ててるよ」
※アニマルファームとは、にわとり、やぎ、馬、うさぎ、などなど草食動物がいる所で、動物にエサをあげたり、ポニーに乗ったりすることが出来ます。子供たちが遊べる遊具などもあり、ピクニックランチなどもする場所が設けてあるので、小さい子供と行くにはとても楽しい場所です。
姑「そっか〜楽しんでおいでね!だいたい何時くらいに行く予定なの?」
私「一応10時くらいを予定にしてるよー。昼寝の時間前に帰ってきたいから」
姑「そっかー楽しかったかどうかまた電話で教えてね〜」
こんな会話でした。普段通りの何気ない会話。
しかし実際ビックリしたのは、実際に友達と一緒にそのファームに行っていたときでした。
友達と時間通り現地集合で集まり、子供たちも楽しそうに遊び始めた頃でした。反対方面から、見たことがある二人がこちらに向かって歩いてきます。。。
義理両親でした・・・。
私は驚いて、「えっ!?ここで何してるの!?動物見にきたの!?」と聞くと、
「そんなわけないじゃない!あなた達に会いにきたのよ!コーヒーでも一緒に飲まない?」
と。・・・あの〜私今友達と一緒なんですけど??見たらわかるよね?と言いたいところを我慢して、
「せっかくこんな所で会えたから一緒にコーヒー飲みたいところだけど、今日は娘が友達と遊ぶために来てるから、また今度ね」
と丁寧にお断りして、その場を離れました。義理両親は私がコーヒーを断ったので、驚いたような顔をしながらも、じゃぁ違うところにコーヒー飲みに行くわ!と言ってそこを去っていきました。
衝撃的でした。。。待ち伏せをされていたようです。。。
友達にも、「あれ義理両親だよね?なんでここにいるの?」と聞かれ、「前回電話で話したときにこのファームに行くことを教えたから会いに来たんだと思う」と答えると、「ストーカー行為じゃん?笑」と言われました。
ストーカーとまでは言いませんが、私達に会うために足を運んできたことは確かでした。。。
この事を旦那にまた相談すると、旦那は本当にウンザリした様子でまた姑に電話をかけてこの話を出すと、逆切れしてきたそうです。
「自分の孫に会いに行って何が悪いの?〇〇(私)が全然会ってくれないからこっちからわざわざ会いに行ってあげたんじゃない!?」
・・・その時も2週間に1度は会ってました。確かに前は1週間に1回会ってたし、電話も1日起きだったのが、2週間に1回旦那が家にいる時と、電話は1週間に1度に減りました。それでも足りなかったそうです。せめて私に直接電話でも会ったときにでもいいので話してくれればいいのに。。。友達と遊びに行っている場所まで来られたら、私もだし友達も良い気分はしないです。
挙句の果てに、前回も言っていた、「私は何も悪いことはしていない!!私は良い人よ!」と。
もう面白くなってきました。きっとこういう人なんだと思います。疑問に思うことはたくさんありますが、直接いじめに合ったりしたわけではないので、うまくやっていこうと思います
プレイグループ
オーストラリアではよく耳にする「Play Group」プレイグループという言葉。日本でいうママグループ的なもので、毎週何曜日と曜日と時間が決まっており、その時間にみんなで集まって子供たちを遊ばせながら、ママ同士で情報交換などをする場です。
オーストラリアは移民の国なので、たくさんの人種が住んでおり、それぞれのコミュニティでプレイグループが作られています。もちろん、ローカルのコミュニティで作られているプレイグループも多数あるので、どのプレイグループに所属するかは個人の自由です。
私は娘が産まれてから半年ほどで新しい場所に引っ越したことをキッカケに、近所のプレイグループに入りました。最初に選んだのは、日本人プレイグループでした。同じエリア内に住んでいる日本人が毎週水曜日に決められた公園で集まり、みんなでランチしたり、色んな情報交換を交換し合いました。
子供が産まれてからは、自分の英語力に力を入れるだけでなく、娘に日本語と英語を学んでもらうべく、バイリンガルに育てる環境を出来る限り作る努力をすることにしました。旦那が仕事に行っている間は家の中は完全なる日本語環境にしました。私が娘に話しかける時はもちろん日本語、テレビや音楽も全て日本語にしました。外出時の車の中で聞く音楽も日本の童謡やアンパンマンなどをよく聴いていました。
☆日本人プレイグループのメリット&デメリット
メリット
・同じ年の子供たちがいることで、先輩ママに育児の相談などできる
・子供の習い事事情を聞ける
・ママ達の英語力を伸ばすためのローカル英会話教室情報などももらえる
・日本食品の安い購入場所や、オーストラリアにある材料で作れる日本食の調理方法などを教えてもらえる
・新しい公園情報がもらえる
・子供の病気に関すること、病院情報など教えてもらえる
などなど。日本人同士ならではの、ありがたい情報がたくさん手に入る場所です。このママ達からの情報はオーストラリアで子育てするのに本当に役に立ちました。特に子供が小さいうちは、新米ママにとって心配ごとがたくさんあります。そして日本の家族が近くにいないことから、みんなで助け合い、支え合って生活していけます。
デメリット
・英語を忘れていく・・・
くらいですかね笑 オーストラリアで生活しているのを忘れるくらい日本語環境になります。プレイグループ自体は1週間に1回なのですが、そのプレイグループ内で仲良くなった子たち同士で別な日に遊ぶ機会が増えて、結果、日本語環境が増えたって感じですね️
娘が2歳になるくらいまでは、日本人プレイグループだけに参加していたのですが、2歳を過ぎた頃、英語を一切話さなかったので、オーストラリアに住んでいるのにそれはある意味危機だと思い、ローカルのプレイグループにも行くようになりました。
そのプレイグループによりますが、公園で集まったり、コミュニティセンターの一室を借りて集まったりとそれぞれです。プレイグループを通して新しい人脈を作ったり、情報交換が出来て、すごく良い環境だったと思います
日本でのママグループは経験がないのでどんな感じか気になりますが、目的は一緒なので大体似た感じですかね?
私は日本人プレイグループも、ローカルも、それぞれの良さがあって良かったと思いますローカルのは、色んな国柄のママさん達がいて面白かったですよ️
オーストラリアは移民の国なので、たくさんの人種が住んでおり、それぞれのコミュニティでプレイグループが作られています。もちろん、ローカルのコミュニティで作られているプレイグループも多数あるので、どのプレイグループに所属するかは個人の自由です。
私は娘が産まれてから半年ほどで新しい場所に引っ越したことをキッカケに、近所のプレイグループに入りました。最初に選んだのは、日本人プレイグループでした。同じエリア内に住んでいる日本人が毎週水曜日に決められた公園で集まり、みんなでランチしたり、色んな情報交換を交換し合いました。
子供が産まれてからは、自分の英語力に力を入れるだけでなく、娘に日本語と英語を学んでもらうべく、バイリンガルに育てる環境を出来る限り作る努力をすることにしました。旦那が仕事に行っている間は家の中は完全なる日本語環境にしました。私が娘に話しかける時はもちろん日本語、テレビや音楽も全て日本語にしました。外出時の車の中で聞く音楽も日本の童謡やアンパンマンなどをよく聴いていました。
☆日本人プレイグループのメリット&デメリット
メリット
・同じ年の子供たちがいることで、先輩ママに育児の相談などできる
・子供の習い事事情を聞ける
・ママ達の英語力を伸ばすためのローカル英会話教室情報などももらえる
・日本食品の安い購入場所や、オーストラリアにある材料で作れる日本食の調理方法などを教えてもらえる
・新しい公園情報がもらえる
・子供の病気に関すること、病院情報など教えてもらえる
などなど。日本人同士ならではの、ありがたい情報がたくさん手に入る場所です。このママ達からの情報はオーストラリアで子育てするのに本当に役に立ちました。特に子供が小さいうちは、新米ママにとって心配ごとがたくさんあります。そして日本の家族が近くにいないことから、みんなで助け合い、支え合って生活していけます。
デメリット
・英語を忘れていく・・・
くらいですかね笑 オーストラリアで生活しているのを忘れるくらい日本語環境になります。プレイグループ自体は1週間に1回なのですが、そのプレイグループ内で仲良くなった子たち同士で別な日に遊ぶ機会が増えて、結果、日本語環境が増えたって感じですね️
娘が2歳になるくらいまでは、日本人プレイグループだけに参加していたのですが、2歳を過ぎた頃、英語を一切話さなかったので、オーストラリアに住んでいるのにそれはある意味危機だと思い、ローカルのプレイグループにも行くようになりました。
そのプレイグループによりますが、公園で集まったり、コミュニティセンターの一室を借りて集まったりとそれぞれです。プレイグループを通して新しい人脈を作ったり、情報交換が出来て、すごく良い環境だったと思います
日本でのママグループは経験がないのでどんな感じか気になりますが、目的は一緒なので大体似た感じですかね?
私は日本人プレイグループも、ローカルも、それぞれの良さがあって良かったと思いますローカルのは、色んな国柄のママさん達がいて面白かったですよ️
2022年04月04日
2年ぶりのオーストラリア・パース🦘
やっと、やっと、やっと、やーーーーっと戻ってきました!!オーストラリア!!
懐かしいシェアハウス いろんな思い出がたくさん蘇ってきます楽しかった事、嫌だった事、大変だった事、それでも乗り越えた結果、自分のためになった事☆オーストラリアに来て人生が、そして人間としての考え方なども色々変わったことを全て思い出しました
住む家も同じ、景色も同じ、知ってる友達もまだちらほらいる中で、大きく違うこと・・・
それは・・・
自分が母親になっていることと、娘がいること
今まで住んでた時は、多少家が汚れていても気にしていませんでした。それに自分の家ではなく、シェアハウスとして住ませてもらっている立場だったので文句も何も言えませんでした。しかし今回は、今までシェアハウスだったこの家は自分と娘の家でもあります。
家の汚れがものすごく気になりました。潔癖症とまではいきませんが、子供と一緒に生活していく上で、このカーペットに上に娘を寝かせたくない、ファームの仕事で着た泥だらけの洋服を洗っている洗濯機で、娘の洗濯物を一緒に洗いたくない、などの不満が出てきました。子供がいるといないで、こんなにも気持ちが違うものか!?と自分で驚きました。
洗濯機だけはどうしても使いたくなくて、そのことを旦那に話すと、すごくタイミングの良いことに、旦那の両親が結婚祝いに新しい洗濯機を買ってくれるというのですこんなに良い話を頂いていいものか!?と感動でした!!洗濯機は1週間以内に届くということを知り、新しい洗濯機が届くまで娘の洗濯物は手洗いして過ごしました笑
もうひとつ私の気がかりだった家の床。オーストラリアはもちろん土足で家の中に入ります。玄関の外にマットが置いてあり、そこで泥や砂を落としてはいるのですが、日本で生まれ育った私からすれば、マットで靴の裏をちょっとこすったくらいじゃ汚れなんか取れるわけがない!!という考えでした。そんな靴で家の中に入り、カーペットの上を歩き、そのカーペットの上で娘が横になったりハイハイしたりする姿を想像するだけでぞっとしました。私は潔癖症なのか!?そうなのか!?ものすごく考えましたが、おそらくオーストラリアに戻ってくるまで2年弱あったことのギャップと、そもそも新生児がいることによって生じる一時的な神経質な部分かと思います。
それも旦那に話しました。幸い娘はまだ生後3ヶ月で、ハイハイするまでにまだ半年ほどあるかと思い、それまではとりあえず新しいカーペットを買い、新しい方のカーペットの上で過ごさせようと考えました。旦那はそれに承諾してくれて、娘がハイハイ始める前までに引っ越すことも考えてくれると言ってくれました。至れり尽くせりで万々歳です自分のわがままに付き合ってくれてありがとう
引っ越し先の家を探し始めたのは、娘が生後4か月を過ぎた頃でした。さすがに家を買うほどの貯金はなかったので、とりあえずの引っ越し先は貸家です。
家を借りることへの条件☆
・アパートなどではない1軒屋
・旦那の職場から遠すぎないこと
・床が全てフローリングであること(カーペットが埋め込みされている家はすぐ汚れるので)
・庭が広い所
・3ベッドルーム以上
私達が住んでいる地域では、このくらいの条件だったらほぼ当てはまるので探すのはそう難しくはありませんでした。家賃も今の貸家より少し上がるくらいがほとんどで、そんなに変わりはありませんでした。
1か月くらいかけて、色んな家を見に行きました。結果、当時住んでいた家から車で片道20分ほどシティよりの場所に家を借りることにしました。旦那の職場までの距離は、結果長くなってしまったのですが、近所に公園、スーパー、病院などが全て揃っていて生活しやすい場所でした。別の家に引っ越しです!!家具などもそんなに多くなかったので、業者に頼まず全て自分達で荷物を運びました。赤ちゃんが一緒の引っ越しは本当に大変でしたが、ラッキーなことに娘はまだ小さかったのでどうにかあやしながら全て終わらせました。引っ越しが終わり、全てが落ち着いたときには、娘は生後5ヶ月半ほどでした。
引っ越しの日程が決まり、家の鍵をもらったその日から毎日早朝、みんなが起きる前に床のモップがけを1週間欠かさずやりました。旦那と娘が起きた頃には床が乾いている状態にしたかったからです。3日目くらいまでは、モップを洗う水が真っ黒になっていました。それほど床が汚かったことが証明されました笑
毎日毎日床磨きをし、1週間を過ぎたあたりから、もうだいたい大丈夫だろうということで、1週間に1回のモップがけに切り替えました。
娘は生後5ヶ月に入ったときから、うつ伏せ状態から器用に腕と足を動かし始めました。1か月も経たないうちに、うつ伏せのまま前進できるようになっていました。これはハイハイし始めるのも早いかもな〜と思っていたときでした。娘は6か月に入って間もなく、自分でコツをつかんだのか、ハイハイを器用にするようになりました。6か月でハイハイを始めるとは思っていなかったので、その時までに引っ越しが終わってて本当に良かったと思いました
オーストラリアに戻ってきてからの3ヶ月の間に引っ越しも済ませ、これからの3人家族新しい家で新しい生活スタートです
懐かしいシェアハウス いろんな思い出がたくさん蘇ってきます楽しかった事、嫌だった事、大変だった事、それでも乗り越えた結果、自分のためになった事☆オーストラリアに来て人生が、そして人間としての考え方なども色々変わったことを全て思い出しました
住む家も同じ、景色も同じ、知ってる友達もまだちらほらいる中で、大きく違うこと・・・
それは・・・
自分が母親になっていることと、娘がいること
今まで住んでた時は、多少家が汚れていても気にしていませんでした。それに自分の家ではなく、シェアハウスとして住ませてもらっている立場だったので文句も何も言えませんでした。しかし今回は、今までシェアハウスだったこの家は自分と娘の家でもあります。
家の汚れがものすごく気になりました。潔癖症とまではいきませんが、子供と一緒に生活していく上で、このカーペットに上に娘を寝かせたくない、ファームの仕事で着た泥だらけの洋服を洗っている洗濯機で、娘の洗濯物を一緒に洗いたくない、などの不満が出てきました。子供がいるといないで、こんなにも気持ちが違うものか!?と自分で驚きました。
洗濯機だけはどうしても使いたくなくて、そのことを旦那に話すと、すごくタイミングの良いことに、旦那の両親が結婚祝いに新しい洗濯機を買ってくれるというのですこんなに良い話を頂いていいものか!?と感動でした!!洗濯機は1週間以内に届くということを知り、新しい洗濯機が届くまで娘の洗濯物は手洗いして過ごしました笑
もうひとつ私の気がかりだった家の床。オーストラリアはもちろん土足で家の中に入ります。玄関の外にマットが置いてあり、そこで泥や砂を落としてはいるのですが、日本で生まれ育った私からすれば、マットで靴の裏をちょっとこすったくらいじゃ汚れなんか取れるわけがない!!という考えでした。そんな靴で家の中に入り、カーペットの上を歩き、そのカーペットの上で娘が横になったりハイハイしたりする姿を想像するだけでぞっとしました。私は潔癖症なのか!?そうなのか!?ものすごく考えましたが、おそらくオーストラリアに戻ってくるまで2年弱あったことのギャップと、そもそも新生児がいることによって生じる一時的な神経質な部分かと思います。
それも旦那に話しました。幸い娘はまだ生後3ヶ月で、ハイハイするまでにまだ半年ほどあるかと思い、それまではとりあえず新しいカーペットを買い、新しい方のカーペットの上で過ごさせようと考えました。旦那はそれに承諾してくれて、娘がハイハイ始める前までに引っ越すことも考えてくれると言ってくれました。至れり尽くせりで万々歳です自分のわがままに付き合ってくれてありがとう
引っ越し先の家を探し始めたのは、娘が生後4か月を過ぎた頃でした。さすがに家を買うほどの貯金はなかったので、とりあえずの引っ越し先は貸家です。
家を借りることへの条件☆
・アパートなどではない1軒屋
・旦那の職場から遠すぎないこと
・床が全てフローリングであること(カーペットが埋め込みされている家はすぐ汚れるので)
・庭が広い所
・3ベッドルーム以上
私達が住んでいる地域では、このくらいの条件だったらほぼ当てはまるので探すのはそう難しくはありませんでした。家賃も今の貸家より少し上がるくらいがほとんどで、そんなに変わりはありませんでした。
1か月くらいかけて、色んな家を見に行きました。結果、当時住んでいた家から車で片道20分ほどシティよりの場所に家を借りることにしました。旦那の職場までの距離は、結果長くなってしまったのですが、近所に公園、スーパー、病院などが全て揃っていて生活しやすい場所でした。別の家に引っ越しです!!家具などもそんなに多くなかったので、業者に頼まず全て自分達で荷物を運びました。赤ちゃんが一緒の引っ越しは本当に大変でしたが、ラッキーなことに娘はまだ小さかったのでどうにかあやしながら全て終わらせました。引っ越しが終わり、全てが落ち着いたときには、娘は生後5ヶ月半ほどでした。
引っ越しの日程が決まり、家の鍵をもらったその日から毎日早朝、みんなが起きる前に床のモップがけを1週間欠かさずやりました。旦那と娘が起きた頃には床が乾いている状態にしたかったからです。3日目くらいまでは、モップを洗う水が真っ黒になっていました。それほど床が汚かったことが証明されました笑
毎日毎日床磨きをし、1週間を過ぎたあたりから、もうだいたい大丈夫だろうということで、1週間に1回のモップがけに切り替えました。
娘は生後5ヶ月に入ったときから、うつ伏せ状態から器用に腕と足を動かし始めました。1か月も経たないうちに、うつ伏せのまま前進できるようになっていました。これはハイハイし始めるのも早いかもな〜と思っていたときでした。娘は6か月に入って間もなく、自分でコツをつかんだのか、ハイハイを器用にするようになりました。6か月でハイハイを始めるとは思っていなかったので、その時までに引っ越しが終わってて本当に良かったと思いました
オーストラリアに戻ってきてからの3ヶ月の間に引っ越しも済ませ、これからの3人家族新しい家で新しい生活スタートです
2022年04月03日
Honey
私の趣味と言っても過言ではないハチミツ愛
私は毎日朝食にハチミツを食べます。
・ヨーグルト&ハチミツ
・オーツ&ハチミツ
・トースト&ハチミツ
・胡桃パン&ハチミツ
・ライスクラッカー&ハチミツ
かぼちゃスープにもハチミツケーキやクッキーを作る時も砂糖は一切使わず代わりにハチミツ
私が住んでいる西オーストラリアは、ハチミツの店が各地にあります。普通のスーパーにも色んな種類のハチミツが売っていますし、お土産屋さんにも数多く売っています。
オーストラリアの隣国、ニュージーランドで取れるハチミツ、”マヌカハニー”がだいたいお土産屋にも売っていますが、抗菌作用の高い蜂蜜としてとても有名です。抗菌作用を表す際に使われる『TA20+』などはTotal Activity(トータルアクティビティ)の略で、この数字が高いほど抗菌作用が高くなり値段も高くなります。ただ、マヌカハニーを購入する場合は、オーストラリア産とニュージーランド産の物があるので、お好きな方をどうぞ☆どちらもleptospermum scorpariumと言う種類の木から採取しているのですが、ニュージーランドの先住民族マオリ族がその木をマヌカと呼んだことからその名前がつきました。leptospermum scorpariumの木はオーストラリアの南部を原産地としていますが、昔ニュージーランドに輸出されて以来、繁殖に大成功し、ニュージーランド全土にこの木が広がったことにより、ニュージーランド産のマヌカハニーは色んな研究を積み重ねてマーケティングに成功したと言われています。結果、マヌカハニーと言う名前が多く知られているのはそのせいです。ただ、マヌカハニーは確かに抗菌作用が高く美容効果、健康食品として名が知られていますが、とにかく価格が高いです。それなりの価値があるのでしょう
私が住むオーストラリアのパースではJarrah Honeyジャラハニーが有名です。癖がなく濃厚で黒蜜のような非常に上品な甘みを持っています。こちらも抗菌・抗酸化作用が高く、ミネラルも豊富です。私は普段ジャラハニーをよく買っていますが、お店に行くと色んなスパイスが混ざったものから、ニンニク入りやショウガ入りなどたくさんの種類があります。ハチミツだけでなく、ハチミツ入りアイスクリームや、ハチミツ入りハンドクリームなども売っているので、色々使い比べ、食べ比べをするのもとても楽しいです。
今日私が言ったハチミツのお店は、West Coast Honey(ウェストコーストハニー)です。
興味のある方はウェブサイトを見てみてくさい
↓ ↓ ↓
https://westcoasthoney.com.au/
私が今回購入したハチミツは、
・Whitegum Honey
・Ginger Infused Honey
・Creamed Comb Honey
・Floating Comb Honey
・Honey&Spice Nuts
です。
ハチミツ効果かどうかはわかりませんが、私は本当に風邪を引くこともありません体調を壊すことも滅多にありません。最後に体調不良になったのがいつかも覚えていないくらいです笑
これから毎日の朝食がまた楽しみです
私は毎日朝食にハチミツを食べます。
・ヨーグルト&ハチミツ
・オーツ&ハチミツ
・トースト&ハチミツ
・胡桃パン&ハチミツ
・ライスクラッカー&ハチミツ
かぼちゃスープにもハチミツケーキやクッキーを作る時も砂糖は一切使わず代わりにハチミツ
私が住んでいる西オーストラリアは、ハチミツの店が各地にあります。普通のスーパーにも色んな種類のハチミツが売っていますし、お土産屋さんにも数多く売っています。
オーストラリアの隣国、ニュージーランドで取れるハチミツ、”マヌカハニー”がだいたいお土産屋にも売っていますが、抗菌作用の高い蜂蜜としてとても有名です。抗菌作用を表す際に使われる『TA20+』などはTotal Activity(トータルアクティビティ)の略で、この数字が高いほど抗菌作用が高くなり値段も高くなります。ただ、マヌカハニーを購入する場合は、オーストラリア産とニュージーランド産の物があるので、お好きな方をどうぞ☆どちらもleptospermum scorpariumと言う種類の木から採取しているのですが、ニュージーランドの先住民族マオリ族がその木をマヌカと呼んだことからその名前がつきました。leptospermum scorpariumの木はオーストラリアの南部を原産地としていますが、昔ニュージーランドに輸出されて以来、繁殖に大成功し、ニュージーランド全土にこの木が広がったことにより、ニュージーランド産のマヌカハニーは色んな研究を積み重ねてマーケティングに成功したと言われています。結果、マヌカハニーと言う名前が多く知られているのはそのせいです。ただ、マヌカハニーは確かに抗菌作用が高く美容効果、健康食品として名が知られていますが、とにかく価格が高いです。それなりの価値があるのでしょう
私が住むオーストラリアのパースではJarrah Honeyジャラハニーが有名です。癖がなく濃厚で黒蜜のような非常に上品な甘みを持っています。こちらも抗菌・抗酸化作用が高く、ミネラルも豊富です。私は普段ジャラハニーをよく買っていますが、お店に行くと色んなスパイスが混ざったものから、ニンニク入りやショウガ入りなどたくさんの種類があります。ハチミツだけでなく、ハチミツ入りアイスクリームや、ハチミツ入りハンドクリームなども売っているので、色々使い比べ、食べ比べをするのもとても楽しいです。
今日私が言ったハチミツのお店は、West Coast Honey(ウェストコーストハニー)です。
興味のある方はウェブサイトを見てみてくさい
↓ ↓ ↓
https://westcoasthoney.com.au/
私が今回購入したハチミツは、
・Whitegum Honey
・Ginger Infused Honey
・Creamed Comb Honey
・Floating Comb Honey
・Honey&Spice Nuts
です。
ハチミツ効果かどうかはわかりませんが、私は本当に風邪を引くこともありません体調を壊すことも滅多にありません。最後に体調不良になったのがいつかも覚えていないくらいです笑
これから毎日の朝食がまた楽しみです
2022年04月02日
妊娠&切迫流産/早産
私は妊娠8週目くらいの時に、下着に茶色いシミが着いているのに気が付きました。まさかそれが古い血だったとも知らずに、初めての妊娠だったこともあり、こういう事もあるのかな?くらいに思っていました。
それから数週間経った妊娠11週目。夜中に下着が濡れている違和感で目を覚ましました。下着が全て濡れてしまうほどの量の出血でした。翌日に病院に行くと、切迫流産と診断されました。その日に病院で点滴を打ち、出血を止める薬をもらって帰宅しましたが、絶対安静との指示が出ました。子宮内で出血があるので、もし数日以内に出血が止まらなければ入院しなければいけないと言われました。赤ちゃんは元気でした。
妊娠12週目。子宮内の出血が止まっていないため入院確定。赤ちゃんが入っている袋の周りに血の塊があるらしく、袋全体がもしその血の塊で覆われてしまった場合、母体から赤ちゃんに血が送られなくなって流産になってしまうらしい。その日から24時間点滴が始まりました。
妊娠13週。赤ちゃんが入っている袋の3分の1が血で埋め尽くされているらしい。その血によって感染症を起こす恐れがあるらしいと聞いて急に怖くなりました。感染症で赤ちゃんが死亡する確率もあるらしいです。
妊娠14週。まだ出血が続いています。下着が濡れるほど出血してから1か月、今だに子宮内の出血が見られるのは本当に怖い。入院部屋が個室に移されました。この日からトイレにすら歩いてはいけないと指示が出て、個室のポータブルトイレ生活になりました。病院の先生に、出血の量とか様子は、入院始めのときよりは良くなっていますか?と質問すると、「悪くはなっていない」それだけ返事をもらいました。この1か月近くの24時間点滴をし、丸一日中ベッドに横になるだけの生活で良くなっていないってどういうこと!?不安でいっぱいでした。
入院生活1か月が過ぎて、やっとシャンプーの許しが出ました。毎日毎日、体と頭が痒くて寝れたもんじゃありませんでした。髪はベトベトし、体は自分でも臭い、切迫流産が理由としてもこんなに長い間シャワーも入れず、頭も洗えず、衛生的に良くなさすぎじゃないかと思いました。私はこの病院しか知らないので、他の病院ではどのようなシステムなのかは知りませんが、こんなに長い間シャワーさえも浴びれないものなのでしょか??シャンプーも好きな時に出来るわけではなく、時間指定までされました。1か月も洗っていないので、1回のシャンプーでは頭皮の油が洗い落ちません。数回洗ってやっと綺麗になった感がありました。
妊娠16週で出血がやっと止まり、点滴が外されました。毎日毎日点滴の針を刺し直し、腕全体があざだらけでした。腕には刺す場所がなさすぎて、一度は足にも刺したほどでした。これほどにも注射が嫌だと思ったことはありません。点滴がなくなった代わりに、飲み薬を飲むことになりました。「リメトラーク」という薬で、副作用が強く、手が震えたり動機が激しかったです。
妊娠19週目。外出許可が出ました!!家で過ごす以外の外出は一切認められませんでしたが、病室で過ごすよりも何十倍も居心地が良い!!24時間後には病院に戻らないといけませんでしたが、良い気分転換になりました☆
この1泊家で過ごし、次の日には病院に戻るという過程を通し、問題がなかったことから退院日が決まり、外出許可が出た数日後に長い入院生活にピリオドを打ち、ようやく退院することが出来ました。
妊娠24週目。7か月に突入し、赤ちゃんの体重は800gなり順調。相変わらず家でもお腹の張り止めの薬を処方されて飲み続ける日々。病院の先生から無駄な外出はせずになるべく安静に生活するように言われていました。無理してまたあのしんどい入院生活に戻りたくないので、最低限の外出だけして過ごしていると、旦那が、
「病院の先生は大袈裟な気がするから、もう7か月も過ぎたことだし、自由に行動し、運動も始めた方がいい」
と言ってきました。私も内心、先生は大袈裟なんじゃないか?と疑ったこともありましたが、あのしんどい入院生活へのトラウマ、実際に自分のお腹に命が宿っていて自分の行動一つで赤ちゃんに何か影響するかと思うと、下手なことはできません。旦那の言いたいことはわかりますが、下手に動いて赤ちゃんに万が一のことが起きて後悔することだけはどうしても嫌だったので、先生の言いつけを守って生活しました。
妊娠7ヶ月〜8ヶ月にかけて、便秘が一気にひどくなりました。妊娠前は便秘知らずの生活を送っていたので、便秘がこんなにしんどいということを初めて知りました。薬と飲まない限り、全く排出できませんでした。便秘も続いたせいもあり、このあたりから体重が一気に増えました。8ヶ月検診の体重測定で、トータル5キロ増えていたことに、先生はものすごい剣幕で怒ってきました。私は初めて妊娠がわかって検診に来たときに、
「妊娠後期まで5キロ以上は増やさないでください」
と先生から言われていました。私がもともと痩せている方ではなかったことから、必要以上の体重増加は妊娠中毒症になる恐れがあるから気をつけなさいという事でした。それにしても妊娠8ヶ月で5キロって頑張っている方じゃないかと自分なりに思っていましたが、先生側からはNGだったようです。痩せてはいませんが、大きすぎることもないと自分では思っていたんですけどね。。。
妊娠26週目あたりから、性別チェックもしてもらっていたのですが、エコーを当てるたびに反対側を向いていたり、あぐらをかいていたり、膝を抱え込んでいたりで全然性別が確認できないでいました。妊娠32週になりやっと(女の子)だと確認できました!!いや〜長かった!性別わかるまでにこんなにも長くかかるもんですか!?性別希望は特にありませんでしたが、やっとわかったことで赤ちゃんグッズの用意が楽になりました。
妊娠30週が過ぎた頃から、お腹の張りがよく感じられるようになってきました。先生からまたお腹の張り止めの薬を処方され、1か月ほど飲まないで過ごしていましたが、また薬の生活が始まりました。
妊娠34週の検診で、まさかの診断です。赤ちゃんの頭が早い段階で落ちてきているようで、「切迫早産」と言われました。またしても入院するように言われました。もうあの入院生活はこりごりだったから今まで無理のない生活をしてきたのに〜涙
「あなた、一体何をしたの!??」
先生がまたお怒りの様子でした。何も特別なことをした覚えなんかありません。普段通りの生活をしていました。言い訳する気にすらなりませんでした。もう半分やけくそになり、入院すればいいんでしょすれば!?内心イライラしていましたが、何も言わずに入院の準備をしました。妊娠34週から37週が終わるまでの4週間をまた病院で過ごし、あとはいつ生まれても大丈夫と言われてやっと退院しました。
妊娠38週目のある夜11時に、家で破水して出産に至りました。普通分娩で、元気な女の子を出産できました。
この入院生活は本当に今までにないほどの苦痛でした。自由が利かない生活がこんなにもしんどいものだということを学びました。昔ながらの産婦人科だったので、他の病院がどのような感じか気になるところではありますが、二度とこの病院には入院したくないなと思いました笑
ただ、娘が無事元気に健康に生まれてきてくれたので、結局は病院の先生に感謝です笑
それから数週間経った妊娠11週目。夜中に下着が濡れている違和感で目を覚ましました。下着が全て濡れてしまうほどの量の出血でした。翌日に病院に行くと、切迫流産と診断されました。その日に病院で点滴を打ち、出血を止める薬をもらって帰宅しましたが、絶対安静との指示が出ました。子宮内で出血があるので、もし数日以内に出血が止まらなければ入院しなければいけないと言われました。赤ちゃんは元気でした。
妊娠12週目。子宮内の出血が止まっていないため入院確定。赤ちゃんが入っている袋の周りに血の塊があるらしく、袋全体がもしその血の塊で覆われてしまった場合、母体から赤ちゃんに血が送られなくなって流産になってしまうらしい。その日から24時間点滴が始まりました。
妊娠13週。赤ちゃんが入っている袋の3分の1が血で埋め尽くされているらしい。その血によって感染症を起こす恐れがあるらしいと聞いて急に怖くなりました。感染症で赤ちゃんが死亡する確率もあるらしいです。
妊娠14週。まだ出血が続いています。下着が濡れるほど出血してから1か月、今だに子宮内の出血が見られるのは本当に怖い。入院部屋が個室に移されました。この日からトイレにすら歩いてはいけないと指示が出て、個室のポータブルトイレ生活になりました。病院の先生に、出血の量とか様子は、入院始めのときよりは良くなっていますか?と質問すると、「悪くはなっていない」それだけ返事をもらいました。この1か月近くの24時間点滴をし、丸一日中ベッドに横になるだけの生活で良くなっていないってどういうこと!?不安でいっぱいでした。
入院生活1か月が過ぎて、やっとシャンプーの許しが出ました。毎日毎日、体と頭が痒くて寝れたもんじゃありませんでした。髪はベトベトし、体は自分でも臭い、切迫流産が理由としてもこんなに長い間シャワーも入れず、頭も洗えず、衛生的に良くなさすぎじゃないかと思いました。私はこの病院しか知らないので、他の病院ではどのようなシステムなのかは知りませんが、こんなに長い間シャワーさえも浴びれないものなのでしょか??シャンプーも好きな時に出来るわけではなく、時間指定までされました。1か月も洗っていないので、1回のシャンプーでは頭皮の油が洗い落ちません。数回洗ってやっと綺麗になった感がありました。
妊娠16週で出血がやっと止まり、点滴が外されました。毎日毎日点滴の針を刺し直し、腕全体があざだらけでした。腕には刺す場所がなさすぎて、一度は足にも刺したほどでした。これほどにも注射が嫌だと思ったことはありません。点滴がなくなった代わりに、飲み薬を飲むことになりました。「リメトラーク」という薬で、副作用が強く、手が震えたり動機が激しかったです。
妊娠19週目。外出許可が出ました!!家で過ごす以外の外出は一切認められませんでしたが、病室で過ごすよりも何十倍も居心地が良い!!24時間後には病院に戻らないといけませんでしたが、良い気分転換になりました☆
この1泊家で過ごし、次の日には病院に戻るという過程を通し、問題がなかったことから退院日が決まり、外出許可が出た数日後に長い入院生活にピリオドを打ち、ようやく退院することが出来ました。
妊娠24週目。7か月に突入し、赤ちゃんの体重は800gなり順調。相変わらず家でもお腹の張り止めの薬を処方されて飲み続ける日々。病院の先生から無駄な外出はせずになるべく安静に生活するように言われていました。無理してまたあのしんどい入院生活に戻りたくないので、最低限の外出だけして過ごしていると、旦那が、
「病院の先生は大袈裟な気がするから、もう7か月も過ぎたことだし、自由に行動し、運動も始めた方がいい」
と言ってきました。私も内心、先生は大袈裟なんじゃないか?と疑ったこともありましたが、あのしんどい入院生活へのトラウマ、実際に自分のお腹に命が宿っていて自分の行動一つで赤ちゃんに何か影響するかと思うと、下手なことはできません。旦那の言いたいことはわかりますが、下手に動いて赤ちゃんに万が一のことが起きて後悔することだけはどうしても嫌だったので、先生の言いつけを守って生活しました。
妊娠7ヶ月〜8ヶ月にかけて、便秘が一気にひどくなりました。妊娠前は便秘知らずの生活を送っていたので、便秘がこんなにしんどいということを初めて知りました。薬と飲まない限り、全く排出できませんでした。便秘も続いたせいもあり、このあたりから体重が一気に増えました。8ヶ月検診の体重測定で、トータル5キロ増えていたことに、先生はものすごい剣幕で怒ってきました。私は初めて妊娠がわかって検診に来たときに、
「妊娠後期まで5キロ以上は増やさないでください」
と先生から言われていました。私がもともと痩せている方ではなかったことから、必要以上の体重増加は妊娠中毒症になる恐れがあるから気をつけなさいという事でした。それにしても妊娠8ヶ月で5キロって頑張っている方じゃないかと自分なりに思っていましたが、先生側からはNGだったようです。痩せてはいませんが、大きすぎることもないと自分では思っていたんですけどね。。。
妊娠26週目あたりから、性別チェックもしてもらっていたのですが、エコーを当てるたびに反対側を向いていたり、あぐらをかいていたり、膝を抱え込んでいたりで全然性別が確認できないでいました。妊娠32週になりやっと(女の子)だと確認できました!!いや〜長かった!性別わかるまでにこんなにも長くかかるもんですか!?性別希望は特にありませんでしたが、やっとわかったことで赤ちゃんグッズの用意が楽になりました。
妊娠30週が過ぎた頃から、お腹の張りがよく感じられるようになってきました。先生からまたお腹の張り止めの薬を処方され、1か月ほど飲まないで過ごしていましたが、また薬の生活が始まりました。
妊娠34週の検診で、まさかの診断です。赤ちゃんの頭が早い段階で落ちてきているようで、「切迫早産」と言われました。またしても入院するように言われました。もうあの入院生活はこりごりだったから今まで無理のない生活をしてきたのに〜涙
「あなた、一体何をしたの!??」
先生がまたお怒りの様子でした。何も特別なことをした覚えなんかありません。普段通りの生活をしていました。言い訳する気にすらなりませんでした。もう半分やけくそになり、入院すればいいんでしょすれば!?内心イライラしていましたが、何も言わずに入院の準備をしました。妊娠34週から37週が終わるまでの4週間をまた病院で過ごし、あとはいつ生まれても大丈夫と言われてやっと退院しました。
妊娠38週目のある夜11時に、家で破水して出産に至りました。普通分娩で、元気な女の子を出産できました。
この入院生活は本当に今までにないほどの苦痛でした。自由が利かない生活がこんなにもしんどいものだということを学びました。昔ながらの産婦人科だったので、他の病院がどのような感じか気になるところではありますが、二度とこの病院には入院したくないなと思いました笑
ただ、娘が無事元気に健康に生まれてきてくれたので、結局は病院の先生に感謝です笑
産後鬱・・・
産後鬱って聞いたことありますよね。。。
まさか自分がこんな経験するとは思っていもいませんでした。
特に初産だと全てにおいて初めてだらけで、わからないことばかり。地元で出産だったので、母親が近くにいたことで色々助けてはもらいましたが、本当に自分でもどうしてかわからないけど、娘と母親以外の人間をとにかく受け付けませんでした。父親、自分の旦那に対してまで拒絶反応が起き、とにかく気分が憂鬱でした。
自分が鬱っぽいということがわかるだけでもマシだったかもしれません。自覚症状がなく、自分の殻に閉じこもり、しんどい想いをしている人がたくさんいるかもしれないからです。
私が自分でもなんか変だなと思い始めたのは、産後まだ間もない時でした。産後1週間は病院で生活するので、何かあればすぐ誰かが助けてくれるという安心感はあったからかもしれませんが、娘に会いたいとたくさんの人が病院にお見舞いに来てくれたのも実はすごく苦痛でした。これは案外あるあるかもしれませんが、産後とにかくゆっくりしたいのに、家族だけならまだしも、親戚や職場の人達などたくさんの人が訪ねてきては、
「今のうちにゆっくりしなね〜」
と言いながら結構長居していくっていうパターンが多かった気がします。仕事関係の人達はお祝いだけしてすぐ帰って行ったのですが、親戚関係がかなり厄介でした。自分の昔話が始まったり、母乳で育てるのが一番いいとかなんとか、知っていることを色々と良かれと思って教えてくれているのでしょうが、邪険に扱うことも出来ず、ただただ話し終わるのを待つ状態でした。
もしかしたらこの時から情緒不安定はもう始まっていたのかもしれません。
家に帰ってからも親戚がたまに会いに来ていたのですが、おしめの替え方だったり、粉ミルクの作り方だったり、いちいちコメントしてきました。そろそろ昼寝の時間だからと娘を2階に連れていこうとすると、
「昼寝の時間なんか決めなくても寝たいときに勝手に寝るんだから大丈夫よー」
「おしめやミルクだってそんなにきちんと綺麗にやるのなんて最初だけなんだから〜そのうちもっとテキトーになるわよー」
母親に言われるならまだしも、父親、おじさん、おばちゃん達はもうほっといてくれ!!毎回そう思っていました。
旦那はまだ自信がないからと、おしめ交換はしませんでした。自信がないってなんだ!?母親にはおしめ交換をする、しないを選ぶ権利はないぞ?父親にはあるのか!?
娘が産まれてから、朝までゆっくり寝れることはありません。妊娠中も、中期から後期にかけてはお腹が大きくなって寝心地が悪いせいもあり、ぐっずり眠れることは少なくなっていました。やっと出産が終わりゆっくり寝れるかと思いきや、産後はますます寝れない日々が続きました。寝不足は人の性格までをも変えるのではないかと本当に思います。日中なるべく休める時に休んでいましたが、娘が夜泣きしたり、小さな音を出すだけで私はすぐに目が覚めてすぐに娘を確認していましたが、旦那は一切目が覚めることすらありません。旦那にミルクをあげて欲しいと起こすと、寝ぼけているせいできちんと行動出来ないでいました。その姿を見ると信用出来ず、ミルクすら頼めませんでした。誰が教えることもなく、女性は子供のためとなると勝手に体が動きます。母親と父親の違いですね。”母は強し”と言われる分けがわかりました笑
一番私を追い込んだことは、母乳が出なかったことです。産後1週間、病院にいる間は助産婦さんに母乳が出るようにマッサージをしてもらっていました。あれは経験した人しかわからないと思いますが、ものすごい激痛です!!!ほんっっっとに痛い!!!!大袈裟ではなく涙が出ました。そんなマッサージを受けても、出てくる母乳はちょろちょろ〜。胸には張りがあるのですが、娘が満足するほどの量とはかけ離れていました。娘は飲んでいるように見えるのですが、30分ほど飲み続けて吸い疲れをして眠ってしまうのですが、1時間もしないでギャン泣きで起き、また母乳の繰り返し。助産婦さんに、母乳が足りないかもしれないから粉ミルクも飲ませてみましょうと言われ、粉ミルクを与えると、2時間〜3時間は余裕で持つようになりました。母乳が出ていないことが明らかでした。
母乳が足りてないからと、完全粉ミルクにしてしまうと、まだ出る可能性がある母乳が止まってしまうから、出来る限りは頑張って自分でもマッサージしながら母乳で育ててみてね!と助産婦さんに言われ、言われた通り真面目に頑張っていました。母乳を始めて1か月が過ぎても、母乳の出は良くなりませんでした。子供を産めば当たり前に母乳が出るもんだと思っていた私は、まさか自分が母乳で子育て出来ないなんて、、という絶望感があり、また粉ミルクを飲ませているときに言われる親戚達の言葉にもいちいち落ち込んでいました。
旦那にも、どうしてそんなに母乳にこだわるの?粉ミルクにしたらいいんじゃない?と言われ、今となれば、うん、そうだねと言えるのに、当時はどうにか母乳で育てたいと必死でした。そのため、母乳が出ないのは自分の努力不足、全て自分が悪いんだとどんどん自分を追い込んでいました。
2か月ほど経った頃、ついに母乳の出なさにウンザリして完全粉ミルクに変えました。気持ちを切り替えたことで、今まで溜まっていたストレスが一気に消えて気分が楽になったのを感じました。そして母乳を諦めて数週間で生理が始まり、あぁ、やはり母乳が出る出ないでホルモンバランスにも影響するんだなと思いました。
産後2か月半頃には、自分の中で気持ちが落ち着いてきているのがわかりました。その頃から、オーストラリアへ戻るための準備が始まり、バタバタしていたので気持ちが落ち込む時間さえありませんでした。
あの気分の落ち込み方、自分に対しての周りの意見や行動が普段は全く気にならないタイプなのに、当時はすごく小さなことでも気にして落ち込んでいました。ちょっとしたことですぐ泣いていたので、本当に情緒不安定だったなと思います。その時、自分の母親がただそこにいてくれるだけで気持ちが落ち着いているのを覚えています。母親がいてくれて本当に良かったと思います。近くに母親がいなくて一人で頑張っている新米ママはたくさんいることでしょう。本当によく頑張っているな〜と思います。私は本当にラッキーでした。今思うと、親戚の言葉など大したことないのに、当時は本当に嫌でした笑
まさか自分がこんな経験するとは思っていもいませんでした。
特に初産だと全てにおいて初めてだらけで、わからないことばかり。地元で出産だったので、母親が近くにいたことで色々助けてはもらいましたが、本当に自分でもどうしてかわからないけど、娘と母親以外の人間をとにかく受け付けませんでした。父親、自分の旦那に対してまで拒絶反応が起き、とにかく気分が憂鬱でした。
自分が鬱っぽいということがわかるだけでもマシだったかもしれません。自覚症状がなく、自分の殻に閉じこもり、しんどい想いをしている人がたくさんいるかもしれないからです。
私が自分でもなんか変だなと思い始めたのは、産後まだ間もない時でした。産後1週間は病院で生活するので、何かあればすぐ誰かが助けてくれるという安心感はあったからかもしれませんが、娘に会いたいとたくさんの人が病院にお見舞いに来てくれたのも実はすごく苦痛でした。これは案外あるあるかもしれませんが、産後とにかくゆっくりしたいのに、家族だけならまだしも、親戚や職場の人達などたくさんの人が訪ねてきては、
「今のうちにゆっくりしなね〜」
と言いながら結構長居していくっていうパターンが多かった気がします。仕事関係の人達はお祝いだけしてすぐ帰って行ったのですが、親戚関係がかなり厄介でした。自分の昔話が始まったり、母乳で育てるのが一番いいとかなんとか、知っていることを色々と良かれと思って教えてくれているのでしょうが、邪険に扱うことも出来ず、ただただ話し終わるのを待つ状態でした。
もしかしたらこの時から情緒不安定はもう始まっていたのかもしれません。
家に帰ってからも親戚がたまに会いに来ていたのですが、おしめの替え方だったり、粉ミルクの作り方だったり、いちいちコメントしてきました。そろそろ昼寝の時間だからと娘を2階に連れていこうとすると、
「昼寝の時間なんか決めなくても寝たいときに勝手に寝るんだから大丈夫よー」
「おしめやミルクだってそんなにきちんと綺麗にやるのなんて最初だけなんだから〜そのうちもっとテキトーになるわよー」
母親に言われるならまだしも、父親、おじさん、おばちゃん達はもうほっといてくれ!!毎回そう思っていました。
旦那はまだ自信がないからと、おしめ交換はしませんでした。自信がないってなんだ!?母親にはおしめ交換をする、しないを選ぶ権利はないぞ?父親にはあるのか!?
娘が産まれてから、朝までゆっくり寝れることはありません。妊娠中も、中期から後期にかけてはお腹が大きくなって寝心地が悪いせいもあり、ぐっずり眠れることは少なくなっていました。やっと出産が終わりゆっくり寝れるかと思いきや、産後はますます寝れない日々が続きました。寝不足は人の性格までをも変えるのではないかと本当に思います。日中なるべく休める時に休んでいましたが、娘が夜泣きしたり、小さな音を出すだけで私はすぐに目が覚めてすぐに娘を確認していましたが、旦那は一切目が覚めることすらありません。旦那にミルクをあげて欲しいと起こすと、寝ぼけているせいできちんと行動出来ないでいました。その姿を見ると信用出来ず、ミルクすら頼めませんでした。誰が教えることもなく、女性は子供のためとなると勝手に体が動きます。母親と父親の違いですね。”母は強し”と言われる分けがわかりました笑
一番私を追い込んだことは、母乳が出なかったことです。産後1週間、病院にいる間は助産婦さんに母乳が出るようにマッサージをしてもらっていました。あれは経験した人しかわからないと思いますが、ものすごい激痛です!!!ほんっっっとに痛い!!!!大袈裟ではなく涙が出ました。そんなマッサージを受けても、出てくる母乳はちょろちょろ〜。胸には張りがあるのですが、娘が満足するほどの量とはかけ離れていました。娘は飲んでいるように見えるのですが、30分ほど飲み続けて吸い疲れをして眠ってしまうのですが、1時間もしないでギャン泣きで起き、また母乳の繰り返し。助産婦さんに、母乳が足りないかもしれないから粉ミルクも飲ませてみましょうと言われ、粉ミルクを与えると、2時間〜3時間は余裕で持つようになりました。母乳が出ていないことが明らかでした。
母乳が足りてないからと、完全粉ミルクにしてしまうと、まだ出る可能性がある母乳が止まってしまうから、出来る限りは頑張って自分でもマッサージしながら母乳で育ててみてね!と助産婦さんに言われ、言われた通り真面目に頑張っていました。母乳を始めて1か月が過ぎても、母乳の出は良くなりませんでした。子供を産めば当たり前に母乳が出るもんだと思っていた私は、まさか自分が母乳で子育て出来ないなんて、、という絶望感があり、また粉ミルクを飲ませているときに言われる親戚達の言葉にもいちいち落ち込んでいました。
旦那にも、どうしてそんなに母乳にこだわるの?粉ミルクにしたらいいんじゃない?と言われ、今となれば、うん、そうだねと言えるのに、当時はどうにか母乳で育てたいと必死でした。そのため、母乳が出ないのは自分の努力不足、全て自分が悪いんだとどんどん自分を追い込んでいました。
2か月ほど経った頃、ついに母乳の出なさにウンザリして完全粉ミルクに変えました。気持ちを切り替えたことで、今まで溜まっていたストレスが一気に消えて気分が楽になったのを感じました。そして母乳を諦めて数週間で生理が始まり、あぁ、やはり母乳が出る出ないでホルモンバランスにも影響するんだなと思いました。
産後2か月半頃には、自分の中で気持ちが落ち着いてきているのがわかりました。その頃から、オーストラリアへ戻るための準備が始まり、バタバタしていたので気持ちが落ち込む時間さえありませんでした。
あの気分の落ち込み方、自分に対しての周りの意見や行動が普段は全く気にならないタイプなのに、当時はすごく小さなことでも気にして落ち込んでいました。ちょっとしたことですぐ泣いていたので、本当に情緒不安定だったなと思います。その時、自分の母親がただそこにいてくれるだけで気持ちが落ち着いているのを覚えています。母親がいてくれて本当に良かったと思います。近くに母親がいなくて一人で頑張っている新米ママはたくさんいることでしょう。本当によく頑張っているな〜と思います。私は本当にラッキーでした。今思うと、親戚の言葉など大したことないのに、当時は本当に嫌でした笑
2022年04月01日
赤ちゃんと飛行機そして2年ぶりのオーストラリアへ🦘
途中色々ありましたが、無事私の配偶者ビザが下り、そして娘のオーストラリア国籍登録が完了しました。
オーストラリア入国が許されたことを旦那に報告すると、すぐに日本行きの飛行機のチケットを予約すると言いました。私と、まだ生後3ヶ月の娘2人での飛行機移動が心配といい、迎えに来てくれるということでした。
私も当時新米ママだったことから、自分のことだけならまだしも、子供のこととなると小さなことでアタフタしイライラしていました。旦那が来て迎えに来てくれるということで安心して空港へ向かいました。
空港へは前日入りしていたことから、旦那と私と娘と3人で空港周辺で1日を一緒に過ごし、いざ飛行機へ乗り込みます。
赤ちゃんが一緒の飛行機旅は本当に大変だということが思い知らされました。とにかく荷物が多い!!私が完全母乳であればそこまで荷物も増えなかったのかもしれませんが、私は産後2か月以上色々出来ることはしましたが、それでも娘が満足するほどの母乳が出ないということで、母乳を諦めて完全粉ミルクにしました。粉ミルク、沸騰したお湯、白湯が常に必要で、空港内で水筒に熱湯と入れてから搭乗しました。荷物検査時に、液体持ち入りが禁じられていることから、熱湯と水に何か異物が混入していないかどうかの検査をしてからOKを出してもらい、持ち込み許可をもらいました。
赤ちゃんの荷物
・おしめ
・おしりふき
・ゴミ袋
・着替え
・タオル
・粉ミルク
・哺乳瓶5本ほど
・水筒2本(沸騰したお湯と白湯)
・水用のボトル
・気を紛らわせるためのおもちゃ
・抱っこ紐
などなど、赤ちゃんの物だけで最低でもこのくらい。その他にも自分の荷物や、ベビーカーもありましたし、一人で全てをこなしている他の母親を見たときは尊敬でした。(ベビーカーは機内持ち込みが出来ないので、機内搭乗直前で、CAの人が別の場所に移動してくれて、目的地の空港でまた手渡してくれます)
赤ちゃんが一緒ということで、バシネット席を前もって予約していました。大人の2席と、バシネットが目の前に備え付けられた席に通されました。荷物が多いせいで席が今まで以上に狭く感じられました。
娘は当時3ヶ月でしたが、もう人見知りらしきものが始まっており、旦那が抱っこすると泣くので、結局私が機内にいる間ずっと一緒に過ごしました。熟睡してしまえばバシネットに寝てくれるのですが、起きている間はすごく機嫌が良くないかぎり、旦那には行ってくれませんでした。
おしめ交換ももちろん機内のトイレで済ませるのですが、揺れと狭さで本当に大変でした。私がトイレに行く間は、旦那に娘を預けて行ったのですが、まぁトイレまで鳴き声が聞こえてきて、本当に申し訳ない気分になったことを覚えています。
離陸時と着陸時はとくに、気圧の変化から耳が痛くなりやすいので赤ちゃんには大変だという話を聞いていたので、なんとか時間を見ながら離陸時と着陸時にミルクを飲む時間になるように調整しました。
どうにか難関を乗り越えて、やっと無事にオーストラリアへ到着です。
この2年間、本当に色々あり大変でしたが、ここからまた新たな人生のスタートを切ります!!
オーストラリア入国が許されたことを旦那に報告すると、すぐに日本行きの飛行機のチケットを予約すると言いました。私と、まだ生後3ヶ月の娘2人での飛行機移動が心配といい、迎えに来てくれるということでした。
私も当時新米ママだったことから、自分のことだけならまだしも、子供のこととなると小さなことでアタフタしイライラしていました。旦那が来て迎えに来てくれるということで安心して空港へ向かいました。
空港へは前日入りしていたことから、旦那と私と娘と3人で空港周辺で1日を一緒に過ごし、いざ飛行機へ乗り込みます。
赤ちゃんが一緒の飛行機旅は本当に大変だということが思い知らされました。とにかく荷物が多い!!私が完全母乳であればそこまで荷物も増えなかったのかもしれませんが、私は産後2か月以上色々出来ることはしましたが、それでも娘が満足するほどの母乳が出ないということで、母乳を諦めて完全粉ミルクにしました。粉ミルク、沸騰したお湯、白湯が常に必要で、空港内で水筒に熱湯と入れてから搭乗しました。荷物検査時に、液体持ち入りが禁じられていることから、熱湯と水に何か異物が混入していないかどうかの検査をしてからOKを出してもらい、持ち込み許可をもらいました。
赤ちゃんの荷物
・おしめ
・おしりふき
・ゴミ袋
・着替え
・タオル
・粉ミルク
・哺乳瓶5本ほど
・水筒2本(沸騰したお湯と白湯)
・水用のボトル
・気を紛らわせるためのおもちゃ
・抱っこ紐
などなど、赤ちゃんの物だけで最低でもこのくらい。その他にも自分の荷物や、ベビーカーもありましたし、一人で全てをこなしている他の母親を見たときは尊敬でした。(ベビーカーは機内持ち込みが出来ないので、機内搭乗直前で、CAの人が別の場所に移動してくれて、目的地の空港でまた手渡してくれます)
赤ちゃんが一緒ということで、バシネット席を前もって予約していました。大人の2席と、バシネットが目の前に備え付けられた席に通されました。荷物が多いせいで席が今まで以上に狭く感じられました。
娘は当時3ヶ月でしたが、もう人見知りらしきものが始まっており、旦那が抱っこすると泣くので、結局私が機内にいる間ずっと一緒に過ごしました。熟睡してしまえばバシネットに寝てくれるのですが、起きている間はすごく機嫌が良くないかぎり、旦那には行ってくれませんでした。
おしめ交換ももちろん機内のトイレで済ませるのですが、揺れと狭さで本当に大変でした。私がトイレに行く間は、旦那に娘を預けて行ったのですが、まぁトイレまで鳴き声が聞こえてきて、本当に申し訳ない気分になったことを覚えています。
離陸時と着陸時はとくに、気圧の変化から耳が痛くなりやすいので赤ちゃんには大変だという話を聞いていたので、なんとか時間を見ながら離陸時と着陸時にミルクを飲む時間になるように調整しました。
どうにか難関を乗り越えて、やっと無事にオーストラリアへ到着です。
この2年間、本当に色々あり大変でしたが、ここからまた新たな人生のスタートを切ります!!
2022年03月31日
産後オーストラリアに戻るまで☆
無事元気な女の子を出産し、旦那も出産には間に合いませんでしたが無事娘に会うことが出来ました。
産後1週間は病院で過ごすので、家に帰ってから色々オーストラリアに戻るための準備が始まります。
まず娘が産まれたことにより、オーストラリア大使館に色々提出物があります。
・戸籍謄本(出生証明書)&英語翻訳
・オーストラリア国籍登録(Citizenship by Descent)
・オーストラリアパスポート
これらを全て終わらせなければオーストラリアに入国できません。そのため一番初めにしたことは、役所に出生届を出し、戸籍謄本を取りました。それを翻訳会社を通して、全て翻訳してもらいました。(翻訳が終わり、手元に届くまでも1週間弱かかりました。)
それ以外にも、もちろん私と旦那の出生証明書(私のは戸籍謄本に記載されています)が必要になり、旦那の名前は日本の戸籍謄本にも記載されていますが、オーストラリアの出生証明書も必要になりました。それから、二人のパスポート、他にも身分を証明するもの数点、提出物がたくさんありました。
これらの書類を全て提出して国籍登録を申請しました。登録が終わらない限り、娘はオーストラリア国籍保有者として認められないため、オーストラリアのパスポートも取得することが出来ません。
国籍登録が終わり、連絡が来るまで数週間かかりました。その間に、旦那はオーストラリアに帰国しました。私と娘がいつオーストラリアに入国許可が下りるかは把握できていなかったので、そんなに長い間日本に滞在することはできませんでした。
国籍登録が出来た後は、次はオーストラリアと日本のパスポート申請です。生後わずか2か月ほどでパスポート写真の撮影に挑まなければならず、首も座っていないことから、ベビーコットの中に横になりながらの写真撮影でした。写真館にはきちんと赤ちゃん用スペースが作られており、カメラに向かってまっすぐ見てくれるようにおもちゃなど音の出る物がたくさん用意されていて、さすがだなと思いました。
日本のパスポート用写真と、オーストラリアのパスポート写真どちらも撮影し、なんとか申請し終わりました。パスポートが出来るまでまたさらに数週間。この時点で娘は生後2か月半ほどでした。
全ての書類を提出し、あとは大使館からいつまでに入国するかを指定されるまで、のんびり生活することになりました。
のんびりしていたのもつかの間、娘の国籍登録書が大使館で受理されてから1か月ほどで、オーストラリアへの入国許可が下りました。
期限は1週間です。
ひゃ〜ゆっくりしてる場合じゃないっ急いで準備を始めました。私と娘の必需品、オーストラリアでは手に入りにくい日本のグッズなど、必要な物を買いにお店に走り回る日が数日続きました。渡豪前日に空港近くのホテルに滞在したいので、前々日に手荷物を少なくするためにスーツケースや余計な荷物を空港に送り、役所に転出届を出しに行きました。
役所関係、本当に面倒です何度やっても好きになれません。転出届だけではなく、年金の支払いを止め、子供手当を止め、国保を抜き〜のほーーーんっとにやることたくさん。もうちょい簡単な手続き方法はないもんか…?
1週間で全てをこなし、ようやく2年ぶりにオーストラリアへ飛びます🛩
産後1週間は病院で過ごすので、家に帰ってから色々オーストラリアに戻るための準備が始まります。
まず娘が産まれたことにより、オーストラリア大使館に色々提出物があります。
・戸籍謄本(出生証明書)&英語翻訳
・オーストラリア国籍登録(Citizenship by Descent)
・オーストラリアパスポート
これらを全て終わらせなければオーストラリアに入国できません。そのため一番初めにしたことは、役所に出生届を出し、戸籍謄本を取りました。それを翻訳会社を通して、全て翻訳してもらいました。(翻訳が終わり、手元に届くまでも1週間弱かかりました。)
それ以外にも、もちろん私と旦那の出生証明書(私のは戸籍謄本に記載されています)が必要になり、旦那の名前は日本の戸籍謄本にも記載されていますが、オーストラリアの出生証明書も必要になりました。それから、二人のパスポート、他にも身分を証明するもの数点、提出物がたくさんありました。
これらの書類を全て提出して国籍登録を申請しました。登録が終わらない限り、娘はオーストラリア国籍保有者として認められないため、オーストラリアのパスポートも取得することが出来ません。
国籍登録が終わり、連絡が来るまで数週間かかりました。その間に、旦那はオーストラリアに帰国しました。私と娘がいつオーストラリアに入国許可が下りるかは把握できていなかったので、そんなに長い間日本に滞在することはできませんでした。
国籍登録が出来た後は、次はオーストラリアと日本のパスポート申請です。生後わずか2か月ほどでパスポート写真の撮影に挑まなければならず、首も座っていないことから、ベビーコットの中に横になりながらの写真撮影でした。写真館にはきちんと赤ちゃん用スペースが作られており、カメラに向かってまっすぐ見てくれるようにおもちゃなど音の出る物がたくさん用意されていて、さすがだなと思いました。
日本のパスポート用写真と、オーストラリアのパスポート写真どちらも撮影し、なんとか申請し終わりました。パスポートが出来るまでまたさらに数週間。この時点で娘は生後2か月半ほどでした。
全ての書類を提出し、あとは大使館からいつまでに入国するかを指定されるまで、のんびり生活することになりました。
のんびりしていたのもつかの間、娘の国籍登録書が大使館で受理されてから1か月ほどで、オーストラリアへの入国許可が下りました。
期限は1週間です。
ひゃ〜ゆっくりしてる場合じゃないっ急いで準備を始めました。私と娘の必需品、オーストラリアでは手に入りにくい日本のグッズなど、必要な物を買いにお店に走り回る日が数日続きました。渡豪前日に空港近くのホテルに滞在したいので、前々日に手荷物を少なくするためにスーツケースや余計な荷物を空港に送り、役所に転出届を出しに行きました。
役所関係、本当に面倒です何度やっても好きになれません。転出届だけではなく、年金の支払いを止め、子供手当を止め、国保を抜き〜のほーーーんっとにやることたくさん。もうちょい簡単な手続き方法はないもんか…?
1週間で全てをこなし、ようやく2年ぶりにオーストラリアへ飛びます🛩
2022年03月30日
1人目の妊娠
1人目の妊娠がわかったのは、オーストラリアに戻るために配偶者ビザの申請準備をしている時でした。旦那が8か月ぶりに日本に来て、私の両親に結婚の挨拶をし終わってわずか数週間で妊娠が発覚しました。
ビザを無事申請し終わり、ビザが下りたらすぐに行動出来るように準備万端でした。そんな時に妊娠がわかり、数週間後にはつわりも始まりました。
私のつわりは、周りに比べて酷い方ではなかったと思います。ただ1日中船酔いのように気持ち悪いというだけで実際に嘔吐はしませんでした。吐くことはないにしろ、何か匂うと嗚咽してしまうので人前でしないように気をつけていました。匂いに敏感なだけで体がしんどいということは特になかったので、普段通りの生活をしていました。
異変が起きたのは、妊娠11週目でした。夜中に下着が全て濡れるほどの出血があり目が覚めました。次の日すぐに病院に行くと、”切迫流産”と診断されました。子宮内に出血があるので絶対安静と言われました。数日以内に出血が止まらなければ入院だそうです。
検査の結果、入院になってしまいました。赤ちゃんが入っている袋の3分の1が血で埋め尽くされているらしい。その出血による感染症を起こす恐れがあるらしく、もしそうなればその時点で流産だそうです。それから袋の周りにも血の塊があり、袋全てをその血の塊で覆われたときには、母体から赤ちゃんに血が送られなくなり流産になる恐れも出てくるらしい。切迫流産、こんなにも恐ろしいことだとは知りませんでした。入院してからも、出血が止まるまで結構な時間がかかり、丸2か月間点滴24時間、腕はあざだらけで個室に移されトイレもポータブル生活。シャワーも許されない生活が長いこと続きました。
2か月で点滴が取れて、錠剤の薬に変更されてから外泊許可が出て久しぶりに家に帰宅。帰宅と言っても外出許可が出たわけではないので、1泊したらまた病院に戻ります。経過を見て2か月半の入院生活にピリオドを打ち、やっと退院しました。退院後も外出許可は簡単に出してもらえず、結局家と食料品の買い物のみの生活が数ヶ月続きました。
妊娠28週目。やっと性別が判明。女の子でしたエコーをするたびに後ろを向いていたり、あぐらをかいていてきちんと見えなかったりで、性別がはっきりするまで数週間かかりました。1週間に1度内診検査のために病院に行っていたので、毎週チェックはしてもらっていた割にはだいぶ時間がかかったなと思います。
妊娠34週目。あと2週間で赤ちゃんがいつ生まれてきてもおかしくない時期に入ります!!安心感からかなのか、この時期の内診検査のために病院に行ったとき、また信じられないことが起きました。
”切迫早産”です。
もう声になりませんでした。「すぐ入院してください」と言われ、親に連絡。その日からまたしても入院生活になりました。また点滴、また個室。信じられませんでした。出血したわけでもなかったのですが、赤ちゃんの頭が一気に下がってしまったとのこと。普通の生活をしているだけで、病院の先生からは
「あなた一体何をしたんですか!?」
と怒り気味に言われました。何をしたって・・普通に生活してただけですけど、、、
「普通に生活していたらこんなに赤ちゃんの頭は下がりません。あと体重増えすぎです。」
妊娠8ヶ月の時点で増えた体重は5キロでした。私自身、痩せ体系ではなかったため、
「あなたの体系からいうと、妊娠中5キロ以上増やさないでください」
と最初に時点で言われていました。妊娠後期になればなるほど、ずっと便秘に悩まされていて、便秘薬なしではトイレに行けないほどでした。妊娠8ヶ月で5キロ増えてたら、残りの2か月あなたはどうするつもりですか!??と怒られ、その日から毎日夜ご飯は豆腐と納豆のみの生活でした。
産婦人科ってこんなもんなんでしょうか?この病院の先生、厳しすぎません?怒りすぎじゃありません?
私が当時ホルモンのバランスが崩れていたからこそ、この先生の対応が気にくわなかっただけでしょうか?友人が出産した別の病院では、こんな対応はされなかったと聞き、私だけが悪かったのだろうかとすごく不安になりました。私にとっての普段の生活は、みんなの普通の生活とは違かったのだろうか。。。色々考えました。妊娠後期、すごく情緒不安定な生活を送っていました。
妊娠34週〜38週まで入院生活をさらに送り、もう赤ちゃんのサイズ的にも大きくなり、いつ生まれてきても心配いらないということで退院が許されました。しかし、絶対安静生活を1か月間もしていたせいで、体の筋肉が衰え、5分以上歩くのでさえしんどい始末。こんなんで出産は無事にこなせるのだろうかと不安でした。
出産予定日の1週間前に、旦那がオーストラリアから来ることになっていました。どうにか39週まで持ちますように。旦那は立ち合い出産を希望していましたが、立ち合い出産を希望する旦那さんは、父親クラスを前もって受講する決まりがあり、そのクラスがあった日に日本にいなかったのと、そもそも日本語が話せないので受講しても勉強にならなかったこともあり、立ち合い出産を諦めました。代わりに、出産ギリギリまで一緒に過ごしたいと言っていました。
☆出産☆
妊娠38週6日目、夜11時頃に破水しました。家のベッドがびしょ濡れになりました。母親を急いで呼んで病院へ直行しました。病院に着いて病室に入ると、子宮口は3cmほど開いているとのこと。とりあえず様子を見ましょう。とう言われ、すぐに旦那に電話して破水したことを報告すると、
「今から日本に行くために家を出たばかりなのにー!!あと1日だけ待ってくれ〜」
そんなの無理です。陣痛がどのくらい続くかはわかりませんが、普通であれば、破水後数時間ほどで陣痛は来ると言われました。言われたとおり、朝2時頃には陣痛が始まり、5時頃にはかなりの痛みになっていました。こんなの次の日まで待てるわけねーだろと思いながらも痛みに耐えました。
朝7時頃、病室に朝食が運ばれてきました。食べれるどころではありません。水分だけ取るのが精いっぱいでした。助産師さんが、「おにぎりくらい食べなさい、じゃないと出産に耐えられないわよ」と言います。いやいや、食べたくても食べれないんだってば。と思いながらもどうにか無理やり一口食べましたが、何の味も感じません。
朝8時半頃に、分娩室に移動するのでその前にトイレに行ってくださいと言われました。陣痛の合間に急いでトイレに行って座った途端、すぐに陣痛が来てしまい、自分の出血も見て大混乱。力んではダメと言われるも、どうにもなりません。「トイレなんか言ってる場合じゃない!出ない!」と看護師さんに叫び、すぐに分娩室に連れて行ってもらいました。分娩台に横になって色んな器具を体に着けられ、点滴も始まり、わけもわからないまま、2回踏ん張ったらもう産まれました。
元気な女の子ですすぐに産声を上げ、もう終わりましたからねーと看護師さんに言われ、ほっとしたのを覚えています。初産にしては時間がかからなかった方だと思います。破水をしたのが夜11時頃で、産まれたのは朝の10時でした。
部屋に戻ってからすぐに旦那に電話すると、機内にいるのか電話に出ませんでした。昼過ぎに電話がかかってきて、
「今日本に着いたよー!まさかもう生まれた!?」
もう生まれたよーと報告すると、まじかー数時間間に合わなかったー!!!と後悔しているようでした。こればかりは予想できるものではないので仕方ありません。夕方に私の地元に無事到着し、娘を抱くことが出来ました。
私の家族、親戚、従妹など、次々と病院に訪れてきました。それから退院するまでの1週間は、訪問客の相手で忙しかったです。ゆっくり休めと言うわりに、ゆっくり休んだ感覚があまりありませんでした笑 こんなもんですよね
入院生活や、病院の先生の対応など、嫌だなと思ったことは多々ありましたが、これも良い経験になりました。他の病院だったらどういう対応だったのかは今だになぞですが。。。
何はともあれ、無事に出産し終わりました。ここから、娘の出生届、戸籍謄本の翻訳、オーストラリアの国籍取得などなど、オーストラリアに戻るまでの作業が続きます。
ビザを無事申請し終わり、ビザが下りたらすぐに行動出来るように準備万端でした。そんな時に妊娠がわかり、数週間後にはつわりも始まりました。
私のつわりは、周りに比べて酷い方ではなかったと思います。ただ1日中船酔いのように気持ち悪いというだけで実際に嘔吐はしませんでした。吐くことはないにしろ、何か匂うと嗚咽してしまうので人前でしないように気をつけていました。匂いに敏感なだけで体がしんどいということは特になかったので、普段通りの生活をしていました。
異変が起きたのは、妊娠11週目でした。夜中に下着が全て濡れるほどの出血があり目が覚めました。次の日すぐに病院に行くと、”切迫流産”と診断されました。子宮内に出血があるので絶対安静と言われました。数日以内に出血が止まらなければ入院だそうです。
検査の結果、入院になってしまいました。赤ちゃんが入っている袋の3分の1が血で埋め尽くされているらしい。その出血による感染症を起こす恐れがあるらしく、もしそうなればその時点で流産だそうです。それから袋の周りにも血の塊があり、袋全てをその血の塊で覆われたときには、母体から赤ちゃんに血が送られなくなり流産になる恐れも出てくるらしい。切迫流産、こんなにも恐ろしいことだとは知りませんでした。入院してからも、出血が止まるまで結構な時間がかかり、丸2か月間点滴24時間、腕はあざだらけで個室に移されトイレもポータブル生活。シャワーも許されない生活が長いこと続きました。
2か月で点滴が取れて、錠剤の薬に変更されてから外泊許可が出て久しぶりに家に帰宅。帰宅と言っても外出許可が出たわけではないので、1泊したらまた病院に戻ります。経過を見て2か月半の入院生活にピリオドを打ち、やっと退院しました。退院後も外出許可は簡単に出してもらえず、結局家と食料品の買い物のみの生活が数ヶ月続きました。
妊娠28週目。やっと性別が判明。女の子でしたエコーをするたびに後ろを向いていたり、あぐらをかいていてきちんと見えなかったりで、性別がはっきりするまで数週間かかりました。1週間に1度内診検査のために病院に行っていたので、毎週チェックはしてもらっていた割にはだいぶ時間がかかったなと思います。
妊娠34週目。あと2週間で赤ちゃんがいつ生まれてきてもおかしくない時期に入ります!!安心感からかなのか、この時期の内診検査のために病院に行ったとき、また信じられないことが起きました。
”切迫早産”です。
もう声になりませんでした。「すぐ入院してください」と言われ、親に連絡。その日からまたしても入院生活になりました。また点滴、また個室。信じられませんでした。出血したわけでもなかったのですが、赤ちゃんの頭が一気に下がってしまったとのこと。普通の生活をしているだけで、病院の先生からは
「あなた一体何をしたんですか!?」
と怒り気味に言われました。何をしたって・・普通に生活してただけですけど、、、
「普通に生活していたらこんなに赤ちゃんの頭は下がりません。あと体重増えすぎです。」
妊娠8ヶ月の時点で増えた体重は5キロでした。私自身、痩せ体系ではなかったため、
「あなたの体系からいうと、妊娠中5キロ以上増やさないでください」
と最初に時点で言われていました。妊娠後期になればなるほど、ずっと便秘に悩まされていて、便秘薬なしではトイレに行けないほどでした。妊娠8ヶ月で5キロ増えてたら、残りの2か月あなたはどうするつもりですか!??と怒られ、その日から毎日夜ご飯は豆腐と納豆のみの生活でした。
産婦人科ってこんなもんなんでしょうか?この病院の先生、厳しすぎません?怒りすぎじゃありません?
私が当時ホルモンのバランスが崩れていたからこそ、この先生の対応が気にくわなかっただけでしょうか?友人が出産した別の病院では、こんな対応はされなかったと聞き、私だけが悪かったのだろうかとすごく不安になりました。私にとっての普段の生活は、みんなの普通の生活とは違かったのだろうか。。。色々考えました。妊娠後期、すごく情緒不安定な生活を送っていました。
妊娠34週〜38週まで入院生活をさらに送り、もう赤ちゃんのサイズ的にも大きくなり、いつ生まれてきても心配いらないということで退院が許されました。しかし、絶対安静生活を1か月間もしていたせいで、体の筋肉が衰え、5分以上歩くのでさえしんどい始末。こんなんで出産は無事にこなせるのだろうかと不安でした。
出産予定日の1週間前に、旦那がオーストラリアから来ることになっていました。どうにか39週まで持ちますように。旦那は立ち合い出産を希望していましたが、立ち合い出産を希望する旦那さんは、父親クラスを前もって受講する決まりがあり、そのクラスがあった日に日本にいなかったのと、そもそも日本語が話せないので受講しても勉強にならなかったこともあり、立ち合い出産を諦めました。代わりに、出産ギリギリまで一緒に過ごしたいと言っていました。
☆出産☆
妊娠38週6日目、夜11時頃に破水しました。家のベッドがびしょ濡れになりました。母親を急いで呼んで病院へ直行しました。病院に着いて病室に入ると、子宮口は3cmほど開いているとのこと。とりあえず様子を見ましょう。とう言われ、すぐに旦那に電話して破水したことを報告すると、
「今から日本に行くために家を出たばかりなのにー!!あと1日だけ待ってくれ〜」
そんなの無理です。陣痛がどのくらい続くかはわかりませんが、普通であれば、破水後数時間ほどで陣痛は来ると言われました。言われたとおり、朝2時頃には陣痛が始まり、5時頃にはかなりの痛みになっていました。こんなの次の日まで待てるわけねーだろと思いながらも痛みに耐えました。
朝7時頃、病室に朝食が運ばれてきました。食べれるどころではありません。水分だけ取るのが精いっぱいでした。助産師さんが、「おにぎりくらい食べなさい、じゃないと出産に耐えられないわよ」と言います。いやいや、食べたくても食べれないんだってば。と思いながらもどうにか無理やり一口食べましたが、何の味も感じません。
朝8時半頃に、分娩室に移動するのでその前にトイレに行ってくださいと言われました。陣痛の合間に急いでトイレに行って座った途端、すぐに陣痛が来てしまい、自分の出血も見て大混乱。力んではダメと言われるも、どうにもなりません。「トイレなんか言ってる場合じゃない!出ない!」と看護師さんに叫び、すぐに分娩室に連れて行ってもらいました。分娩台に横になって色んな器具を体に着けられ、点滴も始まり、わけもわからないまま、2回踏ん張ったらもう産まれました。
元気な女の子ですすぐに産声を上げ、もう終わりましたからねーと看護師さんに言われ、ほっとしたのを覚えています。初産にしては時間がかからなかった方だと思います。破水をしたのが夜11時頃で、産まれたのは朝の10時でした。
部屋に戻ってからすぐに旦那に電話すると、機内にいるのか電話に出ませんでした。昼過ぎに電話がかかってきて、
「今日本に着いたよー!まさかもう生まれた!?」
もう生まれたよーと報告すると、まじかー数時間間に合わなかったー!!!と後悔しているようでした。こればかりは予想できるものではないので仕方ありません。夕方に私の地元に無事到着し、娘を抱くことが出来ました。
私の家族、親戚、従妹など、次々と病院に訪れてきました。それから退院するまでの1週間は、訪問客の相手で忙しかったです。ゆっくり休めと言うわりに、ゆっくり休んだ感覚があまりありませんでした笑 こんなもんですよね
入院生活や、病院の先生の対応など、嫌だなと思ったことは多々ありましたが、これも良い経験になりました。他の病院だったらどういう対応だったのかは今だになぞですが。。。
何はともあれ、無事に出産し終わりました。ここから、娘の出生届、戸籍謄本の翻訳、オーストラリアの国籍取得などなど、オーストラリアに戻るまでの作業が続きます。