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2022年03月29日
配偶者ビザ申請と想定外な事態
半年以上かけて、オーストラリアの配偶者ビザ申請に必要な書類を集めてきました。最終段階に入り、あとは結婚写真を撮ってその写真をオーストラリア大使館に提出するのみになっていました。家族への挨拶も終わり、写真も撮り終わり、あとは婚姻届けを役所に提出し、それを英訳して終了です。
ここで問題が起こりました。
彼が日本に来てから役所に二人で婚姻届けを出すつもりで、オーストラリアから必要書類を全て持ってきてもらいましたが、1つだけ離婚証明書の日本語訳が足りず、役所に提出することが出来ませんでした。晴れて夫婦になる予定でしたが、スムーズに物事は進みませんでした。
彼がオーストラリアに帰国する前にもう一つ、想定外な事が起きました。
妊娠発覚です
まさか。。。このタイミングで子供が出来ることは本当に想定外でした。ビザが下りるまでどのくらいの期間がかかるかは、そのカップルによって違います。子供が産まれる前にビザが下りれば問題なくオーストラリアに入国出来るでしょう。しかし、妊娠初期と後期は色んなリスクがあるため、飛行機に乗ることを許されない場合があります。(特にたしか妊娠後期36週以降は医師の確認が必要)
慌てても仕方がないのと、良いニュースであることには変わりないので、家族への結婚報告からわずか数週間で妊娠報告もすることになりました。もう家族は笑うしかないようでした笑
「ずいぶん忙しいね、あんた達は笑 でもおめでとう」
という親からの言葉。
妊娠発覚と、ビザ申請が重なり、さらに忙しくなりました。
晴れて旦那になるはずだった彼は、離婚証明書の日本語訳が完成するまでの間、仕事の関係で日本にこれ以上長く滞在することが出来ず、オーストラリアに帰国することになりました。必要書類が集まり次第、婚姻届けを提出し、受理されたら戸籍謄本を英訳して後日大使館に送付することが出来るそうなので、それ以外の書類を彼が帰国する前に二人でオーストラリア大使館に提出しに行きました。
彼がオーストラリアに帰国後、私が一人で改めてまた書類を提出し直し、晴れて夫婦となりました。
(当時バタバタしていたため、私達夫婦は戸籍謄本を確認しないかぎり、自分達の結婚した日にちを把握していません笑 結果、今まで一度も結婚記念日たる日を祝ったこともありません笑)
全てのビザ申請に必要なことを全て終え、ひと段落でした。この先、ビザが下り次第すぐにオーストラリアに移住出来るように、仕事を退職しました。それと同時に妊娠初期のつわりも始まり、自宅で安静に過ごす生活が始まりました。
またしてもここで問題が起きました。本当に常に忙しいですね〜自分でもそう思います
妊娠初期で出血したのです。かかりつけの病院に行ってみると、
「切迫流産です。今すぐ入院してください。」
入院生活の始まりです。
「ビザを申請していて、ビザが下り次第引っ越しを考えているのですが・・・」
そう先生に話すと、
「赤ちゃんの命と引っ越しではどちらが大切ですか?いい加減にしなさい!」
めっちゃ怒られました。その通りだと思います。安静にさせていただきます。
「ビザが下りたとしても、子供が産まれるまで飛行機に乗ることはお勧めしません」
どんなビザの場合でも、基本的にはその国に到着する日程がだいたい決まっています。たとえば、ワーキングホリデービザの場合、申請してビザが下りてから1年以内にその国に入国してくださいと言われます。学生ビザも期間が決まっています。配偶者ビザの場合その期間が短く、1か月ほどと言われています。
このままではビザが下りて1か月で日本を発つことは不可能に近いです。その期間を過ぎると、ビザが失効したりするので、どのような理由があって指定された日程内に入国出来ないのかを証明する必要があります。
ここからまた書類集めが始まります。
・妊娠している証拠
・すぐに入国出来ないことを証明する書類(入院証明書、切迫流産の状態を証明するものなど)
・全ての書類の英訳
などなど。
オーストラリア行きはまた延びました。子供のためにここは耐えなければいけません。結局数ヶ月間入院することになりました。(妊娠期間、いろんなことが起きましたが、これはまた別のブログで説明します)
子供が無事に生まれてから、改めて子供の国籍取得や書類申請などが待っているので、それまでの間は日本で生活することになりました。
次に旦那に会えるのは、出産する時です。
ここで問題が起こりました。
彼が日本に来てから役所に二人で婚姻届けを出すつもりで、オーストラリアから必要書類を全て持ってきてもらいましたが、1つだけ離婚証明書の日本語訳が足りず、役所に提出することが出来ませんでした。晴れて夫婦になる予定でしたが、スムーズに物事は進みませんでした。
彼がオーストラリアに帰国する前にもう一つ、想定外な事が起きました。
妊娠発覚です
まさか。。。このタイミングで子供が出来ることは本当に想定外でした。ビザが下りるまでどのくらいの期間がかかるかは、そのカップルによって違います。子供が産まれる前にビザが下りれば問題なくオーストラリアに入国出来るでしょう。しかし、妊娠初期と後期は色んなリスクがあるため、飛行機に乗ることを許されない場合があります。(特にたしか妊娠後期36週以降は医師の確認が必要)
慌てても仕方がないのと、良いニュースであることには変わりないので、家族への結婚報告からわずか数週間で妊娠報告もすることになりました。もう家族は笑うしかないようでした笑
「ずいぶん忙しいね、あんた達は笑 でもおめでとう」
という親からの言葉。
妊娠発覚と、ビザ申請が重なり、さらに忙しくなりました。
晴れて旦那になるはずだった彼は、離婚証明書の日本語訳が完成するまでの間、仕事の関係で日本にこれ以上長く滞在することが出来ず、オーストラリアに帰国することになりました。必要書類が集まり次第、婚姻届けを提出し、受理されたら戸籍謄本を英訳して後日大使館に送付することが出来るそうなので、それ以外の書類を彼が帰国する前に二人でオーストラリア大使館に提出しに行きました。
彼がオーストラリアに帰国後、私が一人で改めてまた書類を提出し直し、晴れて夫婦となりました。
(当時バタバタしていたため、私達夫婦は戸籍謄本を確認しないかぎり、自分達の結婚した日にちを把握していません笑 結果、今まで一度も結婚記念日たる日を祝ったこともありません笑)
全てのビザ申請に必要なことを全て終え、ひと段落でした。この先、ビザが下り次第すぐにオーストラリアに移住出来るように、仕事を退職しました。それと同時に妊娠初期のつわりも始まり、自宅で安静に過ごす生活が始まりました。
またしてもここで問題が起きました。本当に常に忙しいですね〜自分でもそう思います
妊娠初期で出血したのです。かかりつけの病院に行ってみると、
「切迫流産です。今すぐ入院してください。」
入院生活の始まりです。
「ビザを申請していて、ビザが下り次第引っ越しを考えているのですが・・・」
そう先生に話すと、
「赤ちゃんの命と引っ越しではどちらが大切ですか?いい加減にしなさい!」
めっちゃ怒られました。その通りだと思います。安静にさせていただきます。
「ビザが下りたとしても、子供が産まれるまで飛行機に乗ることはお勧めしません」
どんなビザの場合でも、基本的にはその国に到着する日程がだいたい決まっています。たとえば、ワーキングホリデービザの場合、申請してビザが下りてから1年以内にその国に入国してくださいと言われます。学生ビザも期間が決まっています。配偶者ビザの場合その期間が短く、1か月ほどと言われています。
このままではビザが下りて1か月で日本を発つことは不可能に近いです。その期間を過ぎると、ビザが失効したりするので、どのような理由があって指定された日程内に入国出来ないのかを証明する必要があります。
ここからまた書類集めが始まります。
・妊娠している証拠
・すぐに入国出来ないことを証明する書類(入院証明書、切迫流産の状態を証明するものなど)
・全ての書類の英訳
などなど。
オーストラリア行きはまた延びました。子供のためにここは耐えなければいけません。結局数ヶ月間入院することになりました。(妊娠期間、いろんなことが起きましたが、これはまた別のブログで説明します)
子供が無事に生まれてから、改めて子供の国籍取得や書類申請などが待っているので、それまでの間は日本で生活することになりました。
次に旦那に会えるのは、出産する時です。
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Spouse Visa 配偶者ビザ
何気ない電話の会話で結婚することを決めてしまった私達は、さっそく配偶者ビザの申請に取り掛かりました。
とりあえず何の証明が必要かを調べ始めました。
・一緒に住んでいた期間を証明する書類
・両者からの結婚にいたるまでの経過や、家族関係、その他の共同活動を説明した陳述書
・お付き合いを始めた時期から今までの二人の写真
・身元を証明する書類 − パスポート、出生証明書、市民権
・離婚証明書(相手が過去に結婚歴がある場合のみ。彼は過去に離婚歴がありました。)
・警察証明書
・両者が離れていた間の、定期的通信の証明(私達はスカイプを使っていたのでスカイプのスクリーンショットや、電話を使ったときの電話料金請求書など)
・両者の友人、親戚、職場の同僚からの供述書
・私が個人的に強制送還されたときの状況を説明できる書類
今覚えている限りではこれくらいですが、これらの書類を全て集めました。そして、友人からの手紙や、身分証明書など日本語で記載されているものは全て、翻訳会社に頼んで全て翻訳してもらいました。自分で翻訳したものでは受け付けできないそうです。
最後に、結婚式の予定、もしくは実際に挙げた式の写真など、結婚の証明ができる写真なども必要となりましたが、これは実際に彼に日本に来てもらわない限り写真撮影も出来ないので、ビザ申請に至る最後の時期まで準備が出来ませんでした。結婚式を挙げる予定はそもそもなかったので、結婚式用のブライダルサロンで撮影し、それを証拠として提出することにしました。
結婚式用の写真を用意する前に、私の両親に結婚の報告をしなければなりませんでした。電話で結婚をすることを決めてから半年ほどかけて全ての書類を用意し、私の両親への挨拶と、結婚式の写真を一緒に撮影するために彼が仕事の休みを取って日本に再度来日しました。
8ヶ月ぶりくらいの再会です❣️結婚する実感はまだ全然ありませんでしたが、やはり私の両親への挨拶は緊張しました。母親には大体のことを話していましたが、父親にとっては初耳です。ど田舎の典型的な頑固親父なので、どのような反応が返ってくるか心配でしたが、彼に日本語で挨拶できるように練習させていました。ついに本番️
「ムスメサント、ケッコンサセテクダサイ」
彼、頑張りました笑 カタコトで頑張りました❣
「オッケー」
ん?
勘違いではありませんでした。うちの頑固おやじ、オッケーで結婚承諾してしまいました。
軽いな〜と思いましたが、父親なりの葛藤があったことをのちに知り、ありがたくも感じました
父親には東京行きも反対され、それを無視して上京し、のちに外国にまで行き、帰ってきたと思ったら外国人と結婚。父親からしたらもう馬鹿娘以外の何者でもないでしょう結婚許してくれて、本当にありがとう
両親への挨拶を済ませ、ブライダルサロンの写真撮影を予約し、写真も無事に撮り終え、これでビザ申請の準備はバッチリです!!
とりあえず何の証明が必要かを調べ始めました。
・一緒に住んでいた期間を証明する書類
・両者からの結婚にいたるまでの経過や、家族関係、その他の共同活動を説明した陳述書
・お付き合いを始めた時期から今までの二人の写真
・身元を証明する書類 − パスポート、出生証明書、市民権
・離婚証明書(相手が過去に結婚歴がある場合のみ。彼は過去に離婚歴がありました。)
・警察証明書
・両者が離れていた間の、定期的通信の証明(私達はスカイプを使っていたのでスカイプのスクリーンショットや、電話を使ったときの電話料金請求書など)
・両者の友人、親戚、職場の同僚からの供述書
・私が個人的に強制送還されたときの状況を説明できる書類
今覚えている限りではこれくらいですが、これらの書類を全て集めました。そして、友人からの手紙や、身分証明書など日本語で記載されているものは全て、翻訳会社に頼んで全て翻訳してもらいました。自分で翻訳したものでは受け付けできないそうです。
最後に、結婚式の予定、もしくは実際に挙げた式の写真など、結婚の証明ができる写真なども必要となりましたが、これは実際に彼に日本に来てもらわない限り写真撮影も出来ないので、ビザ申請に至る最後の時期まで準備が出来ませんでした。結婚式を挙げる予定はそもそもなかったので、結婚式用のブライダルサロンで撮影し、それを証拠として提出することにしました。
結婚式用の写真を用意する前に、私の両親に結婚の報告をしなければなりませんでした。電話で結婚をすることを決めてから半年ほどかけて全ての書類を用意し、私の両親への挨拶と、結婚式の写真を一緒に撮影するために彼が仕事の休みを取って日本に再度来日しました。
8ヶ月ぶりくらいの再会です❣️結婚する実感はまだ全然ありませんでしたが、やはり私の両親への挨拶は緊張しました。母親には大体のことを話していましたが、父親にとっては初耳です。ど田舎の典型的な頑固親父なので、どのような反応が返ってくるか心配でしたが、彼に日本語で挨拶できるように練習させていました。ついに本番️
「ムスメサント、ケッコンサセテクダサイ」
彼、頑張りました笑 カタコトで頑張りました❣
「オッケー」
ん?
勘違いではありませんでした。うちの頑固おやじ、オッケーで結婚承諾してしまいました。
軽いな〜と思いましたが、父親なりの葛藤があったことをのちに知り、ありがたくも感じました
父親には東京行きも反対され、それを無視して上京し、のちに外国にまで行き、帰ってきたと思ったら外国人と結婚。父親からしたらもう馬鹿娘以外の何者でもないでしょう結婚許してくれて、本当にありがとう
両親への挨拶を済ませ、ブライダルサロンの写真撮影を予約し、写真も無事に撮り終え、これでビザ申請の準備はバッチリです!!
結婚のキッカケ
あまり興味のなかった生命保険の仕事も順調に進み、掛け持ちをして働いていたバイト先での仕事もなれて毎日充実した生活を過ごしていました。
しかし、居酒屋のバイト先で英語を使って接客したことをキッカケに、自分の英語を生かした仕事を見つけたい欲がまた生まれてきました。地元が田舎街で英語を使った仕事があまりないことから、やはり上京することをまた頭のどこかで考え始めていました。
そんなある時、東京にまた住んで英語を生かした仕事をしたいという事を彼に電話で話しました。やりたい事を実現したい欲が強い私は、行動に移したくてウズウズしていたのを覚えています。そして、実際行動に移すとなると、自分の事で頭がいっぱいになり、周りが見えなくなるという欠点もあります。その結果、何気ない会話の中で、私はこんなことを彼に質問しました。
「私はオーストラリアに5年も入国禁止令が出ているから、あなたが日本に来ないかぎりもう会えない。将来的に私と結婚する気はある?あるならオーストラリアに行くビザを申請できるけど、結婚を考えていないなら、私は上京して自分の人生を歩もうと思うんだけどいい?」
のちに思ったのが、私は逆プロポーズを何気なくしてしまっていたようです。国際結婚ということで、良い雰囲気な場所で素敵なプロポーズをロマンチックに受けたと思われがちですが、実際こんなもんです。ロマンチックとはかなりかけ離れた普通の会話でした
私も私ですが、彼も彼。変な所が似ているようです。
「そうだね、遠距離続けるのもしんどいから結婚してビザ申請しようか」
人生の大きな決断なる結婚を、何気ない会話で簡単に決めてしまいました。
ここからは行動あるのみです。上京して仕事を探すことはあっさりキャンセルし、今の仕事を続けながら配偶者ビザ申請の申込作業に移りました。配偶者ビザ申請には書類審査や、お付き合いを実際にしているかの証拠、証明などが必要になってきます。
結婚します→ビザ下ります。
そんな簡単な作業ではないので、これも根性です。
(ビザ申請に関しては次のブログで紹介します️)
私たちの結婚はこうして決まりました
しかし、居酒屋のバイト先で英語を使って接客したことをキッカケに、自分の英語を生かした仕事を見つけたい欲がまた生まれてきました。地元が田舎街で英語を使った仕事があまりないことから、やはり上京することをまた頭のどこかで考え始めていました。
そんなある時、東京にまた住んで英語を生かした仕事をしたいという事を彼に電話で話しました。やりたい事を実現したい欲が強い私は、行動に移したくてウズウズしていたのを覚えています。そして、実際行動に移すとなると、自分の事で頭がいっぱいになり、周りが見えなくなるという欠点もあります。その結果、何気ない会話の中で、私はこんなことを彼に質問しました。
「私はオーストラリアに5年も入国禁止令が出ているから、あなたが日本に来ないかぎりもう会えない。将来的に私と結婚する気はある?あるならオーストラリアに行くビザを申請できるけど、結婚を考えていないなら、私は上京して自分の人生を歩もうと思うんだけどいい?」
のちに思ったのが、私は逆プロポーズを何気なくしてしまっていたようです。国際結婚ということで、良い雰囲気な場所で素敵なプロポーズをロマンチックに受けたと思われがちですが、実際こんなもんです。ロマンチックとはかなりかけ離れた普通の会話でした
私も私ですが、彼も彼。変な所が似ているようです。
「そうだね、遠距離続けるのもしんどいから結婚してビザ申請しようか」
人生の大きな決断なる結婚を、何気ない会話で簡単に決めてしまいました。
ここからは行動あるのみです。上京して仕事を探すことはあっさりキャンセルし、今の仕事を続けながら配偶者ビザ申請の申込作業に移りました。配偶者ビザ申請には書類審査や、お付き合いを実際にしているかの証拠、証明などが必要になってきます。
結婚します→ビザ下ります。
そんな簡単な作業ではないので、これも根性です。
(ビザ申請に関しては次のブログで紹介します️)
私たちの結婚はこうして決まりました
2022年03月28日
新しい仕事
彼との旅行を2週間楽しみ、彼はオーストラリアへ帰国、私は本格的に日本で仕事を探し始めました。
私がオーストラリアに留学したことを噂で聞いた知り合いのおばちゃんが、その海外へ行って生活した度胸を使って一緒に仕事をしないかと声をかけてきました。その仕事は、
「生命保険会社」
でした。私にとって、生命保険は正直良いイメージがありませんでした。
「どうして生命保険の仕事をする上で度胸が必要なのですか?」とそのおばちゃんが聞くと、ほとんどの人達は、生命保険の勧誘に良いイメージを持っていなくて、そんな人達を相手に挫けずに声をかけ続けていけなければいけないからよ。と言われました。私の心の中を読まれたようでした。
私はハッキリ自分の思っていることを伝えました。そんなに生命保険に興味がないこと、それからこの先英語を使った仕事を将来的にしたいので、やりたい仕事が見つかればそっちに移動したいことなど。それを伝えると、それでも構わないから、保険会社の支部に行って支部長と話をしてみないかと誘われました。こうやってどんどん勧誘されていくのだろうなと心のどこかで思いながらも、他にやりたいことが見つかり次第、仕事を辞めてもいいとハッキリ言ってくれるほど、私なんかに声をかけてくれることを有難く思い、とりあえず支部長に会いに行くことは承諾しました。
数日後、支部長に会いに指定された時間に支部を訪ねてみると、すごく歓迎されました。どういう経緯で留学することになったのか、どうして英語が全く話せないのに外国に行こうと思ったのかなど、オーストラリアへ行ったことに対しての質問をたくさんされました。私は自分が好きでやったこと、行動したことなので、何も特別なことをしたようには思っていませんでしたが、簡単に行動できることではないと賞賛してもらい、その度胸を生かしてどうにか一緒に働いてもらえないかと頭を下げられました。普通は私が仕事をくださいと頭を下げるのではないのか?どうして支部長が私なんかに頭を下げてくるのだろうか?と不思議でしたが、他にやりたい仕事が見つかったら辞めてもらっていいというので、とりあえずやってみることにしました。
最初の2か月間は、生命保険に関しての勉強会からスタートしました。保険を売ってこそ給料が出るシステムなので、勉強だけの2か月の間は、基本給しか出ないということでした。それだけだと給料が少ないので掛け持ちでバイトをすることにしました。保険の仕事が終わった夕方から、居酒屋で仕事をし、保険の仕事が始まる前の早朝にコンビニのバイトをしたりと、忙しい毎日を過ごし始めました。
勉強だけの2か月はあっという間に過ぎました。正直なところ、あんなに興味がなかった生命保険でしたが、思ったよりもすごく自分のためになったと思います。保険の大切さや、将来的に必要な年金など、今自分が将来のために出来ることなどを理解出来たと思います。保険の勉強をしたことにより、保険勧誘への嫌なイメージは払拭されました。今まで何も知らなかったからこそ、勝手な思い込みで嫌なイメージがあったことを恥ずかしく思いました。
支部長から言われたことは、
•1ヶ月に1件保険を売れることを目標にすること
•私と言う人間を知ってもらい、お客さんとの関係を作るために外歩きを毎日すること
•「飛び込み」と言われるアポイントを取らずに個人や法人の元へ訪問する営業手法を続けて開拓地を広げること
でした。今まで経験したことの無い営業という仕事。やってみて初めて、支部長がいる”度胸がいる”の意味がわかりました。生命保険会社員というだけで邪険に扱う人がすごく多かったからです。ただ、やはり海外で英語を話せないで生活した時に比べたら、邪険に扱われること、無視されることくらいは何とも思いませんでした。「あの頃に比べたら」と思うと、辛い、しんどいと思わなかったのです。これは続けられる仕事だと思いました。居酒屋でバイトをしている時にも、保険会社で会いに行っていたお客さんが居酒屋にたまたま飲みに来たりして、お客さんと話す機会が増えて距離がどんどん深まっていきました。
仕事は順調に進み、日本での生活も充実してきていました。ただ、英語を使うことは日に日に少なくなっていきました。そんなある日、居酒屋で仕事をしているときにこんな出来事がありました。
外国人のお客さんが来て、メニューを見て困ったような顔をしていました。どこの国の方かはわかりませんでしたが、日本語が話せないようで母国語で会話をしていました。英語だったら話せますが何かお役に立てますか?と声をかけると、メニューを指さし、「食べ飲み放題」のシステムがいまいちわからないと話してきました。一通り説明すると笑顔でありがとうと言ってもらえました。そのお客さんがお会計の際に他のスタッフにまた質問をしていたのですが、そのスタッフが理解出来ないでいたので私が呼ばれ話を聞くと、席料、お通し料金とは何かと質問されました。それも説明し終わると、納得してそのお客さんは帰っていきました。久しぶりに彼以外の方と英語で会話をしたことをきっかけに、やはり英語を使った仕事をしたいという思いが強くなってきました。
私がオーストラリアに留学したことを噂で聞いた知り合いのおばちゃんが、その海外へ行って生活した度胸を使って一緒に仕事をしないかと声をかけてきました。その仕事は、
「生命保険会社」
でした。私にとって、生命保険は正直良いイメージがありませんでした。
「どうして生命保険の仕事をする上で度胸が必要なのですか?」とそのおばちゃんが聞くと、ほとんどの人達は、生命保険の勧誘に良いイメージを持っていなくて、そんな人達を相手に挫けずに声をかけ続けていけなければいけないからよ。と言われました。私の心の中を読まれたようでした。
私はハッキリ自分の思っていることを伝えました。そんなに生命保険に興味がないこと、それからこの先英語を使った仕事を将来的にしたいので、やりたい仕事が見つかればそっちに移動したいことなど。それを伝えると、それでも構わないから、保険会社の支部に行って支部長と話をしてみないかと誘われました。こうやってどんどん勧誘されていくのだろうなと心のどこかで思いながらも、他にやりたいことが見つかり次第、仕事を辞めてもいいとハッキリ言ってくれるほど、私なんかに声をかけてくれることを有難く思い、とりあえず支部長に会いに行くことは承諾しました。
数日後、支部長に会いに指定された時間に支部を訪ねてみると、すごく歓迎されました。どういう経緯で留学することになったのか、どうして英語が全く話せないのに外国に行こうと思ったのかなど、オーストラリアへ行ったことに対しての質問をたくさんされました。私は自分が好きでやったこと、行動したことなので、何も特別なことをしたようには思っていませんでしたが、簡単に行動できることではないと賞賛してもらい、その度胸を生かしてどうにか一緒に働いてもらえないかと頭を下げられました。普通は私が仕事をくださいと頭を下げるのではないのか?どうして支部長が私なんかに頭を下げてくるのだろうか?と不思議でしたが、他にやりたい仕事が見つかったら辞めてもらっていいというので、とりあえずやってみることにしました。
最初の2か月間は、生命保険に関しての勉強会からスタートしました。保険を売ってこそ給料が出るシステムなので、勉強だけの2か月の間は、基本給しか出ないということでした。それだけだと給料が少ないので掛け持ちでバイトをすることにしました。保険の仕事が終わった夕方から、居酒屋で仕事をし、保険の仕事が始まる前の早朝にコンビニのバイトをしたりと、忙しい毎日を過ごし始めました。
勉強だけの2か月はあっという間に過ぎました。正直なところ、あんなに興味がなかった生命保険でしたが、思ったよりもすごく自分のためになったと思います。保険の大切さや、将来的に必要な年金など、今自分が将来のために出来ることなどを理解出来たと思います。保険の勉強をしたことにより、保険勧誘への嫌なイメージは払拭されました。今まで何も知らなかったからこそ、勝手な思い込みで嫌なイメージがあったことを恥ずかしく思いました。
支部長から言われたことは、
•1ヶ月に1件保険を売れることを目標にすること
•私と言う人間を知ってもらい、お客さんとの関係を作るために外歩きを毎日すること
•「飛び込み」と言われるアポイントを取らずに個人や法人の元へ訪問する営業手法を続けて開拓地を広げること
でした。今まで経験したことの無い営業という仕事。やってみて初めて、支部長がいる”度胸がいる”の意味がわかりました。生命保険会社員というだけで邪険に扱う人がすごく多かったからです。ただ、やはり海外で英語を話せないで生活した時に比べたら、邪険に扱われること、無視されることくらいは何とも思いませんでした。「あの頃に比べたら」と思うと、辛い、しんどいと思わなかったのです。これは続けられる仕事だと思いました。居酒屋でバイトをしている時にも、保険会社で会いに行っていたお客さんが居酒屋にたまたま飲みに来たりして、お客さんと話す機会が増えて距離がどんどん深まっていきました。
仕事は順調に進み、日本での生活も充実してきていました。ただ、英語を使うことは日に日に少なくなっていきました。そんなある日、居酒屋で仕事をしているときにこんな出来事がありました。
外国人のお客さんが来て、メニューを見て困ったような顔をしていました。どこの国の方かはわかりませんでしたが、日本語が話せないようで母国語で会話をしていました。英語だったら話せますが何かお役に立てますか?と声をかけると、メニューを指さし、「食べ飲み放題」のシステムがいまいちわからないと話してきました。一通り説明すると笑顔でありがとうと言ってもらえました。そのお客さんがお会計の際に他のスタッフにまた質問をしていたのですが、そのスタッフが理解出来ないでいたので私が呼ばれ話を聞くと、席料、お通し料金とは何かと質問されました。それも説明し終わると、納得してそのお客さんは帰っていきました。久しぶりに彼以外の方と英語で会話をしたことをきっかけに、やはり英語を使った仕事をしたいという思いが強くなってきました。
2022年03月27日
完全なる日本帰国☆彼来日☆国内旅行
まさかの強制送還を食らい、オーストラリアでタスマニア旅行を決行出来ないで終わってしまいました。彼との再会も実現出来ずじまい。さすがに真面目に日本で仕事をしようと考えました。
日本に帰国してから彼とようやく連絡を取ることが出来ました。ゴールドコーストの空港内では連絡さえ取らせてもらえませんでした。自由行動が許されないまま飛行機に乗せられたからです。
空港に着いてから電話し、お互いの心境を話し合いました。私は地元にとりあえず戻り、今後どうするかと考えることにしました。地元に帰る前に、東京にいる友達に会い、強制送還されたことを爆笑されながらも慰められ&励まされ、元気をもらって帰郷しました。実家に戻っても家族にいじられ、当分は落ち着きなさいと笑いながら説教を受けました笑
地元に帰ってすぐに、彼からこんな連絡が来ました。
「日本に会いに行きます」
本気か!?私は強制送還された身なので、オーストラリアには5年間入国禁止指示が出ています。代わりに彼が日本に私に会いに来ると言ってくれました。タスマニア旅行に行けない代わりに、日本を一緒に旅行することを考えたそうです。そうと決まれば、私は仕事を始める前が良いからなるべく早い方がいいとお願いすると、仕事の上司に連絡し、チケットが取れ次第すぐに行くと言うのです。
まさかの展開でした。彼は今までオーストラリアから出たことがありません。人生初の海外に、日本行きを選んでくれました。それから2週間ほどで日本に来ることが決定し、国内旅行を企画しました。どのルートを回るか色々調べました。とりあえずメインの場所は、東京、北海道、大阪、そして自分の地元を巡ることにしました。
日程を全て決めて、宿も取り、2週間ほどかけての旅行がついに始まります。
彼が日本に着く日に合わせて東京に迎えに行き、空港へ行きました。4か月ぶりに再会です。早いようですごく長く感じました。到着ゲートから出てきた姿を見て、すごく懐かしい気持ちになりました。日本で一緒にいることがすごく不思議な感じがし、ファームでの仕事用の汚い洋服を着ていないことをからかいながら、懐かしい会話を楽しみました。
私がオーストラリアにいる間、たくさんの日本人留学生や旅行生と出会いました。今回の国内旅行では、彼との時間をもちろん楽しみながらも、その出会った日本人達に会いに行くことも考えていることを彼に話すと、良いアイディアだねとすぐに承諾してくれました。オーストラリアで会っている人達なので、彼を交えて再会しても、みんな英語が通じるので彼も一人だけ取り残された感がないと思ったからです。
最初の旅行先はもちろん東京。東京で数日過ごしている間、私の友達に彼を紹介したり、友人お勧めの観光地に連れて行ってもらったり、有意義な日々を過ごしました。私が10代の頃に仲良くしていたネパール人の友達とも合わせました。ネパール人は基本、学校での会話は全て英語らしく、みんな英語を話すことができるので、彼も私の友人達と会話を楽しんでいるようだったので嬉しかったです。
(日本の英語教育もどんどん外国のやり方と取り入れていけばいいのになと心底思いました。今のままの英語教育では英語が話せるようになる日本人は少ない気がします。読み書きメインの勉強法では、実用性に欠けるので、話せるようになることにもっと力を入れた教育方法がもっと増えたらなと願っています。)
次に向かったのは私の地元で、家族や友人に彼を紹介してから数日一緒に過ごしました。田舎街なので、外国人をあまり見かけません。一緒に歩くと目立って目立って仕方ないのです。おじいちゃんやおばあちゃんがあからさまに振り向き、子供たちが指を指してきます笑 彼も苦笑いしながらも、「こんにちは」とあいさつをしていました。
彼にとっては私の地元が一番居心地が悪かったかもしれません笑 もちろん私の家族と一緒に数日生活しなければいけなかったことと、周りからジロジロ見られていたので笑
次は北海道です。旅行した時期が2月だったこともあり、北海道では雪まつりをしていました。雪すらまともに見たこともない中、雪まつりのアートを見て感激しているようでした。オーストラリアでのラム料理とはまた一味違う、日本流のBBQジンギスカンも気に入ったようでした。唯一日本の文化で受け入れられなかったのは、温泉でした。北海道では日本海を見渡せる旅館を予約していて、温泉もとてもいい所でしたが、温泉はどうしても入りたくないと言い、部屋についていた狭いシャワールームでシャワーを浴びていました笑 部屋に料理が運ばれてくることにも感動し、おかずの種類や、見たことのない食べ物全てにリアクションしていて、見ていて面白かったです。私にとっての当たり前が、彼にとって当たり前でないこと、私がオーストラリアで経験した文化が全て彼にとっては当たり前であること、文化の違いを目の当たりにしました。
千歳空港から関空に飛行機で飛び、次に向かったのは大阪です。大阪、京都は私が学生の頃に修学旅行で行ったことがありましたが、彼と私は食べ飲み歩きが好きなので、就学旅行では行かなかった場所も色々探索して回りました。大阪といえば、たこ焼きとお好み焼きと思っていましたが、串焼き屋がいたる所にあったことも新たな発見でした。1件店に入ってみると、たくさんのメニューが並んでいて、テーブル1台につき1個、食べ終わった串焼きの串を入れる入れ物も置かれてありました。’’串焼き屋’’という存在を始めて知り、感動でした笑 大阪でも、オーストラリアで会った日本人の子と再会し、一緒に時間を過ごしました。
東京に戻り、また数日一緒に過ごしてから彼はオーストラリアへ帰国しました。次いつ会えるかわからない寂しさもあり、もしかしたらこれっきりで終わるかもしれないと心のどこかで覚悟していました。
日本に帰国してから彼とようやく連絡を取ることが出来ました。ゴールドコーストの空港内では連絡さえ取らせてもらえませんでした。自由行動が許されないまま飛行機に乗せられたからです。
空港に着いてから電話し、お互いの心境を話し合いました。私は地元にとりあえず戻り、今後どうするかと考えることにしました。地元に帰る前に、東京にいる友達に会い、強制送還されたことを爆笑されながらも慰められ&励まされ、元気をもらって帰郷しました。実家に戻っても家族にいじられ、当分は落ち着きなさいと笑いながら説教を受けました笑
地元に帰ってすぐに、彼からこんな連絡が来ました。
「日本に会いに行きます」
本気か!?私は強制送還された身なので、オーストラリアには5年間入国禁止指示が出ています。代わりに彼が日本に私に会いに来ると言ってくれました。タスマニア旅行に行けない代わりに、日本を一緒に旅行することを考えたそうです。そうと決まれば、私は仕事を始める前が良いからなるべく早い方がいいとお願いすると、仕事の上司に連絡し、チケットが取れ次第すぐに行くと言うのです。
まさかの展開でした。彼は今までオーストラリアから出たことがありません。人生初の海外に、日本行きを選んでくれました。それから2週間ほどで日本に来ることが決定し、国内旅行を企画しました。どのルートを回るか色々調べました。とりあえずメインの場所は、東京、北海道、大阪、そして自分の地元を巡ることにしました。
日程を全て決めて、宿も取り、2週間ほどかけての旅行がついに始まります。
彼が日本に着く日に合わせて東京に迎えに行き、空港へ行きました。4か月ぶりに再会です。早いようですごく長く感じました。到着ゲートから出てきた姿を見て、すごく懐かしい気持ちになりました。日本で一緒にいることがすごく不思議な感じがし、ファームでの仕事用の汚い洋服を着ていないことをからかいながら、懐かしい会話を楽しみました。
私がオーストラリアにいる間、たくさんの日本人留学生や旅行生と出会いました。今回の国内旅行では、彼との時間をもちろん楽しみながらも、その出会った日本人達に会いに行くことも考えていることを彼に話すと、良いアイディアだねとすぐに承諾してくれました。オーストラリアで会っている人達なので、彼を交えて再会しても、みんな英語が通じるので彼も一人だけ取り残された感がないと思ったからです。
最初の旅行先はもちろん東京。東京で数日過ごしている間、私の友達に彼を紹介したり、友人お勧めの観光地に連れて行ってもらったり、有意義な日々を過ごしました。私が10代の頃に仲良くしていたネパール人の友達とも合わせました。ネパール人は基本、学校での会話は全て英語らしく、みんな英語を話すことができるので、彼も私の友人達と会話を楽しんでいるようだったので嬉しかったです。
(日本の英語教育もどんどん外国のやり方と取り入れていけばいいのになと心底思いました。今のままの英語教育では英語が話せるようになる日本人は少ない気がします。読み書きメインの勉強法では、実用性に欠けるので、話せるようになることにもっと力を入れた教育方法がもっと増えたらなと願っています。)
次に向かったのは私の地元で、家族や友人に彼を紹介してから数日一緒に過ごしました。田舎街なので、外国人をあまり見かけません。一緒に歩くと目立って目立って仕方ないのです。おじいちゃんやおばあちゃんがあからさまに振り向き、子供たちが指を指してきます笑 彼も苦笑いしながらも、「こんにちは」とあいさつをしていました。
彼にとっては私の地元が一番居心地が悪かったかもしれません笑 もちろん私の家族と一緒に数日生活しなければいけなかったことと、周りからジロジロ見られていたので笑
次は北海道です。旅行した時期が2月だったこともあり、北海道では雪まつりをしていました。雪すらまともに見たこともない中、雪まつりのアートを見て感激しているようでした。オーストラリアでのラム料理とはまた一味違う、日本流のBBQジンギスカンも気に入ったようでした。唯一日本の文化で受け入れられなかったのは、温泉でした。北海道では日本海を見渡せる旅館を予約していて、温泉もとてもいい所でしたが、温泉はどうしても入りたくないと言い、部屋についていた狭いシャワールームでシャワーを浴びていました笑 部屋に料理が運ばれてくることにも感動し、おかずの種類や、見たことのない食べ物全てにリアクションしていて、見ていて面白かったです。私にとっての当たり前が、彼にとって当たり前でないこと、私がオーストラリアで経験した文化が全て彼にとっては当たり前であること、文化の違いを目の当たりにしました。
千歳空港から関空に飛行機で飛び、次に向かったのは大阪です。大阪、京都は私が学生の頃に修学旅行で行ったことがありましたが、彼と私は食べ飲み歩きが好きなので、就学旅行では行かなかった場所も色々探索して回りました。大阪といえば、たこ焼きとお好み焼きと思っていましたが、串焼き屋がいたる所にあったことも新たな発見でした。1件店に入ってみると、たくさんのメニューが並んでいて、テーブル1台につき1個、食べ終わった串焼きの串を入れる入れ物も置かれてありました。’’串焼き屋’’という存在を始めて知り、感動でした笑 大阪でも、オーストラリアで会った日本人の子と再会し、一緒に時間を過ごしました。
東京に戻り、また数日一緒に過ごしてから彼はオーストラリアへ帰国しました。次いつ会えるかわからない寂しさもあり、もしかしたらこれっきりで終わるかもしれないと心のどこかで覚悟していました。
2022年03月26日
日本へ帰国そしてまたオーストラリアへ
セカンドワーキングホリデー、学生を経て、最後に観光ビザで名一杯楽しんだオーストラリア生活を終え、1年8か月ぶりに日本へ帰りました。
自分的には大満足のオーストラリア生活でした。ひとつだけ心残りなのが、ケンブリッジ英語試験に合格できなかったことです。しかし、この先また自分なりに勉強して再度試験を受けようと思えば受けれるので、自分自身の行動力を信じることにしました。
日本に帰ってきて1番最初にやりたかったことは、自分の英語力を生かして仕事をすることでした。私の地元はド田舎なので、英語を使う仕事というのはかなり限られていて、英会話教室くらいしかありませんでした。街中に外国人を見かけることも滅多にありません。時間をかけて色々探しましたが、地元で仕事を探すのはとても難関でした。就職する前に、コンビニなどでバイトをしながら就職活動を続けることにしました。
せっかく海外留学を経験し、日常会話には不便がないくらいの英語力をつけたのにも関わらず、それを生かした仕事が出来ないのはとても残念でした。外国人相手を接客する仕事や、それこそ留学エージェントなどの仕事を考えましたが、地元ではそういう仕事は一切ないので、また上京して仕事探しをすることも考え始めました。
そんなこんなで、就活をしながら生活をしながらも、日本帰国直前にお付き合いを始めた彼(今の旦那)とも、頻繁に連絡を取り続けていました。彼と話している限りは英語を使っていましたが、それ以外では使うことがないので、英語力が低下していくことが怖くも感じました。
そんなある日、彼との会話の中でこんな会話がありました。彼のお父さん家族がタスマニアに住んでいるから一緒に行きたいねと。私はセカンドワーホリの時にタスマニアにはもうすでに旅行に行っていたので、すごく良い所だったよーという話で盛り上がりました。彼は当時一度もタスマニアに行ったことがないというので、お父さん家族に会いに行くついでにタスマニア旅行をしたいと言うのです。お付き合いを始めてすぐに遠距離恋愛という形になってしまったのでお互いに会いたい気持ちはありましたが、一番最初に思ったことは、私はつい数ヶ月前に日本に帰ってきたばかりで、次オーストラリアにまた行くとなると何のビザで行くことになるんだ?ということでした。ワーホリは使い果たし、学生には今のところなるつもりはなくて、観光ビザしか残っていませんでした。ただ、つい数ヶ月前に観光ビザを取得して3ヶ月滞在を延長していたのに、また観光ビザを申請したらさすがに怪しまれるのではないかと。。。オーストラリアの税関は厳しいことで有名です。ただ、日本人は国柄的にすごく謙虚で謙遜する人柄な人が多いことから、ビザを申請するにあたってかなり有利だと言われています。基本的にはビザを断られることはないのですが、私の場合はつい数ヶ月前に観光ビザを申請していたので、また申請しても大丈夫なのだろうか?という不安がありました。
タスマニアへの二人旅行を夢見ながらも就活を続けていましたが、どうしてもやりたい仕事が見つかりませんでした。この際、就職が決まる前にタスマニア旅行に行って日本に帰国したらまた上京して仕事を探そうと考えました。そこでダメ元で観光ビザを申請してみると、ビックリ仰天、あまりにも簡単に申請が通り、観光ビザが下りました。あんなに怪しまれることに不安を抱いていたのは何だったんだ?と思いながらも、彼とまた会えること、旅行に行けることに心は浮かれていました。
さっそくオーストラリア行きの飛行機を手配し、彼との旅行計画を始めました。タスマニアへの旅行は、実際オーストラリアに着いて彼と会ってから行く場所とか細かく決めることにしました。私が取った飛行機は、トランジットが2回あり、最初にGold Coastゴールドコースト着、飛行機を乗り換えてMelbourneメルボルンへ、それからPerthパース行きという長い旅でした。このルートが一番安かったからこの飛行機のチケットを取りました。
観光ビザは3ヶ月滞在が可能なので、彼と一緒にいれる時間を楽しみにオーストラリアへ戻るのを楽しみにしていました。いざ出国の日、成田空港からまず最初に向かった先はゴールドコースト。ここで事件が起きました。乗り換えの飛行機の時刻まで3時間ほどだったのですが、税関検査で引っかかりました。まさかと思いましたが、税関の人は私のビザを見て、違う部屋へ来るように言いました。
もう心臓がバクバクです。これはヤバいとすぐにわかりました。確実に疑われていました。
税関から離れた一室に通され、税関検査官と二人きりにされられました。ドアの前には女性スタッフが立っています。部屋に中に入ると検査官の人が言いました。
「これから質問をします。正直にお答えください。なお、今からする質疑応答は全て録音させていただきます。」
もうNoとは言えません。そして質問が始まりました。
「あなたはつい数ヶ月前までオーストラリアにいましたよね?」はい。
「ワーキングホリデービザ、学生ビザを取っていて、その後観光ビザを申請していますね?」はい。
「今回また観光ビザを申請した理由はなんですか?」彼と一緒に旅行のプランを立てています。
「まさかオーストラリアで不法で仕事していませんか?」していません。
上記以外にもものすごい質問の数でした。私は正直に全て答えました。すると、
「あなたの彼の連絡先を教えていただけますか?」
と言われたので正直に伝えると、検査官は彼に電話をし、私が嘘を話していないかをひとつひとつ確認していきました。私が言っていることと、彼が言っていることは全て一致し、嘘ではないこと、実際にタスマニア旅行を計画していることが彼によって証明されました。ただ、手元にタスマニア行きの飛行機のチケットなり、フェリーのチケットがないことから、実際に旅行を計画している証明が少なすぎると判断されました。私は彼に実際会ってから行先を決めて飛行機のチケットを取るつもりだったと説明しましたが、今現時点で手元にないことには、証明になりません。とハッキリ言われてしまいました。
そうこうしているうちに、メルボルン行きの乗り換えの時間が過ぎてしまい、私は飛行機に乗り遅れてしまいました。こんなに疑われるなら、最初から観光ビザを下さなければ良かったんじゃないんですか?と言っていまったほどです。虚しさが襲ってきて、心が苦しくなりました。
「結局、旅行に行く証明が足りなくて、飛行機も乗り遅れて、私はあとはどうしたらいいんですか?」
と聞くと、
「次の日本行きの飛行機を手配するので、このまま帰国してください」
と言われました。強制送還です。
楽しみにしていた彼との再会が実現出来ず、悲しさ、寂しさ、虚しさと全てがのしかかってきて、まさか自分が強制送還に合うなんて。。
気持ちの整理がつかないまま、監視官の人にトイレに行っていいですか?と尋ねると、ドアの外で待っていた女性スタッフが私の元に来て、「ご一緒します」とだけ一言言い、トイレまで一緒に着いてきました。私が入ったドアの真ん前に立って待っているのです。ここまで信用されてないって本当に怖かったです。トイレから逃げるとでも思われているのでしょうか。このために女性スタッフが待機していたのだと後で知りました。
この後、彼と電話で話す時間すらもらえないまま、私は次の飛行機に乗せられ、帰国しました。とんぼ帰りでした。やっと着いたと思ったら、個室に4時間ほど隔離され、挙句の果てにトイレまで見張られ、最後の最後、飛行機に乗り込むまで私の後ろにはガードマンがしっかりついていました。きっとそのまま逃げようとする人がいるのでしょう。さすがにそこまでする勇気はありませんが、悪者扱いされるのはやはり気分が良いものではありませんでした。
飛行機に乗る直前にガードマンの人が一言、こんなことを言いました。
「あなたは、同じビザを短期間の間に申請したことにより、不正に仕事をしているのではないかという疑いをかけられました。よって、オーストラリアに5年間入国禁止令が出ました。ただ、5年以内に戻ってきたいのであれば、ひとつだけ入国出来る方法があります。それはオーストラリア市民権を持つ相手と結婚し、配偶者ビザを申請することです。そうすれば5年以内であっても再入国を認められますよ。良いフライトを。」
良いフライトを・・・?ふざけんじゃねーよ。
飛行機に乗り込み、指定された席に座り、外の景色を眺めながら、呆然としていました。もう何も考えられないとはこういう事でした。日本に着くまでの7時間もの間、何をしていたかも全く覚えていません。眠りに着いたのかすらもわからないまま、気づいたら日本でした。
成田空港に着き、友達に連絡しました。まさかの強制送還をされたことを伝えると、友達は大爆笑で
「あなたの中でまた新しい歴史を作ったね」
と言いました。なんのこっちゃと思いながらも、実家の親にも次の日に帰ることを知らせるために電話をかけました。
「ハハハッ、黙って帰ってこい!!笑」
親までもが笑っていました。何だかどうでも良くなってきました笑 ある意味、他の人が出来ない経験をしたと思えるようになりました。
当分はオーストラリアに行けそうにありません・・・
自分的には大満足のオーストラリア生活でした。ひとつだけ心残りなのが、ケンブリッジ英語試験に合格できなかったことです。しかし、この先また自分なりに勉強して再度試験を受けようと思えば受けれるので、自分自身の行動力を信じることにしました。
日本に帰ってきて1番最初にやりたかったことは、自分の英語力を生かして仕事をすることでした。私の地元はド田舎なので、英語を使う仕事というのはかなり限られていて、英会話教室くらいしかありませんでした。街中に外国人を見かけることも滅多にありません。時間をかけて色々探しましたが、地元で仕事を探すのはとても難関でした。就職する前に、コンビニなどでバイトをしながら就職活動を続けることにしました。
せっかく海外留学を経験し、日常会話には不便がないくらいの英語力をつけたのにも関わらず、それを生かした仕事が出来ないのはとても残念でした。外国人相手を接客する仕事や、それこそ留学エージェントなどの仕事を考えましたが、地元ではそういう仕事は一切ないので、また上京して仕事探しをすることも考え始めました。
そんなこんなで、就活をしながら生活をしながらも、日本帰国直前にお付き合いを始めた彼(今の旦那)とも、頻繁に連絡を取り続けていました。彼と話している限りは英語を使っていましたが、それ以外では使うことがないので、英語力が低下していくことが怖くも感じました。
そんなある日、彼との会話の中でこんな会話がありました。彼のお父さん家族がタスマニアに住んでいるから一緒に行きたいねと。私はセカンドワーホリの時にタスマニアにはもうすでに旅行に行っていたので、すごく良い所だったよーという話で盛り上がりました。彼は当時一度もタスマニアに行ったことがないというので、お父さん家族に会いに行くついでにタスマニア旅行をしたいと言うのです。お付き合いを始めてすぐに遠距離恋愛という形になってしまったのでお互いに会いたい気持ちはありましたが、一番最初に思ったことは、私はつい数ヶ月前に日本に帰ってきたばかりで、次オーストラリアにまた行くとなると何のビザで行くことになるんだ?ということでした。ワーホリは使い果たし、学生には今のところなるつもりはなくて、観光ビザしか残っていませんでした。ただ、つい数ヶ月前に観光ビザを取得して3ヶ月滞在を延長していたのに、また観光ビザを申請したらさすがに怪しまれるのではないかと。。。オーストラリアの税関は厳しいことで有名です。ただ、日本人は国柄的にすごく謙虚で謙遜する人柄な人が多いことから、ビザを申請するにあたってかなり有利だと言われています。基本的にはビザを断られることはないのですが、私の場合はつい数ヶ月前に観光ビザを申請していたので、また申請しても大丈夫なのだろうか?という不安がありました。
タスマニアへの二人旅行を夢見ながらも就活を続けていましたが、どうしてもやりたい仕事が見つかりませんでした。この際、就職が決まる前にタスマニア旅行に行って日本に帰国したらまた上京して仕事を探そうと考えました。そこでダメ元で観光ビザを申請してみると、ビックリ仰天、あまりにも簡単に申請が通り、観光ビザが下りました。あんなに怪しまれることに不安を抱いていたのは何だったんだ?と思いながらも、彼とまた会えること、旅行に行けることに心は浮かれていました。
さっそくオーストラリア行きの飛行機を手配し、彼との旅行計画を始めました。タスマニアへの旅行は、実際オーストラリアに着いて彼と会ってから行く場所とか細かく決めることにしました。私が取った飛行機は、トランジットが2回あり、最初にGold Coastゴールドコースト着、飛行機を乗り換えてMelbourneメルボルンへ、それからPerthパース行きという長い旅でした。このルートが一番安かったからこの飛行機のチケットを取りました。
観光ビザは3ヶ月滞在が可能なので、彼と一緒にいれる時間を楽しみにオーストラリアへ戻るのを楽しみにしていました。いざ出国の日、成田空港からまず最初に向かった先はゴールドコースト。ここで事件が起きました。乗り換えの飛行機の時刻まで3時間ほどだったのですが、税関検査で引っかかりました。まさかと思いましたが、税関の人は私のビザを見て、違う部屋へ来るように言いました。
もう心臓がバクバクです。これはヤバいとすぐにわかりました。確実に疑われていました。
税関から離れた一室に通され、税関検査官と二人きりにされられました。ドアの前には女性スタッフが立っています。部屋に中に入ると検査官の人が言いました。
「これから質問をします。正直にお答えください。なお、今からする質疑応答は全て録音させていただきます。」
もうNoとは言えません。そして質問が始まりました。
「あなたはつい数ヶ月前までオーストラリアにいましたよね?」はい。
「ワーキングホリデービザ、学生ビザを取っていて、その後観光ビザを申請していますね?」はい。
「今回また観光ビザを申請した理由はなんですか?」彼と一緒に旅行のプランを立てています。
「まさかオーストラリアで不法で仕事していませんか?」していません。
上記以外にもものすごい質問の数でした。私は正直に全て答えました。すると、
「あなたの彼の連絡先を教えていただけますか?」
と言われたので正直に伝えると、検査官は彼に電話をし、私が嘘を話していないかをひとつひとつ確認していきました。私が言っていることと、彼が言っていることは全て一致し、嘘ではないこと、実際にタスマニア旅行を計画していることが彼によって証明されました。ただ、手元にタスマニア行きの飛行機のチケットなり、フェリーのチケットがないことから、実際に旅行を計画している証明が少なすぎると判断されました。私は彼に実際会ってから行先を決めて飛行機のチケットを取るつもりだったと説明しましたが、今現時点で手元にないことには、証明になりません。とハッキリ言われてしまいました。
そうこうしているうちに、メルボルン行きの乗り換えの時間が過ぎてしまい、私は飛行機に乗り遅れてしまいました。こんなに疑われるなら、最初から観光ビザを下さなければ良かったんじゃないんですか?と言っていまったほどです。虚しさが襲ってきて、心が苦しくなりました。
「結局、旅行に行く証明が足りなくて、飛行機も乗り遅れて、私はあとはどうしたらいいんですか?」
と聞くと、
「次の日本行きの飛行機を手配するので、このまま帰国してください」
と言われました。強制送還です。
楽しみにしていた彼との再会が実現出来ず、悲しさ、寂しさ、虚しさと全てがのしかかってきて、まさか自分が強制送還に合うなんて。。
気持ちの整理がつかないまま、監視官の人にトイレに行っていいですか?と尋ねると、ドアの外で待っていた女性スタッフが私の元に来て、「ご一緒します」とだけ一言言い、トイレまで一緒に着いてきました。私が入ったドアの真ん前に立って待っているのです。ここまで信用されてないって本当に怖かったです。トイレから逃げるとでも思われているのでしょうか。このために女性スタッフが待機していたのだと後で知りました。
この後、彼と電話で話す時間すらもらえないまま、私は次の飛行機に乗せられ、帰国しました。とんぼ帰りでした。やっと着いたと思ったら、個室に4時間ほど隔離され、挙句の果てにトイレまで見張られ、最後の最後、飛行機に乗り込むまで私の後ろにはガードマンがしっかりついていました。きっとそのまま逃げようとする人がいるのでしょう。さすがにそこまでする勇気はありませんが、悪者扱いされるのはやはり気分が良いものではありませんでした。
飛行機に乗る直前にガードマンの人が一言、こんなことを言いました。
「あなたは、同じビザを短期間の間に申請したことにより、不正に仕事をしているのではないかという疑いをかけられました。よって、オーストラリアに5年間入国禁止令が出ました。ただ、5年以内に戻ってきたいのであれば、ひとつだけ入国出来る方法があります。それはオーストラリア市民権を持つ相手と結婚し、配偶者ビザを申請することです。そうすれば5年以内であっても再入国を認められますよ。良いフライトを。」
良いフライトを・・・?ふざけんじゃねーよ。
飛行機に乗り込み、指定された席に座り、外の景色を眺めながら、呆然としていました。もう何も考えられないとはこういう事でした。日本に着くまでの7時間もの間、何をしていたかも全く覚えていません。眠りに着いたのかすらもわからないまま、気づいたら日本でした。
成田空港に着き、友達に連絡しました。まさかの強制送還をされたことを伝えると、友達は大爆笑で
「あなたの中でまた新しい歴史を作ったね」
と言いました。なんのこっちゃと思いながらも、実家の親にも次の日に帰ることを知らせるために電話をかけました。
「ハハハッ、黙って帰ってこい!!笑」
親までもが笑っていました。何だかどうでも良くなってきました笑 ある意味、他の人が出来ない経験をしたと思えるようになりました。
当分はオーストラリアに行けそうにありません・・・
観光ビザに変更→そしてまさかの展開️
1月にセカンドワーキングホリデービザから学生ビザに変更して6か月間、語学学校で英語を学び、充実した時間を過ごすことが出来ました。6月いっぱいで学校が終わり、そのまま日本へ帰る予定でした。そのとき、知り合いからこんな情報をもらいました。
「学生ビザから観光ビザに変えれるらしいよ」
これだけセカンドワーホリで散々ラウンドを楽しみ、学生生活も充実させ、まだ観光する気か!?と考えましたが、日本に帰る前にオーストラリアでお世話になった人達と最後にまたたくさん楽しい時間を一緒に過ごし、あいさつをしてから帰りたいという気持ちが強くなってきました。ダメ元で申請してみようと思ってやってみると、思った以上にすんなりビザが下りました。えっ?こんなに簡単に下りるもん?と思いましたが、少しでも長く過ごせるならなるべく英語を話す機会を増やし、今までのオーストラリア生活で関わった人達になるべく会ってから帰ろうと思い、7月から9月までの3ヶ月間の予定を組み始めました。
7月は、今まで仕事と勉強をメインで頑張っていたメルボルンで、職場の人達、学校で同じクラスだった人達、シェアメイトなどとたくさん一緒に過ごすことにしました。メルボルンで9か月生活してきましたが、勉強と仕事がメインだったので実は観光らしき観光はしていませんでした。これを良い機会にメルボルンを満喫しました。
8月は、一番の思い出の場所パースに戻り、パースで出会った人達に1人1人会いに行くことにしました。
ホームステイ先のホストファミリー、語学学校でお世話になった先生達、そして学校で知り合った友人、日本食レストランで知り合った人達、ワーホリ一回目に働いたファームで出会った人達、そしてセカンドワーホリ時に働いたファームのボスと一緒に働いた人やシェアメイト。出来るかぎりの人達みんなに会いに行きました。それぞれの人達と一緒に遊びに行ったり、ランチや夜ご飯を食べに行ったりと、有意義な時間を過ごすことが出来ました。本当に楽しい時間でした☆
一番最後に一緒に過ごしたのは、ファームで一緒に生活していたシェアメイトでした。ここでまさか自分でも想像していないことが起きました。一番お世話になったシェアハウスのオーナーとお付き合いすることになったのです。それが今の旦那ですまさか観光ビザで日本に帰る前に挨拶がてら会いに来て意気投合し、付き合うことになるなんて誰も想像していませんでした。確かに一緒に働いているときも仲良くはさせてもらっていましたが、仕事仲間、シェアメイトという関係だけであったのに、本当にまさかの展開でした。
しかし私は観光ビザの身で、あと数週間で日本に帰ります。大人の付き合いとして数週間一緒に過ごし、それで終わりと思ってパースでの時間を楽しんだのちに、日本へ帰国しました。
「学生ビザから観光ビザに変えれるらしいよ」
これだけセカンドワーホリで散々ラウンドを楽しみ、学生生活も充実させ、まだ観光する気か!?と考えましたが、日本に帰る前にオーストラリアでお世話になった人達と最後にまたたくさん楽しい時間を一緒に過ごし、あいさつをしてから帰りたいという気持ちが強くなってきました。ダメ元で申請してみようと思ってやってみると、思った以上にすんなりビザが下りました。えっ?こんなに簡単に下りるもん?と思いましたが、少しでも長く過ごせるならなるべく英語を話す機会を増やし、今までのオーストラリア生活で関わった人達になるべく会ってから帰ろうと思い、7月から9月までの3ヶ月間の予定を組み始めました。
7月は、今まで仕事と勉強をメインで頑張っていたメルボルンで、職場の人達、学校で同じクラスだった人達、シェアメイトなどとたくさん一緒に過ごすことにしました。メルボルンで9か月生活してきましたが、勉強と仕事がメインだったので実は観光らしき観光はしていませんでした。これを良い機会にメルボルンを満喫しました。
8月は、一番の思い出の場所パースに戻り、パースで出会った人達に1人1人会いに行くことにしました。
ホームステイ先のホストファミリー、語学学校でお世話になった先生達、そして学校で知り合った友人、日本食レストランで知り合った人達、ワーホリ一回目に働いたファームで出会った人達、そしてセカンドワーホリ時に働いたファームのボスと一緒に働いた人やシェアメイト。出来るかぎりの人達みんなに会いに行きました。それぞれの人達と一緒に遊びに行ったり、ランチや夜ご飯を食べに行ったりと、有意義な時間を過ごすことが出来ました。本当に楽しい時間でした☆
一番最後に一緒に過ごしたのは、ファームで一緒に生活していたシェアメイトでした。ここでまさか自分でも想像していないことが起きました。一番お世話になったシェアハウスのオーナーとお付き合いすることになったのです。それが今の旦那ですまさか観光ビザで日本に帰る前に挨拶がてら会いに来て意気投合し、付き合うことになるなんて誰も想像していませんでした。確かに一緒に働いているときも仲良くはさせてもらっていましたが、仕事仲間、シェアメイトという関係だけであったのに、本当にまさかの展開でした。
しかし私は観光ビザの身で、あと数週間で日本に帰ります。大人の付き合いとして数週間一緒に過ごし、それで終わりと思ってパースでの時間を楽しんだのちに、日本へ帰国しました。
2022年03月25日
語学学校スタート
1月後半に、にセカンドワーキングホリデービザが切れるので、学校が始まる前に学生ビザをネットで申請し、ビザはすぐに下りました。
ついに語学学校がスタートです。1月から3月までの10週間は、ビジネス英語を学びました。何を学ぶかというと、自分がやりたいビジネスなどを仮定し、英語で物事を交渉したり、自分で考えた商品を他の生徒達の前で紹介したりです。それから、自分のオーストラリアのラウンドをして一番良かった場所についてプレゼンをしたりもしました。
ワーキングホリデー1年目のときは、自分の頭の中で言いたいことを日本語で考えて、それを英訳してから話していたので、翻訳に時間がかかっていました。今回語学学校で勉強するにあたり、英語で考えて英語で話すことを癖付けるようにしました。語学学校が始まる前から続けているレストランでの仕事と、無料英会話教室を教会で受けているときの経験も重なり、どんどん英語で物事を考えられるようになっている実感がありました。ビジネス英語を習い始めたときは、単語力が足りなすぎて、単語の意味を調べることが頻繁にありすぎて、一つの課題をするのにすごく時間がかかっていました。学校が終わってから、夕方のレストランでの仕事が始まるまでの間は、一生懸命習った単語を覚えました。その甲斐があって、ビジネス英語クラス最後のプレゼン試験で、クラスで1位を取ることが出来ました。1位になり、担任の先生からオーストラリアのお菓子、Timtamティムタムをご褒美にもらったのを覚えています笑
ビジネスコースが終わり、次に始まったコースは、私が一番受けたかったコースCambridge Courseケンブリッジコースです。このコースを受ける前にビジネス英語を受けて本当に良かったと思いました。脳内が英語漬けになっていたので、ケンブリッジコースの勉強が始まったときも脳が勉強することに慣れていました。ただ、ビジネス英語よりもやはりレベルが高いことがすぐに感じられました。ビジネス英語と一番大きな違いは、ビジネスの場合、会話力が一番重要視されますが、ケンブリッジの場合は会話力だけではなく、リーディング力、ライティング力、理解力などを細かく見られることです。会話力に関しても、ただ思っていることを話すだけではなく、1枚の写真を目の前に出され、その絵について時間制限内に5項目文章を作り、なぜそう思ったのかなどの理由も一緒に回答しなければならなかったので、頭をフル回転しました。スピーキングテストは個人の問題だけではなく、試験官に指定されたパートナーと一緒に1つのトピックについて話さなければならず、会話をする相手によっても結果が左右されます。一番得意だと思っていたスピーキングも自分の限界を感じることが多々あり、不得意なリーディングに関しては特に厄介でした。読む量がものすごく多く、それに関しての問題もすごく多かったのです。コースを受けている間は、最終テストをクリアするための攻略法を学びますが、過去問題を受けても、リーディング部分だけがどうしてもクリアできませんでした。
ケンブリッジの最終テスト本番は、指定されたホールに行って試験を受けます。試験は2時間弱だったと思いますが、問題の1番最後がリーディングの問題で、読む量が私には多すぎて、時間内に全てを読み切ることが出来ないまま回答をしなければいけませんでした。テストが全て終わり、会場から外に出たときは「やり切った感」よりも、「出来なかった感」がすごく強くて、結果を知る前から結果がわかっている状態でした。全ては私の一番不得意なリーディング力です。結果は数週間後に知らされますが、結果を見たくないほどでした。実際結果を受け取ると思った通りの結果で、リーディングが平均以下という結果でした。
ケンブリッジの試験に落ちて気持ちも落ち込んではいましたが、最後のGeneral English普通英語がまだ残っています。普通英語クラス最上級レベルのAdvanceを目指してレベルテストをしました。結果、私のレベルはAdvanceクラスに入れるレベルだったそうなのですが、その時のAdvanceクラスの生徒が多すぎては入れないとの事でした。そんなことあるーー!?と思いながらも、残念ながら一つ下のクラス、Upperクラスに入り、最後の1か月を楽しみました。最後は勉強を楽しむことに集中しました。
あっという間に語学学校生6か月間は過ぎていきました。この6か月間で、色んな事を学びました。英語だけではなく、辛いことを通してどこまで出来るかの自分との闘い、色んな国々の人達との接し方、仕事をしながらの試験勉強、この経験は将来必ず自分の役に立つだろうなと思います。
ついに語学学校がスタートです。1月から3月までの10週間は、ビジネス英語を学びました。何を学ぶかというと、自分がやりたいビジネスなどを仮定し、英語で物事を交渉したり、自分で考えた商品を他の生徒達の前で紹介したりです。それから、自分のオーストラリアのラウンドをして一番良かった場所についてプレゼンをしたりもしました。
ワーキングホリデー1年目のときは、自分の頭の中で言いたいことを日本語で考えて、それを英訳してから話していたので、翻訳に時間がかかっていました。今回語学学校で勉強するにあたり、英語で考えて英語で話すことを癖付けるようにしました。語学学校が始まる前から続けているレストランでの仕事と、無料英会話教室を教会で受けているときの経験も重なり、どんどん英語で物事を考えられるようになっている実感がありました。ビジネス英語を習い始めたときは、単語力が足りなすぎて、単語の意味を調べることが頻繁にありすぎて、一つの課題をするのにすごく時間がかかっていました。学校が終わってから、夕方のレストランでの仕事が始まるまでの間は、一生懸命習った単語を覚えました。その甲斐があって、ビジネス英語クラス最後のプレゼン試験で、クラスで1位を取ることが出来ました。1位になり、担任の先生からオーストラリアのお菓子、Timtamティムタムをご褒美にもらったのを覚えています笑
ビジネスコースが終わり、次に始まったコースは、私が一番受けたかったコースCambridge Courseケンブリッジコースです。このコースを受ける前にビジネス英語を受けて本当に良かったと思いました。脳内が英語漬けになっていたので、ケンブリッジコースの勉強が始まったときも脳が勉強することに慣れていました。ただ、ビジネス英語よりもやはりレベルが高いことがすぐに感じられました。ビジネス英語と一番大きな違いは、ビジネスの場合、会話力が一番重要視されますが、ケンブリッジの場合は会話力だけではなく、リーディング力、ライティング力、理解力などを細かく見られることです。会話力に関しても、ただ思っていることを話すだけではなく、1枚の写真を目の前に出され、その絵について時間制限内に5項目文章を作り、なぜそう思ったのかなどの理由も一緒に回答しなければならなかったので、頭をフル回転しました。スピーキングテストは個人の問題だけではなく、試験官に指定されたパートナーと一緒に1つのトピックについて話さなければならず、会話をする相手によっても結果が左右されます。一番得意だと思っていたスピーキングも自分の限界を感じることが多々あり、不得意なリーディングに関しては特に厄介でした。読む量がものすごく多く、それに関しての問題もすごく多かったのです。コースを受けている間は、最終テストをクリアするための攻略法を学びますが、過去問題を受けても、リーディング部分だけがどうしてもクリアできませんでした。
ケンブリッジの最終テスト本番は、指定されたホールに行って試験を受けます。試験は2時間弱だったと思いますが、問題の1番最後がリーディングの問題で、読む量が私には多すぎて、時間内に全てを読み切ることが出来ないまま回答をしなければいけませんでした。テストが全て終わり、会場から外に出たときは「やり切った感」よりも、「出来なかった感」がすごく強くて、結果を知る前から結果がわかっている状態でした。全ては私の一番不得意なリーディング力です。結果は数週間後に知らされますが、結果を見たくないほどでした。実際結果を受け取ると思った通りの結果で、リーディングが平均以下という結果でした。
ケンブリッジの試験に落ちて気持ちも落ち込んではいましたが、最後のGeneral English普通英語がまだ残っています。普通英語クラス最上級レベルのAdvanceを目指してレベルテストをしました。結果、私のレベルはAdvanceクラスに入れるレベルだったそうなのですが、その時のAdvanceクラスの生徒が多すぎては入れないとの事でした。そんなことあるーー!?と思いながらも、残念ながら一つ下のクラス、Upperクラスに入り、最後の1か月を楽しみました。最後は勉強を楽しむことに集中しました。
あっという間に語学学校生6か月間は過ぎていきました。この6か月間で、色んな事を学びました。英語だけではなく、辛いことを通してどこまで出来るかの自分との闘い、色んな国々の人達との接し方、仕事をしながらの試験勉強、この経験は将来必ず自分の役に立つだろうなと思います。
仕事探しスタート
ネットカフェでのトライアルが上手くいかず、また1から仕事探しを始めます。シェアハウスのオーナーが、近所に日本食レストランがあるから行ってみたら?と言ってくれました。また日本食かぁと思いましたが、何も仕事がないよりかはマシかなと思い、とりあえずレジメ(履歴書)を持って行くことにしました。
昼11時頃に教えられたストリートに行き店を覗いてみると、レストランは開いていませんでした。営業時間を見てみると、夕方5時半からオープンと書いてあったので、午後仕込みを始めるであろう時間帯2、3時くらいにもう一度行ってみると、中に人影が見えました。ドアを押してみると鍵がかかってなかったので、’Hello’と声をかけてみると、「こんにちはー」と中の人に言われました。女性が一人、男性がキッチンの奥からこちらを見ています。レジメを持ってきたんですけど、仕事は募集していますか?と尋ねると、ボスが今席を外しているので後で渡しておきますねーと言ってくれました。
その日の夕方さっそく連絡が来て、次の日に店に来るように言われました。指定された時間に店に行ってみると、昨日いたスタッフがキッチンで仕事をしながらあいさつしてくれました。オーナーはオーストラリア人の女性で、姉と妹で共同ビジネスをしていて、もう一軒別のサバーブに日本食レストランを経営しているそうです。
このレストランではきちんと面接があり、面接は全て英語でした。英語での会話が不便なく出来るかどうかで、キッチンかフロントで分けられます。面接の結果、とりあえずフロントで仕事をしてもらいたいと言われました。もう一軒の日本食レストランは、ランチも開いているそうで、そちらで働く機会があるということでした。
またしても思った以上に仕事は決まりました。ただ、今回こそは日本語の環境から少しでも離れようと思っていたのにまた日本語環境を選んでしまった。。どこかで後悔する部分がありましたが、とりあえずレストランの仕事をしながら、違う仕事もいつでも探せると思い、気持ちを切れかえました。
実際働き始めて気づいたことは、思った以上に英語環境だったこと。働いている間は、日本語の環境がほぼゼロでした。フロントで働いていることもあり、話す相手がお客さんがメインで、スタッフ同士で話すのは、オーダーを取ったときに特別なリクエストを受けたときくらいでした。パースの日本食レストランで働いていたときは、持ち帰り専門のお店だったので、オーダーを取って終わりだったのですが、今回のレストランはDine inレストラン内で食事をすることで、お客さんとの会話が圧倒的に多いこと、お客さんの食事状態を常に把握し、アルコールやデザートのオファーを忘れずに確認しに行かなければならないこと、今まで働いてきたレストランとは一味違いました。日本で働いていたレストランでもそこまでしたことはなかったので、良い経験になりました。
数週間働いてみて、圧倒的に英語を使う機会が増えたことから、違う仕事を探すことを考えていましたが、とりあえずそれは止めて、この日本食レストランで一生懸命働いてみることにしました。一緒に働いていたスタッフも、学生やワーキングホリデーで仕事をしている人が半分と、オーストラリアに永住して10年以上生活している人など様々で、みんな英語を上手に話せる人達がほとんどでした。みんなの英語力を見ていると、自分がどれだけ出来ないのかを目の当たりにしてへこみましたが、だからこそ頑張ろうとモチベーションを上げて生活することが出来ました。
もう一軒の日本食レストランは、家からトラムで10分ほどの場所にありました。そちらのレストランでも働く機会をもらい、平日数日と、週末の昼間に働かせてもらいました。日本人がキッチンで料理をし、フロントは全員ローカルの人達でした。フロントで働く日本人は私のみで、そこでも英語を使う機会が多く、オーストラリア人のスタッフが一緒に働いているときは、日本人同士の会話も全て英語でした。とても良い環境だったと思います。
仕事をし始めて1か月ほど過ぎたときに、ローカル新聞の一角に、無料英会話の広告を見つけました。シティの教会で週末、朝10時から英語を無料で教えているというのです。語学学校に通い始めるまでまだ2か月あったので、仕事の時間をかぶらない限り、その教会で英語の勉強をすることにしました。無料なだけあり、英語のレベル分けなどはされていないので、時には簡単すぎたり、時には難しくて理解出来なかったりとありましたが、英語環境を作るにはもってこいでした。授業が終わったあとは、シティ内にある図書館で復習したり、充実した時間を過ごせました。
語学学校が始まる1月まで、仕事と週末の無料英会話レッスンで有意義な時間を過ごせました。
昼11時頃に教えられたストリートに行き店を覗いてみると、レストランは開いていませんでした。営業時間を見てみると、夕方5時半からオープンと書いてあったので、午後仕込みを始めるであろう時間帯2、3時くらいにもう一度行ってみると、中に人影が見えました。ドアを押してみると鍵がかかってなかったので、’Hello’と声をかけてみると、「こんにちはー」と中の人に言われました。女性が一人、男性がキッチンの奥からこちらを見ています。レジメを持ってきたんですけど、仕事は募集していますか?と尋ねると、ボスが今席を外しているので後で渡しておきますねーと言ってくれました。
その日の夕方さっそく連絡が来て、次の日に店に来るように言われました。指定された時間に店に行ってみると、昨日いたスタッフがキッチンで仕事をしながらあいさつしてくれました。オーナーはオーストラリア人の女性で、姉と妹で共同ビジネスをしていて、もう一軒別のサバーブに日本食レストランを経営しているそうです。
このレストランではきちんと面接があり、面接は全て英語でした。英語での会話が不便なく出来るかどうかで、キッチンかフロントで分けられます。面接の結果、とりあえずフロントで仕事をしてもらいたいと言われました。もう一軒の日本食レストランは、ランチも開いているそうで、そちらで働く機会があるということでした。
またしても思った以上に仕事は決まりました。ただ、今回こそは日本語の環境から少しでも離れようと思っていたのにまた日本語環境を選んでしまった。。どこかで後悔する部分がありましたが、とりあえずレストランの仕事をしながら、違う仕事もいつでも探せると思い、気持ちを切れかえました。
実際働き始めて気づいたことは、思った以上に英語環境だったこと。働いている間は、日本語の環境がほぼゼロでした。フロントで働いていることもあり、話す相手がお客さんがメインで、スタッフ同士で話すのは、オーダーを取ったときに特別なリクエストを受けたときくらいでした。パースの日本食レストランで働いていたときは、持ち帰り専門のお店だったので、オーダーを取って終わりだったのですが、今回のレストランはDine inレストラン内で食事をすることで、お客さんとの会話が圧倒的に多いこと、お客さんの食事状態を常に把握し、アルコールやデザートのオファーを忘れずに確認しに行かなければならないこと、今まで働いてきたレストランとは一味違いました。日本で働いていたレストランでもそこまでしたことはなかったので、良い経験になりました。
数週間働いてみて、圧倒的に英語を使う機会が増えたことから、違う仕事を探すことを考えていましたが、とりあえずそれは止めて、この日本食レストランで一生懸命働いてみることにしました。一緒に働いていたスタッフも、学生やワーキングホリデーで仕事をしている人が半分と、オーストラリアに永住して10年以上生活している人など様々で、みんな英語を上手に話せる人達がほとんどでした。みんなの英語力を見ていると、自分がどれだけ出来ないのかを目の当たりにしてへこみましたが、だからこそ頑張ろうとモチベーションを上げて生活することが出来ました。
もう一軒の日本食レストランは、家からトラムで10分ほどの場所にありました。そちらのレストランでも働く機会をもらい、平日数日と、週末の昼間に働かせてもらいました。日本人がキッチンで料理をし、フロントは全員ローカルの人達でした。フロントで働く日本人は私のみで、そこでも英語を使う機会が多く、オーストラリア人のスタッフが一緒に働いているときは、日本人同士の会話も全て英語でした。とても良い環境だったと思います。
仕事をし始めて1か月ほど過ぎたときに、ローカル新聞の一角に、無料英会話の広告を見つけました。シティの教会で週末、朝10時から英語を無料で教えているというのです。語学学校に通い始めるまでまだ2か月あったので、仕事の時間をかぶらない限り、その教会で英語の勉強をすることにしました。無料なだけあり、英語のレベル分けなどはされていないので、時には簡単すぎたり、時には難しくて理解出来なかったりとありましたが、英語環境を作るにはもってこいでした。授業が終わったあとは、シティ内にある図書館で復習したり、充実した時間を過ごせました。
語学学校が始まる1月まで、仕事と週末の無料英会話レッスンで有意義な時間を過ごせました。
2022年03月23日
ネットカフェの仕事
散歩がてらに家の近くを探索しているときに見つけたネットカフェ️ダメ元で仕事を募集していないかとスタッフに聞いてみると、明日トライアルに来てみるか?とのこと。10時に来るように言われたので、10分ほど早めに行ってみました。
店に入り、トライアルを受けに来たことを説明すると、前日にいなかった女性スタッフがキッチンにいて、もう一人の男性スタッフがフロントにいました。このお店のスタッフはみんな、パッと見はインド系の人でした。どこの国籍かは聞かなかったので、実際インド人かどうかは不明ですが、英語のアクセントを聞いているかぎり、インドのような気がしました。
自分の自己紹介をすると、男性スタッフにキッチンに通され、「ここにいたらいいよ」とだけ言われました。仕事の指示があるわけでもなく、ただ立っているだけなので、何かお手伝いできることはありますか?と聞くと、今はお客さんがいないから何もしなくていいと言われ、じゃぁ掃除か何かは?と聞くと、ただそこにいるだけでいいと言われました。立ってるだけじゃ仕事にならないので、今度はキッチンにいる女性スタッフに、何か料理の仕込みなどすることあればやりますよ?と声をかけると、全部冷凍だから大丈夫と言われました笑
今まで働いてきた職場とはずいぶん雰囲気が違うなぁと感じていると、お客さんが一人入ってきました。
「インターネットを1時間」
とだけ言うと、男性スタッフがOKとだけ一言。支払いを済ませてそのお客さんは一つのパソコンの前に座り、作業を始めました。
何もすることがないので、会計の仕方など教えてもらえませんか?と男性スタッフに聞くと、これは僕の仕事だから大丈夫と言うのです。えっ?じゃぁ私は何の仕事ならさせてもらえるの!?と思いながら不思議に思っていると、もう一人のお客さんが入ってきて、私に向かって「コーヒーひとつ」とオーダーしてきました。
少しお待ちくださいとだけ伝え、男性スタッフにコーヒーのオーダーが入ったので、コーヒーの淹れ方教えてもらえますか?と聞くと、男性スタッフはお客さんのところに行き、コーヒーは切れていると言ったのです。お客さんは、じゃぁもういいとだけ言ってお店を出て行きました。ここでちょっと違和感がありすぎて、私はここで仕事はさせてもらえるのか、そもそもここのスタッフは仕事をする気はあるのだろうかと不思議に思いました。コーヒーメーカーは目の前にあり、材料は全て揃っているように見えます。
女性スタッフがキッチンで何かを作り始めたので、何かお手伝いできますか?というと、じゃぁテーブルの上に置いてある冷凍食品を、入れ物に入れ替えてほしいと言われ、やっと何か指示をもらえました。それが終わると、もう仕事がないということだったので、キッチン周りの掃除を簡単に済ませました。
男性スタッフに、今日はこのくらいでいいよと言われ、時間を見るとちょうど1時間が過ぎた頃でした。これだけ!?と思いながらも、仕事はさせてもらえるんですか?と聞くと、明日の10時にもう一度トライアルに来てと言われました。明日の午前中にオーナーが来るらしいのです。トライアル2回もするのか!?と思いながらも、次の日にオーナーが来るなら仕方ないと思い、わかりましたとだけ言って帰りました。
次の日、また言われた通り店に行くと、もうすでにオーナーらしき人がいて、また自己紹介をしてからキッチンに入りました。今日は何の仕事からお手伝いさせてもらえますか?とオーナーに聞くと、今はお客さんがいないから何もしなくていいとまた言われました。これは文化の違いなのか!?何もしないはないだろ!?と思いながら、ほうきとちりとりを取って掃除をしました。
オーナーがキッチンにあるいすに座れと言うので、言われたまま座ると、どこから来たのか、出身国はどこなのか、学生なのか、他に仕事をしているのかと、色々な質問をしてきました。確かにトライアルをする前に面接的なものすらしていなかったと思い、質問に答えると、オーナーは笑顔でやさしく接してくれて、わからないことを色々教えると言ってくれました。やっと仕事っぽくなって来たかなと思ったそのとき、
「まずはマッサージをしてあげるからリラックスして」
と言われました。
「マッサージ?」
そう言い返すと、遠慮はいらないと肩に手をまわしてきました。
「マッサージはいりません、大丈夫です」
と言うと、
「君はまだリラックスできてないから、緊張しないで仕事をしてほしいんだ」
と言い、服の上からではなく、首元から手を入れてこようとしました。
「マッサージいらないって言いましたよね?仕事を教えてくれないならもう結構です。」
もう咄嗟に店を飛び出しました。やさしさで言ってくれているのか、最初から仕事を教えてくれるつもりはなかったのかわかりませんが、居心地が悪かったので結局その店に戻ることはありませんでした。当時まだ若かった私は、甘く見られていたのでしょう。英語が不十分だったこともあって、もしかしたら仕事をする上でも騙されるところだったかもしれません。
こんな経験があってから、このネットカフェは家の近所だったのにも関わらず、避けて通るようになりました。せっかく今まで経験のない職種にチャレンジしてみようと思っていましたが、1件目、うまくいきませんでした。無事に帰ってこれたことだけでも良かったのですが、また最初から仕事探しのスタートです。。涙
店に入り、トライアルを受けに来たことを説明すると、前日にいなかった女性スタッフがキッチンにいて、もう一人の男性スタッフがフロントにいました。このお店のスタッフはみんな、パッと見はインド系の人でした。どこの国籍かは聞かなかったので、実際インド人かどうかは不明ですが、英語のアクセントを聞いているかぎり、インドのような気がしました。
自分の自己紹介をすると、男性スタッフにキッチンに通され、「ここにいたらいいよ」とだけ言われました。仕事の指示があるわけでもなく、ただ立っているだけなので、何かお手伝いできることはありますか?と聞くと、今はお客さんがいないから何もしなくていいと言われ、じゃぁ掃除か何かは?と聞くと、ただそこにいるだけでいいと言われました。立ってるだけじゃ仕事にならないので、今度はキッチンにいる女性スタッフに、何か料理の仕込みなどすることあればやりますよ?と声をかけると、全部冷凍だから大丈夫と言われました笑
今まで働いてきた職場とはずいぶん雰囲気が違うなぁと感じていると、お客さんが一人入ってきました。
「インターネットを1時間」
とだけ言うと、男性スタッフがOKとだけ一言。支払いを済ませてそのお客さんは一つのパソコンの前に座り、作業を始めました。
何もすることがないので、会計の仕方など教えてもらえませんか?と男性スタッフに聞くと、これは僕の仕事だから大丈夫と言うのです。えっ?じゃぁ私は何の仕事ならさせてもらえるの!?と思いながら不思議に思っていると、もう一人のお客さんが入ってきて、私に向かって「コーヒーひとつ」とオーダーしてきました。
少しお待ちくださいとだけ伝え、男性スタッフにコーヒーのオーダーが入ったので、コーヒーの淹れ方教えてもらえますか?と聞くと、男性スタッフはお客さんのところに行き、コーヒーは切れていると言ったのです。お客さんは、じゃぁもういいとだけ言ってお店を出て行きました。ここでちょっと違和感がありすぎて、私はここで仕事はさせてもらえるのか、そもそもここのスタッフは仕事をする気はあるのだろうかと不思議に思いました。コーヒーメーカーは目の前にあり、材料は全て揃っているように見えます。
女性スタッフがキッチンで何かを作り始めたので、何かお手伝いできますか?というと、じゃぁテーブルの上に置いてある冷凍食品を、入れ物に入れ替えてほしいと言われ、やっと何か指示をもらえました。それが終わると、もう仕事がないということだったので、キッチン周りの掃除を簡単に済ませました。
男性スタッフに、今日はこのくらいでいいよと言われ、時間を見るとちょうど1時間が過ぎた頃でした。これだけ!?と思いながらも、仕事はさせてもらえるんですか?と聞くと、明日の10時にもう一度トライアルに来てと言われました。明日の午前中にオーナーが来るらしいのです。トライアル2回もするのか!?と思いながらも、次の日にオーナーが来るなら仕方ないと思い、わかりましたとだけ言って帰りました。
次の日、また言われた通り店に行くと、もうすでにオーナーらしき人がいて、また自己紹介をしてからキッチンに入りました。今日は何の仕事からお手伝いさせてもらえますか?とオーナーに聞くと、今はお客さんがいないから何もしなくていいとまた言われました。これは文化の違いなのか!?何もしないはないだろ!?と思いながら、ほうきとちりとりを取って掃除をしました。
オーナーがキッチンにあるいすに座れと言うので、言われたまま座ると、どこから来たのか、出身国はどこなのか、学生なのか、他に仕事をしているのかと、色々な質問をしてきました。確かにトライアルをする前に面接的なものすらしていなかったと思い、質問に答えると、オーナーは笑顔でやさしく接してくれて、わからないことを色々教えると言ってくれました。やっと仕事っぽくなって来たかなと思ったそのとき、
「まずはマッサージをしてあげるからリラックスして」
と言われました。
「マッサージ?」
そう言い返すと、遠慮はいらないと肩に手をまわしてきました。
「マッサージはいりません、大丈夫です」
と言うと、
「君はまだリラックスできてないから、緊張しないで仕事をしてほしいんだ」
と言い、服の上からではなく、首元から手を入れてこようとしました。
「マッサージいらないって言いましたよね?仕事を教えてくれないならもう結構です。」
もう咄嗟に店を飛び出しました。やさしさで言ってくれているのか、最初から仕事を教えてくれるつもりはなかったのかわかりませんが、居心地が悪かったので結局その店に戻ることはありませんでした。当時まだ若かった私は、甘く見られていたのでしょう。英語が不十分だったこともあって、もしかしたら仕事をする上でも騙されるところだったかもしれません。
こんな経験があってから、このネットカフェは家の近所だったのにも関わらず、避けて通るようになりました。せっかく今まで経験のない職種にチャレンジしてみようと思っていましたが、1件目、うまくいきませんでした。無事に帰ってこれたことだけでも良かったのですが、また最初から仕事探しのスタートです。。涙