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2022年02月26日
オーストラリアでの初仕事🇦🇺
語学学校も残り1ヶ月弱となった頃、私の手持ち金残り10万円を切っていました。
パースから北に2時間ほどのピナクルズという、砂漠の中に石灰岩の石柱が立ち並ぶ場所があるのですが、そこに行くツアーに行こうと友達に誘われて、うっかり行ってしまいました。。4WDのバスのようなトラックのような車に20人ほどが乗り、砂漠中を走り回るのです🏜アップダウンが激しくて、下手にジェットコースターに乗るよりよっぽど楽しかったです️🇦🇺楽しかったのはとても良かったのですが、残高を見てちょっとした焦りが。。。
その頃、Pre-intermediateクラスにいた私は、同じクラスにいた日本人の女の子と仲良くなり、よく遊ぶようになっていました。その子はお兄さんがパースに住んでいるようで、お兄さんを訪ねがてら、ついでに英語も勉強しに来ているようでした。そのお兄さんは、パースで日本食レストランを経営していると聞き、ダメ元で仕事をさせてもらえないか聞いてみてもらうことにしました。すると、二つ返事で承諾を得たようで、数日後に直接レストランに顔出しに行くことになりました。
日本語が通じる安心感と、仕事が出来る(イコール手持ち金が底をつかない)安心感でほっとしたのを覚えています。
後日直接伺ってみると、オーナーさんはとても感じが良い方で、英語がまだ話せないことと、できればキッチンで仕事をしたいという希望を出して、働ける日数や時間帯の話をしてその日は終わりました。
その日本食レストランはビジネス街にあり、周りは大体スーツを来たオフィスで仕事をしてる人達ばかりです。ランチ休憩で昼食を買いに来るお客さんをターゲットにしていて、営業時間は11時から14:30という短い時間でした。しかし、朝に仕込みや準備があるのと、閉店後の片付けなどで仕事が始まる時間は9時からで、終わるのは3時頃でした。
語学学校に行っている間は、時間帯的に仕事が出来ないということで、仕事を始める時期は学校を卒業した後となりました。
友達には感謝し切れない程感謝しました。
パースに住んで、かれこれ15年以上。仕事はコネで見つけるのが1番手っ取り早いのは、今も変わっていません笑笑
語学学校に3ヶ月も通えば、英語がペラペラになって仕事探しもそんなに大変ではないだろうと思い込んでいた私は、がっつり現実を思い知らせました
パースから北に2時間ほどのピナクルズという、砂漠の中に石灰岩の石柱が立ち並ぶ場所があるのですが、そこに行くツアーに行こうと友達に誘われて、うっかり行ってしまいました。。4WDのバスのようなトラックのような車に20人ほどが乗り、砂漠中を走り回るのです🏜アップダウンが激しくて、下手にジェットコースターに乗るよりよっぽど楽しかったです️🇦🇺楽しかったのはとても良かったのですが、残高を見てちょっとした焦りが。。。
その頃、Pre-intermediateクラスにいた私は、同じクラスにいた日本人の女の子と仲良くなり、よく遊ぶようになっていました。その子はお兄さんがパースに住んでいるようで、お兄さんを訪ねがてら、ついでに英語も勉強しに来ているようでした。そのお兄さんは、パースで日本食レストランを経営していると聞き、ダメ元で仕事をさせてもらえないか聞いてみてもらうことにしました。すると、二つ返事で承諾を得たようで、数日後に直接レストランに顔出しに行くことになりました。
日本語が通じる安心感と、仕事が出来る(イコール手持ち金が底をつかない)安心感でほっとしたのを覚えています。
後日直接伺ってみると、オーナーさんはとても感じが良い方で、英語がまだ話せないことと、できればキッチンで仕事をしたいという希望を出して、働ける日数や時間帯の話をしてその日は終わりました。
その日本食レストランはビジネス街にあり、周りは大体スーツを来たオフィスで仕事をしてる人達ばかりです。ランチ休憩で昼食を買いに来るお客さんをターゲットにしていて、営業時間は11時から14:30という短い時間でした。しかし、朝に仕込みや準備があるのと、閉店後の片付けなどで仕事が始まる時間は9時からで、終わるのは3時頃でした。
語学学校に行っている間は、時間帯的に仕事が出来ないということで、仕事を始める時期は学校を卒業した後となりました。
友達には感謝し切れない程感謝しました。
パースに住んで、かれこれ15年以上。仕事はコネで見つけるのが1番手っ取り早いのは、今も変わっていません笑笑
語学学校に3ヶ月も通えば、英語がペラペラになって仕事探しもそんなに大変ではないだろうと思い込んでいた私は、がっつり現実を思い知らせました
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留学時にかかった費用とエージェントを通して決めたこと
海外留学をするときに、エージェントを通して決めたこと&加入
️ビザ取得(ワーキングホリデー)
日本円で約5万円でした。今現在、コロナの影響で留学生や海外で働く外国人の数が減っています。そのため、オーストラリアは2022年1月以降に仕事をすることを目的として渡豪する者に対してのビザ費用を無料化することを発表しました。4月までに入国することを条件としています。詳しくはリンクを載せておきますね!
https://immi.homeaffairs.gov.au/visas/getting-a-visa/visa-listing/work-holiday-417/first-working-holiday-417
️ホームステイ先&空港までの送迎
ホームステイ代は$180p/wでした。大体1週間で2万円程です。p/wとはper weekの略です。朝食と夕飯付きです。ネット代も含まれていましたが、私は電話も何も持っていなかったので不必要でした。家族と一緒の外出時も、支払いは別だったので、ホームステイ代には含まれていません。バスや電車代ももちろん自費で別で支払います。
️海外保険
これがかなりの費用がかかりました。結果から言うと、一年間で保険代に90万円払いました。何も知らないというのは恐ろしいですね確かに大きな怪我や病気をした場合は、入院費や手術費には役立ったでしょう。その他もろもろ保障が組まれており、それから死亡手当も数千万ほどあったと思います。ただ、のちに自分で海外保険を検索するようになり思ったのは、死亡手当よりも怪我や病気、紛失破損をメインに保険を組んだ方が本当に何かあった時にはよっぽど有利だったと思います。
️飛行機の旅券(往復&1年以内なら日程変更いつでも可能)
航空券は、1年間通して日程変更可能ということで、18万円ほどしたと思います。コロナ前は激安航空券検索などして、日本とオーストラリアの往復で7.8万円というのがざらにあったので、18万なんて払えたもんじゃありません
️語学学校
語学学校は3ヶ月で約30万円でした。私が通ってた学校は、パートタイムとフルタイムがあり、私はフルタイムで時間は8時半から3時まで。小中学校に行くのと同じ時間帯ですね。週5日、月曜日から金曜日まで行っていました。
️銀行
日本の銀行から海外のATMでお金を下ろせるようにCitybankの登録も日本からしていきました。実際どのくらいの額がかかったかはうら覚えなのですが、手数料がものすごく高かった印象があります。
メインで決めて行ったのは大体このくらいです。支払いは全て日本で済ましてから渡豪しました。
東京で一人暮らしをしながら3つほどのアルバイトを掛け持ちし、睡眠時間を削ってまで留学費用を稼ぎ、プラス当時住んでいたアパート代が1ヶ月7万円で、光熱費&食費で3万円ほど。19歳でよくやり遂げたと若かりし自分を褒めてやりたい
オーストラリアに持って来た手持ちの金額はおよそ20万円ほどでした。よくもまぁ手持ちそんな額で海外にこれたなと今は思いますけどね
何も知らない=怖いものがない。。若いってすごいですね
️ビザ取得(ワーキングホリデー)
日本円で約5万円でした。今現在、コロナの影響で留学生や海外で働く外国人の数が減っています。そのため、オーストラリアは2022年1月以降に仕事をすることを目的として渡豪する者に対してのビザ費用を無料化することを発表しました。4月までに入国することを条件としています。詳しくはリンクを載せておきますね!
https://immi.homeaffairs.gov.au/visas/getting-a-visa/visa-listing/work-holiday-417/first-working-holiday-417
️ホームステイ先&空港までの送迎
ホームステイ代は$180p/wでした。大体1週間で2万円程です。p/wとはper weekの略です。朝食と夕飯付きです。ネット代も含まれていましたが、私は電話も何も持っていなかったので不必要でした。家族と一緒の外出時も、支払いは別だったので、ホームステイ代には含まれていません。バスや電車代ももちろん自費で別で支払います。
アイエス留学ネットワーク
ワーホリや語学学校の手続き代行
ホームステイの手配など。
️海外保険
これがかなりの費用がかかりました。結果から言うと、一年間で保険代に90万円払いました。何も知らないというのは恐ろしいですね確かに大きな怪我や病気をした場合は、入院費や手術費には役立ったでしょう。その他もろもろ保障が組まれており、それから死亡手当も数千万ほどあったと思います。ただ、のちに自分で海外保険を検索するようになり思ったのは、死亡手当よりも怪我や病気、紛失破損をメインに保険を組んだ方が本当に何かあった時にはよっぽど有利だったと思います。
️飛行機の旅券(往復&1年以内なら日程変更いつでも可能)
航空券は、1年間通して日程変更可能ということで、18万円ほどしたと思います。コロナ前は激安航空券検索などして、日本とオーストラリアの往復で7.8万円というのがざらにあったので、18万なんて払えたもんじゃありません
️語学学校
語学学校は3ヶ月で約30万円でした。私が通ってた学校は、パートタイムとフルタイムがあり、私はフルタイムで時間は8時半から3時まで。小中学校に行くのと同じ時間帯ですね。週5日、月曜日から金曜日まで行っていました。
️銀行
日本の銀行から海外のATMでお金を下ろせるようにCitybankの登録も日本からしていきました。実際どのくらいの額がかかったかはうら覚えなのですが、手数料がものすごく高かった印象があります。
メインで決めて行ったのは大体このくらいです。支払いは全て日本で済ましてから渡豪しました。
東京で一人暮らしをしながら3つほどのアルバイトを掛け持ちし、睡眠時間を削ってまで留学費用を稼ぎ、プラス当時住んでいたアパート代が1ヶ月7万円で、光熱費&食費で3万円ほど。19歳でよくやり遂げたと若かりし自分を褒めてやりたい
オーストラリアに持って来た手持ちの金額はおよそ20万円ほどでした。よくもまぁ手持ちそんな額で海外にこれたなと今は思いますけどね
何も知らない=怖いものがない。。若いってすごいですね
2022年02月25日
引っ越し
ホームステイ滞在費用は、1ヶ月に8万円ほどでした。でも金銭的にもキツイと言うことで、自分でシェアハウスなりアパートを探すことにしました。
日本から一緒に来た友達は相変わらず仲良くさせてもらってました。しかし、語学学校の同じクラスにいた男の子と仲良くなり、付き合うようになりました。その男の子は兄弟で留学してきており、そのため私も含め、4人で時間を過ごすことが多くなりました。そこで、意気投合した私達は、4人でアパートを探すことにしました。
アパートを借りるには、電話番号が必要で、英語力がほぼみんな同じな私達は、携帯電話の契約の仕方もわからなければ、何をどこから始めるかもわからないままでした。
パースには日本コミュニティセンターのような所が数カ所シティにあり、掲示板などで色んな情報を日本語で得る事ができます。そこで、携帯電話の契約の仕方を日本語で教えてもらい、不動産関係代行サービスという記事を見つけ、その人に頼みながらも、何とかアパートを見つけることに成功しました。携帯電話の契約をしたのは、私1人だったので、この先のアパート関係、光熱費関係の連絡は全て私に連絡が来ます。
とにかく、ホームステイの契約が切れる前に住む場所が見つかって一安心でした
お世話になったホストファミリーにお礼をしっかりして、契約した携帯電話の番号を教えてから、スーツケース1つ持って、アパートに引っ越ししました。
オーストラリア留学を経験豊かな日本人スタッフが
無料でサポート。入学手続も無料で代行致します。
資料請求及びお問い合わせはこちらから!
日本から一緒に来た友達は相変わらず仲良くさせてもらってました。しかし、語学学校の同じクラスにいた男の子と仲良くなり、付き合うようになりました。その男の子は兄弟で留学してきており、そのため私も含め、4人で時間を過ごすことが多くなりました。そこで、意気投合した私達は、4人でアパートを探すことにしました。
アパートを借りるには、電話番号が必要で、英語力がほぼみんな同じな私達は、携帯電話の契約の仕方もわからなければ、何をどこから始めるかもわからないままでした。
パースには日本コミュニティセンターのような所が数カ所シティにあり、掲示板などで色んな情報を日本語で得る事ができます。そこで、携帯電話の契約の仕方を日本語で教えてもらい、不動産関係代行サービスという記事を見つけ、その人に頼みながらも、何とかアパートを見つけることに成功しました。携帯電話の契約をしたのは、私1人だったので、この先のアパート関係、光熱費関係の連絡は全て私に連絡が来ます。
とにかく、ホームステイの契約が切れる前に住む場所が見つかって一安心でした
お世話になったホストファミリーにお礼をしっかりして、契約した携帯電話の番号を教えてから、スーツケース1つ持って、アパートに引っ越ししました。
オーストラリア留学を経験豊かな日本人スタッフが
無料でサポート。入学手続も無料で代行致します。
資料請求及びお問い合わせはこちらから!
ホームステイ
ホームステイは2ヶ月契約をしていたので、2ヶ月間しっかりお世話になりました。とても素敵な家族で、本当にラッキーだったなと思います。良い意味で、今までの当たり前が、海外では当たり前じゃないんだということを知りました。
️シャワー🚿は節水のために5分まで。
️シャワーは夜7時半以降は浴びてはいけない。
️洗濯は3日に一回
️たまに子守をさせられる(1ヶ月に数回)
️夜寝る前に子供達と一緒にお祈りをさせられる(何を言ってるのかさーっぱりわけわからなかったけど)
慣れると全然大したことないのですが、学校の後に友達と遊びに行ったり、夜遊びに行ったりしてから帰ると、シャワーが浴びれないのが夏だったのでしんどかったのを覚えています。一度だけ我慢出来ずにシャワーを浴びて、思いっきり注意されました
あとこれは英語の問題ですが、
•Have you had dinner?
•Would you like to have dinner?
の違いがわからなく、どちらもYesと答えていました。ご飯食べる?って聞かれているんだろうと思い込み、ダイニングで待っていましたが、一向に夜ご飯が出て来ない。。日本の中学、高校で、英語をろくに勉強してこなかったツケが回ってきました
「あの〜私のごはんは?」と聞きたいのは山々だけれども、何と言えばいいかわからないし、自分が理解出来ないせいで、ごはんが食べれないんだと凹み、夜ご飯抜きの日が数日ありました。
ある日学校の授業で、Do you とHave youの違いを習い、そこで初めてハッとし、今までホストマザーにHave you had dinner? (もうごはん食べた?)と聞かれていることに気付きました。それに対してYesと答えていたから夕飯が無しだったことに気付き、それからは夕飯を毎日食べれるようになりました
普段からホストマザーが作ってくれる料理は、パンやご飯なしの、サラダ🥗と肉、マッシュポテトとチキンなど、日本では毎日お米を主食にしていた私には物足りない夕食だったため、ホームステイをしていた2ヶ月間で、4キロも体重が落ちました今まで日本にいた頃が食べすぎだっただけのようです笑笑
日本人の国柄もあってか、言いたいことがすぐに言えない、英語が間違ってて通じなかったらどうしようと色々考えすぎて、結局ホストマザーに何も言えないで苦労したことがたくさんありましたが、ホストファミリーは良い家族に当たったし、ホームステイはほんとに良い経験になりました️
ホストファミリーの当たり外れは結構あるみたいなので、事前に色々質問出来ることはしておいた方が良いかもしれませんね。私の友達のホームステイ先は、夜ご飯がカップ麺だったときもあったそうです
️シャワー🚿は節水のために5分まで。
️シャワーは夜7時半以降は浴びてはいけない。
️洗濯は3日に一回
️たまに子守をさせられる(1ヶ月に数回)
️夜寝る前に子供達と一緒にお祈りをさせられる(何を言ってるのかさーっぱりわけわからなかったけど)
慣れると全然大したことないのですが、学校の後に友達と遊びに行ったり、夜遊びに行ったりしてから帰ると、シャワーが浴びれないのが夏だったのでしんどかったのを覚えています。一度だけ我慢出来ずにシャワーを浴びて、思いっきり注意されました
あとこれは英語の問題ですが、
•Have you had dinner?
•Would you like to have dinner?
の違いがわからなく、どちらもYesと答えていました。ご飯食べる?って聞かれているんだろうと思い込み、ダイニングで待っていましたが、一向に夜ご飯が出て来ない。。日本の中学、高校で、英語をろくに勉強してこなかったツケが回ってきました
「あの〜私のごはんは?」と聞きたいのは山々だけれども、何と言えばいいかわからないし、自分が理解出来ないせいで、ごはんが食べれないんだと凹み、夜ご飯抜きの日が数日ありました。
ある日学校の授業で、Do you とHave youの違いを習い、そこで初めてハッとし、今までホストマザーにHave you had dinner? (もうごはん食べた?)と聞かれていることに気付きました。それに対してYesと答えていたから夕飯が無しだったことに気付き、それからは夕飯を毎日食べれるようになりました
普段からホストマザーが作ってくれる料理は、パンやご飯なしの、サラダ🥗と肉、マッシュポテトとチキンなど、日本では毎日お米を主食にしていた私には物足りない夕食だったため、ホームステイをしていた2ヶ月間で、4キロも体重が落ちました今まで日本にいた頃が食べすぎだっただけのようです笑笑
日本人の国柄もあってか、言いたいことがすぐに言えない、英語が間違ってて通じなかったらどうしようと色々考えすぎて、結局ホストマザーに何も言えないで苦労したことがたくさんありましたが、ホストファミリーは良い家族に当たったし、ホームステイはほんとに良い経験になりました️
ホストファミリーの当たり外れは結構あるみたいなので、事前に色々質問出来ることはしておいた方が良いかもしれませんね。私の友達のホームステイ先は、夜ご飯がカップ麺だったときもあったそうです
アイエス留学ネットワーク
ワーホリや語学学校の手続き代行
ホームステイの手配など。
語学学校
私が行った語学学校は、西オーストラリア、パースにある学校で、シティの中心部から一駅離れた場所にありました。学校はそれほど大きくはありませんでしたが、たくさんの外国人が英語を勉強しに来ていました。パース市内には、当時有名所では、3,4校ほど他に語学学校があり、英語資格の種類も色々ありました。
私は、英語の資格の前にそもそも全く出来ないのでGeneral English 普通科を選びました。英語の基礎から勉強するコースで、ABCのアルファベットからとは言いませんが、それに近いHello, How are you? くらいから始めた気がします。文章の作り方や、受け答え方、こう言われたらこう言う、みたいなロジックを教えてもらいました。
クラスは、私がいた1番レベルの低いクラス、
初級:Elementary
初中級:Pre-Intermediate
中級:Intermediate
中上級:Upper Intermediate
上級:Advanced
の順でした。レベルが上がれば上がるほど、やはりヨーロッパ系の生徒が多く見られ、日本人は英語を学ぶのに不利なのかなーと自虐的に考えていました。
校内には、上記のクラスの他に、コンピュータールーム、コミュニティルーム、キッチン、リビングルーム的な、休憩する場所がありました。外に出ると少し広めの庭があり、ヤシの木みたいな木がたくさんありました。
コンピュータールームは、語学学校に通っている生徒なら誰でも使用してよくて、時間規定はありましたが、メールをチェックしたり、パースの情報を探したりするのに役立ちました。コミュニティルームには、シェアハウス情報から旅情報、仕事募集など色んな情報が溢れていました。当時の私にはどれも理解出来ていませんでしたが、、
学校には色んな人種がいて、色んな文化が入り混じっていて、人間ウォッチングはなかなか面白いものでした笑 授業中はみんなそれぞれ頑張って英語を話しているのですが、休憩時間は母国語を話す傾向がありました。とくにレベルの低いクラスにいる生徒達(私も含め)が母国語を話すことが多かったと思います。
ランチ休憩中が特に、面白い光景が見られました。キッチンが中国人と韓国人に溢れ返るのです️オーストラリアにいるのか、どこかアジア圏にいるのか混乱するほど、中国語と韓国語しか聞こえなくなります。キッチン付属の冷蔵庫も食べ物で溢れ、テーブルやコミュニティスペースも大体アジア系生徒に使用されています。お皿も使わずに鍋から直接スープなり麺類を食べていて、テーブルの上はすごく汚れていましたが全く気にならないようで、食べ終わると綺麗に拭くわけでもなく、そのまま去っていきました。こんな事が毎日日常的に起きていました。
ふと周りを見ると、日本人達は周りの邪魔にならないように考慮しながら、狭いスペースを申し訳なさそうに使っていたり、外に移動したりしています。国柄がとても出ています
外の庭に移動すると、ヨーロッパ系の生徒達が芝生に横たわりながら優雅に読書をしながらサンドイッチやフルーツを食べていました。
語学学校は英語を学ぶだけの場所ではなく、色んな国柄が見れてとても興味深い場所でした。
ちなみにわたしはこの語学学校に3ヶ月通い、卒業する時の私の英語のレベルは、中級Intermediateまで上達していました。中級と聞くと、案外出来る!?と思いがちですが、日常会話がギリギリ出来るか出来ない程度。最低限言いたい事は言えるけど、まだ不便があるレベルです。語学学校に1ヶ月10万円程払っていました。3ヶ月以上は金銭的にも無理だったので、卒業後は私の英語力でも出来る仕事を探すことにしました。
私は、英語の資格の前にそもそも全く出来ないのでGeneral English 普通科を選びました。英語の基礎から勉強するコースで、ABCのアルファベットからとは言いませんが、それに近いHello, How are you? くらいから始めた気がします。文章の作り方や、受け答え方、こう言われたらこう言う、みたいなロジックを教えてもらいました。
クラスは、私がいた1番レベルの低いクラス、
初級:Elementary
初中級:Pre-Intermediate
中級:Intermediate
中上級:Upper Intermediate
上級:Advanced
の順でした。レベルが上がれば上がるほど、やはりヨーロッパ系の生徒が多く見られ、日本人は英語を学ぶのに不利なのかなーと自虐的に考えていました。
校内には、上記のクラスの他に、コンピュータールーム、コミュニティルーム、キッチン、リビングルーム的な、休憩する場所がありました。外に出ると少し広めの庭があり、ヤシの木みたいな木がたくさんありました。
コンピュータールームは、語学学校に通っている生徒なら誰でも使用してよくて、時間規定はありましたが、メールをチェックしたり、パースの情報を探したりするのに役立ちました。コミュニティルームには、シェアハウス情報から旅情報、仕事募集など色んな情報が溢れていました。当時の私にはどれも理解出来ていませんでしたが、、
学校には色んな人種がいて、色んな文化が入り混じっていて、人間ウォッチングはなかなか面白いものでした笑 授業中はみんなそれぞれ頑張って英語を話しているのですが、休憩時間は母国語を話す傾向がありました。とくにレベルの低いクラスにいる生徒達(私も含め)が母国語を話すことが多かったと思います。
ランチ休憩中が特に、面白い光景が見られました。キッチンが中国人と韓国人に溢れ返るのです️オーストラリアにいるのか、どこかアジア圏にいるのか混乱するほど、中国語と韓国語しか聞こえなくなります。キッチン付属の冷蔵庫も食べ物で溢れ、テーブルやコミュニティスペースも大体アジア系生徒に使用されています。お皿も使わずに鍋から直接スープなり麺類を食べていて、テーブルの上はすごく汚れていましたが全く気にならないようで、食べ終わると綺麗に拭くわけでもなく、そのまま去っていきました。こんな事が毎日日常的に起きていました。
ふと周りを見ると、日本人達は周りの邪魔にならないように考慮しながら、狭いスペースを申し訳なさそうに使っていたり、外に移動したりしています。国柄がとても出ています
外の庭に移動すると、ヨーロッパ系の生徒達が芝生に横たわりながら優雅に読書をしながらサンドイッチやフルーツを食べていました。
語学学校は英語を学ぶだけの場所ではなく、色んな国柄が見れてとても興味深い場所でした。
ちなみにわたしはこの語学学校に3ヶ月通い、卒業する時の私の英語のレベルは、中級Intermediateまで上達していました。中級と聞くと、案外出来る!?と思いがちですが、日常会話がギリギリ出来るか出来ない程度。最低限言いたい事は言えるけど、まだ不便があるレベルです。語学学校に1ヶ月10万円程払っていました。3ヶ月以上は金銭的にも無理だったので、卒業後は私の英語力でも出来る仕事を探すことにしました。
2022年02月24日
語学学校初日
朝準備をすると、ホストマザーが最寄り駅まで車で送ってくれました。前日に教えてもらった通りに電車のチケットを買ってホームに降りると、日本から一緒に来た友達の姿が️同じ学校に行くので、お互いのホームステイ先の家やホストファミリーの話をしながら電車で20分程揺られ、そこから学校まで徒歩15分程。
学校が近くなると、ちらほらアジア人の姿が見えました。同じ学校に通う生徒たちのようだったので、後を着いて校内に入ると、明らかに学校関係者らしき人が声をかけてきました。英語が通じないことがわかると、オフィスに行けと違う建物を指差されました。言われた通りにその建物に行くと、感じの良さそうなおばちゃんが色々質問なのか説明なのかしてきましたが、答えられないでいると、校内の地図を指差し、このクラスに行けと。今思うとおそらくどのレベルのクラスに行くのかのテストを兼ねての質問だったのでしょう。もちろん友達も一緒のクラス🤝
指定されたクラスに入ると、アジア人が12人程座っていました。みんな日本人に見えるけど一体何人なんだ!?友達とうっかり日本語を話してしまうと、それを聞いた他の日本人が声を掛けてきて、このクラスはレベルが1番低い、エレメンタリークラスだと日本語で教えてくれました自分を含め、日本人は5人ほど。残りは中国人と韓国人でした。どおりでアジア人だらけだと思った
担任の先生は、割と経験豊富そうな優しそうなおばちゃん先生️自己紹介をクラス全員でし、新入りの私達のために校内の教室に関しての説明をしてくれました。日本語ゼロ環境ではなさそうですが、校内は母国語禁止で英語のみのルールでした。初日はバタバタとしていて時間がすぐに過ぎていきました。
学校が終わると、帰りも同じルートで歩いて駅まで行き、家の最寄り駅で降りました。帰りはホストマザーが迎えに来ないので、教えてもらったバスの番号にどうにか乗り込みました。
バスに乗られて10分ほどでしょうか、、異変に気付きました。どこで降りるのか全然分かりません見たことのない景色が広がり、自分のホームステイ先がどこなのかがわからない。一緒にバスに乗っている友達も降りる場所がわからない。2人でパニックになり、バスの運転手に質問しようと思ったけど何と言えばいいかわからない最大のピンチ️バスの窓からガソリンスタンドを見つけた私は、友達にここで降りようと言い、バスのストップベルを鳴らしました。ガソリンスタンドに駆け寄り、店員に思い切って話しかけました。ここで日本で丸暗記してきた海外旅行英会話が役立った️️“Excuse me, can you please get me a taxi?”タクシーを呼んで頂けませんか?と。その店員は、私が英語を話せるものと思い、色んな質問をしてきましたが、その後の会話は続きませんテレビでよく見たことのある、首を横に振り、肩をすくめて両手を広げる姿🤷♀️をされながらも、何とかタクシーを呼んでもらいました。タクシーに飛び乗り、住所の書いた紙切れを見せ、友達のホームステイ先、それから私のホームステイ先へと無事に帰りました。
学校初日の帰りにとんでもない思いをしました家に帰ってホストマザーにジェスチャーと辞典を使いながら一生懸命今あったことを伝えると、なぜ私に電話しなかったのか?と言われました。電話したところで、自分が迷子で、今どこにいて、迎えに来て欲しいって説明が出来なかったからタクシー呼んだのに。。とすら説明出来ず、へらへら笑ってその場を過ごしました
次の日からはバスの降りる場所を確認してから学校に行きましたあの迷子になって言葉が通じなかった時の恐怖とパニック感、一生忘れないだろうなぁと思いながら、今となれば良い思い出です
学校が近くなると、ちらほらアジア人の姿が見えました。同じ学校に通う生徒たちのようだったので、後を着いて校内に入ると、明らかに学校関係者らしき人が声をかけてきました。英語が通じないことがわかると、オフィスに行けと違う建物を指差されました。言われた通りにその建物に行くと、感じの良さそうなおばちゃんが色々質問なのか説明なのかしてきましたが、答えられないでいると、校内の地図を指差し、このクラスに行けと。今思うとおそらくどのレベルのクラスに行くのかのテストを兼ねての質問だったのでしょう。もちろん友達も一緒のクラス🤝
指定されたクラスに入ると、アジア人が12人程座っていました。みんな日本人に見えるけど一体何人なんだ!?友達とうっかり日本語を話してしまうと、それを聞いた他の日本人が声を掛けてきて、このクラスはレベルが1番低い、エレメンタリークラスだと日本語で教えてくれました自分を含め、日本人は5人ほど。残りは中国人と韓国人でした。どおりでアジア人だらけだと思った
担任の先生は、割と経験豊富そうな優しそうなおばちゃん先生️自己紹介をクラス全員でし、新入りの私達のために校内の教室に関しての説明をしてくれました。日本語ゼロ環境ではなさそうですが、校内は母国語禁止で英語のみのルールでした。初日はバタバタとしていて時間がすぐに過ぎていきました。
学校が終わると、帰りも同じルートで歩いて駅まで行き、家の最寄り駅で降りました。帰りはホストマザーが迎えに来ないので、教えてもらったバスの番号にどうにか乗り込みました。
バスに乗られて10分ほどでしょうか、、異変に気付きました。どこで降りるのか全然分かりません見たことのない景色が広がり、自分のホームステイ先がどこなのかがわからない。一緒にバスに乗っている友達も降りる場所がわからない。2人でパニックになり、バスの運転手に質問しようと思ったけど何と言えばいいかわからない最大のピンチ️バスの窓からガソリンスタンドを見つけた私は、友達にここで降りようと言い、バスのストップベルを鳴らしました。ガソリンスタンドに駆け寄り、店員に思い切って話しかけました。ここで日本で丸暗記してきた海外旅行英会話が役立った️️“Excuse me, can you please get me a taxi?”タクシーを呼んで頂けませんか?と。その店員は、私が英語を話せるものと思い、色んな質問をしてきましたが、その後の会話は続きませんテレビでよく見たことのある、首を横に振り、肩をすくめて両手を広げる姿🤷♀️をされながらも、何とかタクシーを呼んでもらいました。タクシーに飛び乗り、住所の書いた紙切れを見せ、友達のホームステイ先、それから私のホームステイ先へと無事に帰りました。
学校初日の帰りにとんでもない思いをしました家に帰ってホストマザーにジェスチャーと辞典を使いながら一生懸命今あったことを伝えると、なぜ私に電話しなかったのか?と言われました。電話したところで、自分が迷子で、今どこにいて、迎えに来て欲しいって説明が出来なかったからタクシー呼んだのに。。とすら説明出来ず、へらへら笑ってその場を過ごしました
次の日からはバスの降りる場所を確認してから学校に行きましたあの迷子になって言葉が通じなかった時の恐怖とパニック感、一生忘れないだろうなぁと思いながら、今となれば良い思い出です
ホストファミリー️
私がお世話になったホストファミリーは、イギリス人のお母さん、お父さん、男の子2人の4人家族でした。当時はイギリス人だという事すらも知らず、何の仕事をしてるのかさえも把握していませんでした。住む場所があり、食事を用意してもらうだけで、十分助かっていました。
家はとても大きく、5ベッドルームのプール付き。食事と外出の時以外は、留学生と家族のスペースは分かれていたので、プライベートも保たれていて快適でした。部屋は大体8畳ほどの広さで、とても綺麗でした。
無事に宿泊先に着いたその日は日曜日で、家族で外出の準備をしていました。一緒に来るように言われ、どこに行くのか、何をするのかもわからないままついて行くと、教会でした。教会に行くのも初めてでしたし、誰かに紹介されたけど何も話せないので「ハロー」の繰り返し。教会での集まりでは、歌を歌い、みんな楽しそうに知り合いと話し、小一時間ほどで家に戻りました。キリスト教一家は週末に教会に行くというのは、映画で観たままなんだなぁというのが率直な感想
家に戻るとスーツケースが無事届いていて、やっと部屋に自分の物が揃って安心。
ホストマザーの提案で、語学学校が月曜日から始まるから電車とバスの乗り方を教えてくれるということをなんとなく理解し、駅に一緒に行き、切符の買い方、降りる駅の名前、降りた後の駅から学校までの行き方を描いた地図を渡され説明されました。地図をもらったことで、何とかなるだろうと思っていました。当時はスマホなんてものはなく、そもそもオーストラリアに着いたばかりで電話も持っていませんでした。公衆電話から日本の母に電話していたほどです。
夕食は今でこそオーストラリアでは普通だと分かりますが、蒸した野菜と肉、マッシュポテトと魚、などなど、パンやご飯という主食が出てこないことが多く、慣れるまで毎晩物足りない感を感じていました笑 デザートもよく分からない砂糖の味しかしない物が出てきたり、日本の食べ物とはかけ離れてる味付けの物がたくさんあり、混乱したのを覚えています
未だに謎なのは、子供達はダイニングテーブルで私達と一緒には座らず、テレビの前で野菜や肉も入っていないプレーンのインスタントヌードルをほぼ毎日食べていました。大人達はホストマザーが作ったご飯を食べながら、その日の出来事を話すというのが日課でした。
家はとても大きく、5ベッドルームのプール付き。食事と外出の時以外は、留学生と家族のスペースは分かれていたので、プライベートも保たれていて快適でした。部屋は大体8畳ほどの広さで、とても綺麗でした。
無事に宿泊先に着いたその日は日曜日で、家族で外出の準備をしていました。一緒に来るように言われ、どこに行くのか、何をするのかもわからないままついて行くと、教会でした。教会に行くのも初めてでしたし、誰かに紹介されたけど何も話せないので「ハロー」の繰り返し。教会での集まりでは、歌を歌い、みんな楽しそうに知り合いと話し、小一時間ほどで家に戻りました。キリスト教一家は週末に教会に行くというのは、映画で観たままなんだなぁというのが率直な感想
家に戻るとスーツケースが無事届いていて、やっと部屋に自分の物が揃って安心。
ホストマザーの提案で、語学学校が月曜日から始まるから電車とバスの乗り方を教えてくれるということをなんとなく理解し、駅に一緒に行き、切符の買い方、降りる駅の名前、降りた後の駅から学校までの行き方を描いた地図を渡され説明されました。地図をもらったことで、何とかなるだろうと思っていました。当時はスマホなんてものはなく、そもそもオーストラリアに着いたばかりで電話も持っていませんでした。公衆電話から日本の母に電話していたほどです。
夕食は今でこそオーストラリアでは普通だと分かりますが、蒸した野菜と肉、マッシュポテトと魚、などなど、パンやご飯という主食が出てこないことが多く、慣れるまで毎晩物足りない感を感じていました笑 デザートもよく分からない砂糖の味しかしない物が出てきたり、日本の食べ物とはかけ離れてる味付けの物がたくさんあり、混乱したのを覚えています
未だに謎なのは、子供達はダイニングテーブルで私達と一緒には座らず、テレビの前で野菜や肉も入っていないプレーンのインスタントヌードルをほぼ毎日食べていました。大人達はホストマザーが作ったご飯を食べながら、その日の出来事を話すというのが日課でした。
アイエス留学ネットワーク
ワーホリや語学学校の手続き代行
ホームステイの手配など。
初飛行機️&海外、オーストラリア
留学エージェントを通して、ホームステイ先、海外保険、語学学校だけを決めて、西オーストラリアパースにやってきました。パースに決めた理由は、当時日本人が少ないと言われていたから。日本人と関わると、日本語しか話さないだろうと思い、自分を日本語から離した環境に置こうと考えた結果でした。友達と一緒に来ていた時点で完全なる英語環境ではなかったんですけどね
勢いだけで留学を決めた私でしたが、いざ飛行機に乗ると、飛行機すら乗ったことがないので、どこかで気を張っていたのでしょう。胃痛で機内食が全く食べれませんでした映画も内容が頭に入ってこないので、「海外旅行に必要な英会話」の本を繰り返し読んでいました。海外留学前に唯一やった勉強、それは海外旅行に必要な英会話の本をフル暗記️
シンガポール経由でパースに着くと、早朝3時。ここで問題発生。スーツケースがない🧳いつまで経っても流れてこない。英語が話せない。誰かに言わないと友達も英語が話せない。半分パニック状態になりながらも、カウンターに行き、「エクスキューズミー、ノースーツケース」とだけ言うと、さすが空港で働いているだけあります。変な外国人には慣れているのでしょう。パスポートを確認して、色々調べてくれました。その間、色んな質問をされましたが、何を言われたのかまーったく理解できませんでした。ボケーっと立っているアジア人を前に、その男性はゆっくりと私に話し続けました。その時、「Send」と「address」だけ聞き取れたのです🤩あぁ、この人はきっとスーツケースを送ってくれるから住所を教えろと言っているんだ!!理解出来た途端、心配そうにゆっくり話してくれていたその男性が笑顔で親指を立て、グッドマークをしてくれたのを覚えています。
事を終えて空港から出ると、送迎のおばちゃんが、名前が書いたプレートを持って立っていてくれました。飛行機の到着が数時間遅れたことで、時間も時間だったので疲れている様子でした。わざわざ迎えをありがとうと言いたいところでしたが、サンキューしか知らない。そればかり言いすぎてもしつこいだろうと、ホームステイ先に着くまでの車内1時間ほどはしんどい程の無言😑友達のホームステイ先に先に行き、その後に自分のステイ先に着きました。友達のステイ先とは車で5分ほどしか離れていませんでしたが、1人になったときの緊張をまだ覚えています。家に着いた時にはもう早朝4時。バスローブを来た、いかにもな奥様がお出迎え
部屋に案内してくれて、ジェスチャーでゆっくり寝なさいと笑顔で言ってくれました。
どうにか無事、オーストラリアに着き、ホームステイ先に到着し、一安心のオーストラリア1日目でした。
オンライン英語コーチ「スピークバディ パーソナルコーチング」
勢いだけで留学を決めた私でしたが、いざ飛行機に乗ると、飛行機すら乗ったことがないので、どこかで気を張っていたのでしょう。胃痛で機内食が全く食べれませんでした映画も内容が頭に入ってこないので、「海外旅行に必要な英会話」の本を繰り返し読んでいました。海外留学前に唯一やった勉強、それは海外旅行に必要な英会話の本をフル暗記️
シンガポール経由でパースに着くと、早朝3時。ここで問題発生。スーツケースがない🧳いつまで経っても流れてこない。英語が話せない。誰かに言わないと友達も英語が話せない。半分パニック状態になりながらも、カウンターに行き、「エクスキューズミー、ノースーツケース」とだけ言うと、さすが空港で働いているだけあります。変な外国人には慣れているのでしょう。パスポートを確認して、色々調べてくれました。その間、色んな質問をされましたが、何を言われたのかまーったく理解できませんでした。ボケーっと立っているアジア人を前に、その男性はゆっくりと私に話し続けました。その時、「Send」と「address」だけ聞き取れたのです🤩あぁ、この人はきっとスーツケースを送ってくれるから住所を教えろと言っているんだ!!理解出来た途端、心配そうにゆっくり話してくれていたその男性が笑顔で親指を立て、グッドマークをしてくれたのを覚えています。
事を終えて空港から出ると、送迎のおばちゃんが、名前が書いたプレートを持って立っていてくれました。飛行機の到着が数時間遅れたことで、時間も時間だったので疲れている様子でした。わざわざ迎えをありがとうと言いたいところでしたが、サンキューしか知らない。そればかり言いすぎてもしつこいだろうと、ホームステイ先に着くまでの車内1時間ほどはしんどい程の無言😑友達のホームステイ先に先に行き、その後に自分のステイ先に着きました。友達のステイ先とは車で5分ほどしか離れていませんでしたが、1人になったときの緊張をまだ覚えています。家に着いた時にはもう早朝4時。バスローブを来た、いかにもな奥様がお出迎え
部屋に案内してくれて、ジェスチャーでゆっくり寝なさいと笑顔で言ってくれました。
どうにか無事、オーストラリアに着き、ホームステイ先に到着し、一安心のオーストラリア1日目でした。
オンライン英語コーチ「スピークバディ パーソナルコーチング」
アイエス留学ネットワーク
ワーホリや語学学校の手続き代行
ホームステイの手配など。
2022年02月23日
留学を決めるキッカケ
18歳で田舎から上京し、生活費を稼ぐためにバイトを掛け持ちしていました。そのバイト先のひとつが、カラオケ店で、若くて田舎者の私からしたら、従業員がみんな都会人に見えました。話をすると、私を含めほとんどの人達が地方から来ていて、それぞれ目標を持って仕事をしていることを知りました。大学費を払うため、夢を叶えるためのお金稼ぎなどなど。
従業員の中に、中国人とネパール人の方達がいました。「初めまして」2人と話をしてみると、中国の方は日本語がすごく流暢で、フロントオフィスでお客さんの対応も完璧にこなしています。見た目も日本人と大して差がないので、何も言われなければ日本人だと思うでしょう。
ネパールの方は、日本語を勉強するために、ネパールで5年間働いて貯めたお金でやっと日本に留学しに来たと話していました。ホームステイ先から違いという理由で、カラオケ店で仕事を始めたそう。日本語を勉強しようと思ったキッカケも、日本の歌が好きで、ネパールにいた時から歌っていたんだそうです。
外国人と実際に会って話すのは、高校の英語の授業の時以外にはなかった私には、衝撃的でした。理由も特になく、ただただ東京に住んでみたくて上京してきた私は、夢を持って、その夢に向かって頑張っている人達の姿を見て、私は一体何がしたいのだろうと考えるようになりました。
その日をキッカケに、私はネパール人の子と仲良くなり、バイト以外でも遊ぶようになりました。家に遊びに行くと、他のネパール人の人達と同居していて、その時に初めてシェアハウスという存在を知りました。語学学校の友達も紹介してくれて、韓国人の友達も出来ました。
東京に来てから一緒に遊ぶ友達は、ほぼ外国人という生活が半年ほど続いたとき、私はネパール人の友達にネパール語を勉強しようかと考えている話をしてみました。すると、ネパール語の前に、英語をまず覚えた方がいいと勧められました。この先就職をする上で、有利になるのはネパール語力より英語力だと。
そのとき、カラオケで一緒に働いていた1人の子が一緒に英語を勉強したいと話を持ちかけてきました。昔から勉強が大の苦手だった私は、地道にコツコツ勉強出来る気が最初からしなかったので、留学してみようか?と話を持ちかけました。返って来た返事は意外にも「いいよー」でした。そこからは私達の行動は早く、留学エージェントを調べ、どこの国がいいか、いつ行くか、何が必要か、数ヶ月のうちに全て決めました。海外旅行すら、いや、人生で飛行機すら乗ったことのない19歳の秋でした。未成年だったことから、親の承諾を得なければいけなく、全て決めた後の事後報告で親に連絡しました。母親は、「東京に行ったかと思ったら今度は国から出るのか」と言いながらも、止めても行くんだろ?と諦めぎみに承諾してくれました。父親は、「馬鹿馬鹿しい」。それ以降、話すらしてもらえない状況でした。父子関係の危機を迎えながらも、私の頭の中はもう留学を諦める気持ちはこれっぽっちもなく、東京に上京した1年後の2月に、私はオーストラリア🇦🇺に向かう飛行機️に乗っていました。
従業員の中に、中国人とネパール人の方達がいました。「初めまして」2人と話をしてみると、中国の方は日本語がすごく流暢で、フロントオフィスでお客さんの対応も完璧にこなしています。見た目も日本人と大して差がないので、何も言われなければ日本人だと思うでしょう。
ネパールの方は、日本語を勉強するために、ネパールで5年間働いて貯めたお金でやっと日本に留学しに来たと話していました。ホームステイ先から違いという理由で、カラオケ店で仕事を始めたそう。日本語を勉強しようと思ったキッカケも、日本の歌が好きで、ネパールにいた時から歌っていたんだそうです。
外国人と実際に会って話すのは、高校の英語の授業の時以外にはなかった私には、衝撃的でした。理由も特になく、ただただ東京に住んでみたくて上京してきた私は、夢を持って、その夢に向かって頑張っている人達の姿を見て、私は一体何がしたいのだろうと考えるようになりました。
その日をキッカケに、私はネパール人の子と仲良くなり、バイト以外でも遊ぶようになりました。家に遊びに行くと、他のネパール人の人達と同居していて、その時に初めてシェアハウスという存在を知りました。語学学校の友達も紹介してくれて、韓国人の友達も出来ました。
東京に来てから一緒に遊ぶ友達は、ほぼ外国人という生活が半年ほど続いたとき、私はネパール人の友達にネパール語を勉強しようかと考えている話をしてみました。すると、ネパール語の前に、英語をまず覚えた方がいいと勧められました。この先就職をする上で、有利になるのはネパール語力より英語力だと。
そのとき、カラオケで一緒に働いていた1人の子が一緒に英語を勉強したいと話を持ちかけてきました。昔から勉強が大の苦手だった私は、地道にコツコツ勉強出来る気が最初からしなかったので、留学してみようか?と話を持ちかけました。返って来た返事は意外にも「いいよー」でした。そこからは私達の行動は早く、留学エージェントを調べ、どこの国がいいか、いつ行くか、何が必要か、数ヶ月のうちに全て決めました。海外旅行すら、いや、人生で飛行機すら乗ったことのない19歳の秋でした。未成年だったことから、親の承諾を得なければいけなく、全て決めた後の事後報告で親に連絡しました。母親は、「東京に行ったかと思ったら今度は国から出るのか」と言いながらも、止めても行くんだろ?と諦めぎみに承諾してくれました。父親は、「馬鹿馬鹿しい」。それ以降、話すらしてもらえない状況でした。父子関係の危機を迎えながらも、私の頭の中はもう留学を諦める気持ちはこれっぽっちもなく、東京に上京した1年後の2月に、私はオーストラリア🇦🇺に向かう飛行機️に乗っていました。