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ギャンブル好きな兄

今も“ギャンブル道”を通す兄だ。
神戸から帰って来た頃から、新しい職場に、長続きはしない。

原因は全てギャンブルだ。
仕事は好きで、真面目らしいのだが、直ぐにギャンブルに走って行く。

給料は全てギャンブルに投資。当然足りなくなるのでサラ金から借金。
その繰り返しで、自転車操業に陥り、その内に、限界を迎え、サラ金から、取り立ての電話が掛かる様になって、職場にも居ずらくなり、退社。

お馴染みのコースだ。

その度に、お袋が借金の清算に当たり、面倒を見る。
妹は、お袋が甘いからだと言って攻める。

でも凝りないんだよね。(この粘りを、他に生かせたら凄いんだけどね。)

事が過ぎると、平穏なのは数ヶ月。
今度こそは、懲りて真面目にやってくれるだろうと思っていた矢先、やっぱし又、元に戻ってしまうのだ。
その度に仕事も変わる様にもなった。
最後はお袋もこれ以上は面倒見ないと宣言。結局、兄は姿をくらましたのだ。

しかし、それも半年も持たずに、戻って来る事になったのだが。

最近、NHKで「ギャンブルが止められないのは、病気の一種である」との特集番組みを放送していた。
あ、もしかしたら、「これか」と思った。

兄も一緒にテレビを見ていたので、自分はそっと席を外した。
兄も最近では、その事に関しては、意外な程、冷静になって来た様に感じていたからだ。

今までに無かった事だが、兄が、口に出して自分の欠点を他人に話したり、自分の欠点を、他人に置き換えて言ったりする事、等を耳にする時がある。

凄い進歩であると思う。その本人が、体験を通して語る言葉である。
結構、説得力がある。「こんな自分が家族、親戚に、一人位いてもいいだろう」位な発言もする様になった。
一種の居直りだが、お袋が正常だったら、絶対に許されない事ではある。
しかし、自分は、過去の兄の行動からすると、冷静に見つめた判断でもあると思った。
そこに、損の範囲と言うか、枠を設けている事に、進歩を感じたからである。

病気でなければ、好きなだけギャンブルでもすれば、いい加減、飽きて止めてしまうのだろう、と思うのだが、病気であるから、その飽きが来ないのであれば、これは、しょうがない。
ガン治療で言うならば、完治でなく、転移のスピードを抑える治療。認知症の治療に用いる薬も、又そうである。

病気に向き合いながら、付き合いながら、被害を最小限に食い止める事にした方が良いのでは、と思ったのである。

又、兄が自分から口にした、「枠」を信じる事にも掛けてみよう。

自分もサラッとだが、こんなに向き合って、兄と話しをした事は一度もなかった様に思う。

特に印象に残った言葉に「あの人達は、勲章は貰えても、親の面倒はみないだろう」
丁度、ノーベル賞の受賞者のニュースが流れていた頃である。

まだらボケ

兄一人で、母の面倒を見さしている負い目の様なものもあったので、常に電話だけは入れるようにしていた。
兄は自分からは決して連絡等はよこさない人である。電話口には常に母であった様に記憶する。
母は若い時に一時、電話交換手の仕事もしていた時があったので、電話口に出る時には、必ず、少し甲高い、よそ行きの声になる。
そうゆう時の声は、まさかおかしい等とは全く感じられない。

いわゆる初期のまだらボケと言われている症状だったと思う。
いつもいつもおかしい訳ではないのだ。まして他人が電話の声だけ聞いていたら、まさかこの人がボケているとは思わないだろう。
母は誰とでも直ぐに話しかけるし、友達がとても多い人だった。
75過ぎ迄、デパートのマネキンを仕事にしていた。(兄の話しでは、77か78までは行っていたらしい)主に婦人服を専門にしていた。
商売がとても好きで、働く事に楽しみさえ感じていた人でもあった。

一方、兄は菓子メーカーの喫茶部門で、銀座、新宿等に家から通っていたが、会社で洋食部門を始める事になり、神戸に転勤。そこで長く暮らす事になった。自分はその時には既に結婚して家を出ていたので、お袋は一人住まいだった。
しかし、隣近所に母の兄弟がおり、心配する事は少なかった。

妹がいたが、結婚してから、ある事情がきっかけで母と大喧嘩。それ以来、実家には一度も顔も出さないようになっていた。

兄は独身であったので、お袋が時々、兄の住む神戸のマンションに行っていた。長く勤めたその会社を辞めてからは、実家に戻り、銀座で屋台を借りて餅を売っていた事もある。
しかし、繁華街での屋台の廃止が、東京都の条例で決まり撤退。
その後、筑波で、菓子メーカーで一緒だった同僚のイタリア料理店を手伝ったりもした。3年以上手伝ったのではないだろうか。
そして最後に勤めたのは、洋酒メーカーの運営するパブレストランだった。

自分の職場は港区、田町。実家までは、電車と歩きも入れて、1時間程の距離。
丁度、こちらに来る1年程前より、心配なので、なるべく週末は実家に顔を出す様にしていた。その間、何度か病院にも入院した。その時は年齢から来るガタだからしょうがないと思って済ましていたが、それは、そうではないと言う事が判明したのは1年半以上立ってからである。
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