最近起きた大きな誤解というか理解ミスが、テレビと電子レンジとの混同である。
実は、これまでも時々起きていたことなのだが、テレビを指さして、「その中に魚が入っているから、出して食べよう」というようなことがたびたびあった。それが最近は激増している。
テレビに映った食べ物と、電子レンジは食べ物が入っているもの、という記憶とが、混ざり合って起きているように思える。
昨日は、「あそこに食べ物が入っているから、フタをあけて取り出してくれ。食べたいから!」とテレビを指さして、2時間ほども繰り返し言い続けて、私を大いに困らせた。
父が一人暮らしを続けていた30年ほどの時間の中で、最も日常的に活用していたのは、おそらく電子レンジだったのであろう。電気の仕組みやメカには、すこぶる弱い父が使うことのできた数少ない便利な機械である電子レンジと、テレビに映る食事の映像の記憶が合体して、テレビで見たもの=電子レンジの様に扉をあければそこに入っていて取り出して食べられるもの、という記憶として上書きされたのだと思われる。
「頼むから、あれを開けて取り出してくれ、食べたい!」と最後は、私に懇願していた。
「テレビを開けることはできないし、テレビの中に食べ物は入っていないんだよ」と何度説明しても、「そんなことはない、俺はいつもそこから出して食べている!」と言い続けた。
遂に私は、配線をはずし、父の部屋のテレビをひとまず撤去した。1時間余りに及ぶ父への不毛な説明で、私もすっかり疲れ果てていた。
幸い、テレビを見たいという欲求は、私ほど強くない人なので、テレビがなくなったことには、昨日も今日も、ほとんど関心を示さなかった。しばらくこのままでも大丈夫なようだ。
現在の父にとって、最も大きな関心事は、「食べる」ということである。食事をしたことをすぐに忘れるため、1時間おきに何かを食べたいと言う。もちろん、そのたびに、それに応じることはしない。3度の食事の時間と3時のおやつ、それ以外には、せいぜいあと1回ていど、栄養ゼリーや果物、スープなど、できるだけ過剰摂取にならないようなものを食べさせて父の欲求を調節している。
人にとって、最終的に残る重要な記憶は、やはり生命を維持するための最重要課題=食べる事なのだろう、と痛感する。うたたねをして目覚めた時にも、旅先で美味しいものを食べた、などと夢の中の話しをしてくる。
「食べる」という生きるための根本的な記憶こそが、最後まで残り続ける重要な記憶なのかもしれない。
最近の父は、時々母の名前を忘れるようになった。もっとも、母と過ごした時間よりも、一人になってからの時間の方が長くなってしまったから、そのことで父を責める気にはならないけれど。
食の記憶は、愛の記憶に勝ってしまうのだろうか・・・
#食べるという記憶
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