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2019年10月19日

短期連載【幕末・維新回天の真実】(1)




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 短期連載 【幕末・維新回天の真実】(1)


 薩摩藩が首位! 幕末「雄藩最強ランキング」


         〜小和田泰経 2019.10.16 07:00dot.〜



 「幕府・雄藩ランキングBEST10」


 〜週刊朝日ムック『歴史道VOL.6』では、幕末を大特集。代表的な雄藩の中から厳選した9藩と幕府を「政治・外交力」「経済力」「軍事力」「人材」「モチベーション」の5つの項目でランキングした。因みに雄藩とは江戸時代に勢力を誇った大藩の事。僅差ではあったが首位に立ったのは薩摩藩、2位は長州藩だった。幕府を抑えたこの二藩の実力を分析してみよう〜

 薩摩・長州の主役達が勢揃い!当時の写真はこちら

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         この人達は誰? 何人ご存知でしょうか・・・

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 ●第1位 薩摩藩 「婚姻政策で幕府との結び着きを強め、幕末の雄藩の中で傑出した存在と為る」
 
 ○薩摩藩 国名 薩摩国(鹿児島県)藩庁 鹿児島城(鹿児島市)主な藩主家 島津氏 石高 77万石

【薩摩藩 総論】 政治・外交力、軍事力等3項目で満点の評価を得た

 幕末の薩摩藩主島津斉彬は、水戸藩の徳川斉昭・越前藩の松平慶永(春嶽)の他、老中阿部正弘とも結んで幕政改革を図ると共に、公武合体によって幕藩体制を安定化させようとする等、政治・外交力を存分に発揮して居た。
 しかも、薩摩藩の政治・外交力は、公的な面に留まら無い。島津斉彬の養女天璋院篤姫は、13代将軍徳川家定の御台所に為って居り、私的な面でも幕府との結び着きは強かった。幕政は、名目的には将軍による親裁で行われたが、実質的に大奥の意向を無視する事が出来た訳では無い。

 大奥を統轄するのが、将軍の正室たる御台所の役割であったから、薩摩藩は天璋院を介しても、政治・外交力を発揮する事が出来たのである。公的・私的な幕府との繋がりを持って居た薩摩藩の政治・外交力は卓越して居り、その為満点の20点を着けた。 
 薩摩藩の公式的な石高は、俗に「77万石」と称された。但し、薩摩藩の藩域の多くは火山灰が堆積したシラス台地であり、稲作には適して居ない。実質的な石高は、その半分程度であったとも言われる。何れにしても経済力は高くは無かった。しかも、江戸時代を通じての財政は悪化の一途を辿って居り、江戸時代後期には500万両の借金を抱えて居たとも云う。

 只、家老調所広郷(ずしょひろさと)による藩政改革により、薩摩藩は、琉球王国との貿易により利益を得ただけで無く、奄美群島のサトウキビを用いた黒砂糖を専売する等して、莫大な利益を挙げて居た。その為、差し引きすると、経済力は17点と評価する。

 薩摩藩では、余剰金を借金の返済では無く、軍事費に投じて居た。富国強兵・殖産興業を図ろうとする島津斉彬は、近代工業化の為の集成館を設立し、武器や弾薬の製造にも乗り出して居る。元々薩摩藩は他藩よりも人口に占める武士の割合が多く、しかも火器による戦闘を強く意識して居た。そこに十分な量の銃砲が整備されたのであるから、軍事力は文句無しの20点満点である。 
 人材について言えば、薩摩藩では学芸を主とする造士館、武芸を主とする演武館と云った藩校を設けて居り、文武両道による育成が行われて居た。又、島津斉彬の時代には、下級武士の大久保利通や西郷隆盛が登用される等、能力によって政治にも参加する事が出来て居た。

 但しお遊良騒動(注)等、藩政の実権を握る権力争いから足の引っ張り合いも在った事を含め、人材は18点と為る。藩内では凄惨な権力争いもあったが、大久保利通や西郷隆盛らが政治の実権を握った後は、討幕で藩論が統一されて行く。
 15代将軍徳川慶喜により「討薩表(とうさつのひょう)」が出された事で結束力は高まった。その点を踏まえ、モチベーションも19点とした。

(注)藩主の後継を巡り正妻の子・斉彬を擁立する一派と、側室お遊羅の子・久光を擁立する一派が対立したお家騒動。

 



 ●第2位 長州藩 「幕末に有能な人材を多数輩出するが、急進派の過激な行動が評価を下げた」

 ○長州藩 国名 長門国(山口県)藩庁 萩城(萩市)・山口城(山口市)主な藩主家 毛利氏 石高 36・9万石

【長州藩 総論】 ■藩内の急進派と保守派が対立。一時は朝敵とされてしまう
 
 元々長州藩では、急進的な尊王攘夷論を唱えた改革派だけで無く、幕府と協調するべきだとする保守派も存在して居た。そうした中、藩主の毛利敬親は、藩士の言い為りだった事から「そうせい侯」と揶揄される事が多い。
 只、ドチラかの一派が政権を握れば、藩内が混乱する訳で、藩主として慎重な態度を執り続けた結果と見る事も出来る。

 改革派は、尊王攘夷派の公家に接近し、長州藩は京都の政局に影響を及ぼして行った。とは言え、朝廷には公武合体派の公家も居り、長州藩が朝廷を掌握出来た訳でも無い。文久三年(1863)の八月十八日の政変で、長州藩は会津藩を中心とする公武合体派によって追放された。そして、翌元治元年(1864)復権を図ろうとして上洛したが、禁門の変に敗れ「朝敵」とされてしまう。
 この後、幕府による追討を受ける事に為った長州藩では、改革派が政権を奪い討幕へと傾いて行く。藩として政治・外交力を発揮出来たのは、改革派が保守派を一掃した後の事である。長州藩は、薩摩藩との薩長同盟により討幕の中心勢力に為った。とは言え、薩長同盟は密約同盟であり、藩として政治・外交力を誇示するには至って居ない。その為、政治・外交力は低く16点とする。

 長州藩の石高は、名目的には36万石余であったが、江戸時代を通じて瀬戸内海沿岸の干拓を行って居り、水田面積を増やして居た。その為、幕末における実質的な石高は、支藩を含めれば100万石近くに為る。
 しかし長州藩には、他の藩と同様に借金もあり、幕末には200万両に及んで居たらしい。その為、村田清風等による藩政改革が行われ、倹約に努め藩財政は改善された。こうした点から、経済力は18点を着けた。
 
 本来為らば、藩政改革によって生じた余剰金は、借金の返済に当てる処であるが、長州藩ではこれを軍事費に注ぎ込んだ。結果、それ程経済力が高かった訳では無い長州藩が、近代的な兵制を導入し軍備を整える事が出来たのである。尊王攘夷を実行した長州藩は、イギリスを中心とするフランス・オランダ・アメリカの列強4カ国とも戦端を開く。
 この馬関(ばかん)戦争には敗北するものの、欧米列強との実戦経験により軍事力は高められた。こうした事を踏まえ軍事力は19点とした。長州藩の人材が満点の20点なのは、多様な逸材が居た為である。尊王攘夷の精神的な支柱と為った吉田松陰に師事した久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允等が藩政を左右する様に為って行った。

 幕末の政治・外交では中心に為り得無かった長州藩であったが、明治維新後には、伊藤博文・山縣有朋等が新政府を牽引して居る。二度に渉って幕府との戦争を戦った長州藩は、幕府を敵とする事で戦意を高めた。その為、モチベーションも満点の20点とする。


文 小和田泰経 ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.6』から抜粋

               以上

 短期連載【幕末・維新回天の真実】(2) につづく


 



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日本と朝鮮半島の交流史 今だからコソ知って置きたい!




 日本と朝鮮半島の交流史 今だからコソ知って置きたい!


 



            〜PHP Online 衆知(歴史街道)10/18(金) 12:05配信〜


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             知って置きたい!日本と朝鮮半島の交流史


 〜日韓関係は戦後最悪と言われるが、ソモソモ有史以来、日本は朝鮮半島といかなる関係を築いて来たのだろうか。現在発売中の月刊誌「歴史街道」11月号では「日本と朝鮮半島の2000年史」と題して、その実相に迫って居る。ここでは、古代から近世に至る迄の交流史を、歴史研究家の河合敦氏に解説して頂こう〜

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 河合敦・歴史研究家  昭和40年(1965)東京都生まれ  第17回郷土史研究賞優秀賞  第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞  高校の日本史教師を経て現在多摩大学客員教授 著書に 『ニュースがよくわかる教養としての日本近現代史』 『読めばすっきり!よくわかる日本外交史・・・弥生時代から21世紀まで』等  近著に『逆転大名 関ヶ原からの復活』がある。


 鉄・出兵・敗北・・・古代の交流の始まり

 日本と朝鮮半島は、海によって隔てられて居ますが、太古の昔から交流がありました。一般的には、日本列島に縄文人が住んで居て、そこに朝鮮半島や中国から人々が遣って来て、混血して行く事で日本人が形成されて行ったと考えられて居ます。
 紀元前108年、中国の漢が朝鮮半島に楽浪郡(現在の平壌を含む地域)を設置しました。中国の記録によると、倭と呼ばれる日本列島には小さな国々が分立して居て、その使節が楽浪郡に遣って来て居ます。

 なおこの頃の東アジアには、漢だけで無く現在の中国東北地方から朝鮮半島北部に掛け、高句麗が存在しました。又57年には、倭の奴国が漢に使節を派遣して居ますが、恐らく、朝鮮半島を経由してのものでしょう。
 当時、朝鮮半島南部で鉄資源が豊富に得られた事から、倭(日本)はそれを求め交流をして居たと考えられます。
 3世紀には、朝鮮半島南部に馬韓・弁韓・辰韓と云う小さな国の連合体があり、四世紀に為ると、高句麗が徐々に南に勢力を拡大し始めました。それに影響される形で、馬韓から百済、辰韓から新羅、弁韓から加耶諸国が生まれて来ます。

 一方、日本では4世紀にヤマト政権が全国を統一し、朝鮮南部の加耶諸国と密接な関係を結び、鉄資源を入手して居ました。更にヤマト政権は、百済と外交関係を結び、4世紀から5世紀前半に掛けて朝鮮半島に出兵し高句麗と戦って居ます。
 538年には、百済を通じて日本に仏教が伝来。当時、文化面では朝鮮半島の方が進んで居り、そうした文化や技術を取り入れる為に、日本は朝鮮半島の人々を国内に受け入れたりして居たのです。処がその後、日本と加耶の関係が悪化し、562年には新羅が加耶を吸収。日本は、朝鮮半島における足場を失ってしまいます。

 又589年には、隋が中国を統一。漢以来、実に約四百年振りに統一王朝が出現した事により、日本も対応を迫られる事に為ります。時の指導者である推古天皇と聖徳太子(厩戸王)遣隋使を派遣し、隋と対等な関係を結ぼうとしました。
 618年には隋に代わって唐が成立しますが、そうした強大な帝国の成立を受け、日本は支配下に置かれ無い様中央集権化を進め、律令国家としての体制を整備して行く事と為るのです。

 当時の日本の置かれた状況は、欧米列強の圧力に危機感を抱き、近代化を目指した幕末維新期の日本と似て居ると云えるかも知れません。朝鮮半島の国々も中央集権化を進めて行きますが、北部の高句麗が唐と対立する一方で、東部の新羅が唐と結んで百済を圧迫。百済は、日本と結んで対抗しようとします。
 しかし660年、唐と新羅の連合軍によって百済は滅亡。その遺臣達は復興を目指し、日本に居た百済の王族を擁立し日本に援軍を求めました。日本はこれに応じて朝鮮半島に出兵しますが、663年、白村江で唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。

          10-20-4.jpg 推古天皇と聖徳太子

 指導者である中大兄皇子(天智天皇)は、唐・新羅連合軍の侵攻に備える為に、大宰府に水城や山城を築く等西日本の防衛を強化しました。宮を飛鳥から大津へ遷したのも、敵の襲来に備えたとする説もあります。
 しかし天智天皇が薨去すると、672年、壬申の乱が起こり、弟の大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の息子・大友皇子を倒し、政権を掌握する事と為ります。
 乱が起きた要因は諸説ありますが、防衛の為の軍事費が嵩んだ事で、天智天皇に対する不満が溜まって居た事も一因でした。詰まり、朝鮮半島に介入した事が、国内の動乱を招いたとも言えるのです。

 一方、朝鮮半島では、668年に高句麗を滅ぼした唐と新羅との関係が悪化。日本との挟撃を恐れる新羅は、日本に対して低姿勢で外交関係を求めて来ます。壬申の乱後の体制整備を急ぐ日本もそれを受け入れました。
 しかし、676年に唐を朝鮮半島から撤退させた新羅が半島を統一。唐との関係も一段落して来ると、新羅は日本に対する外交姿勢を変えます。自ら「王城国」詰まり仏教の中心地と称する使節を派遣して来ます。日本はそれに反発し、両国の関係は悪化する事と為るのです。

   10-20-5.jpg 遣唐使船

 日本は唐に対しては、630年から遣唐使を派遣して居ましたが、894年に停止。この後、907年に唐が滅び、935年に新羅が高麗に屈服すると、日本の朝廷は外交には積極的では無く為ります。こうして、大陸文化を踏まえた上で日本の風土に合った国風文化が培われるのです。

 



 蒙古襲来・倭寇・・・激動の中世

 936年、朝鮮半島を統一した高麗が、日本に国交樹立を求目て来ます。しかし日本は、これを受け入れませんでした。こう見ると、日本は海外との交流を絶ったかの様に見えますがそうではありません。 
 中国では960年に宋が成立しますが、海商を中心として、日本は宋や高麗と貿易を進めて行くのです。公的関係は無くとも、民間交流は可なり活発でした。又12世紀に為ると、平清盛が日宋貿易を振興して行きます。

           10-20-6.jpg  蒙古襲来

 処が13世紀に入ると、モンゴル(元)が台頭し、中国や朝鮮半島に侵攻し、アジア情勢が変化して行きます。モンゴルは1231年から高麗への侵攻を開始。1259年に高麗を従属させます。
 しかし、高麗の武人達はその後も抵抗運動を展開しました。この三別抄の乱によって、モンゴルの日本への侵攻が遅れたとする見方もあります。ヤガテ朝鮮半島を押さえたモンゴルは、1274年と1281年の二度に渉って、日本に遠征軍を派遣して行きます(蒙古襲来)その中には高麗軍も多数含まれて居ました。

 日本側は鎌倉幕府が防衛に当たり、二度とも撃退する事に成功します。しかも驚くべき事に、幕府もモンゴルの撃退後に、二度に渉って高麗への遠征を計画して居ます。この計画は実現こそし無かったものの、仮に行なわれて居れば、日朝関係も又別の局面に突入して居たかも知れません。
 ともあれ、モンゴルの存在が日本に影響を及ぼした様に、日本と朝鮮半島は、中国大陸の動向と無関係では居られ無いのです。

           10-20-7.jpg 倭寇

 サテ、日本が室町時代に突入すると、外国との間で、倭寇の存在が問題と為って来ます。この時期の倭寇は、対馬、壱岐、松浦の人々が中心だったと見られ、朝鮮半島や中国の沿岸部で食料の略奪や、場合によっては住人を拉致して、売買する事もありました。
 倭寇が発生した要因としては、特に対馬では米が殆ど採れ無い為、飢饉が起きると食料調達の為の略奪に走ると云う背景が在った様です。政治的にも南北朝時代に入って居た為に、国の統制が取れ難く為って居たと云う面もあります。

 被害を受けた高麗は1367年、日本に倭寇の禁止を求めました。その一方で、倭寇退治で活躍した李成桂が、1392年に高麗を滅ぼし朝鮮王朝を樹立する事と為ります。倭寇の存在が、朝鮮半島における国家の興亡に影響を与えたと言えるのです。なお中国では、1368年に明が成立し、モンゴルは北方に追い遣られました。

 足利義満が室町幕府の将軍に為ると、明とも朝鮮とも正式な外交関係を持つ様に為ります。しかし1419年、朝鮮が倭寇を退治する為に対馬を攻める事件が起きました。(応永の外寇)この事件後、対馬を治める宗氏が、朝鮮との遣り取りを主に担う様に為ります。

 



 朝鮮出兵から朝鮮通信使へ・・・衝突と国交回復の近世

 戦国時代に為ると、対馬の住民を中心に、朝鮮の三浦に住んで貿易をする様に為りました。しかし1510年には、貿易を制限しようとする朝鮮と対立。三浦の住民が、対馬の宗氏と連携して武力蜂起する事件が起きます。この蜂起は鎮圧され、以後、日朝貿易は衰えて行く事と為りました。

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 16世紀後半に為ると、豊臣秀吉が全国統一し、1592年に朝鮮へと出兵します。最も、秀吉は当初から、朝鮮出兵を計画して居た訳ではありません。秀吉の目的は中国の明を征服する事にあり、朝鮮には最初、明征服の先導役を求め、それが断られると、明への道を貸して欲しいと依頼しました。
 それも断られた為に、朝鮮を攻める事にしたのです。序盤戦では、朝鮮内が一枚岩で無かった事もあり、戦馴れした日本軍が快進撃を見せました。しかし、明からの援軍に加え、朝鮮水軍や義兵(有志)の活躍により日本の進撃は止まり戦線は膠着します。

 結局、6年に及ぶこの戦いは秀吉の死によって終結しますが、日朝双方に大きな被害を出すだけで無く、朝鮮の人々に日本への恨みを残す事と為りました。又朝鮮出兵は、豊臣政権の弱体化にも繋がり、関ケ原の戦いを経て、徳川家康が幕府を樹立します。
 家康も宗氏も朝鮮との早期講和を目指して居り、宗氏が奔走し、1607年に朝鮮の使節が来日して国交は回復しました。1609年には、朝鮮と宗氏の間で己酉約条が結ばれ、貿易が再開されます。

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 又江戸時代には、将軍の代替わりを中心に、朝鮮通信使と云う使節団が、12回に渉り日本を訪れて居ます。 日本の学者は朝鮮の方が学問が進んで居ると考えて居たので、稀に訪れる通信使から様々な情報を得ようとして、積極的に交流を求めました。通信使が「もう、好い加減にして欲しい」と記録に残す程、当時の日本人は熱心でした。
 只一方で、朝鮮の人々に対する蔑視もありました。 中国には華夷秩序と言って、中国が世界の中心で、周辺の国は未開であるとする思想があります。それと似た様に、当時の日本にも、日本コソが世界の中心とする、日本型華夷秩序と云うべき考えがあったのです。

 しかし朝鮮にも、朝鮮を中心とする同様の思想があり、当時から両国の間には複雑な感情が有ったと見て好いでしょう。


            河合敦 歴史研究家    以上





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