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2019年01月28日
クロア篇−2章6
アンペレの町は広大である。この町を徒歩で移動していてはたいへん骨が折れる。それゆえクロアは私用の馬車を使うことにした。馬車を牽引する馬は厩舎で飼育している。厩舎には普通の馬のほかにも飛行能力のある魔獣──通称を飛獣──が区分けして管理してあった。
今回使うのは普通の馬だ。利便性では飛獣のほうが移動速度が速いが、町中では飛獣の乱用を禁止している。領主一族も例外ではない。緊急時以外は馬か馬車での移動をする。その際は厩舎にいる者に声をかけ、馬か馬車の用意を頼む。馬車に乗るときは同時に御者の任にも就かせた。
「今日はだれがいるのかしら……あら?」
舎内の掃き掃除をする女性がいた。厩舎では見慣れぬ新人であろうが、その体格としぐさが大切な知人とかさなって見えた。姉のような庇護者であった女性に。
「あなた、エメリではなくて?」
掃除婦は顔をあげた。やはり長年クロアの従者を務めた女性だ。彼女は外面が優しい淑女でいながら、内面は剛毅な女傑である。内なる頑強さをうまく隠した女性がはにかむ。
「はい、そのとおりです」
「子どもをみていなくて平気なの? まだ乳飲み子でしょう」
エメリは既婚者だ。妊娠と出産を機に従者の務めをしりぞいた。お相手の男性は名うての工房の跡取り息子。資産のある嫁ぎ先なので、彼女自身が勤めにいかなくとも生活は成り立つ。それゆえ、エメリは復職しないものだとクロアは思っていた。
「母が面倒を看てくれていますよ。孫ができたおかげで、張り合いが出たみたいです」
「そうなの……元気そうでよかった」
クロアは旧知の女性との再会を心からよろこんだ。ただ気になることがあった。彼女がなぜ厩舎に配属されたかということだ。
「それで、どうしてエメリが馬丁(ばてい)をしているの?」
「勤務時間の融通が利いて、お嬢さまとも関われそうな職務が、ここでした」
「わたしと?」
「はい。お嬢さまは飛馬がお好きでしょう? 乗って出かける機会がなくても、飛馬を触りに厩舎へ出向くことがあったので──」
「ここにいればわたしに会えると、思ってくれたの?」
エメリは笑ってうなずいた。彼女が従者の任を解かれてなお公女を気遣っている。その事実にクロアは歓喜し、照れくさくなった。
「お嬢さまはなんの御用でこちらに?」
「じつはね、昨日お父さまが町中へ出かけてもいいとおっしゃったの」
新人の馬丁は笑顔のまま「それはよかったですね」と言う。彼女はこの外出がたまの遊興だと思っていそうだ。
「行く場所はもうお決めになったのですか?」
「最初に招獣のお店に行きたいの」
「『最初』とおっしゃいますと、ほかにも目当ての行き先があるのですね?」
「そうなの。強い人が集まりそうなところ、どこか知っていて?」
「……移動の間によく考えてみます。これからお出かけになりますか?」
「ええ、御者をお願いするわ」
「お任せください。準備しますので、しばしお待ちを」
エメリは床に集まった塵や藁くずを回収し、掃除道具を片付けた。ほかの馬丁にも声をかけて、支度を手伝ってもらっている。その光景をクロアは懐かしい気持ちでながめた。
レジィも転身した前任者をまじまじと見ている。だがその視線には懐疑が入り混じっている。
「エメリさん……今度は厩舎でずっとはたらくんでしょうか?」
「そうみたいね」
「もったいないんじゃないですか? あの方は戦えるし、療術も上手で……」
「そう、なんでもできる器用な人よ。だけど母親になったの」
クロアはレジィの横顔を見る。いつかはこの少女もエメリのようになる、という歓迎と不安の気持ちがじわじわと湧いてくる。
「危険も体の負担もすくない仕事をえらぶのは……いいことだと思うわ」
レジィは急にしょぼくれる。
「やっぱり、従者って危ない仕事ですか?」
「わたしに付き添っていると危険は多くなるでしょうね」
クロアは十歳にならぬころから武力行使する公務に参加した。どこそこの村に魔物が出てくる、山賊が住みついた、気性の荒い旅人が揉めごとを起こしている──そういった平和的解決がむずかしい問題に関わってきた。クロアは小さいときから尋常でない怪力をそなえていたので、その力を役立てたかったのだ。
「それがどうかして?」
留意事項は従者に取り立てる際に説明があったはず、とクロアは不思議がった。
レジィが袖をまくって腕を見せる。筋肉の隆起が目立たない、弱々しい腕だ。
「あたし、クロアさまを守れますか?」
少女は従者の任を引き受けたのちに、護身用の戦い方を教わったという。それまでの彼女は医官の見習いという、戦いに縁のない分野で奉仕していた。そんな非戦闘員がいきなり戦闘訓練を受けるのだから、よくレジィは従者教育についてこれたものだとクロアは感心している。
「その細腕じゃあ期待できないわね」
クロアはほほえみ、冗談めかして本音をのべた。か細い少女は「すいません」と真面目に謝る。
「がんばって鍛えてるつもりなんですけど……」
「あなたは自分の身を守れたらいいの」
クロアはもとよりその考えでいた。少女に武芸を習わせる目的は本人の自衛のため。彼女の本業は別にある。レジィならではの役目こそをクロアは求めている。
「わたしがケガをしたらすぐに治す、それがあなたの仕事よ」
「はい……それはわかってるんですけど……」
「敵を倒すのはわたしの専門なんだもの。あなたはいまのままでいいわ」
「でも、エメリさんは武芸が達者なんでしょう?」
「そうよ。だからってレジィがエメリを目標にしなくていいの」
エメリはアンペレにおいて高名な武官の家の出身だ。生まれ落ちたときから武官になるのを約束された人物と、普通な家庭で育った少女とを、同じ尺度で測ることはできない。なにより、クロアが成長するごとに求める従者の資質も変容していた。
「彼女は幼いわたしの護衛役だったの。そのときはお父さまがわたしに『戦える侍女が必要だ』とお考えになったのよ。いまとなってはわたしがアンペレ最強なのだから、もうそんなふうに考えていらっしゃらないわ」
レジィはくすっと笑い、袖をもとにもどす。
「それじゃ、あたしが危ない目に遭ったら……クロアさまが守ってくださいます?」
「もちろんよ。レジィを一生守れる殿方が現れるまでは、わたしがぜんぶ守ってあげる」
「ダンナさんが見つからなかったら?」
「ずっとわたしに仕えたらいいわ」
それが叶わない未来だとクロアはわかっていた。母親となったエメリは十年とすこしで従者生活を終えた。前例にならえばレジィもあと十年前後で退任する。このような心根のよい可憐な少女に、男性が言い寄らないとは考えにくいのだ。
(わたしのそばを離れても……また、わたしに会いにきてくれる?)
その問いはいつかくる日までにとっておくことにした。クロアたちはこれから町中へ出かける。めったにない楽しみを目の前にして、そんなさびしい話題を持ちかけなくてもいいと思った。
クロアはふとベニトラの行方が気になりだす。エメリに気を取られ、朱色の獣のことはすっかり放置していた。クロアのあとをついてきたはずの猫はクロアの周囲にいない。
「ベニトラったら、どこに行って──」
「あ、馬車が出てきましたよ」
エメリが二頭の馬を引き連れてきた。その後方には人間が乗る、屋根付きの四輪馬車がついてくる。御者の席には朱色の毛玉がいた。
「あら、あんなところにいたの」
クロアは安堵をおぼえた。招獣は術で呼びよせられるとはいえ、そのやり方を熟知していないクロアには敷居の高い技だ。ベニトラが見つからなかったときはその場でレジィに招術を習わねばならぬところだった。
エメリがベニトラを両手で抱きかかえた。それをクロアに差し出す。
「町中ではこの獣を抱えていてもらえますか?」
「いまみたいにはぐれて、捜すはめになるから?」
「それもありますが、住民は魔獣に敏感になっていますので──」
クロアは猫を受け取りながら「この子が魔獣だと知っているの?」とたずねた。その事実は家族と一部の官吏だけが認知していると思っていた。
「はい、クロアさまが朱の毛皮の魔獣を招獣にしたのだと聞きましたから」
「昨日の今日で、もう話が広まってるのね」
「町中はそうともかぎりません。住民とおしゃべりする機会があれば、その獣を紹介なさるとよいかもしれませんね。まだ恐怖を抱いている人たちがいると思います」
「では車内へ」とエメリにうながされ、クロアたちは馬車へ乗りこんだ。クロアは童心に返ったかのようにウキウキして、車窓越しに見える景色を堪能した。
今回使うのは普通の馬だ。利便性では飛獣のほうが移動速度が速いが、町中では飛獣の乱用を禁止している。領主一族も例外ではない。緊急時以外は馬か馬車での移動をする。その際は厩舎にいる者に声をかけ、馬か馬車の用意を頼む。馬車に乗るときは同時に御者の任にも就かせた。
「今日はだれがいるのかしら……あら?」
舎内の掃き掃除をする女性がいた。厩舎では見慣れぬ新人であろうが、その体格としぐさが大切な知人とかさなって見えた。姉のような庇護者であった女性に。
「あなた、エメリではなくて?」
掃除婦は顔をあげた。やはり長年クロアの従者を務めた女性だ。彼女は外面が優しい淑女でいながら、内面は剛毅な女傑である。内なる頑強さをうまく隠した女性がはにかむ。
「はい、そのとおりです」
「子どもをみていなくて平気なの? まだ乳飲み子でしょう」
エメリは既婚者だ。妊娠と出産を機に従者の務めをしりぞいた。お相手の男性は名うての工房の跡取り息子。資産のある嫁ぎ先なので、彼女自身が勤めにいかなくとも生活は成り立つ。それゆえ、エメリは復職しないものだとクロアは思っていた。
「母が面倒を看てくれていますよ。孫ができたおかげで、張り合いが出たみたいです」
「そうなの……元気そうでよかった」
クロアは旧知の女性との再会を心からよろこんだ。ただ気になることがあった。彼女がなぜ厩舎に配属されたかということだ。
「それで、どうしてエメリが馬丁(ばてい)をしているの?」
「勤務時間の融通が利いて、お嬢さまとも関われそうな職務が、ここでした」
「わたしと?」
「はい。お嬢さまは飛馬がお好きでしょう? 乗って出かける機会がなくても、飛馬を触りに厩舎へ出向くことがあったので──」
「ここにいればわたしに会えると、思ってくれたの?」
エメリは笑ってうなずいた。彼女が従者の任を解かれてなお公女を気遣っている。その事実にクロアは歓喜し、照れくさくなった。
「お嬢さまはなんの御用でこちらに?」
「じつはね、昨日お父さまが町中へ出かけてもいいとおっしゃったの」
新人の馬丁は笑顔のまま「それはよかったですね」と言う。彼女はこの外出がたまの遊興だと思っていそうだ。
「行く場所はもうお決めになったのですか?」
「最初に招獣のお店に行きたいの」
「『最初』とおっしゃいますと、ほかにも目当ての行き先があるのですね?」
「そうなの。強い人が集まりそうなところ、どこか知っていて?」
「……移動の間によく考えてみます。これからお出かけになりますか?」
「ええ、御者をお願いするわ」
「お任せください。準備しますので、しばしお待ちを」
エメリは床に集まった塵や藁くずを回収し、掃除道具を片付けた。ほかの馬丁にも声をかけて、支度を手伝ってもらっている。その光景をクロアは懐かしい気持ちでながめた。
レジィも転身した前任者をまじまじと見ている。だがその視線には懐疑が入り混じっている。
「エメリさん……今度は厩舎でずっとはたらくんでしょうか?」
「そうみたいね」
「もったいないんじゃないですか? あの方は戦えるし、療術も上手で……」
「そう、なんでもできる器用な人よ。だけど母親になったの」
クロアはレジィの横顔を見る。いつかはこの少女もエメリのようになる、という歓迎と不安の気持ちがじわじわと湧いてくる。
「危険も体の負担もすくない仕事をえらぶのは……いいことだと思うわ」
レジィは急にしょぼくれる。
「やっぱり、従者って危ない仕事ですか?」
「わたしに付き添っていると危険は多くなるでしょうね」
クロアは十歳にならぬころから武力行使する公務に参加した。どこそこの村に魔物が出てくる、山賊が住みついた、気性の荒い旅人が揉めごとを起こしている──そういった平和的解決がむずかしい問題に関わってきた。クロアは小さいときから尋常でない怪力をそなえていたので、その力を役立てたかったのだ。
「それがどうかして?」
留意事項は従者に取り立てる際に説明があったはず、とクロアは不思議がった。
レジィが袖をまくって腕を見せる。筋肉の隆起が目立たない、弱々しい腕だ。
「あたし、クロアさまを守れますか?」
少女は従者の任を引き受けたのちに、護身用の戦い方を教わったという。それまでの彼女は医官の見習いという、戦いに縁のない分野で奉仕していた。そんな非戦闘員がいきなり戦闘訓練を受けるのだから、よくレジィは従者教育についてこれたものだとクロアは感心している。
「その細腕じゃあ期待できないわね」
クロアはほほえみ、冗談めかして本音をのべた。か細い少女は「すいません」と真面目に謝る。
「がんばって鍛えてるつもりなんですけど……」
「あなたは自分の身を守れたらいいの」
クロアはもとよりその考えでいた。少女に武芸を習わせる目的は本人の自衛のため。彼女の本業は別にある。レジィならではの役目こそをクロアは求めている。
「わたしがケガをしたらすぐに治す、それがあなたの仕事よ」
「はい……それはわかってるんですけど……」
「敵を倒すのはわたしの専門なんだもの。あなたはいまのままでいいわ」
「でも、エメリさんは武芸が達者なんでしょう?」
「そうよ。だからってレジィがエメリを目標にしなくていいの」
エメリはアンペレにおいて高名な武官の家の出身だ。生まれ落ちたときから武官になるのを約束された人物と、普通な家庭で育った少女とを、同じ尺度で測ることはできない。なにより、クロアが成長するごとに求める従者の資質も変容していた。
「彼女は幼いわたしの護衛役だったの。そのときはお父さまがわたしに『戦える侍女が必要だ』とお考えになったのよ。いまとなってはわたしがアンペレ最強なのだから、もうそんなふうに考えていらっしゃらないわ」
レジィはくすっと笑い、袖をもとにもどす。
「それじゃ、あたしが危ない目に遭ったら……クロアさまが守ってくださいます?」
「もちろんよ。レジィを一生守れる殿方が現れるまでは、わたしがぜんぶ守ってあげる」
「ダンナさんが見つからなかったら?」
「ずっとわたしに仕えたらいいわ」
それが叶わない未来だとクロアはわかっていた。母親となったエメリは十年とすこしで従者生活を終えた。前例にならえばレジィもあと十年前後で退任する。このような心根のよい可憐な少女に、男性が言い寄らないとは考えにくいのだ。
(わたしのそばを離れても……また、わたしに会いにきてくれる?)
その問いはいつかくる日までにとっておくことにした。クロアたちはこれから町中へ出かける。めったにない楽しみを目の前にして、そんなさびしい話題を持ちかけなくてもいいと思った。
クロアはふとベニトラの行方が気になりだす。エメリに気を取られ、朱色の獣のことはすっかり放置していた。クロアのあとをついてきたはずの猫はクロアの周囲にいない。
「ベニトラったら、どこに行って──」
「あ、馬車が出てきましたよ」
エメリが二頭の馬を引き連れてきた。その後方には人間が乗る、屋根付きの四輪馬車がついてくる。御者の席には朱色の毛玉がいた。
「あら、あんなところにいたの」
クロアは安堵をおぼえた。招獣は術で呼びよせられるとはいえ、そのやり方を熟知していないクロアには敷居の高い技だ。ベニトラが見つからなかったときはその場でレジィに招術を習わねばならぬところだった。
エメリがベニトラを両手で抱きかかえた。それをクロアに差し出す。
「町中ではこの獣を抱えていてもらえますか?」
「いまみたいにはぐれて、捜すはめになるから?」
「それもありますが、住民は魔獣に敏感になっていますので──」
クロアは猫を受け取りながら「この子が魔獣だと知っているの?」とたずねた。その事実は家族と一部の官吏だけが認知していると思っていた。
「はい、クロアさまが朱の毛皮の魔獣を招獣にしたのだと聞きましたから」
「昨日の今日で、もう話が広まってるのね」
「町中はそうともかぎりません。住民とおしゃべりする機会があれば、その獣を紹介なさるとよいかもしれませんね。まだ恐怖を抱いている人たちがいると思います」
「では車内へ」とエメリにうながされ、クロアたちは馬車へ乗りこんだ。クロアは童心に返ったかのようにウキウキして、車窓越しに見える景色を堪能した。
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