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2018年12月15日

習一篇草稿−7章

1
 朝方は昨日の肉詰めピーマンの残りとイチカ手製のフレンチトーストを食べ、習一たちは外出した。新品のサンダルは足が蒸れないので快適であり、習一は良い買い物をしたと満足がいった。三人は公共交通機関を利用してプールを目指す。駅までの道のりの中、シドがしきりに電車の時刻表を確認した。乗車すべき電車の種類、降りる駅名はメモを取ってある。他になにを気にするのだろう、と習一は彼の周到さをあやしんだ。
 駅のホームにて電車の到来を待つ。駅構内に目当ての電車が来るアナウンスが起きた。
「私は一本あとの電車に乗ります」
 きびすを返す彼をイチカが呼びとめる。
「アニキ! どこ行くんすか?」
「大した用ではありません。イチカさんたちは先に行ってください」
 シドは理由を説明せずに姿をくらました。事前に遊興費はイチカに渡っており、出資者が不在でも目的は果たせる。降車場所やプールの場所を記したメモもイチカが持つ。最初から習一とイチカの二人での遊行を想定したかのような事前準備だ。まさか泳ぐことを嫌がって逃亡する気では、と習一は疑ったが、いざ電車に乗るとその予想は吹き飛んだ。
「よおニーチャン! えらい久しぶりやんな!」
 熊を思わせる図体の男が太い脚を開いて座っていた。自信に満ちあふれた笑顔は習一の記憶に新しい。イチカが「お友だちなんすか?」と習一に尋ね、習一は首をぶんぶんと横にふった。白いスーツの大男はわざとらしく落ちこむ。
「薄情やな、退院祝いに花束やった仲やっちゅうんに」
 光葉は両手で手招きして、習一とイチカを自身の左右に座らせた。車内の乗客はみな、習一たちと離れた座席に固まる。彼らは光葉に目を合わせない。いかめしい男と関わりたくないのだ。だが無鉄砲にもイチカが「電車の中じゃ大きい声を出しちゃダメなんすよ」とたしなめる。光葉は目を丸くした。怒り出すか、と習一がひやひやした。彼は笑って「うっかりはしゃいでもうたわ」と言い、諫言にのっとって声を小さくした。
(ヤクザっぽいのは見た目だけか?)
 筋骨秀でる体躯に加え、オールバックの金髪は無法者スタイルだ。その外見とは裏腹に人懐こい性格でもある。落差が激しい男のどこを本性と見るべきか習一は考えあぐねた。
 意外にも光葉はイチカと気が合うようで、会話を弾ませる。内面を抽出すると陽気な者同士、なんらおかしくない状況だ。シドもアウトローな外観でいて内実紳士なのをかんがみ、習一は光葉の中身を信じることにした。話中、イチカが正直に今日の予定を光葉に話した。光葉が銀髪の教師について質問すると彼女はごまかさずに喋る。イチカが光葉の捜す人物の縁者だと知り、光葉はにんまりと笑う。
「そのアニキもプールに行くんか?」
「わかんないっす。あとで来るかもしんないし、おいら達だけで行かせたかったのかも」
「けったいなやっちゃな。ワシがどう動いてええかわからんやないか」
「アニキとお話しするぐらいなら、おいらが頼んでもいいっすよ」
「そんな生易しい用事やない。手合せしてもらうんや。初めに探しとった男とちゃうねんけど、そいつもごっつう強いっちゅう噂やから」
「アニキと? それはムリっす。むやみに人を傷つけるの、嫌がってるんす」
「ほんならどないしたら戦ってくれるんや?」
「どうしても……と言うなら、弟子になったらどうっすかね」
 光葉は「弟子ぃ?」と聞き慣れぬ言葉を耳にしたかのように首をひねる。
「アニキのお師匠さんは稽古で手合せをよくやったらしいんで、きっとアニキの指導もそんな感じっす。最初は基本的な動きを教わって、慣れてきたら師匠と戦うんす」
「地道な修行は性に合わんなぁ」
「じゃああきらめてほしいっす。アニキはもう教師だからケンカは卒業したんすよ」
 シドが教師業をする以前は武術の腕を頼りに生きていたかのような物言いだ。習一がシドの経歴を気になりだした時、スピーカーは習一たちが降車する駅への接近を知らせる。
「次でおりるっす。ミっちゃん、さいなら」
 イチカは出入り口の前で待機する。習一も即降車できる準備をした。光葉は腕組みをしたまま閉口している。車窓の景色がなだらかな速度で変化していき、停止すると扉が左右に開いた。乗車しようとする客は先客がホームへ流れるのを待つ。イチカがその脇を通った時は平然としていた客が、習一が降りるとなぜか慌てて別の昇降口へ入った。
(そんなにオレは怖い面をしてるか?)
 習一がとまどいつつイチカの後ろを追った。が、右肩を強くつかまれたせいで足が止まる。肩を見ると日焼けした大きな手があった。その手はシドより大きい。
「ニーチャン、一つ忠告しといたる」
 習一は肩を押さえられて身じろぎできず、光葉の顔を見れなかった。
「あのセンセイを信じすぎんこっちゃ」
 光葉は己が会った事もない相手を信用ならない男だという。シドも光葉もよく知らぬ頃の習一なら参考にしただろう。習一が光葉の助言を一笑に付すのと同時に電車が発車する。その轟音で声をかき消さないためにか、光葉の顔が習一の右肩の上に乗る。
「カタギの世界に戻れんようになるで」
 一瞬、なんのことを言っているのか習一は混乱する。電車が遠ざかると習一を拘束する手も離れた。習一は振りむきざま光葉を見上げる。
「なーに言ってんだ。教師やってるやつをあんたみてえなチンピラと一緒にすんな」
「ニーチャンはセンセイが教師する前にやってた稼業、知っとるんか?」
「知らねえけど、それがなんだってんだ」
「ヤクザしとった男の会社に勤めとったんやで。ニーチャンと一緒の女はその男の娘や」
 呆然とする習一を尻目に光葉は「じゃーの」と手を振りながら去った。イチカが習一に駆け寄り、プールへ行こうと催促する。習一は彼女に手を握られるままにした。
「いまの話、聞いてたか?」
「ミっちゃんの話? 聞こえてたっすよ」
「あいつの言ってたこと……本当か?」
 イチカは「そうっす!」と明朗に断言した。彼女がむくつけき男にマナーを説ける理由がわかった。イチカの周りには光葉のような人物がごろごろ居たのだ。彼らと過ごすうちに相手の逆鱗に触れぬ技能か、強面に隠れた本性を見抜く人物眼を身に着けたらしい。
「でも昔のことっす。オヤジはちゃんと足洗って自立してるんすよ。アニキが働いたのだって足抜けしたあとの仕事なんすから、ぜんぜん、恥ずかしいことはやってないっす!」
 習一は手を引かれながら物思いにふける。光葉は事実を言ったとはいえ、それとシドを信頼すべきでないとする主張は繋がらない。ただ一点、胸に落ちる指摘があった。
(普通の……世界にいられなくなる)
 光葉がどこまでの情報収集を経た上で述べたことかは不明だ。単純に、口外しにくい経緯の持ち主だと伝えたかったのかもしれない。
(普通じゃないもんな、あいつ……)
 シドは時に超常的な力を発揮する。現在彼が習一たちのそばにいないのも、光葉の乗車を看破し、遭遇を避けたからにちがいない。その他、クレーンゲームのプレイ中に得体の知れない黒い物体を呼び出していた。あの黒い何者かが手助けをしている。その正体は教えてくれなかった。いずれ説明すると言われたものの、真実を知った時に習一はどうなるだろう。尋常ならざる秘密を知り、秘密を共有して生活を続ける。それは畢竟、自身も尋常でない者の仲間入りを果たすのではないか。
(このまま一緒にいて、平気なのか?)
 なにも知らされず、なにも思い出さない。この状況はすべてを知る以上に幸福なのかもしれない。だが一度記憶を取り戻したいと言った手前、いまさらやめるのも釈然としない。そんな逡巡をしつつ、習一は駅を離れた。

2
 プール場にてシドと合流する。別行動の理由を尋ねると、彼は光葉の乗車を黒い仲間に教えてもらったと答えた。習一は追究したがイチカが遊泳を急かすせいでうやむやになった。
 泳ぐ最中もプール場を発ったあとも光葉に出会わなかった。無事に電車に乗り、習一とイチカはシドの隣りの席に座る。イチカは隣人の肩に寄りかかってすぐに寝息を立てた。威勢よく泳いだせいで疲れたようだ。習一もプール上がりのシャワーを浴びたあとは眠さを感じていて、座席で一息つくと眠気がぶり返した。
「オダギリさんも寝ていいですよ。私が起きていますから」
 疲れ知らずの引率者が不寝番を申しでる。習一は真面目がとりえの男に起床を託した。
 今朝の出発駅に到着し、一行は帰宅する。夕飯は外食にしようとシドが言い、荷物を置いてまた出かけた。食事の支度目的にイチカを呼んだとはいえ、疲れた彼女に調理させるのは気が引けたようだ。もしくは料理を作りに来た、というのはただの口実かもしれない。
 イチカのシドへの懐き具合は甚だしく、家事と入浴以外は片時も離れようとしない。昨晩ロフトベッドで就寝したイチカは当初、シドに共寝を求めた。それは父親を慕う幼い娘のような要求だ。いかがわしい行為目的ではないだろうが、シドは固く断った。寝床のない彼は一晩中ベッド下の机で過ごしており、シドの眠る姿を習一は見ていない。習一の知らぬところで休息するのか底なしの体力を持つのか、とかく謎の多い男だと改めて感じた。
 三人は和風の飲食店に訪れた。習一が一度来店した場所だ。店員の活気ある挨拶に歓迎され、四人掛けのテーブル席に着く。応対した店員は細身の若者、マサだ。彼は案内係の務めを終えて厨房へ入る。シドがメニューを習一とイチカに渡しながら「お話を聞けそうにないですね」とつぶやいた。イチカがきょとんとして「なんのことっすか?」と尋ねる。
「さきほどの店員さんにお聞きしたいことがあるのです。いつもお忙しく働いているので、勤務中は難しそうです」
「仕事のない時間か日を聞いて、会う約束をしたらいいっす!」
「私個人の頼みではどうにも……オヤマダさんから頼んでもらうのが適切でしょうか」
 シドはマサとの話し合いの場を設けようと考えている。それは習一のためだ。父との意思疎通ができずに出奔した者の過去を知ることで、習一の生き方の指標が生まれる。そのような考えからシドは段取りを練るのだ。善意が引き起こす計画を習一はつっぱねた。
「やめとけよ。他人相手に自慢にならねえ昔話は言いたくないもんだろ」
「おっしゃる通りです。ですから、マサさんと親しい方に口利きをしてもらいます」
「親に見放された可哀そうな野郎を憐れんでくれ、とでも言わせるのか」
「貴方が乗り気でないのならやめます。マサさんたちに無駄な迷惑をかけられません」
 シドは刺々しく言い返した。習一はむすっとする。相手の主張がもっともなだけに、口答えの隙がなくて押し黙った。険悪な空気を感じたイチカはメニュー表を立てて顔を隠した。ふっとシドは表情を和らげ「気分を悪くしましたか」と尋ねた。習一はうなずく。
「あんたにしちゃ、露骨に嫌味な言い方だったからな」
「貴方には日常茶飯事な言い方だと思いますが、自分にされるのは嫌なようですね」
「べつに、言いたきゃ言ってりゃいい。間違ったことは言ってねえんだから」
 マサとは別の店員が水の入ったコップを運んでくる。一人だけメニューを見ていたイチカは自分の分の注文をする。習一も前回頼んだ品を男性店員に告げた。この店員はノブを少し小さくしたような体型だ。店員が伝票ホルダーを片手に「先生は?」とシドに尋ねる。
「私は遠慮します。注文は以上です」
「了解! 早いとこ用意するからのー」
 店員は朗らかに答え、厨房に入った。イチカが「知り合いなんすか?」とシドに聞く。
「ええ、彼は私の教え子です。オヤマダさんとも仲が良いので、そこからオダギリさんの近況が伝わっているようです」
「? なんでオダのアニキのことを知ってるってわかるんすか」
「彼が何も知らなければ大騒ぎしたと思います。私とオダギリさんは……敵でしたから」
 シドと敵対していたことは習一も記憶がないなりに察している。イチカが習一を見て「そうだったんすか」と淡泊に納得した。習一がシドに害する人物だった過去には興味がないらしい。現在遊泳にまで同行する仲間だという事実を優先し、信頼したようだ。
「んで、あのほそーい店員さんに聞きたい昔話はどんなのっすか?」
「どうでもいいだろ。オレは聞く気ねえんだ」
「んじゃ、聞きやすいことを聞いてみたらどうっすかね。はじめは世間話をして、仲良くなるんす。そして本当の目的は最後に言う! これが交渉術っすよ〜」
 イチカはシドに「ね?」と同意を求めた。シドは微笑んで「いいですね」と肯定する。
「もしマサさんが注文の品を届けてくれたら、その時になにか尋ねてみてはどうです」
「なんでオレが……」
「知りたいことがあるのでしょう? 無理に、とは言いませんが」
 他の店員が来た時は無効になる条件だ。習一は博打に乗った。するとマサが二つの丼を盆に載せてやって来た。テーブルの鉄板の横に丼を並べていく。その作業中に習一は対面する同行者二人の顔を見た。みな、楽しげな笑顔だ。習一の動向を伺っている。ここで習一が怖気づいて無言を突き通せば、あとでいじられるだろう。それは別段悪意のないからかいで済む。そうとわかっているものの、習一はその事態が自身の負けを認める気がした。
 マサが伝票を置いて去ろうとしたところを、習一は声をかける。
「えっと……ノブ、さんのこと……どう思う?」
「ノブさん?」
 マサは注文の品に無関係な質問を受けて唖然とする。だが嬉しそうな返答があった。
「あの人はいい人だよ。明るいし働き者で……」
 青年は「それに」と口元をほころばせる。
「いろんな考えを大切にするんだ。外国の友人が多いって話だけど、いろんな友だちができるのも人柄のおかげなんじゃないかと思う。でも、どうしてノブさんのことを?」
「オレ、ちょっと世話になったことがあって、気になったんだ。そんだけ」
 習一はこれ以上の会話を求めるつもりがなく、下を向いた。だがマサの足は遠のかない。
「ノブさんと知り合い? ああ、キリちゃんの友だちなのかな。あの人は娘の同級生も自分の子どもみたく扱うから……」
 ちがう、と習一は言いたくて顔を上げた。そこに悲喜入りまじった男性の顔がある。
「ああいう人が父親だったら……仲良くなれたのにな」
 マサは「洗い物がたまってるんだった」と言って業務にもどった。ジューっと物を熱する音が聞こえる。習一が卓上を見ると、シドがお好み焼きのもとを焼いていた。
「よい受け答えでした。その口調を続けましょう。余計な争いが起きなくなりますよ」
 彼の視線は液状の小麦粉に注がれている。気泡がぷつぷつと出てきた円盤を器用にヘラでひっくり返した。片手間に発した助言は世間話のノリだったが、その内容は習一と大きく相容れない処世術だ。継続的な実践は簡単ではない。それを軽く言う相手を習一はにらんでみた。シドは笑い返すだけで抗議の態度を見せなかった。

3
 夕飯の会話中、習一たちは明日の行動を決めた。外出をしたがるイチカに対し、習一が普通に休みたいと主張する。結果、部屋で映画鑑賞をすることになった。食事後に三人は映像物を借りに行く。イチカは流行りものが陳列する棚を見物し、シドは動物のパッケージを手に取る。彼は氷の大地に立つ白熊やペンギンの表紙に注目していた。
 見たいジャンルのない習一は退屈を感じ、正直な感想をシドに告げる。すると彼は「先に帰っていいですよ」と部屋の鍵を渡してきた。
「このあと、私たちは明日の食材を買おうと思います。時間がかかりますから部屋で休んでいてください。帰り道はわかりますね?」
「ああ、地元だからな」
 最悪来た道をたどればいい、と習一は通い慣れないアパートへの道筋を思案した。日が落ちた外の景色と日中見た外観とを照らし合わせていく中、ふと気づいた。
(ひさしぶりに一人になった……な)
 このところ外を出歩く時は誰かしらの供がいた。一人もそばにいないのは脇の風通しが良すぎるような、身軽と言えばそうだが物足りない感覚を覚える。
(帰るまで時間がかかるって言ってたし……すぐに行かなくてもいいか)
 仮にシドらが先に帰宅してもイチカが合い鍵を持つので問題はない。習一の帰りが遅いことを指摘された時は、慣れないアパートの発見に手こずったと言えば通用する。習一はどこへ行くという信念なく、思いつきで進路を適宜決めた。
 直観のままに行き着いた場所はゲームセンターだ。そこで起きた怪奇な現象を髣髴し、真っ先にシドが挑戦していたゲーム機を確認する。また忍者の人形が入った箱が設置してあった。横倒しになった箱の下に注目する。
(黒い手がここから伸びてた)
 アームを通す穴の幅は人の腕を通せるほど。だがゲーム機内への侵入経路は景品の受け取り口一つ。小動物や幼子ならいざ知らず、普通の人間が狭い侵入口を通ることは不可能だ。
(なんだったんだ、あの生き物……)
 初めて見た時は不気味な存在だと感じた。だが畏怖すべき対象だとは言えない。あの物体はシドの要請によって動く。役割は雑事をこなすエリーと同じだ。姿は異形といえど、いまは味方してくれる。邪険にすべきいわれはないと、不安を軽減した習一は夜道に出た。
(黒いやつが光葉の居場所を知らせたと言ってたか?)
 プールで再会したシドがそう言った。ゲームセンターにおいて習一が見た化け物だと。
(エリーにも人捜しをさせてるんだったな。『会いたくはない相手』はきっと光葉だ)
 エリーとは動物園以来、会っていない。彼女も黒い異形と同じ任務中だ。光葉の口ぶりでは銀髪の女も捕縛対象だという。彼と鉢合わせになったらエリーに危険が及ぶだろう。
(オレはちゃんと伝えたよな……銀髪で色黒な女も、あいつは捜してるって)
 光葉の条件には男と見まごう高身長とあったが、あれだけシドと似た容姿の娘だ。誤差の範囲とみて標的にしかねない。その危機感がシドに伝わっていないのだ。よもや我が身かわいさのあまり、妹分の処遇はどうあってもかまわぬとする鬼畜ではあるまい。
(言ってやめさせるか。偵察は黒いやつだけに任せとけって)
 俄然アパートへ帰る意欲が出てきて、習一は現在位置を確認した。でたらめに徘徊したせいで周囲は目印の乏しい住宅街に変わっている。基点となる建物を探しに歩いた。
 背の高い木々が街灯に照らされる一画が見えた。それが公園だとわかると習一は近づく。
「いまはそっちにいっちゃダメ」
 習一の全身がびくっと跳ねた。振り返ると先ほどまで習一が身を案じた少女がいる。
「公園のむこうに、シューイチをさがしてる人がいる。見つかるとめんどう」
「オレを……? 一体だれが」
 習一は瞬時に父を想起したが、そんな労力をかけて自分を捜索するとは思えず棄却した。せいぜい捜索願を受理した警官がパトロールついでに捜す程度だろう。
「よくしらない人。とにかくこっちに来て。シドの部屋にもどろう」
 エリーは手招きする。習一は彼女の誘導に従った。揺れる銀色の髪をじっと見ながら帰路につく。アパートの付近に差しかかり、エリーが足を止める。彼女はブロック塀に隠れ、習一の目の前をあきらかにする。数メートル先、金髪で白スーツの男が仁王立ちしている。自分も身を潜めるべきかと習一が思った矢先、黒い部分の多い頭部がこちらを向いた。
「走って!」
 エリーの促しに応じて習一は駆けだした。あの男に関わるのは極力避けたい。どたん、と重たい物が倒れた。習一は走る速度をおさえ、後ろに視線をやる。地べたに白服が倒れている。その横には家屋の塀に手足をかけるエリーの姿があった。彼女が光葉の足止めをしたのだ。エリーは猫のように軽々と塀にあがり、習一を一瞥する。そうして民家の庭へ下りた。あの身体能力と障害物の豊富な場において、巨体の男を翻弄するのに不足はない。あとは習一が一時避難するのみ。習一は野太い声が後方から響くのを無視して走った。

4
 習一は日中の疲労がたまった足を懸命に上げた。適当に光葉を撹乱できたらアパートに帰ろうと考え、身を隠す場所を探す。周囲には塀つきの家が点在するのだが、利用するのはリスクが高い。盗人に間違われて騒ぎになればあっさり追跡者に見つかるだろう。
 もっと安全に、誰がいても怪しまれず、人目にもつかない場所。
(公園……)
 エリーに入るなと言われた場所だ。あの時は習一を捜す者が付近にいたという。何分か経過した今なら捜索者は不在やもしれず、その期待に賭けて走った。
 公園内はトイレの出入口を示す明かりや外灯によって部分的に照らされていた。その光を避けつつ、習一は荒れた息を整えて歩く。ベンチに腰かけ、体を休めた。
(いつごろ帰る……いや、帰れるのか? あいつ、またアパートの前で待つんじゃ)
 光葉は本来の目的であるシドの出待ちを再開する可能性がある。シドの下宿先をどこで知ったのかわからないが、その情報は誤りだったと思わせておきたい。でなければ今日、からくも煙に巻けたとしても、明日明後日は逃げ切る保障がない。
(あいつが諦めるまでは部屋に行けない。それをあの教師に伝える手段が……)
 エリーの顔が思い浮かんだ。彼女とシドは連絡を随時取りあう仲だ。おそらくエリーがシドに光葉の待ち伏せの件を伝えるだろう。アパートに行くに行けなかった状況を知れば、彼が打開策を講じるはずだ。なればこそ習一は自身の安全確保に専念するのがよい。
(漫画喫茶に隠れるか?)
 一晩やり過ごす資金はある。だが習一が行方をくらますと同居人たちはどう思うか。習一は彼らの連絡先を知らない。音信不通のまま忽然といなくなれば心配するのは目に見えている。その心境は習一が光葉に身柄を拘束された場合と大きな差がなく、良策とは思えない。もっとも良い方法はシドと合流することだ。シドたちと別れた店へ向かおうかと考えたが、一人行動の経過時間を考慮すると無駄足になる。他の候補は食材の買い出しができるスーパー。しかし彼らは会計を終えたあとかもしれず、習一は目的地を決めかねる。
 ここまで考えてみて、習一は自身をあげつらった。
(一人でやりたい放題してきたってのに、今になってあいつらにすり寄るのか)
 家族への迷惑をかえりみず、自分をもてなす他人の厚意に乗りかかる。なんとも虫のよい話だ。家族の心労を気にしないくせに、他人が抱える気苦労には配慮の念がある。身勝手な気遣いだ。その違いは自分に利をもたらすか否かという利己的な判断による。
(オレは汚いやつだ。使える人間にだけいいツラをしようとして)
 自己嫌悪に浸るのを防ぐため、習一は移動しようと思った。外れでもよいから開店中の食品売り場へ。顔を上げ、どちらの方向へ進むか模索する。ぼんやりと動く影が視界に入った。上下に動くその形は一般的な成人男性に近い。通行人だろうか。習一は園内のオブジェの一部のように息を殺した。通行人の陰影は次第に大きくなり、外灯が部分的に明らかにする地面を踏む。その足は二人分あった。一人が灯りのもと、電子機器を操作する。機器は強い光を発した。
「お、ここにいんじゃん」
 いかにも軽そうな口調の男が言う。その言葉は習一に向けられたものだが、声に聞き覚えはない。「いい稼ぎになったなぁ」と愉快そうにするのが不快で、習一は立った。
「おっと、勝手に行かれちゃ困るのよ。ダンナに来てもらわないと」
「ダンナってのは光葉のことか? 図体の大きい白スーツ野郎の」
「話が早くて助かる。このまま待っててくれりゃいいからさ」
 軟派な男が電話を耳にあてた。光葉と連絡を取る気だ。せっかく逃げられたのに告げ口されてはかなわない。習一は男の股ぐらめがけて蹴りあげた。男は電話を落とす。内股に立ち、痛みをこらえている。その隣りにいた連れは悶絶する男の体を支えた。彼らがもたつく間に習一は公園を脱出する。目についた曲がり角へまっしぐらに走った。
「!」
 一面に壁が現れ、急ブレーキをかける。止まりきれずに衝突し、したたかに鼻を打つ。
「よおニーチャン、夜の鬼ごっこはこれで仕舞いや」
 不運にも現在もっとも会いたくない人物にめぐりあった。大きな手が習一の肩にぽんと乗る。習一はその手を振り払おうとしたが、強く握られてうめき声をあげた。

5
「なんでワシを見てすぐ逃げたんや?」
 光葉は手にこめた力とは真逆に、子どもに諭すような声で尋ねる。その声色はいっそう危険な状況を物語る気がして、習一は正直に話すことに決めた。
「あの時、『走れ』って言われたから」
「そんな声、ワシは聞いておらんで」
 おかしな主張だ。間違いなくエリーは声を張りあげて習一に逃走を命じた。そしてどうやったか見ていないが、追いかけてくる光葉を転倒させていた。
「あんたを転ばせた女の子がいただろ。あいつが、そう言った」
「女ぁ? そんなやつ見てへんな。すっ転んだのはまあ、足がもつれたからやと思うが」
 光葉はエリーとかなりの近距離にいたにも関わらず、彼女の存在に気付いていない。エリーの声を聞かなかったという証言といい、まるで彼女は習一にしか感知できぬ幽霊になったかのようだ。そんなはずはない。シドも小山田も、エリーとは自然なやり取りをしている。
「まあええわ。ニーチャンのセンセイの家、あそこで合っとるか聞きたかったんや」
「それを聞くために、金を使って人を雇ったのか?」
 二人組の男の言動により、かいま見える光葉の行動。その原動力は習一が簡単な質問に答える程度のことを最終目標には設定しない。
「よう口が回るやっちゃな。もうちっとおバカなほうがかわいげあるで」
「それで、あんたは何がしたいんだ。あんな頭の軽そうな連中に小金をちかつかせておいて、慈善家気取りしたいわけじゃないだろ」
「その通り、施しただけじゃワシは満足せえへん。ワシの望み、もう知っとるやろ?」
 光葉は習一の背後に回り、後ろ手を組んで本格的に拘束する。体格差のある相手への抵抗はできなかった。習一は彼の目的が自分にはないことを頼みに平静を保つ。
「あの教師と果たし合いするのか。だったらオレは関係ない」
「ニーチャンの身柄と引き換えに戦ってもらう。そうでもせんと全然会われんくてなぁ」
 無理もない提案だ。シドは不可思議な協力者のおかげで光葉との邂逅を未然に回避している。それゆえ光葉が強硬手段に出た。それは理解できるのだが。
「どうやって呼びつける? オレはあいつの連絡先を知らねえぞ」
「なんやと、連絡網っちゅうんはないんか?」
「あいつはオレの学校の教師じゃない。前にもあんたにそう言ったつもりだが」
 光葉は「なんやとぉ?」とキテレツな声を出した。
「とぼけとったんやないんか。じゃ、センセイはなんでニーチャンにかまけとるんや」
「オレは覚えちゃいないが、オレになにかやらかしたんだとよ。その詫びだって」
 この解説で光葉が納得できたか確認できないが、話が進展しないまま光葉は歩き始めた。
「ほんならどないしよか。直接センセイのおる部屋にお邪魔するか」
 アパートへ連行される道中、部屋はどこかと聞かれても習一は知らぬ存ぜぬを突き通した。さいわい習一がシドの下宿先に寝泊まりする現況は知らないようだった。習一から情報を引き出せない光葉は一部屋ずつ訪問すると言い出す。習一を捕縛した状態で住民と会ったなら、異変を感じた住民が通報するだろう。警察沙汰はまずい。それは光葉も同じはずだ。
「オレを捕まえたまんま、部屋を総当たりする気か?」
「そらそうやな」
「『自分は不審者です』と紹介して回るようなもんだぞ」
「それは気ぃつかんかったわ。まあええ、用が済んだら寄りつかんからな」
 警官が来るという発想は光葉にない。もしくは警官があらわれたところで支障がないと考えたのだろう。この大男は卓越した身体を有する。何者にも負けぬ自信があるのだ。
「いでっ」
 突然光葉が痛みを訴えた。コロコロと軽い物が地面に転がる。途端に習一の手首がぐいっと下に押しやられた。拘束がすべり落ちる。習一が咄嗟に後ろを見れば、少女が走ってきている。
「こっち!」
 エリーが腕をのばした。だが光葉が習一を抱えこんでしまい、少女の手は空を切った。
「なんや、誰かがワシの邪魔をしよる!」
 光葉は頭をぶんぶんと動かす。あたりは無人。光葉は「おっかしいな」と一人ごちた。
(あれは見間違いだったのか?)
 大男はまたも少女に気付かなかった。習一の耳には真新しいエリーの声が残るのだが。
「その少年を放してください」
 もはや親の声より聞き慣れた声だ。後ろに向きなおると目の据わった銀髪の教師が立つ。
「やぁっと出てきてくれたな。アンタを捜してあちこち回っておったんや」
「貴方の事情は知りません。その子から離れてください」
「まずは不意打ちの謝罪、と言いたいとこやけどええわ。ワシの頼みを聞くこっちゃ」
「一つだけですよ」
「アンタの仲間にアンタと似たような銀髪の男がおるやろ? そいつを紹介してくれや」
 今朝の光葉はシドと戦うのでもよい、と言っていたのだが、本音はやはり違うらしい。
「私がお相手します。私に勝てないようでは彼には到底かないません」
「アンタを倒してもな……ちょいと気乗りせんのや」
「わかりました。貴方が私の膝を地につけられたら、彼を呼びましょう。いかがです?」
 温厚な男による好戦的な条件がつらつらと流れる。習一は普段の彼との大きな隔たりを感じた。しかしよく考えると、決闘になれば光葉は嫌でも習一を放さねばならない。シドは戦いを引き受けることで習一を逃がそうとしているのだ。彼の根底にある行動理念は変わらなかった。
 光葉はこの要請に快諾し、目の前の公園に入る。そこに習一が急所を蹴った男の姿はなかった。園内の広場で戦うかと思いきや、光葉は広場を通り越す。
「おい、どこ行く気だよ」
「ニーチャンをどこも行かれへんようにしとくだけや」
 光葉は広場の端にある高さの違う鉄棒をぽんぽんと触った。内ポケットからじゃらりと音のする金属を出す。外灯の光を反射するそれは警察が所有する手錠に酷似していた。
「カギはもっとるさかい、安心して捕まっとってくれや」
 二つの輪っかのうち片方を習一の手首にはめ、もう片方は鉄棒に繋ぐ。習一は完全に繋がれた犬状態になった。シドは腕組みをしながら光葉の所行を見ている。
「疑り深いのですね。私は人質がいなくとも試合をしますよ」
「まぁまぁ、気ぃ悪くせんでくれや。証人はおって困らんやろ?」
「どちらが勝った、という証言者が欲しいのですか」
「そういうこっちゃ。ほんじゃ、準備はええか」
「その前に一つ、お尋ねします。銀髪の男を倒す理由はなんですか」
 光葉は白のジャケットを脱ぎ捨てた。首の骨をこきっと鳴らす。
「ワシはこれでも末っ子でなぁ、アンタの年下なんやわ。若いとなっかなか周りに認めてもらえん。せやけど無敗のバケモンを倒したあかつきにゃ、ワシの箔がつくってもんよ」
「つまり、名声が目当てですか」
「そうや。男らしい理由やろ?」
 それはプライドや外聞の概念に疎い者には理解しがたい動機だ。シドがうつむく。
「……くだらない」
 非難を凝縮したつぶやきが開戦の合図になった。

6
 光葉が先に仕掛けた。単純だが破壊力のある右ストレート。その拳にはこの場に立つ意義を貶された憤激がこもる。怒りのあまり大振りになった動作は見切られ、シドが半身をずらす。光葉の太い腕は黒シャツの胸元をかすめた。光葉は外れた拳を自身の胸へ抱きこむように薙ぐ。これもシドが光葉の背後へ移動してかわす。全力で振りかぶる光葉に対し、シドはその場を動くだけに留まる。彼は最小限の自衛に専念してばかりで攻勢に出ない。
「挑発しといて、ビビっとるんか!」
 光葉はかかと落としを繰り出す。ぶん、と大きく空を切った蹴りはシドの肩を狙う。その足首をシドの手が受け止めた。光葉の足を発泡スチロールのように軽々と持つ。
「なんやと……?」
 シドは光葉の太い足をポイっと捨てた。光葉は多少よろめきつつ体勢を整える。
「わかりませんか。私と貴方との力の差はかけ離れていることを」
 光葉は力量を低く評価されたことへの報復を起こさない。闘争心にかげりが見え始めた。
「元気に帰れるうちに引いてください。貴方が実力を高めた上での再戦は受け付けます」
「……アンタは優しいな。やけど、その優しさが他人を傷つけるっちゅうのは覚えとき」
 挑戦者は無謀なタックルを試みる。シドが寸前で回避しようとしたところ、彼のサングラスが宙を舞った。光葉の手足は触れていない。だがシドは顔面に攻撃を食らった。
「剣道三倍段、てな。リーチの長いもんが有利や!」
 光葉は黒い警棒を振り上げた。伸縮する携帯武器を隠し持っていたのだ。予想外の打撃を受けたシドは顔をそむけたまま、迫りくる敵に注意を払わない。
「もらったぁ!」
 勝利を確信した激声が響き渡った。警棒は戦意を見せない男の頭めがけて振り下ろされる。無防備な銀髪が揺れるのを最後に、習一は思わず目をつむる。だが打擲する音は発生しなかった。かわりに誰かの苦しげな声が聞こえる。習一は慎重にまぶたを開けた。
 二人の男が向かい合う姿があり、どちらが優勢か判断がつかない。光葉が警棒を落とし、空いた手を自身の首元へ運ぶ。彼は己の首を掴む手をはがそうと必死にもがいた。光葉を締め上げる手は一つ。しかし光葉の両手はその握力に負け、拘束を解けない。
「『考えなしに打ち合うな。己の弱点を相手に教えることになる』」
 感情をともなわない、朗読のような語りが始まった。
「『決して驕るな。子どもが振るう短剣とて己が命を落とす凶器になりうる』……」
 この朗読の一文に、習一はなぜか寒気を感じた。
「私の武術の師匠が述べた戒めです。貴方の師匠は教えてくれなかったようですね」
 言ってシドは光葉を解放した。光葉は膝を屈し、喉に手を当てて咳こむ。
「手錠の鍵をください」
 シドが差しのべた手を光葉は憎たらしいもののように払いのける。
「……渡せるか! ワシはまだやれる」
「強情ですね。どうしたら納得してもらえるのですか」
「もちろん、アンタの仲間に会わんと帰れん!」
「──わかりました。一目だけでもお見せしましょう」
 シドは習一を見た。習一は自分の後ろになにかあると思った。彼の視線の先を見ると木の幹から一人の男があらわれる。光葉に匹敵する大男だ。彼はつばの広い帽子を被る。男の全容がはっきりするや否や、習一の肌が粟立つ。手錠がガチャガチャと鳴って習一の逃走を阻んだ。
(こいつは……!)
 習一は理屈抜きにその男が危険だと感じた。泣きたいほどの恐れが全身に押し寄せる。その原因は理論では推し量れない。ひたすらに本能がこの男への強い拒否反応を示した。
 習一とは正反対に光葉が歓喜した。意気揚々と立ち上がり、帽子の男に一歩近寄る。
「アンタか……! ちっとばかし頭を見せてくれんか?」
 男は帽子の天井を手のひらで覆い、無言でどけた。その頭髪はシドと同じ輝きがある。照明の不十分な野外といえど、シドという標本と比較すると銀色に違いないと思えた。
「ホンマもん、みたいやな。よーし、アンタと勝負や!」
 意気込む光葉に対し、シドは頭をふって拒否する。
「ダメです。事前の約束と違うでしょう」
「ええやん。カタいこと言うなや〜」
 光葉は合掌してシドを拝みたおす。たった一人が信仰する神仏は深いため息をついた。シドは帽子を被りなおす男に「手加減なしで」と忠告し、後方へ下がる。光葉のねばり勝ちだ。使い捨ての崇拝者の皮を脱いだ男は嬉々として構えた。
「今度こそ、勝──」
 言い終わらぬうちに男の掌底が光葉のみぞおちに入る。光葉は相手の戦法がシドと同じ、最初は防戦に徹するものだと高をくくっていたのだろう。まるきり警戒していなかった腹に攻撃を受け、やすやすと吹っ飛んでしまった。地面に倒れた光葉は腹をおさえる。
「っく〜! ヒトが喋っとる間に手ぇ出すんは卑怯やぞ!」
「徒手試合の途中から武器を使う行為は卑怯ではないのですか」
 シドはすたすたと光葉に接近し、その顎をがしっとつかんだ。
「な、なにする気や?」
「これ以上は時間の無駄です。貴方には眠ってもらいます」
 光葉はシドの手を離そうとして暴れる。その抵抗は数秒減るごとに目に見えて衰え、動かなくなった。シドは光葉を地べたに放置し、帽子の男に歩み寄る。
「お疲れさまです。もう変化を解いていいですよ、エリー」
「うん」
 屈強な大男の口から少女の細い返事が発せられた。直後に男の姿が絵の具でぼかしたかのように潤み、人の体を失くす。全体的に丸みを帯びた、黒い、人間ができそこなった怪物が出現する。首のない頭部には大きな緑色の双眸があった。
「ほんとうに、そいつが……エリー?」
 共通点は目の色と声の二点のみ。それ以外は見る影もない。黒の怪物がずるずると棒状の足をひきずり、習一のもとに来た。習一は恐怖で固まってしまう。見た目は異形であろうと二たび習一を光葉の手から救おうとした相手だ。自分を襲うはずがない──そう頭で理解はできても、体は猛烈に生命の危機を感知した。
 異形の腕が習一の拘束されていない手を包む。ひんやりしたクッションのように柔らかな感触があった。その冷たさが習一の臆病風を強める。習一は助けを求めてシドを捜す。しかし教師の姿はない。ただ一人、習一に視線を射る男がいた。光葉を吹き飛ばした帽子の男。だがそれは黒の怪物と化したエリーが形作る偽の姿だった。ではあれは誰なのか。
(まさか、あいつが本物の……?)
 習一は誰のどの姿が本物なのかわからず、混乱した。唯一の真実は、習一に良くしてくれた者たちの姿がどこにもないということだ。習一はひとまず人の原型を保つ男に助けを請おうと考えた。男の顔を凝視すると、その瞳が冷たい青色だと気付く。
『悔いても遅い。お前には助かる機会を与えた。むげにしたのはお前自身』
 男は口を堅く閉ざしているが、習一にはそんな言葉が聞こえた。それらは過去に、この男に言われたのだ。今と同じ、黒の化物に束縛された状態で。
 習一の視野に黒い異形の頭が入りこむ。緑の目の下に丸い空洞を一つつくり、習一の眼前を覆い尽くす。喰われる──その空洞は人の骨と肉を食いちぎる口だと、習一は身をもって知っていた。
「うわああああ!」
『ああぁぁぁ……』
 ──現実の絶叫と記憶の中の断末魔が共鳴した。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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