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2021年12月22日

明智光秀と織田信長 「相思相愛」だった主従関係は何故破綻した?


 蜜月と離反の深層心理

 明智光秀と織田信長 「相思相愛」だった主従関係は何故破綻した?


 

 
 12-22-1.png 12/22(水) 7:00配信



 12-22-2.jpg

            写真はイメージです(gettyimages)12-22-2


 自らの未来を信長に賭け織田家中に身を投じて以降、世に出た光秀。一方信長も光秀を高く評価し、新参者ながら家中随一の出世頭として取り立てて行った・・・相思相愛だった二人の関係は何故破綻したのか?
 週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』では、大河ドラマ「麒麟がくる」で時代考証を務めた戦国史研究の第一人者・小和田哲男氏が読み解いた。

                   *  *  *  



 本能寺の変(天正十年・1582)明智光秀謀反の真相を語る時、落とす事が出来無いのが明智光秀と織田信長の性格や考え方の違いで在る。そこで先ず、光秀と信長、この二人の人格・思想・行動の夫々の違いに付いて観て置きたい。  
 光秀に関しては残された史料は少ないが、豊臣秀吉との比較で興味深い指摘が為されて居る。江村専斎(えむらせんさい)の著わした『老人雑話』で、そこに次の様な記述が見える。

 <筑前守は信長の手の者の様にて、其上磊落(らいらく)の気質なれば、人に対して辞常にをこれり。明智は外様のやうにて、其上謹厚(きんこう)の人なれば、詞常に慇懃なり>  

 筑前守とは秀吉の事で「手の者の様にて」と在る様に「秘蔵っ子」と云った印象が在り、信長から可愛がられ、豪放磊落・傲慢(ごうほうらいらくごうまん)だったと云う。「をこれり」は「驕れり」で在ろう。それに対し、光秀は外様だった為、謹厳実直(きんげんじっちょく)で言葉も慇懃(いんぎん)だったとして居る。
 秀吉も光秀も織田家臣団の譜代では無い。今で云う〔中途入社組〕では在るが、秀吉は信長と同じ尾張出身で小者から立身出世を遂げた云わば生え抜きで在ったのに対し、光秀は美濃出身で、牢人した後越前朝倉義景に仕え、義景の所に転がり込んで来た足利義昭を信長に斡旋した事から繋がりが生まれ、初め義昭と信長に〔両属〕と云う形だったと云うハンデが在った。
 
 光秀は織田家臣団の中では正に外様で、謹厳実直と云った態度を取らざるを得無かったのである。真面目に奉公を続ける事で信長に認められて行った。
 では、その信長は如何だったのだろうか。信長の人格・思想・行動を観て行く上で注目されるのがイエズス会宣教師ルイス・フロイスの信長評で在る。フロイスの著わした『日本史』に「彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずには置か無かった」と在るのに続けて次の様に見える。

 <戦術に極めて老練で、非常に性急で在り、激昂はするが平素はそうでも無かった。彼は僅かしか、又は殆ど全く家臣の忠言に従わず、一同から極めて畏敬されて居た>  

 こうした記述、更には他の言動からも、信長が尊大で自意識が過剰だった事が伺われる訳で在るが、全く性行が異なるにも関わらず、或る段階迄は光秀と信長の関係は極めて良好で在った。それは〔信長流人材登用に光秀がマッチ〕したからである。そこで次に、その辺りの経緯を詳しく観て行く事にしよう。

 ■比叡山焼き討ちに積極的だった光秀の真意  

 義昭と信長に「両属」して居た光秀の軍事的力量と云うか才能に信長が何時気付いたのだろうか。それは、もしかしたら、元亀元年(1570)四月の信長に依る越前朝倉攻めの時だったのかも知れ無い。  
 この時、信長の妹お市の方を娶り信長とは同盟関係に在った北近江の浅井長政が叛旗を翻し、信長は急遽、京に逃げ戻って居るが、その時、若干の兵を敦賀の金个崎城(きんこざきじょう)に殿(しんがり)として残して撤退して居る。

 従来、この時の殿は木下藤吉郎秀吉が一手に引き受けたと云う事で〔藤吉郎金个崎の退き口〕と云われて来た。処が、この時光秀も殿を務めて居たのである。  
 この事から、信長と浅井・朝倉軍との本格的な戦いと為り、志賀の陣と呼ばれ、近江宇佐山城を守って居た信長の重臣森可成が討ち死にすると云う事態と為った。信長は、その代わりに光秀を宇佐山城主に指名して居るのである。  

 そして、翌元亀二年(1571)九月、信長は浅井・朝倉軍に荷担する比叡山延暦寺を攻める事に為る。比叡山焼き討ちで或る。『天台座主記』と云った史料により、信長が「比叡山を攻める」と云った時、必死に為って止め様としたのが光秀だったとされて来たが、その後、発見された光秀の文書から、光秀が積極的に焼き討ちに関わって居た事が明らかと為った。
 光秀は真面目で在るだけに、又「此処で手柄を立て、信長様に認められたい」との一心だったのではないかと思われる。命令を忠実に実行し、武将としての力量を認めて貰おうとしたのであろう。

 この働きに依って、信長は光秀を坂本城主としただけで無く、その廻りの志賀郡を所領として与えて居る。これは、信長家臣の中で〔一国一城の主〕第一号で在った。信長の能力本位の人材抜擢のお陰で、光秀はトントン拍子の出世をして行くのである。
 因みに〔一国一城の主〕第二号は秀吉で在った。 〔中途入社組〕の光秀と秀吉の二人が、宿老と呼ばれた譜代の柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛等と肩を並べ、ヤガテそれを追い抜いて行く事に為る。

 天正三年(1575)からは光秀が丹波(たんば)攻めの総大将、同五年からは秀吉が中国攻めの総大将と為って居る。
 その光秀は、同七年(1579)八月、丹波平定を成し遂げて居り、翌年、本願寺攻めで捗捗(はかばか)しい戦果を挙げ無かった佐久間信盛・信栄父子を高野山に追放した時の折檻状(信長公記)の中で「丹波国日向守(光秀)働き、天下の面目をほどこし候」と絶讃して居る。
 その後に、秀吉、次いで勝家の名前が挙げられて居るので、信長の意識の中には〔光秀が一番の働き頭〕として映って居たものと思われる。正に、光秀・信長の蜜月時代で在った。

 天正九年(1581)二月二十八日に京都御所横で繰り広げられた信長軍団の軍事パレードとも云うべき〔京都御馬揃え〕で、その総括を任されたのが光秀で在った。この時、秀吉は中国攻めの最中だった為、京都に戻れ無いと云う事情が在ったとは云え、信長が光秀に采配を託したのは光秀を高く評価して居たからである。  
 この事も在ってか、同年六月二日付の「明智光秀家中軍法」(御霊神社所蔵)では、光秀は「瓦礫沈淪(がれきちんりん)」の身だった自分を引き立てて呉れた信長に感謝の気持ちを記して居る程で在った。  

 では、そうして、信長の命令を忠実に実行し信長からの評価を得て居た光秀が、信長から離反して行く事に為ったのは何故なのか、そしてそれは何時からなのか。

 ■信長への叛意を芽生えさせた天正十年の事件の数々  

 先ず、何時からかと云う点を観て行くと、天正十年(1582)正月七日の坂本城で開かれた茶会の事が津田宗及の『宗及他会記』に見え、光秀は信長から拝領した八角釜を用い、又、床に信長自筆の書を架けて居た事が判る。
 光秀が本心を隠しカムフラージュして居たとすれば別であるが、少なくともこの時点では、光秀は謀反の事等考えて居なかったのでは無かろうか。

 処が、二月・三月と進むに連れ、少しずつ雲行きが怪しく為る。先ず、二月であるが、信長が暦に口出しをし始めた。本来、年号や暦の決定は天皇大権に属す事柄で在った。天皇が土地・人民だけで無く、時をも支配して居ると云う観念で在る。
 朝廷の陰陽頭・天文博士の土御門家(つちみかどけ)が制定する宣明暦が全国的な統一された暦として使われて居た。これが〔京暦〕である。信長は〔地方暦〕で、自分の領国で在る尾張でも使われて居る〔三島暦〕を使う様要求し始めた。

 天皇大権への口出しで在る事は明らかで、公家の勧修寺晴豊(かんじゅじせいほう)はその日記『日々記』の中で「云われざる事也。これ信長無理為る事と各申事也」と記して居る。 そして、三月から四月に掛けての信長に依る甲州攻め、即ち武田勝頼との戦いに於ける幾つかの出来事も注目される。
 戦いそのものは、三月十一日の甲斐の天目山麓田野の戦いで、勝頼が自刃して終わって居るが、その後の信長の異常な行動を光秀は許せ無かったのでは無いかと思われる。  

 一つは、武田勝頼の首を首実検した時、信長が勝頼の首を蹴とばしたと云う事、
 二つ目として、武田攻めに同道した現職の太政大臣近衛前久(このえまえひさ)に信長が暴言を吐いたと云うものである。
 信長が「富士山を観て帰りたい」と云った時、前久が「私もお供したい」と云ったのに対し『甲陽軍鑑』に依ると、信長は馬上から「近衛、わごれなどは木曾路をのぼらしませ」と云い放って居るのである。  
 そして、三つ目として、信長の長男信忠が武田氏の菩提寺の恵林寺で、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から国師号を受けて居る住持の快川紹喜を焼き殺して居る。

 長い間、自分を苦しめて来た武田氏を要約滅亡に追い込んだと云う事で、信長が正気を失いつつ在ると光秀は冷めた目で観て居たのかも知れ無い。

 ■「もう、信長には付いて行け無い・・・」  

 更に決定的な出来事が五月に起こる。徳川家康を安土城で接待する事に為った時、光秀がその饗応役だったのが、突然、解任された一件で在る。本能寺の変光秀謀反の真相とされる通説の一つ〔怨恨説〕でもこの件は理由の一つにカウントされて居るが、光秀の用意した魚が腐って居たと云うレベルの問題では無く、モット大きな要因が横たわって居た。  

 饗応役は五月十五日からであるが、その前日十四日付の神戸信孝・即ち信長の三男が、丹波の国衆に宛てた四国動員令(人見文書)は、光秀の領国丹波に光秀を飛び越して出されたものである。この件に付いて光秀が信長に苦情を云った可能性が在る。
 フロイスの云う〔家臣の忠言に従わず〕と在るのを思い起こして欲しい。「もう、信長には付いて行け無い」と考えたのでは無かろうか。



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 ◎監修・文 小和田哲男(おわだ・てつお) 1944年静岡県生まれ 静岡大学名誉教授 近著『戦国 武将の叡智 人事・教養・リーダーシップ』(中公新書)他 著書多数 また、NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江〜姫たちの戦国〜」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」「麒麟がくる」の時代考証も手掛けている 

 ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』から



 【管理人のひとこと】

 日本史・・・戦国時代の一大エポック・・・〔本能寺の変〕主人公・明智光秀の心境は今でも計り知れ無い歴史の謎とされて居る。この事件により信長が倒れたお陰で、秀吉や家康の時代が拓けたのは事実で在り、彼等が利益を被ったのは間違い無く、必然的に彼等の黒幕説は依然として消えて居ない。
 信長の時代から家康の長期政権に繋がる徳川時代迄の出来事は、この事件から全てが始まる・・・色々な研究者が調べ推測する幾通りの仮説は、我々を楽しくさせる歴史の一つである。光秀生存説も真実味を帯びて伝わって居る。

















 

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