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福井ケンシロウ
1978年生まれ、岐阜県在住です。コミュニケーションや同時並行作業をすることが苦手な性格です。これまで苦節に満ちた人生でした。浪人、留年、借金苦、詐欺・通り魔被害、ブラック企業就職、早期離職、ニート、転職先でパワハラ被害、うつ病で休職・・人生に失望し続けました。しかし、2018年40歳の年に大企業への転職を果たし、ようやく自分の居場所を見つけることができました。
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2022年04月02日

こんな奇跡が起きるとは!

7月も終わりの夏休みのある日、テレビをつけました。

アトランタ五輪、サッカー日本代表の試合が始まってました。

相手は、なんと優勝候補ブラジルです!

テレビをつけたとき、

「ブラジルなんかに勝てるわけない。派手に負けるだろう。

そしたら諦めがついてスッキリした気持ちで、勉強に励めるだろう」

そんなことを考えていました。


試合は確かにブラジル優勢でした。

ボールをなかなか取れないし、パスもなかなか繋がらない。

相手は、悠然とボールを回しながらゲームを支配していました。

やはりブラジルは強い。

強烈なシュートをいくつも撃ってきます。

しかし、そのたびにキーパー川口能活選手が好セーブを連発し

何とかしのいでいました。


そして歓喜は突然訪れます。

日本選手がブラジルのゴール前にセンタリングを蹴りました。

そのボールを処理しようとしたブラジルキーパーと味方が接触し、

ゴールが無人となったのです。

そこに日本選手がボールを蹴り込み、先制したのです!


劣勢で防戦一方の試合だったのに、まさか日本が先制するとは!

その後、本気になったブラジルの猛攻をなんとか食い止め、

日本が1-0で勝ってしまったのです!!!

これが俗にいう「マイアミの奇跡」です。


ブラジルに勝ったことで、ますます日本代表から目が離せなくなりました。

結局勉強に取りかかることなく、連日の五輪中継にハマってしまいました。










その歓喜はあまりにも突然だった

毎日、ベッドの上で寝転がり時間が過ぎるのを待つだけの苦痛の日々・・。

やるべきことは山ほどあるのに、何をすればいいのか分からない・・

つらい・・。

折しもテレビでは連日、アトランタ五輪の競技を中継放送していました。

その中でも特に注目されていたのが、男子サッカーです。

日本代表は28年ぶりに五輪に出場したのです。


今では五輪には毎回出場するのが当たり前となっているので、

ご存じない方もいらっしゃるかと思いますが、

1968年メキシコ五輪を最後に、日本代表は1996年のアトランタ五輪まで

一度も出場できなかったのです。

この間、日本サッカーは冬の時代でした。

W杯もまだこの時点で一度も出場できていません。


しかし、当時は数年前にJリーグが発足し、

日本中にサッカーブームが起きていた時期でした。

1993年のW杯アジア最終予選であと1勝というところで

アメリカ大会出場の切符を逃すという、

ドーハの悲劇の記憶が人々の記憶にまだ鮮明に残っている時期でした。


そのような背景もあり、

28年ぶりに五輪出場するサッカー日本代表には

否応がなしに期待が集まっていたのです。










センター試験大敗北の私は旅をさせてくれと親に頼み込んだ

2次試験までの1ヶ月間が受験生最後の追い込みになります。

センター試験で失敗しても2次試験で挽回すべく、

みんな必死にこの時期は勉強をします。


しかし、私は・・

センター試験は失敗どころか、再起不能レベルの点数でした。

2次試験の対策も全くやっていません。

そもそも過去問で対策をするというやり方も知りませんでした。



その頃、連日のように

福井県沖の日本海でロシアのタンカーが

転覆した事故を報道していました。


転覆したタンカーから重油が流出し、

福井県の海岸が汚染されてしまったのです。

汚染は深刻で、沿岸の漁業が壊滅状態とのことでした。

しかし、汚染された範囲があまりにも広く、

また悪天候とボランティアの人手が足りず

重油の回収作業が進んでいないとのことでした。


それを見た私は、

「そうだ、重油回収のボランティアに行こう」

と思い立ったのです。

もう今からどうあがいても、2次試験をクリアできるわけないし。

勉強するのも時間のムダだと思ったわけです。

それだったら、今しか経験できないことをしようと。


しかし、ここで大きな壁にぶち当たりました。

旅費を出してもらうためには、親を説得しなければならないのです。


親には正面から思いをぶつけました。

もう現役合格は難しいこと、今から無為な時間を過ごすくらいなら

世のために役に立ちたいという思いをぶつけました。

父親からは、「お前に何ができる!?」と猛反対を食らいました。

浪人したらしっかり勉強するので、今しか経験できない時間を下さいと

懇願した結果、ようやく許可が下りました。


それから準備が始まりました。

学校の登山部の同級生から大きなリュックサックと寝袋を借りました。

担任の先生にも理解を得て、学割を発行してもらいました。


ボランティア目的の搭乗者は無料という便が

羽田→小松空港間に期間限定で運行されるとのこと。

その飛行機に乗るため、私は重い荷物を背負い

東京に向かう新幹線に乗り、仙台を出発しました。


1997年2月1日のことでした。










夏を制す者は受験を制す

高校最後の夏休みが始まりました。

みんな図書館にこもって、必死に受験勉強する時期です。

私はというと・・
相変わらず、漂流を続ける精神状態でした。
何もする気が起きないのです。

自分の部屋に引きこもり、
ただ時間が過ぎるのをじっと待っていました。

受験勉強を強いられるこの夏休みが、
早く終わってしまえ!と思っていました。

しかし時間というのは残酷ですよね。
必要な時はあっという間に過ぎるのに、
いらない時には全然進まないんです・・

ベッドの上でただジーッと
時間が過ぎるのを待っていました。
この不毛な時間が、
たまらなくつらく、しんどく、そして苦痛でした。









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自分の居場所を失った高校3年生

学校に行っても、家にいても

周りから白い目で見られる恐怖で潰されそうでした。

何もかもやる気が起きませんでした。

そして居場所もありませんでした。

学校を休んで、寝っ転がっても

気持ちは全然楽にはなりません。


過去の優等生時代を経験しているもう一人の自分が、

今の自分を責め立てるのです。

「サボってていいのか?周りは必死に勉強しているぞ」と。


何もしないで寝っ転がっていると、自己嫌悪になるだけでした。

かと言って勉強しようにも、何から手を付ければいいのか分かりません。

もう生きていること自体が苦痛でした。


今思えば、一種のうつ状態だったと思います。











進学校の落ちこぼれが味わう悲哀

受験勉強の進め方が分からない。
何から手を付ければいいのか分からない。
高校3年の夏休みが近づいている時期で、
周りのクラスメートは着々と受験対策を進めている・・

自分だけが取り残されていました。

中学の頃は成績優秀で、誰からも一目置かれ
県内トップ高校の仙台二高に余裕で合格したつもりでした。
普通に頑張れば東大にも合格できると信じていました。

それが今や全国偏差値30台。
学校のテストも下から10番というときもありました。

私と同じ中学の同級生は、仙台二高に15名ほどいました。
その人たちは私が中学時代に優秀な成績だったことを知っています。
その私が今や、高校で落ちこぼれの烙印を押されていることも知っているでしょう。
校内で彼らと顔を合わせるのがたまらなく苦痛でした。

あいつら、俺のことをざまあ見ろと思っているのではないかと。

そして担任からは不登校に陥りつつある私を心配される始末・・
親にも伝わっており、家庭内でも居場所がなくなっていました。









高3の7月 何もかもやる気をなくす

もう東大現役合格はムリ!とさじを投げて以来、
何もかもやる気をなくした私はあることに気がつきました。

時間がない・・とあんなに焦りながら机に向かっていたのに、
受験勉強を投げ出した途端、あり余る時間に苦痛を感じるようになったのです。

この暇な時間をどうやって過ごすか・・
受験勉強を放棄した今、これが最重要課題となりました。

そしてかつてのように、ラジオの深夜番組を聴き朝方に寝る。
学校には遅刻するという生活に逆戻りしたのです。








高3の6月 ついに心が折れる

もう嫌になりました。
学校を休んでまで受験勉強に専念しても、
数学は2次関数の途中から進まないまま・・
物理、化学はつまみ食い程度に取りかかるも
全くチンプンカンプン・・
国語なんかそもそもどうやって勉強したらいいのか見当つかず・・

高2から始めたZ会の答案用紙は、難しすぎて全く歯が立ちません。
英語は何とか提出してましたが、数学や物理、国語は1つも提出できないまま
30枚くらい山積みになってました。
封筒すら開けていませんでした・・

東大合格の目安は偏差値70ですが、
唯一進んでいた英語でも60止まり。
偏差値30台の数学、物理、化学、国語はほとんどノータッチ。
さらにセンター対策もしなければならない。
学校の定期テスト対策もしなければならない・・

もう、精神的に追い詰められパンクしました。

こうして、6月のある日、
「東大現役合格なんてムリ!」
と心が折れたのです。








担任の先生から電話が

高3の6月のことでした。
担任の先生から、自宅に電話がかかってきました。

母によると、
「最近、学校を休みがちですが大丈夫ですか?」
と先生が心配しているとのことでした。

それを聞いた私は、ありがた迷惑に感じました。
不登校になったと思われているのかと。

いや、俺は東大受験のために勉強を頑張っているんだ、
ほっといてくれよとムッとしました。








学校に通うのがイヤになった

高3の初夏でした。
この頃の生活はもう破綻しつつありました。

頑張っても頑張っても前に進まない受験勉強・・
毎晩遅くまで机に向かっていました。
睡眠不足で朝起きれなくなりました。

ふと、学校の時間がムダに思えてきたのです。
通学にかかる時間(往復1時間)や、
つまらない学校の授業を受けるくらいなら
家で受験勉強をした方がいいのでは?
と考えるようになりました。

取組めているのは英語だけで、
数学や理科、国語は手つかずだったからです。
そして東大向けの通信添削の答案用紙も山ほどたまっています・・

何とかしなければ・・
焦りの気持ちが抑えられなくなっていました。

こうして学校を軽視するようになり、
遅刻や欠席が増えていきました。