アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2024年04月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
福井ケンシロウさんの画像
福井ケンシロウ
1978年生まれ、岐阜県在住です。コミュニケーションや同時並行作業をすることが苦手な性格です。これまで苦節に満ちた人生でした。浪人、留年、借金苦、詐欺・通り魔被害、ブラック企業就職、早期離職、ニート、転職先でパワハラ被害、うつ病で休職・・人生に失望し続けました。しかし、2018年40歳の年に大企業への転職を果たし、ようやく自分の居場所を見つけることができました。
プロフィール

2024年04月28日

新宿のリクルートエイブリック訪問

2004年11月半ばのある日。


妹から紹介されたリクルートエイブリック(現:リクルートエージェント)の

新宿本社を訪問しました。

見よう見まねで作成した履歴書と職務経歴書を携えて。


50代の男性カウンセラーが応対してくれました。

高校卒業後2年間浪人し、大学では留年し、挫折ばかりの自分。

新卒で入った会社は4ヵ月で早期退職した負い目がありました。


こんな私なんか転職できるわけない、門前払いされて求人紹介してもらえないだろうと

半ば諦めていましたが、担当のカウンセラーは私の経歴や希望職種を懇切丁寧にヒアリングしてくれました。

「最近は第二新卒の方々への求人が増えています。あなたは若いしまだまだ可能性がありますよ」と、

大企業から中小企業までさまざまな求人を紹介してくれました。

しかも、中には転職サイトには出ていない非公開の求人も含まれていました。


「私の人生捨てたもんじゃないかも」。

渡された求人票を帰りの電車の中で眺めながら、武者震いしたのを憶えています。


26歳晩秋のこの出来事が、私のその後の人生を大きく変えることになりました。

2024年03月25日

ニート脱出のきっかけは、妹との会話だった

ブラック企業を退職して1ヵ月半ほど経ったある日のことでした。


私が家に引きこもっている様子を見かねたのでしょう。

妹から話しかけられました。

「お兄ちゃん、転職活動始めたら?いいサイトがあるよ」と。

私は、「リクナビなら就活のとき使ったから知ってるよ」と返しました。

すると妹が説明をしてくれました。

「それとは違うの。リクルートエージェントっていうの」

「リクナビは自分で求人を探すやり方だけど、

リクルートエージェントは自分に合った求人を探してくれて紹介してくれるんだよ」。

「それに、このサービスは無料なんだよ」


私にとっては、始めて聞くサービスでした。

新卒での就活は、莫大な求人情報の中に飛び込み、

その中から応募したい求人を自分で見つけ出すやり方でした。

探すのが面倒な私は、会社の知名度で検索するやり方だったため、

応募倍率が非常に高く、書類選考で落とされてばかりだったのです・・

ところが、初めて聞いたサービスでは、自分の希望に合った求人を

転職のプロ(転職エージェント)が探し出してきてくれるのです!

しかも無料とは!!


私は、妹からの話に思わず食いつきました。

早速、自宅のパソコンを開き、リクルートエージェントのサイトを探しました。

2024年02月21日

ブラック企業から脱出したが、やることがない毎日

地獄のような激務から逃れ、私は無職になりました。

社会人1年目の26歳で、会社員生活は半年ももたずニートです。


毎日やることがありません。

中学時代に秀才と呼ばれた私は当然のように、

宮城県でトップの進学校に入学しました。

しかし、地域の秀才たちが集まるその高校では、

私の成績はずっと低空飛行・・

いくら勉強に時間をかけても順位は上がらず、

途中で勉強を投げ出しさらに成績は低迷する悪循環。

2年間浪人してやっとの思いで入った大学にはロクに通わず、

お金を稼ぐためにバイトに明け暮れました。

しかし、そのせいで大学に行けなくなり留年。

生活費を稼ぐつもりが、余計な学費を払うことになってしまうという本末転倒ぶり・・

そして、就活は100社全滅。

唯一内定を出してくれたのが、超絶ブラック企業。

毎日通勤に往復4時間、定期代の半分は自腹。

残業時間は月100時間超え。

なのに月収は20万ちょっと。

時給換算するとたったの750円。

そして毎日3時間くらい公開パワハラ。

心身ともにボロボロになり、4ヵ月で早期離職。


どうしてこんなに上手く行かないんだろう・・

たった10年前は秀才と呼ばれ、意気揚々としていたこの私。

どこで人生を間違えたのだろう。


悶々とする毎日でした。

2024年02月03日

社会人デビュー半年後にニートへ転落・・

2004年11月。

最初に就職した会社を辞め、私は無職になりました。

そこに悲壮感などありませんでした。


連日のように何時間も上司から説教されることもありませんし、

朝早く家を出て2時間かけて通勤する必要もありません。

そしてヘトヘトにくたびれて深夜に帰宅する地獄の毎日から解放されたのです。


実家暮らしでしたので、

毎日好きなだけ寝て、テレビも観たいだけ観る生活です。

食事も母が作ってくれます。


今でいう超絶ブラック企業を辞めた達成感を味わいながら、

こうして2004年の紅葉の季節をのんびり過ごしていました。

あの爽快さは今でも忘れられません。

2023年12月10日

最終出勤日もパワハラ

2004年10月29日、テレビでは1週間前に起きた

新潟県中越地震の被害や余震のニュースが連日流れてました。


ついに私は最終出勤日を迎えることになりました。

あんなに苦労して就活したけど、100社全滅。

やっと受かったこの会社は、

とんでもないブラックだった・・・(その当時ブラック企業という名称はありませんでしたが)

挙句の果てに4ヵ月で早期退職・・

だが、次の就職先は決まっていない・・

一体私は今まで何をしてきたんだろうか・・

もしや私は社会不適合者なのでは・・・


自問自答をしているうちに半日が過ぎてしまいました。



今日で最終出勤日なので、午後からおもむろに身辺整理に取り掛かりました。

そして夕方5時頃だったでしょうか、上司に呼び出されました。

「今日の進捗は?」

私はとまどってしまいました。

今日は何も仕事をしていなかったからです。

最終出勤日は後片付けだけすればいいやと思い込んでたからです。

さすがに何もしていませんとは言えないので、

「一生懸命頑張りましたが、誰も引き留めることはできませんでした」

とその場しのぎの返答をしました。

すると、上司は

「お前、朝から何もしてなかったよな?電話を掛けるところを見ていないぞ!」

虚を突かれました。

「今日で最後だからと気を抜いてたんじゃないだろな?会社が給料を出している以上は働けよ!!」

完全に上司に主導権を取られてしまいました。

「この数カ月間、お前が引き留めた人数は?」

「ゼロです・・・」

「だよな。お前は何も成果を出していないんだよ!

成果を出していないからには、受話器を肌身離さず持っていなきゃいけないんだよ!

内定辞退者に片っ端から何度もかけろよ!!何度もかけたか?」

「いえ・・、1回断られたら諦めました」

「そんなんじゃダメなんだよ!」

「・・・」

「だから、お前はヘボい!ヘボすぎるんだよ!!」

「・・・泣」

「ヘボすぎるから、簡単には辞めさせないぞ!!!」

「・・・・!?」


最初は上司の正論攻めでしたが、結局最後は人格攻撃で終わりました。

最後は惨めさと情けなさで、あふれる涙を抑えられませんでした。

最終日くらいはお互い笑顔で向き合い、

短い間ではあったけれどお世話になりましたとお礼をしたかったのですが、

それも叶いませんでした。



最終日も4時間に及ぶ長時間の説教。

東京から新幹線に乗れば、広島に着いてしまいますね(笑)


こうして、我が人生で最初の会社生活は幕を閉じました。

もしかしてこの上司はヒマなのでは?

私が退職願を出してからも、連日のように上司から説教は続きました。

内定辞退者を引き留めることができていないことを報告すると、

「なぜ今日もゼロなんだ?引き留めたいという気持ちを伝えろ!」

「すぐに諦めるな!お前はメンタルが弱いから上手くデキないんだ!」

と大声で叱責を受けます。

しかし、その中身は何も具体策のない精神論か人格否定ばかり・・・

これが毎日2〜3時間続きました。



そんなある日、私はあることに気づいてしまいました。

私に説教をしている何時間もの間、この上司は何も仕事をしていないことを。

もし忙しかったら、こんなしょーもない説教を5分たりともしているヒマはないはず。

「もしかして、この人ヒマなのでは??」



それ以降、説教は私の耳に入ってこなくなりました。

2023年11月09日

鬼上司から予想外の反応が

私は辞職願を出し、10月いっぱいで退職させてほしいと上司に伝えました。

すると、別室に来るように上司から促されました。

「なぜ辞めるんだ?」といつになく落ち着いたトーンで聞かれました。

「もともと技術者になりたいという思いがあり、自動車メーカーに転職したいからです」と答えました。


すると予想だにしない発言が上司から飛び出したのです。

「ここの会社で起業するノウハウを勉強して、自分で自動車メーカーを立ち上げればいいのでは?」

私は自動車の開発をしたくてメーカーに転職したいと言っているのに、

莫大な設備投資が必要な自動車メーカーを自分が起業すればいいという上司の言葉に、

この上司とは折り合えることは絶対にないと確信したのです。


「自動車メーカーを起業するには莫大なお金がかかりますし、

私は自動車開発の技術を身に着けたいので、この会社を辞めさせていただきます」

きっぱり断りました。

いつもは上司に何時間も説教され、何も反論できないこの私でしたが、

この時は上司に反論できたことに自分でも驚きました。


上司に退職願を突き出すこと。

それは私が唯一手にした武器だったのです。

2023年11月04日

親の一言で早期退職を決意した

当時私は朝6時半に自宅を出て、午前0時過ぎに帰宅する毎日でした。

母は朝食の準備をするために私より早く起床し、

夜は私が帰宅するまで起きて待っていてくれました。

そして私の遅い晩ご飯の片づけをしてくれるのです。


私が連日職場で上司から激しい叱責を長時間受けていることは伝えていました。

そしてある日、父親からこう言われたのです。

「もう会社辞めろ」

理由を尋ねると、母の体力が限界だというのです。

母は私の出勤よりも早く起き、夜遅くに帰宅するのを待ってくれていました。

そうか・・自分のことで精いっぱいだったけど、家族にも負担をかけていたとは・・

この時はじめて気づきました。


そして身体にじんましんができるほど私がストレスを抱えていることも、

親としては心配だったようです。

家族に心配を掛けてまで働く会社ではない・・


意を決して上司に辞職願を出しました。


2004年10月半ばのことです。

2023年08月30日

ある日じんましんが全身に・・

いよいよ壮絶なプレッシャーと闘う毎日となりました。

内定辞退者を何人引き留めたのか、上司に毎夕報告することになったのです。

ゼロのままだと罵倒され、深夜までの残業が確定するのです。

(もっとも、光〇信は超絶ブラック企業ですので、

残業代も時給に換算すると700円くらいです)


どれだけ電話しても、心変わりするような辞退者は1人もいません。

もはや絶望しかありません。

毎日100人の前で公開処刑です。


好意を持っていた女性社員の前で罵倒されるという屈辱、そして恥ずかしさ・・・

この苦しい気持ちが分かりますか?


こんな毎日を繰り返すうち、身体に異変が現れました。

全身じんましんだらけになったのです。

2023年08月28日

京葉線の通勤快速で失神

社会人1年目の2004年。

月収わずか15万円のために、朝6時半に自宅を出て、

深夜0時過ぎに帰宅する毎日でした。


当時勤めていた光〇信は、交通費を全額は出してくれません。

当時、千葉市から池袋まで通勤していた私は、

月に1万数千円は自己負担して通勤定期を購入していたのです。

薄給な上に交通費も一部とはいえ自己負担なんて、まさにブラック企業ですよね。


当時、朝の京葉線には、蘇我を出ると東京駅までノンストップの通勤快速が存在し、

私はこれに乗って毎朝通勤していました。

停車駅が少なく速いから便利かと思っていたのですが・・・


これがとにかく混みます。激混みなんです。

東京駅までの所要時間が短いので、通勤客が殺到するのです。

もうすし詰め状態でした。

連日の激務で睡眠不足の私には、これが過酷でして・・。

始発駅から乗らない限り座席に座れませんので、

ずっと立ちっぱなしです。

ノンストップ区間で気分が悪くなっても、途中で降りることができません。

当たり前のことですが。


ある日、そのノンストップ区間で気分が悪くなり、吐き気がしてきました。

今すぐ戻したくなるほどの・・

しかし、すし詰め電車で身動きが取れません。

網棚に乗せた通勤かばんを取って、ドア付近に何とか移動しようとしたのですが・・


網棚に手を伸ばしても、かばんが取れないのです。

視界が狭まって遠近感が狂ってしまったようです。

何回もトライしても、かばんに手が届きません。

そしてそれからの記憶が残っておらず、気が付いたときは

かばんを抱えてドア付近でうずくまっていたのです。

今思うと、貧血状態になって一瞬気を失っていたのかもしれませんね。


そのうちに気分が落ち着いてきました。

こうして電車の中でゲロをするという

人生最悪の事態を回避することができました。


いやあ、それにしても首都圏の通勤ラッシュは過酷でした・・・