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福井ケンシロウ
1978年生まれ、岐阜県在住です。コミュニケーションや同時並行作業をすることが苦手な性格です。これまで苦節に満ちた人生でした。浪人、留年、借金苦、詐欺・通り魔被害、ブラック企業就職、早期離職、ニート、転職先でパワハラ被害、うつ病で休職・・人生に失望し続けました。しかし、2018年40歳の年に大企業への転職を果たし、ようやく自分の居場所を見つけることができました。
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2022年08月26日

日給1.2万のバイトのために往復3千円の交通費

再びバイト求人誌フロム・エーを読みあさりました。

今度はトラックの荷卸しの仕事を見つけました。

夜勤となりますが、日給1.2万円(時給1,000円)でした。

勤務先は、東京都江東区の佐川急便。

自宅から電車で往復3時間、往復3,000円近くかかります。

それでも日銭が欲しい私は、池袋まで面接に行きました。

そして採用が決まり、バイト開始日を指定されました。

2002年3月1日夕方6時とのことでした。

2022年08月25日

渋谷のビル屋上で交通誘導員の研修を受ける

子どもたちとの向き合い方の難しさを痛感し、

塾講師のバイトを辞めました。


それに代わるアルバイトを探すことにしました。

2002年2月、大学3年(1回目)の春休みです。

コンビニでバイト求人誌フロム・エーを開き、

交通誘導員のアルバイトがあることを知りました。

日給は1万円ほどです。


早速、面接を受け、誘導員になるための研修を受けることになりました。

確か10時間ほどだったでしょうか。

2日にわたって受けたと記憶しています。

座学と実技研修です。


受けているうちに、冷静に交通整理などできるのか、

悪天候や猛暑の中でも屋外に立ち続ける過酷さに耐えられるのか、

ヘルメットをかぶり、誘導棒を持ち、警備員の制服を着て、笛を首からぶら下げた格好で

渋谷駅近くのビル屋上で実技研修を受けながら不安になってきました。


講師の指導も非常に厳しいものがありました。

誘導の手順が教わった通りにできないと、遠慮なく罵声を浴びました。

研修生は中年の方々が多かったのですが、

叱責に耐え切れず途中で泣き出すおばさんもいました。


交通の秩序を守るためにはこんなにも厳しい訓練を受けなければいけないのかと、

軽い気持ちで応募した自分には勤まらないことを自覚しました。


そのバイトはしないことに決め、他のバイトを探すことにしました。

2022年08月24日

ペンケースは返ってきたが塾講師は続かず

後日、教壇の上に私のペンケースが置いてありました。

親御さんに電話で依頼した甲斐あって、

3人の生徒のうち誰かが返してくれたのです。


結局、名乗り出る子はおらず、犯人は分かりませんでした。

それ以上責める気もありませんでした。

しかし、この件でわだかまりができてしまいました。

子どもたちに疑いの気持ちを抱きながら、

授業に専念することが難しくなったからです。

講師のバイトは始めてわずか4ヶ月となる

2002年2月いっぱいで辞めることにしました。


しかし、今思えば、彼らはまだ小学生。

それなのに中学受験の重圧に晒され、

気を紛らわすために私の授業で騒いでしまったのかも知れませんね。

果たしてあそこまで怒る必要があったのか。

当時の私はまだ未熟で、そんなことすら想像できなかったのです。

2022年08月23日

小学生の生徒から嫌がらせを受ける

ヘッドロック事件の後、しばらく小学6年クラスの子たちは静かになりました。

あの件で、さすがに懲りたのかなと胸をなで下ろしました。

しかし、ある日のことです。

授業が終わった後、講師控室に戻ろうとしたときに

私のペンケースがなくなっていることに気づきました。

教室中を見渡しましたが見つかりません。


おかしい・・授業中にはあったのに・・

あの子たちの誰かが隠したに違いない・・


塾長に事情を話し、生徒たちの名簿を貸りて連絡先を調べました。

そして既に帰宅している子たちの自宅に電話をかけました。


まず親御さんが出ました。

電話を掛けた事情を話すと、「うちの子を疑っているんですか?!」と

憤慨する父親もいました。

なんで怒られなきゃならんのだろう・・悲しいのはこちらなのに・・

やるせない気持ちになりました。


でも恐らくはヘッドロックをかけた子の仕返しによるものだと思いました。

その子は電話に出ず、親御さんにはもし隠していたら返すよう伝達をお願いしました。

2022年08月21日

小学生の生徒に手を上げてしまう

塾講師のバイトを始めて2ヶ月が経ちました。

2001年12月頃のことです。

担当していた小学6年のクラスの生徒は3人でした。

全員男子です。

少人数クラスのため、講師である私とも打ち解けるのが早いのは良かったのですが、

だんだん授業中のおしゃべりが酷くなってきました。

特に1人の子がやんちゃで静止しても言うことを聞いてくれません。

何度も何度も注意しましたが、静かにならず、授業が進みません。


ついに講師である私はキレました。

その子にヘッドロックをお見舞いしたのです。

軽く力を入れた程度でしたが、「キマッて」しまったらしく

その子は身動きが取れない状態でした。

そして私が力を抜くと、その子は大泣きしてしまいました。

他の子が、塾長のところに行ってこの件をチクると言ってきました。

大事になるのを恐れた私は、それはやめてくれと懇願したのでした・・

2022年08月20日

塾講師のバイトを始める

学業に専念するため何もバイトをしない生活を始めましたが、

毎月5万円の奨学金だけでは生活が成り立たないことが分かってきました。

交友費、食費、電話代、通学定期代など合わせると5万円を超えてしまいます。

そこで、大学の先輩からの紹介で塾講師のバイトを始めることにしました。

シフトは週2日、1日2コマ、時給は2,000円。

対象は小学5年〜中学3年生でした。

小学生には国語と算数、中学生には社会の科目を教えることになりました。

2022年08月19日

預金残高が100円を切る

パチンコ屋の高給バイトを辞めて4ヶ月が経ちました。

2001年10月頃です。


この頃、生活は困窮を極めるようになりました。

毎月奨学金を5万円借りておりましたが、

友人との交友費や食費やらであっという間に消えていきます。

アルバイトは何もしていなかったため収入は他にありません。

パチンコ屋のバイト代の貯金も底をついてしまったのです。

奨学金が入金される日の数日前、振込先に指定していた

さくら銀行(現在の三井住友銀行)の預金残高が、ついになくなりました。

100円くらいだったでしょうか。

耐えきれず母に連絡を入れました。

「1,000円振り込んでほしい」と。

留年が決まっていた手前、それ以上の額を要求することは躊躇いました。

振り込んだとの連絡が母からあり、一目散にATMに向かいました。

ところが引き出せません。

口座には1,000円が入っているのですが、引出し手数料の分まで入っていないため

引き出せなかったのです・・・

こうして、奨学金が入金される前日は、水を飲んで凌ぐしかありませんでした。


朝晩は冷え込むようになり、秋の深まりを感じる2001年10月のことでした。

2022年08月18日

世界は一人の男に恐怖を覚えた

高給のバイトを辞め、小遣いを得る手段がなくなりました。

2001年大学3年の夏休みは、何もすることなく実家でゴロゴロする怠惰な毎日でした。

そんなある日の夜、22時過ぎのことです。

いつもどおりテレビを観ていました。

関東地方を通過した台風の被害を伝えるニュースでした。

そして途中で速報が入りました。

ニューヨークのビルに航空機が衝突したとのこと。

世界貿易センタービルという有名な超高層ビルにです。

こんな事故珍しいなと思っているうちに、

別の航空機が別のビルに突っ込んだとの情報が・・

それを聞いた母が、「テロだ・・」と呟いたのを憶えています。


衝突の第1報から20分くらい経った頃でしょうか・・

ビルが崩落したとの情報が入りました。

立ち込める猛煙の中を逃げ惑う人たち、

取り残された人々を助けるためにビルに向かった消防士たちの運命は・・


久米宏や筑紫哲也のニュースを翌日未明まで食い入るように観ました。

2001年9月11日火曜は生涯忘れられない一日となりました。


この衝撃的な事件は、ビンラディンという一人の男が企てた犯行であることを

世界は間もなく知ることとなったのです。

2022年08月06日

2001年夏 高給なバイトを辞めた

留年した原因は、バイトが週4日で深夜までの勤務となり

夜型の生活になってしまい、朝起きれず大学に行かなくなったためでした。

月10万円のバイト代欲しさのあまり、学業を疎かにし

年額120万円の学費が留年でもう1年分加算されるのです。

これにより就職も1年遅れます。

生涯収入が百万円単位で失われたのです。

本当向こう見ずで人生を送ってました。


学業に専念すべく、パチンコ屋のバイトを辞めることにしました。

2001年6月末のことでした。