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福井ケンシロウ
1978年生まれ、岐阜県在住です。コミュニケーションや同時並行作業をすることが苦手な性格です。これまで苦節に満ちた人生でした。浪人、留年、借金苦、詐欺・通り魔被害、ブラック企業就職、早期離職、ニート、転職先でパワハラ被害、うつ病で休職・・人生に失望し続けました。しかし、2018年40歳の年に大企業への転職を果たし、ようやく自分の居場所を見つけることができました。
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2022年04月02日

浪人はつらいよ〜18の春編〜

何とか高校を卒業しました。

東北大学は案の定不合格となり、浪人生活が始まりました。

お金を節約するため、予備校には通わず、宅浪することにしました。

そして、志望大学は東大を諦め、京大に変更しました。

自室の机の上には、現役の頃から溜まっている

Z会の通信添削の答案用紙が積り重なっていました。

心入れ替え、この処理から取り組むことにしました。

「さあ!2次関数から勉強し直すぞ!」

はりきりまくる18の春でした。








浪人はつらいよ〜ゲーセンに入り浸る編〜

ゲーム操作のコツを覚え、

勝てる試合が多くなってきました。

対戦型ゲームなので相手は知り合いとは限りません。

知らない人と戦うことが多々あります。

どの人も欧州の強豪国を使います。

イングランド、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアなどです。


それに対して私は韓国。

アジアの国を使うのは私ぐらいでした。

そんな私が強豪国を使う人たちを次々に撃破していくのです。

相手からすれば、「強い国を使ったのに韓国に負けた・・」という

屈辱を味わうことになります。


このゲーム機に集まる人たちにそんな屈辱を与えるのが快感でした。

調子が良いと10連勝くらいはできるようになりました。

楽しくて仕方ありません。


朝、予備校の自習室に勉強道具を置き席を確保し、

そのままゲーセンに直行。

夕方まで遊び通して、それから自習室に戻るという日課になりました。


ゲーセンで遊び終わって、予備校に戻る時の憂鬱さは果てしなく重いものでした。











浪人はつらいよ〜浪人生になっても・・編〜

宅浪生活が始まりました。

自宅で一日中過ごす日々が始まりました。

予備校通いのように、通学に時間をかける必要もないですし、

高額な授業料を払う必要もありません。

あらゆる時間を勉強に注ぎ込めるので

受験勉強がどんどんはかどるだろうと思っていました。


しかし、高校時代に全く勉強をしてこなかった人間が

突然変異のごとく勉強をするわけでもなく・・

毎日起きるのは昼前。

朝食?を食べながら、「笑っていいとも!」を観てから

数学の初歩である2次関数の問題をちょこちょこ解く程度・・

自分の部屋には、勉強を邪魔する誘惑で溢れかえっています。

ラジオや本、そしてベッド。


旺盛な年頃ですから、エッ○な気分にもなります。

机には向かうものの30分と持たず、数時間ダラダラ過ごしては

また少し机に向かうという繰り返しでした。

外出はしないので疲労はなく、夜は眠れずラジオの深夜番組を聴く毎日。


こんな毎日でしたので、7月の時点でも

英語は単語帳をかじる程度、数学は2次関数の途中、物理は力学の自由落下のところを

ウロウロしている状況でした。


浪人生活がスタートした頃の張り切った自分はどこにいったのか?

サボり癖が復活し、憂鬱な宅浪生活になっていました。










【衝撃】内定先から提示された年収を公開!

当時の勤務先で仕事をしながら、転職活動を始めました。

そして、わずか3ヶ月余りで第1志望の企業から内定を頂きました。


全国的にはそれほど有名ではありませんが、

一部上場企業です。


内定の連絡を受けた際に、年収額を提示されました。

その金額にビックリしました!


なんと!いきなり800万円からのスタートなんです!!


しかも、管理職ではなく「平社員」としての登用で、です。

現職より一気に200万円も年収がアップしました。

大企業の給与水準の高さを見せつけられました。


なぜ、実績もスキルもないこの私が、こんな転職をすることができたのか?

これからそのノウハウを当時の資料を交え、公開していきたいと思います。








絶望の東北大入試

10日間のボランティア活動から帰ってくると、

もう2月半ばになっていました。

いよいよ2次試験です。

もう現役合格は諦めていましたので、

何も勉強することはありませんでした。


そして入試当日。

問題用紙をめくると、見たこともない問題ばかり・・

周りの人たちは必死に問題用紙に向き合い、

カリカリと鉛筆で解答を書きこむ音が聞こえてきます。

しかし、私は全く歯が立たず、

開始10分で突っ伏して寝るしかありませんでした。



こうして、現役での受験は終わりました。








衝撃のセンター試験結果

開始10分で何もすることがなくなり

居眠りせざるを得なかったセンター試験。

2日間の日程を終えました。

翌日、登校し自己採点をしました。


なんと、439点

校内平均は670点。

全国平均でも600点なのに、この結果です・・

校内平均を230点、全国平均を160点も下回ってしまいました。


私は全く歯が立たなかった問題ばかりでしたが、

周りの友人たちは「今年は簡単だった。これでは差がつかない」とのコメント。

自分の点数はとても恥ずかしくて誰にも教えられませんでした。


これでは、東大では足切りを食らうため受験できません。

東大現役合格はこの時点で諦めました。

そして地元の東北大学を受験することにしました。

「受かっても行く気はないけどな、仕方なく受けてやるか」という気持ちです。


しかし、このセンター試験の結果では、

2次試験で満点近く取らなければ合格は厳しい状況。

私は、地元大学ということでナメきってたのです。









寝るしかなかったセンター試験本番・・・

1997年1月。

大学入試センター試験を受験しました。

私が通っていた仙台二高は毎年、センター試験の会場となります。

そのおかげで普段通りの気持ちで受験することができます。


周りのみんなは必死の形相で、本番開始直前まで参考書とにらめっこしてます。

もう半年以上も受験対策を何もしていない私は、それを冷めた目で見ていました。

「そんなに頑張る価値はあるのか?」

「いい大学に入ったところで将来が保証されるのか?」


問題用紙が配られました。

そして開始の合図があり、みんな一斉に問題用紙に向き合います。

見たこともない問題ばかりです・・・。

幸いなことに、センター試験はマーク式ですので、

白紙で出すという敗北感は味わずに済みます。

私は一通り、マークシートを塗り絵感覚で塗りつぶしました。

しかし、開始10分で何もすることがなくなりました。

英語は試験時間が120分ですので、残り100分ほどの間は

ずっと座って待機を余儀なくされます。

周りからは一生懸命問題を解く音が聞こえてきます。

なのに、自分は何もすることがない・・。

不正行為を疑われるので、外の景色を眺めたり退室することもできない。

120分もの時間が与えられる試験なのに全く歯が立たず、

10分も持たない自分の学力・・

東大目指して県内トップ進学校に入ったが、

高校3年間でこの程度の実力しか身につかなかった現実・・

悲しくなるばかりでした。

打ちひしがれて机に突っ伏して目をつむり、

いつの間にか寝てしまいました。

周りの人たちには衝撃的な光景だったかもしれません。


というわけで、センター試験はマークシートを塗りつぶし、

暇を持て余して寝るしかありませんでした。











高3の2学期がスタート

何もする気もなく、ただ時間が過ぎるのを待つだけの

苦痛に満ちた高校最後の夏休みが終わりました。

そして、2学期が始まり実力テストがありました。

夏休みの受験勉強の成果を出す機会です。

出された問題は、どれもチンプンカンプンでした。

受験生なのに机に向かう生活をずっとしていなかったため、

文字を読むことすら久しぶりの感覚でした。

なんと、物理は4点でした・・・

物理の先生が、答案用紙を全員に返した後、こう言いました。

「今回のテストで4点だった人がいる。

私は教員生活40年になるが、こんな点数を見たのは初めてだ。

とてもショックだ・・」

とても落胆していました。

当の本人である私は、

テストで良い点を取って何か良いことがあるのか?

受験勉強をして何が得られるのか?

いい大学に入って何か良いことがあるのか?

どうせ死ぬのになぜ頑張らなければならないのか?

と、もはや自暴自棄になっていたのでさしてショックは感じませんでした。








類は友を呼ぶ

文化祭実行委員の部屋には、

私と同じように五輪サッカーに熱狂した者、

受験勉強から逃出した者がいましたし、

まだ受験まで時間的に余裕のある2年生のメンバーもいました。


そのメンバーたちと、部屋に置いてあるパソコンゲームをしたり、

屋上でキャッチボールをしたり、繁華街の焼肉屋に繰り出したりしました。

居酒屋で宴会をしたこともありました。

煙草にも手を出しました。

居酒屋で荒れて、後輩が私の自宅に連絡を入れたこともありました。

さすがにこの時ばかりは、オヤジに雷が落ちましたね。


しかし、3年生の夏休みに受験勉強に取り組むことは

ついにありませんでした。








SNSがない時代の共有手段

当時は今のようにツイッターやブログなどSNSはおろか

当時は携帯電話をほとんどの人が持っていない時代でした。

(ポケベルを持ち始めた人がちらほら出てきた程度です)

好きな女の子に電話をかける場合、相手方の自宅にかけざるを得ず

向こうのお父様が電話に出てきて、気まずい思いをするという時代でした。


日本代表がブラジルを撃破した喜びを、みんなで分かち合いたい!

この気持ちを共有するには、夏休み中の学校に行くしかありませんでした。

学校に行き、去年在籍していた文化祭実行委員会の部屋に行くと・・

受験勉強に嫌気が差し、暇を持て余しているメンバーが数人いました。