2016年05月27日
銀次が今季初めての7番スタメンで逆転V打!
ファンがチームを後押しし、10連敗を免れた。楽天が最下位という中、本拠地コボスタの 観客数が26,786人と過去最高を記録したというのだから驚きだ。ファンが待ちに待っていた本当にひさびさの勝利。現地観戦していたファンの喜びようが手に取るようだ。
試合前まで打率2割4分2厘と打撃不振の銀次。1点を追う6回2死一、二塁。2ボール2ストライクから、2番手・谷元の低めフォークに食らいついた。打球は中堅・陽岱鋼、左翼・西川の前にポトリと落ちる一打に。打球処理にもたつく間に、一塁走者・中川も生還する2点二塁打となった。
楽天、Koboスタ宮城で球団史上最多2万6786人動員 大観衆の前で連敗脱出
Full-Count 5月27日(金)21時57分配信
【スポニチ】10連敗阻止 V打の銀次、巻き返し誓う「9連勝目指して頑張る」
楽天 連敗は9でストップ 銀次執念打で逆転勝ち、松井裕締めた
スポニチアネックス 5月27日(金)21時13分配信
【楽天】11年ぶり10連敗免れた!銀次逆転V打
スポーツ報知 5月27日(金)21時24分配信
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銀次とは ≪出典≫ウィキペディア
出身地 岩手県下閉伊郡普代村
生年月日 1988年2月24日
身長174 cm
体重78 kg
右投左打
プロ入り 2005年 高校生ドラフト3巡目
(経歴)
小学校2年生まで岩手県久慈市に住んでいたが、祖父の住む同県普代村に引っ越すとその祖父の影響で野球を始めた。普代小3年時に「普代村野球スポーツ少年団」に入団する。5年生時に捕手となり、6年生時に東北大会で準優勝。5・6年生時は祖父が同チームの監督を務めた。普代中学3年生時にKボール全国大会へ岩手選抜の一員として出場。
盛岡中央高校では1年生時から左翼手としてレギュラー出場。その後三塁手を経て、2年夏から捕手に転向する。2年の秋季東北大会において8打席連続安打、12打席連続出塁を記録、チームはベスト8まで進出した。3年夏の岩手県大会では、打率.750(24打数18安打)を記録。県決勝戦では4打数4安打を記録するも敗退し、甲子園出場はならなかった。高校通算24本塁打。2005年の高校生ドラフト会議で、地元球団である東北楽天ゴールデンイーグルスから3巡目指名を受け、入団。背番号は「67」。
プロ入り後
2006年 - 2009年
プロ1年目の2006年は二軍戦に主に代打で出場した。フェニックスリーグでは打率.433(30打数13安打)を記録し、二軍監督の松井優典から「フェニックスリーグでの一番の収穫は銀次の才能を発掘できたこと」とのコメントをもらう。
2007年・2008年
二軍で2年連続で打率3割を記録。2007年のフェニックスリーグでも16安打10打点、チームトップの打率.444を記録した。捕手だけではなく三塁手・外野手としても起用された。
2009年
初めて春季キャンプで一軍スタートし、オープン戦の序盤まで一軍に帯同していた。しかし、リードに厳しい監督の野村克也からの評価を得られず、二軍落ちとなった。二軍戦では53試合出場、打率.281(146打数41安打)。
同年の秋季キャンプで内野手へコンバートされた。
2010年
2年連続で春季キャンプ一軍スタートを切ったが、またしても開幕一軍入りはならなかった。二軍では打撃好調で高須洋介の離脱もあり6月29日に初の一軍登録と、その日の試合で初の先発出場を果たす。7月1日のオリックス・バファローズ戦でプロ初安打を放つが、高須の復帰と共に二軍落ち。フレッシュオールスターゲームに選出されるも怪我の影響で辞退した。離脱期間が長く規定打席不足ながら、打率.367と一時はイースタン・リーグ首位打者の座に立ち、飛躍の一年となった。
2011年
初の開幕一軍入りを果たすも、4月後半に二軍降格。二軍では高打率を維持し打率.345を記録したが、一軍に呼ばれる機会が前年より増えたために規定打席には到達しなかった。しかし例外規定を適用しても、規定打席を満たした打率1位の雄平(ヤクルト)の.330を上回るため、初のイースタン首位打者に輝いた。
一軍では9月から不振に陥った山崎武司に代わり一塁手としてスタメンで出場する機会が増加。主に6・7番を打ち、10月5日の北海道日本ハムファイターズ戦ではダルビッシュ有からタイムリーを放ち、プロ初打点を記録。最終的に22試合に出場して打率.222の成績を残した。シーズンオフ、背番号が「33」に変更された。
2012年
前年続き開幕一軍を果たす。正二塁手だった内村賢介の不振もあり、5月の半ばより二塁手としてレギュラーに定着。前半戦は打順は主に2番で、後半戦からは3番や5番で三塁手での起用が多くなる。6月27日の日本ハム戦では多田野数人からプロ初本塁打を放った。シーズンを通して大きく調子を落とすことなく、規定打席に初めて到達し、チームトップの打率.280、チーム2位の121安打を放った。一方で、後述するような守備走塁のミスも見られた。
シーズン終了後の11月22日(いい夫婦の日)に5歳年上のメイクアップアーティストの女性と入籍した。契約更改では前年の約3倍となる2200万円でサインした。
2013年
新加入のケーシー・マギーが三塁手に定着し、一塁手として開幕を迎える。序盤は調子が上がらずスタメン外れることも多く、セ・パ交流戦は普段は指名打者のアンドリュー・ジョーンズがファーストに回るため代打のみの出場になるが、代打で6打数5安打と結果を残し、交流戦明けからは「3番・一塁手」に定着する。7月26日には打率.343となり一時首位打者に浮上。最終的に自身初となる打率3割(.317、リーグ4位)を記録し、球団初のリーグ優勝・日本一に貢献。読売ジャイアンツとの日本シリーズではチームトップタイの5打点を記録し、優秀選手賞に選ばれた。
11月には、台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された。
私生活では、6月12日に第1子となる長男が誕生した。
2014年
メジャーリーグ復帰のマギーに代わって入団したケビン・ユーキリスがファーストを守る関係で、春季キャンプから再び三塁手に転向した。ユーキリスが公式戦開幕後の4月下旬に故障で戦線を離脱してからは、再びファーストを守るようになったが、自身も腰痛を発症したため5月24日に出場選手登録を抹消。抹消後に患部の精密検査を受けたところ、第2腰椎横突起骨挫傷と診断された。
6月19日の広島東洋カープ戦から一軍に復帰。7月10日には、オールスターゲームのファン投票および選手間投票でパシフィック・リーグ三塁手部門の1位だった松田宣浩(ソフトバンク)が故障で出場を辞退したことを受けて、松田の補充選手として同ゲームに初めて選出された。シーズン終盤は糸井嘉男(オリックス)と首位打者争いを繰り広げ、最終的に打率リーグの2位の.327を記録。
オフの10月9日に、日米野球2014の日本代表に選出された事が発表された]。
2015年
開幕前の2月16日に、「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出されたことが発表された。3月11日の第2戦に「6番 三塁手」で先発出場し、3打数1安打で1打点を記録している。
シーズンでは「銀次デー」と銘打たれた4月12日のオリックス戦では佐藤達也からプロ入り初のサヨナラヒットを記録。3割をキープし、好調だったが、5月23日の埼玉西武ライオンズ戦での本塁でのクロスプレーの際に左足を負傷し、翌日出場登録を抹消された。打撲と診断されたが、その後左腓骨の不全骨折と判明。復帰が大幅にずれ込んだ。ようやく8月18日に復帰し、規定打席には届かなかったが、打率は3割をマークした。
また、7月16日に第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出されたことが発表され、9月10日に第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出されたことが発表されたが、最終ロースター28名に選出されず代表入りはならなかった。
2016年
開幕前の3月2日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表に追加登録されたことが発表された。
(選手としての特徴)
アマチュア時代からプロ入りまでは捕手だったが、打撃を活かすために2009年の秋季キャンプから内野手にコンバートされた。内角球をわざと詰まらせてレフト前に落とす打撃技術をもち、2012年には左投手相手に右投手相手を上回る打率.282を記録するなど、左打者ながら左投手を苦にしない。空振りが少なく、早打ちの傾向があり、三振・四球ともに少ない。2014年には両リーグトップの2ストライク打率.298を記録するなど追い込まれても苦にしない。
一方、守備・走塁面では凡ミスを犯すなど課題も残す。特に守備は元捕手ということもあり、2012年に二塁手のレギュラーを獲得した頃には、試合終盤で守備固めを送られるケースも多かった。2013年からは主に一塁手・三塁手としてプレーしている。2013年は一塁手、2014年は三塁手としてUZRでプラスを記録した。走塁面では飛球の判断が悪く、2012年には飛び出して併殺を取られるケースがしばしば見られた。
(人物)
野球を始めたきっかけは、野球好きの祖父の影響。野球を始めた当時は右打ちであったが、左打ちに変更したのも祖父の指導による。
指名当時の本名は宇部 銀次(うべ ぎんじ)であったが、母親の再婚により名字が赤見内(あかみない)に変更になった。
2013年に産まれた長男の名前は虎次郎(とらじろう)。銀次の応援タオルや選手デーの応援ボードはこの名前にちなんだ虎柄となっている]。
チームメイトの枡田慎太郎とは同期入団・同い年ということで親交が深く、二人でカラオケに通う、家に遊びに行く等プライベートでも付き合いが多い。2012年の春季キャンプは阿部俊人と3人で「どろんこ3兄弟」と呼ばれた。
非常に負けん気が強く、楽天監督を務めた星野仙一にも評価されている。打撃力を買われ、守備のまずさを我慢して起用され結果を残したことから「星野チルドレン」とも呼ばれた。
2013年には、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の主なロケ地が岩手県久慈市である縁から、7月末に楽天球団を通じて「まだまだあまちゃんですが…」(職歴が浅いながらも仕事を極めるべく奮闘している人を一般から公募した上で、職業・氏名とともに毎回1名ずつ写真で紹介するエンディングのミニコーナー)へ応募。9月16日(敬老の日)放送の同コーナーにおいて、楽天のホームゲームで左打席から打球を放った瞬間の写真が「プロ野球選手 宮城県仙台市 銀次さん」のキャプションで紹介された。
東日本大震災の被災者支援を目的とした、2013年12月に行われた日本プロサッカー選手会主催のチャリティーサッカー大会では試合前のキックインを努めた他、試合にも小笠原満男のユニホームを着て飛び入り参加し、PKを決めるなど活躍した。2014年も同大会に参加したが、この時はハットトリックを達成している。
試合前まで打率2割4分2厘と打撃不振の銀次。1点を追う6回2死一、二塁。2ボール2ストライクから、2番手・谷元の低めフォークに食らいついた。打球は中堅・陽岱鋼、左翼・西川の前にポトリと落ちる一打に。打球処理にもたつく間に、一塁走者・中川も生還する2点二塁打となった。
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Full-Count 5月27日(金)21時57分配信
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スポーツ報知 5月27日(金)21時24分配信
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銀次とは ≪出典≫ウィキペディア
出身地 岩手県下閉伊郡普代村
生年月日 1988年2月24日
身長174 cm
体重78 kg
右投左打
プロ入り 2005年 高校生ドラフト3巡目
(経歴)
小学校2年生まで岩手県久慈市に住んでいたが、祖父の住む同県普代村に引っ越すとその祖父の影響で野球を始めた。普代小3年時に「普代村野球スポーツ少年団」に入団する。5年生時に捕手となり、6年生時に東北大会で準優勝。5・6年生時は祖父が同チームの監督を務めた。普代中学3年生時にKボール全国大会へ岩手選抜の一員として出場。
盛岡中央高校では1年生時から左翼手としてレギュラー出場。その後三塁手を経て、2年夏から捕手に転向する。2年の秋季東北大会において8打席連続安打、12打席連続出塁を記録、チームはベスト8まで進出した。3年夏の岩手県大会では、打率.750(24打数18安打)を記録。県決勝戦では4打数4安打を記録するも敗退し、甲子園出場はならなかった。高校通算24本塁打。2005年の高校生ドラフト会議で、地元球団である東北楽天ゴールデンイーグルスから3巡目指名を受け、入団。背番号は「67」。
プロ入り後
2006年 - 2009年
プロ1年目の2006年は二軍戦に主に代打で出場した。フェニックスリーグでは打率.433(30打数13安打)を記録し、二軍監督の松井優典から「フェニックスリーグでの一番の収穫は銀次の才能を発掘できたこと」とのコメントをもらう。
2007年・2008年
二軍で2年連続で打率3割を記録。2007年のフェニックスリーグでも16安打10打点、チームトップの打率.444を記録した。捕手だけではなく三塁手・外野手としても起用された。
2009年
初めて春季キャンプで一軍スタートし、オープン戦の序盤まで一軍に帯同していた。しかし、リードに厳しい監督の野村克也からの評価を得られず、二軍落ちとなった。二軍戦では53試合出場、打率.281(146打数41安打)。
同年の秋季キャンプで内野手へコンバートされた。
2010年
2年連続で春季キャンプ一軍スタートを切ったが、またしても開幕一軍入りはならなかった。二軍では打撃好調で高須洋介の離脱もあり6月29日に初の一軍登録と、その日の試合で初の先発出場を果たす。7月1日のオリックス・バファローズ戦でプロ初安打を放つが、高須の復帰と共に二軍落ち。フレッシュオールスターゲームに選出されるも怪我の影響で辞退した。離脱期間が長く規定打席不足ながら、打率.367と一時はイースタン・リーグ首位打者の座に立ち、飛躍の一年となった。
2011年
初の開幕一軍入りを果たすも、4月後半に二軍降格。二軍では高打率を維持し打率.345を記録したが、一軍に呼ばれる機会が前年より増えたために規定打席には到達しなかった。しかし例外規定を適用しても、規定打席を満たした打率1位の雄平(ヤクルト)の.330を上回るため、初のイースタン首位打者に輝いた。
一軍では9月から不振に陥った山崎武司に代わり一塁手としてスタメンで出場する機会が増加。主に6・7番を打ち、10月5日の北海道日本ハムファイターズ戦ではダルビッシュ有からタイムリーを放ち、プロ初打点を記録。最終的に22試合に出場して打率.222の成績を残した。シーズンオフ、背番号が「33」に変更された。
2012年
前年続き開幕一軍を果たす。正二塁手だった内村賢介の不振もあり、5月の半ばより二塁手としてレギュラーに定着。前半戦は打順は主に2番で、後半戦からは3番や5番で三塁手での起用が多くなる。6月27日の日本ハム戦では多田野数人からプロ初本塁打を放った。シーズンを通して大きく調子を落とすことなく、規定打席に初めて到達し、チームトップの打率.280、チーム2位の121安打を放った。一方で、後述するような守備走塁のミスも見られた。
シーズン終了後の11月22日(いい夫婦の日)に5歳年上のメイクアップアーティストの女性と入籍した。契約更改では前年の約3倍となる2200万円でサインした。
2013年
新加入のケーシー・マギーが三塁手に定着し、一塁手として開幕を迎える。序盤は調子が上がらずスタメン外れることも多く、セ・パ交流戦は普段は指名打者のアンドリュー・ジョーンズがファーストに回るため代打のみの出場になるが、代打で6打数5安打と結果を残し、交流戦明けからは「3番・一塁手」に定着する。7月26日には打率.343となり一時首位打者に浮上。最終的に自身初となる打率3割(.317、リーグ4位)を記録し、球団初のリーグ優勝・日本一に貢献。読売ジャイアンツとの日本シリーズではチームトップタイの5打点を記録し、優秀選手賞に選ばれた。
11月には、台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された。
私生活では、6月12日に第1子となる長男が誕生した。
2014年
メジャーリーグ復帰のマギーに代わって入団したケビン・ユーキリスがファーストを守る関係で、春季キャンプから再び三塁手に転向した。ユーキリスが公式戦開幕後の4月下旬に故障で戦線を離脱してからは、再びファーストを守るようになったが、自身も腰痛を発症したため5月24日に出場選手登録を抹消。抹消後に患部の精密検査を受けたところ、第2腰椎横突起骨挫傷と診断された。
6月19日の広島東洋カープ戦から一軍に復帰。7月10日には、オールスターゲームのファン投票および選手間投票でパシフィック・リーグ三塁手部門の1位だった松田宣浩(ソフトバンク)が故障で出場を辞退したことを受けて、松田の補充選手として同ゲームに初めて選出された。シーズン終盤は糸井嘉男(オリックス)と首位打者争いを繰り広げ、最終的に打率リーグの2位の.327を記録。
オフの10月9日に、日米野球2014の日本代表に選出された事が発表された]。
2015年
開幕前の2月16日に、「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出されたことが発表された。3月11日の第2戦に「6番 三塁手」で先発出場し、3打数1安打で1打点を記録している。
シーズンでは「銀次デー」と銘打たれた4月12日のオリックス戦では佐藤達也からプロ入り初のサヨナラヒットを記録。3割をキープし、好調だったが、5月23日の埼玉西武ライオンズ戦での本塁でのクロスプレーの際に左足を負傷し、翌日出場登録を抹消された。打撲と診断されたが、その後左腓骨の不全骨折と判明。復帰が大幅にずれ込んだ。ようやく8月18日に復帰し、規定打席には届かなかったが、打率は3割をマークした。
また、7月16日に第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出されたことが発表され、9月10日に第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出されたことが発表されたが、最終ロースター28名に選出されず代表入りはならなかった。
2016年
開幕前の3月2日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表に追加登録されたことが発表された。
(選手としての特徴)
アマチュア時代からプロ入りまでは捕手だったが、打撃を活かすために2009年の秋季キャンプから内野手にコンバートされた。内角球をわざと詰まらせてレフト前に落とす打撃技術をもち、2012年には左投手相手に右投手相手を上回る打率.282を記録するなど、左打者ながら左投手を苦にしない。空振りが少なく、早打ちの傾向があり、三振・四球ともに少ない。2014年には両リーグトップの2ストライク打率.298を記録するなど追い込まれても苦にしない。
一方、守備・走塁面では凡ミスを犯すなど課題も残す。特に守備は元捕手ということもあり、2012年に二塁手のレギュラーを獲得した頃には、試合終盤で守備固めを送られるケースも多かった。2013年からは主に一塁手・三塁手としてプレーしている。2013年は一塁手、2014年は三塁手としてUZRでプラスを記録した。走塁面では飛球の判断が悪く、2012年には飛び出して併殺を取られるケースがしばしば見られた。
(人物)
野球を始めたきっかけは、野球好きの祖父の影響。野球を始めた当時は右打ちであったが、左打ちに変更したのも祖父の指導による。
指名当時の本名は宇部 銀次(うべ ぎんじ)であったが、母親の再婚により名字が赤見内(あかみない)に変更になった。
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チームメイトの枡田慎太郎とは同期入団・同い年ということで親交が深く、二人でカラオケに通う、家に遊びに行く等プライベートでも付き合いが多い。2012年の春季キャンプは阿部俊人と3人で「どろんこ3兄弟」と呼ばれた。
非常に負けん気が強く、楽天監督を務めた星野仙一にも評価されている。打撃力を買われ、守備のまずさを我慢して起用され結果を残したことから「星野チルドレン」とも呼ばれた。
2013年には、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の主なロケ地が岩手県久慈市である縁から、7月末に楽天球団を通じて「まだまだあまちゃんですが…」(職歴が浅いながらも仕事を極めるべく奮闘している人を一般から公募した上で、職業・氏名とともに毎回1名ずつ写真で紹介するエンディングのミニコーナー)へ応募。9月16日(敬老の日)放送の同コーナーにおいて、楽天のホームゲームで左打席から打球を放った瞬間の写真が「プロ野球選手 宮城県仙台市 銀次さん」のキャプションで紹介された。
東日本大震災の被災者支援を目的とした、2013年12月に行われた日本プロサッカー選手会主催のチャリティーサッカー大会では試合前のキックインを努めた他、試合にも小笠原満男のユニホームを着て飛び入り参加し、PKを決めるなど活躍した。2014年も同大会に参加したが、この時はハットトリックを達成している。
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