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2021年01月07日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-2 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.2 


生むき、生意気、生・・・
生麦の地名には、この辺り一帯に麦畑が広がっていたという説と、生の貝をむく「生むき」が「生むぎ」に転じたという説がある。

麦畑だから生麦という説は、少しムギ…いやムリがある。あえて生にする理由がわからない。生麦村が海に面していたことから考えても、(貝の生むき)の方に説得力はある。

『新編武蔵風土記稿』には、面白い話が記されている。

江戸時代の初め、徳川二代将軍秀忠の行列が、この辺りを通った時、道がぬかるんでいて通行できなかった。すると、村人が機転をきかせ、街道脇の麦畑から生麦を刈り取って、水溜りに敷き、行列を無事に通過させたので,それに感謝した秀忠が、この一帯に生麦という地名を与えたというのだ。

江戸城に新鮮な魚貝類を献上するために、幕府は漁猟の優先的特権を与えた。羽田、大井、芝、品川などの「御菜八ヶ浦」である。その一つとして生麦村も指定を受け特権を与えられている。

貝の佃煮が名産で、道に白い貝殻が敷きつめられていたというから、たぶん、広がる麦畑と貝の「生むき」の二つを足して「生麦」としたのではないだろうか。

早い話、ダジャレである。

親父ギャグをフンッと鼻で笑う同僚の〇〇女史よりも、江戸時代の人の方がおおらかで、よほどユーモアとウィットに富んでいる。

ついでに話も飛んでしまうが、お許しを。

来年(2010年)の大河ドラマは、『篤姫』の二番煎じか、幕末が舞台の『龍馬伝』に決まった。さらにその次の年、平成二十三年(2011年)もすでに決まっている。

『江 〜姫たちの戦国〜』というタイトルだそうだ。

(え…?)

(え)ではない。「ごう」と読む。
近江国小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の方の間に生まれた、史上名高い『浅井三姉妹』の三女。江姫、もしくは小督(おごう)、江与(えよ)とも呼ばれる。淀君の妹で、のちに先述の徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・家光を生んだ。諡号は、崇源院(すうげんいん)。

現在のたまプラーザ、あざみ野(元石川、美しが丘、あざみ野などの旧石川村)や荏田村、王禅寺村、川和村は、崇源院の化粧料のために年貢を納めていた土地だということは、これまで何度も書いてきた。(王禅寺には「化粧面」という地名も残っている)

崇源院が亡くなったときは、こうした村々から棺をかつぐ人が集まったそうだ。そして、あざみ野4丁目にある満願寺には、秀忠と崇源院の位牌まで納められている。

これだけ濃密な関係なら、今度こそ、ドラマの最後にやっている○○紀行で採り上げてくれるだろう。「天地人」の上杉三郎は脇役だったが、今度は主役である。生意気なことを言わせてもらうと、これで採りあげなかったら、制作側の怠慢を疑わざるを得ない。(と、挑発してみる)

二代将軍・秀忠公の話題が出たことで横道に逸れてしまったが、この話はぜひ覚えておいてほしい。


甦る幕末
閑話休題。 麦畑が広がっていたからというわけではないが、生麦にはキリンビールの工場がある。

京浜急行「生麦」駅を降りて、商店街を国道15号(第一京浜)に向かって歩く。国道に出て信号を渡り、50mほどでビール工場に突きあたる。その工場の正門前の道が東海道である。

突き当りの角を左に曲がり、鶴見方面におよそ400m行くと、民家のフェンスに、「生麦事件発生現場」の説明板が貼ってある。

生麦マップ.jpg


男性三名、女性一名のイギリス人が、行列を乱したとの理由で薩摩藩士に襲われた現場がここだ。

女性は無傷だったが、男性三人は深手を負った。彼らは居留地のある横浜に向かって逃げた。追ってくるサムライの恐怖に怯えながら必死で馬を走らせた。

だが、瀕死の重傷を負っていた英国商人リチャードソンだけが、途中耐え切れず落馬した。

「もはや助かるまい」追って来た薩摩藩士・海江田信義はそう判断すると、介錯のつもりで止めを刺した。

二十代の頃、朝日新聞社が出した『甦る幕末〜ライデン大学写真コレクションより〜』という写真集を買った。今も手元にある。

2109rekisi-3.jpg


表紙カバーの写真は、幕末の生麦村。東海道の真ん中に三人のサムライがポーズを決め、カメラ目線で立っている。その後には茅葺き屋根の民家が並んでいて、その一軒、茶屋とおぼしき建物の葦簾(よしず)の陰から旅人が二人、顔を覗かせている。

民家に挟まれた東海道は、異様に狭い。この狭さで大名行列とすれ違おうというのは無理な話だ。なぜ四人は馬を下りなかったのだろう? 行列を見た瞬間に脇に寄せるのは当然だし、下馬して礼をとるのが、当時のこの国の法だ。現に、事件の直前に行列に出くわしたアメリカ人・ヴァン・リードは、馬を横道に入れ、脱帽し、膝をついて頭を下げている。

写真集には、生麦事件の関係者(といっても、外国人のみだが)と、リチャードソンの遺体も掲載されている。生麦を歩いてみて、改めてこれらの写真を見直すと、147年前の事件が、最近起こった殺人事件のように生々しく感じられる。

参考館にも、同じ写真が飾られていた。傍らのテレビでは、館長・浅海武夫さんの講演会のビデオが流されている。私も数年前に出演した「TVフォーラムかながわ」だ。

最初は立ったまま観ていたのだが、その面白さに惹きこまれ、立てかけてあった椅子を持ち出して見入っていた。

講談を聴いているような面白さ。いや、滔々とよどみなく語られるそれは講談を超えている。おかげで、見てきたように事件のあらましを知ることができた。

私費を投じて参考館を設立した浅海館長。その誠実な人柄と経歴にすっかり魅了されてしまった。館長の人となりを紹介したいが、その前に、便宜を図ってもらい取材させていただいた慰霊祭について触れよう。

 

生麦事件慰霊祭
8月21日金曜日、じりじりとした残暑の中、三々五々集まった参加者は、碑の前の歩道に張られたテントの中で記帳をすませると、慰霊碑の周りで時間が来るのを待っていた。

午後二時、顕彰会の代表の挨拶によって『生麦事件百四十七年記念祭』は幕を開けた。碑の入り口に掲げられた日の丸とイギリスのユニオン・ジャックの旗を背に、神主さんが粛々と式を進める。

祝詞の奏上がなされたあと、参加者が順に玉串をささげて祭壇に進み、異国の地で非業の死を遂げたイギリス人の霊を、それぞれの思いで慰める。

namamugi-ireisai.jpg



その様子をカメラに納めて、振り返ると、調所さんと目が合った。微かに頷く調所さん。その隣に紳士が二人立っている。

小柄だが、凛として隙のない物腰。薬丸自顕流・第十四代宗家の薬丸康夫さんだ。もう一人の髭を生やした恰幅のいい男性は鹿児島出身だという。あとで参考館の浅海館長から、海江田信義の末裔の方だとお聞きした。 

幕末の軍制改革で自顕流を復活させた調所広郷。その自顕流で、薩摩武士を幕末最強に仕立て上げた薬丸兼義。そして、兼義に自顕流を学び、生麦事件の当事者となった有村俊斎こと海江田武次信義。奇しくも、直接的間接的に、この生麦事件に関わった薩摩人の末裔が、この日、この現場で顔を合わせたのである。

2109rekisi-5.jpg
  

右から海江田信義の末裔の方、調所一郎氏、薬丸自顕流・第十四代宗家の薬丸康夫さん
 
             


絹の道をゆく-3 へ続く


この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次

2021年01月02日

真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-1 高丸コレクション 

■プロローグ Vol.1

横浜駅で京浜急行品川行き普通に乗り換え六つ目、生麦駅で下車する。東口を出て商店街を通り、第一京浜国道(15号)に出る一つ手前の路地を右折した四軒目に『生麦事件参考館』がある。

自宅を改良して造られた私設の資料館の門を入り、チャイムを押した。

あれ?「絹の道をゆく」というタイトルなのに、なぜいきなり横浜の生麦なの?

期待されてた方には申し訳ない。 その答えは、半月ほど前にさかのぼるのである。

薬丸自顕流と調所廣郷
携帯の着メロが鳴った。最近設定し直した大河ドラマ『篤姫』の挿入曲「正鵠」。フラメンコギターの音色が喫茶店に響き渡る

「ごぶさたしています。調所です」

慌てて携帯を取ると、聞き覚えのあるバリトン。声の主は調所(ずしょ)一郎氏だ。

珍しい名字だが、歴史に詳しい方ならピンとくるはず。篤姫にも登場した幕末の薩摩藩家老「調所笑左衛門廣郷(ひろさと)」の七代目、調所一郎氏である。

会社を経営する傍ら、薩摩文化も研究されていて、薩摩藩独特の刀や刀装具を紹介した『薩摩拵(さつまこしらえ)』を2003年に出版された。

薩摩拵.jpg


最近(2009年)では、財務省の松田学氏らと共著で「永久国債の研究」という本を出版、薩摩藩の財政を立て直した先祖の実例を踏まえ、日本の将来のために画期的な提言をされている。  

観光大使もされていて、昨年暮れに鹿児島に旅行した際には、ひとかたならぬお世話になった。その調所さんから開口一番、「例の演武の件、生麦でやることに決まりましたよ」という報告があった。
 
今年の初め、「開港150年」の記念事業に関わっているという話を調所さんにしたところ。

「自顕流(じげんりゅう)の演武のデモンストレーションを開港博でやったら面白いんじゃないですか」という提案をいただいた。

「あ、それはいいですね〜!鹿児島と横浜は歴史的にも関係が深いですし」

歴史的関係よりも、自分自身が見てみたい!というほうが強い。

自顕流(薬丸自顕流)とは、鹿児島に伝わる剣術の流派である。
同じ読みの示現流と混同されるが、示現流が薩摩藩の御留(おとめ)流として門外不出であるのに対して、自顕流は実践を徹底的に重視して、一撃必殺の豪快な流儀ということで薩摩の下級藩士を中心に広まった。 

藩主からは忌避されたらしく、江戸時代中期には、中興の祖である薬丸兼武が屋久島に流刑になっている。
その自顕流を剣術師範として復活させたのが、当時軍制改革の責任者であった家老の調所廣郷なのである。

桜田門外の変で井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門や、人斬り半次郎こと桐野利秋。西郷の弟の従道、そして日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎と、幕末から明治に活躍する薩摩藩士のほとんどが、この自顕流の門弟である。

よくよく考えると、調所廣郷は財政改革だけでなく、軍事面でも薩摩藩が雄藩として活躍するための礎を築いたということになる。もしも、薩摩藩に調所が存在しなかったら、維新はまったく違うものになっていたであろうことは間違いない。

開国博の真実
そのアイデアに魅力を感じた私は、さっそく「Y150」の総合プロデューサーにその話を持っていった。

フンフンと話は聞いてくれたものの、その表情から乗り気のなさが伝わってくる。
最後に「わかりました」という返事をもらったのでしばらく待っていたが、結局その話が進展することはなかった。

市を挙げての大きなイベントである。
固まっているプログラムを変更することは不可能なんだろう…くらいに思っていた。

後日、大桟橋ホールで行われた「横濱地図博覧会」で挨拶に立ったプロデューサー氏。その挨拶の言葉を聞いて愕然とした。

「横浜の開港、日本の開国は実に平和裏に行われました…」

ショックであとの言葉はうろ覚えだが、確か、「一滴の血を流すこともなく、日本は鎖国を解いて国を開き、近代文明国家の仲間入りを果たした。その先人たちの功績を讃えて開国博というイベントを皆で盛り上げていきましょう」というような内容だったと思う。

(なるほど、そういうことか)

乗り気がなかった理由が分かった。ガス灯が点った、鉄道が開通した。ビールやテニスやクリーニングも横浜が発祥だ。いいこと尽くめの開国には、血の匂いは無用。そう、エンジンの匂いの巨大クモがお似合いなのだ。

確かに条約締結は平和裏であったろう。しかし、日本に外国船が頻繁に来航するようになった幕末から明治維新の歴史をみれば、それがまったく的外れな意見であることはあきらかである。

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しかし、会場にいる人々は、それを疑うこともなく大きな拍手を送っている。

ペリー来航後に起きた、安政の大獄、桜田門外の変、攘夷派浪士による外国人殺傷事件。
そして、生麦事件とそれに続く薩英戦争に続く下関戦争…と、実際に外国と戦争をしているではないか!

内戦では戊辰戦争や北越戦争、これだってイギリスとフランスの代理戦争といってもいい。日本が開国したことで、どれだけの多くの命が散っていったことか。

泣きたくなってきた。別に血生臭い話を大々的に取り上げろと言っているのではない。史実を無視して捻じ曲げるのが許せないのだ。

生麦事件
その話を調所さんに伝えると。

「そうですか…、でも、そんなものかもしれませんね」と、冷静な返事がかえってきた。

調所さんから電話があったのは、それからひと月後である。

「8月21日が生麦事件のあった日なんですけど、この日に生麦事件顕彰会によって毎年追悼祭が行われているんですよ。演武のデモンストレーションはそこで行われます」

生麦事件の追悼祭とは驚いた。
さすが調所広郷の末裔。次の手をしっかり打っていた。

教科書にも載っている大事件。詳細はともかく、事件が起きたことは子どもでも知っている。

文久二年(1862)8月21日、馬に乗った4人の英国人(男性3名、女性1名)が、関内の居留地から川崎大師へ行くために東海道の生麦村を通りかかった。その時、江戸からやってきた薩摩藩の行列に出くわす。

英国人は馬を戻そうとするが、道が狭い上に慌てていたのか、馬が行列の中に入り込んでしまった。怒った薩摩藩士が斬りつけ、一人が死亡、二人が重傷を負った。

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現在、亡くなった一人、リチャードソンが落馬した地点、国道15号線と旧東海道の交流地点、キリンビール横浜工場の一角に「生麦事件碑」が建っている。

2108rekisi-1.jpg


調所さんから報告を受けた私は、追悼祭の詳細を聞こうと『生麦事件参考館』を訪れたのである。    
           

絹の道をゆく-2 へ続く


この記事は、青葉区都筑区で約7万部発行されていた地域情報誌に2009年8月より10年間連載されていた「歴史探偵・高丸の地名推理ファイル 絹の道編」を加筆編集した上で再アップしたものです。

地名推理ファイル 絹の道編 目次


 

NR-あお葉のこと葉 ファイル-6

屋号 後編
 「おんまし」という屋号がある。青葉区および、周辺の地域でよく耳にする屋号だが、地元の人に聞いてもその謂れは判然としない。

 「馬でも回したんじゃねぇか」と、ある地主さん。なるほど、お馬(おんま)回し…か。博労(馬喰)、馬車屋、馬医に馬の鑑定人など、馬を扱う職業がズラッと脳裏に浮かんだ。かつて、区内の各地で農耕馬による競馬が行われていた。その関係かもしれない。

 川崎市の資料の中に【領主が領内を馬で巡検したおりに、村の境界のところで馬の首を巡らした場所をオンマワシという】との説が記載されていた。と、すると職業でなく地名屋号になる。さらに、【洪水に見舞われたとき、川の流れを向う側へと必死に追い回した場所】という文章もあった。麻生区下麻生にある「恩廻」という地名について記された箇所だ。

恩廻は鶴見川が大きく蛇行している地点の字名で、現在そこには「恩廻調整池」という、大雨などで溢れた川の水を地下の巨大トンネルに流して貯留する施設が建っている。こういった施設のおかげで鶴見川は洪水災害から免れているのだ。

onmawasi-1.jpg



 江戸時代、同じ場所に「五か村用水」の取水口があった。下流にある上鉄、中鉄、下鉄の三つの鉄村と大場村、市ケ尾村の五つの村に水を引くための灌漑用水で、江戸初期に小泉次大夫という代官によって整備された。

 川の水を(追い回す)という言い方にはどうも違和感がある。もしかすると、洪水ではなく、農家に「恩恵」をもたらす「水」をまわす。恩をまわす=恩廻し(オンマワシ)=オンマシ…になったのではないだろうか。水は天からの「施し」。

施されたら施し返す 「恩まわし」です!ってね。

つづく

2021年01月01日

NR-あお葉のこと葉 ファイル-5

屋号 前編
 古くから続く農村には、家ごとに苗字とは別の通称がある。屋号、または家名と呼ばれ、同一姓の多い土地でそれぞれの家を判別するのに都合が良い。

 屋号は全国どの地方にもある。地方によって特色はあるが、そのパターンは概ね以下のように大別できる。○兵衛・○三郎など…先祖の名前や渾名由来。分家・新宅・隠居など…家のつながり由来。日向・日陰・原・○○谷戸・堂前・宮の下など…地名や地形、場所、位置由来。そして、醤油や・豆腐や・鍛冶や・下駄や…といった職業由来。ここでいう職業とは現金収入を得るため農閑期を利用して営まれた農間余業のこと。食料品から日用雑貨、衣類など…それはバラエティに富んでいて、村という小さな共同体の中で生活に必要なものは、ほとんど賄うことができた。

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知り合いに「かさ」という屋号の地主さんがいる。最初、傘や笠作りの家だと思っていたが、他の村の屋号を調べてみると、「かさ」の登場頻度は極めて高い。そんなに傘(笠)の需要はあったのだろうか…?疑問に思っていたら、都筑区に「上サ」と書いて「かさ」と読む字名を発見した。「上の方」をあらわす言葉で、関東にはよくある地名だという。

 「サ」は、「おら東京さ行ぐだ」の「さ」、格助詞の「へ」や「に」に該当する。屋号の「かさ」が上の方を表す「上サ」なら、他の屋号よりも多くて当然だし、起伏の激しい多摩丘陵ならではの屋号だと納得できる。

 意味不明の言葉も、このように心のドローンを飛ばして俯瞰して見れば謎は解けるのだ。というわけで、次回も空を飛んで謎の屋号に迫ってみたい!

つづく
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ある時は地域情報紙の編集長、ある時はフリーライター、またある時は紙芝居のオジサン、しこうしてその実態は・・・穏やかな心を持ちながら激しい憤りによって目覚めた伝説の唄う地域史研究家・・・歴史探偵・高丸だ!
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