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2021年04月13日
聖天(歓喜天)信仰手順 4-3 聖天様の勤行準備 B
先般は水、ご飯、花を供えた段階です。
勿論、この時点で、蝋燭をつけ、(LEDですが)、線香をつけ、5波羅蜜、また塗香はいつも供えておりますので、すでにこの段階で六波羅蜜はそろっています。
つまりここからは、利養供養という事になります。
そこで毎日のお供えとしては、大根とお茶になります。(私の場合です。必ずしもこうしなければいけないということではありません。)
穢れを嫌う聖天様に出すという事で気遣いが肝心です。 利養供養のリンク
ケトルでお湯を沸かしますが、出来れば、ケトルで少し先にお湯を沸かして捨て水をすることをお勧めします。水は当然麦飯石の水です。これら、食器を洗う洗剤やスポンジも聖天様専用でおねがいしたいものですが無理ら別に大丈夫だと思います。
現在、丸々大根を出す以外には
@味噌で煮る(つまり味噌汁)
A塩とお酒、出しで煮る(お酒はお供えしたおさがりが豊富にあります。)
Bふろふき大根
C漬物(辛い、酸っぱい味付けはNGです。)
となります。何か、他にいい大根料理はないか模索中です。
お酒は、毎日出したいのですが、家計が傾きますので、仏教とは関係ないですが、大安と友引、そして聖天様のご縁日に出しています。それでも、40日くらいで一升瓶無くなります。考えたら一升瓶は、あれだけ立派な大きさですが、2リットル無いのです。
お酒を扱えば、当然グラスを拭きますが、これは水と同じ布巾は使いません。においがつきます。
お菓子は、以前述べたように餡子系を大安の日に交換しています。
歓喜団は高いので、最近はご縁日は、おしるこです。少なくとも3か月に一度は歓喜団をお供えしたいと思ってはいます。
さて、この回で最後に特筆すべき私の工夫を公開させて頂きます。(すでに知られていたりして)
それはこのお祈りをする道場の荘厳(しょうごん)です。
荘厳という言葉を調べると、お寺などで、お寺を飾り、仏様を飾ることを言うようですが、法華経では仏様の威光で世界が荘厳化していくと説くようです。
例えば、自分の家と、お寺の違いは何でしょうか?
勿論、お寺の方がお金がかかっており、古く歴史もあり、毎日綺麗に掃除をされているでしょう。
仏教がお寺を作らない宗教なら、一体、今の世の中はどうなっていたでしょうか?
自宅の道場を荘厳化するためには、当然お寺を意識しつつ考えれば、どのような状況ではダメなのかが
分かる筈でしょう。トイレの前、寝室、台所、などは無理でしょう。でもワンルームの部屋なら仕方ない側面もありますが、仕切りとか区切りで少なくとも隔離するべきでしょう。そして塩を盛り清浄化します。
私は、それに加え、お経を私の自宅の道場の壁に張り詰めています。私は写経が好きで
@般若心経
A観世音菩薩普門本偈
B大聖歓喜天使呪法経
C般若理取経
D大聖歓喜天和讃
などを以下の写真のように東、南向けの壁に張り詰めています。また、聖天様以外の諸天の御尊像も貼ってあります。
いいことかどうか分かりませんが、皆様は、「耳なし芳一」という話をご存知ですか?
簡単に言えば、盲目の耳なし芳一は平家の亡霊に引き語りの芸を見込まれ、夜毎平家の亡霊が彼の引き語りを聞きに来るが、不審に思った和尚がこれを知り、芳一を守るために体中に般若心経を書きめぐらし、亡霊から芳一を見えなくした。ところが、耳に般若心経を書くのを忘れ、やってきた平家の亡霊は芳一の耳しか見えず、それを芳一を訪ねた証拠に切り取って持ち帰ってしまったという話です。
お経には、それだけの霊力が備わっているのです。耳に般若心経を書くのは大変なことでしょう。しかし、盲目の上に耳まで持っていかれた芳一は逆にその後の人生は良くなっていったようです。
この荘厳を在家で自宅で行うには、お経を壁に貼るしかないと思い行っています。
立派な金箔も、壁紙も、仏像も、このお経に叶うものはないのではないかと思います。出来れば芳一みたいに般若心経の入れ墨を体にしたいところですがブヨブヨなので、般若心経の御利益が激減しそうです。腹の贅肉部分だけ般若心経を書き忘れたらどうでしょうか?
面白いと思ったらやってみてください。(お経を壁に貼ることを)但し、お経を直接画鋲で壁にぶすっと固定してはいけません。障子紙などを先に壁に設置して、その上に貼るようにお願いします。
朝4時、電気を消し、蝋燭(LEDですが)の光で、お香の煙の揺らぐ中、人に聞こえないように小声で真言を唱えます。するとよく耳を澄ませると、カサカサ、カサカサと音がします。それは、真言の音の響きでお経を書いた半紙が振動して起こる音です。大きな声では聞こえません。私はこの時、仏道に無量の幸せを感じるのです。
次回は勤行の内容に入って解説します。
合掌
勿論、この時点で、蝋燭をつけ、(LEDですが)、線香をつけ、5波羅蜜、また塗香はいつも供えておりますので、すでにこの段階で六波羅蜜はそろっています。
つまりここからは、利養供養という事になります。
そこで毎日のお供えとしては、大根とお茶になります。(私の場合です。必ずしもこうしなければいけないということではありません。)
聖天様に出す
お茶はなかなか気を遣う
お茶というのは、実に気を遣う飲み物です。以前説明していますがお茶はなかなか気を遣う
穢れを嫌う聖天様に出すという事で気遣いが肝心です。 利養供養のリンク
ケトルでお湯を沸かしますが、出来れば、ケトルで少し先にお湯を沸かして捨て水をすることをお勧めします。水は当然麦飯石の水です。これら、食器を洗う洗剤やスポンジも聖天様専用でおねがいしたいものですが無理ら別に大丈夫だと思います。
大根の料理の種類を増やしたい
現在、丸々大根を出す以外には
@味噌で煮る(つまり味噌汁)
A塩とお酒、出しで煮る(お酒はお供えしたおさがりが豊富にあります。)
Bふろふき大根
C漬物(辛い、酸っぱい味付けはNGです。)
となります。何か、他にいい大根料理はないか模索中です。
お酒、お菓子、歓喜団の交換頻度
お酒は、毎日出したいのですが、家計が傾きますので、仏教とは関係ないですが、大安と友引、そして聖天様のご縁日に出しています。それでも、40日くらいで一升瓶無くなります。考えたら一升瓶は、あれだけ立派な大きさですが、2リットル無いのです。
お酒を扱えば、当然グラスを拭きますが、これは水と同じ布巾は使いません。においがつきます。
お菓子は、以前述べたように餡子系を大安の日に交換しています。
歓喜団は高いので、最近はご縁日は、おしるこです。少なくとも3か月に一度は歓喜団をお供えしたいと思ってはいます。
礼拝道場の荘厳
さて、この回で最後に特筆すべき私の工夫を公開させて頂きます。(すでに知られていたりして)
それはこのお祈りをする道場の荘厳(しょうごん)です。
荘厳という言葉を調べると、お寺などで、お寺を飾り、仏様を飾ることを言うようですが、法華経では仏様の威光で世界が荘厳化していくと説くようです。
例えば、自分の家と、お寺の違いは何でしょうか?
勿論、お寺の方がお金がかかっており、古く歴史もあり、毎日綺麗に掃除をされているでしょう。
仏教がお寺を作らない宗教なら、一体、今の世の中はどうなっていたでしょうか?
自宅の道場を荘厳化するためには、当然お寺を意識しつつ考えれば、どのような状況ではダメなのかが
分かる筈でしょう。トイレの前、寝室、台所、などは無理でしょう。でもワンルームの部屋なら仕方ない側面もありますが、仕切りとか区切りで少なくとも隔離するべきでしょう。そして塩を盛り清浄化します。
私は、それに加え、お経を私の自宅の道場の壁に張り詰めています。私は写経が好きで
@般若心経
A観世音菩薩普門本偈
B大聖歓喜天使呪法経
C般若理取経
D大聖歓喜天和讃
などを以下の写真のように東、南向けの壁に張り詰めています。また、聖天様以外の諸天の御尊像も貼ってあります。
いいことかどうか分かりませんが、皆様は、「耳なし芳一」という話をご存知ですか?
簡単に言えば、盲目の耳なし芳一は平家の亡霊に引き語りの芸を見込まれ、夜毎平家の亡霊が彼の引き語りを聞きに来るが、不審に思った和尚がこれを知り、芳一を守るために体中に般若心経を書きめぐらし、亡霊から芳一を見えなくした。ところが、耳に般若心経を書くのを忘れ、やってきた平家の亡霊は芳一の耳しか見えず、それを芳一を訪ねた証拠に切り取って持ち帰ってしまったという話です。
お経には、それだけの霊力が備わっているのです。耳に般若心経を書くのは大変なことでしょう。しかし、盲目の上に耳まで持っていかれた芳一は逆にその後の人生は良くなっていったようです。
この荘厳を在家で自宅で行うには、お経を壁に貼るしかないと思い行っています。
立派な金箔も、壁紙も、仏像も、このお経に叶うものはないのではないかと思います。出来れば芳一みたいに般若心経の入れ墨を体にしたいところですがブヨブヨなので、般若心経の御利益が激減しそうです。腹の贅肉部分だけ般若心経を書き忘れたらどうでしょうか?
面白いと思ったらやってみてください。(お経を壁に貼ることを)但し、お経を直接画鋲で壁にぶすっと固定してはいけません。障子紙などを先に壁に設置して、その上に貼るようにお願いします。
朝4時、電気を消し、蝋燭(LEDですが)の光で、お香の煙の揺らぐ中、人に聞こえないように小声で真言を唱えます。するとよく耳を澄ませると、カサカサ、カサカサと音がします。それは、真言の音の響きでお経を書いた半紙が振動して起こる音です。大きな声では聞こえません。私はこの時、仏道に無量の幸せを感じるのです。
次回は勤行の内容に入って解説します。
合掌
2021年04月11日
仏教信仰入門 J-4 道諦とは?(図解)
四諦説の最後は、いよいよ、どうしたらさとりに到達出来るのか?という事になります。
そこでお釈迦様が説かれるのが、八正道です。
正しいという言葉が並びます。伝統的解釈を引用し、下に添えます。
四諦の理を正しく見て、正しく思い、それを正しく言葉にすること。上の三つのどれかが欠けていたら、この道を進むことは出来ません。
邪業を除き、清浄の身業に住する。
身口意を清め、邪命を離れる。
涅槃に至る道に努めること
正道を憶念して邪念無きこと。
無漏清浄の禅定に入ること。
ということで、やっと涅槃に至ることが出来ました。
それでは実践ではどうなのでしょうか?
それを次回から検証していきます。
合掌
2021年04月10日
声聞のネタバレなし映画レビュー 韓国映画遍 G「俳優は俳優だ」
映画のプロフィール
「俳優は俳優だ」
監督 シン・ヨンシク 出演 イ・ジュン, ソ・ヨンヒ, マ・ドンソク
アマゾンのリンク
どこの国の映画か
韓国映画 2014年映画のジャンル
サクセスアンドアンサクセスストーリー
若者が成功して、そして有頂天になり、やりすぎて、落ちぶれる。
韓国映画によくあるパターン。
最後までみたか?
何度かやめかけました。ごめんなさい。今思うと映画の題名がヤケクソだ。
ビックリしたか?驚いたか?
最初はかなり期待のもてる映画でした。韓国映画特有の時空を行ったり来たりする内容から、更にふみこんで虚構中の虚構を行ったり来たりするのもよかったです。これは面白い映画になりそうでした。
特筆すべき男優、女優はいたか?どのように?
私は、マドンソクという俳優について、かねてから不思議に思うことがある。その現れ方がいつも唐突で、何の脈絡もなく登場し、映画をかき混ぜるか、かき混ぜもしないで、あっさりと去っていく。一体この人はどういう立ち位置の方でしょうか?しょっちゅうその姿を見ますが、彼が出てくると何となくこの映画は面白くないのでは?という反射神経が働く。新感染は面白かったが。悪役というわけでもなく、本当に悪そうな韓国人俳優は他にいくらでもいる。特別出演とか友情出演かしら。憎めない顔ですが、今回も同じ思いを抱きました。
もう一度みたいか?
結構です。一緒に見て困る人はいるか?
子供や親とは見ない方がいいでしょう。3回くらいAVシーンがありましたから。結構、韓国映画にありがちな残虐シーンはありませんでした。印象に残るシーン
ないのよ。仏教的にはどうか?
どうもこうもないのよ。点数(10点満点)
1点
合掌
2021年04月09日
聖天(歓喜天)様 信仰 4-2 聖天様の勤行準備 環境設定
先般は水、ご飯、花を供えた段階です。
勿論、この時点で、蝋燭をつけ、(LEDですが)、線香をつけ、5波羅蜜、また塗香はいつも供えておりますので、すでにこの段階で六波羅蜜はそろっています。
つまりここからは、利養供養という事になります。
そこで毎日のお供えとしては、大根とお茶になります。(私の場合です。必ずしもこうしなければいけないということではありません。)
穢れを嫌う聖天様に出すという事で気遣いが肝心です。 利養供養のリンク
ケトルでお湯を沸かしますが、出来れば、ケトルで少し先にお湯を沸かして捨て水をすることをお勧めします。水は当然麦飯石の水です。これら、食器を洗う洗剤やスポンジも聖天様専用でおねがいしたいものですが無理ら別に大丈夫だと思います。
現在、丸々大根を出す以外には
@味噌で煮る(つまり味噌汁)
A塩とお酒、出しで煮る(お酒はお供えしたおさがりが豊富にあります。)
Bふろふき大根
C漬物(辛い、酸っぱい味付けはNGです。)
となります。何か、他にいい大根料理はないか模索中です。
お酒は、毎日出したいのですが、家計が傾きますので、仏教とは関係ないですが、大安と友引、そして聖天様のご縁日に出しています。それでも、40日くらいで一升瓶無くなります。考えたら一升瓶は、あれだけ立派な大きさですが、2リットル無いのです。
お酒を扱えば、当然グラスを拭きますが、これは水と同じ布巾は使いません。においがつきます。
お菓子は、以前述べたように餡子系を大安の日に交換しています。
歓喜団は高いので、最近はご縁日は、おしるこです。少なくとも3か月に一度は歓喜団をお供えしたいと思ってはいます。
さて、この回で最後に特筆すべき私の工夫を公開させて頂きます。(すでに知られていたりして)
それはこのお祈りをする道場の荘厳(しょうごん)です。
荘厳という言葉を調べると、お寺などで、お寺を飾り、仏様を飾ることを言うようですが、法華経では仏様の威光で世界が荘厳化していくと説くようです。
例えば、自分の家と、お寺の違いは何でしょうか?
勿論、お寺の方がお金がかかっており、古く歴史もあり、毎日綺麗に掃除をされているでしょう。
仏教がお寺を作らない宗教なら、一体、今の世の中はどうなっていたでしょうか?
自宅の道場を荘厳化するためには、当然お寺を意識しつつ考えれば、どのような状況ではダメなのかが
分かる筈でしょう。トイレの前、寝室、台所、などは無理でしょう。でもワンルームの部屋なら仕方ない側面もありますが、仕切りとか区切りで少なくとも隔離するべきでしょう。そして塩を盛り清浄化します。
私は、それに加え、お経を私の自宅の道場の壁に張り詰めています。私は写経が好きで
@般若心経
A観世音菩薩普門本偈
B大聖歓喜天使呪法経
C般若理取経
D大聖歓喜天和讃
などを以下の写真のように東、南向けの壁に張り詰めています。また、聖天様以外の諸天の御尊像も貼ってあります。
いいことかどうか分かりませんが、皆様は、「耳なし芳一」という話をご存知ですか?
簡単に言えば、盲目の耳なし芳一は平家の亡霊に引き語りの芸を見込まれ、夜毎平家の亡霊が彼の引き語りを聞きに来るが、不審に思った和尚がこれを知り、芳一を守るために体中に般若心経を書きめぐらし、亡霊から芳一を見えなくした。ところが、耳に般若心経を書くのを忘れ、やってきた平家の亡霊は芳一の耳しか見えず、それを芳一を訪ねた証拠に切り取って持ち帰ってしまったという話です。
お経には、それだけの霊力が備わっているのです。耳に般若心経を書くのは大変なことでしょう。しかし、盲目の上に耳まで持っていかれた芳一は逆にその後の人生は良くなっていったようです。
この荘厳を在家で自宅で行うには、お経を壁に貼るしかないと思い行っています。
立派な金箔も、壁紙も、仏像も、このお経に叶うものはないのではないかと思います。出来れば芳一みたいに般若心経の入れ墨を体にしたいところですがブヨブヨなので、般若心経の御利益が激減しそうです。腹の贅肉部分だけ般若心経を書き忘れたらどうでしょうか?
面白いと思ったらやってみてください。(お経を壁に貼ることを)但し、お経を直接画鋲で壁にぶすっと固定してはいけません。障子紙などを先に壁に設置して、その上に貼るようにお願いします。
朝4時、電気を消し、蝋燭(LEDですが)の光で、お香の煙の揺らぐ中、人に聞こえないように小声で真言を唱えます。するとよく耳を澄ませると、カサカサ、カサカサと音がします。それは、真言の音の響きでお経を書いた半紙が振動して起こる音です。大きな声では聞こえません。私はこの時、仏道に無量の幸せを感じるのです。
次回は勤行の内容に入って解説します。
合掌
勿論、この時点で、蝋燭をつけ、(LEDですが)、線香をつけ、5波羅蜜、また塗香はいつも供えておりますので、すでにこの段階で六波羅蜜はそろっています。
つまりここからは、利養供養という事になります。
そこで毎日のお供えとしては、大根とお茶になります。(私の場合です。必ずしもこうしなければいけないということではありません。)
聖天様に出す
お茶はなかなか気を遣う
お茶というのは、実に気を遣う飲み物です。以前説明していますがお茶はなかなか気を遣う
穢れを嫌う聖天様に出すという事で気遣いが肝心です。 利養供養のリンク
ケトルでお湯を沸かしますが、出来れば、ケトルで少し先にお湯を沸かして捨て水をすることをお勧めします。水は当然麦飯石の水です。これら、食器を洗う洗剤やスポンジも聖天様専用でおねがいしたいものですが無理ら別に大丈夫だと思います。
大根の料理の種類を増やしたい
現在、丸々大根を出す以外には
@味噌で煮る(つまり味噌汁)
A塩とお酒、出しで煮る(お酒はお供えしたおさがりが豊富にあります。)
Bふろふき大根
C漬物(辛い、酸っぱい味付けはNGです。)
となります。何か、他にいい大根料理はないか模索中です。
お酒、お菓子、歓喜団の交換頻度
お酒は、毎日出したいのですが、家計が傾きますので、仏教とは関係ないですが、大安と友引、そして聖天様のご縁日に出しています。それでも、40日くらいで一升瓶無くなります。考えたら一升瓶は、あれだけ立派な大きさですが、2リットル無いのです。
お酒を扱えば、当然グラスを拭きますが、これは水と同じ布巾は使いません。においがつきます。
お菓子は、以前述べたように餡子系を大安の日に交換しています。
歓喜団は高いので、最近はご縁日は、おしるこです。少なくとも3か月に一度は歓喜団をお供えしたいと思ってはいます。
礼拝道場の荘厳
さて、この回で最後に特筆すべき私の工夫を公開させて頂きます。(すでに知られていたりして)
それはこのお祈りをする道場の荘厳(しょうごん)です。
荘厳という言葉を調べると、お寺などで、お寺を飾り、仏様を飾ることを言うようですが、法華経では仏様の威光で世界が荘厳化していくと説くようです。
例えば、自分の家と、お寺の違いは何でしょうか?
勿論、お寺の方がお金がかかっており、古く歴史もあり、毎日綺麗に掃除をされているでしょう。
仏教がお寺を作らない宗教なら、一体、今の世の中はどうなっていたでしょうか?
自宅の道場を荘厳化するためには、当然お寺を意識しつつ考えれば、どのような状況ではダメなのかが
分かる筈でしょう。トイレの前、寝室、台所、などは無理でしょう。でもワンルームの部屋なら仕方ない側面もありますが、仕切りとか区切りで少なくとも隔離するべきでしょう。そして塩を盛り清浄化します。
私は、それに加え、お経を私の自宅の道場の壁に張り詰めています。私は写経が好きで
@般若心経
A観世音菩薩普門本偈
B大聖歓喜天使呪法経
C般若理取経
D大聖歓喜天和讃
などを以下の写真のように東、南向けの壁に張り詰めています。また、聖天様以外の諸天の御尊像も貼ってあります。
いいことかどうか分かりませんが、皆様は、「耳なし芳一」という話をご存知ですか?
簡単に言えば、盲目の耳なし芳一は平家の亡霊に引き語りの芸を見込まれ、夜毎平家の亡霊が彼の引き語りを聞きに来るが、不審に思った和尚がこれを知り、芳一を守るために体中に般若心経を書きめぐらし、亡霊から芳一を見えなくした。ところが、耳に般若心経を書くのを忘れ、やってきた平家の亡霊は芳一の耳しか見えず、それを芳一を訪ねた証拠に切り取って持ち帰ってしまったという話です。
お経には、それだけの霊力が備わっているのです。耳に般若心経を書くのは大変なことでしょう。しかし、盲目の上に耳まで持っていかれた芳一は逆にその後の人生は良くなっていったようです。
この荘厳を在家で自宅で行うには、お経を壁に貼るしかないと思い行っています。
立派な金箔も、壁紙も、仏像も、このお経に叶うものはないのではないかと思います。出来れば芳一みたいに般若心経の入れ墨を体にしたいところですがブヨブヨなので、般若心経の御利益が激減しそうです。腹の贅肉部分だけ般若心経を書き忘れたらどうでしょうか?
面白いと思ったらやってみてください。(お経を壁に貼ることを)但し、お経を直接画鋲で壁にぶすっと固定してはいけません。障子紙などを先に壁に設置して、その上に貼るようにお願いします。
朝4時、電気を消し、蝋燭(LEDですが)の光で、お香の煙の揺らぐ中、人に聞こえないように小声で真言を唱えます。するとよく耳を澄ませると、カサカサ、カサカサと音がします。それは、真言の音の響きでお経を書いた半紙が振動して起こる音です。大きな声では聞こえません。私はこの時、仏道に無量の幸せを感じるのです。
次回は勤行の内容に入って解説します。
合掌
2021年04月08日
2021年04月07日
聖天(歓喜天)様 信仰 4-1 聖天様の勤行準備 まとめ
供養のことが全て終わりましたので、今までのおさらいをし、そして勤行の準備に入りましょう。
環境を整えること、聖天様への基本的な考え方、接し方を以前にまとめました。
@聖天様は仏像や、画像を家で拝まない。お札を拝む。
A聖天様のお札はお宮に祀る。お宮の扉は少しだけあけておく。
B聖天様は丁寧にもてなせばもてなすほど大威徳を発揮する仏様。
C聖天様には大事なお客様に仕えるという気持ちで接する。
D聖天様信仰の前に、仏教の仏様であることを忘れるべからず。
E聖天様をお祀りする場所、向き高さに注意する。仏壇や神社のお札と一緒にせずそれより高位に扱う。
F聖天様をお祀りする場所を聖地として清めて使う。
また、以前供養について説明をした際に、下記の1,2,3を六波羅蜜以外の供養としてあげ、2の利養供養については説明済です。1と3についてですが、これから勤行の実践ですから、恭敬供養については勤行の中で何度も称えるとして、今私が聖天様に朝、勤行前にどう働いているかを説明します。また定期的な行も説明します。行供養、正に聖天様の給仕をするわけです。
1 恭敬供養(クギョウクヨウ)>真心から相手を尊敬し、称える。
2 利養供養(リヨウクヨウ) >真心をこめて相手のために色々なものを捧げる。
3 行供養 (ギョウクヨウ) >真心をこめて相手のために働く。
注意:ここからは私が勝手にやっていることで、絶対こうしなければいけないというわけではありません。私にとっては今後の改善活動の中での覚書的な面もあります。
早起きは三文の徳と言いますが、最近、すっかりこの早起きに慣れました。夜は9時に寝ています。かつて夜は12時にスマホをみながらうだふだしていつの間にか寝て、気が付けば朝7時を過ぎていました。ところがこの3時に起きると誰にと言わず後ろめたさが湧きません。ちなみにこんな時間に起きると朝8時くらいにまず眠気の第一波が押し寄せます。以前は、起きて一時間くらいでこの第一波が押し寄せました。ですから、朝の勤行を4時くらいから始めますので、この時に眠気が生じ、大変でした。そこで、ちょっと瞑想と称して居眠りしたりしていたわけですが、今はその必要はなくなりました。何事も慣れですね。
ただし、午後の3時くらいにこれはどうしようもないくらいの眠気に襲われます。
何はともあれ、聖天様は穢れを嫌う仏様です。何かにつけて手は穢れを拾うので、そのたびに手を洗うようにしているわけです。部屋に洗面があれば最高ですが、私の部屋は2階で水がトイレにしかきておらず、そこには洗面はないので、トイレの上部の手洗いシンクで水を洗っていては、そのたびにトイレの水を流すわけですから、水道代も馬鹿になりません。そのくらい手を洗う回数が増えたのです。そこで写真のような手洗い、病院でよくお医者さんが洗面器のような容器で手を洗っているイメージで手を洗う場所を作ってみました。聖天様が飲食されるお供物については(この言い方が正しいのかわかりませんが)確実に毎回手を洗う習慣をつけなくてはいけないと思っています。
まずは、例の麦飯石で作った水を冷蔵庫から持ってきて、お水を供えます。
麦飯石に関する記事はこちら
そして、花から花びらを頂き、それを水に浮かべます。花びらというのは中々もぎ取り憎い花とそうでない花があり、菊や梅は結構簡単ですが、頭の大きな花はそのまま花全体が落ちてしまうこともあります。そんな花に限って、花粉の多い花で、その瞬間花粉症の私の鼻を攻撃してきます。花が無い時は、以前ご紹介した樒を常時お供えしているので、樒の小さな葉っぱを浮かべます。
ところで、コップの水は一度捨てて、これを拭きますが、これが結構厄介です。なかなか綺麗になりませんことは以前もご紹介していますので、こちらのリンクをご覧ください。
水に関する記事のリンク
色々と本を見ても、花の水は毎日取り換えるとありますので、毎日替えます。花粉症であれば、これは中々の苦行となります。そう、花は羼提波羅蜜、菩薩行の忍辱を意味します。
水を取り換える際に、例の切花延命剤を一滴入れています。花、特に菊などはかなり長持ちします。たとえば2,3日でダメになる菊でも1週間はもつのではないでしょうか?
切花延命剤のアマゾンのリンク
朝3時ごろに炊き上がるように、セットされた炊飯器で1合くらい米をたいてあります。これを仏器によそうのは、中々苦労します。こんもりと仏器に盛らなくてはいけません、と自分で思ってやっています。
長くなるので次回にしますが、ここまで、お水とご飯は必ず手をそのつど洗い清め、またこれらの食器は聖天様の専用で、専用の布巾で拭いています。これでもまだ不足かもしれません。
次回は、特に苦労するお茶、大根、お菓子などの供物、そして荘厳ということに触れて、勤行前の準備を終わらせます。
合掌
環境を整えること、聖天様への基本的な考え方、接し方を以前にまとめました。
@聖天様は仏像や、画像を家で拝まない。お札を拝む。
A聖天様のお札はお宮に祀る。お宮の扉は少しだけあけておく。
B聖天様は丁寧にもてなせばもてなすほど大威徳を発揮する仏様。
C聖天様には大事なお客様に仕えるという気持ちで接する。
D聖天様信仰の前に、仏教の仏様であることを忘れるべからず。
E聖天様をお祀りする場所、向き高さに注意する。仏壇や神社のお札と一緒にせずそれより高位に扱う。
F聖天様をお祀りする場所を聖地として清めて使う。
また、以前供養について説明をした際に、下記の1,2,3を六波羅蜜以外の供養としてあげ、2の利養供養については説明済です。1と3についてですが、これから勤行の実践ですから、恭敬供養については勤行の中で何度も称えるとして、今私が聖天様に朝、勤行前にどう働いているかを説明します。また定期的な行も説明します。行供養、正に聖天様の給仕をするわけです。
1 恭敬供養(クギョウクヨウ)>真心から相手を尊敬し、称える。
2 利養供養(リヨウクヨウ) >真心をこめて相手のために色々なものを捧げる。
3 行供養 (ギョウクヨウ) >真心をこめて相手のために働く。
注意:ここからは私が勝手にやっていることで、絶対こうしなければいけないというわけではありません。私にとっては今後の改善活動の中での覚書的な面もあります。
朝3時に起きる
早起きは三文の徳と言いますが、最近、すっかりこの早起きに慣れました。夜は9時に寝ています。かつて夜は12時にスマホをみながらうだふだしていつの間にか寝て、気が付けば朝7時を過ぎていました。ところがこの3時に起きると誰にと言わず後ろめたさが湧きません。ちなみにこんな時間に起きると朝8時くらいにまず眠気の第一波が押し寄せます。以前は、起きて一時間くらいでこの第一波が押し寄せました。ですから、朝の勤行を4時くらいから始めますので、この時に眠気が生じ、大変でした。そこで、ちょっと瞑想と称して居眠りしたりしていたわけですが、今はその必要はなくなりました。何事も慣れですね。
ただし、午後の3時くらいにこれはどうしようもないくらいの眠気に襲われます。
手を洗う。とにかく手を洗う場所を作る
何はともあれ、聖天様は穢れを嫌う仏様です。何かにつけて手は穢れを拾うので、そのたびに手を洗うようにしているわけです。部屋に洗面があれば最高ですが、私の部屋は2階で水がトイレにしかきておらず、そこには洗面はないので、トイレの上部の手洗いシンクで水を洗っていては、そのたびにトイレの水を流すわけですから、水道代も馬鹿になりません。そのくらい手を洗う回数が増えたのです。そこで写真のような手洗い、病院でよくお医者さんが洗面器のような容器で手を洗っているイメージで手を洗う場所を作ってみました。聖天様が飲食されるお供物については(この言い方が正しいのかわかりませんが)確実に毎回手を洗う習慣をつけなくてはいけないと思っています。
一番水をお出しする。花びらを浮かべる。
まずは、例の麦飯石で作った水を冷蔵庫から持ってきて、お水を供えます。
麦飯石に関する記事はこちら
そして、花から花びらを頂き、それを水に浮かべます。花びらというのは中々もぎ取り憎い花とそうでない花があり、菊や梅は結構簡単ですが、頭の大きな花はそのまま花全体が落ちてしまうこともあります。そんな花に限って、花粉の多い花で、その瞬間花粉症の私の鼻を攻撃してきます。花が無い時は、以前ご紹介した樒を常時お供えしているので、樒の小さな葉っぱを浮かべます。
ところで、コップの水は一度捨てて、これを拭きますが、これが結構厄介です。なかなか綺麗になりませんことは以前もご紹介していますので、こちらのリンクをご覧ください。
水に関する記事のリンク
花の水は毎日入れ替える。
色々と本を見ても、花の水は毎日取り換えるとありますので、毎日替えます。花粉症であれば、これは中々の苦行となります。そう、花は羼提波羅蜜、菩薩行の忍辱を意味します。
水を取り換える際に、例の切花延命剤を一滴入れています。花、特に菊などはかなり長持ちします。たとえば2,3日でダメになる菊でも1週間はもつのではないでしょうか?
切花延命剤のアマゾンのリンク
炊き立てのご飯をお供えする。
朝3時ごろに炊き上がるように、セットされた炊飯器で1合くらい米をたいてあります。これを仏器によそうのは、中々苦労します。こんもりと仏器に盛らなくてはいけません、と自分で思ってやっています。
長くなるので次回にしますが、ここまで、お水とご飯は必ず手をそのつど洗い清め、またこれらの食器は聖天様の専用で、専用の布巾で拭いています。これでもまだ不足かもしれません。
次回は、特に苦労するお茶、大根、お菓子などの供物、そして荘厳ということに触れて、勤行前の準備を終わらせます。
合掌
2021年04月05日
仏教信仰入門 J-3 集諦とは? (図解)
集諦は我々の病気の原因です。そして、肉体的にも精神的にもそれは欲の集積ということが言えます。肝臓が悪くなれば、それは永年のアルコールの摂取の積み重ねであるし、糖尿病になれば、それは積年の贅沢な食生活に起因するのでしょう。肺がんになれば、やはり習慣的な喫煙ということがよく言われる。生活習慣病とは正にこの集諦のことで、あらゆる苦諦は、その人間の欲望という習慣集積の結果ともいえます。
ただ、ここで思うのは、そこに個人差がある。どれだけ飲酒を重ねても肝臓を悪くしない人もいる。ボイラーのように喫煙する人でも、肺は綺麗だという人もいる。それはその人の体力、体質のせいかもしれないが、不平等だとも思う。という事は、どれだけ欲望の激しい人も苦諦に陥らない場合もあるのではないか?
しかし、お釈迦様のみつけた真理は、この人間の不平等ということにも実によく配慮している。だから一見特有の具体例のような内容の説法にも普遍性があります。
そもそも、人生は期限があり、終末があることにおいては、全ての人に平等であり、そして、どんなに華やかな人生にも暗転の日が来ることは誰しも納得するところです。その期間において、長さにおいて不平等ではありますが、よい時間が長ければ長いほど、その思い出に苦しことも大きく、終活とは正に、この時点において行うものではないか思っていますがこれは余談です。
現代社会において、宗教をおおっぴらに語ることは実に控えめです。誰が何の宗教を信じているのかもわからず、自分の祖先が何を信じているのかもよく分からない。オウム心理教の事件も含め、宗教をしているというとどこか色眼鏡です。そのかわり、現代社会の精神支柱は”愛”です。家族愛、夫婦愛、親子愛、恋愛、愛を含む言葉は、変換候補なしにすぐに変換されます。愛と言う信仰があるといってもよい。愛と感動の云々は必ず涙を呼び起こす。ところが十二因縁でもあったように、仏教において、この愛に対する観念は実に、ドライというほかはありません。愛とは苦の因に他ならないというのです。また激しい愛は、転じて、激しい憎でもあるというのです。
愛欲と性欲はどう違うのか分かりませんし誰かに教えてもらいたいところです。愛のない、性欲の成就は誰からも基本疎まれるところかと思いますし、私の人生の失敗も正にそこにありました。そしてお釈迦さまはこれが、集諦の一つであると説くのです。
人間として生活をしていれば、どこかで人生に疲れ、自分を癒してくれる楽園に行きたいと考えるのでしょう。現世では、もうこれ以上何をしても無理だとの諦めもあります。
あらゆる自らの罪が、苦諦が重なって、にっちもさっちもいかなくなった時に、人は消えてなくなりたいと考えます。死にたいという人もいるでしょう。「私は貝になりたい」という映画がありました。自分と言う存在を消したいと考えるのは当然、人生が良い時に起こる病状ではないと思います。
苦諦は、今までに勉強した十二因縁、貪瞋痴といった煩悩もまた大きな要素として含まれるものです。
使い古された、陳腐な慣用句、「愛とは何か?」という問いにお釈迦様の答えは一貫しています。愛とは苦の因、愛とは憎なしにありえないもの。
次は滅諦にはいります。
合掌
2021年04月04日
仏教信仰入門 J-2 苦諦とは? (図解)
苦諦は我々を病気にたとえ、その苦しみの病状であると説明しました。
一体、我々人間はどんな病気を持っているのでしょう。私は思うのですが、ここまで具体的で、それでいてどんな状態にも当てはまる象徴による対象化、それこそがお釈迦様のすごさなのでしょう。
人間は生きているその状態で肉体的に四苦、精神的に更に四苦、合わせて八苦の苦しみを抱えています。まずは肉体的には、
この4つの分類では、生まれることが入っています。ということは、生まれる前があって、生まれた時の苦しみを数えているものと思います。輪廻の死生観のたまものでしょう。
そして、精神的には、更に四苦があげられます。
この4つは、一つ一つ見ていきましょう。
それが誰であれ、愛する者と別れることは辛いもので、愛していなくても好感を持っていたり、仲良くしている人とは、とかく別れなければならないことがあります。それが死を持っての別れである場合もある。転勤、単身赴任、早逝、難病、徴兵、その喪失感は何を持っても抗えるものではありません。
ところが、憎い相手、不俱戴天の仇は、何故か自分の元から去りません。むしろ自分の傍にいて、こちらの背中をつついたりするものです。もう顔も見たくないのに、何故か携帯電話を何気なく見ると、その者の写真が保存されていたりするものです。全くもって、こういう時には自分の身の置きどころが無く、内心では怒りに燃えているが、それをまともにぶつけることも出来ず、これを持って精神の苦しみとしています。
RCサクセションの「雨上がりの夜空」にという歌があります。この歌は、よく読むとこの求不得苦と五蘊盛苦を聞いた時、真っ先に思い浮かんだ歌です。著作権のこともあるので、ここに歌詞は載せませんが、(ちなみにさっき検索したら歌詞が変えられていました。)私は男性なので、男性的な苦しみしか想像できませんが、求める情熱は強大で、その対象である女性は常にか弱いのです。疲れていたり、病気だったり、そういう理由で。しかしその断固とした拒絶は、求める情熱より更に強大で、何も寄せ付けません。体調が悪いといいながら.... 勿論、男女間のことだけではないでしょう。求めよ、さらば与えられんではないのです。
そして、その求めるエネルギーは、健康であればあるほど五蘊が欲望をたぎらせ、求める相手の断固たる拒絶とは全く相反する形で増大します。そして更に求めるものを得ることが出来なくなるのです。
以下に辞書に書いてあるお釈迦様の言葉を引用します。
" (前略) 次に比丘らよ、輪廻転生に導き、喜びと貪りを伴い、いたるところで喜び楽しもうとする熱愛欲求(渇愛)-欲愛、有愛、無有愛ーなるものは「苦の集(原因)」であるというのが、苦の生起の原因に関する神聖なる真理(苦集聖諦)である。”
私は熱愛を善とする世界に生きています。そして自らに照らし合わせれば、そう思っていたけれども熱愛などではなかったという証拠がいくつも思い当たる。ところがそうと思っていたので、浦島太郎になってしまいました。
以上でこの身につまされることだらけの苦諦の説明は終わります。次回は集諦です。
ただ、上記「渇愛」も興味深く、これもまた別の機会に勉強します。
合掌
仏教信仰入門 J-1 四諦とは? (図解)
お釈迦様は言いました。人は自らの体、心に真理の光を当てることによって初めて仏道を歩むことが出来、その積み重ねの中で得た正しい智慧によって解脱にいたると。苦しみから解放されると。
「眠れない者に夜は長く、疲労せし者に一里の道は遠い。真理の法を知らぬ無明なる者には、生と死の輪廻の道は果てしなく長い」(法句経)>>>>>> 引用は引用文献一覧へ。
まずは、長年の貪瞋痴による罪があり、それによる苦しみがあり、それから救われたいと思い、聖天様への信仰に入り、すると色々と自らがお祈りをするには問題があり、何故ならそれは、仏教の基礎を理解しないで信仰に入っているからであり、そのように悪因を辿って、本日2021年4月4日、いよいよ仏教の根本思想である四諦にたどり着きました。
仏教とは小学1年の次は2年、その次は3年とコースを学ぶこともあるのでしょうが、我々のように必要に駆られた罪深き凡夫は、仏様の方便に引かれ、こうして今、四諦を語っているのです。
謂わば、我々人間は病気です。病気に苦しんでいます。この世に生まれ病気でない人間は一人もいない。それを苦と呼んでいます。どんなに爽やかな善良な人間でも、人知れず苦しんでいる。私のように諸悪の権現ながら愚かで弱い人間など苦しみが何であったか分らぬほど、苦しみと楽しみを混同しているほど重病です。お前と一緒にするなと言われてもそうなのだから仕方がない。苦しみの前に人間は平等です。
@この病気の病状を苦諦と言います。
Aそして、お医者さんはその人が、何故病気なのか、原因を把握しなければならない。それが集諦です。
Bそして、その病態をどのような健康体にするかをお医者さんは知っています。それが滅諦です。
C最後にその人にあった治療法を施す。それが道諦なのです。
お釈迦様が菩提樹の下で今までこのブログで説明した縁起の道理を悟られたのですが、これを分かりやすくして、衆生を指導教化するために考えられたのが四諦なのです。
次回はその四諦の1、苦諦について勉強しましょう。
合掌
「眠れない者に夜は長く、疲労せし者に一里の道は遠い。真理の法を知らぬ無明なる者には、生と死の輪廻の道は果てしなく長い」(法句経)>>>>>> 引用は引用文献一覧へ。
まずは、長年の貪瞋痴による罪があり、それによる苦しみがあり、それから救われたいと思い、聖天様への信仰に入り、すると色々と自らがお祈りをするには問題があり、何故ならそれは、仏教の基礎を理解しないで信仰に入っているからであり、そのように悪因を辿って、本日2021年4月4日、いよいよ仏教の根本思想である四諦にたどり着きました。
仏教とは小学1年の次は2年、その次は3年とコースを学ぶこともあるのでしょうが、我々のように必要に駆られた罪深き凡夫は、仏様の方便に引かれ、こうして今、四諦を語っているのです。
四諦とは何か?
謂わば、我々人間は病気です。病気に苦しんでいます。この世に生まれ病気でない人間は一人もいない。それを苦と呼んでいます。どんなに爽やかな善良な人間でも、人知れず苦しんでいる。私のように諸悪の権現ながら愚かで弱い人間など苦しみが何であったか分らぬほど、苦しみと楽しみを混同しているほど重病です。お前と一緒にするなと言われてもそうなのだから仕方がない。苦しみの前に人間は平等です。
@この病気の病状を苦諦と言います。
Aそして、お医者さんはその人が、何故病気なのか、原因を把握しなければならない。それが集諦です。
Bそして、その病態をどのような健康体にするかをお医者さんは知っています。それが滅諦です。
C最後にその人にあった治療法を施す。それが道諦なのです。
お釈迦様が菩提樹の下で今までこのブログで説明した縁起の道理を悟られたのですが、これを分かりやすくして、衆生を指導教化するために考えられたのが四諦なのです。
次回はその四諦の1、苦諦について勉強しましょう。
合掌
2021年04月03日
声聞のネタバレなし映画レビュー 韓国映画遍 F「オアシス」
映画のプロフィール
「オアシス」
監督 イ・チャンドン 出演 ソル・ギョング, ムン・ソリ, アン・ネサン
アマゾンのリンク
どこの国の映画か
韓国映画 2002年映画のジャンル
露骨な描写、しかし後味の良いロマンス。当人たちが傷つかなければ、一寸でも希望があれば、ロマンスとして成り立つのだという真理。
最後までみたか?
韓国映画で最も感動した映画のひとつです。最後までみました。
ビックリしたか?驚いたか?
全く先入観なく、前情報なく、この映画を見れば、後で驚くことだらけでしょう。びっくりしました。
特筆すべき男優、女優はいたか?どのように?
この映画を最初に見た時は、ソルギョングは只の朝鮮人の兄ちゃんだったし、ムン ソリは韓国の地味な脳性麻痺を持った女性でした。こうした先入観なく見た後で、色々と韓国映画を知るにつれ、じわじわと感動するのも一考です。韓国の俳優でソルギョングは、今一番好きな俳優です。
この俳優はカメレオン俳優とよく紹介されているが、それは恐らく役作りにおいて潔癖な人なのだと思います。ですので、映画のタイトルのカバーの写真だけで、ああこれがソルギョングが出ているのか?とは分からない。それくらい映画毎に顔形、風体が違います。
もう一度みたいか?
2度見ました。一緒に見て困る人はいるか?
一人で見た方が、気を使わなくていいと思います。あと、もしいい映画だと思っても人に激しく推奨しないことです。理解できない人もいるでしょう。障害を描く映画と言うのは、とにかくこちらが恐縮してしまうようなことばかりで、見終わった後に口では(元気をもらいました)とかいいながら、心の中では憂鬱になってしまう場合が多い。ところがこの映画の手法だとそれが起きない。むしろ、純粋に発達障害とか、脳性麻痺といった人とそれをとりまく環境を、ドライに描くことが出来たようです。ただ、人によっては、この手法に怒りを感じる人もあるかもしれない。
印象に残るシーン
@ソルギョングの鼻水。刑を終えて釈放され、夏服で寒い韓国の町中を徘徊する。この飄々として、物事にこだわらない、しかし、サービス精神旺盛で、目標をもったら、周りの目を気にせず突っ走る、だから周りに嫌がられるのでしょう。
Aムン ソリの障害。一体、障害をもった人が、人と同じことをするのにどれだけ苦労しているか?ソルギョングは内面に障害を抱えており、ムンソリは外面に障害を抱えているわけです。見たところ、ムンソリは内面的には正常に見えました。だから、正常者のように振る舞うことを常にイメージするのでしょう。またオアシスの絵にかかる枝は彼女の小さな日常に影を落としています。
B家族兄弟が障害者であるムンソリへの国からの支援で、いい家に住み、障害者のムンソリを古い汚いアパートに一人で住まわせて、本人の幸せなど顧みないが、どこか後ろめたく振る舞う事。
Cソルギョングの兄は、ムンソリの親を車で引いて死なせたが、前科のあるソルギョングが身代わりになって罪に服役し、ところが帰ってきても家族の誰からも歓迎されず、むしろ厄介者扱いされること。しかもそうして助けた兄に再三再四ダメ人間呼ばわりされ、説教されること。
D最初の出会いにおいては、恐らくソルギョングは五蘊の健全さからムンソリに懸想したと思われるが、ムンソリの内面が自分よりしっかりしていることに気が付き、尊敬の念から愛情を覚えるようになったこと。
E最後のシーン。
仏教的にはどうか?
ソルギョングの役には性格的なものか、葛藤はなく、どんな状況でものほほんと暮らせていけるようである。一方、ムンソリはかなり深い内面世界をもっており、その世界においてお姫様(コンジュ)なのだろう。ソルギョングはすでに解脱、得心した状況にあるのではないか?それが周りにいる気の小さな罪人にはうっとうしくて仕方がないのかもしれません。
神父が何度か出てくるが、ソルギョング自体の宗教観は希薄であった。
点数(10点満点)
9点
合掌