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2021年06月06日

生存報告

SEIZON.png

こうして昼間から暗い、この部屋に寝ていると、時計の音がします。
部屋の電灯は壊れ、エアコンは電気代節約でコードを抜いてありますが、
少なくとも時計は、まだ動いているようです。
無音の時計は、私にとって意味がありません。

こうしてこの部屋に寝ていると、一階で母がバタバタと歩く音がします。
母は70を超えてもまだまだ元気です。
子供の頃から、家の中の音の大半は彼女が発生させていました。
私が子供の時代から、彼女は無邪気に、私を急き立てていました。

更に耳をすませると、空の彼方でジェット機が飛んでいる音がします。
あれは、いつの頃からか、日本の空を自在に飛び回るアメリカ軍のジェット機に違いありません。
このあたりで、最も高台にある私の家の屋根を目印に、飛んでいるのです。
編隊で飛んでいるともっと大きな音がします。
向きはいつも南です。

少し意識を下げて耳を澄ますと、トラックのエンジン音が聞こえ、
それが私の家の近くでピタリと止まります。
それは、宅配便です。何故なら、ゴミの集配車なら、エンジンを切らないからです。
それに、宅配便の扉は引き戸で、ガラガラと音がします。

どこかで、自動車の扉を閉める音がします。その響きは明らかに不満そうな響きです。
二回音がしたという事は、二人で乗っていたか、荷物を別の席においていたか...
何に不満なのか分からないように不満を表明するときは、人は自動車の扉を思いきり閉めるようです。
そういう意味では、ゴミの集配車もこの音は似ています。
同じ不満を抱えているのでしょう。

ああ、あの音は郵便局の配達のバイクに違いありません。
あのジューサーのスイッチを恐る恐る、つけたり消したりするような断続的なアクセル。
嫌な報せがブレーキで、良い知らせがアクセルです。
ですから、うちに良い知らせがくることは皆無です。

耳を澄まさなくても、賑やかな音がして、小学校から集団登校の児童が帰ってきます。
歩きながら、彼らは体でも悪いのか、「うー」 とか 「げー」 と叫んでいます。
何人もいるのに、不思議と同じ児童の名前が連呼されています。

階下で、どこの王様を怒らせたのか知りませんが、檻に閉じ込められた、
我が家の可哀想な兄弟猫が、餌がもらえず、母に催促をしています。
その催促の声に交じって、兄弟猫の母親が何やら切ない声を出しています。

雨がやみ、聞こえる、小さい音に耳を澄ますと、それは名前の知らない木に止まっている
名前を知らない小鳥です。
最近は、私の唱える真言のおかげで、カラスの鳴き声はめっきり減りました。

この町には犬を飼っている人が、大勢いるはずなのに、なぜかその啼き声はしません。
あの犬たちはどこへ行ってしまったのでしょう。
或は、息を潜めて何かが起こるのを待っているのでしょうか?
外を散歩をすると、犬の散歩を沢山見かけるのに、このあたりで犬の気配がありません。

あれ、おかしいな?

私は耳で一生懸命、何かを探していました。
何かが足らないのです。
ただ、昔からその音は、しっかりと聞こえたことは稀で、それが聞こえないからと言って不安を感じたことは
ありませんでした。全くあきれるほど無関心でした。
でも今は、それが聞こえないのは困ります。
私は、何のために耳を澄ましていたのでしょう。

私は、私が生きている音を聞こうとして耳を澄ましていたのです。
ところがそれらしき音は全く感じることができませんでした
私はしきっぱなしの寝床の毛布の上に横になり、スマホを手に持ってこの文章を音声入力しています。

スマホを持つ左手の付け根に私はそれを見つけました。
僅かではありますがその付け根が静かに上下しています。
それは、わずかな動きではありますが、私が生きているという唯一の証です。
あそこを、人より高い圧力で、血が循環しているのに違いありません。

やっとこれで、あの人たちに生存報告を送ることができます。

ここまでの、生存報告を文章にして、今から世界を駆け巡るインターネットに送り込みます。

あなたはぼやくはずだ。

>あいつまだ生きている。
>まだ生きてやがる。
>打ち止めしてやったのになあ
>起き上がれないくらい、打ちのめしてやったのになあ。

こうして昼間から暗い、この部屋に寝ていると、スマホをとおして微かに、あなたのぼやく声が聞こえます。
私は、即座にスマホの電源を切り、床に投げ、それに背中を向けて眠るのです。
無事に再び目が覚めることを祈りながら....

合掌

2021年05月31日

ベランダ

写真の人物と本文は一切関係ありません。
BERANDA.png


また、あの夢を見ました。

あの夢を見るたびに、汗をびっしょりとかき、喉の渇きで目が覚めます。

部屋は、確か、8階でした。

広い、何の洒落た設えもない、白い壁の部屋でした。

疲れて、帰ってきた私はその疲れの理由を、キチンと始末せず、もう寝ていた家内の隣にコッソリと横になり、そのまま高いびきをかいて寝ていたようでした。

年中熱い国にいたので、部屋は冷房で、何かを咎めるように冷えています。

生ぬるい空気で、目が覚めました。

部屋の片隅で誰かが、私を睨みつけて、その瞳孔の光が並び、やがてそれは、横で寝ていた妻であると分かりました。

妻は、私を睨みつけながら、「何故だ?」「何故裏切った!」と低い声で尋ねました。

その回答に窮し、眠気も、あの店で飲んだ安物のビールの酔いも、刹那に足元に堕ちました。

睨みつける二つの目の光以外に、彼女の手に何かが光っていました。

それは、彼女がよく酸っぱい果物を食べる時に使っているナイフでした。

それを持って彼女は暴れ出しましたが、この時点で未だ私は冷静でした。

こんなことは、一緒になってから何度もあったのです。

それよりも、あの財布の中に入っていた、「証拠」の隠滅が気になっていました。

暴れる彼女を、私は押さえつけました。

いや、こんなことは何度もあったのです。心配はいりません。

もみあっているうちに、機嫌が治ることもままあります。

むしろ、その後の、弁明を考えなければならない。

ふと気が付くと、裸の私の右腕の裏側に、違和感がありました。

触ってみると、それはべっとりとしており、暗くてよく分かりませんが、多分血でした。

多分と予測がつくのは、こんなことが初めてではなかったのです。

ですから、自分の血であることもすぐ分かりました。切り傷とは不思議なもので切られた者は少し時間がたってから気が付くものなのです。痛みは、更に後に訪れます。

そして今までは、この血を見て、彼女は怒りを鎮め、逆に謝ってきて、仲直りをしたこともあったのです。

ですから、安心してください。ここまでは、よくあることなのです。

ところが、あいつは、その血には一瞬たじろいだものの、更に怒り出し、ナイフを捨て

「私はあなたには必要のない女だ。死ぬしかない」

と言い出し、いつ開けたのか知りませんが、あけ放った窓からベランダに飛び出したのです。

そして、暗いベランダの手すりに乗り出し、飛び降りようとします。

狂気はパターンを逸脱し、嫉妬に狂った女は、今正に夜の空に飛び立とうとしていました。

流石に私には想定外の行動でした。

私は、必死に止めようとしましたが、その手すり、欄干から引きずりおろすことは、躊躇しました。

「今の妻なら、無理心中だって、平気でやるに違いない。」

私の彼女を観る安全基準は変わっていました。

どうやったのか、よく覚えていないのですが、体はベランダの手すりから体半分どころか、膝のあたりより上が出ており、まるで曲芸師のように立っており、それは最早、私の知っている妻ではありませんでした。

この時点で、既に私は、彼女が墜落死した時の、会社への言い訳を考え始めていました。

このマンションには上司も住んでおり、上の階にいましたので、もしかしたら、この騒動に気付いているかもしれませんでした。

この状態で、どれだけの時間が経ったかしりません。

でも、どう考えても、ちょっとした失言で、彼女は、空を飛びそうでした。

「やめて、叔母さんが死ぬなら、私も死ぬ」

その時、傍らに、同居している姪が立っていました。

私は、何故彼女に止めて貰うことを考えなかったのか?自らの不明を恨みました。

そうして、家内は、妻は、私の知らない人は、あいつは、沸騰した蒸気を鎮め、ベランダの手すりからおりてきたのです。

その日から、何度となく、私は目覚めると、空いているベランダの扉を見て、戦慄しました。

そのことが、トラウマとなり、家内のことを思い出すたびに悪寒を生じ、家内のことを書こうとすると、お気付きでしょうが、その呼び方が、著しく「表記ゆれ」するのです。

家内は、妻は、私の知らない人は、あいつは、味をしめて、何度となく私が寝ている間に、ベランダにうずくまっておりました。

30年近くがたち、人生も行き止まりとなり、もう家内とはとっくに分かれていましたが、これ以上生きていくことは出来ないと思い、死に場所を探し、あるコンドミニアムの20階?から、飛び降りることを画策しました。

でも、その度に、あの不悲落涙餌牛魔に邪魔をされ、また内心邪魔をされるのを待っているような情けない生への未練もあり、結局飛び降り自殺は成就しませんでした。

不悲落涙餌牛魔に、下から呼ばれ、自殺をするだけのために借りたコンドミニアムから地上に降りてきて、私は不思議な光景をみました。

消防隊、レスキュー隊の服装をした、いかつい男たちが、大きく四角い、ビニールの袋状の物を片付けているのです。

その時は、不思議に思いましたが、その後自らの置かれている立場を理解して、私は全てを悟りました。

あれは、誰かが飛び降りた時に受け止めるためのトランポリンのような、エアクッションだったのです。

私に、ここで死んで貰っては困るの人が大勢いるのです。

そして、30年前、家内が、何故あそこまで踏み込んで、ベランダの欄干に立つことが出来たのかも....


合掌



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2021年05月25日

真言を唱える

shingon.png

真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く 一字に千理を含み 即身に法如を証す

弘法大師様は、仏教、密教で唱える真言を、このように言われました。
この1年、毎日真言を唱え、確かにと肯かされることばかり起こります。

そもそも、50年以上、夜更かし、寝坊、それが日常でありました。 しかし今や、夜は9時前に寝、朝は3時に起きています。午後の2時になると眠くなってきます。9時はPMで、3時はAMです。

そもそも30年以上、何事もお酒に頼って生きてきました。嫌なことがあれば酒、良いことがあれば酒、何もなくてもとりあえず酒、そういう人生を送ってきました。
我慢のきかない人間です。

日常の連続に、うわーっとなり、今日はサボろうかとなり、大学に入っても校舎には行かず、サークルの部屋に通うような男でした。

そして、 邪淫、女、人生を踏み外した原因です。

無明の塊のような男でした。
そして気がつけば、 足下には、わずかな足場しか残っていませんでした。

真言を唱えだして、唱えだしたのは去年の10月ですが、高圧電線に群がっていたカラス。 この家の近辺はカラスの鳴き声で騒々しかったのですが、最近はほとんど見なくなりました。

カラス同様、この家の上を、毎日のように飛んでいた米軍のヘリ、米軍の輸送機、流石に戦闘機は見たことありませんが、そういうカラスのような色の飛行機が飛ばなくなりました。こんなことを書けば、また復活するかもしれませんが、明らかに減ったと思います。軍荼利明王様の真言の効果かもしれません。

家の周りの子供たちは、以前は公園で遊ぶことが少なかったのですが、私が定期的に真言を唱えるようになってから、公園に彼らの笑い声が戻ってきました。

また私は、小さい頃から鼻を患い、蓄膿症です。しかもここへ来て花粉症を併発しているわけですが、これもまた、 仏様の勤行に入る前は、散々鼻水をかんでいるのですが、真言を唱えだすとピタリと止まるのです。

私は30年近く熱帯の気候の中で生活をした浦島太郎ですが、2年前に日本に帰ってきて何度も風邪をひき熱を出し、寒いところでは生きていけないのではないか、と諦めていたところ、、真言を唱えだしてから風邪一つ引きません。季節の切り替わりの時に、 調子の悪くなる時もあったのです。ところがそういう時でも、真言を唱えるとあら不思議、勤行が終わった後は直っています。

どの真言が何の効果をもたらしてるのか、それは明確には分かりませんが、毎日、

何よりも最強の守護神である聖天様の真言を唱え、

朝の太陽の光を浴びながら、光明真言(こうみょうしんごん)を唱え、

全ての魔を退散させると言う、尊勝仏頂陀羅尼(そんしょうぶっちょうだらに)を唱え、

過去の罪業を全て 消失させると言う、一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼(いっさいにょらいしんひみつぜんしんしゃりほうきょういんだらに)を唱え

大金剛輪陀羅尼(だいこんごうだらに)で、日々の 細かい悪業を滅消し、

消災吉祥陀羅尼(しょうさいきっしょうだらに)を唱えることで自分の頭上が、ぐるぐると回り、それとともに大きな運命の歯車も一緒に回るのを観じ、

阿弥陀如来根本陀羅尼(あみだぶつこんぽんだらに)で、自らの命が尽きた時の為、終活をし、

延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)と、妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぽんげ)で、観音様の大いなる慈悲に触れ気持ち安らかになり、

大悲心陀羅尼を唱えることで、自分の周りにいる、或は、死んだ祖先や、生き別れの子供、死んだことになっている旧友、一切の有情に対する慈悲心を養い、

あらゆる不安、煩悩、欲望、貪瞋痴、一切を、般若心経が滅消してくれます。

そして、この素晴らしい密教を広めた、偉大なる弘法大師に、私の感謝の真言を三遍唱えます。

ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました

合掌








目覚め

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ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。
青空文庫「走れメロス」より
誕生

気がつくと、私は病院のベッドにいました。
周りでは白い服を着た人が、それは後で、看護婦さんだと知りましたが、忙しそうに働いていました。時々私を振り返り、顔を作り、私を笑わせようとしました。私は決しておかしくもなかったのですが、笑った方がいいと思い笑顔を見せました。その頃から嘘つきだったのです。

それが思い出と言うならば、それは私を傷つけない思い出です

事故

気が付くと私は病院のベッドにいました
そしてなぜか足が動かず、顔も何かで覆われていました。
後で私の右手と左足はギプスをつけられていると知りました。
私は幼稚園の前で小型トラックにひかれる事故に遭い、3ヶ月入院していたのです。
ここでもまた、看護婦さんは私に優しくしてくれました。
隣のベッドにはスキーで足の骨を折った男の子がいて、その子も同じ位の長さのギブスを足につけていて、どちらが先に取れるか競争をしました。

頭に何をつけているのかよくわからなかったのは、私の複雑頭蓋骨折のギブスだったのです。その時点で私は隣の男の子にギプスの数で勝ち、競争で勝てないことを知りました。

お医者さんから母は、命の保証はできませんと言われたくらい重傷でしたので、この頭のこともあり私は3ヶ月入院することになったのです。

自由のきかないうちは苦しい入院だったはずですが、なぜかその苦しさを覚えていません。むしろそのギブスを外した後、あるいは点滴を外しても良い、食事をしても良いと言われた時の、嬉しかった思い出だけが残っているのです。お医者さんが来るたびに、良いニュースがもたらされたました。

毎日、太い注射をされたことを覚えていますが、それすらも嫌な思い出ではありません。
何より水を飲んでいいと言われ、事故以来初めて、水を浸したガーゼを口に含ませられた時、水って美味しいものだな、と感動したものです。

白い看護婦さん、白いガーゼ、白いギぷス、屋上に上がると看護婦さんとお手伝いさん達が笑いながら、毎日、白いシーツを国旗みたいに棚引かせて、何枚も干していました。

不思議なもので、当時はまだカラーテレビはなかったのですが、あの頃の思い出は全て白黒なのです。

この思い出もまた、私を苦しめることはありません。

手術

次に目が覚めると、いや正確には手術が終わると、私の陰部の右側に何か大きな違和感を感じました。ヘルニアの手術です。部分麻酔なので私は目を開けたままで手術をしました。そんなに長いこと入院していたわけではありません。思い出といえば看護婦さんにからかわれたことぐらいです。

ここまでの思い出はすべて白黒です。色がありませんが、苦しみの思い出ではありません。

この頃のことを思い出そうとすると、何故か、西武池袋線の江古田駅の駅前の風景が浮かび、(しかも行ってみるとそんな風景ではない。) 赤い鳥の「翼をください」が流れます。
また、どこかの住宅街の長い坂を、自転車を押して上がる白い少女の姿と共に、松任谷由美の「ひこうき雲」が流れることもあります。

それから何十年と経ちました

私は目が覚めたらどこそこにいました、というようことで病院に行くことはなく、大概は見舞いか、誰かの病気の診断の付き添いか、今となっては偽りであった出産の立会いか、あるいは生まれた子供だと偽られそれを見に行くか 、難病だというその人の看病を何ヶ月もさせられ、幸いにも、病院に行く私そのものは健康でした。

集中治療室

目が覚めると、私は階段の踊り場に転んで血まみれになって倒れていて、二人の見たことない警備服の男達が、私を一生懸命抱き起こそうとしていました。
抱きかかえられ、外に運ばれると、一緒に暮らしていた不悲落涙餌牛魔(ふひらくるいえぎゅうま)が、涙ひとつ見せず、わんわん泣いておりました。

そう、私は自殺を図ったのです。ところがそれはうまくいきませんでした。
頸動脈を狙って、ホームセンターで購入した彫刻刀を刺したところ、確かに血は吹き出したのですが、悲しいかなその血は、高脂血症の為、ある程度血が出た後、すぐ固まって血が止まってしまったのです。
不摂生であれば、自分で死ぬこともできないのです。

最初の病院で腎臓が悪いと言われ、そこが私立で高いので、国立の、その国の王様の名のついた病院に行くことになり、その病院で集中治療室に入れられました。
実際にはそんなに重い症状ではなかったので、私だけ不釣り合いな患者でした。後で思うのですがあればわざわざああいう場所に放り込み、今日も知れぬ命を生きてる人を見せるためだったと思われます。あの人たちはどうなったのでしょうか?

看護婦は私に、私が彼女の言葉を分からないと思っているのか知りませんが、自殺をするものを軽蔑すると目前で言いました。しかしながら、それ以上の軽蔑が込められていたことを後で知りました。

結局、その病院に2週間近くいましたが、そこで起こったことは、つまり、妊自在中絶魔(にんじざいちゅうぜつま)の親子と縁を切り、不悲落涙餌牛魔(ふひらくるいえぎゅうま)と一緒に暮らすことでした。
私は甘かった。まだその段階で、甘いことを考えていました。病院のベッドにいる私は、誕生の時と何も変わっていませんでした。

ベッド

次に目が覚めると、あの不悲落涙餌牛魔 (ふひらくるいえぎゅうま)が 横で寝ていました。私は毛布を深くかぶり、右にも、左にも横にならず上を向いてまっすぐに寝ていました。
昨晩この女に、この国家公務員に、無理やり何か毒のようなものを飲まされたので私は覚悟してもう二度と目を覚ますことはないと思っていました。

それは精神安定剤と言われていましたが、私の目を潰すか、あるいは私を眠らせて二度と起きないようにするか、あるいは私を眠らせどこかに閉じ込めるか、そんな用途の薬に思われました。どんなに太い注射も、どんなに長い手術も、麻酔のマスクで口を塞がれた時も、この一粒の薬に籠められた悪意には適いせんでした。

もう駄目だと言っても、しつこく、拒否しても、飲ませようとするものですから、もう駄目だと思い、私は覚悟を決めて飲んだのです。

ところが目が覚めると、昨日と同じベッドにいたものですから、そんな不幸の連続、狂気の沙汰、百鬼夜行の中で、一服の清涼剤でした。あの時だけは、未だ生きていけるという思いに久々に安堵したのです。

子供の頃、命拾いしました。お蔭で、自分はラッキーな人間であると内心、満足しておりました。
確かに、1億人に一人も遭わない不運に恵まれました。

白黒の甘い思い出と、カラーの辛い現実。
目が覚め、潺の水をガーゼに浸して口に含み、メロスのように希望を持って生きて行けるかしら?
でも、確か、卒論は太宰治で、「走れメロス」のこの文章は、川で何度も無理心中し、死に損ねた人でないと分からない表現などと書いて、卒業することが出来たのです。

つくづく、罰当たりである。

合掌









2021年05月23日

鶏と卵

NIWATORI.png

この間、ブログの数供養で、鶏の1年間に消費される羽数を見ました 。650億羽、牛や豚は何トンと表現されていましたが、鶏はちゃんと羽数まで数えられていました。 牛や豚より小さいのに...。またご丁寧に、現在生きている鶏の数も 230億羽と把握されているのです。

ただ卵は、 羽数ではなく 2273万トンと重量で把握されていました。

鶏は食べられるために飼育され、我が子の顔を見ずして、その子もまた、人に食べられるために増やされるのです。

こんな当たり前のことですが、無関心ならそのままで無関心で、いれることです。

これは、人類の鶏に対する殺傷を批判する記事ではありません。

何故なら、私の体はほとんど鶏肉で構成されるているといってもいいほど、鶏肉好きなのです。

小さい時に友達の誕生会に呼ばれ、何人もの友達が呼ばれたのですが、その家は裕福な家で、その家のお母さんとお姉さんが手羽先をたくさん、お昼ご飯のために作っておいたと思いますが、友達が皆、野球をしてる間に私ともう1人食いしん坊の友人は、こっそりその手羽先の所へ行き、残らず食べてしまいました。隠れて食べたことも手伝って、本当にあれは美味しかった。
そして、どれだけ怒られたかも覚えていないほど、あれが初めて、他人に怒られた最初でした。

昔、我が家では どこかでいいもの食べようかということになると、新宿の中村屋に行き、そこで中華料理のコースだか、セットだかよく覚えていませんがそれを食べたのを覚えています。 その主役もまた鶏の唐揚げでした。焼き塩とコショウで食べました。

小学生の時に私のおばさんがケンタッキーフライドチキンを買ってきてくれました。それは今まで考えたこともないような味で、肉に辿り着くまでの衣がジューシーで、しかも中身はしっかりと鶏肉でした。

キリスト教徒でもないのに、クリスマスには当たり前のように鶏の丸焼きが出ると勘違いをし、後になってそれは実は七面鳥でなければいけないということを知りました。

卵、これもまた不思議な食べ物です。どれだけ貧しい生活をしても、卵はその食卓を豊かにします。ご飯だけではどうしようもないところに、卵をかけると、そのご飯はキラキラと光り輝き、口の中に甘くまろやかな舌触りをもたらします。

昔、妊自在中絶魔が、家族数人で、卵一個を分け合って食べたと、貧乏自慢をしておりました。

同じタマゴから作っても、目玉焼きと、卵焼きと、炒り卵と、ゆで卵では、まるで違う国の料理のようです。

今日まで54年の人生、いったい、何世代の鶏の一族にお世話になったのでしょうか?

彼らの命を奪い、幸せを奪い、ぬくぬくと太ったこの体。

人間と卵のこの不条理な関係はいつまで続くのでしょうか? 不条理なことが嫌なら、鶏の一生を考えればすぐさま、その気持ちは収まるでしょう。

最近、毎日真言を唱えていますと、喉に痰が詰まるので、なかなか上手く唱えられなくなり、もしかしてこれは朝夕と食べている卵のせいではないかと考え、卵を食べることをやめることにしました 

今の私は一昨年の経験から学ばなくてはいけません。 10年、20年、30年、そんなスパンでは何もないかもしれませんが、あるいは彼らは心の中での強かな怒りが、今その復讐の成果が着々と私の身に発現しているのかもしれません。

そもそも癌というものは、私たちがいろいろと殺生して食べた生き物が、最後の抵抗として私たちに残した爆弾なのかもしれません。

動物がかわいそうだ、動物を大事にしようね、でも家畜は、パクパクおいしいねと食べる。

多面的矛盾こそが人間 の本性であり、人間こそが矛盾をおっかなびっくり楽しんで生きる生き物なのです。

鶏と卵は可哀想だ。鶏と卵に感謝しよう。でも鶏と卵はおいしいね。

合掌


タグ:鶏と卵

2021年05月19日

宗教

shuukyou.png
 

世界の真ん中で光明真言を唱える。

 私は、この間まで自分の家が何の宗教を信仰しているのか知らなかった。

 私の父は教育者で、朝日新聞をとり、時に赤旗をとり、時に聖教新聞をとり、そして、それらの新聞の販売員だかを論破して得意になっていたが、我が家の宗教に言及することを見た覚えがない。
 
 父が死んだ後、自分で関心を持ち出したつい最近、父の墓参りに行ったお寺が浄土真宗だと知った。
 
 ついこの間、80才を間近に控えた母に我が家の宗派を尋ねたところ、真言宗であると言い切ったが、実際には浄土真宗だった。その母が南無阿弥陀仏を唱えているのを見たことがない。

 幼稚園はキリスト教であったが、何故父が私をキリスト教の幼稚園に入れたのか、謎だった。何故なら、妹は仏教の幼稚園に入ったのだ。
 
 小学校から大学まで、一貫して、僕の宗教は、私の信仰はと自己紹介した人を見たことがない。
 
 宗教を意識するのは、父が聖教新聞の販売員の悪口を言っている時か、甲子園の高校でPとか、Tとか、そういった宗教法人の高校が登場した時しかなかった。

 このような、宗教に対する無頓着と言うか、宗教を忌避する傾向が我が家以外の日本人にはあるのだろうか?なければ、私の特殊な人生と聞き流してください。

 学生時代はオウムとか、新興宗教がはやって、その勧誘でひどい目に遭ったという話が多くありました。カレー研究会とか入っちゃいかんと言われた。
 
 会社に入ったら、お客さんと宗教の話題をするなと言われた。

 てっきり普通の家族だと思っていた人が、ある日会食で手を合わせ小声で何やら唱えていて、その日から私にはその人が異邦人に見えた。

 多くの人が何らかの宗教を信じていて、信仰をしていることは間違いない。

 自分の信仰を深刻な思いで、隠しているのか?
 
 自分の信仰を美しく、言わぬが花としているのか?

 信仰は犯すべからざる個人情報なのか?

 信仰はこっそりやるものなのか?

 或は、特に、私には宗教の話題をしないようにしていたのか?

 おかげさまでずいぶん遠回りをしました。

 オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラ バリタヤ ウン

 私は、世界の中心で、朝夕、光明真言を唱えて生きていきます。

 私は、普通に生きていきたいという大欲の為に、真言を唱えます。

 合掌





 
  

 

2021年05月14日

未来

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やあ、さっき母が、庭から、あなたの手紙を持って来てくれました。

今の私? 一昨年に、尾羽うちからして日本へ帰ってきました。所謂、浦島太郎と呼ばれる奴です。

日本を出て30年経ちました。

一体どれだけ、日本は進歩してるか説明しましょう。

宇宙旅行とか、宙に浮かぶ自動車とか、核兵器のない世界とか、死なない薬とかは、未だ無いんだが、とにかく仮想現実という、オンラインという、内に内に進化している感じです。月へ火星へという気概は無くなったな。

あなたがあれほど嫌がっていた満員電車も、そろそろ乗らないことが当たり前になるかもしれません。テレワーク、在宅ワーク、ソーホーっていうんだ。ソフホーズじゃないよ。

家で、コンピューターさえあれば、会社に行かなくてもいい仕事があるんです。コロナという感染症のお蔭で、人と人は直接対面しない方が良いという、そういう世界になっているんです。

通勤時間片道2時間なんて、バカげた無駄な時間を使わなくてもいい。この30年、最大の進歩は人に直接会わなくてもオンラインで連絡がとれる技術が発達したことです。こうなると、どこに住もうが一緒です。

銀行の用事も、家で全て済ませるし、学校もそのうち、行かなくてもよくなるし、多分、病院も家にいてお医者さんに見て貰えるようになっているんじゃないかな?
少なくとも、治せるか、絶望かがオンラインで判断できるようになるだろう。
絶望なら、オンラインで葬儀とお墓とお坊さんの予約だ。

オンラインの居酒屋っていうのもある。

戦争だって、オンラインでやってるんだぜ。

まあ恋愛も...

そもそも、携帯電話を皆が持っているので、どこにいても連絡が取れる。どこにいるか偽ることができます。どこにいてもオンラインなのだ。トイレに入っても、風呂に入っても、目覚まし時計も携帯電話でオンラインが起こしてくれる。

そう、オンライン、ここでどう生きていくかが、これからを生きる人間の課題です。

流石に、浦島太郎も、このオンラインのルールには戸惑った。

まず、個人情報と言うのが、あります。
オンラインの世界では、どこに行くにも、そこにログイン(鍵でドアを開けるようなものだ)しなくてはならず、同じ暗証番号(銀行でお金をおろす番号だ。わかるよね?)を使いまわすなとか、生年月日を使うなとか、大事に保管しておけとか、結構うるさいのです。
そうして、色々とログインしているうちに、そういう人には言えぬ秘密が増えていき、これを個人情報というわけです。
さっき数えてみたら、ログインの口座と暗証番号の組み合わせが200以上あった。

今のペースで行くと、どこにこの個人情報を保管すればいいのか分からなくなるな。そういう個人情報を管理してくれるサービスが流行るんじゃないか?

次に本人確認だ。例えば、あなたが長年会っていない知人に偶然会って、誰だか思いだせなかったとしよう。
そうしたら、昔は鉄棒の逆上がりが苦手だったとか、修学旅行でおしっこ漏らしたとか、誕生会で人の分まで手羽先食べちゃったとか、そういう本人しか知らない思い出したくもない過去を言われて、初めて、ああ、あなたは何々さんでしたか?となるじゃないか?

それが本人確認です。

これを、銀行でお金をおろすとき、お金を借りる時なんか、常に本人確認しなくては、なにしろ相手はこちらと対面していないのだから、確認するにはそういうことが大切になる。人間なんて対面してても信用できないんだから。
それだけ信用していなくて、何故かお金を預ける時は、あっさりしてるんだけどね。

そもそも、身分証明書からして、保険証、自動車免許、住民基本台帳、パスポート、マイナンバーカード、と数多ある。これだけ、持っていれば暗証番号など不要なようだが、そうは行かない。

またオンラインの世界では、人間であることを常に宣言しなくちゃいけない。
曰く 「私はロボットじゃありません」

と、いつも宣言しなくてはならないのです。だからと言って、別に街をロボットが歩いているというわけではなく、オンラインでAIという人工知能が時々、悪さをするので、自分が愚かな人間であることを常に宣言するためのボタンがあるのです。

人が直接会わなくてもいい仕掛けは、勿論、利用者側にとっての場合が多いが、逆に大組織ほど、お客さんに...

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ああ、御免、広告だ。オンライン社会では、本文に突然広告が舞い込むので気を付けなくちゃいけない。こうして、コンピューターのワープロで文書を書いていても、油断がならない。

昔、CMの時は出演者が、「今からCMです」と言ってからCMを流したけど、今は突然なんだ。昔は、大人が話をしている時に、口を挟んじゃいけないと叱られたが、今、それはOKだ。

あれ、何の話だったかしら。

そう、つまり、会社が大きくなれば、如何にして小さな多数のお客さんの問題を効率的に片づけるようにするか工夫している。それで、登場するのがAIだ。AIが質問に答えてくれるし、今までの質問から回答例をFAQ「よくある質問」としてそっちを見るように誘導される。

AIも結構きちんと相手になってくれて、発展著しいが、僕みたいな浦島太郎には基礎の基礎から説明しなくてはいけないから、あまり、いい回答ができないみたいだ。

AIと会話するとき、彼は指示する。「私はロボットではありませんボタンを押してください」と。 
黙って言う事を聞くが、それは彼がこのボタンを自分で押せるようになったら世の中一体どうなっちゃうんだろう?という不安からだ。

言い忘れたが、さっき入って来た広告で、SEOとは検索エンジンと言って、例えば何か分からないことがあったら、この検索エンジンに言葉を入れると、オンライン上のありとあらゆる智恵が手に入る魔法のシステムです。これに如何にして自分が検索されるかが、今の社会では重要なんです。権力者です。
でも権力者の割には、割と情報が最新かどうかの検証は甘くて10年前の情報を教えてくれたりする、そういう人間的なところがあります。

ダラダラ説明したけど、結局のところ、あなたの質問には正直に答えることは出来ない。

「僕の未来はどんなですか?成功しますか?有名になれますか?」

そんな質問には答えられないので、はぐらかすために、色々と社会の状態を解説したまでだ。
まあ、有名にはなれるかも知れないとだけ答えておこう。大して重要なことではないが。
SEOに検索されることに比べたら。

これに答えても、今の君は聞く耳を持たないのを知っている。それは君が僕だからだ。

今、私が浦島太郎だという事から色々と想像してみたらいいだろう。

そして、頼むから、今からでもいいから、仏教を信仰して下さい。

仏様以外、誰も信じちゃいけない。

君がついていく先輩は、竜宮城の亀だ。片道で連れていき、そのままどこかに姿をくらます。

この世の中に本当の愛などないし、第一、愛を、お釈迦様は否定しているのです。

愛は苦しみの始まりです。

これから、あなたが出会う女性には、悉く気をつけなければならない。

彼らは、お金の為なら、名誉のためなら、恋人の前でも、他人と寝るような奴です。

仮にあなたの子供を身ごもったのなら、もし、出産に立ち会っても自分の子だと信用しちゃいけない。
本人確認しなさい。

仮に本人確認できても、医者もグルなら、全く意味がない。

これだけ発展した人類も、オンラインの世界で、流石に本心確認はできない。

つまるところ、苦の原因とならない愛など、この世の中にひとつもない。

お願いだから、お父さんを怒るのを辞めて欲しい。お父さんみたいに怒るのも辞めてほしい。
あなたの空けた壁の穴も、この間、僕が塞いでおいたよ。結局自分で尻拭いすることになるんだ。

性欲と愛を混同するのも辞めて欲しい。そんな愛を受け入れる女性は鬼の化身だ。

慈悲の心は結構だが、そこに愛欲が混じるなら、辞めなさい。なんの功徳もない。それは仏様の言う慈悲ではない。

酒に逃げるのもやめなさい。今は酒を飲めば飲むほど、コミュニケーションが向上するなんて思っているかもしれないが、百害あって一利なしだ。

愛しきもののために人の物を盗むのも辞めなさい。誰も褒めてくれない上に、長い人生を人に盗まれる。

常に、自信が感じる予感とか悪寒というものを信じ、人を100%信じるな。

以上で私の回答は終わりです。

どうか、自分を信じ、嫌なことがあったら仏様か観世音菩薩様を念じ、我慢して、一人で生きて行って下さい。

そして、加藤茶さんが毎週唱える次の言葉を戒めとして生きていくように。
加藤茶さんは、菩薩です。

「宿題やったか」
「お風呂入れよ」
「歯みがけよ」
「風邪ひくなよ」
「また来週!」

合掌








2021年05月07日

通過点

通過点.png


声聞浦島太郎は、東京生まれです。

東京生まれと言っても、東京にも色々あり、声聞の生家は、どちらかと言うと、東京でも田舎にありました。

東京で育つと、電車、地下鉄、バスが縦横に走り、そういう交通には不便はありませんでした。勿論その混雑、満員電車の苦痛はありましたが。

また、幼い時に交通事故で半死半生、3か月入院したお蔭で、家族皆が自動車に対してアレルギーを持っていたのです。

アレルギーはあったが、声聞の父は免許をとり、車を購入しました。青いカローラでした。
一度同乗したことがあります。あのバンパーに貼られた厚ぼったい衝撃緩衝材を今でも覚えています。

人には、車の運転に向いている人と不向きな人があるとその時知りました。彼はその後者でした。

ちょっとしたアテ、コスリの事故を繰り返すうちに、父は車への関心を急激に失くしていきました。

大体、仕事先(学校の先生だったが)は、それほど遠くないので、通勤に使う必要性もありませんでした。でも、休みの日には、洗車をしたり、車に籠って、何やら好きなクラッシックを聞いているようで、この高価な買い物を持て余していることは明確でした。

そしてある日、あの頃テレビで俳優の渡哲也が乗っていたスカイラインの黒と金色の特別限定車にぶつけ、彼はあっさりとカローラを手放しました。

その後、家を買い、埼玉に引っ越しをした後も、軽自動車を買いましたが、これで横転し、一回転したらしく、あの人は、車の運転にはつくづく不向きな人でした。

そんなですから、私は父に車でドライブなど連れて行って貰ったことはありません。家族でドライブ旅行なんて、夢ですらなく、想定の範囲外でした。成程、想定の範囲外であれば不満も起きません。

前置きが長くなりました。父のことはまた別の機会にしましょう。

会社に入って、大阪に行きましたら、真っ先に叱られたのは、学生時代に免許を取っていないことでした。持っていないのは私一人でした。同期の新入社員は関西の人間がほとんどでした。取ってしかるべきという雰囲気でした。

そこで、私は土日の合宿免許に通うことになり、京都の福知山というところの自動車学校に通うことになりました。

会社の寮は蛍池でしたので、大阪で万博があった千里という駅に阪急で行って、そこから専用のマイクロバスで福知山まで連れていかれました。丁度、今くらいの5月、6月のどんよりとした天気だったのではないでしょうか?それとも、私の心が、初めての会社の勤務でどんよりしていたのか分かりません。

自動車学校の先生は、自分にとって全く見たことのない人たちでありました。近くに自衛隊があるらしく、大体が、自衛隊の退官者か、警察官の退職者であったのです。その言語が私には分かりませんでした。

そもそも、関西に初めて来て、関西の言葉そのものがわかりませんでしたので、ここの言葉は自分の言葉にどう置き換えるのか分からず、また、言葉を発するときの態度と、予想される言葉の意味自体が一致せず、苦労しました。

縦列駐車、車庫入れ、踏切前一旦停止など、私は悉くしくじり、その度に教官から涼しい顔で、叱られました。その叱りの深刻度が私には読めなかったのです。私は、その時、数百キロ離れた埼玉にいる父を思い出し、嫌なことを考えました。

「もしかしたら、これは遺伝で、自分は運転に不向きな人間ではないのかしら」

そして、また、この厳格な自動車教習に合格した父が、偉大な男であったことを認識せざるを得ませんでした。

教習は土日にありましたので、土曜日午前に福知山に着き、日曜日の夕方に千里に帰るというパターン。教習所の寮は2,3人の相部屋で、食事はご飯と味噌汁、漬物という一汁一菜、食いしん坊の私は、その度に外食をしていました。

「ああ、こんな生活、いつまで続くのかしら?」

そのように嫌々通っていれば、当然上手く行くはずもなく、私は、仮免許の試験に二度落ちました。土曜日の午前に、バスで福知山に行って、仮免許の試験に落ちると、その日の夜に、自分で電車に乗って帰らなければいけません。

福知山での言葉に対するカルチャーショック。

縦列駐車が出来ない自分への苛立ち。

自動車運転に向いていないと心の中で密かに軽蔑していた父への敗北感。

それらの思いで半べそをかき、私は大阪に帰るため、福知山線の電車に乗りました。
最初の内は、その思いと、駅で買った雑誌で気を紛らしていましたので、私は乗った電車そのものに大きな関心は持ちませんでした。

確か「尼崎」という名前は覚えていますが、読むものも無くなり、仮免許不合格の傷も癒え、ボーっと一人で外を見て過ごしていますと、自分の今乗っている基盤?が空に浮いているような錯覚に囚われました。

電車は箱型で、普通の通勤電車で、夕方でしたが、ガラガラで、それが原因なのか、電車は浮いて、飛んでいるようでした。また、窓の外を流れていく家々の灯りが、飛んでいくようでした。銀河鉄道とか、その最新型の999とかに乗ったらこんな感じなのかもしれません。ただ、他に乗っている乗客は全く無関心の仏頂面です。

私の知っている電車と言えば、阪急とか、西武とか、何しろゆっくり走るモラトリアムな電車ばかりで、こうした普通の電車が空っぽで高速で走る時の感じをしりませんでした。新幹線の速さは、むしろその速度に対する先入観がまずあり、新幹線そのものとの一体感は感じませんが、この時の福知山線で感じたのは、旅客機がエアポケットにはまり、辞めてくれーと叫びたくなるような感じではなく、電車が自分と一緒に浮いて飛んでいるような感じなのです。

尼崎か、その次の駅か、多分、何駅か飛ばして走る快速か急行だったと思うのですが、ある駅を過ぎると、ピタッと大人しくなり、先生とすれ違ったとき廊下を走るのを辞める小学生のように大人しくなりました。まるで大阪府内では速度を落とすとの決まりでもあるかのように。

あの後、仮免許の試験に何とか合格し、もう二度と福知山に行かなくてもよくなり、その後門真という所で免許もとることが出来ました。

しかし、その13年後に、あの福知山線の脱線事故が起こったのです。100名以上の方がお亡くなりになりました。またそれ以外にもその事故のショックでトラウマを抱えている人がいるようです。

色々とその事件の資料を見ると、これは、企業の競争の結果に起きた事故で、あの電車は一分一秒を争う速度で、空を飛ぶように走っていたのです。亡くなった運転手は未だ一年足らずの経歴で、減点法のプレッシャーから、傍らにメモをおいて、そこに車掌の外部との交信をメモしながら運転していたというのです。

その場所を見ると、多分恐らく、私が電車が宙に浮いていると感じた地点のあたりなのかもしれません。

会社が狂い、運転手が狂い、そうして正気な罪のない衆生が悉く道連れになったのです。

電車によっては10両、15両、そういう編成に乗車率200%とか、それだけの命を一人の人間に任せ、しかも、その人が狂っていくことに気が付かない、そして、会社も狂っていることに気が付かない、乗っている人も自分の命が危機に晒されている感覚がマヒする。そして会社の利益だけが伸びていく。

激しい慳貪の末、電車は車体が浮き、空を飛び、龍のようになってあの車の駐車場に飛び込んでいったのかと思うと、自分の30年の人生もまた、あの時、あの電車に乗ったあたりから疾走を始めたのかなと、今思います。

免許をとって、幼時の事故の教訓も忘れ、時速140km以上で高速道路を疾走したことや、飲酒運転したりして、自分が気が狂っていることに気が付かずに、線路らしき物の上を疾走してきたのです。

一度途中下車して、私という電車に追い越されて見るべきでした。

数年前、あの苦労して福知山で取得した日本の免許は、忙しいという理由で失効させてしまいました。


合掌









2021年05月01日

時を刻む

toki.png


時間を刻むことについて考えてみましょう。

まず壁掛け時計です。
壁掛け時計を見る時 、それは舌打ちをする時です。もうこんな時間になってしまったと舌打ちをするのです。そう思っていなかったということです。まだこんな時間か?と舌を打つこともあります。その都度、壁掛け時計は、期待を裏切っているのでしょう。

長針は多分、時々私の見ていないところで、特に12から6の間の、重力のかかるところで、少し早めに動いているに違いありません。そして6から10のところで今度は重力に逆らうのでゆっくりと上がっていくのです。案外てっぺんの12のところで辻褄が合ってるのかもしれません。結果12ならいいだろうと言う、結果オーライのいい加減な性格です。
秒針は顔色ひとつ変えず黙々と動いています。彼に裏表はありません。

腕時計は、もうつけるのをやめました
腕時計を見ると 相手に色々な邪推をされます。また相手を邪推もします。

いい時計だと褒められたいのか?
もうこの場を早く出たいと思っているのか?
相手のことが嫌いなのか?
忙しいのか?
女でもいるのか?
最近仕事がうまくいってないので、どんどん仕事を探さなくてはいけないのか?

学生時代、暗い武蔵野線のトンネルの中で、時計を拾いました。それをそのままつけていたところ、引っ越しセンターのアルバイトで、粗暴なヤンキーの兄さんに
「君、いい時計つけてんな?高いんか?」
と聞かれ、
「いえ、拾いました。」
と答えると
「兄ちゃん、剽軽な奴やな」
とバカ受けし、その後、それまで殺伐とした雰囲気だったそのバイトの居心地がよくなりました。あれは暫く付けていましたが、アナログで日付がデジタルで表示されるその頃には珍しい、時計だったのです。
もう、ここまで落ちて、未来もどうなるか分らぬ身では、腕時計は不要です。電車にも乗らないので拾う事もないでしょう。

最近のお気に入りはタイマーです。
少し眠りたいとか、血圧を落とす運動の時使っています。 
ただ分と秒だけ設定し、10分後なら10分後、15分後なら15分後とそれだけのことですが、何が起こるかわからない先の未来のことを考えず、今この時に生を感じることが出来るのがタイマーです。まだ来ぬ未来を一日先すら考える必要はありません。

ストップウォッチは人にこき使われた嫌な思い出です。
こいつは、壁掛け時計の秒針と一緒で、律儀に正しい時を刻もうと、ひた向きです。
嘘が言えません。持ち主に気の利いたことが言えません。

例えばある工程の サイクルタイムを計るのに使ってはいけません。ほんの2秒と言う自動作業の自動の機械は2.01秒のサイクルタイムなら不合格です。そしてストップウォッチは何度でもダメ出しをします。その度に徹夜になり、スタッフの残業代に悩み、改善のレポートを要求され、スケジュールを作らされます。
そんな時は夢にストップウォッチと機械の動く姿が何度も出てきて...
気が狂いそうになりますが、意外に気が狂わないので、苦しみをたっぷり味わいます。
昔の話です。

昔から目覚まし時計のアラームは嫌いです。この前、大学時代に壊した目覚まし時計を母が見つけて持ってきました。よほど憎かったのでしょう。何で熱したのか形状が崩れていました。
いや確かに憎かったのでしょう。
あれは、鳴る直前まで何食わぬ顔をして、そして突然騒ぎ出します。時計の中でも最も質の悪い連中です。携帯のアラームであれば音楽は選べます。しかしどの音を選んでも、唐突なのには何も変わりありません。唐突でなければまた寝てしまうだけなのです。思えば人生の悲劇はこのアラームのようなものです  そしてこのアラームを設定したものは確実に自分なのです。しかも、悲劇をスヌーズさせる機能すらあります。

もっと大きな時計があることを考えてみたら秒針、短針、長針、日針、週針、月針、年針。まさに私の人生がそれです。30年後の何月何日何曜日、そのアラームは鳴るように自分で勝手にセットをしていたのです。そして寝ぼけている私に冷水をぶっかけ 目が覚めたら、もう二度と安らかに寝ることのできないそんな朝です。

ここまで散々、時を刻むものの悪口を書きましたが、どうも文章としてスッキリしません。何かが足りない。

しかし、もう夜の9時なので寝なくてはなりません。歯を磨こうと洗面を見たら、もうひとつ時を刻むものを見つけました。

その顔は、明らかにあらゆる肉が重力に逆らいきれず垂れ下がっていました。昔は垂れ眼で、パンダと呼ばれましたが、時間の中で垂れ、くたびれて、こけたパンダがそこにいました。
自分の事はおいておいて、かつて美しかった女性でも時間を刻み、年老いていくにつれ姿形が変わっていくものです。それで次々と乗り換えたのかと言われれば、否定はしませんが、今日こうして自分の顔を見て、皆に捨てられても仕方がないと納得せざるを得ません。

いずれにしても、時を刻むものの最後がわかりましたので、明日にはこの文章を仕上げようと寝ました。

毎日夜9時に寝て、朝3時に起きています。ところが朝2時にトイレで目が覚めました。
その後、眠れなくなりました。
何故だか、外が不思議に明るかったのです。
それは、月でした。後で調べましたが、数日前は地球から最も近いところにあったのです。
どうりで明るい筈です。「もう寝ても仕方がない。」私は起きるまでちょっと、横になり3時になる筈の目覚まし時計を解除して、のんびりとしました。
なるほど、時を刻むものなら俺を忘れるなと、お月様は、その夜特にさんざんと輝き、私に思い出させてくれたのです。
私はいつの間にか寝てしまいました。

そして、4時にはっと目が覚めました。ああ、しまった。寝坊だ。聖天様のお供えを変える時間が30以上遅れてしまいました。こんな寝坊は久々です。

聖天様に謝り、全体で一時間遅れでお祈りを始めました。
ただ不思議と、くよくよとした感情は湧きませんでした。

あわてて、お祈りを始めると東向きの窓から誰かが部屋の中に入ってきました。
それは太陽でした。時を刻むものなら、もう一人いるぞ、といいながら、太陽は東の向こうの山の上にどっしりと腰をおろし、私にこれでもかと光線を浴びせました。
かつて、お月様は私に酒を飲ませ、太陽は私に寝る合図をしました。全くひどいものでした。

もうこれで時を刻むものを全て書いただろうと思い、こうしてブログの投稿を仕上げていますが、まだ何か忘れていないでしょうか?
今さっき、地震がありましたが、失礼ですが、あなたも時を刻むもののひとつですか?

合掌





2021年04月26日

ハンカチ

ハンカチ.png


今年の誕生日はハンカチを貰いました。
青くて少しツヤのかかったハンカチです。

ハンカチといえば、野田さんを思い浮かべます。
野田さんは私の上司だった人です。 私より20才も年上で私の人生で初めての上司でした。
野田さんは厳しい人でした。
赴任の当初、野田さんの乗る運転手付きの灰色がかったギャランの中で、渋滞の中で何時間も何を話していたのか思い出せません。
私はスポーツもやらず、スポーツも観戦せず、野球やら相撲やらに疎い人間でしたので、さぞかし話題を探すのに苦労したかと思います。そもそも、あの年代と話が通じる言語をもっておりませんでした。
あの橋が完成したとか
あそこに信号ができたとか
こんなところに新しいレストランができたじゃないかとか
そんな風に話しかけられなければ、私はただただ黙っているしかありませんでした。

その後何とか一人前に仕事ができそうだという状態になり、別々に会社に行くようになり、
一緒に車に乗る時間は、朝、ゴルフに行くときか、飲み屋に行く時だけになりました。
人は野田さんをダンディズムの持ち主と呼んでいただけあって、人に弱みを見せることはなく、何かいつも、 部下たちに甲羅を向けていました。
多分このような人でなければ一緒に17年も働くことは出来ませんでした
彼のおかげでゴルフを覚え 、ワープロやコンピューターをいじれるようになり、広島で研修を過ごし、アメリカで 夢のモータウンのスタジオで歌を歌いました。

感謝していましたし、彼のおかげで私の人生も開けたなどと、美しく彼を信じておりました。

ところが12年前私は転勤を命じられ、それは明らかに私に対する嫌がらせのような転勤でございましたので、私は彼に大いに反発いたしました。
そうして辞めた後も、こんな風にブログを書き、そこにも散々悪口を書きました。

というのは私は彼に感謝する反面、随分と彼に利用されていたと思っていたのです
しかしそんなことはおくびにも出さず、ただただイケイケドンドンで仕事をしておりました。そんな時にこの転勤の話がありましたので、どうにもやるせなく、初めての人生の転換を迎え 、野田さんが私を貶める悪の権化に見えたのです。

とはいえその後、10年間私は心のどこかで彼に感謝し、自分があるのも彼のあの時の厳しい躾のおかげだと思い、それで何とか社会を渡ってくることが出来たと思っておりました。

そして今回の事になりました。この30年間は全て虚構だったのです。

あの亀の甲羅のような男は、やはり私が悪く思っていた通りの男であったのです。
17年間一緒に働いて、その時にはおくびにも出さないで完璧に私を育てようという実直な上司を演じました。 悲しいもので直感というものは、本当の答えが出た後でそれが正しいと気づくのです。できれば本当の答えが出る前にそれが正しいと気付けば良かったのですが。

彼はいつもハンカチを持っていました。そのハンカチで大体決まった時間に洗面所に行き、それを少し濡らしてを顔、額を拭いてそれから工場の責任者の大きな椅子に座り、扇子を開きハタハタと湿った顔を 扇ぎました。そして一言、

「手で顔を拭いて、あちこちさわったら穢いやろ」と言いました。

本人は自分はただの百姓の息子だと言っていましたが、こうして上品に振るまい尊大な態度をとるのを得意としておりました。

亀の甲羅のような顔で、工場を見下ろす部屋で、不機嫌そうに扇子を扇ぐその姿は、何者も彼を屈服させることはできない、そう思わせる独特の迫力がありました。

全てが嘘と分かった今、何一つ真実はなかったと分かった今、 そして今日こうしてハンカチをお誕生日にもらったことで、私はあることを思い出しました。

それはあの甲羅のような表情に、ただ一点の小さな綻びを見つけたことでした。そしてそれは今思えば、私にとってこの野田さんが垣間見せた唯一の真実でした。

それは野田さんの 御母堂が亡くなられた時のことでした。
昼食の時、会社の食堂で国際電話で訃報を聞いた野田さんは、その後すぐ誰の顔も見ずにあの例の工場長の椅子の所へ戻って行きました。

別に私はその彼の不幸な姿を見ようと思って後を追ってオフィスに上がったのではありません。しかしそこにはあのいつもならば綺麗にハンカチを折りたたみ、自分の額の脂を拭きとる姿はなく、珍しく皺くちゃになったハンカチで、額の下二点の窪みを拭う姿がありました。

後で私は野田さんもさすがに母上がなくなれば、悲しむ姿は見せるものなのだと妙に哀れみを覚えたものでした。

しかし今思えば、あの野田さんの亡くなられた御母堂こそ、唯一虚構ではない出来事であったのではないか?つまりその真実の一瞬を見せたくないがために彼は皆より早く工場の上に上がり一人、泣いていたのです。

たくさんの人が死んだと嘘をつき、葬式ごっこをし、難病になり、人に看病をさせ、そしてある日、私にあかんべーをしていたことを気付かせる、そんなことに人生の血道をあげてきました。ただしあの野田さんのお母さんが死んだそのことだけはどうやら本当であったようなのです。


合掌






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