2021年05月25日
目覚め
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。
青空文庫「走れメロス」より
誕生
気がつくと、私は病院のベッドにいました。
周りでは白い服を着た人が、それは後で、看護婦さんだと知りましたが、忙しそうに働いていました。時々私を振り返り、顔を作り、私を笑わせようとしました。私は決しておかしくもなかったのですが、笑った方がいいと思い笑顔を見せました。その頃から嘘つきだったのです。
それが思い出と言うならば、それは私を傷つけない思い出です
事故
気が付くと私は病院のベッドにいました
そしてなぜか足が動かず、顔も何かで覆われていました。
後で私の右手と左足はギプスをつけられていると知りました。
私は幼稚園の前で小型トラックにひかれる事故に遭い、3ヶ月入院していたのです。
ここでもまた、看護婦さんは私に優しくしてくれました。
隣のベッドにはスキーで足の骨を折った男の子がいて、その子も同じ位の長さのギブスを足につけていて、どちらが先に取れるか競争をしました。
頭に何をつけているのかよくわからなかったのは、私の複雑頭蓋骨折のギブスだったのです。その時点で私は隣の男の子にギプスの数で勝ち、競争で勝てないことを知りました。
お医者さんから母は、命の保証はできませんと言われたくらい重傷でしたので、この頭のこともあり私は3ヶ月入院することになったのです。
自由のきかないうちは苦しい入院だったはずですが、なぜかその苦しさを覚えていません。むしろそのギブスを外した後、あるいは点滴を外しても良い、食事をしても良いと言われた時の、嬉しかった思い出だけが残っているのです。お医者さんが来るたびに、良いニュースがもたらされたました。
毎日、太い注射をされたことを覚えていますが、それすらも嫌な思い出ではありません。
何より水を飲んでいいと言われ、事故以来初めて、水を浸したガーゼを口に含ませられた時、水って美味しいものだな、と感動したものです。
白い看護婦さん、白いガーゼ、白いギぷス、屋上に上がると看護婦さんとお手伝いさん達が笑いながら、毎日、白いシーツを国旗みたいに棚引かせて、何枚も干していました。
不思議なもので、当時はまだカラーテレビはなかったのですが、あの頃の思い出は全て白黒なのです。
この思い出もまた、私を苦しめることはありません。
手術
次に目が覚めると、いや正確には手術が終わると、私の陰部の右側に何か大きな違和感を感じました。ヘルニアの手術です。部分麻酔なので私は目を開けたままで手術をしました。そんなに長いこと入院していたわけではありません。思い出といえば看護婦さんにからかわれたことぐらいです。
ここまでの思い出はすべて白黒です。色がありませんが、苦しみの思い出ではありません。
この頃のことを思い出そうとすると、何故か、西武池袋線の江古田駅の駅前の風景が浮かび、(しかも行ってみるとそんな風景ではない。) 赤い鳥の「翼をください」が流れます。
また、どこかの住宅街の長い坂を、自転車を押して上がる白い少女の姿と共に、松任谷由美の「ひこうき雲」が流れることもあります。
それから何十年と経ちました
私は目が覚めたらどこそこにいました、というようことで病院に行くことはなく、大概は見舞いか、誰かの病気の診断の付き添いか、今となっては偽りであった出産の立会いか、あるいは生まれた子供だと偽られそれを見に行くか 、難病だというその人の看病を何ヶ月もさせられ、幸いにも、病院に行く私そのものは健康でした。
集中治療室
目が覚めると、私は階段の踊り場に転んで血まみれになって倒れていて、二人の見たことない警備服の男達が、私を一生懸命抱き起こそうとしていました。
抱きかかえられ、外に運ばれると、一緒に暮らしていた不悲落涙餌牛魔(ふひらくるいえぎゅうま)が、涙ひとつ見せず、わんわん泣いておりました。
そう、私は自殺を図ったのです。ところがそれはうまくいきませんでした。
頸動脈を狙って、ホームセンターで購入した彫刻刀を刺したところ、確かに血は吹き出したのですが、悲しいかなその血は、高脂血症の為、ある程度血が出た後、すぐ固まって血が止まってしまったのです。
不摂生であれば、自分で死ぬこともできないのです。
最初の病院で腎臓が悪いと言われ、そこが私立で高いので、国立の、その国の王様の名のついた病院に行くことになり、その病院で集中治療室に入れられました。
実際にはそんなに重い症状ではなかったので、私だけ不釣り合いな患者でした。後で思うのですがあればわざわざああいう場所に放り込み、今日も知れぬ命を生きてる人を見せるためだったと思われます。あの人たちはどうなったのでしょうか?
看護婦は私に、私が彼女の言葉を分からないと思っているのか知りませんが、自殺をするものを軽蔑すると目前で言いました。しかしながら、それ以上の軽蔑が込められていたことを後で知りました。
結局、その病院に2週間近くいましたが、そこで起こったことは、つまり、妊自在中絶魔(にんじざいちゅうぜつま)の親子と縁を切り、不悲落涙餌牛魔(ふひらくるいえぎゅうま)と一緒に暮らすことでした。
私は甘かった。まだその段階で、甘いことを考えていました。病院のベッドにいる私は、誕生の時と何も変わっていませんでした。
ベッド
次に目が覚めると、あの不悲落涙餌牛魔 (ふひらくるいえぎゅうま)が 横で寝ていました。私は毛布を深くかぶり、右にも、左にも横にならず上を向いてまっすぐに寝ていました。
昨晩この女に、この国家公務員に、無理やり何か毒のようなものを飲まされたので私は覚悟してもう二度と目を覚ますことはないと思っていました。
それは精神安定剤と言われていましたが、私の目を潰すか、あるいは私を眠らせて二度と起きないようにするか、あるいは私を眠らせどこかに閉じ込めるか、そんな用途の薬に思われました。どんなに太い注射も、どんなに長い手術も、麻酔のマスクで口を塞がれた時も、この一粒の薬に籠められた悪意には適いせんでした。
もう駄目だと言っても、しつこく、拒否しても、飲ませようとするものですから、もう駄目だと思い、私は覚悟を決めて飲んだのです。
ところが目が覚めると、昨日と同じベッドにいたものですから、そんな不幸の連続、狂気の沙汰、百鬼夜行の中で、一服の清涼剤でした。あの時だけは、未だ生きていけるという思いに久々に安堵したのです。
子供の頃、命拾いしました。お蔭で、自分はラッキーな人間であると内心、満足しておりました。
確かに、1億人に一人も遭わない不運に恵まれました。
白黒の甘い思い出と、カラーの辛い現実。
目が覚め、潺の水をガーゼに浸して口に含み、メロスのように希望を持って生きて行けるかしら?
でも、確か、卒論は太宰治で、「走れメロス」のこの文章は、川で何度も無理心中し、死に損ねた人でないと分からない表現などと書いて、卒業することが出来たのです。
つくづく、罰当たりである。
合掌
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