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2021年05月07日

通過点

通過点.png


声聞浦島太郎は、東京生まれです。

東京生まれと言っても、東京にも色々あり、声聞の生家は、どちらかと言うと、東京でも田舎にありました。

東京で育つと、電車、地下鉄、バスが縦横に走り、そういう交通には不便はありませんでした。勿論その混雑、満員電車の苦痛はありましたが。

また、幼い時に交通事故で半死半生、3か月入院したお蔭で、家族皆が自動車に対してアレルギーを持っていたのです。

アレルギーはあったが、声聞の父は免許をとり、車を購入しました。青いカローラでした。
一度同乗したことがあります。あのバンパーに貼られた厚ぼったい衝撃緩衝材を今でも覚えています。

人には、車の運転に向いている人と不向きな人があるとその時知りました。彼はその後者でした。

ちょっとしたアテ、コスリの事故を繰り返すうちに、父は車への関心を急激に失くしていきました。

大体、仕事先(学校の先生だったが)は、それほど遠くないので、通勤に使う必要性もありませんでした。でも、休みの日には、洗車をしたり、車に籠って、何やら好きなクラッシックを聞いているようで、この高価な買い物を持て余していることは明確でした。

そしてある日、あの頃テレビで俳優の渡哲也が乗っていたスカイラインの黒と金色の特別限定車にぶつけ、彼はあっさりとカローラを手放しました。

その後、家を買い、埼玉に引っ越しをした後も、軽自動車を買いましたが、これで横転し、一回転したらしく、あの人は、車の運転にはつくづく不向きな人でした。

そんなですから、私は父に車でドライブなど連れて行って貰ったことはありません。家族でドライブ旅行なんて、夢ですらなく、想定の範囲外でした。成程、想定の範囲外であれば不満も起きません。

前置きが長くなりました。父のことはまた別の機会にしましょう。

会社に入って、大阪に行きましたら、真っ先に叱られたのは、学生時代に免許を取っていないことでした。持っていないのは私一人でした。同期の新入社員は関西の人間がほとんどでした。取ってしかるべきという雰囲気でした。

そこで、私は土日の合宿免許に通うことになり、京都の福知山というところの自動車学校に通うことになりました。

会社の寮は蛍池でしたので、大阪で万博があった千里という駅に阪急で行って、そこから専用のマイクロバスで福知山まで連れていかれました。丁度、今くらいの5月、6月のどんよりとした天気だったのではないでしょうか?それとも、私の心が、初めての会社の勤務でどんよりしていたのか分かりません。

自動車学校の先生は、自分にとって全く見たことのない人たちでありました。近くに自衛隊があるらしく、大体が、自衛隊の退官者か、警察官の退職者であったのです。その言語が私には分かりませんでした。

そもそも、関西に初めて来て、関西の言葉そのものがわかりませんでしたので、ここの言葉は自分の言葉にどう置き換えるのか分からず、また、言葉を発するときの態度と、予想される言葉の意味自体が一致せず、苦労しました。

縦列駐車、車庫入れ、踏切前一旦停止など、私は悉くしくじり、その度に教官から涼しい顔で、叱られました。その叱りの深刻度が私には読めなかったのです。私は、その時、数百キロ離れた埼玉にいる父を思い出し、嫌なことを考えました。

「もしかしたら、これは遺伝で、自分は運転に不向きな人間ではないのかしら」

そして、また、この厳格な自動車教習に合格した父が、偉大な男であったことを認識せざるを得ませんでした。

教習は土日にありましたので、土曜日午前に福知山に着き、日曜日の夕方に千里に帰るというパターン。教習所の寮は2,3人の相部屋で、食事はご飯と味噌汁、漬物という一汁一菜、食いしん坊の私は、その度に外食をしていました。

「ああ、こんな生活、いつまで続くのかしら?」

そのように嫌々通っていれば、当然上手く行くはずもなく、私は、仮免許の試験に二度落ちました。土曜日の午前に、バスで福知山に行って、仮免許の試験に落ちると、その日の夜に、自分で電車に乗って帰らなければいけません。

福知山での言葉に対するカルチャーショック。

縦列駐車が出来ない自分への苛立ち。

自動車運転に向いていないと心の中で密かに軽蔑していた父への敗北感。

それらの思いで半べそをかき、私は大阪に帰るため、福知山線の電車に乗りました。
最初の内は、その思いと、駅で買った雑誌で気を紛らしていましたので、私は乗った電車そのものに大きな関心は持ちませんでした。

確か「尼崎」という名前は覚えていますが、読むものも無くなり、仮免許不合格の傷も癒え、ボーっと一人で外を見て過ごしていますと、自分の今乗っている基盤?が空に浮いているような錯覚に囚われました。

電車は箱型で、普通の通勤電車で、夕方でしたが、ガラガラで、それが原因なのか、電車は浮いて、飛んでいるようでした。また、窓の外を流れていく家々の灯りが、飛んでいくようでした。銀河鉄道とか、その最新型の999とかに乗ったらこんな感じなのかもしれません。ただ、他に乗っている乗客は全く無関心の仏頂面です。

私の知っている電車と言えば、阪急とか、西武とか、何しろゆっくり走るモラトリアムな電車ばかりで、こうした普通の電車が空っぽで高速で走る時の感じをしりませんでした。新幹線の速さは、むしろその速度に対する先入観がまずあり、新幹線そのものとの一体感は感じませんが、この時の福知山線で感じたのは、旅客機がエアポケットにはまり、辞めてくれーと叫びたくなるような感じではなく、電車が自分と一緒に浮いて飛んでいるような感じなのです。

尼崎か、その次の駅か、多分、何駅か飛ばして走る快速か急行だったと思うのですが、ある駅を過ぎると、ピタッと大人しくなり、先生とすれ違ったとき廊下を走るのを辞める小学生のように大人しくなりました。まるで大阪府内では速度を落とすとの決まりでもあるかのように。

あの後、仮免許の試験に何とか合格し、もう二度と福知山に行かなくてもよくなり、その後門真という所で免許もとることが出来ました。

しかし、その13年後に、あの福知山線の脱線事故が起こったのです。100名以上の方がお亡くなりになりました。またそれ以外にもその事故のショックでトラウマを抱えている人がいるようです。

色々とその事件の資料を見ると、これは、企業の競争の結果に起きた事故で、あの電車は一分一秒を争う速度で、空を飛ぶように走っていたのです。亡くなった運転手は未だ一年足らずの経歴で、減点法のプレッシャーから、傍らにメモをおいて、そこに車掌の外部との交信をメモしながら運転していたというのです。

その場所を見ると、多分恐らく、私が電車が宙に浮いていると感じた地点のあたりなのかもしれません。

会社が狂い、運転手が狂い、そうして正気な罪のない衆生が悉く道連れになったのです。

電車によっては10両、15両、そういう編成に乗車率200%とか、それだけの命を一人の人間に任せ、しかも、その人が狂っていくことに気が付かない、そして、会社も狂っていることに気が付かない、乗っている人も自分の命が危機に晒されている感覚がマヒする。そして会社の利益だけが伸びていく。

激しい慳貪の末、電車は車体が浮き、空を飛び、龍のようになってあの車の駐車場に飛び込んでいったのかと思うと、自分の30年の人生もまた、あの時、あの電車に乗ったあたりから疾走を始めたのかなと、今思います。

免許をとって、幼時の事故の教訓も忘れ、時速140km以上で高速道路を疾走したことや、飲酒運転したりして、自分が気が狂っていることに気が付かずに、線路らしき物の上を疾走してきたのです。

一度途中下車して、私という電車に追い越されて見るべきでした。

数年前、あの苦労して福知山で取得した日本の免許は、忙しいという理由で失効させてしまいました。


合掌









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