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2021年03月19日
2021年03月18日
仏教信仰入門 E真言を唱える際の煩悩魔
真言を唱えるにあたってのあらゆる妨げ、について考えています。
まず、四魔(五蘊魔、天魔、煩悩魔、死魔)を認識しました。
次に、眠気を調伏しました。
次に何度も唱えた真言の数を数えるということそのものへのストレスもグーグルを検索しても中々出てこない数珠の使い方で調伏しました。
天魔についても調伏しました。
五蘊魔、煩悩魔、そして何気ない日常の罪のない雑念についてこれから話をします。
まずは煩悩魔です。
煩悩とはなにか?
煩悩とはなんでしょうか?あれこれウジウジと考え、悶々とすること。葛藤に身もだえすること。クヨクヨすること、組織への不満をあちこちでぶちまけ、周りの人間まで憂鬱にすること。30cmもない距離のパットを外すこと。思い浮かぶことは多いが、それはあくまでも煩悩の結果としての現象が思い浮かぶ場合が多いでしょう。
しかし、仏教でいうところの煩悩とは、貪瞋痴と言ってもっと理路整然と分けられています。
@貪(トン) 貪欲で貪りの心
A瞋(ジン) 怒り、愼恚(シンニ)
B痴(チ) 愚痴
これらを三毒といい三惑ともいいます。これらを調伏することこそが仏教の目指す理想の世界なのです。そこに心の安らぎを求めているし、当然、聖天様の信仰においても、最終的にはこれを目指すという意識が常に必要です。思えば私も、これが為に、浦島太郎になりコロナで引篭っているのです。
前回紹介しました天魔はいたずらに現れいたずらに消えていき、重大な因果を生むのですが、煩悩魔は一度現れるとしつこく、
ああまたあの快楽をもう一度云々
今度と言う今度は絶対に許さない。あったま来た云々
もう無理、もう嫌になっちゃう云々
これらが、生活を支配し、当然真言を唱えている時も大きな障害になるのです。
そして貪瞋痴は身口意の悪業を生む
多くの仏教宗派で唱えられている懴悔文(サンゲモン)というお経があります。我れ昔より造る所の諸(モロモロの)の悪業は、
皆な無始(ムシ)の貪瞋痴による、
身口意(シンクイ)より生ずる所なり。
一切我、今、皆、懺悔(サンゲ)したてまつる。
(私が昔から犯した数々の悪業は貪瞋痴の煩悩を因とした、身口意から生じたことであります。
今ここに一切を懴悔します。)
これは、聖天様の勤行でも毎日お唱えするお経であり、私も毎日朝夕唱えています。
身口意とは身体と言語と心の働きであり、その言葉自体は悪い意味はありませんが、それが貪瞋痴によって穢れ、次の悪業を生みます。身口意が犯す悪業が十不善業です。
身
殺生「せっしょう」 故意に生き物を殺す
偸盗「ちゅうとう」 与えられていないものを自分のものとする。泥棒。詐欺
邪淫「じゃいん」 道徳に背いた関係を持つ。不倫、売春。
口
妄語「もうご」 嘘をつく。
綺語「きご」 内容の無い言葉を話す。口から出まかせを言う。
悪口「あっく」 汚い言葉を使う。
両舌「りょうぜつ」 他人同士に葛藤を起こすようなことを言う。
意
慳貪「けんどん」 激しい欲をいだく。
瞋恚「しんに」 激しい怒りをいだく。
邪見「じゃけん」因果の道理を無視した誤った見解を持つ。
ということで煩悩魔の話は我々には具体的に、私が、いや我々が日々、犯している罪を懴悔する懴悔文に行き当たり、そして十善戒というこれも、日々お寺で唱えられているお経に辿りつきました。正にこれが仏教の智恵であり真骨頂なのです。
もちろんそんな悪業を、私はしていないという人がいるのかもしれません。即身成仏のようなあなたはともかく、基本的にその軽重を問わず、何らかの罪を犯し毎日を過ごしているわけで、この懴悔文を唱えることによって、煩悩にまみれた身口意を清めるのです。何故なら今からその身口意を使って、仏様にお祈りをするのですから。
まとめ 煩悩を取り除くということ
@煩悩は貪瞋痴と言う三種類の心の働きに分かれます。
A煩悩により、我々の身口意は大きく穢れ、そうして毎日を送っています。
B身口意が犯す悪業とは、
身が、殺生、偸盗、邪淫、
口が、妄語、綺語、悪口、両舌、
意が、慳貪、瞋恚、邪見
の合計10つの十不善業です。
これらは祈る者が、多かれ少なかれ毎日犯している罪であるから、これを毎日認識し浄化するために懴悔文や十善戒などのお経を唱え、清める必要があるのです。
煩悩魔を調伏するとは正にこのことであり、それが故にお祈りの勤行にそってお祈りをすることが以下に大事かわかるのです。ただ聖天様の真言だけを唱えれば良いというわけにはいかないのです。仏教に関係なく聖天様のにお祈りすれば助けて頂けるというわけではないのです。
2021年03月16日
声聞の映画レビュー 韓国映画遍 @ 懺悔
まず、この場所をお借りして韓国映画に懴悔をしなくてはいけません。
すみませんでした。ごめんなさい。ここ10年、私は日本におらず、インターネットやYouTubeから入る情報は目に入る物、耳に聞くもの、全て嫌韓、嫌中、それまで何も先入観のなかった私は俄仕立てのナショナリストになり、周りの人間に、韓国映画を見るな、中国もついでにダメだ、と根拠のない指示を飛ばし、周りの、特に子供は私に隠れて韓流ドラマを見る始末であった。
また私の母もどうやら韓流ドラマに嵌っており、ツタヤで一本100円のDVDをせっせと借りているとの同居している妹からの国際電話に、満州で生まれ、命からがら逃げかえり、ロシア人をロ助と呼ばわり、韓中両国にもここでは書けないような偏見を口にしていた母にその過去を断ち切ってしまうくらい、韓流映画、韓流ドラマと言うのは面白いのかとうっすらと感じていました。
そしてこの浦島太郎はコロナ禍で日本に帰国、気が付けばアマゾンのプライム会員になり、中国製のスマホで韓国映画を検索しては見漁っている次第である。人間は変わる。常に変わる。だからあまり自信をもって嗜好を人に押し付けないようにしましょう。
学生時代に映画サークルにいたので、映画レビューを書きたいとずっと思っていました。そこで声聞流の映画レビューを書いてみたいと思います。上述のとおり、人間とは登ったり下ったり、興奮したり覚めてみたり、そういうものですから、普通に映画の感想を書いても人から見て、何も共感が出来ない。知りたいのはまだ見ていないので、一体どんな映画か?或は見たけど他の人はどう思っているのか?そこを考慮した映画レビューをかきたいと思います。
以下にレビュー欄を作っておいて、次回から韓国映画を中心に映画レビューをさせて頂きます。合掌
- 映画の名前
- どこの国の映画か?
- 映画のジャンル
- 最後まで見たか?見れる映画か?
- ビックリしたか?驚いたか?
- 特筆すべき男優、女優はいたか?どのように?
- 今までみたどんな映画に似ているか?
- もう一度みたいか?
- 印象に残るシーン
- どういう時に見るべき映画か?
- 点数 10点満点
2021年03月15日
仏教信仰入門 D 天魔
天魔を調伏する
今まで、一心不乱にお祈りすることを邪魔する四魔を紹介し、特に
@眠気
A遍数を数えること
の二つに焦点をあてて、これらの障害を克服する方法を模索しました。これは、まあ五蘊魔の領域でしょう。
なるほど、数珠を使うことによって、数を数えるというストレスは飛躍的に軽減し、数を数えていることを忘れて、はっと気が付けば100遍が終わっていたという精神の統一状態を生みました。この数珠を考えたのもお釈迦様だという事ですから、その智慧の無量の底の深さを感じるのでした。
さて、ここで天魔について考えてみましょう。
表題のとおり天魔は我々の内にあって、
@こんな事をして何になるのか
A誰に頭を下げているのか、やめろ やめろ。
B誰もいないところに何を祈ってるんだ?
C仏教なんてやめとけ。善行なんてやめてしまえ。
などと叫び、そそのかすのです。犯すべからず者を前にすると何故か、逆のことをしてしまう。
ダメだと言われると、やったらどうなるのだろうと考える。善良な家庭のちゃぶ台をひっくり返してしまう。全く厄介です。
偉い人の前にいると、ここでいきなりこの人にツバを吐きかけたらどうなるのだろうか?などと考えてしまう。
天魔には因果はなく、束縛もない。心の内から自由に表れ、無責任に消えていく存在。
かつて筆者はキリスト教の幼稚園に通っておりました。幼稚園の毎日の終わりには、必ず皆でアーメンとお祈りするのです。その時私の中の天魔が囁きました。「今ここで、アーメン ソーメン ヒヤソーメンと言えば皆を笑わすことが出来るぞ」、そこで私はその通りに口に出し、園長先生にこっぴどく叱られました。あまりにも叱られたために、私は皆を笑わせたのか覚えていないのです。そして暫くして私は幼稚園の近くで交通事故に遭いました。頭と手と足を骨折し、半死半生、3か月入院しました。かの笑わせようとした幼稚園の友達は千羽鶴を折って、毎日イエス様にお祈りをしてくれたのです。
また、大人になって東南アジアのある国にいた時、私は仕事でよく車の助手席に座っていました。その助手席のダッシュボードには、運転手が仏さまをいつもお供えしていました。(座面を両面テープでしっかりと固定していたのです。)私は、この助手席に座る時、常に天魔が去来し、「この仏様、一体何が偉いのだろう?今ダッシュボードに足を乗っけたからと言って、何か起こるわけでもあるまい。」と言い、私は何度かその想像をしてしまいました。ほどなくして、知り合いの女性が子宮がんになり、そのために私は長らく病院に通い、治療のための大金を使いました。生活が一変したのです。
このように¨天魔による業障は、全くもって唐突で、また無責任で、軽率なことから、因縁を作り、最後にとんでもない結果を生むものであるのです。特に弱いグラグラとした心にはこれは、天魔が付け入るすきはいくつもあるのでしょう。天邪鬼とも言うようです。
天魔は内なる存在であるが、人格を持った第三者として調伏する。
こうして仏教の勉強を重ねるにつれ、思うのは、天魔とは結局弱い自分の軽薄な思いそのものです。ところが自分の中には、良いことを行うと誓願する仏様、観音様もいて鬩ぎあっている。
天魔は、どこかから来た第三者だと思い、それと対峙することが肝要でしょう。東寺に立体曼荼羅があります。たとえばここに大日如来だけがおわして、お祈りしたとすれば果たして天魔を起こさずお祈りできるでしょうか?しかし、実際には大日如来の周りには、5明王が座るなり立つなりして恐ろしい顔で祈るものをにらんでいます。何故菩提心を起こし、熱心に拝む善男善女をあんな顔してにらむのでしょうか?
それはそう、あなたの内なる天魔が良からぬことをさせないよう、睨んでいるに違いないのです。
結論として、仏さまにお祈りする時は、是非とも仏さまの脇時に、忿怒神にいて頂くことがベストであると考えます。天魔は自分自身であるが、そ知らぬふりをして、彼らを憎み、嫌い、調伏し、それでも無理なら、忿怒神、明王、天部に調伏してもらいましょう。
次回は雑念について考察します。
2021年03月11日
仏教信仰入門 C 真言を何度も唱える時の数珠の使い方1 効用 図解付き
仏教について知りたい学びたいという欲求
(グーグルで検索しても出てこない情報を得ること)
(グーグルで検索しても出てこない情報を得ること)
初めに、仏教のお祈りをして一年も経たないものが何故こんな記事を書いているのか?
@今まで宗教をしたことがない。宗教に否定的で懐疑的な家庭にうまれた。
Aオウム事件などで、宗教を信じることに否定的な社会のムードもある。
B知りたいが、お寺の知り合いはいない。
C御坊様は、私のような愚かな人間を相手にしてくれるのだろうか?なんか怒られそうで怖い。
となる。少し仏教を勉強すれば、一切衆生の救済が仏教の目的であり諸仏の誓願であり、今正に積極的に勉強したいと思うものをお坊さんが否定するわけもないのだが、何から学ぼうと思うと、本かインターネットからとなる。
インターネットでお坊さんに相談するサイトで質問をしたところ、インターネットに書いてあることは嘘だらけなどと言われる始末である。インターネット上で、そう言われているのだ。お坊さんにしても色々と宗派があるのでインターネットに軽々しく載せられない情報もあろう。
数珠のことを調べると、数珠の使い方はほとんどでてこない。出てくるのは葬式の時の作法とか、数珠のならしかたとか、(数珠の作り方まであるのに)なので、自分の施行錯誤をここに記し、最後に住職様に確認できたところまでを記録します。
参考にした書籍
大栗道栄著 図説「理趣経入門」 すずき出版
印と真言の本 学研
お経の本 学研
真言 陀羅尼 梵字 その基礎と実践 大法輪閣
何度も同じことをするということへの苦手意識
数を数えるということは結構難しい。自分は多分3から怪しくなっている。真言を何度も唱えるのは何故か?そもそもそれがわからない。これは勉強を進めていって以後の話として、何よりも仏教では特に真言や念仏を何度も唱えなくてはならない。同じことを何度もすると、人は、不幸せになる。人が切れる時は、大概同じことが繰り返した時が多い。或はこれから先も、同じことが何度も起こるのか?俺は一生現場か?俺は一生球拾いか?俺は一生貧乏人か?等、枚挙にいとまがない。同じことを何度もすると不幸せになるのであるし、不幸を感じるのである。しかし、真言はこれを何度も唱えることによって、仏様に救われ幸せになるという。そもそもこの時我々はすでに以前に話した天魔に付け入られる可能性を秘めている。
数珠なしで数えることの限界
自分で数珠なしで数えられる限界は何回であろうか?私は精神統一されていない状況では三回も怪しい。真言では3回、7回、21回、54回?、108回という単位の回数が良く出てくるが、7回の場合4回目くらいから怪しくなる。真言が長ければ長いほど、どこが真言の最初と最後のつなぎ目か曖昧になり、怪しくなってくる。皆さんはどうですか?
指で数える。頭の中で数えてみる
指で数える場合は、これはかなり確実であるが、回数に制限がある。お祈りをしているので手を合わせている。指を思うように使えない。以前インド人が関節線を使って100くらいは指だけで数えることが出来ると聞いたことがあるが、この場合、両手を使わなくてはならない。指で数えられるのは10以下ではないか?手を合わせているので、そのひとつひとつの指に意識を持っていき、力をいれる。無理。
壁に貼り付けた数字を目で追う
次に、壁に写真のように数字を貼り付け、それを目で追いながら数える方法である。一時はこれがベストであると思い、数珠など使わなくてもいいのではと思ったが、唱える回数(以後遍数という)を重ねるごとにしんどい。辛い。嫌になる。これでは100遍唱えても疲れてしまう。目を使うからだろうか?仮想のテロップを流す
目の前に仮想のテロップを流すのは少ない遍数では、意外に効果的だ。集中もできる。少ない遍数ではこれがベストかと思う。数珠を買うことにした
そしていよいよ数珠を購入し、数珠によって遍数を数えてみた。購入した数珠はこちら
数珠は宗派によって違う。勿論お葬式で買う数珠ではありません。真言宗の正式な数珠で、ただお金がないので最も安い(それでも3000円チョットしました)数珠です。以下にこの数珠の説明図を載せます。
数珠の玉にこれだけの仏様がいらっしゃることは、凄いことだ。どんな本を読んでもまず数珠を買うようにとある。念珠が以下に仏教において大事かということ、数珠を使うことは、お釈迦様の予言なのである。
間違った方法で数珠を使う
ここまで、指導して頂けるお坊様もなく、インターネットと本の知識で毎日お祈りをしていたのである。聖天様の真言、オン キリク ギャクウンソワカを最初は300遍くらいから唱えて、数珠を使う前は300遍が一時間くらいかかって、上述の壁に張った数の表で唱えていた。
それを片手の親指で繰る方法(自分で考えた方法)でお唱えしたところ、なんと、三分の一くらいの時間に短縮したのである。最初から言われたとおりに数珠を使わなかった故に、数珠、しいては仏教の凄さを味わった次第である。
しかし、これを始めたのは冬の寒い時期。左の指だけで繰っていると、指に傷ができ、最後には皮がめくれてきたのである。しかし、これも修行と思い、痛みに耐えやっていると、その時々によって玉の流れが良かったり悪かったりすることに気が付いた。恐らく、汗を書いたり、脂がついたり、真言を唱えている時にこの玉の流れが悪くなると、まともに真言を唱える障害になり、真言を唱えることと、数珠を繰るメカニズムが密接に関わっていることを知るのであった。しかし、暑い季節には大変だなと思っいながら、間違った方法で数珠を繰りながら、数か月を過ごしたのである。
真言を唱える時の数珠の繰り方
そうして、その後、雨宝院の住職様についに正しい使い方を教えて頂くに至って、(と言え電話なので未だ間違っている部分もあるかもしれず、いずれアップデートするが)やっと数々の疑問が解けたので以下に記載します。しかし、本当にこれをグーグルで検索しても出てこなかった。合掌の状態で写真のように、念珠をセットします。
左の親指が球を一つ一つ触れながら、或は玉と玉の間に割り込みながら、左に向かって移動していきます。
どんどん行くと両手の合唱が離れ、まるでのび太があやとりをしているようになります。
ここに作法があるかはいずれまた確認してアップデートしますが、ある程度離れたら右の手を左に追いつかせ合掌を戻します。これを繰り返します。
これにより、片手の時のようなストレスはなくなります。数珠の停滞がなくなり、念珠に専念することが出来、300遍であれば10分も掛からなく(その人の唱える速度にもよる。)なりました。
住職様、ありがとうございました。
念珠の作法@
ここで@とつけたのは、今後未だ分かっていないことが分かりこの記事をアップデートする可能性があるからです。住職様に更に教えて頂いたことは数珠をどこまで繰るのかということです。母玉から開始して、赤い矢印にそって玉を繰るが、母玉の対極にある緒玉まで来たら、また母玉に戻る。 これを今まで通り越して一周して母玉に戻っていた。 |
というわけで、何事にも先達欲しきことであるが、こうして何とかまともに数珠が繰れる様になりました。グーグルでどう検索しても出てこなかったことなので、本当に困りました。しかし、この紆余曲折の中で、仏教のもつ、魅力と合理性を感じ取ったのです。またスムーズに繰ることが出来るようになれば、色々な雑念のなかで、数を数えることに関する’雑念は不思議と発生しなくなった。
次回は別の魔について記事を続けます。
おわり