2021年03月15日
仏教信仰入門 D 天魔
天魔を調伏する
今まで、一心不乱にお祈りすることを邪魔する四魔を紹介し、特に
@眠気
A遍数を数えること
の二つに焦点をあてて、これらの障害を克服する方法を模索しました。これは、まあ五蘊魔の領域でしょう。
なるほど、数珠を使うことによって、数を数えるというストレスは飛躍的に軽減し、数を数えていることを忘れて、はっと気が付けば100遍が終わっていたという精神の統一状態を生みました。この数珠を考えたのもお釈迦様だという事ですから、その智慧の無量の底の深さを感じるのでした。
さて、ここで天魔について考えてみましょう。
表題のとおり天魔は我々の内にあって、
@こんな事をして何になるのか
A誰に頭を下げているのか、やめろ やめろ。
B誰もいないところに何を祈ってるんだ?
C仏教なんてやめとけ。善行なんてやめてしまえ。
などと叫び、そそのかすのです。犯すべからず者を前にすると何故か、逆のことをしてしまう。
ダメだと言われると、やったらどうなるのだろうと考える。善良な家庭のちゃぶ台をひっくり返してしまう。全く厄介です。
偉い人の前にいると、ここでいきなりこの人にツバを吐きかけたらどうなるのだろうか?などと考えてしまう。
天魔には因果はなく、束縛もない。心の内から自由に表れ、無責任に消えていく存在。
かつて筆者はキリスト教の幼稚園に通っておりました。幼稚園の毎日の終わりには、必ず皆でアーメンとお祈りするのです。その時私の中の天魔が囁きました。「今ここで、アーメン ソーメン ヒヤソーメンと言えば皆を笑わすことが出来るぞ」、そこで私はその通りに口に出し、園長先生にこっぴどく叱られました。あまりにも叱られたために、私は皆を笑わせたのか覚えていないのです。そして暫くして私は幼稚園の近くで交通事故に遭いました。頭と手と足を骨折し、半死半生、3か月入院しました。かの笑わせようとした幼稚園の友達は千羽鶴を折って、毎日イエス様にお祈りをしてくれたのです。
また、大人になって東南アジアのある国にいた時、私は仕事でよく車の助手席に座っていました。その助手席のダッシュボードには、運転手が仏さまをいつもお供えしていました。(座面を両面テープでしっかりと固定していたのです。)私は、この助手席に座る時、常に天魔が去来し、「この仏様、一体何が偉いのだろう?今ダッシュボードに足を乗っけたからと言って、何か起こるわけでもあるまい。」と言い、私は何度かその想像をしてしまいました。ほどなくして、知り合いの女性が子宮がんになり、そのために私は長らく病院に通い、治療のための大金を使いました。生活が一変したのです。
このように¨天魔による業障は、全くもって唐突で、また無責任で、軽率なことから、因縁を作り、最後にとんでもない結果を生むものであるのです。特に弱いグラグラとした心にはこれは、天魔が付け入るすきはいくつもあるのでしょう。天邪鬼とも言うようです。
天魔は内なる存在であるが、人格を持った第三者として調伏する。
こうして仏教の勉強を重ねるにつれ、思うのは、天魔とは結局弱い自分の軽薄な思いそのものです。ところが自分の中には、良いことを行うと誓願する仏様、観音様もいて鬩ぎあっている。
天魔は、どこかから来た第三者だと思い、それと対峙することが肝要でしょう。東寺に立体曼荼羅があります。たとえばここに大日如来だけがおわして、お祈りしたとすれば果たして天魔を起こさずお祈りできるでしょうか?しかし、実際には大日如来の周りには、5明王が座るなり立つなりして恐ろしい顔で祈るものをにらんでいます。何故菩提心を起こし、熱心に拝む善男善女をあんな顔してにらむのでしょうか?
それはそう、あなたの内なる天魔が良からぬことをさせないよう、睨んでいるに違いないのです。
結論として、仏さまにお祈りする時は、是非とも仏さまの脇時に、忿怒神にいて頂くことがベストであると考えます。天魔は自分自身であるが、そ知らぬふりをして、彼らを憎み、嫌い、調伏し、それでも無理なら、忿怒神、明王、天部に調伏してもらいましょう。
次回は雑念について考察します。
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